下原敏彦の著作
収録:下原敏彦『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006 P.186
初出:江古田文学 3巻1号(通巻24号) 1993




寂しきヒーロー 十五歳の扉 
三島由紀夫と尾崎豊の距離


夜半、春雷が鳴った。稲妻が闇を引き裂いた。その一瞬の閃光の中にわたしはふたりの少年を見た。ともに詩を書き、ともに孤独だった。そして、ともに老いていた。ふたりは共同幻想のなかで戦い傷ついていた。そして、ともに母の懐にかえっていった。本誌特集『三島由紀夫』の原稿を書くためこの作家の作品を押し入れから何冊か探しだして読みかえしていた。いずれも事件直後「あんな死に方をする作家の作品とは」といった好奇心で買い求めたものだった。わたしはこの高名な作家のよき読者ではなかった。石原慎太郎はその著書『三島由紀夫の日蝕』で三島の《死後ようやく20年という時間が経過した結果−作品たちはやっと作者の手−作者の煩わしい影から解放された》と語っているが、わたしのなかの三島作品は事件の風化とともに遠い過去の暗い遺産となっていた。憲法改正やシビリアン・コントロール。昨今、日本を揺るがすそんな問題もバルコニーで激を飛ばす三島とは重ならなかった。それはある意味で英国人ストークスがその著書『死と真実』のなかで予見した三島の《西欧における名声が、いま以上に高まることも期待できないだろう》の片鱗かも知れない。ともあれわたしのなかの三島はその高さを維持するどころか《ほとんど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で》忘れ去られていた。もっとも、それだけに今回改めて読む初期作品に新鮮なものを感じた。そして改めて三島という作家の非凡さを知ることになった。

コウエフノアキノオヤマノハガチルヨシズカニシズカニチラチラト(6歳)
けんがいのきくに見とれて来てみればああをかしいなざう花なり(7歳)


父親が《私はもう口がきけなくなるほどあっけにとられました》という脱獄囚と少年を描いた処女作品『酸模(すかんぽ)』は僅かに13歳。たとえ教授を受けたとはいえその才能にただ瞠若するほかない。わたしは春雷に気をとられながらも読みすすめた。《少年期は永劫につづくべきものであり、また現につづいているのではないだろうか。それだのに我々はどうしてそれを軽蔑したりすることができよう。『煙草』》ふと、わたしは顔をあげた。息子の部屋から聞こえてくるラジカセの曲が耳障りになったのだ。この春、なんとか希望の高校に入った息子は免罪符を得たとばかりに毎晩遅くまでCDやらギターをいじっている。まさに十五の春を満喫しているのだ。
「おい、音を小さくしろ」わたしはそう注意したあと、なんとはなしに聞いた。
「何を、そう熱心に聴いてるんだ」
「ああ、これ」息子は言って、なおもボリユームを上げた。悲鳴にも似た叫びがしじまに流れて、夜をいっそう暗く重くさせた。やりばのない気持ち 〜 校舎の裏 煙草ふかして見つかれば逃げ場もない 〜
歌詞がわかったとたん「くだらん、なんて歌だ。その歌は!」わたしは思わず怒鳴った。反抗的で、あまったれで、厭世的だ。
「『十五の夜』」15歳の息子はぶっきらぼうに答えた。「十五の、ふざけるな!」
「ほんとだよ。そういう題名だよ。知らないなんて遅れてるぜ、まったく」息子は舌打ちしながらいった。「知ってる歌手だよ」「知るか!」わたしは吐き捨てた。

はっきりいってわたしは音楽は苦手だ。とくに昨今のカタカナ音楽はまるでだめだ。トリカブトだかムーミンだかビールだかテンプラだか。何度聞いても間違えてしまう。「尾崎豊だよ」息子はいった。「おざき...」わたしは思いめぐらした。本来なら思い浮かぶのは「また会う日まで」の尾崎紀世彦ぐらいだろうが、このときは先日、一周忌法要で泣き叫ぶファンの異様な光景を呆れながらテレビで見ていたのですぐにぴんときた。
「ああ、あの尾崎か、ヤク打ち過ぎて死んだ。あんな覚醒剤中毒者の歌のどこがいいんだ。ロクでもないの聴くんじゃない!」
それが天折のロック歌手尾崎豊にわたしがはじめて関心を抱いた瞬間だった。ヤクとグロとやかましい。わたしには偏見があった。だから、咄嗟に嫌悪感にも似た拒否反応がでた。だが、思えばその瞬間、尾崎は足元に絡みついた泥棒草のように、わたしの意識の隅にとりついていたのだ。息子は渋々曲を止めた。春雷は速くに去っていた。後に水底のような深い静寂があった。わたしはふたたび三島を読みはじめた。
学校、この愚かな組織、我々は昼間の大部分をそこで暮らすことを強いられ、だが、わたしの耳底には研ぎ澄まされた声量と哀切をこめた低いロックの響きがいつまでも残って離れなかった。

