ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.157
 発行:2016.8.4


第276回8月読書会のお知らせ


月 日 : 2016年8月13日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分~4時45分(時間厳守)
作 品 : 『白痴』5回目 「白痴祭り」
報告者 :  フリートーク(参加者全員)司会進行 野澤隆一さん       
会 費 : 1000円(学生500円)


開催日は 2016年10月15日(土) 午後2時~4時45分迄です。

第35回大阪「読書会」案内 8・6『白痴』第3編

ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第35回例会は、以下の日程で開催します。
8月6日(土)14:00~16:00、会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料 
小野URL: http://www.bunkasozo.com



8月13日 読書会 
          

さようならムイシュキン、ナスターシャ、ラゴージン
最終回は、白痴祭りです。『白痴』について、自由に語りましょう。交通整理役の司会進行は、野澤隆一さんです。多くの意見・感想を期待します。簡潔に発言いただければ幸いです。
様々な罪科や出来事を呑みこんで濁流となって流れてゆく2016年上半期でしたが、その渦中にあって『白痴』を読むことの意義は大きかったと思います。5回に分けての旅路。ナスターシャ、ラゴージン、ムイシュキン、アグラーヤ。皆、懐かしい登場人物たち。悲しくも暗い結末でした。4回の読みのなかでこの物語を、ハッピーに転じることはできなかったでしょうか。例えば、ラスコーリニコフとソーニャのように。誰か1組でも幸福になってくれたら…と想像します。が、10年後の再会に希望を託してお別れです。

編集室からの質疑 ①どの場面が好きですか。(死刑場、美女対決など)②印象に残る登場人物 ③結局、この作品のテーマは何だったのか
 
5サイクル目の『白痴』報告4回の記録

第1回目 2015年12月5日 報告者:菅原純子 司会進行:江原あき子
      「ナスターシャフィリボブナを中心として」
第2回目 2016年2月27日 報告者:S.Iさん 司会進行:ドスト女子会
      「私とドストエフスキー、『白痴』と周縁的なものへの私見」
第3回目 2016年4月16日 報告者:尾嶋義之さん 司会進行:國枝幹生さん
      「『白痴』という小説、夢物語かムイシュキンは白痴でなく子ども」
第4回目 2016年6月18日 報告者:近藤靖宏さん 司会進行:小山創さん
      「脇役たちの存在理由 ―イッポリートはなぜいるのか― 」



ドキュメント『白痴』
(編集室)

三つの愛は世界を調和に導くことができるのか 
ドストエフスキー1867年3月12日(創作ノート)より

この小説の中には三つの愛がある (『ドストエーフスキイ全集』河出書房新社)

(一) 情熱的、本能的な愛―ラゴージン
(二) 虚栄心から出た愛―ガーニャ
(三) キリスト教的な愛―公爵
他に火花散る、二つの「アイ」もある。ナスターシャへの「哀」、アグラーヤへの「愛」。

『白痴』までの天国と地獄の逃避行 (米川正夫訳全集から)

1867年(46歳)

2月15日 午後7時、トロイツキイ・イズマイロフ教会でアンナと挙式。    
4月14日 ド夫妻外国旅行に出発。以後4年間外国放浪。(債権者逃れも一因)   
4月17日 ベルリン着。   
4月19日 ドレスデンへ向け出発。  
5月 1日 ドレスデン美術館でホルバイン、ラファエル、レンブラント等鑑賞。    
6月22日 フランクフルト着、即日バーデンに向けて出発。ゴンチャロフと会う。     
7月10日 ツルゲーネフを訪問。論争、絶交を決意。       
夏~秋 ルーレットに熱中
8月12日 ジュネーブ着、オガリョーフと度々会う。 
9月中旬「ベリンスキイとの交遊」完成。『白痴』起稿。
11月下旬『白痴』第1稿破棄。構想をたてなおす。     
12月『白痴』の最終プラン決定。         

1868年(47歳)
5月12日 長女ソフィア肺炎で死亡。悲嘆その極に達する。
11月 フローレンスに移る。『白痴』の第四部執筆。
12月 『白痴』完結。『無神論者』着想(『カラマーゾフの兄弟』)

映像で読む『白痴』

1946年のジョルジュ・ランパン監督によるフランス映画。
1951年の黒澤明監督による日本映画→白痴 (1951年の映画) 参照。
1958年のイワン・プィリエフ監督によるソ連映画。
1994年のアンジェイ・ワイダ監督によるポーランド・日本合作映画。
2003年のウラジーミル・ボルトコ監督によるロシアのテレビドラマシリーズ  



6月18日読書会報告 
               
23名の参加がありました。

報告者・近藤靖宏さん、司会進行・小山創さん。気の合った二人の報告で笑いもあり楽しく愉快な読書会でした。報告者は、以下の図式を解説しながらも、脇役たちの存在理由に焦点を当てて、彼らへの認識を新たにさせた。

【質疑応答での声】「ムイシュキン無質」「10年前に読んだが」「イポリートの死 人に伝える」「運命、予漢。ガーニャには理想がない」「ムイシュキン=ドストエフスキーが考えるトルストイ的なもの」「米川正夫、ドンキホーティ キリストに近い=ムイシュキン」「ムイシュキン、誰とでも話ができる。(内部分裂、キリストとアンチキリスト)」「サンチョ=レーベジェフ」「ムイシュキンは恋愛できない」「不完全な恋愛関係が悲劇を」「哲学の話がでたのでよかった」「ラゴージン、てんかんのくだりが一番好き」「小田原から来ました。映画を観ました」「読んだ時期によって印象が違う小説です」



