ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.84  発行:2004.4.1



ブッシュと『真昼の決闘』 現代の中東問題に思う   

下原 敏彦

『弱い心』は今のアメリカとブッシュ大統領を彷彿する」読書会の帰りT氏の話である。良いと思ったことに突き進んで、いま発狂状態にある、というのである。たしかに純粋なる正義は狂気である。が、単純な目先の平和が正しい選択かというと、そうでもなさそうだ。第二次世界大戦前の英国のチェンバレン首相の例もある。 

なぜアメリカのイラク戦争は、混迷しているのか。様々な分析はあるだろう。が、ドストエフスキー的な見方で捉えれば、大統領の意識の振幅度が小さかったせいも知れない。彼には、地下室人間のような振幅度が必要だった。持ち合わせていたら事態は違っていたに違いない。(が、これもまた歴史の流れといえばそれまでである)

意識の振幅度の欠如は彼の父親にもあった。先のイラク戦争で親ブッシュは、多くの戦略家の意見を無視して、平和論のみを優先させ兵を引いた。独裁者は、チャンスのあるとき息の根を止めなければ、という鉄則を破った。その結果、招いた多くの勇気ある人々の無駄死に。ある者は細菌兵器で命を落とし、ある者は殴り殺され、ある者はライオンのエサとなった。歴史に「たら」「ねば」はないが、あのとき親ブッシュの意識が半端な平和論だけでなかったら、振幅度が大きかったら、と残念に思う。

10年の後、こんどは子ブッシュが絶対的正義論で戦い挑んだ。単純な正義は悪と表裏一体である。故に子ブッシュの正義は、一年の今、一転悪と叫ばれ非難されている。いつの時代でも大衆は無責任だ。勝利すれば英雄と崇め。失敗すれば犯罪者と罵る。いま子ブッシュは人間の愚かさ、無責任さ、身勝手さを改めて身にしみて感じているに違いない。(もともと人間には、そんなに沢山の反比例する意識があると考えてもみなかったかもしれないが・・・(笑))地下室人間からみれば、子ブッシュは実に単純な良い奴なのである。リーザのように全意識を集めて話さなければならないという心配がない。

映画『真昼の決闘』が好きだという子ブッシュは、イラク問題をこう考えていたのかも知れない。何年か前に捕まえた悪党が出所して、町に帰ってくる。(逮捕したとき殺しておけばよかったのだ)保安官は結婚して町を去るところだった。が、町の平和のために残って闘うことにした。しかし、町の人たちの反応は、冷たいものだった。素行のよくない若い保安官助手は、自分にバッチをくれれば協力すると迫る(まるでフランスのようでもある)。

結局、保安官は一人で悪党たちに挑む。が、婚約者(イギリス)が加勢し勝利する。二人の旅立ちにと馬車を用意する少年がいる。この少年が日本のようでおかしい。映画は、二人が去って終わる。感動の名作西部劇である。子ブッシュが、何度も涙して観たことは想像にかたくない。他の町で幸せな新婚生活をおくる保安官のところに、ある日、地下室男が訪ねて、こう話すことも知らずに。「悪党がいなくなって、あの町は混乱しています。みんなが殺し合いをはじめたんですよ」

ドストエフスキーは、シベリアにおいて人間の中にある限りない意識を知った。この世の中には微笑んでいる赤ん坊を平気で殺せる人間もいるのだ。そして、それは、極悪人でなくても、ごく平凡な心やさしい人にだってやってみせることができるのだ。

地下室人間なら、悩める子ブッシュに、こうささやくだろう。「人間という生き物は、百万単位で殺されないと、解放を望んだり、本当に助けを求めたりしないものだ。あなたの半端な民主主義がいたずらに混乱を招いているのだ」と。そして、こうもからかうだろう。「正義の衣を脱ぎ捨て、悪魔になりなさい。フセィンのときは、誰一人テロなど起こさなかったじゃありませんか」と。まさに悪魔の誘惑である。

歴史を振り返るとき、その言の確かさに慄然するしかない。この現実に対抗できるのは常に両極の意識の保持である。正義を行うものは常に悪を考え、平和を唱えるものは常に主戦をも念頭におかなければならない。

常に内なる相反する意識との対話。そこにドストエフスキーが示唆する人類救済への澪つくしがある。『カラマーゾフの兄弟』を愛読しているというローラ夫人が側にいながら大統領の意識の振幅度を広げ、地下男のささやきを聞かせることができなかったのは、悔やまれることである。まだ遅くはないが・・・。