尾崎豊。わたしがはじめてこの名前を知ったのは昨年4月26日の朝刊でだった。以前に覚醒剤で逮捕されているからニュースで知っていたかもしれないがそのときは全く忘れ去っていた。新聞によると25日の朝未明、東京下町のある民家の庭に一人の若者が侵入した。家人の目撃証言によれば若者は泥酔状態に見えた。若者は何か体操のような仕草をみせながら次々衣服を脱ぎ捨て下着一枚になると立ったり座ったり、体をかきむしったりしていた。気味悪くなった家人は110番に通報。警察に保護されたあと自宅に戻った。ところが容体が急変し救急車で病院に運ばれる。が、一時間後に急死した。12時6分だった。死因は肺水腫。その後庭に残されたカードなどから若者はロック歌手の尾崎豊と判明。26歳の若い死だった。尾崎は1987年に覚醒剤所持で逮捕。1988年に執行猶予つきで有罪判決が下されている。よくある芸能関係者の事件簿。それ以外わたしには何の興味もなかった。強いてといえば他人の庭で全裸で転げまわっていたという奇行が印象に残った。ただの三面記事でしかなかった。だから追悼式に四万人のファンが参列するのをみてただただ驚くしかなかった。集まったファンの度を越した悲嘆さは不可解を通り過ぎて薄気味悪くさえあった。しかしわたしはまだ「なぜ」とは考えなかった。有名人に群がる群衆のほとんどはヤジ馬に過ぎないからだ。わたしにとって尾崎の死はたんに映像のヒーロー松田優作や石原裕次郎そして美空ひばりの死と同列でしかなかった。

三島の死はあきらかにそれとは違っていた。割腹と生首と激文。そして道連れ。その死は政治的であり、社会的であり、芸術的であり、猟奇的であった。そして、ときの宰相をして「狂人だ!」と叫ばしめた。その衝撃波は全世界をかけめぐり、戦慄をもって人々を立ち止まらせた。葬儀にはOLから元軍人まで他方面から一万人近いファンが参列した。外国放送までもが宇苗中継を打診してきたともきく。その死は時代の意味において、社会への打撃において、事件の重さにおいて、そしてその不可解さにおいて他者と比べられようもない。だが、時間は常に無情だ。あの凄惨な大事件も今はただ過去の色あせた一コマに過ぎない。振り向く人も少なくなった。わたしも遺跡の謎より目下の謎の方が大いに興味がもてた。わたしはあの夜からなんとなく尾崎の名前が気になった。書店の一角にうず高く積まれている関係書物を怪訝な気持ちでながめた。それにしてもその出版物の何と多いことか。『普通の愛』『白紙の散乱』『−少年時代』『卒業』『−魂』『アイ・ラブ・ユー』『黄昏ゆく街で』『−に今、伝えたいこと』などなど本人の作品をはじめ評論、ファンの手記と実に多種だ。おまけに″伝説になった″だの ″天才アーティスト″だのとこそばゆくなるようなセンセーショナルな大見出しが踊っている。思わず「何なのだ」と首を傾げたくなる。これほどまでに他者を引きつける磁場とは。一体、尾崎の中に何があるのか。芽生えた好奇心はいつしか拒否反応に勝っていった。ある日、わたしは気恥ずかしさを押してついに尾崎の本を手にした。一冊また一冊と。

驚くことはないのさ 所詮人間さ 心があるんだろ それでいいじゃないか『霊感』、尾崎の一生を取材した本の中にこんな文があった。
「若くしてこれだけの詞が書けた作者は、日本の歴代の詩人のなかでも極めて少ない。天才と呼ばれ、若くしてその生を終えた石川啄木、中原中也、寺山修司などごく限られた数人にすぎない。いや、これら日本を代表する詩人たちよりも豊の方がすぐれた作詞力があった、と見てよいほどだ。」
ほんとうかね。思わず眉に唾した。もうこうなっては後には引けない。わたしは三島を調べながら尾崎を読んだ。謎は解かねばならない。

