ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No131 発行:2012.4.20



桜井厚二氏「現代ロシア新聞で言及されたドストエフスキー」を聞いて

ドストエーフスキイの会
207回例会報告・傍聴記

下原 敏彦

今日、パソコン機能の発達やデータベースの整備でドストエフスキー情報は、迅速により多く知ることができるようになった。第207回例会の報告者・は、早くからIT分野に着目し「現代のドストエフスキー情報」の集約を試みてきた研究者である。

氏は、これまで1990年代の新聞から集めた『現代用語としての「ドストエフスキー」』(2000)や共著『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』(集英社、2007)の「現代用語としてのドストエフスキー」などを手掛けている。が、それらは、専ら現代日本の新聞とインターネット上からの情報であった。現代ロシアの新聞情報の紹介は、知る限りなかった。それ故に報告は、初の日本以外のドストエフスキー事情紹介という点で、画期的な発表だったといえる。ロシアの現代の新聞は、ドストエフスキーをどう報じているのか。知っているようで知らなかっただけに、大いに興味湧くものであった。

もっとも、ロシアについて知らないのは一人ドストエフスキーに限らない。例えば、先日の新聞にモスクワ支局員のこんな囲み記事があった。「どれだけ自分は、普通のロシア人の声に耳を傾け、彼らが抱える問題や思いを伝えてきたか」。ロシアで「日本製品は大人気だ。そうしたことを日本の知人に話すと驚かれる」(朝日新聞2012・2・8「記者有論」)近くて遠い国といえば北朝鮮の専売特許だが、上記の記事を読むとロシアもまたしかりである。ドストエフスキーについても実際のところ未知であった。それ故、一般市民が読む新聞からの集約は、現代ロシア人のドストエフスキー観を知る上で極めて重要なものがある。

氏は、集約対象として「イズヴェスチヤ」紙を選んだ。現代ロシアで最も平均的水準にある新聞ということが理由。対象年月を2010年としたのは、記事データベースの「一ヶ月限定試用版」(早稲田大学図書館が8−9月にかけて導 入していた)を2011年9月に利用した都合上、1月1日から12月31日まで、丸一年間分 の完全なデータを確保できるのは2010年までに限られたためとのこと。データベース上によると同年1月1日から12月31日までの1年間、文中に「ドストエフスキー」が記載された記事数は108件という。3日に1件のペースである。ちなみに日本では、2001年元旦〜2006年11月末まで朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞の大手4紙で633件(日経テレコン21のデーター「現代用語としてのドストエフスキー」)という。これをみると1年間1紙で108件はかなり頻繁といえる。この現象、日本と同じようにブームか、と思いきや、タネあかしはトルストイ没後100年の影響では、と推察された。

氏は記事を12項目に分類して、内容を分析しながら紹介した。項目順位は、恣意的とのこと。沢山の幅広い記事からだけに記憶に残った印象はこのようであった。ドの名前はフランスに関する記事のなかに多くみられた。大半は作家のサガンが読んでいた。政治家か俳優が『罪と罰』を口にした。「メグレ警視」の作者シムノンが幼少時代にドストエフスキーを愛読していた、といった類のものだった。豊富に例をあげられたのは、トルストイとの比較である。トルストイは常に「偉大な」という代名詞がつくが、ドストエフスキーは天才的・古典的といった総称。しかも単独で記事になることはあまりなく、チェーホフ、ゴーゴリたちロシア作家の一人として名を連ねることが多い。新聞が「平均的な水準」つまり大衆紙という性格からか、かなり砕けた登用もあった。作品名やシベリヤ流刑の影響からか、塀の中を体験した作家と呼ばれている。日本でいえば『塀の中の懲りない面々』を書いた安部譲二か。

『死の家の記録』からは、『網走番外地』的雰囲気が伝わってくる。(健さんのように恰好いいと思われているのか?!)それに賭博といえばドストエフスキー、ドストエフスキーといえば賭博。そんな連想が浸透しているという。現にペテルブルグには何と賭博クラブ「ドストエフスキー」という店があったという。観光ルートでは知り得ぬところか。いずれにせよ、時評文脈が多い日本のドストエフスキー観とは大分異なるようだ。項目のなかに「武道家とドストエフスキー」というのがあった。記事は、目下ドストエフスキー作品を読書中だというレスラーへのインタビュー。もう一つは、空手の心得のある彫刻家が、地下鉄でガラの悪そうな男たちに絡まれた時に読んでいたのが「作家の日記」だった、というもの。このような場合、日本だったら新聞は、レスラーと彫刻家を人間心理を探究する有識者として持ち上げるだろう。が、ロシア新聞の印象からは、伝わってこない。

いずれにせよ報告は、日本国内でのドストエフスキー評価しか知らないドストエフスキー読者にとっては、少なからずカルチャーショックを受けるものだった。そのせいか質疑応答も戸惑いがみられた。こんな体験者もいた。二人のロシア人と話をしたとき、トルストイやチェーホフの話まではよかったが、ドストエフスキーをもちだしたら、二人とも急に怒りだした。この話を聞いて、数年前だが私の知人がロシア大使館職員から聞いたドの話を思い出した。なぜか文豪を(女好き、賭博狂と)おとしめるものだったらしい。

今報告の現代ロシアの新聞紹介は、報道において日本とロシアのドストエフスキー観の違いであった。1991年のソ連邦崩壊から20余年だが、いまだロシアでは、ドストエフスキーは反革命作家のまま、そんな印象を得た。最後に、そうした新聞の記事事情について報告者の桜井氏は「『悪霊』を書いた作家ということが起因しているのでは」と結んだ。いろいろなことを考えさせられた報告だった。