『白痴』を読んで 後編 -「セカイ系」からのアプローチ-


野澤隆一

3.『白痴』と『リリイ』にみる主要人物の実存
 
二作品の展開や表象の類似を個々に抽出することは印象にすぎないが、主要人物の類型をある程度列記してみる。
 蓮見は常に傍観者的な存在であるが、星野の人物造形はラスコーリニコフやスタブローギンを彷彿させるように、沖縄体験(海で溺れる、バックパッカーの交通事故目撃等の「死」との直面)以降、決断主義に人格が豹変していく。「灰色の世界」以降、蓮見は星野のいじめにあう展開となっているが、反面、二人の実存的な結びつき(魂の触れ合い)は、ファンサイト{リリフィリア}を仲立ちとしたフィリアと青猫のやり取りで起きる。
傷つける星野と傷つく蓮見とは対極であるが、チャットの中のフィリアと青猫はともに同じ音楽を聴き、同じ痛みの中にいることで結びつく。リリイのコンサートに向かう二人(蓮見と星野はお互いがフィリアと青猫であることを知らない)は、あたかもナスターシャを中心に終局に向かうムイシュキンとロゴージンのようだ。
 また、星野に弱みを握られ援助交際を強要されている津田詩織の心情は、囲い者の身であったナスターシャである。好きな蓮見が援交の見張り役となり歩く泥川縁の二人のシーンは象徴的だ。援交で入手した紙幣を蓮見に叩き付け、拾う蓮見を蹴り、紙幣を踏みつぶし泥川に入水する津田は、暖炉に大金を投げ入れるナスターシャの心情だ。蓮見に守られたい津田の断念は、見上げる青い空を舞うカイトのように「現実界」から空を飛んで自殺という手段で抜け出す。ただ、死はあくまでも現実的な結果であって、自殺したかったのではない。津田はカイトになりたかっただけだと考える(蛇足ながら、このカイトシーンの抒情性は故篠田昇撮影監督による岩井美学の出色シーン)。それに対しナスターシャはムイシュキンの「憐憫」により「想像界」から「現実界」に引き入られてしまう。それによりナスターシャは、彼とロゴージン間での往還が見られるように実存の屈折した宙吊り状態を経験する。津田が空を飛びたいという突発的に自己超越を望んだことに対して、ナスターシャは緩やかな破滅の道を歩み始めていることに自覚的だったと思われる。
 蓮見が好意を寄せる久野陽子は星野達にレイプされるが、それを見過ごす蓮見はナスターシャを救えないムイシュキンである。ただ、小説では久野は自殺するが、映像作品ではスキンヘッドで超然として監獄のような学校に登校する。久野は「セカイ系」ヒロインの戦闘美少女なのかもしれない。
 ムイシュキンはアグラーヤにレイプ・ファンタジー的な愛情、または愛情というよりも、スイス時代の子供とのふれあいを求めたのかもしれない。アグラーヤにはそうした愛を受け止める心情が無い。アグラーヤは当時のロシアでの先端を走る女性像を具現化しており、あたかも久野がドビュッシーのピアノに存在理由を見出していると映るように、アグラーヤは「象徴界」での自己実現を目指していたのかもしれないが、ムイシュキンの悲劇的結末で「現実界」に触れ、自虐的な結婚という選択をしたのかもしれない。

4、超越への希求について

 第二回のS.I.さんの発表で、ムイシュキンとロゴージンはドッペンゲルガーととらえられたように、この二人の共通性はナスターシャに喚起された自己超越体験ととらえられる。

ロゴージンにはナスターシャに対して「彼女のためなら死んでも良い」(現実には彼女を殺害するが)というような、対象に対する絶対感情に突き動かされている。それは古典的な恋愛劇で見られるロマンチックな恋愛感情には程遠い、自らの存在を賭けた欲動であるが、ムイシュキンはこの悪魔的超越希求を無意識に理解しているが、それは自らも持ちうるという了解でもある。ムイシュキンの場合はナスターシャに具現化された美に対する超越体験であり、それには繰り返し物語に出てくる癲癇を契機とした死と隣接した自己超越体験である。この二人にとっての「美」とはこうした「ソドムの理想」と「マドンナの理想」であり、この点について哲学者の竹田青嗣氏は下記のように論じている。

 「「ソドムの理想」と「マドンナの理想」であるが、この二つは単純に互いに相容れないものとして排除しあうのではない。それは同居しうる、あるいはむしろ、それはどこか深いところでその本質を重ね合わせている。これがドスエフスキーの直観にほかならないからだ。」(*7)そのことは『白痴』に描かれる「全生涯に値するもの」について下記の記述があり、作者はそこに何らかの肯定的な価値を仮託していない。

