ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.156 発行:2016.6.10
第275回6月読書会のお知らせ
月 日 : 2016年6月18日(土)
場 所 : 池袋・東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分)
開 場 : 午後1時30分
開 始 : 午後2時00分 ~ 4時45分(時間厳守)
作 品 :『白痴』4回目
報告者 : 近藤靖宏さん 司会進行 小山 創さん
8月読書会
開催日 : 2016年8月13日(土) 午後2時~4時45分迄です。
第33回大阪「読書会」案内 6・11『白痴』第2編
ドストエーフスキイ全作品を読む会・大阪読書会の第33回例会は、以下の日程で開催します。6月11日(土)14:00~16:00、会場:まちライブラリー大阪府立大学 参加費無料
〒556-0012 大阪市浪速区敷津東2丁目1番41号南海なんば第一ビル3FTel 06-7656-0441(代表)地下鉄御堂筋線・四つ橋線大国町駅①番出口東へ約450m(徒歩約7分)
小野URL: http://www.bunkasozo.com
うっとうしい梅雨の季節、読書会の皆様には、如何お過ごしでしょうか。気がつけば2016年も半分です。いろいろなことがありましたが、よいニュースはあまりなかったような気がします。唯一、ほっとしたのは、不明の子どもが無事だったことぐらいでしょうか。
さて、『白痴』作品は4回目となります。毎回、斬新な報告があり、様々な感想、意見があり、作品の深さはまだまだのようです。今回は、近藤靖宏さんです。『未成年』の報告が印象深いです。『白痴』作品。どのような読まれたのか楽しみです。なお、司会進行は、小山創さんです。若い人たちのコンビによる6月読書会劇場、こちらも期待されます。
脇役たちの存在理由 ――イッポリートはなぜいるのか――
近藤靖宏
皆さまはもう『白痴』を読み終えていることでしょう。後味の悪い結末、ただしこうなるであろうことは途中まで読めばたぶん誰もが予想できたことでしょう。この物語の主人公、ムイシュキンにとってもそうです。彼はかなり早い段階からナスターシャとロゴージンが結婚すればどうなるだろうかを人に語っています。
ムイシュキンは遺産相続の手続きを終えてしまえば、煩わしいロシアでの人間関係から逃れてスイスに帰ってしまうこともできました。にもかかわらず彼がロシアに留まったのはナスターシャのことが気がかりだったからに違いありません。偶然彼が彼女と出会ってしまったのは彼にとって悪い運命でした。ムイシュキンは真剣にナスターシャを救おうとして救えなかったのか、あるいは内心ではナスターシャの死を運命と考え諦めていたのか、こういったことを参加者の皆さまと一緒に考えていきたいと思います。
私が運命というテーマに行き着いたのは、イポリートという登場人物の存在理由について考えたからです。仮に彼がこの物語に登場しなかったとしても、物語の大勢に変化はありません。しかしドストエフスキーほどの作家が気まぐれに人物を登場させるということはなく、どの登場人物も物語の中で何らかの役割を与えられて登場しているはずです。イポリートは肺病で死ぬという運命にあるにもかかわらず、必死でその運命に抗っている人物です。
当日は、まずこの物語の脇役たちの存在理由について語ることによって外堀を埋めていき、その後に主要登場人物たちの問題に進んでいく予定です。一緒に考えていただくためのたたき台として、主要登場人物たちが他の人物に対してどんな感情を寄せていたのかを図にしたものを用意させていただきます。皆さまとお会いできるのを楽しみにしています。
『白痴』アラカルト
典拠:『ドストエフスキー 写真と記録』代表編者・V・ネチャーエワ 編訳・中村健之介 論創社 1986
1868年3月 ストラーホフからドストエフスキー宛の手紙
あなたの『白痴』は、私個人にとってこれまであなたのおかきになったものすべてよりも、興味深いもののように思われます。まことに素晴らしい思想です!幼子の心には一目瞭然なのに、賢(さか)しらな知恵者には分からない知恵、――あなたの立てた問題を私はそう理解しました。
L・F・バンテレーエフの『回想』
M・E(サルティコフ=シチェドリーン 当時はドストエフスキーと対立する考え)が、ドストエフスキーの最高の作品といっていたのは、『白痴』である。彼はこう言っていた。「この作品の着想は、天才的だ。この作品には驚嘆に値する箇所がいくつもある。しかし、表現のまずい、完全に台無しにされた個所がそれ以上に多くある」」
1877年2月14日 ドストエフスキーからA・コヴネル宛の手紙
…あなたが、全作品の中で『白痴』を最高と言って下さるのは、私には嬉しいことでした。
※コヴネル=ユダヤ人のジャーナリスト
M・A・アレクサンドロフ 一植字工の『ドストエフスキー回想』
…フョードル・ミハイロヴィチは、ご自分の数ある作品の中で『白痴』に栄誉ある地位を与えておられたようです。私の手にこの作品をお渡しになりながら、気持ちを込めて、「読んでみたまえ!これはいい作品だよ…ここには何もかもある!」とおっしゃいました。その後、私が『オブローモフ』(ゴンチャロフの白痴)を大変褒めたときのことですが、フョードル・ミハイロヴィチは、『オブローモフ』が優れた作品であることには賛成なさいましたが、私にこう言われました、「ところでね、私の『白痴』も同じくオブローモフなんだよ…ただ私の『白痴』はゴンチャロフの『白痴』よりも優れているということだが…ゴンチャロフの『白痴』は、けちくさい。あの人物には、町人くさいところがたくさんある。私の『白痴』は、品格があり、高貴だ」
※アレクサンドロフ=『作家の日記』を印刷した印刷所で働いていた人
アンナ『回想』
フョードル・ミハイロヴィチは、フレンッエのサンタ・マリア・デル・フィオール聖堂と小さな洗礼堂を見て、非常に感激した。その洗礼堂では普段、幼児の洗礼を行っていた。有名なギベルティの作である、洗礼堂のブロンズの扉(とりわけ天国の物語)は、フョードル・ミハイロフヴィチを魅了してしまった
4・16読書会報告
4月読書会、20名参加で盛会
「白痴」レポートの追記レジュメ ②
尾嶋義之
