ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.73 発行:2002.5.31
高橋誠一郎氏「満州の幻影とペテルブルクの幻影」を聴いて
下原 敏彦
高橋誠一郎:司馬遼太郎のドストエフスキー観 満州の幻影とペテルブルクの幻影
第152回ドストエーフキイの会例会報告(5月18日)
これまでドストエフスキーは、洋の東西を問わず様々な作家と比較され、論じられてきた。日本でも、先ごろ私家版でだされた佐藤徹夫さんの『日本におけるドストエフスキー書誌』をご参照いただければ一目瞭然である。明治から現代に至るまで、実に多くの比較文学論がある。読書会の会員でも横尾さんが『村上春樹とドストエフスキー』をとりあげたし、最近では福井さんが『ドストエフスキーとポストモダン』で中上健次をあげている。
そのなかにあって、司馬遼太郎はこれまで(筆者の知る限りでは)ほとんど論じられたことがなかった。それだけに、この二人の作家の対比は、大いに興味がもてるところであった。報告は、前頁の資料抜粋でもみるように、実に緻密かつ簡潔であった。テロリズムからはじまった日本の欧化政策は、ロシアと同じように国民を犠牲にし、この地球さえ危うくして、二十世紀を終えた。まさにドストエフスキーの予見をばく進してきたのである。
そうして「ようやく、われわれは地球の緑をすべて守らなければいけない、切ったら必ず植えなければいけない、そして生態系を変えるような切り方はしてはいけない」に気づいた。この崇高な理念は、ドストエフスキーが目指した大地主義の到達点でもある。およそこのような結論を導き出した。報告者の狙いはドストエフスキーの文明観に、日本の失敗した近代史と現代の愁いを重ねた、日本、そして人類の再生論であった。
ドストエフスキーは、そのどろどろした濃密さ、混沌さで、どちらかといえば敬遠されがちの作家である。が、司馬遼太郎という作家によってろ過され透明度の高いものになった。文学論から文明論に踏み出した、これまでにない斬新な報告であったと思う。
だがしかし、報告後の質疑応答では、意外にも懐疑的意見がおおかった。「父親殺しと日本人批判の差異」、「大地主義にたいする解釈の違い」、「レトルトされた文明論への疑問」などなどである。史観においては無意味な、稚拙で無策な戦争と酷評されているノモンハン事件さえも、一種美学的に捉えた意見もでた。いずれにせよ質問者の多くが、ドストエフスキーと司馬遼太郎を並べて論ずることに同調できない、納得しがたい。そんな雰囲気だった。
なぜ、そんな現象が起きたのか。これはひとえに司馬遼太郎という作家にあったように思える。また、両者を文学の範疇でとらえてしまったところにも不幸があった。
というのも第151回の「トーマス・マン」に限らず、これが太宰や三島であったらと思う。おそらく何の支障もなく受け入れられていたに違いない。(これはあくまでも編集室での思いこみだが)、では、なぜ司馬遼太郎だと、ドストエフスキー読者は、無意識的に違和感をおぼえるのか。ひとつには司馬遼太郎を知らないということもある。(もちろん知名度のことではなく作品のことである)はたして参加者のなかに、何人、世に出ることになった司馬の処女作を知っているか、読んでいる人がいようか・・・。おそらく、いたとしてもごく僅かな人だとろうと推測する。翻って、司馬遼太郎の読者の集りにでたとしよう。そのなかでドストエフスキーをもちだしたとき、はたして何人の人がドストエフスキーの名や作品を知っていようか。「なぜ、われらの司馬遼太郎を、ネクラのわけのわからないロシアの作家と並べなければならないのか」冗談でなく、本当にこんな抗議を受けるかも知れない。
つまるところ、両作家の読者の間には、埋めがたい深い溝が存在するのだ。それだけに報告された両作家を繋ぐ考察は、貴重な一本橋といえる。
ここで今一度、一般的見地から司馬遼太郎を検証してみよう。まずは、この日本人に絶大の人気のある作家を知ることが先決である。
