下原敏彦の著作
ドストエフスキー曼荼羅 5号 2015(編集発行人 清水正)
『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜
―ロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作―
もうだいぶ前になるが、大学時代の友人から古いノートが送られてきた。かなりの年代もので、ロシア文字がびっしり書かれていた。私がロシアの文豪ドストエフスキー作品の愛読者ということで送ってくれたようだ。ノートに添えて簡単な手紙も入っていた。
「このノートは、先の阪神淡路大地震のとき、崩れた土蔵から見つかった。外国製の古い鞄のなかにあったらしい。両親が、倉庫に保管していたが、最近、終活の片づけをはじめて、始末に困って私のところに送ってよこした。私も困った。が、きみが、ロシア文学をやるというのを思いだして―ちなみに実家は、明治のころまで神戸で旅館をしていたらしい。一九一七年のロシア革命で大勢のロシア人が革命政府を嫌って逃げてきた。神戸に滞在してアメリカや南米に旅立っていったとの話。鞄は、その時の客のものだったようだ。忘れていったか、持ち切れず置いていったか、定かではない。が、一緒にはいっていたのが、地図やパンフレッドなど紙クズ同然のものだったところからみると捨てていったのかも知れない。云々」こんな説明だった。
私は、ロシア文学を愛読しているが、ロシア語はやらない。それで机の奥に仕舞ったままになっていた。が、先日、急に思いだしてロシア語翻訳をやる知人のところに持っていった。なにしろ紙質が、かなり古い。もしかして、骨董価値があるのではと想像したのだ。一週間後、訪ねると知人は苦笑しながらノートを返しながら言った。
「書いてあったのは、何編かの小説の草稿のようなもの―要するに創作を目的とした資料の寄せ集め、そんなようなものだね。確かにノートの品質は旧いことはふるい。十九世紀の帝政時代かも知れない。が、内容は翻訳するほどの価値はないと思うよ。本人は作家にでもなりたかったかも知れんが、なにせ未完でとりとめがない」
「そうかい、惜しかった。近頃テレビで流行りの何でも鑑定団にだそうかと思ったのに」
私は、冗談のつもりで言った。が、本当に残念そうにみえたらしい。知人は、慰めのつもりか
「そういえば一つドストエフスキーに関係する話もあったが」と、言った。
「えっ、評論か」
「いや、創作のようなものだが、資料の写しと、それに対するコメントをただ並べただけで、内容も、かなり荒唐無稽のようだ…」
知人は、ノートをぱらぱらとめくって、そのあたりを指差して言った。
「ここに例の事件のことが書かれている。が、裁判記録の引用ばかりで、小説の体を成していない。三文小説にもなっていない、まったくの雑文さ」
「例の事件というと、ペトラシェフスキー事件のことかい」私は、聞いた。
「そのようだ」
「そこだけでも訳してくれないか」私は、改めて頼んだ。第二のデカブリストの乱ともいえるペトラシェフスキー事件は、謎の多い事件だけに(ドストエフスキーの愛読者としては)興味あるところだ。
「かまわないが、時間の無駄だぜ」知人は、失笑しながら引き受けてくれた。その翻訳話がこれである。
確かに資料の寄せ集めだが、想像すると、突飛だが一つの物語になる。空想か真実か…とにかく話の真相はともかく、遠い昔の人が書いたのは確かなようだ。
推測するに鞄の持ち主は、おそらく書いた人の子どもか孫で、革命が起こり大あわてで家にあったものを鞄に詰め込み逃げてきたのだろう。書いた人物は、一つの物語を創ろうと材料集めして、骨組をたてた。が、何らかの理由で仕あげることができなかった。名作の草稿ならともかく、まったく無名の人の草稿では、紙クズ同然のしろものだ。しかし、切れ切れだが読んでみると、書いた本人とドストエフスキー作品を愛読する私の気持ちと重なるところがあった。それ故、せっかくなので本誌で公表することにした。本誌発行者には、掲載を許可していただき、ご厚意に感謝するしだいである。
※デカブリストの乱=一八二五年十二月十四日、ロシアの首都ペテルブルグでで青年将校と貴族が専制政治打倒と農奴制の廃止訴え兵士三千人を率いていっせいに蜂起した。彼らは元元老院前広場を占拠、首都総督と司令官を射殺した。が、皇帝ニコライ一世によって武力で砲撃戦の末、鎮圧された。首謀者逮捕。五人が絞首刑、一二一人がシベリア流刑。
1849年12月22日のことを記す 皇帝官房五課所属文書係第六等官S.T.
一、セミョーノフ練兵場
早朝の兵舎の屋根に降り積もった純白の雪が朝の光にまぶしい。昨夜の吹雪はすっかりやんで、オブヴォードヌイ運河に接するセミョーノフ練兵場の上には真っ青な大空がひろがっていた。いつもの朝がはじまろうとしていた。が、地上の光景はいつもの朝とは違っていた。張りつめた凍てついた空気は、同じだが、そのなかに湯気が沸き立っていた。それもそのはず、いつもなら人っ子一人いない練兵場の広場は、早朝にもかかわらず黒山の人だかりだった。数千人の人間が広場の処刑台を取り囲んでいた。処刑台の前に一定間隔で立ち並ぶ兵士は、俸杭のように微動だにしない。が、それを囲む群衆は、広場周辺から運河通りまで立錐の余地がないほど埋め尽くしていた。皆、この朝行なわれる公開処刑を見物にきた人々である。なにしろ、一時に二十一名もの国事犯の男たちが銃殺刑に処せられる。全員が国家転覆を狙った重犯罪人である。いわゆる政治犯、思想犯だ。それだけになかには著名人、身分の高い者もいる。―ということで、見物人のなかには、悲しみ祈るものもあった。が、ほとんどは物見遊山のヤジ馬だった。その顔は、評判の芝居でも観劇にでもきたような、物珍しい見せ物を見にきたような、一種興奮と期待と興味に満ちあふれていた。だれしもが囚人が到着し、処刑がはじまるのを待ちわびていた。
私は、一人群衆のなかにいた。人々の熱気と喧騒が高まるのとは反対に私の気持ちは、絶望の淵に転がっていた。ゆっくりと、だが、徐々に加速をつけて。刑執行が時間通りなら、あと三十五分。普段なら朝食をゆったりとれる時間だ。が、今朝は、1分がたちまちのうちに過ぎていく。なんと短く思われることよ。ほんとうに本当に刑は執行されるのか…。運河の方の人混みで、どっと歓声のような声があがった。群衆が湖面の水のように動いて、左右に分かれた。開かれた路上に馬車の音が響いた。白い幌馬車が見えた。馬から息が白い蒸気となって立ち上っている。ついに囚人が着いたのだ。とたんゆっくりだった時間が、秒針の音が聞こえるほどに速く動きだした。ヤジ馬たちは、より近づこうと居並ぶ兵士たちの前に浪のように押し寄せた。私は、遠くだったが見張り台の階段の踊り場を確保できた。そこも人で溢れていたが、処刑台がよく見えた。幌馬車から次々囚人たちがおろされている。皆、頭から白い頭巾をかぶせられていて異様な光景だった。最初に処刑台に上った囚人が、首を振って頭巾をとった。まだ二十代らしき青年だった。彼は、目前に迫った死の恐怖から呆然として、虚ろに視線を漂わせていた。次の囚人は、神経が麻痺しているのか何やら堂々としていた。
