下原敏彦の著作
収録:下原敏彦・下原康子 ドストエフスキーを読みつづけて D文学研究会 2011
初出:ドストエフスキー曼荼羅 3号 日本大学芸術学部文芸学科 2009
ペテルブルグ文豪の子孫 小説・レニングラードの運転手
銀河郵便局着付遅配冊子小包に関する詫び状
このたび異境逓信ポストから下記、未配達冊子小包が発見されました。遺失の原因は、宇宙膨張に伴う時空の乱れによるものとみられます。地球時間二十五周期の遅れがでましたことに対し深く陳謝申し上げます。銀河郵便局黄泉郡区長 2009年9月10日
敬愛する ドストエフスキー殿へ 1984年9月10日 日本国の一一読者
前略 本日は吉報です。先般、貴殿は子孫の消息を気にしておられました。なんでも、最終確認しているのは、孫のアンドレイさんまでとか。しかし、そのアンドレイさんも、あの革命騒動や第二次世界大戦の混乱のなかで、ぱったり消息が途絶えてしまっているとのこと。人一倍、家族思いの貴殿だけに、たいそう心配されていました。前にもお話しましたが私は、貴殿の作品を愛読する一読者です。いまも作品から、人生の糧になる多くのことを教えていただいており、感謝しています。それ故、微力ではありますが、ご子孫の消息解明にお力添えできぬものかと、日頃より気にとめおりました。しかしながら、私が住むのは、極東の小さな島国。手がかりを得るのもなかなかです。それにご存知のように貴殿が愛してやまないロシアは、自由な情報交換・調査はまだまだです。(昨年も領空侵犯した民間機を撃墜したほど。鉄のカーテンは未だ健全です)貴殿批判もすでに解除されたとはいえ、ジダーノフの思想は、しつこくロシアの土壌にしみこんでいて、一朝一夕に拭い去られるものではありません。ロシアの現政権(ソ連)はむろん、世界の革命政府や独裁者それに組織するものにとって貴殿は依然として害虫なのです。統制された社会の敵です。為政者・革命家に忌み嫌われる作品でありつづけています。官僚機構に支配された私の国でも、当然ながら貴殿は日陰文学です。(皮肉なことに官吏に読者が多いのですが)
貴殿の作品は、貴殿が逝去の前年1880年に、わが国で紹介されたようです。貴殿はご記憶あるかどうかは知らないが、(本人は会ったことがあると書いている)宣教師ニコライ神父が設立した神学校で紹介したとのこと。訳も早く1882年に『罪と罰』が刊行され、以後現在まで、多くの作品が脈々と読み続けられてきています。そんなところから研究者も存在します。少数ですが、わが国にだってちゃんといるのです。しかし、貴殿に関する著書は、他の作家をはるかに凌いでいます。もっとも貴殿の作品と生涯は、あまりに謎が多すぎます。それが災いしてか研究者のあいででは、常に喧々諤々です。まさに、『福音書』は一つなのに教派は数知れず、です。(笑)こうした謎多い状況もあって、貴殿の血筋の行方は埋没するばかりでした。作品は論議されるが、子孫については、あまり顧みられませんでした。お孫さんのアンドレイさんの行状もあって、いつのころから「絶えてしまった」そんな結論が、まことしやかに囁かれ定着するようになっていたのです。実際、つい最近まで私もそれを信じていました。
しかし、喜んでください。貴殿の血はつづいていたのです!この悠久の存在宇宙のなかを脈々と流れていたのです。先日、その手がかりをつかみました。確証はありません。が、もしかして貴殿の曾孫さんがモデルでは――そんなことを思わせる小説を見つけたのです。三十枚足らずの短いもので、ちやんと装丁された本ではありません。多分、文学好きな人が仲間とだした季刊雑誌です。この冊子は、先日、南蛮船渡来図を探しに神田(古本街)にいった折り、手にいれました。装丁が立派な絵画古書を買ったので、店主が、古書の角が傷まないようにとクッションがわりに入れてくれたものです。おそらく知り合いか、得意客に頼まれて仕方なく店頭に並べていたが、場所をとるばかりで、厄介払いしたかったのでしょう。
