ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.145 発行:2014.8.12
佐世保高1女子同級生殺害事件に想う
下原 敏彦
どんな人間にも善と悪が棲んでいる。が、たいていの場合、悪は、心の奥深くに眠っていて、眼を覚ますことはない。(前号に掲載した「一家5人殺害」の犯人のようにある日、突然、起き上がって行動に走る場合もあるが)たいていは、その肉体が消滅するまで心の奥底で眠りつづけて終わるのだが…。
しかし、ときには、ふっと気まぐれに目を覚ますことがある。悪魔は、心の底から這いだし、まるでペテルブルグの、あの学生が「アレ」にとり憑かれたように、毎日を「アレ」だけを考えて過ごす。そうして、最後に最終目標である「アレ」を実行する。
「佐世保高1女子殺害」のニュースを聞いたとき、最初、頭に浮かんだのは、恐ろしいあの事件のことだった。「透明な存在」という名の悪魔の犯行。
あの事件とは、「透明な存在」とは何か。18年前、1997年5月18日に発覚した神戸連続児童殺傷事件のことである。日本中を震撼させた一大猟奇事件として、いまも記憶に新しい。事件の推移は、凡そこんなだった。春、14歳になる中学三年の男子生徒が、公園で小学女子児童2名に「水道はありませんか」と声をかけ、案内しようとした二人を背後から襲って殺傷した。すぐに解決するかと思われた殺人と殺人未遂事件だったが、なぜか犯人はわからず2カ月が過ぎた。そして、あの日が――。犯人は、同級生の弟で親しかった障害のある男子幼児を言葉巧みに通称タンク山におびき出して殺害した。そして、その頭部を早朝の校門前に置いて、警察に挑戦状を出した。
あまりに残虐で残酷な犯行に、日本中が戦慄した。少年Aの殺人動機は「人を殺してみたかった」、そんな欲望の渇きにかられての犯行と自供した。そして、その心境を詩で現した。
「懲役13年」という詩がそれだ。そこには謝罪はむろん、反省も悔いもない。
その存在は「止めようもないものはとめられぬ」
その存在は「とうてい、反論すれこそ抵抗できようはずもない」
その存在は「あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているかのように俺を操る」
すべては、この「透明な存在」のせいだというのだ。透明という目に見えない悪魔。真実か、空想か、創作か。その存在に注意が注がれることはなかった。そして、事件は、知る限り、膨大な調査資料はあるにしろ、なんの解決もなく過去に遠ざかってしまった。少年Aも、すでに社会に出て人知れず生活している。あの「透明な存在」とは、いったい何だったのか。真の存在者?それとも、まったくの空想物か。神のみぞ知る、である。
佐世保の高1女子は、いつのころから、「アレ」の観念に取り憑かれたのか。内なる悪魔を目覚めさせてしまったのか。報道によると、地方都市の裕福な家庭に生まれ育ったとある。父、母とも一流大卒で町の有力者、兄は有名私大、彼女は文武両道に優れ、音楽、絵画にも才能の片鱗をみせていたという。だが、彼女が日頃、考えていたのは「アレ」だった。「止めようもない」もの。多くの人が気づいていた。が、止めることはできなかった。
父親は、こんな謝罪文を発表した。「複数の病院の御助言に従いながら、私たちでできる最大限のことをしてまいりましたが」、総て人頼みだった。
ドストエフスキーもまた、ある時期「透明な存在」の同族に支配された人間だった。彼の場合、幸いにも「アレ」は殺人ではなかった。彼の「アレ」はルーレット賭博だった。作家の「アレ」は、なぜ消滅したのか。いまもって謎だが、アンナ夫人の観察力と想像する。「透明な存在」の弱点。それは、常に観察されることだ。観察者の、強い意志と理解。佐世保の父親には、それがなかったようだ。犠牲者に合掌