「やや、あれが親玉か」
「髭は立派だが、まだ若いという話だ」
見物人のあいだでこんな会話があった。
突然、後ろの方から、
「ウランゲル君、どの人がドストエフスキーさんか」
こんな声が聞こえた。
私は、振り返って声の主をみた。大学生のような若者二人、背伸びしてながめながら話していた。
「あの人ではないか、右から二人目の――一度きり新聞で写真を見ただけだが」
「ずいぶん憔悴してるな」
「なにせ八カ月も牢獄にいたんだ」
「ああ、あたら才能を散らしてしまうのか」
「皇帝も無慈悲だな」
「しっ、声が大きい、一味とおもわれるぞ」
二人は、口をつぐんだ。
あの二人も読者に違いない。私は、そんなことを考えながら処刑台の下に並んだ多勢の囚人に目をやって彼らがいう『貧しき人々』の作者を探した。が、死刑執行が近いのか、囚人たちは、ふたたび頭巾をかぶせられた。それで、もう誰がフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーかわからなくなった。幌馬車から最後の囚人が下りて、広場は興奮のるつぼと化した。
ついにとうとう、この日がきてしまった。なんとしても、あの作家を救いたい。その思いで心を痛めた二カ月だったが…一官吏の身、それもしがない文書課の五等官の私が出来る限りのことは全て尽くした。残り少ない人生をも賭けた。しかし、今日と言う日を迎えたことで、すべてが水泡に帰してしまった。『貧しき人々』の作者が、これから処刑されてしまうと思うと私は無力感に襲われた。なんとしても作者を死なせてはならない。なぜなら、私は、この作品は世界文学に匹敵すると信じてやまないからだ。この作者は、ゲーテや、バルザック、シェクスピアにだって勝るとも劣らない文豪に成るかもしれない。しかし、それも叶わぬ夢となった。最善を尽くした。が、ニコライ一世(1796-1855)皇帝閣下からは、理解も慈悲も得られなかった。あの作品をもってしても、皇帝陛下の心を変えることはできなかった。もうすぐ処刑がはじまる。迫りくる緊張と喧騒。私は、張りつめ凍てついた空気のなかで、俸杭のように佇んで八カ月前の、あの日のことを思い出していた。
※ウランゲルは、後に県知事となり、ドストエフスキーと一生親交があった。
※ドストエフスキーはこのときの恐怖体験を兄ミハイルにこう書いている。
「今日、ぼくらはセミョーノフスキイ連隊の練兵場へ引かれてい行きました。そこでぼくら一同は死刑の宣告を読みあげられ、十字架に接吻させられ、頭の上で剣が折られ、ぼくらは死装束(白いシャツ)を着せられました。それから、三人のものが刑の執行のため柱のそばへ立たされました。三人ずつ呼び出されるのですから、したがってぼくは二番目の番にあたっており、余命一分以上もなかったわけです。」(書簡十二月二十二日付け米川訳)
二、前夜の憲兵隊本部
四月二十二日。この日のペテルブルグは、いつもと変わらぬ晩春の日だった。近頃、ロシア各地で暴動が勃発していたが、都は、たいした騒ぎもなく、この日も朝から穏やかだった。私が勤める皇帝直属第五課も何事もなかった。すべてが平和な一日だった。だが、一つだけ平時と違うことがあった。終業間際になって、第一局皇帝直属官房第三課のナバーコフ少尉が、突然、五課にやってきて「全員待機」と、告げた。憲兵隊本部からの突然の命令や通達は、珍しいことではなかった。が、いま思えばいつもと比べ少尉はいくぶん興奮気味であった。頬が引きつっていた。
「なにかあったんですか」六等文官のシュマーコフがたずねた。が、少尉は
「極秘であります」を繰り返すばかりだった。当然の返答である。
少尉は、伝達が過ぎるとさっさと帰っていってしまった。
「なんだろう」
シュマーコフ六等官は、三課がある本部に偵察に行った。が、すぐに不満げに帰ってきた。
「三課は関係者以外は立ち入り禁止になっている。かん口令がでている」
よほど大きなヤマがある。このころになると文書五課の私たちにもこれから何か重大事が起きる。そんな予感があった。異常事態を察知できた。が、それがなんであるか見当つかなかった。
しかし、憲兵隊本部も秘密警察がある第三課は表面上、なんら変わることはなかった。別棟の皇帝直属官房への人の出入りが若干多かった。気になるといえばそれぐらいだった。夜までには、帰宅できる、五課の官吏は皆そう思っていた。
だが、待機は解除さず白夜の夜に突入した。時間が経過するにつれ憲兵隊本部は、にわかに物々しい雰囲気になった。人の動きが速くなった。空色の制服を着た警察隊が続々到着してきた。もはや疑う余地はなかった。あきらかに大きなヤマがある。夜になると広場は空色の制服姿の警察隊で埋め尽くされた。 第一局皇帝直属官房第三課の連中の指導のもと警察隊は、何班に分けられた。このころになると第五課にもわかってきた。「国事犯逮捕」があるのだ。書物ヲ警察隊の人数からみて、かなり大がかりな捕りものが予想された。緊張のまま、午前二時、行動がはじまった。数名に小分けされた警察隊は各憲兵隊長を先陣に白夜の夜に散っていった。なにやら騒々しくなっていった。空色の制服を着た警察官が、数名のグループごとに整列し、三課の大尉や少尉から指令されていた。皆、表情が能面のように固まっていた。かなり緊張している感がある。なにか大きなヤマがある。文書課にいた誰の目にも、わかった。聞けば一課、二課にも同じ通達がだされたとのことだ。ますますもって文官にはわからない、大きな出来ごとが起こるのか。第二のデカブリストの乱でも起きそうなのか。
時刻が零時を回り、翌日になったころから、憲兵隊本部の建物は、にわかに騒々しくなった。これから大捕りものがはじまる。だれの目にも、それは予想できた。各班ごとに白夜のペテルブルグの街にでていった。むろん私には知る由もなかったが、この日、秘密警察第三課は、内偵していた国家転覆を謀る一味を警察の協力を得て一網打尽にする計画を実行したのだ。
「さあ、お婆さん、ユーリイの日が来たよ」逮捕に向かう警察隊を見送っていた官吏の誰かが言った。私は、はっとした。その言葉はロシアでは、さあたいへんなことが起こったという意味の諺だった。本当に大変な日になる。私は鳥肌がたつのを覚えた。
※この日、憲兵隊長オルロフのペトラシェフスキー事件報告書に与えられたニコライ一世の裁可は次の文書であった。
読了シ思料スルニ重大事ナリ。僅カ一語ト難モ妄語コレ有レバ最モ悪ニシテ許スベカラズ。汝ノ考量スルトコロニ従イ捕縛ヲ決行スベシ。タダシ一味捕縛ニ要スル人員多数ナレバ風評ノヒロマルヲ警戒スベシ…成功ヲ祈ル神ノ御旨ノ成ランコトヲ !
