ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.208(最終号) 発行:2025.2.1



第325回 2025年2月読書会のお知らせ

月 日:2025年2月6日(木)

場 所:IKE Biz としま産業振興プラザ
   〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-37-4 (Tel.03-3989-3131)
   (池袋駅西口より徒歩約10分、メトロポリタン改札より約7分)
 
時 間:午後2時 ~ 4時45分 (開場:午後1時30分)

作 品:『罪と罰』第4回

参加費:1000円(学生500円)

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「ドストエフスキーを読む会」 2025年4月読書会(下記のお知らせ参照)
日 時:2025年4月12 日(土)
会 場:文京区勤労福祉会館  
時 間:14:00 ~ 17:00(13:30開場)
作 品:『罪と罰』第5回
報告者:未定


大阪読書会(第83回)
日時:2025年4月4日(金)14:00~16:00 
会場:東大阪ローカル記者クラブ 
作品:『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』4~6
連絡 小野元裕

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お知らせ  

「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会」は2025年4月より「ドストエフスキーを読む会 読書会」と名称をあらため、リニュアルスタートします。会則なし、代表は置かず世話人だけで、誰でも参加できて、その日、会に参加した者がその場限りの会員というシステムは不変です。偶数月開催、開催時間も変わりません。


◎「会の名称・会場・対象作品・開催日時・お知らせ」が変更になります。
変更点は以下のとおりです。

1. 会の名称を「ドストエフスキーを読む会 読書会」 とする。

2.会場を「文京区勤労福祉会館」に変更する。

3.開催日時:原則、偶数月の土曜日、午後2時~5時とする。(ただし予約の都合で変更もあり)

4.とり上げる作品は、必ずしも「全作品」を対象としない。

5.開催日時のお知らせは「ドストエフスキーを読む会」のページ(準備中)に掲載する。



◎「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信」は本号をもって終刊となります。


2021年、新型コロナウイルス蔓延の悪夢のさなか、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」通称・読書会は発足50周年を迎えました。それから4年後の2025年現在、世界はより深い闇に覆われています。そんな中、全作品を読む会読書会は6サイクル目の『罪と罰』まで読み進んでいます。

「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信」は、4サイクル目(2000年2月)から発行し始め、平均して70余名の方に送付してきました。同時にHPにも掲載しました。印刷体の通信を愛読していただいた方の多くは、遠方だったり、仕事、家庭、健康上の都合などから参加できなくなった方、年に1,2回の参加の方、数年ぶりにひょっこり現れる方、お亡くなりになった方、また実際には一度もお会いしたことがない方も少なくありませんでした。みなさまからいただいたカンパによって通信の発行を続けることができました。ここに深く感謝申し上げます。このたび発行人の下原敏彦の健康上の理由により、終刊のやむなきに至りました。

なお、最終号になる208号の印刷体を、みなさまのお手元に届けたいと願っていましたが、それもかないませんでした。紙面でのご挨拶ができず、このWebページのみの突然のお知らせになり、本当に申し訳なく、お詫び申し上げます。

読書会に思いをはせながら、毎回、夫婦で行っていた発送作業は楽しいものでした。様々な場面が頭をよぎります。「ドストエフスキーが好き」という共通点だけの出会い。思えば不思議な一期一会の連続でした。ご縁をいただいたすべてのみなさま、ありがとうございました。そして、「読書会通信」を長らく愛読し、ご支援をいただいたみなさまにあらためて深く御礼もうしあげます。

2025年4月より「ドストエフスキーを読む会 読書会」として新たなスタートを切ります。ドストエフスキーは永遠です。ドストエフスキーを愛する人々もまた永遠です。 (2025年2月1日 下原敏彦・康子 )


★全作品を読む会 読書会通信一覧 (2000/2-2025./2)
★ドストエーフスキイ全作品を読む会 活動年表 (1971-1999)
★「ドストエーフスキイ全作品を読む会」50周年に想う
★自身の「ドストエフスキー」を
★不滅の読書会
★私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか 2000
★私は、なぜドストエーフスキイを読むのか、読み続けるのか 2021



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連 載 (最終回)