 「 こうした一瞬は、ただ単に自意識の異常な緊張であり・・・もしそれを一語で言いあらわす必要があったならば、自意識であると同時に、最高の段階における直接的な自覚である。もしその一瞬に、つまり、発作直前の、意識の残っている最後の瞬間に、≪ああ、この一瞬のためなら全生涯を投げだしてもいい!≫とはっきり意識的に言うことができれば、もちろん、この一瞬それ事体は全生涯に値するものなのである。・・・・しかし、彼の結論には、つまり、この一瞬にたいする評価には、疑いもなく誤りがあった」(*8)
 ムイシュキンとロゴージンの超越体験としての共通項は『リリイ』では蓮見と星野(フィリアと青猫)の二人にとってのカリスマ的歌姫のリリイ・シュシュであり、身体的に感受する彼女の楽曲であると言えよう。それは「エーテル」という言語化できない存在である(映像作品の場面に基づく楽曲はドビッシーを含め重要な位置付けで挿入されている)。  
 今回は「現実界」を生きる彼らに起こるこの超越体験を二作品の共通項として抽出してみた。
 ムイシュキンにとっての美的超越やロゴージンにとってのエロス、蓮見や星野・津田にとってのエーテルは、身体的幻想に訴えるものである。ただ、こうした超越への希求の根拠を過去のオウム真理教事件にみるような、単純にロマン化した個々の内部(特に身体性)にあるといいたいのではない。人はなぜこうしたものにつかまれてしまうのかということがポイントであり、それについて竹田氏は欲望論をもとに下記のとおり説いている。
 「人間の実存の条件とは、それが一方では徹底的な「自己中心性」に基礎づけられており、しかし、まさしくそのことを根拠としてもう一方では他者と世界に向かって己を超え出たいという欲望を生み出しつづけるということにほかならない。人はこの両極の要求を生きているが、もし片方の可能性を完全に失えば、それを「悪魔と神とのたたかい」として生きざるをえない。」(*7)
 「美やエロスの幻想は、生活上の必要を突き破って、いわば<現実世界>と<このうえないもの>に届こうとする欲望とを一挙に取り替えてしまおうとするような本性を持つ・・・美にとらえられるということは、いわば自分の自己同一性を感銘によって解体させられるということである。」(*9)
 「人間の実存の条件が徹底的な自己中心性(自意識)に基礎づけられている」ということは、明治以降の近代文学にもその成立期から今日まで様々に現れたように、そのことが自らの苦悩を背負うことにもなり、小林秀雄氏が白痴論(*1)で語っている超越論的還元操作による「意識の絶対性」の背景でもある。また、美的体験の感銘による自己解体とは自己中心性を刷新される(世界感受の可能性が広がる)ことでもあるが、死に対する乗り越え(連続性への希求)とも解釈できるであろう。また『白痴』における作者の問いについても竹田氏は下記の通り言い換えている。
 「ある人間にとって「ソドムの理想」がこの「超越体験」に匹敵するものだとすれば、彼はその一瞬の為に自分の「全生涯」を引き換えにしないだろうか、と。この問いは極めて危険なものだ。なぜなら、もしこれを否定すれば、わたしたちは人間の実存の究極の条件、つまり人間が徹底的な自己中心性(=自意識)の可能性を求めているという本質的な条件を否認することになり、かといってこれを認めれば、「汝殺すなかれ」というモラルの最後の根拠が無化されるからである。」(*7)
 上記は『白痴』に限らず、ドストエーフスキイの後期の一連の作品に見え隠れしている問いであるが、そうした人間の超越への希求を考える理路として、下記のことは押さえておきたい。
 終局に向かい蓮見(フィリア)は星野(青猫)を殺害し、ロゴージンはナスターシャを殺害する。二作品の主要な登場人物は「存在論的不安」を抱えて生きており、そのことが自己超越に対して、より強く働いていると考えられないだろうか。そこでは死が限りなく隣接している。
 また、文芸評論家の清水正氏がムイシュキンの癲癇体験を詳細に分析し、彼が「聖性をおびた存在であること」とともに「何か得体の知れない神秘な悪しき霊に呪われた存在」と提示された(*10)ことにも裏付けられるが、そうした人間の「非知」「観念の外部」についての考察から現代的意味を取り出せるだろうか。あらゆる言説を相対化するメタな立場を確保する為の「外部」(決して回収されない否定性)には、東裕紀氏が「否定神学」として批判的に提示したこと(*11)は正当なものだが、人間の欲望の根源としての超越への希求について、ミシェル・フーコーがスポットを当てたブランショ、バタイユ、クロソウスキー(*12)のみならず、シモーヌ・ヴェイユ、後期ハイデガー、エマニュエル・レヴィナス、ジャック・ラカン等の一連の否定神学系の言説と『白痴』との関連性は今後も『悪霊』でのキリ―ロフの人神思想・無神論での行動的ニヒリズムや、『カラマーゾフの兄弟』での大審問官を読み解く際に順次考察し、否定神学系の言説の有効性と現代的意味も再確認していきたい。
 セカイ系のあと、サブカルでは日常系・空気系等のフラットな潮流への移行と共に東氏が提唱した「動物化」(*3)によりステージの中心はゲームに移り、人の駆動原理は理念や観念や思想ではなく、脳内報酬系を刺激する向精神薬に代替えされるゲーム操作での超越疑似体験が共有されているという言説も見られる。(*13)しかし、現在はこうしたネットでの動物化した内閉世界は一方で排外主義やナショナリズムに向かう潮流となっている。また、3.11の震災、世界で多発しているISを中心とした宗教原理主義者のテロにみられる通り、2010年代以降、予期しない「例外状態」(カール・シュミット)におかれている。それはセカイ系で言えば、それまでの『宇宙戦艦ヤマト』の背景には明確にあり、『機動戦士ガンダム』で薄れ、『新世紀エヴァンゲリオン』で消滅し、その後のセカイ系作品を貫く、敵と戦う目的としてのヒューマニズム(平和主義・人道主義)であり、それが欠如している物語の構造は、布いては80年代吉本隆明氏が予言・提起していた観念(幻想)としてのヒューマニズムの解体(*14)を具現化した世界像であると肯定的に評価した側面もあえて付加したい。こうした読み解きと共に、「例外社会」(*15)への態度決定については、現在でも今回『白痴』で読み解いた人間生きる意味と価値としての根源的問題として、世代間では古いといわれる「観念批判」のスタンスでドストエーフスキイの後期作品での宗教的挿話を含め、共通に考察し、立ち位置を決めることができるのではないかと密かに期待している。

出典・参考文献

1.「白痴についてⅡ」『ドストエフスキーの作品』小林秀雄全集第六巻 新潮社
2.「セカイへの信頼を取り戻すこと」限界研編『社会は存在しない』南雲堂
3.『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)講談社現代新書
4.「社会領域の消失と「セカイ」の構造」、『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂
5.『文学の断層 セカイ・震災・キャラクター』 朝日新聞出版
6.『郵便的不安たち-「存在論的 郵便的」からより遠くへ』朝日文庫
7.『恋愛論』作品社
8.『白痴』木村浩訳 新潮文庫
9.「美的体験の意味について」『夢の外部』河出書房新社
10.「ムイシュキンの魔」『ドストエフスキー『白痴』の世界』鳥影社
11.『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』新潮社
12.『外の思考』豊崎光一訳 エピステーメー叢書
13.笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』響文社
14.「停滞論」『反核異論』深夜叢書社『マス・イメージ論』講談社文芸文庫
15.笠井潔『例外社会』朝日新聞出版



「ドストエーフスキイの会」情報


7月30日例会報告
ドストエーフスキイの会の第234回例会は、7月30日(土)午後2時~5時まで神宮前穏田区民会館(第2会議室)で開催された。『広場 25号』の合評会でした。