ムイシュキン公爵は子供であるという、テレンバッハが指摘した特質は、私が特に強調したいテーマではありませんが、この人物の重要な要素です。それは『メモ風レジュメ」で列挙したてんかん気質とも絡み合っています。つまり、当時のロシア社会の一般的な道徳的規範や価値観に従って充足した生活を送っている人々とは基本的に異なって、平たく言えば大人としての分別に欠けている人物ということです。例えば、冒頭の列車内の会話で、ロゴージンのぶしつけな質問に、自分の病気のことやら何やら、学校の生徒みたいにいちいち素直に答えたり、エパンチン家を初めて訪れて、いきなり召使を相手に死刑囚の話を始めたり、アデライーデに対しても、聴いている者の反応に配慮することなく、絵画のテーマとしてギロチン下の死刑囚の顔を描いたらよいと主張したりすることです。あるいは、アグラーヤやナスターシャに対する性急な愛情表現や結婚申し込みも直情的で子供らしいと言えるでしょう。作中人物のエヴゲニー・パヴロヴィッチは、ムイシュキンについて「適度という観念の極端な欠如」などと評しています。
私が最も言いたいことは、ムイシュキンは「透明人間」であるという点です。彼が交際する多くの人物と比べて、彼にはいわゆる存在感がありません。他人から見て、この人はこういう人なんだという人間としての輪郭がはっきりしません。とらえどころのない人。ふつうの人は一定の信念や人生観を持って生活し、それが自我を支え、そのことで他人に影響を与えたりします。ところがムイシュキンにはそういった自己確信、あるいは生きて行くべき思想が欠けているのです。透明人間は、周囲の人にとっては、いてもいなくてもどうでもよいような、いわば人畜無害な存在です。だから誰からも歓迎されます。知識や教養は豊富ですが、それは彼の生き方とほとんど関わりがない。小林秀雄が『ムイシュキンは一個の意識あるいは精神である」と言っているように、要は、彼は人間としては存在できないということです。生身の人間としては無である。「透明人間」と呼ぶゆえんです。
「白痴」を執筆するにあたって、「無条件に美しい人間を創造したい」とは、ドストエフスキーが姪御さん宛の手紙で述べているので触れましたが、何となく感じは分かっても、意味となると難解です。英訳ではPERFECT MAN(完全な人間)となっているそうです。心が清らかであるとか、邪念がないとかいう程度のことかもしれません。すると、そこから純粋という概念が出てくるでしょう。ムイシュキンは純粋な人間だと語る識者は多い。しかし、濁ったものがなければ純粋ということになりますが、人間という存在は生まれつき複合的な要素から成っていて、純粋人間とは意味不明です。あくまで純粋を追求すれば無になり、透明になります。
「メモ風レジュメ」の「正体を見破られる恐怖に脅かされている」という文句は私の憶測です。透明人間とは要するに一種の「覗き魔」であって、他人の私生活をひそかに眺めて楽しむわけですが、一方、覗いていることが知られたら大変です。一挙に正体がばれて、警戒され、白眼視されることになる。ムイシュキンが時に他人の言葉にドギマギし、反論せずに顔を赤らめたり、嘲笑されても怒らず、自分も笑ったりする。このような態度は道化に似ていますが、本来の自分を隠すための処世術かもしれません。
さて、最も重要な点です。ムイシュキンがアグラーヤに愛の告白を行い、ナスターシャに結婚を申し込んだことから、彼はもはや透明人間ではなくなります。恋愛感情によって、ふつうの人間に、人間らしい人間に変貌したのです。透明人間は、いつかは孤独に耐えられなくなります。少年のころ、スイスの山中で感じた悲哀、世界から自分だけが切り離されている疎外感、世の中のあらゆる現象が、人間も含めて、単なる風景としか映らないいわば実存的感覚、それが溶解し、その息苦しさから解放され、活き活きとした現実感覚を獲得する第一歩を踏み出します。ところが、もともと子供ですから、一般人の日常になじむことができない。二人の女性を同時に愛する。アグラーヤとナスターシャの大喧嘩の最中、自分のことが問題になっているのに、何もできずウロウロするばかりです。「どっちを取るの」とアグラーヤに問われ、後にパヴロヴィッチにも詰問されますが、優柔不断なムイシュキンは答えられません。「私が悪かった」とやっと言えるのみです。そしてナスターシャ側になびきながら、アグラーヤには分かってもらえると本気で思い込み、しつこく面会を求める幼児性。本心では双方を欲しているのですが、それは子供みたいな欲張りと言うしかありません。そんな身でありながら、人並みの生活を求め、俗世間と交わろうとしたところに悲劇が起こったと思います。身の丈以上の望み、あるいは情熱を抱いて自分から事件に飛び込んだわけです。
第1回『白痴』報告資料(2015年12月5日)
『白痴』の世界 -ナスターシヤを中心として- ③ 最終稿
菅原純子
筆者が、山城むつみに共感するのは次の点にある。
彼の手は、自分はこのナイフでナスターシャを刺すかもしれないと感じているのだ。ナスターシャに対する「限りない憐れみ」の果て彼が「恐怖」を感じたのがなぜなのかに思いを凝らすべき地点はここなのである。自分と一緒にいると彼女が破滅してしまうということをムイシュキンが確実に知っているのはなぜなのか。思うに、空白の六ヵ月、とりわけ公爵が彼女と毎日のように会っていた田舎でのひと月のあいだに、彼女を殺そうとしている自分の手を見出した瞬間が公爵にはきっとあった。ロゴージンはムイシュキンが辿ったことのある途をあとから反復しているのかもしれない。(略)じじつ、ナスターシャはロゴージンよりもムイシュキンを恐れていたのである。
確かに六十コペイカ相当のナイフで、ラゴージンを殺そうとしたように、第二編第五章はそう読みとりがちであるが、しかし、ムイシュキンは無意識において、ナスターシャを殺そうとした。だから、わざとナスターシャの家に行った事実は、さけることができないものであると筆者は考えた。
ラゴージンは、ムイシュキンがいうように病的な情欲の持ち主かもしれない。それではナスターシヤとの肉体関係はどのようなものだったのだろうか。ナスターシヤ自身がいうのには、
それだのに、わたしはあんたを自由にしてあげようと思って、いったんあんたのそばから逃げだした。けれど、もう今はいやです!あの娘はなんだってわたしを、淫売かなんぞのように扱ったんだろう?わたしが淫売かどうか、ラゴージンにきいてごらんなさい、あの男が証明するから!しかし、今はあの娘が、あんたの目の前でわたしの顔に泥を塗ったから、たぶんあんたもわたしに後足で砂をかけて、あの娘の手を引いて帰るんじゃなくって?もしそうならわたしがあんたひとりだけ信じていた義理でも、あんたはのろわれてよ。さあ、出て行け、ラゴージン、おまえに用はない!