かって一つの魂があった。魂はふたつに分かれ、ともに時空の世界に降りていった。だが、ふたつの魂のあいだに40年の歳月が横たわっていた。大正14年、三島は生まれた。公威(きみたけ)と命名された。写真で見るその顔はおでこが広い目のクリっとした利発そうなかわいらしい子供だった。が、その愛くるしさに反して取り巻く環境は暗く重かった。大人たちの身勝手が幼子に降りかかった。《生まれて四九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。三島は生まれながらにして矛盾の海に突き落とされたのだ。その生家は《燻んだ感じのする・何か錯雑した容子の居丈高な家だった》その家に洒よし女よしの貧農あがりの祖父と《その祖父を憎み蔑んでいた...狷介不屈な》祖母と無理解な父。そしてかよわい美しい母が住んでいた。この家族のなかで幼子は《しじゅう閉じ切った・病気と老いの匂いむせかえる祖母の病室》で育った。なにやら《外界との接触をいっさい断ち、遊び友達もなく、何の体験もせずに、自由を束縛されて成長していった》

文豪ドストエフスキーの幼きころの環境を彷彿させる。後に『仮面の告白』で「カラマゾフの兄弟」の一節を錦の御旗にした所以はここにあるのか...?尾崎は遅れること40年。昭和40年に生まれた。三島の祖父が同郷の恩人の名をとってつけたように、父親は郷里の恩師の名をもらって豊とつけた。三島が昭和の申し子なら、尾崎は東京オリンピックが終わったいわゆる戦後の日本の節目に誕生した。偶然にも父親は三島が指摘してやまなかった日本国憲法の矛盾、陸上自衛隊に勤務していた。そうして愛する母は祖母ならぬ仕事が奪いとっていた。母親は病弱だった。それでときには田舎の祖父母に預けられたりした。彼もまた孤独と矛盾の大河に放りだされた子供だった。
《ぱちん、とスイッチを引っ張ればいいだけのことなのに、僕は夕暮れて薄暗くなっていく部屋の気配に紛れ込むだけで、あまり自分で明かりを点けたことがなかった。−部屋は真っ暗な闇に覆われている。僕は部屋の闇を背中に感じながら背筋をぞくぞく震えさせていた『雨の中の軌跡』》
後に彼はその孤独な心象風景を作品にした。ふたつの魂は創造の種子だった。ひとつはエデンに落ち、もうひとつは荒れ野に落ちた。孤独の雨と愛に飢えた光がふたつの種子の上に降り注いだ。種子は芽をだし成長していった。
春の野はすみれたんばぽよめななど皆青々と元気さうなり (公威)
朝まだきちまたをつつむ秋の霧道ゆく人の姿消ゆく (公威)
ためらいてわがダイヤルをせしときに母の出づれば心休まる (豊)『心の旅』
父のあと追いつつ下る山道に木の葉洩る陽のかすかに射せり (豊)
雲湧きて空一杯に拡がらむわが前に立つ鉄塔の上 (豊)

地に落ちて十年。ふたつの種子は少年になった。そしてそれぞれにこんな歌をうたった。二人はともに詩人になったのだ。だが、その環境はあまりに掛け離れていた。エデンに落ちた少年にはよき栽培者がいた。よき観察者がいた。それゆえ少年は詩はまったく楽に、次から次へ、すらすらできた。そして「詩を書く少年」としてその実を確実に一粒一粒つけていった。少年の才能は学習院の誉れだった。ひいては国家の宝だった。少年はひ弱さを心に感じながらもひたすらけなげに励んだ。大人たちの期待に答えた。少年はエデンの外に何があるのか、関心もなく、興味も抱かなかった。
《扉の向こうでどんな戦いが起こっているのかを、おまえは知らずに済むだろう だがそれは誰も教えないからではない おまえが自らの手を汚すことを覚悟してでも 開けようとしないからだ『象徴された扉』》

荒れ野に育った少年は孤独だった。いつも一人で遊んでいた。少年の一家は少年に《立派な男になれ》と説く自衛官の父と病弱で仕事をもつ母、秀才の兄の四人家族だった。二軒長屋の都営住宅に住み、両親は新興宗教への信仰心があつかった。父は尺八を趣味とし母は民謡を歌い、兄は勉強一筋だった。少年は泣き虫と呼ばれながらも空手を習った。共稼ぎの家はいつも空っぽだった。写真でみる生家は既になく隣家がブタ草のおい繁るなかに廃屋のようにあった。少年はこの風景のなかでいつも一人母を待っていた。ふたりの少年は十五になった。エデンの少年はついに詩集をだした。題名はもちろん『十五歳詩集』「悲壮調」「日輪礼讃」「風とこぶし」「別荘地の雨」「街のうしろに」「冬の哀感」など十六詩から成っている。いずれも《感覚的な想像の世界に身を委ねたのびやかな習作》と、いう。そのなかでただ一つ例外は夜を歌った「(まが)ごと」だろう、といわれている。
《わたくしは夕な夕な 窓に立ち珍事を待った 凶変のだう悪な砂塵が 夜の虹のやうに町並のむこうからおしよせくるのを...夕焼けの凶ごとの色をみればわが胸は支那繻子の扉を閉ざし...わたしは凶ごとを待っている吉報は凶報だったけふも轢死人の額は黒くわが血はどす赤く凍結した・・・》この詩は、三島の死後になって、江藤淳が、三島文学の主調音がここに隠されていると評した、といわれる。