9月例会
第235回例会は、9月17日(土) 午後2時から千駄ヶ谷区民会館で開催の予定です。



ドストエフスキー文献情報

2016・8・1着分 提供=佐藤徹夫さん

〈作品・解説・文献目録〉
『ポケットマスターピース・10ドストエフスキー』/沼野充義編 編集協力=高橋和之 集英社2016.7.25 ¥1300+ 851p15.2㎝〈集英社文庫ヘリテージシリーズ〉
内容:『白夜』/奈倉有里訳(p9-93;訳注p94); 『未成年』(縮約版)/奈倉有里訳(p95-358);『ステパンチコヴォ村とその住人たち』――「名もなき人の手記より」、(抄)/高橋和之訳(p359-552;訳注p552-554)四大長篇読みどころ:解説/沼野充義(p556-574)
『罪と罰』第四部第四章/小泉猛訳(p575-608;訳注p609);『白痴』第四編第十一章/高橋知之訳(p610-636);『悪霊』の刊行されなかった章「チホンのもとで」/番場俊訳(p637-692);『カラマーゾフの兄弟』第一部第五編四章「反逆」/江川卓訳(p693-71;訳注p716-718)「書簡でたどるドストエフスキーの生活」/高橋和之 編訳(p719-775;訳注p776-778)解説/沼野充義(p779-799)青春と笑い――「ドストエフスキーとハグしあうために」(1.ドストエフスキーの衝撃;2.若いドストエフスキー;3.可笑しいドストエフスキー;4.現代日本とドストエフスキー)作品解題/『白夜』/高橋和之(p800-805);『未成年』/奈倉有里(p805-809;)『ステパンチコヴォ村とその住人』高橋和之(p809-814);「四大長編読みどころ」/高橋和之、番場俊(p815-823)ドストエフスキー 著作目録/主要文献案内 高橋和之編(p824-840)全集(p824);翻訳(p825);辞典・事典・コンコーダンス・資料集(p829-828);伝記・評伝(p829-831);ドストエフスキー文献目録(p831-832);批評史(p832-833);「日本におけるドストエフスキー(p833-834);論集(p834-835);邦訳文献(p836-838);「日本のドストエフスキー文献」(p838-840)
ドストエフスキー年譜/高橋知之編(p841-851)執筆者紹介(2p)

〈図書〉

『名著の読書術 読んだつもりで終わらせない』/樋口裕一著 KADOKAWA 2015.12.17 ¥1400+ 287p 18.9㎝ 第八章 重厚な世界文学作品に挑戦する。課題図書:『罪と罰』(ドストエフスキー)(p209-253) 読書一分レビュー④『罪と罰』(p254-255)

『風蘭』/岡潔著 KADOKAWA 平成28.2.25 ¥760+ 200p 15㎝ 〈角川文庫19629=角川ソフィア文庫L・200・4〉 池の底 ・ドストエフスキー p41-43;ある友人 p45-47※『白痴』について語る

『キリストの小説 ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判』/冬木俊著     
近代文藝社 2016.3.1 ¥2000+ 272p 19.4㎝; キリストの小説――『カラマーゾフの兄弟』の方法(p7-102);《論注》純粋倫理批判(p103-269)

〈逐次刊行物〉

〈金曜 名作館〉『罪と罰』刊行150年 テロリズム二重写しに/亀山郁夫;「しんぶん赤旗」2016.5.20 p9 ※1874年版の挿絵写真あり、ラスコーリニコフとマルメラードフ
〈書評〉時として原作の枠を超えるほど精巧な謎解きの手本を見るよう。芦川進一著『カラマーゾフの兄弟論』砕かれし魂の記録/清水俊行;「週刊読書人」3149(2016.7.22)p7

〈書評〉「自己死意識」という視線 ラスコーリニコフという存在を社会的歴史的背景から読み解く 坂根武著『わが魂の「罪と罰」読書ノート』/皆川勤; 「図書新聞」3255(2016.7.30)p5
〈世界文学への扉・10〉ドストエフスキーの言葉のシャワーには、きっと今の日本の毒を洗い流す力がある/沼野充義 「青春と読書」51(8)=481(2016.8.1)のp73;※集英社文庫のポケットマスターピース・10の紹介

〈参考〉

『星はらはらと 二葉亭四迷の明治』/太田治子著 中日新聞社 2016.5.28 ¥1800+ 309p 18.8㎝ ※初出=「望星」2013.4~2015.4未確認 ※二葉亭四迷の評伝であるが、全体のバックに四迷の作品とロシア文学との関連が考察されていて興味深い。特に最初の章(章タイトル無し)は、著者太田と二葉亭の旅に、『罪と罰』の作品中のラスコーリニコフの行動が重なって語られていて面白い。

「朝日新聞」2016.7.25 夕刊の記事。ダンサー勅使川原三郎の活動を伝えている。中で、「ドストエフスキーの小説に基づく『白痴』など…」とある。その内容を知りたいものである。

以上、2016.5.15~7.29網羅分。編集日は2016.8.2 



ドストエフスキイ研究会便り〈主催・芦川進一〉について
  (編集室)

ドストエフスキイ研究会は、芦川進一氏が主催するドストエフスキーの研究会です。芦川氏は、この30余年間、ひたすらドストエフスキーと向き合ってきました。その真摯な姿は大岩に坐して槌をふるう了海(『恩讐の彼方に』)を彷彿させます。先般『カラマーゾフの兄弟論』を上梓したことを区切りとしました。が、席の温まる間もなくこんどは、ドストエフスキー生誕200年を目標、2021年を目指して旅立ちました。読書会通信では、応援も兼ねて旅の様子を本欄で紹介してゆきたいと思います。

ドストエフスキイ研究会について
 日本の若者がドストエフスキイ世界に親しみ、そこから原理的な思索を試みることは今では殆ど皆無となりました。しかし現実を嘆くよりも、新しいドストエフスキイの時代を準備すべく、当研究会はドストエフスキイのテキストにひたすら向かい、彼が土台としたキリスト教を理解するために聖書テキストも並行して読み進めています。1987年の開始以来、河合塾出身の若者1000人以上が、それぞれの感受性でドストエフスキイと聖書世界を受けとめ、社会に旅立ちました。将来はこの延長線上に、ドストエフスキイ理解を広く人間と世界と歴史の理解へと繋げる学問の場として、単科的な「塾大学」の立ち上げも視野に入れています。 研究成果としては、単行本で『隕ちた「苦艾」の星─ドストエフスキイと福澤諭吉─』(1997)、『「罪と罰」における復活─ドストエフスキイと聖書─』(2007)を河合文化教育研究所から、『ゴルゴタへの道─ドストエフスキイと十人の日本人─』(2011)を新教出版社から刊行し、今年は『カラマーゾフの兄弟論』を河合文化教育研究所から発行しました。(研究会便り(1)より)

研究会便り(2)フョードル論発表
今回「研究会便り(2)」をHPに掲載しました。春に出版しました『カラマーゾフの兄弟論』を基にして、その「後産」のような形となりますが、「フョードル論」を書き上げました。若い頃から私には「場違いな会合」が大きな課題で、殊にゾシマ長老とフョードルとの対決に興味があり、フョードルの聖書を用いた涜神的道化芝居と、ゾシマ長老のドミートリイへの跪拝とを、一つの視点から立体的に見なければならないと感じ、その視点をどう得られるか、手探りを続けてきたのですが、ここに来てやはり聖書を介することで、漸く一つ突破口を見出し、フョードルの全体像にアプローチする手掛かりを、ほんの少しですが得られ始めたように感じています。※次の「研究会便り(3)」では、ヨハネ福音書の「一粒の麦」の死の譬えを改めて考察し、これをイワンと結びつけて考えておこうと思っています。カラマーゾフ論を書き上げたことが、決して「終わり」でなく、むしろ一つの「始まり」なのだと痛感しています。