「ドストエフスキー体験」をめぐる群像

(第117回)小林秀雄ドストエフスキイ・ノオト」とベルクソン哲学⑧  

 -連載稿を終えるにあたり、述べておきたい幾つかのこと(最終回



 福井勝也


長年お世話になった「読書会通信」が、下原ご夫妻のご都合で今号をもって終了することとなった。当然ながら「本連載」も閉じさせて頂く運びになる。連載稿は通信93号(2005.12.10)から開始され今回で最終回を迎えた。思いがけず19年を経過してしまった。

まずもってこれまで長期連載をお許し頂いたご夫妻に、さらに何より本稿拙文に長らくお付き合い下さった読者諸氏の方々に、この機会に改めて感謝を申しあげておきたい。

当方連載稿については、ここを区切りに自身これを振り返るつもりだが(有り難い事に、従前から発信のweb版「読書会通信」が暫くは閲覧可能とのことで、「本連載」も再読できるようだ)、そして何より一年前通算200号を迎えた「本通信」は、一世代を超える年月を「ドストエフスキー」をキイワードに貴重な情報を発信し続けたアーカイブとして、日本のドストエフスキー文学受容史に確実にその足跡を残すものだと確信している。それは、当会の発端である「ドストエーフスキイの会/全作品を読む会」に連なるものだが、専門の研究者を含みながらも、近時はむしろ一般市民主体の読書会として活動が続けられて来た経緯がある。このことは、今改めて注目され特筆されて良い事柄だろう。

古典に限らず「文学作品の読書」という文化的行為の衰退が叫ばれて久しいが、そのなかでドストエフスキーを仲間と生涯読み続け来て、かえって近頃気付くことが多くなった。最近は確かに参加者も減ってきたが、ネット情報を見たという新しい方もおられたりして、多寡はともかく、老若男女を問わず「ドストエフスキー」に関心と必要性を求める人間は、これからも確実に一定数存在し続けるだろうという確信を深めた。これは他の古典文学、例えばトルストイ等にもあてはまるかは門外漢の自分にはよく分からない。おそらくは、ドストエフスキーという作家のスケールの大きさ(「人類性」)に係わる問題と思える。

とにかく、「読書会」は今回これまでの活動に区切りを付けるわけだが、おそらく何らかのかたちで「新たな活動」が継続してゆくはずだ。そしてそのことは、期待せずとも必然のように思える。実はその確信は、今までドストエフスキーを読んで来たから言えることで、そのことは作家ドストエフスキーが望んだ人類世界が未だ実現するどころか、本家・本国のロシア某大統領による核兵器の脅迫すら伴う兄弟国への侵略戦争が継続されている事態への憤りによって一層深められている。少し前に、ドストエフスキーは時代が悪い時に流行る作家だと言った評論家がいた。僕に言わせれば、おそらく人類が新しく生まれ変わる時まで、ドストエフスキーは相変わらずに読み続けられるだろうと思っている。

ここ一年の半年程の読書会では、通算六度目かの『罪と罰』を読み合ってきた。二月最後の読書会で四回目になる。ここ数回は、標題のベルクソン哲学と関連して小林秀雄の戦後「『罪と罰』論Ⅱ」のエピローグ理解に焦点を当て「連載稿⑥⑦」を書かせてもらった。

小林論考文末のパウロの言葉「すべて信仰によらぬことは罪なり」が今までになく心に響いて来てからであった。さらに、この言葉と響き合う清水孝純氏(2024.4月ご逝去)の「エピローグ」を論じた文章も取り上げた。「流刑においても彼は自殺を敢行しえなかった自分を卑怯者と自嘲しますが、卑怯者と自卑によって、実は生命の道を歩いたのです。この視点(これを清水氏は、この少し前で「アイロニー」と呼ぶ、下線は福井、注)に立ってみれば、なぜドストエフスキーが、真の解決を「エピローグ」に置いたかが明らかになります。本編においては、地上の裁きが、そして「エピローグ」では、それを超えた世界の裁きが扱われています(『ドストエフスキー・ノート』(1981))」。ここでの文章を前回連載稿で最後に引用したのも、「エピローグ」の文章が不思議なほど身に染みたからであった。