荒れ野の少年はさまよっていた。悪魔の誘いにのったイエスのように罪深かった。目的のない旅人のように荒んでいた。短歌、空手、喫煙、飲酒、シンナー、バイク、家出《大人たちに対する不満。怒り。鬱屈した熱情。行き場がない》やり場のない憤怒。少年は《一つの体のなかにツッパリと優等生−白と黒、天と地。この両極端なものをストレートにだして》他者にぶちあたっていた。だが、ときに少年は思い出した。自分の魂は何であったかを。孤独と愛の飢えによって育てた創造の芽を。創造を寄せる場のない少年はギターを手にしていた。そして、川端康成を読み、三島由紀夫の『文章読本』を読みこなしていた。だが、海路もない小船はただ荒波に抗するだけだった。この世の全てが敵だった。一人の教師がいた。教師は少年の魂を知っていた。迷える魂を救えるのは何なのか知っていた。嵐吹く夜に教師は灯台守りとなって荒海を照らした。それは一冊の本だった。豊には世界的名作『罪と罰』を読むように勧めた。美−美こそが世界を救うのだ。少年にドフトエフスキーの叫びは届いただろうか...後に少年は話題となった女優にソーニャをみていた。《ラスコーリニコフがソーニャの純な魂に触れることで救いを見いだしたように》尾崎もまた彼女に《けがれなきソーニャのような存在》をみていた。だが、真実の愛をついにつかみとることはできなかった。なぜなら献身の愛ソーニャは女優ではなく、エデンの少年と同じ母であったからだ。荒れ野の少年は詩集を出すかわりに『十五歳の夜』を歌った。少年は吟遊詩人となった。
《落書きの教科書と外ばかり見ている俺 超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる やり場のない気持ちの扉破りたい》
 
ふたりの少年は詩人になり得たのだろうか。十五歳−多感で傲慢でしまつの悪い年齢だった。ふたりはたんに自分が他者と違うのに気づいたに過ぎなかった。きっと「歴史に名を残す」「大物になる」そんなささやきに自惚れていただけだった。《彼の詩は学校の先輩たちのあいだで評判になっていた...少年はしかし自分のことを天才だと確信していた》エデンの少年は《うんと生意気》になり超然として《同級生よりむしろ先輩や教師と交わった》荒れ野の少年もまたギターを弾くことは《大変な武器を手にしていることに気づいたのだ》そして学校一派手な生徒になった。
《行儀よくまじめなんて クソくらえと思った 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった 逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった 信じられぬ大人との争いの中で 許しあい いったい何 解りあえただろう》

ふたりの少年の前途はまだ暗澹としていた。エデンの父は原稿をとりあげずたずたにした。どうしても役人にしたかった。荒れ野の父は《男はキリッとした男らしい男》自衛隊少年工科学校を望んだ。エリート軍人への道だった。どちらの父も果たせぬ自分の夢を託した。だがふたりは挑むように父に背いた。少年たちは躊躇していた。十五の扉の向こうになにがあるのか。不安だった。母の温もりからまだ離れがたかった。はるかフランスの田舎町の少年。十五歳で詩の処女作を書いたとてつもない天才。彼とて同じだった。
《−母の夢 それよりあたたかいしとねはないのだ−柔らかなねどこは母の夢なのだ。「みなし児たちのお年玉」》秀才で悪ガキだったその少年もまだ母の愛が欲しかった。ふたりの少年は扉の前でふと思った。《僕もいつか詩を書かないようになるかもしれない》。しかしふたりは《自分が詩人でなかったことに−気がつくまでにはまだ距離があった。ふたりはともに扉を開けて出ていった。エデンの少年は愕然とした。悲嘆にくれた。扉の向こうは負けるはずのない敗戦の国家があった。幼い日妹はきれいなパラソルもらったが雨降りつづきで気の毒だなと、うたった最愛の妹の死。この世でたった一人の友がいってしまった。少年は現実の総てを否定したかった。少年は心を閉ざした。そうして花の咲く森に住んで自分だけの世界を夢みた。自分だけの宇宙。自分だけの神様。荒れ野の少年は拳を握りしめた。怒りがこみあげてきた。扉の向こうは管理の社会だった。お金と地位だけがものをいう世界だった。
《俺をとりまいて金が動く、すべてがすべてに於いてそうなんだ。皆誰もが一緒なんだ。どちらを選ぶかなんて馬鹿げたことに思えた。−俺を理解する奴なんか一人も、ただの一人もいない。『約束の日』》
真理は美は、どこにあるんだ。少年はやるせなかった。許せなかった。妥協できなかった。少年は虚飾の海でもがきつづけた。そして、ただ一人理解してくれた母を失った。ふたりをもう「公ちゃん」「ユタちゃん」と呼ぶ人はいない。ふたりはすっかり老いてしまった。
《僕はまだ二十歳で 精神年齢は七十歳を越えているが 格好はどうも三歳児なんだ 僕を十二歳だという奴もいるが 僕は生まれおちてから七十歳のままさそれ以前の思い出はないけれど 何が誰の人生なのかその運命すら知っている 放熱していくその姿に似て紐解かれる 止まった時の行方「放熱」》