評論・連載

「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第66 回)ドストエフスキーとアインシュタインについて

福井勝也

 前回は、オバマ大統領の広島での歴史的演説(5/27)についての所感を述べた。唯一の被爆国としてのヒロシマ・ナガサキの惨禍が20世紀の量子力学の軍事利用による結果であって、それが「相対性理論」(1905.1915)を創始したアインシュタイン等現代物理学者の負の遺産であることは明らかだ。その中身は、微粒子から宇宙までを対象に単に科学の分野に止まらぬ世界観のパラダイム転換を図るものとして人類史上画期的な発見であった。同時に、そのことが今日も人類を滅亡の瀬戸際に立たせている。
 今回当方が標題の問題を取り上げたのは、「広場25号」合評会(7/30)で長瀬隆氏の論文を担当したことによる。論文に先立つ例会発表(2015.11.21)をお聴きしながら、ドストエフスキー文学を考えるうえで重要なテーマだと感じた。長瀬氏が発表・論文の直接の対象とされたのは、B.クズネツォフの「アインシュタインとドストエフスキー」(1985)で、同年にロンドンで出版された英文版の重訳本であった。以前に購入しながら直ぐに読まずにいたが、今回完読する機会を得た。長瀬氏は、50~60年代の旧ソ連のアインシュタイン研究者であるクズネツォフの複数の関連著書(アインシュタインの伝記(62)も含み、邦訳済み(72))について比較検討されている。その出発点にあるのは「ドストエフスキーは、どんな思想家よりも多くのものを、ガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」とのアインシュタインの言葉であった。そこから、「ドストエフスキーをアインシュタインの目を通して見、アインシュタインをドストエフスキーの目を通して見るという」クズネツォフの方法が実行され、本著副題の19世紀の主たる倫理的・美的問題と現代物理学に関する研究を並列的に描くことになったという。このことが本書の眼目であって、長瀬氏も論文で触れられている。
 本論文には長瀬氏のこれまでの人生が語られ、その背景には戦前戦後を通じた日本の苦渋の現代史が横たわっている。すなわち長瀬氏は、その出生(1931年・南樺太)から戦後の引揚、早大露文科の入学卒業、その後原水爆禁止運動を生き抜いて来られた先達だが、それらの体験は折々の著作(小説も)として紹介されている。そこには、ロシア・ソビエト文学との深い関わりがあって、代表作ペレヴェルゼフの翻訳『ドストエフスキーの創造』(89)と『ドストエフスキーとは何か』(08)が産み出された。そしてその前提には、松尾隆(木寺黎二)という戦前『ドストエフスキー文献考』(1936)を著した早大教授との深い縁が特筆される。この点で本論文は、長瀬氏の半生が「ドストエフスキー体験」と深く切り結んだ事実が語られて貴重なものだ。それは日本のドストエフスキー文学の受容史を考えるうえでも、注意すべき事実を含んでいる。

 そんな文脈のなかで、クズネツォフの著書ではドストエフスキーの文学とアインシュタインの現代物理学が並行的に論じられるのだが、それはイワン・カラマーゾフが提起する「予定調和(の否定)」の問題と直結していた。長瀬氏のこの課題への接近の仕方は、概ね哲学的には唯物論、政治思想的にはマルクス主義の立場からのものである。この点で、アインシュタイン、クズネツォフ、そしてドストエフスキーさらにはベルグソンを理解するうえでそれが先入主となって論旨が展開されている。この限りでは、本著訳者小箕俊介氏のあとがきでの解説が、問題の要点をより正確に整理していると感じた。その結論的部分と思われる個所をまずは引用しておきたい。

 イワンにとって「調和」とは、「いかなる微少な存在も犠牲にしない万人の幸福ということである。別のいい方をするなら、「統計学的調和」を拒否する調和である。(中略)イワン・カラマーゾフは、自分のような三次元世界しか理解できないユークリッド的知性には宇宙の調和はまったく理解できないといい、アインシュタインは、「世界についてもっとも理解しがたいことは世界が理解されうるということである」とまったく逆のことをいう。無論どちらも皮肉なのだ。」
「調和を追求する社会思想や理想主義の運動は歴史上無数に見られるが、それがもっとも突出した尖鋭な形で問題提起されたのが、本書に見られるようにドストエフスキーの文学とアインシュタインの物理学においてであった。「非ユークリッド的」な逆説的調和を拒否してしまうイワン・カラマーゾフの凄まじい懐疑論にたいして、アインシュタインの「天体の音楽」、すなわち「非ユークリッド的」調和まで法則のなかに包みこむより大きい調和、スピノザの神を宿した統一場理論が対置される。(中略)相対論は絶対的基準系を持たない。アインシュタインにとって、宇宙の調和は道徳的理想と不可分であり、統一場理論は宇宙の調和の表現であるから、統一場理論は当然彼の道徳的理想と不可分である。それはあるべき理論といえる。アインシュタインにすれば、「さいころ遊びをする神」(量子力学)に宇宙の調和は結局委ねられなかった。ドストエフスキーにおける調和(=非ユークリッド的調和)の拒否―― イワン・カラマーゾフの物語に代表される「残酷な実験」――はかならず救われるべきなのである。ドストエフスキーの見出しえなかった「幻想的でも病的でもない、調和への真の道はある」と、著者もまた確信に満ちて断言する。その根拠は、科学としてよりも道徳としてアインシュタインの理論を支持する著者の人倫的科学観であろう。著者は「量子力学に反対する物理学の議論と、神的調和に反対する道徳的議論には、もとより何の共通性もない。物理学の議論は、その物理学的得性によって判断さけねばならない。ここではしかし、われわれの関心は、アインシュタインの道徳的諸理念と、それらが彼の宇宙的調和の探求にたいして有する意味にある」といい、アインシュタインもまた、「純粋な知的業績よりも、世代にとって、歴史の進行にとって、はるかに重要な意義を持つだろうと思われるのは、それを導く道徳的資質」だという。著者のいう19世紀が提起した問題は、アインシュタインの思索のなかにその解決を暗示されている。それが本書でいいたいことであった」(本著p154-156)。