それらの思いを僕に導いた書物として、前の読書会では、戦前の「『罪と罰』論Ⅰ」(1934)から戦後の「『罪と罰』論Ⅱ」(1948)に到るまで、敗戦を跨がって小林が熟読したはずのベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』(1932)について触れた。言わば、小林の戦後「『罪と罰』論での「転調」(キリストという「絶対性」への接近)は、『二源泉』によるものだと感じたためだ。更にその『二源泉』がベルクソンの言わば「遺言書」でもあったからだ。

その書物末尾では、知性動物として極端な進化を遂げ、自ら地球規模の危険を招来させるに到った人類種がその最終危機を脱するには、人間種が生まれ変わるための努力をする意志があるかどうか、そのことに人類の運命がかかっていると結語していた。この「遺言」には、その前著の『創造的進化』(1907)で彼が説いた人類種の創造的な進化のあり方、「生命の飛躍(エランビタール)」の達成がその厳密な理論的前提になっていた。

それを受けた『二源泉』では、人類社会の道徳と宗教には、各々二種類の源泉「開かれた(動的な)もの」と「閉じられた(静的な)もの」があることが説かれた。そしてより発展形態の「開かれた(動的)道徳、宗教」へ導く者(存在)として、自然は特別な魂を持った、ベルクソンが「神秘家」と呼ぶ人間種を既に生み出して来たのだと語る。さらにこれらの者は、イエスや孔子などの宗教的道徳的な「始祖」と呼ばれる人々に限らず、その教え(情動の火)を受け継ぎ、これを広く伝播する者たちを含むものであるとしている。

今回『罪と罰』を何度目か通読し「エピローグ」を読み返しながら、さらに小林の「『罪と罰』論Ⅱ」も読み直して、最後まで「罪と罰」を悟らない主人公ラスコーリニコフのイロニッシュな運命の描かれ方(抑制)の奥深さを強く感じた。それはまた「新しきエルサレムを信じている」と答えるラスコーリニコフに、「太陽になれ」とまで励ます予審判事ポルフィーリーに特別な存在感を感じた。それらのことは、言わば本編の主人公から「エピローグ」の主人公へと「一人の新しい人間」が創造的に生まれ変わる、「生命の飛躍(エランビタール)」あるいは「それらの<兆候>」を目撃する物語として本作品を読むことに結びついた。

換言すれば、だからこそラスコーリニコフの運命は徹底的にイロニッシュに描かれねばならなかった。それが本編における、自意識に閉じ込められた夢遊病者の如き彼の精神像であった。それは、肥大した「頭脳」によって生み出された「言葉」による世界(観念)が到達した近代人の自画像(「地下室人」)であった。彼は、そこからの脱出を必死に試みる。その方便が「ナポレオン思想(観念)による老婆殺し」であった。当然彼には、「閉じられた道徳(法律)」による社会的制裁としての「犯罪と刑罰」が課せられた。そして彼を直接「犯罪と刑罰」から「罪と罰」の世界に導くものが、「開かれた宗教」の出現を予感させる「旧人類が死滅し、新人類が生き残る旋毛虫の夢」であった。ここには停滞した人類種が「創造的進化」する次のステップが夢見られている。さらに背景として、彼を支え導く人物となったのが、分離派の聖痴愚(ユロージヴイ)と判断できるソーニャ(=リザヴェータ)の存在であった。彼女らは、ベルクソンの言う「神秘家」と言ってもよい者たちかもしれない。そして僕は、さらにもう一人の「産婆役」としてポルフィーリーを加えておきたい。

そう読んで来ると、『罪と罰』の本編と「エピローグ」の関係は、『二源泉』の「閉じられた道徳/宗教」から「開かれた道徳/宗教」の移行に擬えられるように僕には見えてくる。ラスコーリニコフは、停滞した現人類の危機を救うために生まれてきた現代の「救世主」(「太陽」)なのかもしれない。『罪と罰』は、その誕生の生みの苦しみを描いた小説か。