せっかくなので古書を取り出したあと、捨てないで、暇つぶしにひろげてみたところ、レニングラード(1917年の革命以前はペテルブルグ)の話がありました。その街でトロリーバスの運転手をする男の身に起きた一種奇跡のような出来事について書かれたものです。物珍しかったので読んでみました。すると、どうも貴殿の子孫がモデルではないか、そのように思われたのです。作品は、拙文でまったくの駄作に他なりません。が、もしかしたらと気になったので、少しでもお役に立てればとお送りします。この話が真実に基づいた創作であったなら、そして、真に貴殿の子孫に関係する物語であったなら幸いに存じます。是非にご笑覧ください。追記 先般もお話しましたが貴殿の逝去以後、ロシアも世界も混沌状態に陥り、何事も真実を探るのは難しくなっています。人間は、今を生きるために虚偽もすれば演技もするのです。ときには名を隠し、名を変えて嵐が過ぎるのを待つことさえあります。子孫も例外ではなかったようです。革命政府ソビエト連邦の下では一層の困難だったでしょう。しかし、しかし、貴殿は祖国において漸くにして厳しい冬の時代終えようとしています。必ずや貴殿は、復活するでしょう。あのプーシキン記念祭講演の熱気が、いつの日か来たらんことを固く信じ、祈りつつここに筆をおきます。ご自愛ください。再追記 新事実、わかりましたらご連絡いたします。が、昨今、時空の乱れ多く黄泉便不確かなだけに再度遺失の難も予想されます。そのときは平に平にご容赦ください。
小説・レニングラードの運転手
この話は、レニングラードの市街を走る巡回トロリーバス運転手の身に実際に起きたある出来事である。もっとも、わざわざ物語にするような出来事ではないかも知れない。とるに足らぬ日常生活の一コマ。そんな一風景に過ぎないかも。だがしかし、運転手とその家族にとって、それは奇跡とも思えた大きな出来事だった。
一
窓外の黄昏近いレニングラードの街角は賑わっていた。小雪舞うなか、品物薄い昨今、どこで買い込んだのか、大きな紙袋や、カバンを抱え人びとが行きかっていた。明日は降誕祭を迎えるだけに凍てつく寒さでもその表情は明るく足取りは弾んでいるように見えた。「ふん、ごたいそうなことだ」トロリーバスのヒゲ面の運転手は、忌々しげに舌打ちした。運転中なら、腹いせに警笛を鳴らしただろうが、いまは乗客で、それもままならぬ。彼は、先ごろ退院したばかりで今は、自宅療養中だった。が、ときどき気晴らしと仕事復帰準備を兼ねて職場のバスに乗っていた。しかし、いつも逆効果だった。近づく降誕祭で賑わぐ街の光景は、彼の心を癒しも慰めもしなかった。ただ癇に障るだけだった。
彼は、ここ十日ばかり閉塞状態にあった。普段の彼は、いつも上機嫌で、運転中も、おしゃべりを絶やさない陽気な運転手だった。それが、このあいだ病院を退院してからなにか浮かぬ顔をしていた。ヒゲ面でクマのような体格の容姿をみる限り、病気の影響はないように思えた。実際、彼は、皆荷「手術は成功した」と言っていた。しかし、退院後は、なぜか冬場のレニングラードの空のように重く沈んでいて、生来の陽気さが見られなかった。なにかに思い悩んでいる風だった。バスがヤムスカヤ通りの角を曲がったとき、ぼんやり窓外を眺めていた運転手の目が、かっと見開いた。左手に何かを見つけたようだ。視線の先は、ペテルブルグの文豪の記念館の入り口から出てきたばかりの老婆だった。背痩せた小柄の老婆で、みすぼらしいボロのようなオーバーをはおっていた。頭に巻いた黄色いサラファンに見覚えがあった。「あっ、母さん !」彼は思わず叫んだ。「なんだって革命の敵の館なんかに」運転手は、おもわずつぶやいて、確かめようとした。が、バスは、大きく右折して、速度をあげた。振り向いてが記念館は、たちまちに遠ざかった。「あれは、確かに母さんだった」運転手は、眉をひそめて首をかしげた。「じゃあなんだって革命の敵の館に・・・、何用があったんだろう・・・」運転手は、呪文のように、運転中ずっとその言葉を口の中でつぶやいていた。
