Medical Dostoevsky&My Dostoevsky
ドストエーフスキイ全作品を読む会 『読書会通信』No.204 (2024.6)

『賭博者』4つ不思議

 下原康子


1.スピード脱稿の不思議

『賭博者』が、わずか1か月たらずで書き上げられのには理由がありました。1861年1月に兄ミハイルと創刊した雑誌『時代』が1863年5月に発禁となり借金を背負い込みます。1866年、金策尽きてしまったドストエフスキーは、抜け目のない出版社主ステロフスキーの誘いに乗せられ、3巻全集の版権を売り渡してしまいます。しかも、1866年11月までに新作の新編を書くこと、履行されない場合は、以後9年間のドストエフスキーの著作は一切の印税なしにステロフスキーが出版できるという約束までさせられます。当時、『罪と罰』にかかりっきりだったドストエフスキーに新しい小説を書く余裕などありません。そんな窮状をみかねた友人たちのすすめで、速記者を雇うことになったのです。


2.スピード結婚の不思議

1866年10月3日、19歳の速記者アンナは44歳の作家ドストエフスキーの家を訪ねます。アンナはドストエフスキーの最初の印象を「なんだか打ちのめされ、憔悴した病人といった感じがした」と書いていますが、それも無理からぬことで、ドストエフスキーは、1864年4月に最初の妻マリヤが結核で死亡、同年7月、兄ミハイルが肝臓腫瘍で病死、という重なる不幸にみまわれていました。一方、アンナも1866年4月に父を亡くしたばかりでした。自分の腕でお金を稼ぎ自立しようと決意していた彼女は、速記者としての初仕事を喜び誇らしく感じていました。それにもまして、高名な作家ドストエフスキーのところで働ける、知り合いになれることがうれしかったと回想しています。ドストエフスキーは、アンナの節度ある生真面目な態度がとても気に入って、日を置かずにあけすけに打ち明け話をするようになりました。『賭博者』の速記は10月29日で終了しましたが、アンナは引き続き『罪と罰』終編の口述をしています。そして11月8日、作り話にかこつけたドストエフスキーからのプロボーズを受け入れます。「いつからわたしを愛していると気づいたの?」と聞いたドストエフスキーに、アンナは、文学好きの父がドストエフスキーを愛読していたこと、自分も15歳ころからドストエフスキーの小説のなかの人物たちに惹かれていたと、話します。

夫の死から三十年後、アンナ夫人は感慨深い述懐をしています。

「私は格別美しくもなく才能もなく知的に発達しているわけでもなかった。それにもかかわらず、こういう賢明で才能のある人物から深い尊敬を受け、ほとんど崇拝されたということは、これは私の生涯にわたってのある種の謎だった。」

しかしその後、夫人はその理由をいくらか理解したといって次のように述べています。

「私と夫はまったく違った構造、まったく違った性格、異なった意見の人間だったが、少しもまねをせず媚びず常に自己を失わなかった。彼も私が彼の精神生活、知的生活に介入しなかったことを認めてくれたのだろう、だからこう言っていた。《おまえは私を理解してくれるたった一人の女性だ》彼の私に対する関係はつねに一種の堅固な壁をなしていたが、それについて彼はそれをよりどころにし、あるいはよりかかれるものというふうに感じていた。壁は失われないだろうし、心をなぐさめてくれるだろう。」(『回想のドストエフスキー』)


3.ルーレット賭博の魔力の不思議

『賭博者』発表(1866)の翌年の1867年4月、ドストエフスキーは夫婦連れ立って国外旅行に出かけました。『アンナの日記』は、4年の長きに及んだ外国生活の最初の年に書かれており、その間のルーレット賭博やてんかん発作の記録が克明に記録されています。ドレスデンに着いて早々、5月4日には、新妻を残し泊りがけでホンブンルグに向かいます。ルーレット賭博のためでした。5月15日、無一文になってドレスデンに帰ってきます。懲りるどころか、6月22日にはバーデンに行き、8月11日にジュネーブに移るまで、まさに『賭博者』の世界さながらのルーレット耽溺の日々が続きます。そんな中なのに、ドストエフスキーはてんかん発作をたびたび起こしているのです。誰ひとり頼る人のない外国にあって、若干二十歳のアンナ夫人が、この難関を切り抜けた、その気丈さには、驚き感嘆せずにはいられません。