まさしく本日天気晴朗なり、浪高し。皇国の命運ここにあり !
三、未明の大捕もの
長らく隠されていた三課の秘密指令は、ついに発動された。待機していた各警察隊は、堰を切ったように、どっと白夜のペテルブルグの街に流れ出ていった。各分隊の獲物に向かって。時は四月二十三日、夜明け前、未明の頃であった。各警察隊は、それぞれの目的地に向かって歩を速めていた。サンクトペテルブルグ憲兵隊チュデルノフ少佐率いる一隊は、マーラヤ・モールスカヤ街ヴォズネセンスキイ大通り角を目指していた。そこに一味のなかでも「最重要人物ノ一人」とされる容疑者の住まいがあった。少佐は、侍従武官オルローフから与えられた秘密指令状を携えていた。
サンクトペテルブルグ第一局皇帝直属官房第三課 秘第675号 (1849年4月22日)
勅命ニ依リ貴官にニ命ズ。明朝四時「マーラヤ・モールスカヤ街ヴォズネセンスキイ大通リ角、シーリ持家三階ブレメル貸室、退役工兵中尉・現在著述家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーヲ検挙シ、其ノ有スル全テノ書類並ビニ書物ヲ封印シ其等ヲ「ドストエフスキー」ノ身柄ト共ニ皇帝閣下直属官房第三課ヘ提出スベシ。其ノ際貴官ハ「ドストエフスキー」ノ文書ガ一部タリトモ隠蔽サレルコトナキヨウ厳重ニ監視スベシ。
「ドストエフスキー」ノ有スル書類並ビニ書物多数ノ為、直ニ第三課ヘ提出スル能ハザル場合ハ之ヲ必要ニ応ジ一或ヒハ二室ニ集メ置キ其ノ室ヲ閉鎖封印シタル上「ドストエフスキー」当人ヲ直ニ第三課ニ出頭セシムベシ。
「ドストエフスキー」ノ書類並ビニ書物ヲ封印セム際彼ガ其等ノ一部分ヲ他者ノ所有ニ属スルモノナリト申立ツルトモ、其レガ何人デアレ、其ノ申立ヲ顧慮セズ同様ニ封印スベシ。
貴官ハ託サレシ任務ニ直接責任ヲ持チ最モ敏活カツ慎重ニ任務ヲ遂行スベシ。
憲兵隊参謀長「ドゥペリト」中将ハ貴官ノ許ニ「ペテルブルグ」警察署警官一名及ビ必要数ノ憲兵ガ差遣サレルベク取計ラフ。
小隊は、大通り角にあるシーリ持家に着くと家主の婆さんをたたき起こし三階に案内させると、ブレメル貸室ドアの鍵を開けさせた。そしてドヤドヤと雪崩れ込んだ。目当ての容疑者は、外出から帰って寝いったばかりだった。彼らが逮捕者するのは、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー、二十七歳。新進の若い小説家だった。
逮捕時のことをドストエフスキーは、十年後に思いだしてこのように書いている。
四月の二十二日、というより二十三日(1849年)、わたしはグリゴリエフのところから夜中の三時すぎに家に帰って、ベッドにはいると、すぐ寝入ってしまった。一時間たつかたたないかに、わたしは夢うつつに、自分の部屋にだれかしら怪しげな、ふつうと違った人たちがはいって来るのに気づいた。サーベルの音が、がちゃりと響いた。不用意に何かにぶっけたものである。なんというふしぎなことだ ! わたしが一生懸命に目を開くと、物柔らかな感じのいい声が聞こえた。
「起きなさい ! 」
見れば、りっぱな頬ひげを生やした巡査か警部である。しかし、話しかけたのはこの男でなく、少佐の肩章のついた空色の服(憲兵の制服)を着た人間である。
「何事が起ったのです ? 」とわたしはベッドの上に身を起こしてたずねた。
「命令によりま――て…」
見ると、なるほど「命令によって」である。戸口には、やはり空色の服を着た兵隊が立っている。サーベルをがちゃつかせたのは、この男なのだ…
『へえ、そうなのか…』とわたしは心の中で思った。
「ちょつとお許しを、わたしは…」といいかけた。
「いいです。いいです ! 着がえをしてください…待っていますから」と少佐は、前よりさらに感じのいい声でつけ加えた。
わたしが着がえをしている間に、彼らはありたけの本を出さして、かきまわしはじめた。少しは見つかった。しかし、とにかく何一つ残さず調べ上げた。書いたものや手紙は几帳面に縛った。警部はその際、なみなみならぬ細心さを示した。彼はペーチカに潜りこんで、わたしのパイプで古い灰をかきまわした。憲兵下士官は、彼にいわれて、椅子を台にしてペーチカの上に這いのぼった。ところが、蛇腹から手がはずれて、椅子の上にどうと落ちた、それから椅子とともに床に倒れた。その時、慧眼の諸公は、ペーチカの上には何もなかったことを確信したわけである。
テーブルの上に、古い、曲がった十五コペイカ玉が転がっていた。警部はそれを注意深く、つくづくとながめていたが、最後に少佐に合図した。
「いったいにせ金なんですか ? 」とわたしはたずねた…
「ふむ…それにしても、これはよく調べなくちゃ…」と警部はつぶやいて、けっきょくこれも仕事に加えることにした。
わたしは外に出た。家主のおばさんとその下男のイヴァンが、わたしたちを見送った。…車寄せには馬車が待っていた。兵隊と、わたしと、警部と、少佐がその馬車に乗った。行く先はフォンタンカの夏口演に近いツェブノイ橋(皇帝直轄政治警察第三課住所)であった。
※『ドストエフスキー全集20』「論文・記録」下 L・ミリューヴァのアルバムに」米川正夫訳
※グリゴリエフ=おそらくペトラシェーフスキイ党のN・P・グリゴリエフ
※この短文は、A・P・ミリョコーフの娘の訪問記念帳に書いたもの。(1860年)
私は、まだ知らない。逮捕者のなかにあの作品の作者がいたことを―――私は、窓に立って。白々と明けはじめた空をながめた。ペテルブルグの街は、まだ静まりかえっていた。
四、逮捕者の中に、あの人の名前が!