偶然に目撃した「反動作家」の館から出てきた母親。何故、彼はそんなに気になるのか。それを説明する前にこの人物について、もう少し詳しく述べてみよう。そのトロリーバスの運転手というのは、年のころ三十半ばで、いつもは髭むくじゃらの顔にリスのような人なっこい目をした、がっしりした中背の男で、ソビエト連邦のどこにでもいそうな典型的な労働者階級のロシア人だった。市内の3DKのアパートに母親と妻と、幼い娘と息子五人暮らしだった。彼は、陽気な性格で仕事が終われば居酒屋に駆け込んで大ジョッキ片手に、仲間とおしゃべりしたり歌ったりした。酩酊してくると、ときには、こんな大演説を一席ぶったりもした。
「―諸君!わが愛するソビエト共産党の労働者諸君。私は、文学には無縁な人間だ。だが、わが偉大なソビエト連邦には、世界に誇る小説家が何人もいる。我が輩がいくら文学嫌いでも、大先生方が成し得た功績ぐらいは知っておりますぞ」
「そいつあ、てえしたもんだ」周囲から呑みすけどものヤジと爆笑。が、彼は満足そうに頷いて、残りのビールを一気にぐいと引っかけてつづけた。
「・・・まずはプーシキンだ、次にトルストイ翁か、まてまて先んず革命の偉大な功労者ゴーリキーがいる。それに忘れちゃあいかん革命に協力的だったチェーホフもいる。反革命分子ではあるが、ソルジニーツインだって腐敗している資本主義国ではたいした有名人だときいている。ほかにゴーゴリだってレールモントフだってたいした作家だ」
「ほう、ほう、そりゃあまたご繁盛なことだ」冷やかしの口笛と、足で鳴らす床音。彼は、いったんここで言葉を切る。一休みもあるが、その実、聴衆からのつけたしを期待しているようでもあった。例えば「偉大なるショーロフを忘れているぞ」とか「ツルゲーネフはどうした」とかである。が、たいていは何の付け足しもないのが常だ。まだあげていない作家はいるが、呑み助たちにとっては、もうどうでもよかった。客はてんで勝手に怒鳴り笑い叫んでいる。騒音のボルテージは最高度に上がって彼の声はかき消される。酔客は、自分のしゃべりに忙しい。しかし、彼は、お構いなしに唾を撒き散らして怒鳴り続ける。
「― さよう、わが偉大な大先生たちの作品。むろん、私は、ただの一冊も読みきったことはなあい」「おーおーお。ひろげたことはあるんだな」途端、またしても近くの酔客がヤジを飛ばす。つづいて酒場全体の大爆笑。 聞こえちゃいまいが連中は、火薬のようなもの、マッチ一本で爆発するのだ。彼は、ヤジの方向をきつと睨と大声で言い放つた。
「おい、そこの、馬鹿にしちゃあいかん。たとえ読んでなくても、何を書いたかぐらいは知ってるぞ。プーシキンは『オネーギン』、『大尉の娘』がある。トルストイ翁は『戦争と平和』だ、チェーホフ先生は『桜の園』、ゴーリキーは『おふくろ』だ。『11人と一人』も知ってるぞ。どうだ作品の題名ならいくらでもあげることができるぞ―」
「てえしたもんだ、かじ屋のふいご」「てえしたもんだ、菜っ葉の肥やしだ!」あちこちからワーと嘲笑とからかいの歓声。彼は、酒焼けで赤くなった顔をくしゃくしゃにして熊のような手をあげ、テーブルを叩く。たいてい彼の演説は、このあたりから支離滅裂になってくる。いきなりあらゆるものに批判的になるのだ。
「―で、なんだ、だからどうだというんだ。作品を知っていようが、いまいが、小説を読んでいようがいまいが、それがどうした。たとえ大先生方の全作品を読みきったとしてもだ、それが、なんだ。何になるんだ。作家など、くだらん人間だ」
「おーおーまたはじまったぞ、大将の文学論」呑み助どもがあちこちで大笑いはじめる。
「そうだ、そうだ、芸術家なんぞくそくらえだ」なかには賛同者もいて、こぶしをふりあげ同調する。「おれたちゃ農奴、おれたちゃ農奴」酒場全体で大合唱があじまる。運転手は、我関せず。一人演説をぶっている。その作家批判の怒鳴り声はしだいにエスカレートしていって最高潮に達する。
「おれたちには革命の父、レーニン同志がいる。それで十分だ。そうだレーニン同志だ、わが父、わが偉大なるロシアの英雄。革命バンザイ! ソビエト社会主義国家よ、永遠なれ。共産党万歳!ソビエト連邦、万歳!」つづいて起こる狂乱の嵐。ロシア民謡、コザック踊り。居酒屋は、火事、地震が同時に見舞ったような大騒動に見舞われる。チェチェンの山賊もびっくりの空騒ぎとなる。