アンナ夫人はドストエフスキーの賭博熱について次のように書いています。

「あれほどの苦しみをのりこえてきた人が、自制心を持って、負けてもある程度でやめ、最後の1ターレルまで賭けたりしない意志の力をどうして持ち合わせないか不思議でならなかった。このことは、彼のような高い性格をもったものにふさわしからぬある種の屈辱とさえ思われ、愛する夫にこの弱点がのあることが残念で腹立たしかった。けれどまもなく、これは単なる「意志の弱さ」などではなく、人間を全的にとらえる情熱、どれほど強い性格の人間でもあらがうことのできない何か自然発生的なものだということがわかった。そう考えて耐え忍び、賭博への情熱を手のほどこしようのない病気とい見なすほかはなかった。」 (『回想のドストエフスキー』)

このアンナ夫人の深い洞察には、ドストエフスキー、ユング、フロイドも脱帽するのではではないでしょうか。

ドストエフスキー
この男(『賭博者』の主人公)はある意味で一個の詩人なのです。しかも重大なことはこの男がその自分の詩的傾向を深く心に感じていて、それを恥じているということです。そうではあるのですが、この男のリスクを求める欲求こそがこの男を彼自身の意識においても高貴なものにしているのです。
(ストラーホフ宛の手紙)

ユング
彼のアルコールへの渇望はある霊的乾きの低い水準の表現でした。その乾きとはわれわれの存在の一体性に対する乾きであり、中世風の言い方をすれば神との一体化ということであったと思います。
(アルコール依存症の人たちの更生のためのグループ「アルコホーリクス・アノニマス」の会長にあてた手紙)

フロイト
賭博はドストエフスキーにとっての自己処罰のひとつの形式で、賭博に負けて自分を処罰することで、自分の罪悪感を満足させると、執筆を妨げていた原因が取り除かれて執筆に戻ることができた。
(中山元 訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』)



4.ドストエフスキーのギャンブル依存症からの回復の不思議

「明日だ、明日こそは何もかも片がつくのだ!」『賭博者』の最後のこの一言は、主人公の破滅を予感させます。同時に、外国旅行におけるドストエフスキーのギャンブル耽溺を連想させます。実際にそれは何回も何回もくり返され、アンナ夫人を困惑と不安に陥らせました。しかしながら、ドストエフスキーは、ルーレット賭博の呪縛から解き放たれたのです。現代医学においてもその回復は容易ではないとされているギャンブル依存症から回復したのです。どうしてそれが可能だったのでしょうか。いかなる奇跡がドストエフスキーの身の上に起こったのでしょうか。これが、私の『賭博者』最大の不思議であり、ドストエフスキー復活の謎として、解けないままになっています。

この謎について、アンナ夫人は次のように書いています。

夫が1871年4月28日(新暦)によこした手紙がある。「大きな事件がわたしの身におこった。ほとんど十年来(というより、兄が亡くなって、突然借金で首がまわらなくなって以来)わたしを苦しめてきたいまわしい幻想が消えてしまったのだ。わたしはたえずひと山あてることばかりを夢みてきた。真剣に、熱烈に夢みてきた。だが、いまやすべては終わった!今度こそほんとうに最後だったのだよ。信じてくれるだろうか、アーニャ。もう今では両手はいましめを解かれてしまった。わたしは賭博につながれていたのだ。今はもう仕事のことだけを考えて、これまでのように幾晩も幾晩も勝負事を夢みるようなことはけっしてしない。」

もちろんわたしは、夫のルーレット遊びの熱がさめるというような大きな幸福を、すぐには信ずるわけにはいかなかった。どれほど彼は、もうけっして遊ばないと約束したことだろう。それでもその言葉が守られためしはなかったのだ。ところが、この幸福は現実のものとなった。今度こそ彼がルーレットで遊んだほんとうに最後だった。その後夫は、何度も外国に出かけたが、もはやけっして賭博の町に足を踏み入れようとはしなかった。あれからまもなくドイツではルーレット賭博が禁止されたのは事実だが、スパーやサクソンやモンテ・カルロではまだおこなわれていた。行こうにも遠すぎたのかもしれないが、それよりも、もう遊びに魅力を感じなかったのだ。ルーレットで勝とうという夫のこの「幻想」は魔力か病気のようなものだったが、突然、そして永久に治ってしまった。 (『回想のドストエフスキー』)




参考図書
『回想のドストエフスキー 上・下』 アンナ・ドストエフスカヤ 著 松下裕 訳 筑摩書房 1974-75 
『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』アンナ・ドストエーフスカヤ 著 木下豊房訳 河出書房新社 1979
『ドストエフスキー全集 別巻:年譜』 L.グロスマン編 松浦健三訳編 新潮社 1980


参考ページ
『賭博者』に想う 病的賭博と嗜癖
ドストエフスキーのルーレット賭博関連の記録