何年か前に京都に旅した折、幕末の志士である坂本竜馬の墓を詣でたことがある。花、記念品、落書き、墓はおびただしい参拝者の供え物で埋っていた。竜馬は多くの若者の心を捉えている。それは紛れもない事実である。そして、その竜馬を書いた司馬遼太郎も紛れもなく日本を代表する人物、作家なのだ(マスメディアによれば)。一般大衆はもとより若者、経済人、政治家の多くは司馬の熱烈なる読者である。思えば司馬の不幸はここにあるのかも知れない。司馬がどんなに愁いても、嘆いてもときの為政者や経済人は司馬を尊敬してやまなかった。司馬の作品に心を熱くし歴史談議にうっとりと聞き入った。私利私欲を批判し軽蔑する司馬の作品は、彼ら当人にとって寝心地のよい子守唄に過ぎなかった。
誤解されることには、ドストエフスキーも同様といえる。あるときは極右に、あるときはツアー殺しの下手人に、あるときは共産主義国家の敵として、手先として(嘘のような話ではあるが、そんな人もいるのだ)非難され中傷され怪しまれてきた。死刑判決と、戦車での戦場体験。両作家の人生軌跡には、類似した点も多い。
だが、その作品内容は、まったく違ったものである。結局、それが、文学評において司馬とドストエフスキーの距離を限りなく隔てるものとなった。信長、秀吉という英雄を狙う名もなき忍者。第何回か忘れたが、直木賞を受賞した『梟の城』。司馬はこの作品で作家としてスタートした。全直木賞受賞作のなかでも秀逸な作品(編集室評)。この作品で司馬は、英雄や国家、組織に刃向かう一人の人間を描いた。が、このあと作品内容は大きく軌道変更される。司馬の本領は歴史の英雄を描くことで発揮されていく。人を集め、組織を結成し、国を動かしていく人間たち。そんな特殊な非凡人たちを好んで書くようになった。「歴史を変える」「天下を取る」「国事に奔走する」などなど作品のなかで主人公たちは、いたるところでこのような大言壮語をはいている。そうして、実際に人を動かし、組織を操り、名を馳せ、屍を築き確実に歴史の上にその名を刻んでいる。
ドストエフスキーの作品は、まったくの逆である。英雄中の英雄ナポレオンになりたい。そんな誇大妄想的な夢を抱きながらも、ペテルブルクの酒場でのたうち、極寒のシベリアでさえも結論に迷う青年を描ききった。そうして、崇高な理想を掲げながらも組織づくりに挫折していく若者たちの姿も。そこにあるのは英雄とはほど遠い人間の惨めさ、くだらなさ、美しさだ。ドストエフスキーは訴える。世界を救うのは権力でも、英雄でもない。名もなき人間たちがいるからこそ暮らしがあり歴史はあるのだと。
英雄伝説を書きつづけた司馬遼太郎。英雄とは無縁の民衆を書きつづけたドストエフスキー。あまりにも相反する物語に読者は、自ずから選択を迫られ乖離するしかなかった。と、すればドストエーフスキイの会での報告は報告者にとってずいぶん分の悪い立場であったといえる。だが、それは「一粒の麦」たりえたかも知れない。少なくとも司馬遼太郎という国民作家について、考えることになったことは確かである。
時間と枚数も心配になったので、途中ではあるがこのあたりで、しめくくりたい。英雄伝説を書き続けてきた司馬だったが最後にたどりついたのは、名もなき船頭の物語だった。リコルド船長やゴロヴニンが書いていなかったら、到底、歴史の上に浮かんでくる人間ではなかった。なぜ、司馬は名もなき船頭を描いたのか。司馬は、気づいたに違いない。描いてきた英雄たちの2×2=4、それは所詮、人類初の原爆被害国家になることであったと。
たとえ百人の英雄を束ねたとしても、彼らは一人の船頭と比べたら、なんたる矮小さだ。司馬はおそらく目の覚めるおもいで『菜の花の沖』を書いたのだろう。海岸線を彩る菜の花。ゆつたりと流れる時間。司馬の脳裏にラスコーリニコフが見た風景。アリョーシャが夢見た世界を思い描きながら・・・・。
いつだったか、ある大学で司馬遼太郎批判という講義を聴いたことがある。たしか色川大吉という社会か歴史学者だったと思う。「英雄が、立派に描かれすぎる」「いつも美女といい男が登場する」。『竜馬がゆく』がNHK大河ドラマになり、『坂の上の雲』も好調とメディアでは向かうところ敵なしだった司馬に弓ひいた最初の文化人だった。
英雄伝説は文明論に暗礁したのか。このとき頭に浮かんだのは、司馬が、はじめてその櫂をはるかなドストエーフスキイに向けて漕ぎ出そうとする光景だった。今回の報告を聴いてその光景が幻ではなかったような気がした。