下原敏彦の著作
収録:下原敏彦『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006
初出:江古田文学第20号 1991夏 「三島事件とドストエフスキー」
もう一つの三島事件
あれから21年、過渡期の現代にあって三島由紀夫は再び論じられるようになった。しかし、彼が引き起こしたあの事件は相変わらず謎に包まれたままだ。マスメディアが意図してそのように報じているのかもしれないが。とりあえず、喧伝されているように、「意味のある事件」としたとき、あの事件は、たとえ、数々の推論があったにせよ、今もって<不可解>の域を拭い去ることが否めないでいる。なぜ、三島事件は謎とされるのか。
よく遺留品の多い捜査は難しいと言われる。三億円やグリコ森永事件がよい例だ。とすれば、三島の生前の仰々しい行動や厖大な作品群はたんに事件解明を惑わせる余計な証拠品ともいえる。ドストエフスキーは「作家の日記」で様々な事件をあつかっている。が、そこで論じられているのは、状況や証拠物件を通してのありきたりな捜査手順ではない。どんな事件も独自の見解で犯罪の動機の裏に潜む真理を探究している。あの世間に衝撃波を走らせた思想的、愛国的事件もそのように読めば、そこにはどのような真相が見えてくるだろうか。それにはまず、事件を何か社会的、思想的大事件のように錯覚させている大げさな宣伝文句や解説、評論を取り除くことだ。
これまであの事件は三島由紀夫ただ一人の事件のように喧伝されてきた。三島由紀夫が有名人ということで、最初から「三島事件」となっているが、本来なら「市谷無理心中事件」とでも呼ばれるべきか。事件はあくまでも二つの首と首なし遺体から成っているのだ。家宅侵入罪、銃剣不法所持など法律違反なら一体が主犯格でもう一体は共犯者ということになる。思うに三島事件を不可解なものにしているのは、主犯格のみに偏重し過ぎたせいではなかったろうか。共犯者の若者にも目を向けるべきだ。本来なら、三島・森田事件と呼ばれてもいいのだ。が、なぜか森田は、捨て置かれてきた。しかし、時には主犯よりも共犯者がより正確に事件の真相をとらえている場合もある。謎を解く鍵はまさしくそこにあるような気がする。後年、三島について語る人は多い。書かれた出版物も数知れない。だがしかし、一緒に死んだ若者については皆無に近い。誰がこれまで彼のために一文の論を、一言の手向けを呈しただろうか。誰が三島のことを思ったほどに彼の心を思ったものがいたろうか。功なり名を遂げた中年作家の死を嘆き悲しんだほどに、未来も夢もあった若者の死を悔やみ悲しんだものが、どれだけいただろうか・・・。なれば鎮魂の思いをこめて、もう一人の死者に光をあててみたい。
あの日、私が事件を知ったのは中央線快速を降りた新宿駅構内だった。そのころ業界紙の記者をしていた私は、担当の多摩地区の取材を早めに終え社に向かっていた。どんなふうに知ったかは忘れてしまったが、小春日和の上空に飛ぶヘリコプターのものものしい音だけをはっきり憶えている。三島由紀夫という作家の死は私に何の感慨も起こさなかった。私は文学とも天皇思想とも縁がなかった。だから事件は時の首相(佐藤栄作)が第一声に発した「狂ったか」ぐらいの驚きしかなかった。そのころの私の青春の目的は全く別なところにあった。2年前、燃え始めた学生運動を尻目に動乱のインドシナを彷徨っていた。そして、帰国していたそのときは、すでに盲腸の手術を済ませ『続ベトナム従軍記』を懐に密林深く潜入する用意はあった。業界記者はそのための文章修行であったのだ。この年は、新年早々に祖母が死んだり、5月には遠くカンボシアのプノンペンから、かってかの地で一緒に農業仕事をやるはずだった農大生・由利野君の非業の死の報を聞いた。クメール・ルージュというゲリラに捕まって殺されてしまったのだ。それだけに、自分から死ぬということが馬鹿らしくもったいなく腹立ちさえおぼえた。それが事件一報を聞いたときの偽らざる思いだった。そうして他にも死んだ人がいると聞いて「アホか」と思った。