夜明けと共に続々警察の小隊が戻ってきた。未明の大捕り物は、早くもペテルブルグ全市内にひろがっていた。秘密警察三課がある憲兵隊本部周辺には、一目、逮捕者たちを見ようとやじ馬が集まって来ていた。憲兵隊本部も、ハチの巣を突いたような騒ぎだった。大勢の官吏、警官、軍人が、有る者は小走りに、あるものは駆け足で動き回っていた。…みんな寝ぼけたような顔をして、黙りがちであった。外からは、…空色の服を着た連中が、さまざまな獲物(逮捕者)を連れて、ひっきりなしに入って来た。大部屋に集められた逮捕者は、何組かに分けられて立たされていた。収監される部屋がまだ決まってないようだ。私の役目は、逮捕者の書類確認だった。夜明けの急襲だったため、人違いで連れて来られたものも多数いた。レオンチイ・ヴァシーリェヴィチ長官がやってきた。私を見ると
「君、第一アドミラルチェイスカヤ管区、第二区の逮捕者名簿を作成してくれ。戻ってくるころだ」と、叫んだ。
「長官どの、逮捕者は、何名です」
「多勢だ。まだまだくる」
五等官の手にしていた名簿書類を受け取った。大勢の名前が書き連ねてあった。数えると三十四名いた。一人「本件の間諜」と鉛筆で書き添えてあった。アントネリの名。アフシャルーモフ、バラソグロ、ゴロヴィンスキー、グリゴーリエフ、トーリ、ドゥロフ、スペシネフ、ここまで見てきて、次の逮捕者に目がいったとき、私は驚いた。見知った名前があったのだ。私は目を点にしたま確かめるように顔を近づけて、声にだして読んだ。
「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」
あのドストエフスキーか。嘘だろう…同姓同名かも。私は打ち消そうとしたが、作家のフョードルということは既に確信的にわかっていた。というのも、小説家のドストエフスキーが、反動分子のところに出入りしていてる。こんなうわさを文学仲間から聞いたことがある。
が、まさか逮捕されるとは思ってもみなかった。私は、この作家が書いた処女作『貧しき人々』の愛読者だった。この作品によって、私は真の文学に目覚めた、そう言っても過言ではない。この作品に出会うまで私は、たんなる文学好きに過ぎなかった。口では上手く言えないが、私は、この作品を読み終わったとたん、変わったのだ。石器代人が、いきなり現代人になったように。この作品は、私を目覚めさせてくれた。その体験で私の前に、いきなり世界がひらけた。それまで読んできた、ロシアの多くの作家、ゴ―ゴリもプーシキンでさえ過去の作家に押しやったのだ。
「これってドストエフスキーですか、小説家のフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。間違いないですか」私は、思わず近くにいた六等官に尋ねたほどだ。
「そうでしょう。中心的人物とききました」
「なんですって!? 中心的人物ですって!!」
逮捕者のなかに、『貧しき人々』を書いた小説家のドストエフスキーがいる。それだけでも驚きなのに、中心的人物ときいて、私は衝撃を受けた。1845年5月、ロシア文壇に『貧しき人々』で彗星のように現れたドストエフスキーは、まさにロシア文学の星だった。伝説だった。第二作目の失敗で、彼の名はペテルブルグの霧の中に入っていってしまったが、『貧しき人々』の存在は、世界文学の中に燦然と輝いていた。その後、書いた彼の小説は、とてもあの『貧しき人々』と同じ作者とは思えぬほど、ひどいものだったが、私は、期待していた。希望をもっていた。この作家は、やがては、シェクスピアーやバルザックに優るとも劣らない作家になると。
あれから四年、『貧しき人々』の衝撃は、いまだ私のなかに生きていた。あの作家が、国家転覆の廉で逮捕された。なぜ政治や主義に首を突くこんだのか。小説だけを書いていてくれなかったのか。私も若い時、作家を志したことがあった。だが、自分にはゴーゴリやプーシキンを超える能力がなかった。それがわかったときあきらめたのだ。だが、彼、ドストエフスキーは違う。私にはそれがわかるのだ。それ故、才能を惜しむからこそ、私は、胸の奥底から怒りと悲しみがこみあげてくるのを禁じ得なかった。ドストエフスキーは、いつ連行されてくるのか。私は、新しく戻ってきた分隊に向かった。同時刻、兄ミハイルと間違いられ憲兵隊本部に連行されてきたドストエフスキーの弟アンドレイは、ここで出会った兄ドストエフスキーのことを後にこのように記している。
二十四日未明に逮捕されたわたしは、幌馬車に載せられた。大佐、警部、憲兵たちも一緒だった。…ドアがばたんと閉まって、ブラインドが下ろされ、馬車は動き出した。…三十分ほど走った後、馬車はぴたりと停って、わたしは外へ出された。あたりを見まわして、これはファンタンカの夏公園に近いところだということがわかった。これこそすなわち皇帝直属庁の第三課なのである。…わたしは二階に導かれて行き、大広間の人となった。これは兄フョードルが後に『白いホール』と呼んだところである。わたしのすくなからず驚いたことには、このホールに二十人からの人がいた。やっぱりいましがた連れて来られたものらしく、よく知り合った人同士のように、大きな声で、話し合っていた。…ここへ入って来る人の数は一刻一刻とふえていったが。みんなお互い同士よく知りあっているらしい…ふと見ると、兄のフョードルがわたしの方へ駆け寄ってくる。「アンドレイ、お前はどうしてこんなところへ来たんだ? 兄が口をきいたのは、ただこれだけであった。二人の憲兵が走ってきて、一人はわたしを、一人は兄を引いて、別々の部屋へ入れてしまった。これがわたしたちの最後の眼ん界で、…それから一八六四の十二月まに、つまり十五年以上たってからようやく顔を合わせたのである !
アンドレイは長兄ミハイルと混同して逮捕されたのである。
五、裁判の行方 作家の運命
一八四九年四月二十三日未明、このとき逮捕されたものは三十四人であった。が、このうち、直接反動行為に関わったものは、二十一人いた。軍事法廷は、この二十一人を厳しく取り調べていくことにした。侍従武官のオルローフ伯爵は、ニコライ一世に、次の一斉検挙完了の報告を提出した。
「謹んで陛下にご報告もうしあげます。検挙はすべて終了し、押収した書類共々第三課に拘留しております」(『ドストエフスキー』アンリ・トロワイヤ)
いよいよ取り調べがはじまった。今回は未遂に終わったが、ニコライ一世の怒りと一八二五年のデカブリストの乱の対処が甘かった。そんな批判もあって、捜査はきびしいものになった。とくに新進作家ドストエフスキーは、最重要人物とみられ、何度も訊問された。が、ドストエフスキーの罪状は、当初このようであった。ペトラシェフスキーの集会に出席して、その会で現体制、検閲、農奴制に関して不穏な発言をした。ベリンスキーがゴーゴリにあてた手紙(教会やツアーの政権を誹謗したもの)を集会の席上で朗読して世間にその意見をひろめた。グリゴーリエフの『兵士の話』やその他の抵抗文学の朗読会に出席した。罪状は、多かったが、陸軍学校総督ロストツェフは、ドストエフスキーの工兵学校時代の経歴や文学才能を惜しんで「きみが事件のあらましを語ってくれたら、恩赦にしよう」と持ちかけた。だが、ドストエフスキーは頑として受け付けなかった。「リベラリズムとは、祖国愛という自覚をもつことだ」と自分の意見を強調した。「社会問題に関する書物を読むのは好きだったが、自分自身が社会主義者だったことはない」ときっぱり言い切った。事件は、もともと未遂だったために、解明は遅々としてすすまなかった。
