ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.74 発行:2002.8.1


夢想作家とドストエフスキー
 群像7月号『ガードマン哀歌』に想う

下原 敏彦

近ごろ文芸雑誌を読まなくなった。べつに他意があってのことではない。老眼で本を読むのが億劫になった。もう文学青年ではないだろう。そんな理由もあるが、実際には、ただなんとなくである。なぜかいつのまに文芸雑誌は、興味の対象外の存在になっていた。

そんな筆者が、群像7月号を買い求めた。新聞の広告欄で、群像7月号の表紙に対談「ドストエフスキーと小林秀雄」の見出しを見つけたからである。なにか久しぶりにドストエフスキーの名前を見たようで、なつかしく思ったのだ。と、同時に「読書会通信」に使えぬものかと、現実的必要にも駆られて、さっそく駅前の書店に出向いた。

特集は秋山駿と山城むつみの対談だった。夜半、ぱらぱらとめくって拾い読みしていたが、偶然、ひらいたところに「ガードマン哀歌」と題した創作があった。30年も前に「オキナワの少年」で第66回芥川賞を受賞したM・H氏の作品だった。私は、対談記事を忘れて、この作品を読み耽った。マスメデイアの評者にも、この作品に興味を抱いた人がいた。
作家の関川夏央は、新聞の「文芸時評」でこの作家とこの作品についてこう評していた。

2002年(平成14年)6月26日 水曜日 朝日新聞(夕刊)から

ひさびさ東峰夫が小説を発表した(「ガードマン哀歌」群像7月号)
東峰夫は84年秋、沖縄に妻子を置いて東京に出た。一年間、就寝中の夢を作品化しつづけたが編集者の高評は得られなかった。85年、47歳でガードマンになった。道路工事の脇で車両や通行人を誘導する仕事である。
「あんたギャンブルでもやるのか?それとも酒か?サラ金か」。就職時検診のための千円がない、そう告げたときの採用係の反応だ。
「じつは自分の仕事は小説家なんです」<ぼく>はオメガの腕時計をはずして見せた。

(中略)「オキナワの少年」は72年1月、沖縄復帰のその年、李恢成の「砧を打つ女」とともに第66回芥川賞を受けた。記者会見に東峰夫は、脇の破けた作業着姿で出た。当時33歳、彼は日雇い生活者だった。もう沖縄は書きたくなかった。なのに出版社はもとめる。「トルストイを読みすぎて」高校を中退、基地に勤めたがじきにやめた。農業をしながらの晴耕雨読を夢想した。「山之口獏如うし、貧乏文士になゆる心算やあらぬな?」父親の疑いは図星だった。63年春に集団就職で上京するまでの物語『島へのさようなら』が受賞第一作だった。四年間沈黙ののち、「出版社との妥協の産物」と本人がいう『ちゅらかあぎ』を書いた。(中略)92年、復帰20年で新聞の長いインタビューを受け、復帰30年目の今年の小説である。(抜粋)

「ガードマン哀歌」は、沖縄に浮気妻と二人の子どもを残して逃げるように上京し、ガードマンをしながら小説を書く作家の話である。ほぼ実体験に沿ったものと想像できるから、いまどき珍しい私小説、葛西善蔵や嘉村磯多らが歩んだ、行き止まりの純文学。そんな印象も受ける。評者の作家関川夏央は、その変わらぬ文体と明るさに「文学とは人を不当に若くとどめるものなのか」と、半ば呆れ気味に評している。

こうした文学的感想ではないが、筆者もまたある感慨と興味をもってこの作品を読んだ。それは一つに、どこかにドストエフスキーが登場しないものか、またそれと思わせる個所はないものかというものだった。が、残念ながら筆者の読みではそれを感じ取ることができなかった。かわりに二十数年前の、あの日のことが鮮明によみがえっただけだった。