 長瀬氏の本著要点へのコメントは、当方が首肯できるところとそうでないところがある。前者は、アインシュタインが晩年にその完成に力を注いだ「統一場の理論」の探求にあって、「私はいま『カラマーゾフの兄弟』を読んでいます。これはいままで手にしたなかでもっとも素晴らしい本です」云々の手紙を書いた時期への長瀬氏のコメントである。そこでは「アインシュタインは、神の有無をめぐってのイワンの苦しい探求に他人事でないものを覚えたのだった」と書かれていて納得できる。しかし後者には、その後にすぐ続く文章(p.65~66)がある。少年クラソートキンの言葉(革命家としての神人キリストを否定する唯物論者的発言)を引いて「クズネツォフはこれに言及していないが、アインシュタインはここにドストエフスキーの衷心の思想を見たと私は信じている。」と書いておられるのだ。この個所の問題は、アインシュタインの世界観に影響を及ぼしたスピノザを単なる唯物論者と考える先入主からもたらされていないか。この解釈は、訳者小箕俊介氏の要約からも著者クズネツォフ自身が首肯しえないものだろう。

 ここで、実はこの「ドストエフスキーとアインシュタイン」という問題が、勿論クズネツォフという研究者のみが注目した課題ではなかったことに触れておきたい。このことは、長瀬論文でも何人かの名前があがっているが、その説明の仕方は一通りでない。そこではペレヴェルゼフ、レオーノフ、そしてベルグソン(関連で匿名の小林秀雄)についての言及がある。レオーノフに関する記述は参考的だが、ベルグソン(と匿名の小林秀雄)に関してはやはり首肯しえないものを感じた。この点は後で触れたい。なお元々、当方がこの「ドストエフスキーとアインシュタイン」という問題に関心を寄せる前提には、幾つかの著作の存在がある。ここでは、まずそれらを列挙しておく。

 その第一は、アインシュタインとも親交のあった理論物理学者の湯川秀樹と批評家の小林秀雄との戦後の「人間の進歩について」(1948)という長文の対談記録である。第二にはその小林秀雄が、アインシュタインとの論争を最終部?で問題にしようとしたベルグソン論の「感想」(1958-63で中絶)である。第三は、唐木順三の長編批評の「ドストイェフスキイ-三人称世界から二人称世界へ」(1949.3、河出版「文芸読本ドストエーフスキイⅡ」1978所収)に注目したい。さらに長瀬氏も若干触れているが、金子務氏の『アインシュタイン・ショックⅠ・Ⅱ』(1981・91新装版、岩波現代文庫)である。本書は、大正11年(1922)に来日したアインシュタインが、その後の日本文化と思想へ与えた衝撃・影響 (例えば、宮沢賢治の詩文世界) について詳細に論じていて興味深い。なお現在ベルグソンの哲学全体を知るうえで最適の書物として是非紹介したいのが、前田英樹著『ベルグソン哲学の遺言』(2013,岩波現代全書)であるが、同氏には小林の「感想」について精密に論じた『定本小林秀雄』(1998、2015増補版)がある。そして更には、山崎行太郎氏の『小林秀雄とベルグソン-「感想」を読む』(1991.97増補版、彩流社)もあげられる。

 ここでは長瀬論文の問題点に触れながら、上記著作の紹介を関連的に述べるに止めたい。その前に、先ず触れておきたいのが唐木順三の批評である。唐木には戦後に書かれたドストエフスキーに関する幾つかの論考があるが、これはその一つで本格的内容のものだ。下記引用は、末尾の文章の結論的要約文である。注目すべきは、唐木にはドストエフスキーに特徴的な小説表現への着目があって、それは例えばその固有のリアリズムの問題を現代物理学のボオアの言葉「存在の演劇に於いては我々は観客たると同時に俳優たるのである。」によって裏付けている。実はこの辺は、小林が戦前から「未成年の独創性について」(1933)「地下室の手記」(1935)や戦後の「罪と罰についてⅡ」(1948.11)等でも指摘してきた、主人公に特徴的な相対的で不確定な人間像の問題に通じていた。現代物理学の問題は、このようなドストエフスキー固有の小説表現に関連して語られてきた経緯を唐木にも指摘しておきたい。
「物理学に於てあらはに示された来た革命、機械観と連続観を否定した新しい構想は文学の上にも、心理学の上にも、生物学の上にも共通にあらはれて来たのではないか。さうしてそれを世界観にまで築きあげることによつて西欧的近代を超えた現代を形成することが我々の時代に課せられてゐるのではないか。その場合、ドストイェフスキイの作品は新しく先駆的文学として検討されるに相違ない。」(1949.3)

 そしてこの文章を唐木に書かせる影響を及ぼしたと推察できるのが、第一の「対談」である。これは、湯川と小林という畑違いのエキスパートが、未だ戦禍が色濃く残る時期に専門的課題を掲げて真摯な議論を展開していて、いかにも戦後的な啓蒙的対談になっている。湯川は翌年、その中間子理論でノーベル物理学賞を受賞する。小林も、この年に前述『「罪と罰」についてⅡ』を発表する。言わば、二人にとっての最高のタイミングであった。そしてこの対談の中心がアインシュタインでありドストエフスキーであり、小林にとってはベルクソンとの絡みで考えて来たドストエフスキー文学と現代物理学が交叉する問題であった。湯川も率直に専門的問題を出し切っている。特筆すべきは、クズネツォフの著書で焦点となった「予定調和ということ」が対話の終盤の一つのテーマになって、そこではスピノザ、パスカル、ライプニッツ、デカルトが現代物理学(例えば、ポルツマンの量子論)の問題(観測、時間、空間)として真剣勝負で論じられていることだ。この議論の前提にイワン・カラマーゾフの懐疑論が横たわっていることも十分に想像できる。湯川氏のロシア文学への傾倒も並のものではないのが分かる。また前半では、渡辺慧氏の論文「量子物理学に於ける時間とベルグソンの純粋持続」(1947)という論文が小林から持ち出され、精神性と物質性の二元論的問題が、実験・観測行為に絡んで難問の時間論として論じられている。当然この議論には、問題のアインシュタインとベルグソンの「相対性理論」をめぐる論争が前提になっているはずだ。それは、丁度アインシュタインが日本を訪問した時期に書かれた『持続と同時性』(1922)というベルグソンの論文によるものであった。実は数年後小林が「感想」(残念ながら中絶)でこれを課題にしたのは、この「対談」の延長でもあったかもしれない。