淫売な女ではないと、ナスターシヤ自身が言っている、このことからみると、ナスターシヤとラゴージンには肉体関係がなかったのではないかと思われる。こんな事はどうでもいい
かもしれないが、最後の結末とかかわってくることにおいて重要なのである。
ナスターシヤが毎晩ラゴージンを相手に、(略)-あらゆる方法で勝負をしたのである。(略)そのはじまりはナスターシヤが退屈を訴えて、『ラゴージンは毎晩じっとすわったばかりで、話なんかちっともできない』といってよく泣いたので、その翌晩ラゴージンがとつぜんかくしからカルタをひと組とり出した。すると、ナスターシヤが、からからと笑って、そこで勝負がはじまったのである。
最後の場面でそのカルタをラゴージンがかくしから取り出す。
「そうだ・・ぼくききたいと思ったんだが・・あのカルタね!カルタさ・・きみはあれとカルタをして遊んだじゃないか?」
「うん、そうだ」つかの間の沈黙ののち、ラゴージンはこういった。
「どこにあるの・・カルタは?」
「ここにあるよ・・」前よりもっと長く無言でいたが、やがてラゴージンは口をきった。「これだ・・」
彼は一度使ったカルタを紙に包んだのを、かくしから取り出して、公爵のほうへさし出した。最後の場面において、カルタがラゴージンのかくしにあった。カルタをしていたから肉体関係がなかったといいたいのではない。ラゴージンがナスターシヤをナイフで殺すのは、肉体関係があったとしたら殺すことはなかった。肉体関係がなかったゆえ、ナスターシヤを、自分のものだけにしようとした殺人ではなかったのではないか。だが、ラゴージンがナスターシャを殺害した後、ムイシュキンを必要とし、三人で床に並んで寝ていたことは、ドストエフスキーが三人にこだわる神髄がここにも現れている。
「いま家じゅうおれたち四人のほか、だれもいねえんだ」
の場面で起きるアグラーヤ対ナスターシヤの論点だが、アグラーヤはナスターシヤの何を理解していなかったから、ナスターシヤに「トーツキイをあっさりと・・芝居めいた真似をしないで、棄ててしまわなかったのです?」「じゃ、あなたの手紙はいったいなんですの?だれがわたしたちの仲人役を買って出て、この人と結婚しろとあたしに勧めたんです。(中略)もしラゴージンさんと結婚すれば、汚辱などはすこしも残らないからです。などといいナスターシヤを侮蔑するのであろうか。
ラゴージンがいうには、
「おめえさ。あれはあの命名日のそもそもから、おめえにほれこんじまったんだ。しかし、あれはおめえと夫婦になるわけにゃゆかねえと思ってる。なぜって見な、そうすればあれはおめえの顔に泥を塗って、おめえの一生を台なしにしちゃうわけだろう。『わたしがどんな女かってことは、わかりきってるじゃありませんか』とよく言い言いしてたよ。」
ムイシュキンが、アグラーヤにいう、
「あの不仕合わせな女は自分が世界じゅうでいちばん堕落した、罪ぶかい人間だと、深くふかく信じきっているのです。ああ、あの女を辱しめないでください、石を投げないでくだ
さい。あの女はいわれなくけがされたという自覚のために、過度に自分を苦しめているのです。しかも、どんな罪があるでしょう。ああ、まったくそら恐ろしい!あの女はひっきりなしに逆上して叫んでいます、『わたしは自分の罪を認めるわけに行かない、わたしは世間の人の犠牲だ、放蕩者の悪党の犠牲だ』と叫んでいます。しかし、人にはどんなことをいうにもせよ、あの女は自分からさきに立って、自分のいうことを信じていないのです。それどころか、心の底から自分を・・・罪ぶかい人間だと思いこんでるのです。」
アグラーヤは、ナスターシヤの苦悩を理解することができなかったのだ。いな、わかろうとさえしなかったのである。
結末については、前述したが、『白痴』という作品はムイシュキンが主人公であり、ドストエフスキーと同じてんかん持ちであるがゆえに、死と再生、死と復活が最大なテーマになる。
ナスターシヤの本来の名であるアナスターシヤはギリシャ語の「アナスタセー」(復活)
から出ていることが明らかであり、「復活のナスターシヤ」というような同義語をつらねた名に、民衆の中での神話的命名法を見ることも可能であろう。
と、といたのは江川卓であるが、筆者はその論点で読みとくのはさけた。
「ちょっと、聞こえるかい?」と急にラゴージンはさえぎって、おびえたように床の上へ中腰になった。「聞こえるかい?」
「いや!」と公爵は相手の顔を見ながら、同じく早口に、おびえたような声でいった。
「歩いてる!聞こえるだろう?広間を・・」
ふたりは耳を澄ましはじめた。
「聞こえる」公爵はしっかりとささやいた。
「歩いてる?」
「歩いてる」
「戸をしめるか、どうする!」
「しめな・・・」
戸はしめられた。ふたりはふたたび横になった。長いこと黙っていた。
この場面を、一年以上迷って山城むつみは、ナスターシヤの「幽霊」とした。もうここでは引用しないが、そこに具体性があると思ったからである。なぜかというと、筆者においては幼い時から生身の人間を見つめてきたからであり、医学的、生物学的、キリスト教的な観点から読みとくことはできない。生身の人間を、想像力をもって具象化したのが小説だからである。 完
『白痴』を読んで①
-「セカイ系」からのアプローチ-
野澤隆一
ゼロ年代の日本の 文芸潮流に「セカイ系」と呼ばれた作品が数多く現れた。それは小説(ライトノベル中心)のみならず、マンガ・アニメーション・映像作品等、メディアは多岐に渡たる一つの世界観であり、その後の文芸批評では賛否もあり現在に至っている。今回の読解は『白痴』がこの「セカイ系」の世界観を基にした解釈できるのではないかという直感があったことと、ムイシュキンの人物像を理解するにあたり、第三回の尾嶋氏の発表でも触れられていた通り、小林秀雄氏の下記のコメントも参考になった。
「ムイシュキンは、主人公と呼ぶよりむしろ一個の意識あるいは精神であって、筋のきっかけになるような性格上の諸規定が、この人物には欠けているから、一度この人物に事件が発生すれば、彼はいわば事件の重みに耐えられず破滅する」(*1)
