ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.63 発行:2000.10


私はなぜ『貧しき人々』か

下原 敏彦

ドストエフスキーの読者のあいだでよく聞かれる質問がある。「作品のなかでどの作品が一番好きか?」という問である。別段、集計をとったわけではないが、一般的には『罪と罰』、二番目当たりに『白痴』か『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』、穴場で『地下室の手記』『分身』といった作品だろうか。『貧しき人々』をあげる人は、あまりいない。作家のなかでも、見当らない。かなり昔になるが、宮本百合子が一番にあげていたような気がするが(定かではないが彼女の作品に『貧しき人々の群』がある)。とにかく名作ぞろいのドストエフスキー文学である。それも、たいていの作家が竜頭蛇尾に終わるところをドストエフスキー作品はますますに磨きがかかっていく。それだけに処女作を一番にあげるのは難しいところだ。他の作品が量、質、物語性ともにあまりに大き過ぎる。

しかし、私にとって『貧しき人々』は、なにはともあれ一番に掲げなければならない作品なのである。比類なき面白さに夢中になった『罪と罰』、鬼気迫る情景が脳裏から離れなかった『白痴』、暗澹たる気持ちになりながらも読まずにはいられなかった『悪霊』。そして、人間のすばらしさも愚かさも混濁として流れてゆく大河『カラマーゾフの兄弟』。いずれの作品も捨てがたい。が、それでも私は『貧しき人々』なのだ。なぜか。

ドストエフスキー作品をどんなきっかけで読むことになったのか。これも人それぞれの出会いがあると思う。「偶然、手にした」「人に教わった」「学問の為にたまたまとりあげた」などなどさまざまな動機があるに違いない。なかには「叱られて」といったこんな変わり種もある。余談になるがちょっと紹介したい。読書会の会員の方で若い頃、学生運動で成田闘争に関わっていた人の話である。闘争運動が激しかった当時、成田周辺は警戒が相当に厳しく、空港内にはなかなか入れなかったらしい。唯一の侵入できる手段は、空港内で働く人たちの送迎バスだった。そこで、彼は従業員になりすまして、新宿駅西口からバスに乗り込んだという。だが、すぐに売店で働くオバちゃんに見破られ大声で一喝された。「ドストエフスキーを読みなさい!!」。彼は雷に打たれた気持ちだったという。

私の場合、こんなに劇的でも衝撃的でもない。私はすこぶるシンプルな方法でドストエフスキーを知り、『貧しき人々』を読むことになった。きっかけは、椎名麟三だった。たしか「重き流れのなか」か「深夜の酒宴」の文庫本を読んでいた。なぜ椎名麟三かというと、これもよくわからない。たぶんそのころ石川達三をよく読んでいたので、ついでにといったところかも知れない。が、椎名文学は、私に不思議な感覚を味わわせてくれた。私はこんな作品を書いた作家自身に興味を抱いた。それでこれまで「あとがき」など読んだことがないのに、はじめて読んでみたのだ。そして、作家がドストエフスキーというロシアの文豪を崇拝していることを知った。が、ただそれだけだった。そのことはなんの動機にもならなかった。むしろ、なんだロシアかぶれの作家だったのかという落胆の方が大きかった。

だが、次の瞬間私の関心を引き寄せたのは、文豪の処女作に関する解説だった。ネクラーソフという詩人で出版人が10ページ読むとやめられず、一気に読み、興奮のあまり作者に会いに行った、というくだりであ。この世に、そんなそんな文学作品があるのだろうか。まず最初に浮かんだのはその疑問だった。自慢ではないが血沸き、肉踊る面白い冒険小説なら、何冊も読んできた。しかし、作者に会ってみたいとまでは思わなかった。ネクラーソフという人は本当に面白かったのだろうか。椎名文学はすっかり忘れたて、その疑問だけがひろがった。ある日、眉唾を承知で『貧しき人々』読んだ。なんの変哲もない書簡小説。だが、一字一句読み進むのが惜しかった。これほど面白い本に出会ったことがなかった。