予審は五カ月にも及んだ。起訴されたり、証人にされたりした者の数は二百三十二名にも昇り、彼らからも口頭および文書で調書が取られた。が、委員会では、ペトラシェフスキー事件に対して証拠不十分、全員無罪釈放という結論に達した。そして、八月三十一日、こんな決定がされた。「ペトラシェフスキー会の陰謀家たちに関する、内務省の一年にも及ぶ内偵、きびしい捜査、再度にわたる逮捕者たちの訊問。それにもかかわらず、われわれはそこに組織化された反政府活動をつかむことはできなかった」この情報を得た時、私は、胸を撫ぜ下ろした。よかった、これであの若き作家は、ふたたび文学活動ができる。彼の文学的成長をみながら私は、これからの老いの人生を楽しめる。私は、心の底からうれしく思った。しかし不安はあった。予審委員会とは、単に事件調査会に過ぎずメンバーも穏健派ばかりだった。すぐに私の悪い予感は現実的なものとなった。予審委員会は、その後、第三課から国体安全のためには生ぬるい。そんな批判を受け、逮捕者たちの陰謀を認めたのだ。
一か月後、9月30日、ペトラシェフスキー事件は軍法会議にかけられることになった。裁くのは、六名の民間人と六名の将官。彼らは特別委員会を設立し、国家への罪として逮捕者28人の若者たちの犯罪を再調査することになった。軍法会議はきびしいものだった。1849年11月16日、ついに判決が下りた。逮捕者とドストエフスキーへの判決は、このようなものだった。
本軍事法廷は、被告人ドストエフスキーが、貴族プレシチューエフより、本年三月著述家ベリンスキーの犯罪的書簡…扇動的著作が朗読されたる時、その席に出席していた。…それらにより被告人を有罪と認める。従って本軍事法廷は、退役工兵中尉ドストエフスキーを…「軍事法令集」第五編第一章一四二条、一四四条、一六九条 …その身分の一歳の権利をはく奪したる上、銃殺刑に処すべきことを判決す。(『ドストエフスキイ裁判記録』)
■死刑 十五名
■懲役六年 一名
■懲役四年 四名
■流刑 一名
■濃厚な嫌疑晴れず 一名
■発狂者 一名
その後、刑はさらに厳しくなり、懲役・流刑はなく二十一名全員の死刑が決まった。私は、仰天した。ニコライ一世の無慈悲を恨めしく思った。ドストエフスキーを救うためになんとかしなければ。しかし、一官吏の身、この私に何ができよう…。文学仲間に話して嘆願書を作ろうとおもったが、皆、わが身かわいさで、「いまはまずい。家族のことを考えると」に徹した。この私も、上司の閣下から、「気持ちはわかるが、五課問題になる」と釘を刺された。つまるところますます悪くなっていく判決に、誰もが恐れをなしていた。ペトラシェフスキー事件とは、いったい何か。皇帝直属第三課では、繰り返し逮捕者たちの取り調べが行われた。多くの嘆願書、陳実書が提出されたが、明るい見通しはなかった。
軍法会議におけるドストエフスキーの宣誓書は、このようだった。
「自分の弁明のために陳述すべき新しいことは何もありません。ただ私は一度として政府に対し害心ある故意の犯意をもって行動したことはありません。私の為したことは軽率に為されたことであり〈殆ど〉例えばベリンスキイの書簡の朗読の如く、多く派殆ど偶然の機会に為したのであります。仮令いつか私が何か自由に話した時があったとしても、それはただ親密な人々の間に限られており、その人たちは私を理解し得、私が如何なる意味で話しているかを知黍している人たちでした。しかし私は自分の〈思想〉疑念を言い広めることは常に避けておりました。(フョードル・ドストエフスキー)
しかし状況は悪化するばかりだった。1849九年11月16日 軍事会議の軍事法廷は判決を下した。
銃殺刑(十五名)ペトラシェフスキー(28)、スペシネフ(28)、モムベリー(28)、グリゴーリエフ(20)、リヴォフ(25)、アフシャルーモフ、ドゥーロフ(33)、ドストエフスキー(27)、デブー兄、デブー弟、トーリー(26)、ゴロヴィンスキー、パーリム、シャーポニコフ、フイリーポフ
懲役刑(五名)ヤストロジェムプスキー(6年)、ハヌィコフ(4年)、カーシキン(4年)カーシキン(4年)、エヴロペウス(4年)、プレシチェーエフ(4年)チムコフスキー(シベリア移住)
判決延期――カテーネフ(発狂)
この後、八人の将軍で裁く最高軍事法会議(ゲネラル・アウヂトリアート)にて最終判決がだされた。判決は、さらに重くなった。以下の通り
有罪判決を受けた二十一名、全員の銃殺刑が決定。
一人の将軍の糾弾が判決をさらに重いものにした。そのときの議事録がこれである。
未遂で終わってよかったが、今回のような事件は、なぜ起きたのか。1825年のデカブリストの乱の裁きを反省しなければならない。判決が甘かった。五人が絞首刑、121人がシベリア流刑。全員を死罪にすべきだったのだ。これは漂流してきた極東の国の漁民の話だが、彼らの国ハ200年近くも、国家が安泰だという。国家基盤が固い最大の要因の一つは、一揆や暴動、反乱に厳しいことが挙げられるという。140何年か前にサムライと呼ばれる貴族たちの内紛があった。勝った方の貴族は、賛同と賛美があった。が、政府は紛争に参加した46人全員をハラキリという死罪にした。その理由はアリの一穴。反逆を一人でも許せば、それはいつの日か、国を滅ぼすからという。今回、謀反人たちの判決が甘ければ、いつかロシア帝国を危機に陥れることになる。よって、健在、嫌疑のある28人全員の処刑が望ましい。
〈この言は、64年を経て現実のものとなった。1917年のロシア革命によってロシア皇帝家族は、全員が銃殺され、文字通りロシア帝國は崩壊した。〉
六、ペテルブルグ千夜一夜
軍法会議の権威もあって、いまや、ペトラシェフスキー一味の死罪は免れない。勝手なもので世相は、そこに落ち着きつつあった。しかし、いかに世論が変わろうと私は、『貧しき人々』の作者を救いたい。その気持ちでいっぱいだった。どうしたら未来のプーシキン、シェクスピアーたるフョードル・ドストエフスキーを救えるか。策はなにもなかった。一介の官吏になにができよう。十二月党員デカブリストの乱の一味を全員死罪にしなかったから、金曜会のような危険な会合ができたのだというのが憲兵隊本部の専らの分析と意見だった。軍事法廷は、毎回厳しいものだった。皇帝陛下に対してもA.I.ゲルツェン(1812〜70)というロシアの革命思想家はこんな悪評をたてていた。
公のロシア、“威風堂々”たる帝國のロシアに見てとれたのは、何の益ももたらさない浪費、苛酷な反動、非人間的な迫害、専制の強化ばかりであった。凡人どもに取り巻かれて、観兵式の兵隊やバルト諸国出身のドイツ人や教養のない保守主義者どもに取り囲まれて、猜疑心の強い、冷血で頑迷で無慈悲で狭量なニコライの姿があった。それは、彼を取り巻いている、何の取柄もない連中とまったく同じ、ありきたりの男だった…