ムイシュキンを一般社会の日常に生きている人間としてとらえた場合、その人物像は推し量れない謎と闇を抱えている。しかし、スイスから帰還したムイシュキンはどのような世界感受を持ちながらペテルブルクに生きているのかを、彼を一つの意識・精神としてとらえ、彼の生きている場所を作品読解の基調として念頭に置いてみる。その世界像を『白痴』に対応すべく「セカイ系」作品からのアプローチとして岩井俊二監督の2000年のインターネット小説・2001年の映像作品である『リリイ・シュシュのすべて』を例に挙げた。「セカイ系」でこの作品を挙げた根拠は映画評論家の渡邊大輔氏の試論(*2)によるが、「セカイ系」を位置付ける日本の作品は受け手により様々であり、何を持って「セカイ系」であるかは多岐にわたる。しかし、ここでは『リリイ・シュシュのすべて』(以下『リリイ』と表記)の小説を補助材として特に映像作品をテキストとしてみた。『白痴』との共振についてはリリイ・シュシュの音楽を「超越体験」として位置付けてみることにより、ムイシュキンの意識の一端でも理解できれば自分にとって『白痴』の現代的意味も見えてくるのではないかと考えた。ここには、映像作品としての『リリイ』が「セカイ系」的主題を引き継いでいるのみならず、従来からの自然主義的な読解ではなく、評論家の東浩樹氏が唱える環境分析的な読解の前提とする区分である「コンテンツ志向メディア」と「コミュニケーション志向メディア」との「メディアの二環境化」での物語製作の先駆的作品として、それ自体興味深い考察が可能な作品としても位置付けられる事に渡邊氏の指摘もあり、今回、映像作品(特に劇中の音楽)を例とした背景でもある。(*2)
多岐にわたる「セカイ系」の文芸潮流も2010年代も半ばを経過した現在では、事後的に下記の通り整理されていることを取り急ぎ予備として参照されたい。
1.「セカイ系」の定義と大分類
東浩樹氏は「セカイ系」を「(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義しており(*3)、作家の笠井潔氏はその後「方法的に社会領域を消去した物語」としてその範囲を広げた。(*4)それは「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域に図式化される。
『白痴』との類型は、ひきこもり/心理主義系作品として数多く発表されており、その萌芽はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』である。以下に発表される一連の作品群はその強い影響下にあると考えられ「ポストエヴァンゲリオン症候群」とも呼ばれていた。崩壊が始まった近代的な文学と政治の関係において、男性の代わりに女性を投入することでこれを維持しようとするレイプ・ファンタジーとする見方もある。代表的な小説には秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』を挙げることができる。
しかし、「ひきこもってばかりいたら生き残れない」という対抗からその後、決断主義を背景としたサヴァイヴ系(セカイ系から分離してバトルロワイヤル系とする分類もある)が現れる。これは大きな物語の代わりに大きなゲームを用いることで政治と文学を再記述しようとする立場でもある。頭脳バトル系作品では実写映画・TV化されたマンガ「DETH NOTE」を挙げられよう。この作品テーマは一部、ドストエーフスキイの作品として『罪と罰』(主人公の夜神月はラスコーリニコフ)『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』(夜神月の父親殺し)に共振することも興味深い。
2.『白痴』と『リリイ』にみる「セカイ系」の構造
前述の「きみとぼく/社会領域/世界の危機」の図式は精神分析家の斉藤環氏(*5)によるとジャック・ラカンの「想像界/象徴界/現実界」として設定しているが、内実は下記のことである。
想像界:(きみとぼく)→恋人や家族など親密圏内部での幻想世界
象徴界:(社会領域)→社会の公共的な約束事や常識
現実界:(世界の危機)→夢や常識をともに壊すリアルなもの
東裕樹氏はさらに「現実界」について下記の通り解説している。
「僕たちが生きている「世界」の自明性が失われ、生きることの意味そのものが問い直されるような体験の場を意味しています。・・・・だから現実界について考えるとは、具体的には「世界の終り」や「死」について考えるということです。(「現実界」の概念はもともとハイデガーからきているので、この言い換えは哲学的にも正しいはずです)」(*6)
そこには「象徴界」での描写が欠けており「現実界」と「想像界」が短絡されているという構造があり、それは「大きな物語=大文字の他者」が無いという、日本的ポストモダン思潮を背景とした時代認識がある。「信の構造」が日常には既に欠落していることが前提になっているため、大半のセカイ系作品で物語の主軸となる「恋愛」を一つの超越項とみるならば、「現実界」と「想像界」が短絡し、それまでの古典的な恋愛物語に見られるような「恋愛」を強く浮かびあがらせる要因としての「象徴界」の欠如という構造は、ゼロ年代の思潮の社会的要因が大きかったと考える
『白痴』の世界もこのようなセカイであると仮構したことは、ムイシュキンとロゴージン及びナスターシャとの「きみとぼく」の関係は古典的な恋愛劇では収まりきれない、各自の実存的な世界で展開されていると考える理由でもある。また、イポリートの独白はまさに現実的な死を目前とした自らの存在証明への渇望であり、彼もこのセカイを体験した人物ととらえることができよう。また、社会性を背景とした他の登場人物はそれぞれ何らかの形でまともな描き方がなされておらず、カリカチュアライズされているのも大きな点である。こうした二作品の「象徴界」が落ちているという印象も「セカイ系」の共通した特徴であると言えよう。
『リリイ』においてのこのセカイとは主人公の蓮見が語る夏休みの沖縄体験後の「灰色の世界」である。主要な登場人物では蓮見雄一(フィリア)をムイシュキンとし、星野修介(青猫)をロゴージン、津田詩織はナスターシャ、久野陽子はナスターシャでもありアグラーヤにも見立てられるだろう。尾島氏の解かれた「ムイシュキンは子供である」ということは決して純粋無垢な場所のみに生きているということではなく、また、『リリイ』の主要人物は13歳から15歳までの多感な時期の生き苦しさに裏打ちされていることは、ムイシュキンの世界との違和に生きていることと共通する前提となる。ムイシュキンや彼らはその世界をピュアネスではなくイノセンス(第二回のS.I.さんの発表)として生きており、苦しむ。『リリイ』での彼らの関係性はリリイ・シュシュ(またはドビッシーの音楽)を中心としているが、ツリー上に彼らの世界を支えている大きな物語ではない。小説では繰り返しているが、蓮見がリリイのCDを入手するのは、購入ではなく、あくまでも店から盗むことを自らのルールとしていることは興味深い。 (次号につづく)