中年作家の自殺、文学者にはけっこう多いという話は聞いたことがある。割腹自殺にはびっくりしたが、三島という、変わった作家ということで、妙に納得もした。事件は有名人の奇をてらったグロテスクな死、そんな印象に変わっていった。私はそれまで三島についてまったく知識がなかった。ただ一度、学生のとき友だちと話題にしたことがあった。が、それは三島の剣道は本当に強いのか、といったものだった。剣道部の級友が雑誌の写真を指して「これは面打たれてからの胴だぜ」と嘲笑気味に説明したことを記憶している。もし、三島由紀夫があのとき一人で死んでいれば、たぶん私は事件のことなど、それ以上は考えなかったに違いない。たとえ、ドストエフスキーと邂逅したにせよ、たんに自殺作家というだけで終わっていただろう。
しかし、事件の全容が明らかになるにつれ愕然とした。一緒に死んだ若者が森田必勝と知ったからである。私が知っている森田君ならよく知っていた。2年前の学生時代、ある新聞社の地下で一緒にアルバイトをした仲間だった。が、当時の彼から連想するには事件はあまりに突飛で残酷すぎた。新聞写真だけではすぐに判断できかねた。バイト仲間と電話で「あの森田か」と確かめた。そのあと半信半疑で新宿付近にあった彼の下宿を訪ねようとしたが、途中で警らの署員に今はやめたほうがいいと諭され、友人と香典を懐にすごすごと引き返してきた思い出がある。「森田君はなぜ死んだのか」青春の2年間は出口を求めての挫折と迷いの日々。自分のことを顧みてもそうだが、いろいろなことがあった。あれから森田君も様々な人間と知り合い、そしてあの場所に行く羽目になったのか。
三島の友人、ヘンリー・スコット=ストークスはその著書『三島由紀夫 死と真実』の中で森田君についてこう記している。「どこといって特徴のある若者ではなく、何の印象も残さぬ顔だった。生真面目で最初は少し鈍重なような印象があり、私はこれが実直さで楯の会の学生たちをまとめている男なんだなと感じたにすぎなかった、これが会ったときその場で感じた印象だった。が、自決後に写真を見直してからは、日本人にしては比較的珍しいあごの線、とくに下顎は耳に向かって厚く肉がつき性格の強さを表している。強い個性を感じさせる。生まれながらの指導者だったのだろう」と述べている。最初の印象が正直なところだろうか。鈍重というより穏やかが似つかわしいが。森田君と会ったときのことははっきり憶えている。そのころ、新聞社の仮眠室をねぐらにしていた私は、大学で部活を終えると夜勤のため社屋に直行する生活をしていた。確か前期が始まってしばらくしてからだと思う、地下の職場で休んでいると、バイトでは古参のHが「よう、新人さんを紹介するよ」と、坊主頭の学生を連れてきた。専大のHは社会人を経験していて世話焼き的存在だったが、誰に対してもそうしたわけではない。今は故人となって聞くすべもないが、Hは手製のヨット作りに夢中でよく世界一周の話をしていた。おそらく森田君が興味をもって聞いたのだろう、それで気に入って親しかった私に引き合わせたのだと思う。私が柔道部だったので、空手部の彼と話が合うと思ったのかもしれない。
「早稲田の森田です」彼はそう言ってきちょうめんに一礼した。ぽっちゃりとした丸顔に笑みを浮かべていた。やや小太りの身体で背は1m65前後だったろうか、高くはなかった。作業服の腰に手拭きのタオルをきちんと下げていて好感が持てた。私たちはすぐに親しくなった。見た目は年下に見えたが、浪人していたから学年は下でも年は上だった。バイト仕事は150部ほどの新聞を二人一組になってひたすら綿布で包み、ベルトコンベアーに乗せて送る。私は彼と組んで作業した。彼は幾分胸を反らせて照れくさ気味に話した。甲高いかすれ声だったがはっきりしていた。が、たいていは寡黙で、新聞が刷り上ってくるまでの短い休憩時間は輪転機に尻を据えて単行本を読んでいる姿をよく見かけた。T大の一年生が分数の英語読みを聞きに来て彼が丁寧に教えてやっていた。教鞭をとるとか、もうとったとか言っていた。彼との会話で思い出すのは「まずかったよ、今日、O主将にみつかちゃったよ。練習出てこいって言われてたのに」といたずらっこのように楽しげに話してくれたことぐらいだ。深夜の屋上で木刀を振ったり対岸の皇居を眺めたりしたこともあったろうが、思い出せない。