「バンザイ、バンザイ」の嵐の中、われらの偉大な労働者、運転手君は、最後の叫びを発してぶっ倒れた。が、あまりの騒ぎだったので、最後に何をどなったのか誰の耳にも入らなかった。聞こえたとしても、酔っ払いの断末魔かたわごとにしか聞こえなかった。もし録音してあれば「カラマーゾフ、バンザイ」たしか彼の叫びは、そんなだった。
彼がぶっ倒れると、それを見計らっていたように一人の老婆が、店内に飛び込んできた。ずっと外から窓越しに中の様子を伺っていたようだ。白髪のやせた老婆で、小柄なからだを前のめりにかがめて呑み助どものあいだを、巧みに分け入って運転手の元に駆け寄った。ほころびのあるオーバーに黄色のサラフファンを首に巻いた、みるからに苦労を背負い込んだとおもわれる風采の老婆だった。古希は、とうに過ぎていそうだ。運転手の母親タチャーナだった。彼女は、酔いつぶれている息子を揺さぶりながら「ディーマ、ディーマ」と呼んでいた。運転手の家庭での愛称らしい。ようやくにして息子が気がつくと彼女は、店の亭主に飲み代を払い、他の酔客や仲間に詫びて、千鳥足の息子の手を引いて出ていった。サーカスのクマ引きのようだった。ほほえましくも、もの悲しい光景だった。まあ、いうなれば、これが、この話の主人公われらが運転手君の、労働後の日常だった。栄えあるソビエト連邦、労働者階級の姿であった。どこにでもいる演説好きな労働者。この彼が、何故に短編とはいえ物語の主人公になり得るのか―、この台詞、何かの小説本の序文にあったような気がするが・・・まあ、それはよいとして、なぜ彼の身に救世主が起こすような奇跡的出来事が起きたのか。幸運が舞い降りたのか。
いや、その前に、奇跡の出来事を話す前に、この運転手君のことをもう少し詳しく紹介しておこうではないか。演説好きの運転手はレニングラードにはいくらでもいる。たいていの演説内容は、共産党を誉め、ソビエト連邦を誇り、レーニン同志を讃えるものだった。彼の演説が皆と異なるところは、ロシアの小説家の名をあげることだった。いつも数人の作家をあげた。言い忘れた作家は、呑み助たちが、か細い知識からつけ加えた。「チリコフはどうした」「まだヴェレサーエフを言ってないぞ」などそんな声である。何ゆえに彼は、ロシアの作家たちに拘るのか。酒場で酔いつぶれたとき叫んだ「カラマゾーフ、バンザイ」とは何を意味するのか。
二
ロシアの作家への拘り。それが、如実にあらわれるのは、トロリーバスの運転中であった。バスが、市街のヤムスカヤ通の横町に差しかかると、とたん苦虫を潰した顔になる。それまでの陽気さを失って攻撃的な独り言をつぶやきはじめるのだ。「まったく、なんだって、どうしろというのだ」意味のない独り愚痴がつづく。この現象は、先日の入院よりもっと以前、運転手というこの仕事になってからずっとである。五番街の角を曲がると「反動作家」の建物が見えてきた。くすんだレンガ色の三階建ての古い建物だった。それはペテルブルグ時代の大文豪が晩年を過ごしたアパートで現在は、その文豪の記念館になっていた。彼は、この記念館が視野に入りだすと、とたん落ち着きをなくして忌々しそうに「まったく、なんだって」などとつぶやきはじめるのだ。それもそのはず、その建物は世界的には「文豪の記念館」であるが、ここレニングラードでは「革命の敵の館」と、呼ばれていて、社会主義国の祖国を愛するものからは敵視されていた。
我らが運転手君は、ロシア革命を成し遂げた共産党政権をどこまでも支持し忠誠を誓っていた。「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンがすっかり身についた軍国少年ならぬ革命青年だった。それ故に1917年からつづく革命共産党政治に何の不満もなかった。あるとすれば唯一この記念館である。子どものころ学校で、この記念感の主は、反動作家と教えられた。革命を邪魔する人民の敵だと。いまでこそ寛容な共産党政府によって、その罪は解除されてはいるが、釈然としなかった。なぜ建物はあるのか。冷静に分析すれば、存在理由は明確だった。すべては理想社会を実現するためである。金のため。ドル紙幣のために文豪の記念館は必要なのだ。レニングラードにくる外国の、それも西側の観光客のほとんどは、この記念館が目当てなのだ。それはまぎれもない事実だ。記念館は、単に金儲けのためにだけある。文豪を称えるためではない。そう割り切っているが、建物や、入っていく西側観光客、それも東洋人をみると、つい不満もでる。ジダーノフ主義の洗礼を受けた世代にとって、それは致し方ないことだった。