「ドストエーフスキイの会」情報
第233回例会
報告者:杉里直人氏 2016年5月21日(土)
題 目:『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして
ドストエフスキー文献情報 提供=佐藤徹夫さん
2016・6・1着分
◎珍しいオペラ『白痴』のCD(輸入盤)
3月日頃手にしなかった「CDジャーナル」音楽雑誌にポーランド生まれのロシア作曲家ヴァインベルクの作品「白痴」を見つけた。ヴァインベルク(1919~1996)の1986年の作品。初演は1993年。この録音は2014年1月ドイツ・マンハイム国立歌劇場で上演されたライヴ盤である。ロシア語で歌われているが、ドイツ語・英語のブックレットが付いている。数ある舞台写真には、登場人物の男性3人が動物の被り物を着けていて興味深い。CD番号:PAN CLASSICS PC10328(3CD) P 2014 C 2015 (マーキュリー取扱)
◎「演劇U年鑑2016」に見る2015年の国内ドスト演劇
毎年3月31日発行される日本演劇協会編(小学館発売)の「演劇年鑑」があり、購入してドスト物を抽出している。
・「Idiot ~ドストエフスキー「白痴」より~」演出:レオニード・アシモフ 出演:東京ノーブイ・レパートリーシアター+シアターX 公演日:1月21日;4月16日;5月16日;6月3日
・「分身 ドストエフスキー『二重人格』より」 シアターX 3月25日~29日 白い劇場シリーズ第一回公演カンパニーデラシネラ 演出:小野寺修二 照明:吉本有輝子 音響:井上直裕 衣装:駒井有美子 出演:荒井志郎、王下貴司、大庭祐介、京極明彦、田中弘志、他
・「カタルシツ『地下室の手記』」赤坂RED/THEATEC 脚本・演出:前川知大 出演:安川順平
〈作品〉
・ロシア語で読む『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー(原作)ユーリア・ストナノーキナ(リライト)、及川功(翻訳)IBCパブリッシング 2016.3.1 \3400+ 239p 21㎝ 付録:MP3形式CD-ROM1枚
〈図書〉
・新・18歳の読書論 ―図書館長からのメッセージ― 和田渡著 晃洋書房 2016.2.29 \2700+ Vii+212+7p 19.4㎝ 8月-2 意識することの病いと絶望 ―ドストエフスキーとカフカ― p79-88
・翻訳者のあとがき讃 翻訳文化の舞台裏 藤岡啓介編著 未知谷 2016.3.10 \2400+ 222p 19.6㎝ 『罪と罰』ドストエフスキー作 米川正夫訳 p194j あとがきのあとがき―米川正夫と『罪と罰』の翻訳について/米川哲夫 p194-200;・米川正夫(よねかわまさお)一八九一~一九六五年 p200-201
・絶望手帖 家入一真(発案)、絶望名言委員会(編集)青幻舎 2016.3.30 \1300+ 255p 18.4㎝ Column 絶望の達人 ・ドストエフスキー 20代で死刑判決! 波乱に満ちた人生 p164
・小林秀雄のリアル 創造批評の《受胎告知》佐藤公一著 渓流社 2016.4.1 \2400+ 183p 19.4㎝
第三章 ドストエフスキによる《受胎告知》p53-61;
第四章 『文学界』の序章 p77-101;
第五章 レオ・シェストフへの固執 p103-147;
第六章 「『罪と罰』についてⅠ」より始めてp119-147;
第七章 1934年の間奏曲 p149-162;
第八章 創造批評へ向って p163-178j あとがき/佐藤公一p182-183
・きみに贈る本 中村文則、佐川光晴、山崎ナオコーラ、窪美澄、朝井リョウ、円城塔著、中央公論新社 2016.5.10 \1300+ 205p 17.7㎝ 中村文則より・世界文学の最高峰ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』p32-34
・絶望読書 苦悩の時期、私を救った本、頭木弘樹著 飛鳥新社 2016.5.14 \1389+ 261p 18.8㎝ 第二部 さまざまな絶望に、それぞれの物語を! ドストエフスキーといっしょに「地下室にこもる」-苦悩が頭の中をぐるぐる回って、どうにもならない絶望に―長編小説p161-170
〈逐次刊行物〉
・「むうざ 研究と資料(ロシア・ソヴェート文学研究会)」30(2016.4.1)〈資料紹介〉「大地から離れたアバドンナたち」―解読されなかったドストエフスキーの書き込みについてー /H.A.ターソヴァ著、齋須直人訳 p121-134
・「ドストエフスキー広場(ドストエーフスキイの会)」No.25(2016.4.9)136p 20.1㎝
インターネット
K.B.Bhattacharyya :ドストエフスキーとてんかん (2015)下原康子 訳
フロイドから現在に至るまでのドストエフスキーのてんかんに関する論文を概観しています。
ドストエフスキーとてんかん/病い 関連資料(作成:下原康子)
評論・連載
「ドストエフスキー体験」をめぐる群像
(第65 回)オバマ・ヒロシマ演説とドストエフスキーについて
福井勝也
オバマ大統領が、広島で原爆慰霊碑と被爆者を前に歴史的演説(5/27)を行った。反響は日米両国のみならず世界に広がっている。演説をしている最中にも、核ボタンの装置を所持した特殊任務の軍人が同行していたと聞く。在任期間が残り少なくなったとは言え、この瞬間もオバマが世界人類の命運をその手にする最高権力者の一人であるという事実は不動であった。今回の舞台を用意し、自らも演説を行った安倍晋三首相の姿が終始オバマの横に付き従うかたちで、小さく見えたのは当方だけのものだったろうか。ともに核兵器の廃絶を唱えながら、片や核ボタンを常に手にしている権力者と日米安保条約によって自らの国の究極的安全をアメリカに委ねている日本の権力者の違いは、その両者の演説内容以上にその並び立つ姿に現れていると感じた。
しかし今回本欄でオバマ米大統領の演説を問題にしたのは、その内容について種々言及されている識者的コメントをしようとする意図からではない。今回、むしろ招かれた被爆者、大方の広島・長崎市民を含め多くの日本人にオバマ演説が好意的に受け入れられた意味を率直に考えたいと思ったからである。
