ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.95 発行:2006.3.30
「ドストエーフスキイの会ニュースレターNo.74」より転載
木下豊房氏「武田泰淳とドストエフスキー」を聴いて
ドストエーフスキイの会第172回例会・傍聴記
下原 敏彦
新年早々の例会だったが、本降りになった氷雨のためか出足は鈍かった。が、報告がはじまると、次第に席は埋まって盛会となった。報告者は、ドストエーフスキイの会発起人であり会代表者の木下豊房氏。論題は、日本の戦後派作家の1人、武田泰淳である。
木下氏はこれまで日本の作家について著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社)で二葉亭四迷、夏目漱石、萩原朔太郎、太宰治といった作家を取り上げている。が、戦後作家は、2003年、没後30周年を記念して『広場No.13』で椎名麟三をとりあげて以来である。 司会は目下、司馬遼太郎の歴史観で、多忙を極めている高橋誠一郎氏が駆けつけ務められた。
報告に先立って高橋氏が、新聞コピーを紹介された。二日前の朝日新聞(1月12日付)に掲載された「武田泰淳の日記を読む」の記事である。昨年9月に長女の武田花さんが武田泰淳の資料2200点(原稿・草稿6400枚、日記239枚、従軍手帳3冊…)を日本近代文学館に寄贈された。その中の「従軍手帖」と「上海時代の日記」を文芸評論家・川西政明氏が読まれ評されたものである。「苦しみの根源あらわに」と題された文は、戦場での殺人を告白した『審判』が主体となっていた。報告は、この作品を根幹とするものだったので、偶然とはいえ折りよい発表となった。
とはいえ武田泰淳は、ドストエフスキー読者には、馴染みのない作家である。その証拠に例会前「報告に備えてどんな作品を読んだらよいか」といった声が多く聞かれた。武田泰淳というと、『ひかりごけ』がよく知られている。難破船の遭難者たちが極限状況の中で人肉を食らう惨劇。映画にもなった暗く重い事件である。加えて学生時代、哲学を学び中国の文化や文学に造詣が深かったことから、一般的には重厚で観念的な作家のイメージが大きかった。
しかし、筆者は、この作家に対してまったく違う印象を抱いていた。武田泰淳と聞くと壮大な自然とロマン。そんなものを感じてしまうのである。例えば、壇一雄に『夕陽と拳銃』の伊達麟之介の雄姿を思い浮かべるように、武田泰淳といえば、『森と湖の祭』である。映画で高倉健演じるアイヌの一匹狼風森一太郎が北海道阿寒の原野に消えていくラストシーン。あの感動的場面は、いまもはっきりまぶたに残っている。
だが、木下氏が注目した武田泰淳は、そうした物語作家としての泰淳ではなかった。哲学でも中国古典でもなかった。氏が、武田泰淳をドストエフスキー作家として研究俎上にのせたのは、泰淳が戦場での体験を語った初期作品にあった。戦争という非日常のなかで(殺人も強姦も全てが許された場所で)「私」の無限なまでに広がる「創造的自我」の世界。氏は、そこにドストエフスキー作品の主人公たちの苦悩と葛藤を感じたようである。また、埴谷雄高の、「自分を含めて、椎名、武田の三人こそが、戦後文学の『ドストエフスキイ族』あるいは『派』(エコール)の代表との思い」や武田泰淳の作品に展開される殺人論が「ドストエフスキーの深い殺人論の延長線上」にあるとの指摘にも強く影響を受けたのではないかと推測する。
報告は、武田泰淳の年譜と23項目からなる資料が配布され、項目順にすすめられた。項目では、初期作品『審判』『秘密』『蝮のすえ』『「愛」のかたち』や晩年の『富士』がとりあげられ踏み越え場面の葛藤や「創造的自我」が紹介された。他にドストエフスキー作品に言及した小林秀雄、バフチンの記述や伊藤整の日本人の人間関係分析などもあった。作品抜粋は、主にラスコーリニコフの踏み越えを彷彿させる文節が多かった。たとえば『審判』の「…ひきがねを引けば私はもとの私ではなくなるのです。」や「私はゼロになることに気づいた」などである。他に小林秀雄のエッセイや『カラマーゾフの兄弟』における「私」のふかさ、ひろさについてもあげられた。「『私』はたんに一個の独立人ではなくて、複雑な社会の中に置かれてある、また広大な自然の中へ投げ出されている、奇妙な生物である」などである。