尾崎はあるインタビューで吟遊詩人のことを聞かれて「正しい意味は知らないが、いいイメージ」と答えていた。だが皮肉にも彼はそうなり得なかった。他者を嫌い他者にこだわりつづけた矛盾の溝からついに抜け出ることができなかった。ふとわたしの脳裏を過ぎったのは映画『わが心のふるさと』の一場面だった。すべての他者とマーケッテングに背を向けて旅立つアメリカ最大の吟遊詩人ウッディ・ガスリーの孤独でも雄々しい姿だった。三島はあるインタビューで「あなたが一番いやなことは」と間かれて「人間関係の粘つき」と、答えている。死してまだこうして見も知らぬ相手から詮索されるとはなんという皮肉だろうか。ふたりは俗性においてこの世の成功者だった。望むものはどれも手に入れた。だがふたりは俗人にはなれなかった。三島は自分の王国を築いて自らの手で破壊した。尾崎は常に戦いつづけて野たれ死んだ。面白おかしく浮世を過ごすことができなかった。「なぜか」その謎解きはすべて十五の歳にあるような気がする。真実の愛、真実の美だけを求めていたあのときに...

五月のある日、わたしは思い立ってたずねてみた。新緑の広い霊園の一角にその少年はいた。故人を思えば拍子抜けするような平凡な墓だった。つつじの植え込みやつくばいのあるありふれた基地内にその墓石は静かに立っていた。背後に枝のない二本の立木があった。案内図がなければ見過ごしてしまうほどの普通の墓だった。例の遺骨盗難事件で厳重な柵があったり。また白亜の殿堂のような、そんな近づきがたいものを想像していた。それが簡素な墓。雲上人と思っていた故人が急に身近に感じられた。墓前にはすでに色あせた菊の花が捧げてあった。二本の線香が燃え早きずに立っていた。墓石の裏に供養塔が横倒しに置かれてあった。そこには墨で《二十三回忌追善》と書かれてあった。墓の脇の石碑に霊位標があって故人となった六人の名が彫られていた。どの名前も書物で何度も目にした名前だった。わたしは一種奇妙ななつかしさをおぼえた。たずねた故人は四番目にあった。「恋人が私の手許に帰ってまいりました」と、言った母に抱かれるように。

「彰武院文鑑公威士 昭和四五年十一月二五日 去世俗名 平岡公威 筆名 三島由紀夫 行年四五歳」わたしはしばし合掌しながら不思議な気持ちにとらわれていた。行年四五歳。わたしはすでにその年齢を越えてしまった。あのとき二十歳そこそこだったわたしには事件も三島も見えなかった。そして23年の歳月が流れた今もやはり変わらない。はたして三島由紀夫とは何であったのか。ある人はその死を賛美し、ある人は侮蔑した。またある人はキリーロフ的と評し、ある人はジイドにになぞらえている。その実像は十人いれば十人それぞれに違うだろう。わたしは思った。母と子においてモーパッサンを。そして偶然に知り得た尾崎豊とその十五の魂において、そこに《同類の神、一人の詩人を見つけた》ランボーとヴェルレーヌを。もしふたりが同時代を共有したならばきっとどこかで...ふとそんな予感がした。いまにも泣き出しそうな灰色の空が重く垂れ下がっていた。閑散とした午後の霊園は不思議な安らぎがあった。わたしはもう一度、墓石に合掌した。そのきどこからか聞き覚えのあるロックの曲が流れてきた。静かにやさしく語りかけるように。仰ぐとその澄みきった歌声は若葉の間をぬってはるか上空の雲間に消えていった。