確かに、オバマ大統領の発言に「謝罪」はなかった。戦後日本の反米運動の根幹を支えてきたのは、極言すればおそらく広島と長崎で一瞬にして殺された無辜の人々の魂に寄り沿う「反米愛国の心情」であったと言えよう。ここから湧き起こる日本人の米国への「謝罪」欲求は簡単に払拭されるべきものでないだろう。しかし71年目を迎え、現職の米大統領が被爆地広島で平和資料館を訪れ慰霊碑に献花し、被爆者を抱擁する自然な行為を目の当たりにした時、それまで固く強ばっていた日本人の心情に変化が生じたことも確かだったろう。もしかしたらこの瞬間、日本人は、現実的で最大限可能なかたちの「謝罪」を受け入れたのではなかったか。この成行きを日本人の「寛容さ」の例証とも、巧妙に仕組まれた「政治的パフォーマンス」とも冷ややかに見る見方もあるだろう。あるいは、そんなものには「騙されない」という向きもあろう。しかし今回当方は、そのような怜悧な意見には与したくないと思った。そして、そのように感じる理由はオバマ演説の言葉の力によるものと感じた。
翌日の各紙朝刊では、演説全文が翻訳文と対照されて掲載された。朝日新聞では、その翻訳見出しで三つの要約を行っている。「恐ろしい力に思いはせるため訪れる」「8月6日の記憶薄れさせてはならぬ」「広島と長崎、道徳的に目覚める始まり」の三つであった。
テレビでオバマの演説を聴き始めてまもなく、その言葉に吸い込まれるような感じを受けたのは、私ひとりだけではなかったと思う。それは要約の一つ目にある、広島の被爆地を踏むことで原爆の死者を思い出し、彼らの魂の声に耳を傾ける一人の人間の率直な語りかけから演説が開始されたためであった。それは、二つ目の「8月6日の記憶」を呼び覚まし、それを現前させようとする言葉へとも繋がっていた。当方がここで強く感じたのは、オバマのその政治的責任(一次的には、米国民に対する生存と安全の保障)を離れた、平和を希求する道義的責任からの人類愛的姿勢であった。無論、今回の演説は米国大統領であるバラク・フセイン・オバマの演説であって、それを器用に切り分ける議論の危うさも承知している。しかし同時に、オバマの演説には権力者ではない民衆の視点、そこから発するパーソナルな姿勢が顕著なことも確かであった。
その姿勢の背景に、単なるヒューマニズムでは生み出せない心的なパワーを感じた。その力とは、オバマ個人が戦後のアメリカ社会で身につけた哲学的・文学的知力そのものだと思った。ここはドストエフスキーの文学を語る場所なので、飛躍を承知で言えば、その遺作『カラマーゾフの兄弟』のエピローグの「アリョーシャの石のそばでの演説」を想起した。この点で、実際にオバマがドストエフスキーと接点があるかは問題ではなく、今回演説のキイワードが意識的に?挿入された「子どもたち」「子ども」という言葉であると直感されたことも併せ述べておきたい。そして彼の演説を、単なる歴史事実の解説ではなく、人類が共有すべき歴史的出来事を生きた記憶へと甦らせる文学的話法として聴いた。それはまた歴史哲学的な瞑想行為として見た。そしてその中心に「子どもたち」の存在があったことが、当方にドストエフスキー文学に特徴的な語り口(対話性)を連想させたのだ。
キイワードだと思う「子どもたち」「子ども」という言葉は、演説で計6個所に使われていた。朝日の要約的見出し最初の「恐ろしい力に思いはせるため訪れる」では2個所、それに連なる「8月6日の記憶薄れさせてはならぬ」で1個所、結語の「広島と長崎、道徳的に目覚める始まり」で3個所であった。これは確かに些細な(もしかして的外れな?)指摘であるかもしれない。しかしその文脈を追う時、『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンのあるいはアリョーシャの言葉が蘇って来て、演説の背景(リテラシー)を支えていると強く感じさせられた。これらのキイワードが入った文章を順に抜き書きしてみよう。
「なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、(ゴシックは筆者、以下同様)何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語りかけます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になりえるのかをよく考えるように求めているのです。」
さらに次の個所では、子どもたち を襲った悲劇が、深く矛盾した人間性の根源(悪)からもたらされたものであることがまず触れられる。そして、広島と長崎で残酷な終結を迎えることになった先の世界大戦に触れながら次のように語りかける。
「数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです。この戦争を記録する場所が世界に数多くあります。勇気や英雄主義の物語を語る記念碑、筆舌に尽くしがたい悪行を思いおこさせる墓地や無人の収容所です。しかしこの空に立ち上がったキノコ雲のイメージのなかで最も、私たちは人間性の中にある根本的な矛盾を突きつけられます。私たちを人類たらしめているもの、私たちの考えや想像力、言語、道具をつくる能力、自然を自らと区別して自らの意志のために変化させる能力といったものこそが、とてつもない破壊能力を私たち自身にもたらすのです。」
この次の要約「8月6日の記憶薄れさせてはならぬ」において、「子どもたち」が主役となる文節は上記引用の末尾内容を引き継いでいる。しかしそれに止まらず、オバマの広島訪問の意味、当方は「無辜な子どもたちの恐怖に満ちた視線の共有」ということにあったと考えるが、それがここではっきり宣明されて全体のエッセンスとなっていると思う。
「科学技術の進歩は、人間社会に同等の進歩が伴わなければ、人類を破滅させる可能性があります。原子の分裂を可能にした科学の革命には、道徳上の革命も求められます。
だからこそ、私たちはこの場所を訪れるのです。私たちはここに、この街の中心に立ち、原子爆弾が投下された瞬間を想像しようと努めます。目にしたものに混乱した子どもたちの恐怖を感じようとします。私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺されたすべての罪なき人々を思い起こします。