兵営と官庁が、ニコライの政治学の主要な支柱となった。良識を欠いた盲目的な規律の頑迷な形式主義と合体している。――それが、名高いロシアの強権装置ノバネである。…それは、専制政治の最も単純な、最も粗野な形態である…この風評が真実なら、皇帝閣下の慈悲をあてにするのは、到底無理というもの。下手な陳情は、火に油を注ぐことになるかも。それを思うと私は一層絶望的になっていた。もはやこのロシアにいかなることが起きようと、死罪という運命からは逃れられない。だが、あるとき私は一筋の光明をみた。こんな話を聞いたのである。教会にいったときゾシマ長老と呼ばれている老神父が、だれかが皇帝閣下への不満を漏らした時、こんな話しをしたという。
「皇帝は、政治家としては冷徹な専制主義者であり、あらゆる変革の試みに対し、軍人らしい保守性と厳格さで徹底して認めようとしない。氷のような冷静さと鉄のような固く強い精神をもっている。しかし、人間はわからないものですよ。厳しいのは皇帝閣下の政治にたいする責任の一面です。心のなかはわかりません。わたしは、こんな話をきいていますよ。フランスのオーギュスト・マルモン元帥が(1828年に)ニコライ1世の長男の皇太子アレクサンドルに拝謁を申し出た時、その申し出を断った。こう言って『あの子を思い上がらせたいのかね?』『軍を指揮下におく将軍が自分に敬意を表するようなことになったら、あの小さな息子は鼻高々になるだろう。(中略)儀礼的な拝謁は望ましくない。わたしは息子を皇子として育てる前に、人間として育てたいのだ』と。これを聞いたとき、わたしは陛下は、人間としては、なかなかの人格者だと思いました。」「息子を皇子として育てる前に、人間として育てたいのだ」
私は、この言葉に感動した。皇帝も人間だ、しかも立派な。そう思ったのである。皇帝閣下なら、むざむざとロシアの宝をネヴァ河に投げ捨てるようなことはしない。私の言うことを理解してくださる。私は、作家ドストエフスキー救出を、陛下のお心に賭けてみようと思った。しかし、どんなふうに…。
それは、もう作品を読んでもらう以外にない。しかし、どのようにして。私は、この数日、そのことばかりを考えてきた。名案は浮かばなかった。しかし、もう猶予はなかった。軍事裁判は着々と進んでいた。ドストエフスキーに対する評判は、悪くはなかったが、死刑判決は変わらなかった。ペテルブルグの秋は短い。寒風が身も心も冷え冷えさせる。宮殿とて同じである。私の職務は、月に一度、憲兵隊本部から宮殿に出向き、皇帝陛下に、市井の情報をまとめた報告書をお見せすることにある。陛下がなにかお尋ねになれば、私は、それについて直ちにお答えしなければならないが、陛下は、三課の報告で大抵はご存知だった。で、私の仕事は、事務的な運び屋に過ぎなかった。しかし、宮殿の執務室に入室できることは、光栄この上もない役目だった。が、緊張で心臓は、いつも押しつぶされるようだった。この日も、同じように皇帝陛下の執務室に向かった。
ニコライ一世陛下は専制主義者だが、暴君ではない。実務と理論の人だ。が、毎回、圧倒されるのは、その二メートルを超す巨漢だけではない、一分のごまかし屋や秘密を見逃さぬ眼光だ。記憶力にも抜きん出たものがある。「あの話はどうなった」以前、ある出来ごとについて突然、聞かれたことがある。幸いにして記憶が新しく完璧に答えることができた。が、冷や汗をかいたことは数知れない。
この日、宮殿に向かう私は、いつものようだったが、私の胸は、極度の緊張で張り酒そうだった。足は震え心臓は、早鐘のように胸を打った。私は、この日、ある計画を実行しようとしていた。毎回、悪化していく軍事法廷の結果。未来の文豪は風前の灯にある。
もはや『貧しき人々』の作者を救うには、皇帝陛下のお情けにすがるしかない。あの人を救うには、この手段しかない。が、どのようにして――。私が、さんざんに思案し辿りついた妙案は、皇帝陛下に作品を『貧しき人々』を読んでいただくことしかない。
しかし、専制主義者としても恐れられている陛下に、そんなことをお頼みできようか。それでなくても二メートルを超す大男の陛下の前にいくと体力的威圧感もあって、私は足がすくむ。市井の出来事を報告してスゴスゴ引きさがってくるのが常だ。しかし、今日ばかりは実行するのだ。『貧しき人々』の作者を救うために。私は、震える足で皇帝閣下の執務室に入っていった。陛下は、衝立の向うにおられた。私は名乗ると、いつものようにこの一カ月ばかりにロシアで起きた様々な出来事を報告した。地方では放火事件、地主殺害事件、農民一揆のニュースが伝えられてきていたが、それらは、なるべく最小限に留めた。「以上でございます陛下」私は、震える声で一旦、口を閉じた。一瞬、沈黙があった。が、すぐに「そうか、下がってよい」いらだった皇帝閣下の怒鳴り声がした。
「は、はい、報告は終わりでございます。が…」私は、あわてて言った。「お知らせしたいことがございまして」
「なんだ」
「新しい物語のことでございます」
「なに?! 物語だと」
突飛な発言に、陛下は、思わず反応された。
「は、はい、一度読んだらやめられないほどのすばらしい物語です」
「なに一度読んだらやめられない ? 近頃の読みもので、そんなものがあるのか。わがロシアの物書きといったら、どいつもこいつもろくな作家はいない。目覚まし薬にもならんものばかり書いているときく」
いやはや、世間の小説家たちときたら、困ったものだ ! なにか有益な、気持のいい、心を楽しませるようなものを書くどころか、ただもう地下の秘密を洗いざらいほじくりだすばかりではないか ! いや、いっそのこと、あの連中がものを書くのを禁じればいいのだ ! まったく、ひどいものだ。読みだすと…ついなんとなく考えこんでしまって――あげくの果てに、ありとあらゆる妄想がわいてくる。いゃ、なんとしても、あの連中がものを書くのを禁じるべきだ。なにがなんでも、きれいさっぱり禁じてしまうべきだ。
(V・F・オドエフスキー公爵)
私は、ついに踏み越えてしまった。ロシア皇帝と私的な会話をはじめてしまったのだ。この先に何があるのか――地獄か天国か。だが、もはや後戻りはできない。私は、会話をつづけた。
「それがあるのでございます。ロシアにも、眠気を吹き飛ばす、そんな作品が、あるのでございます」
「真実か、いい加減なことを申すでないぞ」陛下は、怒気のある声で言った。
「失礼ですが、陛下は、近ごろのロシアの文学事情はご存知ですか」
「いまのロシアの文学事情だと、知らぬは。知りたくもない」
「それはもったいないことでございます。最近のわがロシアにも、近い将来、世界に名を馳せるような、若い作家がでてきたのでございます」
「だれだ、」
「はい、もう四年になりますが、文壇ではたいそう評判になりました。将来はプーシキン、ゴーゴリに勝るとも劣らない作家になりそうです」
「は、そちは、いまなんと申した。プーシキンに勝とも劣らないだと ? 予は、はじめて聞くぞ。作者はだれだ。名は何という、言うてみい」
「フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーといいます」
「知らんな」ニコライ一世は、半年前逮捕した反逆者たちの名前は忘れていた。
「どんな物語か」
「初老の下級官吏と、不幸な小娘との往復書簡でございます」
「書簡小説か、あのゲーテをまねたものか」ニコライ一世は、あきれたように言った。「想像するだけでも退屈そうなものだ。文壇ではそんなものが評判になったのか」
※『若きエルテルの悩み』一七七四年九月出版。
「確かにそうではありますが、かの作品とは違います」
「なに ! ゲーテに勝るというのか」
「は、はい。個人の好みもありますが、手前は、そのように読みました」
「さぞ、波乱万丈なあらすじであろうな」
「とりたててありません。なんの冒険も活劇もございません。安下宿屋に暮らす貧しいな老人と娘の往復書簡で成り立つ物語でございます。しかし、これが読みはじめたら、やめられないのでございます」
私は、この作品をはじめて読んだ若い詩人と作家の話をした。二人は、夜通し読んで、その足で作者に会いに行ったのだ。ロシア随一の批評家が絶賛したことも話した。
「ふむ、それが本当かどうか、読んできかせろ」皇帝陛下は、いきなりそう言われた。
「は、はい。いつでございます」
「いまだ」陛下は、そう言って、部屋にいた官吏たちに命じた。「今日は、これで終わりだ。皆、下がってよい」
私は興奮で体か震えた。この作品は、いかなる人間の心もとらえる。皇帝陛下だとて、赤い血が通う人間、必ずや何かを感じるはず――とはいえ、世の中には文学とは縁のない人間もいるのだ。もし皇帝陛下がそんな人間だったら…私は、自問自答しながら、このときのために用意してきた『貧しき人々』をだした。
「ところでだ、もし、わしが退屈を感じたら、そちはどうする。ロシア皇帝を欺いたことになる。どのような責任をとるのか」
「せきにんですか・・・」
私は、このときになって、自分がとんでもないことをはじめてしまっていることに気がついた。想像だけだったことが、会話の流れから現実のことになってきてしまった。
「どうした。お前も、その作品がすばらしいと感じたのだろ。だからこそ、わしにもすすめたのだろう。いざとなって尻込みするのは不埒先般ではないか」
「いえ、めっそうもございません。わたしは、わたしめは、この、作品の価値をよく知っております」私は、もう何をいっているのか自分でもわからなくなっていた。「いまは、陛下にお読みできることで、ただただ有頂天なのでございます」
「真に相違ないな。何かわくわくしてきた。もしわしが眠ったらお前はただちに牢獄行きだ。それでいいな。もはや取り消しはできないぞ」陛下は、面白そうに言った。
「は、はい。その覚悟でございます」
私は、意を決して朗読をはじめた。十枚が過ぎた、広い執務室しんとして物音一つしない。仕切の向こうの皇帝陛下のお姿は、こちらからは見えなかった。三十枚を過ぎた。あまり静かなのでもしかして眠ってしまったのではないか。そんな不安にかられて読みを切った。つぎの瞬間、。
「何をしている」突然、衝立の向うから声が飛んできた。「つづけろ」、皇帝陛下は、聞いておられる。私は喜びで胸がいっぱいになった。ふたたび朗読をつづけた。あのときの光景がまざまざと思い浮かんだ。もしかして恩赦がおりる。ドストエフスキーを救うことができる。そんな希望的観測が過ぎった。だが、現実は―刑場では、いよいよ処刑がはじまろうとしていた。まず三人が処刑台の柱にしばりつけられていた。三人づつ銃殺刑にしていくようだ。ドストエフスキーらしき囚人は、二番手のようだ。残酷な光景をながめながら私は、ふたたびあのときのことを思いだしていた。
私は夢中で読みきった。自分が自分でないようだった。まるでなにかが乗り移ったように、自然に言葉がでた。これが神がかりというのだろうか。読み終わったときは深夜になっていた。時間の感覚はなかったが、六時間か七時間、私は立ち尽くしたまま朗読していたのだ。口のなかはカラカラで、もう一滴の唾も残っていなかった。皇帝陛下は、黙したままだった。一言も、言葉を挟むことはなかった。もしかしてぐっすり眠ってしまったのか。私は、思いきって呼びかけた
「陛下、終わりました――」椅子が動く音がした。「わかっておる。大儀であった」
「恐縮にございます」私は、次の言葉を期待した。だが、陛下は、たった一言、「下がってよい」と、おっしゃられただけだった。侍従や官吏たちが部屋に入ってきたので私は、深夜の宮殿を後にした。私は、長い宮殿の廊下を抜けて広場にでると、寒空の下、三課のアレクセイ大尉が心配顔で待っていた。
「なにかあったのか」
「いえ、陛下に朗読を命じられて」
「そうか、長い朗読だったな」
「中編、一冊分でございます」
「何故」
「陛下は、このところ不眠とおっしゃられていました。で、なにか退屈な本が睡眠に役立つと思われたようです」
「そうか、ご苦労であった」大尉は、ほっとしたように言った。
「は、はい」
その日、以降『貧しき人々』を聞いて陛下は、いったいどんなことを思ったのか。気になって何も手につかなかった。皇帝陛下は、私の朗読を聞いておられたのか、おられなかったのか。いまとなっては、それを確かめる術はない。しかし、これだけは確かなことだ。私が朗読をつづけた六時間半という長い時間、陛下は、眠ってはいなかった。一言も口もはさまなかった。朗読中、陛下がどうしおられたかは知らない。が眠っていたか、熱心に聞き入っていたか。起きておられたことは確かである」
二日後、突然、皇帝陛下からお呼びがあった。順番からいくと、わたしの職務は一カ月後のはずだった。きっと『貧しき人々』のことだ。私は、秘かに期待と希望をもって皇帝陛下の前に立った。恐怖からではなく、胸が高鳴った。
「皆、下がってよい、文学談議をする」
ニコライ一世は、人払いをして二人だけになると愉快そうに言った。
「この前の賭けは、そちの勝ちだ」
「もったいないお言葉ですが、手前が勝ちとはめっそうもございません。あの物語は人の心を惹きつけるものがあります」
「して、作者のドストエフスキーとはどんな人間か」
「領主持ちの貴族でございます」、
「あってみたい」
「そ、それは」
「どこにいる、ペテルブルグ市内か」
「ぺテロ・パウロの要塞におります」
「警備兵か」
「いえ、アレクセー半月堡に囚人として囚われております」
「囚人 ?! 」
「この春、ペトラシェフスキー一味が逮捕されました。現在、判決を待っている二十一人の一人です」
「謀反人か、それを知ってて、予に聞かせたのか」ニコライ一世は語気を強めた。
「は、はい」私の声は震えた。このとき私は、死を覚悟した。
「何故か」
「死罪とききましたので、救いたい一心で」
「知り合いか、身内のものか」
「いえ、関係も面識は、ございません」
「知らぬ者を、皇帝を欺いてまで救いたいとは、何故か」
「私は、この若い作家の才能を惜しむからでございます」
「予の国政を批判し、予を亡きものにしようと企んだ謀反人だぞ」
「彼は、冤罪でございます。謀反が真実なら、わたしは助けたいとは思いません。まったくの冤罪だからこそ、その命を惜しむのでございます」