ただし「エピローグ」まで含めても、『罪と罰』という小説にそこまで読み込むことは、難しいかもしれない。しかしドストエフスキーは、このラスコーリニコフの後継者に『白痴』(1868)のキリストに擬せられるムイシュキン公爵を、『悪霊』(1872)の「人神」目指して哲学的自殺を遂げたキリーロフを、『カラマーゾフの兄弟』(1880)の地質的変動理論による新人類出現を夢見たイワンを、そして晩年『作家の日記』では、『おかしな男の夢』(1877)で新たな人間社会を夢想し宇宙規模の伝道師になって出かけてゆく男などを、生涯描き続けたのだった。そして最後には、作家ドストエフスキーの「遺言」と称すべき、新人類の世界統一の理想を語った「プーシキン記念講演演説」(1880)でその一生を締めくくった。

ここまで考え合わせると、最後『道徳と宗教の二源泉』で新人類への希望的世界を語ったベルクソン哲学とドストエフスキー文学との本質的なアナロジーを強く感じさせられる。そのアナロジーに決定的なことは、両者がダーウィンの『種の起源』(1859)以降の思想家であるということによると思う。それは、「理性」哲学を説いたカントが「物自体」の見方を示しながらも、結局は、「神」を(想定外にせよ)予定せねばならなかったのに対して、ドストエフスキーもベルクソンも、すでにそのような「神」を予定不能にする「現代科学(物理学)」の時代に足を踏み入れた世代の者たちであったと思えるからだ。

確かに、二人の表現した「絶対性」は一見差異も示している。見方によれば、その差異は大きいものかもしれない。この点で自分には、ドストエフスキーとベルクソンに共通であったことは、両者がギリシア哲学、キリスト教思想の系譜を継ぎながらも、それらを最後に止揚する道として「閉じられた道徳、宗教」を脱して「開かれた道徳、宗教」を目指したことによると思う。この点でもしかすると、いや、おそらくベルクソンは『二源泉』の発想をドストエフスキーの文学から得ている可能性があり、その本質的アナロジーはそこから来ているのかもしれない。いずれにしても『二源泉』的思考を基盤にしてこそ、彼等に共通な「新人類の<神>、自然、宇宙」への探求が可能になるものと考える。

本連載稿を終えるにあたって、最後に書いて置きたいことがもう一つある。僕のドストエフスキーは、今回も論じてきたベルクソンがそうであるように、小林秀雄という批評家によるところが大きい。大きいというより、ほぼ全てであると言ってもよいと思っている。

その小林に、最近の連載でも触れた戦後ドストエフスキー論の開始を告げる「ドストエフスキイのこと」(1946)という文章がある(発表当初は、頭に「感想」と銘打たれた)。言わば戦前から開始された「ドストエフスキー批評」を、敗戦を経て書き続けるための仕切り直しの論稿であった。と同時に、対象をドストエフスキーに限定せずとも読めるもので、小林の批評家開始宣言と目される『様々なる意匠』(1929)の戦後版と言える重要な批評文だと考える。これまで当方は、何度か読み返し、何回も引用してきた。今回は、論稿が書き始められて直ぐの箇所を、個人的な新たな発見もあって最後の小林引用にさせてもらう。

「評家は、猟人に似ていて、なるたけ早く鮮やかに獲物を仕止めたいという欲望にかられるものである。ドストエフスキイも、夥しい評家の群れにとりかこまれて、各種各様に仕止められた。その多様さは、殆ど類例がない。皆それぞれ興味深く、有益に思ったが、様々な解釈が塁々と重なり合うところ、恰も、様々な色彩が重なり合い、それぞれの色彩が互に他の色彩の余色となって色を消し合うのに似ていて、遂には、白色光線が出来上る始末になる。その白色光線のうちに、原作が、もとのままの不安な途轍もない姿で現れて来る驚きを、どう仕様もないのである。」(『小林秀雄全作品15』所収、p.39)

そしてこの文章は、この後暫く続く本論論述を過ぎてその文末へと美事に繋がっていた。それは、次の結語であった。「僕は、彼の作品に関する新しい解釈などを、今はもう少しも望んでいない。」(同『全作品15』所収、p.46、なお上記の引用文下線は福井、注)

実にこれは、この後に間もなく書かれる「『罪と罰』についてⅡ」(1948)のみならず、最後の「『白痴』についてⅡ」(1952~1953、1964)に到るまで、小林の戦後ドストエフスキー論全体を貫く批評原理として、ここに改めて宣明されていたことが感得できるものだ。