単なる言葉だけでは、こうした苦しみに声を与えることはできません。しかし私たちは、歴史を直視する責任を分かち合っています。そしてこうした苦しみの再発を防ぐためにどうやり方を変えるべきなのかを問わねばなりません。いつかヒバクシャ(被爆者)の声が聞けなくなる日がくるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません。その記憶は、私たちが自己満足と戦うことを可能にします。それは私たちの道徳的な想像力を刺激し、変化を可能にします。」
ここまでの引用で注目すべきは、演説の主体であるオバマがその聴衆に語りかける際の主語として「私たち」を選択していることだろう。しかし演説の冒頭では「71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました」から始まっていた。それはあたかも天災が広島を襲ったかのようで、事態が自分と同じ立場の米国大統領による権力行使の惨禍であったことを故意に隠蔽しているようにも聞こえた。
しかし、とにかくここまでオバマの声に耳を傾けて来た者は、決してオバマが責任回避から主語を曖昧化していたわけでなく、それが真率な主語(「無私」)の導入によるものであったことに気付かされることになるはずだ。ここでの「私たち」とは、語り手オバマを含む聴衆のすべて、すなわち21世紀の現在を生きる我々人類であり、やがてそれが自分自身であることが自覚される。しかし同時にそれを語る者が、核のボタンを手中にしている選民(権力者)である事実も認知されたままにある。そのことを誰よりも痛切に自覚しているのはオバマ自身であろう。『カラマーゾフの兄弟』の物語では、イワンが語る地上の権力者「大審問官」を連想させられる。しかしオバマは、演説の最後でアメリカ建国物語の始まりの言葉(「すべての人は等しくつくられ、生命、自由、幸福追求を含む、奪われることのない権利を創造者からから授けられた」)を引用することで「大審問官」の役割を回避して見せる。そして、すべてを「私たち」という主語のなかに包み込んでゆく。
次の三つ目の要約「広島と長崎、道徳的に目覚める始まり」の途中で、「私たち」は「普通の人たち」という言葉に変換される。そして最後に、キイワードの「子どもたち」が未来形のかたちをとって結語へと向かう。この言葉の辿った道筋は、やはり単なる演説術(レトリック)と解すべきでないだろう。その点はすでに触れて来たが、今回のオバマ演説の核心は、彼が一方で権力者でありながらも同時に「私たち」=「普通の人たち」という全人類的な立場からの自己内対話(瞑想)であったと改めて思う。そしてそれは、アメリカ建国の言葉の普遍的価値の称揚に結びつけられたが、それを可能にしたのは恐怖した「子どもたち」の視線共有 への思いであった。改めて演説の最終部分を引用しておきたい。
「それが(引用の、アメリカ建国物語開始の言葉を伝えること、筆者注)私たちが広島を訪れる理由です。私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る私たちの子どもたち の笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。私たち はそうしたことを思い浮かべ、71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。亡くなった人たちは、私たち と変わらないのです。
普通の人たち は、このことを分かっていると私は思います。普通の人 はもう戦争を望んでいません。科学の驚異は人の生活を奪うのではなく、向上させることを目的にしてもらいたいと思っています。国家や指導者選択するにあたり、このシンプルな良識を反映させる時、広島の教訓は生かされるのです。
世界はここで、永遠に変わってしまいました。しかし今日、この街の子どもたち は平和に暮らしています。なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子どもたち に与える価値のあるものです。それは私たちが選ぶことのできる未来です。広島と長崎が「核戦争の夜明け」ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです。」
私たち日本人は、オバマ演説の言葉に匹敵する文学(思想)性をどれだけ鍛えて来たか。(2016.6.3)
広 場
坂根武著『わが魂の「罪と罰」読書ノート』
校正と追加
「罪と罰」 老婆の殺害
坂根 武
さて、作者が描く、神業としか言いようのない老婆殺害の決断に至る心理劇を見よう。マルメラードフとの出会い、母からの手紙などで瀬戸際まで追い詰められたラスコーリニコフは、恐怖から逃げるように下宿をさまよい出ると、疲れ果ててペトローフスキイ島のやぶの中で眠ってしまう。その時見た恐ろしい夢は、ラスコーリニコフを人殺しの犯行から救った筈であった。夢の中とはいえ、百姓ミコールカの身を借りて、人の血を流す罪の恐ろしさを彼は身に染みて知ったのである。それは天の黙示と呼ぶのがふさわしいほど鮮やかな夢だった。夢から覚めたラスコーリニコフを、作者は次のように描く。
橋を渡りながら、彼は落ち着いた気持ちでネヴァ河を眺め、あざやかな赤い太陽の沈み行くさまを眺めた。体が衰弱しているにもかかわらず、なんの疲労も感じなかった。それは心臓の中で一か月も化膿していた腫物が、急につぶれたような思いだった。自由、自由!今こそ彼はああしたしから、魔法から、妖力から、悪魔の誘惑から解放されたのである」
ところがすぐこれに続いて、作者は奇怪な描写を始めるのだ。
「彼はへとへとに疲れ切っていたので、最も近いまっすぐな道筋をとって帰るのが、いちばん得策だったにもかかわらず、なんのために、遠回りの乾草広場を通って帰ったのか、我ながらどうしても合点がいかず、説明がつきかねるのであった。
どうしてあんなに重大な、彼の全運命を決するような、と同時にごくごく偶然的な乾草広場(しかも行くべき用もなかった)における遭遇が、ちょうどおりもおり彼の生涯のこういう時、こういう瞬間に、その上特に、彼の気分がああした状態になっていた時に、ことさらやって来たのだろう?しかも、その時の状況は、この遭遇が彼の運命に断固たる、絶対的な影響をおよぼすのに、唯一無二ともいうべき場合だったではないか。それはまるでこの遭遇が、ここでことさら待ち伏せていたかのようである!」