 この辺の経緯について、長瀬氏の論文は議論の中身を十分フォローしているとは思えず、アインシュタイン、ベルクソンそして(匿名の小林秀雄)に対する言い方もやや不正確なものだと思う。その指摘(p.62上段)によれば、「アインシュタインは「時間があって、空間がない」とその片手落ちを反批判した。要するにベルクソンは肉眼でしかものが見えない観念論者だったのである」という表現がある。その前半は、その出典も不明で不十分な内容で、後半は長瀬氏の個人的所感でしかないものと感じた。この点から「論争」を客観的に取りあげ、やや詳細な説明をしている文章をここで紹介しその一部を引用しておきたいと思った。ただし一部の引用なので、この部分の全体(前掲書の金子務著『アインシュタイン・ショックⅡ』(p.262~277))を、是非上述「対談」と併せて読まれることをお薦めする。なお考察は続けられるべきか。

「この両者(アインシュタインとベルクソン、注)は、背中合わせになって峠を見ている二人の旅人かもしれないのだ。アインシュタインの特殊相対論は、14歳の時の一つのイマージュ ─ 光線を高速度で追いかけて止まっている光を見ようとする白昼夢 ─ から懐胎したのだし、アインシュタインほどイマージュの積み重ねである思考実験を得意とした科学者は少ない。またベルグソンがコレージュ・ド・フランスの教授として毎年講じた哲学史ではバークレーとともにスピノザに傾倒したが、アインシュタインもまさに「スピノザの神」を信じたのである。すなわち神から出た人間が神に帰すように、「我々の精神が完全に真理と認識するための作用と神が真理を生み出すための操作との間に存する一致の意識」とベルグソンのいう「スピノザの直観」に共鳴しているのだ。してみると両者はこういうイマージュから出発するのは同根だが、一方は最終的にイマージュを完全に消去する方向に、人間的主観を微分化する抽象的絶対存在 ─ 物理的実在 ─ を構築し、他方はイマージュを連ね重ねる方向に、人間的主観を積分化する具体的な持続的内観 ─ 心理的直感 ─ で生を復活させる、という正に「相補的な関係」がそこにはあるのではあるまいか。」(前掲書、p.271~272)    (2016.7.15)



広 場 

 
スヴィドリガイロフの、パリ、テキサス

江原あき子

「テキサスの男こそは典型的なアメリカ人だよ。テキサスはすべてが揃ったこの世の天国だと本気で思っている。だから国内であれ海外であれ、テキサスの外へ出る必要を感じない。アメリカ人としてごく自然なことだから、多くの選挙民もそれを問題にしない。問題にするのは、東部の知識人だけだね」(青山?晴著 『壊れた地球儀の直し方』より)
 ヴィム・ベンダース監督の『パリ、テキサス』という映画には当時の世界が鮮明に描かれている。くたびれた中年男が、若く美しい女に恋をし共に暮らすが、ふたりは互いに愛すれば愛するほど理解し合えない壁にぶつかってしまう。男は女に暴力をふるうようになり、最後は子供と女を残して家を出る。男はテキサスをさまよい、テキサスの中にあるパリという土地(本当にあるらしい)を買ってそこを自分のルーツとする。男は最後に弟に引き取られていた子供を女に託し、自分はまた、どこかへ去っていく。
 男はヨーロッパ、女はアメリカである。
 ベンダース監督はドイツ出身、ニュージャーマンシネマのリーダー的存在だった。ハリウッドに進出し、コッポラと組むが、ハリウッドにもアメリカにもなじめずに、この進出は大失敗に終わる。そしてヨーロッパに戻って撮ったのがこの、『パリ、テキサス』である。
 アメリカそのものであるテキサス、しかし実際に撮影された場所はテキサスではない。アメリカを象徴する美しい女はドイツ系の女優、ナスターシャ・キンスキーが演じている。うらぶれた街の風景を原色で彩色した風景は男の心象風景なのか、現実なのか、見ている間ずっと迷い続けてしまう。
 スヴィドリガイロフは―と時々考える。どうしてアメリカだったのだろう。その最期の時になぜ、アメリカに行く、と言ったのだろう。
 19世紀、世界大戦前夜の世界。アメリカが世界の注目を集めるのは、大戦でその軍事力と経済力を見せつけてからのことである。『罪と罰』の当時、ロシア人の注目はヨーロッパに集まっており、ドストエフスキーもヨーロッパに渡ってその実態を確かめてもいる。罪を重ねてきたスヴィドリガイロフは自分の行く末が美しく、平和な国だとは思えなかっただろう。しかし罰を受けるとも思えなかったに違いない。ドゥーニャへの愛は本物だった。だがそのドゥーニャに愛されることはなかった。スヴィドリガイロフは初めて愛されない孤独を知った。彼は罰を受けたのだ。それに彼にはソーニャがいる。その人生の晩年、ソーニャを助けた。ソーニャは生涯、スヴィドリガイロフのことを祈り続けるだろう。「長生きなさいね」ソーニャへの言葉はソーニャの魂と共に生きたいと願う、スヴィドリガイロフの心からの言葉である。
 彼はどこへ行くのか? それは、どことも、どんなところとも知れない国。でも決して孤独ではない国だ。
 私はスヴィドリガイロフの淋しい心を思う。書かれることがなかった孤独な生い立ちを思う。愛さないことが彼の運命への復讐だった。ドゥーニャを愛してしまったことで復讐は失敗した。ひとりぼっちのスヴィドリガイロフが行くのは世界の果てのアメリカ。でもそこはこの世界と繋がっている。きっと仲間もいるだろう。
 今、アメリカが壊れ始めている。孤独な漂流者が行く国だったアメリカ。しかしその孤独
な心をアメリカはもう、癒してはくれない。
 今、スヴィドリガイロフの魂はどこをさまよっているんだろう。(了)



『地下生活者の手記』の読み方について

 
渡辺圭子

 まずは、別紙をご覧下さい。(ここでは掲載しませんので、ご自分で)
(別紙=『ドストエフスキー その生涯と作品』NHKブックス 埴谷雄高著 頁86-87)を参照ください。