報告資料によると泰淳は、この崇高で深遠な「私」が、全登場人物であり、「全人類的なもの」だとしている。道端の小石から大宇宙まで同一原理で貫かれているという理念か。泰淳が「私」の殺人にこだわるのは、たとえそれが「個人的発砲」だったにせよ、殺人は、戦争、大量殺戮、そして人類「滅亡」へと拡大連鎖する――とのドストエフスキー的思惟を無意識に予見できたからに違いない。戦争体験が泰淳に、ラスコーリニコフの苦悩を体現させたといえる。
新聞記事によれば、泰淳が戦争の苦しみから脱することができたのは、友人が殺人の事実をただしたことで「自分の苦しさを理解してくれた」と思ったからで、それによって「泰淳が生涯背負った罪と罰はその時、清められた」とある。木下氏は、著書『ドストエフスキー その対話的世界』で作家の対話的人間観を論じているが、苦しみぬいた泰淳はまさにその「言葉なき対話」に救われたといえる。泰淳は、友人の「顔を見たまま肯定も否定もしなかった」長い沈黙のあと、ただ一言「そうか」とつぶやいただけだという。
報告は、泰淳の作品における踏み越え時の「私」を浮き彫りにするものだった。それによってドストエフスキー作品における「私」との関係性が照合的に提起されたといえる。また、言及はされなかったが「我−汝」の関係についても大いに想起されるものがあった。
質疑応答では、様々な感想、意見、見方がだされた。戦後派の「派」(エコール)の意味について、作家の殺人観、ジェノサイド(大量殺戮)などなどである。議論が集中したのは、泰淳自身が、はたして『審判』で描かれたような殺人を犯したかどうかについてだった。「私」は、真に体験者だったのか。あるいは「想像的自我」の産物か。『従軍手帖』を読んだ川西氏は、「この記述は戦場での殺人を告白した小説『審判』の記述と重なる」としている。
配布資料の年譜によれば、武田泰淳は昭和12年10月に召集されて中国に渡っている。七夕の盧溝橋事件を発端に今もって靖国問題で尾を引く長い戦争がはじまったのだ。真相はいまだ不明だが南京大虐殺があったとされる日本軍の南京攻略は12月13日からである。泰淳の部隊がどこにいたとしても、この時期、中国各地で激しい戦闘が起きていたのは事実である。はじめて戦争に接した、若き泰淳の心情はどんなものだったのか。
ルポタージュ文学の傑作といわれる石川達三の『生きている兵隊』は当時の兵隊をよく観察している。石川は中央公論特派員として昭和12年12月25日に東京を発ち13年1月5日に戦渦生々しい南京に入った。「町のなかにゴロゴロ死体がころがっていて、死の町という言葉がピッタリでした。はじめて目撃した戦場はショックでした」と回想している。12年9月に内閣報道部が設置され言論統制がとられたなかでの取材は、創作ルポとするしかなかったが、「あるがままの戦争の姿を知らせ」ようとしたと初版自序に記してある。この作品は、冒頭から中国青年の首を斬って河に投げ込む。母親の死を嘆き悲しむ娘を、その泣き声がうるさいと殺す、などなど兵士たちの殺人行為が日常事として描かれている。まさに「人間はどんなことにでも慣れる。どんなこともできる」のである。
泰淳が中国のK村で殺人を犯したかどうか。たとえ「従軍手帖」に記されていたとしても、今は神のみぞ知る。だが、「私」の殺人は、全中国、全アジアに広がり、そうして広島・長崎の都市を焦土と化した。映画「2001年、宇宙の旅」のはじまりは、アフリカの森を出た新しきヒトの殺人場面だった。あのあとヒトは、旧人たちを皆殺しにした。次にヒト同士殺し合いを始めた。そしてそれは、今現在もやむことがない。これは現実である。と、すればドストエフスキー族(今流ならチルドレン)たちの使命は見えてくる。彼らは、あの『おかしな男』となって、歩みはじめたのだ。埴谷も椎名もそれぞれの道を。泰淳は、踏み越える者への挑戦者として「私」を、つくりだした。人類救済への道は「創造的自我」にあると信じて・・・。
ともあれ、この報告から武田泰淳のふかいドストエフスキー観を知った。同時に、氏の研究テーマ「対話的世界」と「サストラダーニエ(憐憫)」を感じることができた。あらためて、まずは武田泰淳の作品を読まねばと思った。