以上のような事態がラスコーリニコフの身に生じたのである。作者はここで執拗に二つのことを強調している。一つは「唯一無二ともいうべき場合」と言い、「彼の気分がああした状態になっていた」とあるように、夢から覚めたラスコーリニコフの特殊な精神状態である。夢では、彼は七歳の少年に戻っていた。その時、冷酷な百姓の仕打ちで殺された哀れな老馬のために流した少年の熱い涙は、実は長い間心を苛む邪悪な空想によって抑圧されていたラスコーリニコフの良心の叫びであった。彼の心身を打ち砕くほどの激しい良心と命の逆襲であった。彼はそのショックのため一種の虚脱状態で夢から覚めたのである。作者が、「今こそ彼はああした魅から、魔法から、妖力から、悪魔の誘惑から解放されたのである」と書くように、彼はつかの間の解放感に酔った無防衛な心理状態にあった。
今一つは、老婆の唯一の同居人、リザヴェータとの偶然の出会いだ。
「ラスコーリニコフがふと彼女の姿を見た時、この邂逅にべつだんなんのふしぎもなかったにもかかわらず、とつぜんある深い驚愕に似た奇妙な感じが彼の全幅を領したのである」
この一文は重要である。ラスコーリニコフは実際は何を見たのか。ここにリザヴェータがいるという事は、今老婆は一人で部屋にいるはずだ。ラスコーリニコフが見ていたのは、リザヴェータの背後に部屋で一人たたずむ老婆の姿だった。幾日にも亘る内部闘争を生き抜いてきた魔性の人格は、完全には消滅しないで、じっと意識下で外部からの呼びかけを待っていたのだ。さらに明晩七時にはリザヴェータは必ずここ乾草広場にいるという偶然耳にした会話。その時老婆は一人になる。
作者は言う。いずれにしても、明日これこれの時刻に、陰謀の寝刃を向けられている当の老婆が、まったく一人ぼっちでいるという事を、すぐその前日この上なく確実に、一切の危険な質問や探索なしに突き止めるというのは、およそ困難なことに相違ない。
ほんの些細な偶然で、老婆を殺すべしという魔の指令が息を吹き返したのだ。「深い驚愕に似た奇妙な感じ」とは、彼の心に生き返った死神の不気味な感触だった。
以上の二点を考慮して、乾草広場のラスコーリニコフの身に何が起こったか考えてみよう。生々しい夢から目覚めた時、彼は両足で新しい大地にしっかりと立っていたのではなかった。片足はまだ古い世界に残したままの、いわば半覚半睡の状態であった。彼はその不安定な姿勢の虚を突かれたのである。即ち、当の老婆が明晩7時には独りで家にいるという偶然耳にした情報が、彼の心理的に不安定な状態の隙に乗じて、意識下に潜んでいた魔的な潜勢力に出口を与える力として働いたのである。ラスコーリニコフにとって、それは不意を衝かれた物理的な一撃であった。それは正常な心の働き、判断機能を一時的に麻痺状態にするほどの衝撃だった。彼はこんな結末を微塵も予想していなかった。悩み抜いた末に彼を待ち受けていたのは、意志による決断でも、恩寵による啓示でもなかった。恐ろしくも無意味な機械的衝撃であった。
彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋に入った。何一つ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただとつぜん、自分の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意思もない、すべてがふいに最後の決定をみたのだ、ということを直感した
ところが、まさにこのような意想外の事情の展開のために、ラスコーリニコフの人格の最良の部分が無傷のままで残されたのである。彼が藪の中で見た夢は、まさにその役割を果たしたのであった。夢で、ラスコーリニコフは、百姓ミコールカの身を借りて血を浴びて老婆を殺した。その生々しい殺人の記憶は、そのあまりの恐ろしさのために無意識の闇の中に沈没してしまったのだ。このため、今老婆を殺そうとして、ラスコーリニコフは、血を流す肝心の殺害行為を意識しない。彼の意識は、殺人行為を、良心の関わらない機械的行為として表象するだけだ。私たちはこのような経緯をしっかりと心に留めなければならない。
読 書
『カラマーゾフの兄弟論 砕かれし魂の記録』を読む
芦川進一著 河合文化教育研究所 2016.4.20
下原康子
私がはじめて最後まで読みきった研究書と言って過言ではありません。もちろん、すんなり入れたわけではなく、なぜ冒頭にリーザが?と戸惑ったのも事実です。でも、いつのまにか水門が開いていました。流れは穏やかに見えましたが、そこかしこに深い淵があり溺れそうになりました。渦巻きや急流にも遭遇しました。それでも泳ぎきることができました。そして今、聖書とイエスは遠い存在ではないし、これまでもずっとなじみがあったような気がしています。
イワン、リーザ、スメルジャコフの分析に目を見張りました。一番うれしかったのは、謎と混乱のイメージのまま遠ざかりつつあったイワンが、「ロシアの小僧っ子」として復活したことです。物語が始まる前の主人公から光をあてて考察する芦川さんの手法は清水正さんと共通したところがあります。熱っぽい空想の力にも似通ったものを感じました。
カラマーゾフを初めて読んだとき、「リーザは私だ」と感じたことを思い出しました。その後、他の登場人物に気をとられ、取り立ててリーザについては考えなくなりましたが、このたび新たな関係性に気づかされ、深い意味を伴って甦りました。思春期の、とりわけ問題を抱えた少女たちは少なからずリーザだと思います。そして、彼女たちの母親はホフラコワ夫人です。今の私は夫人に似ています。
もっとも驚いたのは、スメルジャコフとアリョーシャの関わりについての指摘です。唯一スメルジャコフだけはアリョーシャから落ちこぼれた人物ととらえていました。それはアリョーシャを貶めることになるのでいい気持ではありませんでした。だから、二人に接触があったという芦川さんの指摘は、びっくりすると同時にたいへんうれしいものでした。ドストエフスキーはあえて書かなかったりわざとわかりにくく書いたり、ややこしい仕掛けをするので、時には躓くこともあります。でも、全体として清々しい印象は何度読み返しても変わりません。これからもずっと読みつづけながら、イエスへの理解も深めていけたら、と思っています。半世紀かけて実現を見たこれまでにない試み、静かな文面からあふれる情熱に感動しました。
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