 この文章を読んだ時、なぜか私は、苦痛と快楽は、そのまま、共産主義と自由主義(決してどちらかが苦痛でどちらかが快楽という意味ではない)に置き換えられるように思えてならなかった。相反するものが、同じ力で別方向に引き合いながら同居している…。
『地下生活者の手記』で地下男が論じた人間観も同じように置き換えられるのではないか。

人間観①
 人間は必ずしも、○○のために××する、と理性、合理性だけで動く者でも、動かせる者でもない。理性、名誉、安泰、平和 etc 真の和益よりも、向上発展よりも、個と個性のためなら、どんな愚につかないことでも何でもしてしまう。

人間観②
 地下男が毒づいた理性、分別に従って生きる。①のように行動するのも人間であるなら、②のように行動するのも人間。相反するものが、同じ力で別方向に引き合いながらも同居している。そこを考えているうちに、私は、『地下室の手記』の読み方に疑問を抱くようになった。それは、なぜ偏ってしまったのか、という疑問である。『地下室の手記』で論じられた人間観が、他の作品に現れた社会主義批判、共産主義批判につながることから、共産主義の欠陥を暴いた予言の書、自由の賛美というふうに読まれてきた。しかし、自由についても、同じように行き過ぎを批判し、警告もしている。なぜ、社会主義批判、共産主義批判に偏ったのか。個と個性のために、愚にもつかないことをするのも人間なら、理性、分別に従うのも人間、なぜ、前者ばかりクローズアップされるのか、偏ってしまう背景を考えると、自分が『地下室の手記』を読んだ時にあじわった不安感と安ど感の意味をかんがえるところに行きついてしまう。

不安感
 人間は、仕事でも学びでも趣味でも、はては遊びでも、よりよくなるにはどうすればよいのか、を意識し、何かしらの目的をもって生きているのではないか(意識の方向、強弱は人によりけりだが)、そのために理性、分別がある。愛情、正義、善意、良心がある。しかし、人間はそればかりではない。時には何かしらの目的をもって生きるために、怒り、憎しみ、裏切り、コンプレックス、エゴイズムetc、それによって湧きあがる葛藤がある。後者は、時に活性剤となり、面白味にもなるが、時に毒となる。疑わないでいる価値観、強くゆさぶりをかけられる。人間には、人生には、こんな側面がある、知らなかった深い世界に動揺する。毒が強すぎて、何も手につかなくなることもある。『地下室の手記』は、読むと気が滅入る、と、毒書とみなす人と、地下男がこっけいに思えて、小説らしくて面白い、という人と、賛否両論に分かれやすい作品ではないか、という気がする。(どんな作品だって、様々な読み方がある)かくいう私も、読むと気が滅入る、読みにくさは横綱級と感じていた。横綱級と感じながらも投げださなかったのは、地下男のいう人間観を受け入れられない、理解できない、は、人間の表裏をはじめとする、物事の広さを見ることができない人間、まるで、ダメ人間か何かになってしまうような感覚におそわれたからである。本の読み方でも何でも十人十色、そんな正論ではわりきれない、自分の心でありながら、うまく自分の言葉に表せない。あえていうなら、知らなかった深い世界を、他の人は知って居るのに、自分だけが知らない
のでは、という不安だろうか。

安堵感
 私が、安堵感を感じるようになったのは、自分独自の恣欲、個と個性のためなら何でもする、自分を発揮したい、そこは人間皆同じ同じ願望つながり、と思えるようになったからである。富める者、貧しき者、秀れた者、そうでない者etc、そこだけは、皆、自分と同じ。

地下男の人間観
 人間が愛するには、泰平無事だけではない、破壊と混沌をも愛する。ピアノの銀盤でないことを証明するために愚にもつかないことを望む。時にはそのために晩節も汚す。到達を個の無くせに、完全に行きつくのは苦手なのだ。
 あらゆる悪、無駄は、すべて自分でありたいため、を理解したよう、受け入れようとしていた。幸福は、何かをつかんだことにあるのではなく、つかみつつあるところにある。つかんだ時の道が消えた様な寂しさ。ここまで、と限定されるのが、嫌いなのではないか。理解しよう、受け入れよう、とする中で。

目に見える
 表面に現れた行動、性格、理性、分別に従ったふるまい。

目に見えない
 無意識世界、成り行きや本質を知ろうとする力にあふれている。憎しみ、怒り、コンプレックス、エゴイズムetc。
 個と個性を追求してやまない心を感じた、と同時に、その個と個性とは、ただ、○○ができる、××が得意、というものではなく、目にみえない無意識世界、人間や人生の謎を追求する心ではないか。人間や人生を広く深くみる力ではないか、と思えるようになってきた。個性、可能性を追求してやまない心、これが、人間の不条理性、複雑さの意味ではないか。
自分独自の恣欲、ただの好き勝手でも、自分が中心でありたい、という欲望でもなく、あくまで、人間や人生を広く深くみる力、人間性の深みにおける優越願望ではないか。
 相反するものが、同じ力で別方向に引き合いながらも同居しているはずなのに、どちらかがクローズアップされる。なぜ偏ってしまのか。人間や人生を広く深くみる力がないと思われたくないから・・・。そういう心の重荷から自由になるには何が必要か。人間や人生の謎、深遠さ、何もかも知り抜いた頂点の者=神ではないがか。光文社文庫から出た『地下室の記録』の解説で、ドストエフスキーが兄に宛てた手紙の中に、神やキリスト教の必要性を説いた個所が、検閲で削られ、そのことを遺憾に思い、はては憤っている、という内容のものがあったことが、言及されていた。削られる前の『地下室の手記(記録)』の原稿は、もう残っていないという。しかし、私は、なぜか、現存する作品のどこかに、潜んでいるように思えてならない。ドストエフスキーの翻訳者であり、愛読者、研究者でもある亀山郁夫氏は、表面は権力を賛美しおもねているように書いておきながら、そっと批判を、それとわからない形で忍びこませる、二枚舌であると述べていた。
 地下男はあれだけ、現実の世界、希望的未来社会を批判したが、決して地下室を、ひきこもり生活をさんびしていたわけではない。なにも賛美しないことで、人間の力で理解できない、人間や人生の深遠さ、ということを神を表しているのかもしれない。そもそも、神は、いるいないを証明できるものでも何でもない。
 私が、ドストエフスキーの作品から、『地下室の手記』(記録)から感じるのは、たとえいたとしても、見ようとしない、背を向ける人間の姿である。なぜ見ようとせず、背を向けてしまうのか、精神面の高さを求めているから。(了)



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