腹立ちを一層つのらせる原因は、旅行客にもあった。春になると、遠い外国からどっと押し寄せる記念館の見学者。彼等は、文豪の足跡や作品舞台を見るためにレニングラード中を徘徊する。その観光客の大半が、極東のちっぽけな島国から、やってくる中国人もどきの黄色チビザルである。彼らは、時には一人で、時には団体で、ぞろそろやってきて文豪の墓参りや作品の舞台めぐりまでしていく。スターラヤ・ルッサに行くものもいるという。いったい何ゆえ奴らは、蜜に集まるアリンコのようにペテルブルグの文豪詣でするのか。なぜプーシキンやトルストイ翁ではないのか。ペテルブルグの文豪は、若かりしころ、人間の謎を解くことを人生の目的としたというが、チビザルの文豪詣でも、まさにその人間の謎に匹敵するような謎といえる。ロシア人にとっても謎だ。チビザル国は、よほど金持ちとみえて、老若男女金に糸目をつけないことで評判だった。それもまた、しゃくの種だった。
運転手が、あのチビザル観光客に嫌悪の感を抱くのは、「革命の敵」をせっせと詣でることもあるが、他に歴史的なこともある。むろん学校の歴史教科書には、書いてないが噂では、あのチビサルの国に、革命前、こともあろうに最後の皇帝ニコライ二世の軍隊が負けて、大恥をかいたという。世界に誇る海軍バルチック艦隊が、日本海海戦でいとも簡単に全滅させられたとも聞く。真実だろうか。極東の名も無き小国に負けた。本当ならそれだけでもツアーの王朝は滅んで当然と思った。そのことが関係するか、チビザルたちは、ロシア人をロスケとかクマとか呼んで軽蔑しているという。ドイツ人に言われても侮辱的なのに、アリンコのような黄色人に言われていると思うと、いっそう悔しさが増す。許しがたいことである。
しかし、わが革命政府は、先の世界大戦で、憎きドイツ帝国を打ち破ったばかりか、ファシスト同盟国の黄色チビザルも一蹴した。ツアーにかわり人民のわが赤軍が、バルチック艦隊の仇を討ったのだ。このことは学校の歴史の教科書に大きく明記してある。わが赤軍兵士は、アジアの人民を救った。父親アンドレイは満州国解放戦線に参加した。満州国は、黄色チビザルの植民地だった。多くのチビザルが大挙して住み着き、現地人を奴隷化していた。追い出したチビザルから戦利品として持ち帰った人形がある。ヨーロッパのものより洗練されたできだった。野蛮国ばかりと思っていたが、戦利品から想像すると、チビザルたちの文化の程度が伺い知れた。腹を切ったり、首をさらしたりする極東の野蛮人。そう思っていたが、その文化は、悔しいが我がソビエト連邦より上らしい。革命の敵なのに存在する館、中国人もどきのチビザル一行の参拝。これが革命青年運転手がペテルブルグの文豪に敵愾心を抱く理由だが、実は、秘密にしていることがある。それが文豪を嫌う根本理由にもなっている。嘘か誠かは知らないがその理由は、幼いころ母が、勉強嫌いの彼に勉強させようとして、うっかり口にだしたことで、知った。
「ディーマ、あなたの曾ジイちゃんは、えらい人なんだから」遊んでばかりいる息子に母は、思わずたしなめた。
「えらいって」兵隊ごっこをしていたディーマは、立ち止まって母親をみあげて不思議そうに聞いた。「ぼくに、曾ジィちゃんっているの」
タチャーナは、一瞬、はっとした。思わず口をすべらせてしまったことを後悔した。が、もうディーマに話してもいいころだと思った。息子は十歳になる。いつまでも隠し通せるものではないし、どう思うかは息子の判断に任せよう。そう決心した。
「いるわよ。その人はね本を、いっぱい書いたのよ」
「どんな」
「小説よ。世界では有名な本よ」
「うそだ、じゃあなんで学校にないのさ」
「それはね・・」タチャーナは困って苦笑する。
「その人、父さんのおジイちゃんだよね」ディーマは、頭を働かせて言った。
「そうよ。お父さんは、その人のただ一人の孫よ」