当時、中東戦争もあったしベトナム戦争も激しさを増していた。中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。国内では羽田事件があり、学生運動も拡大しつつあった。バイトの中にはイスラエルのキブツに行く計画のある者、ゲバラ信奉者、デモから逃げ帰ってくる闘士、デモ破りの人員を五千円(バイトの夜勤の相場は千八百円)という大金を払って集めようとする右翼学生とさまざまだった。が、森田君がそうした問題に触れたことも誰かと話していたこともいっさい記憶にない。彼の印象はそうした喧騒さとはかけ離れてた、あくまでもおだやかなそして人懐っこい笑顔のみだった。こんなことを憶えている。彼が女優の内藤洋子のファンだと言ったことだ。社屋の近くに名画座があってそこで上映していた舟木一夫・内藤洋子主演の『月光のドミノ』とかいう映画を見に行って話した記憶がある。内藤洋子演じる娘が漁村から東京に出てきて恋をして失恋しそして自殺するというストーリーだった。キラキラ輝く海に浮かぶ無人のボートとポツンと残る日傘のラストシーンがなぜか今でもまぶたに焼き付いている。
森田君と最後に会ったときのことはより鮮明に思い出せる。彼はすでにバイトをやめていたろうか・・・東西線の高田馬場駅に降りたとき偶然ホームに彼がいた。そのとき森田君は何かの集会に行くとところだと言って私に「一緒にいかないか、日大の連中もいるぜ」と誘った。そのとき私は横浜ーマルセーユ間のフランス定期便ラオス号への乗船を決めていた。「そうか、じゃあ元気で」私たちはそう言葉を交わして別れた。誰もいないホームにぽつんとたたずんで笑顔で手を振っている森田君の姿が今も私の脳裏に甦る。そしてそれが彼を見る最後となった。これが私が森田君について思い出せるすべてだ。二年後、彼の死を知った私はまだドストエフスキーと会っていなかった。衝撃の去った後、私の胸に残ったのはただ生臭いにおいを嗅いだあとの胸くその悪さだけだった。到底理解できない行動に森田君は私の頭からその影を薄めていった。
ある日、私はドストエフスキーを読んだ。取材後の暇つぶしに公園で、喫茶店で、青梅線プラットホームのベンチで、大型輸送機ギャラクシーの機影が頭上をかすめていった。ベトナム帰りか荒んだ顔の兵士がたむろしていた。武蔵野にたそがれが迫っていた。だが、私は何もかも忘れて読んだ。そしてふと顔をあげたとき、私は一瞬、錯覚したものだ。この本の中が現実で、目の前の風景は夢にすぎないのだと。そのとき私の中にあったすべてのものが虚像となって崩れ去っていった。たとえ青葉繁れる街路樹とブーゲンビリアの花咲くあの美しかったプノンペンの街並みがちらりと脳裏をかすめることがあっても。それはもはや遠い日の思い出にすぎなかった。そのとき私は忘れかけていた森田君のことを再び思い出した。
森田君はなぜ死んだのか。その後の報道によれば、あのとき森田君は無策な自衛官たちとの小競り合いで短刀を奪われたとか、三島の介錯を三太刀でなしえず代役してもらったとか、突き刺した腹に切っ先が浅かったとか。もし、それらが事実ならその躊躇はいったいなんであったろう。もしかしたら森田君は死にたくなかったのだ。そんなふうに思えてならない。そう思うと悔しく悲しくなってくる。そうして、あのときの森田君のことをこんなふうに思えるのだ。そうだ、君は二二が四ほどに信じちゃいなかったのだ。たとえ、計画はどうあれ目的を達することなど到底不可能ということを。本物の軍隊のただ中で玩具の兵士が刀を振り回す美学の滑稽さ。最後の最後の瞬間まで、そう信じていた。だが、現実はたいした妨害もなく無人の野を行くごとき計画通りに進行した。この椿事の奇襲にただ狼狽し右往左往する軍人エリートたち。同じ年の三月に起きたよど号ハイジャック事件は彼らにとって何の教訓にもなっていなかった。刻々と迫る時間の中で森田君はどんなに悔いただろう、呪っただろう。こんな大人たちに会わなければよかった、と。しかし、君は刀を振り下ろしながら悟ったに違いない。ああ、この人も死ぬ気ではなかったのだ。ただこの失敗を機に生まれ変わりたかっただけなのだと。顔面蒼白となって座している中年の小男。この人の奇異なパフォーマンスはすべて助けを求めての信号だったのだ。しかし、今の今までその信号に気づく一人の友も一人の家族もいなかったのだ。それを思うと急にこの小男がかわいそうになった。君は背後に介錯人の気配を感じながら覚悟した。そして思った。「まあいいや、三島さん。許してやろう」
あれから幾歳月、今、私はこの文を書きながら突然に思った。ああ、森田君!君こそアリョーシャだ、アリョーシャは君だったと。