ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No123 発行:2010.12.16


熊谷元一先生と四足のわらじ
 

下原 敏彦

去る11月6日、ある写真家が亡くなった。101歳だった。岩波写真文庫『一年生』で写真界に金字塔をたてた熊谷元一である。熊谷は、1938年、朝日新聞社『会地村』の刊行を皮切りに写真活動を開始。アマチュア写真家ながら高い評価を得てきた。とくに1955年の第一回毎日写真賞では、土門拳、木村伊衛兵といった名だたる写真家候補をおさえての受賞は伝説となっている。生涯一教員だったが、日本の写真家40人に堂々名を連ねる鬼才である。他の主な写真集『なつかしの一年生』(河出書房)、『写しつづけて69年』など。童画『二ほんの柿の木』は30年間で100万部のロングセラーとなっている。

以下は、地元紙に掲載された追悼文です。
 
熊谷元一先生と四足のわらじ  
南信州新聞(2010年12月1日)

熊谷先生は、ご自分の人生を「三足のわらじを履いた人生」にたとえられていた。三足とは、童画家、写真家、教師の人生である。昭和28年、村の小学校に入学した私たち一年生は、幸運にもこの三足の恩恵を受けることができた。

童画家としての先生からは、自由に描く楽しさを教わった。先生の絵画指導で、多くの子が賞状を手にする栄誉を得た。私もその一人だった。新聞社が主催した「第一回版画コンクール」では、共同制作の作品紙版画「どうぶつえん」が全国第一位になった。写真家としての先生からは、貧しかった時代にあって、本当に多くの写真を残していただいた。1955年出版の岩波写真文庫『一年生』は、ひろく世に知られ私たちの一生の宝物となった。

教師としての先生からは、人生の糧となることを学んだ。叱るより褒める教育だった。「ほう、面白いじゃないか」寡黙だが、その一言に自信がもてた。先生の教育は学校に止まらなかった。退職後の人生そのものが教育だった。一つのことをつづけること、観察することの大切さ。いくつになっても目標を持つことの大事さ。継続は力、その実践教育は、還暦を過ぎた今日まで、私たちを励まし、勇気と希望を与えてくれた。

今年の夏だった。記念文集『還暦になった一年生』の刊行を終えほっとしていると、先生から電話があった。「おもしれいことを思いついたんだ」先生は、うれしそうにおっしゃつた。なんと、またしても新しい写真集の企画が浮かんだというのだ。101歳を過ぎたというのに、尽きぬ興味と意欲に驚いた。周囲の人たちの困惑を思って苦笑した。が、なにか新しい力をもらったようで元気がわいた。「はい、手伝います!」私は、思わず返事した。

思えば、それが先生との会話の最後になった。先生の訃報を知ったのは病院のベッドの上だった。脊椎手術で身動き不自由な体だった。葬儀の日、無念な思いで病室の窓の秋空をながめたていたら、重大なことを思いだした。先生との約束である。先の貞子奥様の葬儀のとき、先生から「わしの葬式のときバンザイで送ってくれ」と頼まれた。皆には断られたらしい。「おまえさんが是非やってくれ」ユーモアのある先生だが冗談は言わない。私は、笑ってあいまいにうなずくほかなかった。だれかやってくれただろうか。葬儀が終わる時刻、私は、天高くひろがる西空に、小さくバンザイを告げた。

後日、先生の最期の言葉を伝え聞いた。見舞った曾孫さんに「わしはいくつだ」と尋ね「101さいだよ」といわれて「そうか、そんなに生きたのか」と、しみじみつぶやかれたという。先生は三足のわらじの他に、人を楽しませる、思いやるわらじも履いていた。先生は四足のわらじを履いていたのだ。

退院の日、小春日和の日差しの中で、ふとそんなことを想った。そうして、四足のわらじに改めて感謝したい気持ちになった。
先生、本当にありがとうございました。