さらに今回、下線を付した引用文で色彩混合を比喩として語る小林の批評原理が、実は戦前のヴァレリイの「テスト氏」について語った「「テスト氏」の方法」(1939)で先述されていたことに気付かされた。それはヴァレリイを語りながらも、同時にベルクソン哲学の要諦とも認められる方法を指摘していて、それはドストエフスキー批評のみならず、小林最後の本居宣長までに到る氏の批評骨法の原点を示すものであったと思う。

なおこのことに気付くきっかけとなったのは、先述の清水孝純氏が初期論稿をまとめられた『小林秀雄とフランス象徴主義』(1980)であった。それは、むしろ小林とドストエフスキーの関係を焦点とする叙述に読めた。例えば、それは「「テスト氏」の方法」に触れた以下の文章であった。まさに、目から鱗が落ちる、貴重な表現として読んだ。


「そういう意味ではその文体(先述のパスカルに影響された小林の「逆接の文体」、注)は不断の流動と持続の裡にあるといってよい。そして秀雄が窮極的に目ざすものは、これらの文体の工夫によって具体的によみがえらせられた対象が、ある最も純粋な像に結晶して行くことである。これは、ジードのドストエフスキーになした如き、結局は抽象によるその秘密の把握とは異るものである。最も純粋でありつつ、而も最も豊穣な具体性現実性の綜合であるという点でも、ベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と業績」(本論は、現在『思考と動き』平凡社ライブラリー所収、注)の中の「純粋な白い光」というものに相当しよう。これこそ、氏の求める絶対性であり秘密であろうが、「『テスト氏』の方法」に於て述べられているように純化された視力による厳しい凝視の裡に体験されるものでしかないだろう。という意味ではそれは言語化されるものであり得よう筈はなく、結局そのドストエフスキー研究は、その極めて独得なともいってよい体験をめざしての、血のにじむ如き工夫ともいえそうである。 そしてこのような絶対(・・)こそ、氏の()であることは、「カラマアゾフの兄弟」を論じた中で、氏のこの探求を、ドストエフスキーの神の存在の探求になぞらえて表現した言葉にも明らかであろう。「『神』のない神秘家」とはテスト氏を評してのその夫人の言葉だが、それは恐らく氏の覚悟とつながっている。そして、上のごとき絶対(・・)が氏を魂の根底に於て支えるであろうことはいうまでもない。相対から絶対への飛躍はそのようにして行われ、氏の一切の活動が、そこに源を発しているという意味では、ドストエフスキーとの取組みはまことに重要であったといわねばなるまい。」  (『小林秀雄とフランス象徴主義』所収「小林秀雄における二つの仮面」(1972)p.87、注


小林は、先述引用の文章を「評家は、猟人に似ていて、‥」と書き始めた。この「評家」とは「専門批評家」と読むばかりでなく、それを「一般読者」とも読み替えて良いと思った。小林は、日本近代に批評文学を切り開いた者であったと言われる。確かにその通りだろう。しかしその内容に、あるべき「読書」のあり方を身を以て教えた「読者の代表」という意味を含むものと分かった。小林の批評文は、自分にそのような「読書/読者論」でもあった。それが、彼の文章で時に出くわした「注意深い読者」という言葉に良く現れていたと思う。その言葉が出てくると、何時からか緊張する自分を感じた。無論、それは主に彼の「ドストエフスキー論」から学んだことだ。ここまで自分が、ドストエフスキー文学に親しめた幸運は、「ドストエーフスキイの会/全作品を読む会」のお陰だと思っているが、それと同じ位に小林秀雄の「ドストエフスキー論」のお陰様だと痛感している。今回もそのことを、今春亡くなられた清水孝純氏に教えて頂いた。上述の清水氏の文章は、ドストエフスキー文学を読むうえで小林の批評がその重要な道標になることを未来に示唆していると感じた。

最後に、ここ二十年近く自分をベルクソンへと導いてくださった批評家の前田英樹氏と、これまで本連載読者として自分を涵養くださった皆様方に深謝致します。(2024.12.16)