あの日、筆者はいつものように作家のM・Hの家を訪ねた。その頃、彼は小さな一軒屋の貸家に住んでいた。庭にはおしろい花が咲き乱れていた。残暑の日差しが強かったが、サッシ戸は閉め切ってカーテンも引かれたままであった。もうすぐ三時になろうというのに作家は、まだ眠っているようだった。あのことがあってから彼は、夢の中に実生活を求めるようになっていた。一日の大半を寝て過ごし、その間にみた夢をノートに書き綴るという奇妙な行為にとりつかれていた。つまり寝ても覚めても夢うつつ、というわけである。M・Hはなぜ、そんな状態になってしまったのか。彼の特異な性格にもよるが、「あのこと」があってから、いっそうその傾向が強くなった。そんな気がする。「あのこと」についてとは、ここでは紙面の都合により詳しくは省略するが、簡単に言えば同棲していた女性に逃げられたのである。(それも四年ぶりに出版した本の印税の大半を持ち逃げされた格好で)。が、今はドストエフスキーに関係する話をすることにする。

筆者は、サッシ戸を開けようとしたが、西日が強すぎるので玄関に回った。ドアに鍵はかかっていない。玄関に入るとペンキの臭いが鼻をついた。逃げた彼女が赤色が好きで部屋中、赤く塗ってあったので、彼が白色に塗り直していた。彼女が家具をすべてを持ち去ったので空き家のようだった。

「起きてます?」
私は、閉めきった襖に向かって声をかけた。ごそごそものおとがしてM・Hが顔をだした。
「きょうは早いね」M・Hは、そう言いつつ手にしていた本をちらっとみせてから、いきなり床の上に投げ出すとおびえたように言った。「こんな本、よく読めるねえ。これこわい本だよ。ぼくにはとても読めないよ」
筆者は困惑するしかなかった。半年ほど前だったか、作家はこの家で同棲をはじめた。で、筆者とも散歩する機会が少なくなったわけだが、(彼女が非常に嫉妬深かったので)ひさしぶりに会ったときドストエーフスキイの会に入ったことをを告げた。
「ドストエフスキーか。ドストエフスキーねえ・・・」
M・Hはなぜか不満そうにつぶやいた。

彼はトルストイを愛読書にしていた。それであまりいい気がしなかったのかもしれない。ほかに、そういった文学サークルに入ったのも気に入らなかったのかも知れない。彼は上京したころ、「首都文芸」という集りに顔をだしたことがある、と言った。アパートの狭い部屋の中で大勢の若者が議論していた。真ん中にでんと座って大声で怒鳴っている若者が怖くて、行かなくなったという。あとで、知るところによると、一人威張っていたのは中上健次らしいとのことだ。そんな経験があるので、文学関係の集りには批判的だった。
「そうですか・・・」
とまどう筆者に、彼はもうドストエフスキーなんぞ知らないというように「コーヒーを飲みにゆこうや」と、誘った。
「はあ」筆者は曖昧に頷いて、いつものように肩を並べてに街に出て行った。

そのあとM・Hとドストエフスキーの話をした記憶はない。ほどなくして、筆者はM・Hには、何も告げずにその町から引っ越した。突然の内緒の出奔は、どこか南の島の無人島で、みんなで共同生活することを夢みていた彼にはショックだったかも知れない。

その後のM・Hの生活は、メディアを通じて断片的に知った。相変わらず夢をメモっていること。混血の美人モデルと結婚したこと、そして沖縄に帰ったこと。故郷での平和な暮らし。ところがある日、「名作の旅」というテレビ番組で彼が東京近郊にいると知った。しばらく後に、彼は二人の子どもと妻を残して、沖縄から逃げ帰ってきたことを知った。なぜか、なぜ家族を捨ててと、そんな疑問と同時に、その後、ドストエフスキーを読んだろうか、そんな興味がわく。そうして、その一方で、かっての青春のときのように生きる彼を心のどこかで羨ましく思ったりするのである。