私は自信をもって言った。というのも、先日、第三課に行った折り、清書の書類を確認するするふりをしてドストエフスキーの調書を読んでいたからである。彼は、首謀者ペトラシェフスキーとその会について、このように述べていた。
私は金曜日に彼のところへ出かけ、彼もそれに応えて私を訪ねはしましたが、私はペトラシェフスキーと極く親しい間柄になったことは一度もありません。性格においても考え方の多くの点においてもペトラシェフスキーとは共通点はなかったため、この交友は私としては、さして大切にはしていなかった。従って私が彼とこの交友関係をつづけたのはまさに礼儀に欠けない程度にあり、すなわち彼を訪ねたのも月に一度とか、つまり月単位で、特に積極的な用事もありませんでした。私はいつも、ペトラシェフスキーの性格の中にある多くの風変わりな点や奇人めいた点に驚かされました。そもそも彼との交友も、彼が最初からその奇矯さで私の好奇心をそそったことによって始まったのです。しかし彼の所へはたまにしかいきませんでした。時には半年以上も行かないこともありました。昨年九月から数えてもこの冬の間に、八回以上は行っておりません。私たちは、互いに親密になったことはありません…(『ドストエフスキイ・裁判記録』現代思潮社)
皇帝陛下は、黙って裁判記録を聞いていたが、いきなり「もうよい、下がってよい」と、言った。私は、一礼をしたまま、豪華絢爛の部屋をでた。陛下は、何もおっしゃらなかった。不機嫌そうではあったが、私を罰しようとは思っていないようだった。いまこうして、私かここにいるのも、その証である。ただ事態はなにも変わらなかった。陛下が『貧しき人々』を聞いてどう思ったかは知らないが、逮捕者二十一人の死罪は、決定的なものだった。たとえ木の葉が沈み、石が浮かんだとしても変わりないように思えた。あのとき陛下は、真剣に朗読を聞いてくださった。しかし、陛下が、いくらドストエフスキーの命を惜しんでも、陛下とて一人の人間、国家が決めたことには逆らえないのかも。私はこう思って自分を慰めた。
八、奇跡か茶番か
刑場からほど遠からぬところに教会堂があってその金色の屋根の頂きが明らかな日光に輝いていたそうです。彼はおそろしいほどにながめていて、その光線から目を離すことができなかったと申します。この光線こそ…(『白痴』)
私は、朝日の眩しさに我に返った。奇跡は起きる気配もない。雪のセミョーノフ練兵場は、晴れ渡った青空の下、処刑を待つ人たちで、喧騒としていた。さらし柱に縛られる囚人は、残り三人となっていた。最後の一人が、縛られ、頭巾がかぶせられた。もはや絶体絶命。兵士たちは、一斉に銃を抱えると、一列縦隊に進み始めた。囚人たちの二十メートル前にぴたりと止まる。兵士たちは、銃を下ろして抱えると、号令一過、肩にかまえた。一声に「かまえ― ! 銃 」の号令が凍てついた練兵場に響いた。とりまく4千の群衆は、かたずをのんで見守った。重苦しい沈黙が張りつめた。誰もが予想した。次の瞬間の銃声と、白装束を血に染めてがっくり首をたれる囚人たちの姿を。
私は、目を閉じ、囚人たちの冥福を祈った。ドストエフスキーという若い作家の死を悼んだ。自分の努力の足らなさをわびた。永遠につづくかのような長い沈黙。 だが、つぎの瞬間、刑場にわき上がった歓声。私は、目を開けて周囲をみた。奇跡が起きていた。囚人たちは、縄を解かれ、頭巾を自分の手で取っている。「茶番だ!」近くで、誰かの吐き捨てる声を聞いた。が、私は、そう思わなかった。『貧しき人々』あの作品が、政治には厳しい皇帝閣下の心を動かせた。無慈悲から慈悲に。私は、あの作品の力を信じて数時間朗読した。命をかけた。皇帝閣下に、その心意気が通じた。文学の力が国家の法に勝ったのだ。そのように思った。遠くでドストエフスキーを見た。親族の者か、抱き合って喜んでいた。私は、感喜にわくセミョーノフ練兵場をあとに、運河に沿った道を歩いて帰った。久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで――。
なぜ、死刑判決は、覆ったのか。皇帝陛下の気まぐれか。皇帝陛下は、自分の名を落としめても茶番劇をするだろうか。わからなかった。たぶん永遠の謎となろう。だが、私には明確にわかった。しかし、このことは皇帝閣下と私ふたりだけの秘密。そのように思った。あの作家ドストエフスキーは、そのことを知るだろうか。「人間としてそだてたい」といった、息子アレクサンドル二世に、その後、こんな親しげな手紙を書いている。もしかして、作家自体も自覚していたのかも知れない。
皇帝陛下・・・かつての政治犯人であるわたくしが、あえて偉大なる玉座の前に、つつましやかな請願を呈上いたします。首都の医師の診察が受けられますよう私にペテルブルグへの移転を寛仁をもってお許し下さいますようここに嘆願致します。私を蘇らせて給い。私が健康を快復することによって、私自身の家族にとって、かつまた何ほどかなりともわが祖国にとって、益ある者となることが出来ますよう、機会を与え給わんことを願い出る次第であります。
アレクサンドル二世への請願 1859年10〜18日の間。最高軍法会議の決定と皇帝の裁可の謎
国家に弓引く者は、一族郎党、たとえ赤子とて目こぼししてはならない。すれば、必ずや、その国家は崩壊に至る。だがニコライ一世は、茶番と揶揄されながらもペトラシェフスキー事件の犯罪者たちを死刑から救った。なぜか――ニコライ一世は、最高軍法会議の判決報告を受けた。が、全部を願い通り認めようとせず、反対を押し切って何人かの刑を軽減した。ドストエフスキーのシベリア牢獄は最初八年だったが、半分の四年になった。何故、ニコライ一世は軽減したのか。その謎は、いまもって解けていない。
知人に訳してもらったのは、ここまでである。
確かに訳してくれた彼が言った通り、これは材料を集めただけの創作、あるいはルポにもならない作品であった。筆者は、果たしてどんなふうにまとめようと思ったのか、いまとなっては知る由もない。が、テーマは、ニコライ一世とドストエフスキーの心の交流だったように思える。口にも出さない記録にもない。ペテルブルグとシベリヤ。遠く離れてはいたが、二人の心は、『貧しき人々』によって固くむすばれていた。あの死刑は、茶番ではなく真実だった。そうして、ドストエフスキーをはじめ逮捕者たちの命を救ったのは『貧しき人々』だった。そう解釈することで、古いノートに書かれた話の紹介を終わりとしたい。
【参考文献】
『ドストエーフスキイ全集・白痴・ドストエーフスキイ研究』河出書房新社 米川正夫訳
『ドストエフスキイ・裁判記録』「ペリチコフ編」現代思潮社 中村健之介訳
『ドストエフスキー裁判』北海道大学図書刊行会 中村健之介訳
『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』集英社 原卓也・小泉猛編訳
『ドストエフスキー写真と記録』論創社 ネチャーエワ 中村健之介編訳
『ドストエフスキイ』清水書院 井桁貞義著
『ドストエフスキー伝』アンリー・トロワイヤ 中公文庫 村上香佳子訳