「じゃあ、ろくでもない人間だね、曾ジィちゃんも」
「なんてことを!」
「じゃあ、父さんはどこへ行ったのさ。ぼくや母さんをおいて」
ディーマは、近所の大人たちから、父親のアンドレイのことを聞いていた。父親のアンドレイが戦地から復員してきた翌年1945年ディーマが生まれた。一家は幸福になるかと思えた。しかし二年後、アンドレイは母子三人を残して家を出て行った。タチャーナは、夫がどんな人間か知っていた。
三
母親のタチャーナは1936年に結婚した。夫は職業不詳だった。あるときは設計家、あるときは発明家、またあるときは理論家で軍人。偵察隊のオートバイ兵、わかっている最後の職業は工兵隊長だった。性格は、お人好しで八方美人。女にはだらしなかった。要するにろくでなしだった。それゆえタチャーナは晩年になって「私の人生の喜びは子供たちでした。でも、残念ながら、子供たちも幸せではありませんでした」と、振り返っている。これもかれも、1968年ころ野垂れ死んだ元夫アンドレイのせいだった。彼のいい加減さはすぐに露見した。自分は貴族の出、ロシアを代表する文豪の子孫と、吹聴していた。新婚家庭は、嘘か本当か、たぶん嘘だろうが、文豪の甥と名乗る知人の家だつた。その間借りの家で娘のターニャが生まれた。戦争がはじまると、工兵隊長として、満州に攻め入った。露日戦争の雪辱を晴らさんと、悪行の限りを尽くしたらしい。逃げるチビザル家族からの略奪、虐殺、婦女子への暴行。人間ができることはなんでもやったという。そして、戦利品を山ほど背負っての凱旋。家族をレニングラードに呼び寄せた。復員の翌年1945年に運転手は生まれた。夫はターニャとディーマを可愛がった。レニングラード工業大学卒の履歴を生かしてまっとうな仕事を探しはじめた。家族にようやく平穏が訪れた。幸福な生活がつづくかと思われた。が、不幸は突然やってきた。ソビエト文芸界は、共産党に反する芸術家を攻撃しはじめたのだ。1946、7年ジダーノフ主義が吹き荒れ、夫が飯の種にしていた祖父だというペテルブルグの文豪も反動作家として槍玉にあげられた。変わり身の早い夫は、あれほど後生大事にしていた文豪だという祖父の姓を省いてしまった。子供たちにも名乗らせなかった。そうして、自分は名を変えて家を出ていってしまつた。妻と10歳の娘と2歳になったばかりのディーマを残して。運転手が許せないのは、父親としての無責任さや、女性から女性を渡り歩いたことではない。レニングラード中に、自分には家族はいないといいふらしたことだ。そのことで子供たちは傷ついた。しかし、タチャーナは、離婚できたときは、せいせいした。ジダーノフ主義以降、手の平を返したように、文豪の評価は変わったが、タチャーナは、密かに尊敬していた。作品の愛読者だった。文豪の血が、わが子にも流れていることが誇らしく思っていた。夫は、たしかにろくでもない人間だった。が、彼の祖父は、トルストイやプーシキンにも勝るとも劣らない文豪。人物も家族思いの立派な人間。そう信じていた。その血がわが子に流れている。それを思うとディーマを見る目もかわった。それが研究者たちに、義母と継子のような印象を与え血筋の行方を混乱させたらしい。
しかし、父なし子のディーマは、父親も曾ジイさんの文豪も好きではなかった。いまの苦労のすべては父親がだらしないせいと思った。その血筋の元、母親が尊敬するペテルブルグの文豪にしたところで、どれだけ立派な人間か。周囲の人たちから聞く話と母親タチャーナが話すペテルブルグの文豪は、その人物像がまるで違った。読んだことはないが、文豪の作品『分身』のように相反するものだった。学校や、他者から聞く文豪の話は、ひどい中傷ばかりだった。とにかく聞けばきくほどひどい家系である。人間のクズの集まりのような一族である。文豪にいたっては、とくにひどかった。文学狂いで職場を放棄する。運よく成功すれば、遊びまくる。怪しげなクラブに出入りし、ついには国家反逆罪で死刑判決。シベリアに流刑になる。その地でも他人の妻に横恋慕する。病弱な妻を置いて若い愛人との逃避行。幼女凌辱疑惑。若い女の子と再婚する。多大な借金を作って外国中を逃げ回った。ギャンブル好き。若い頃、貧乏して金貸し老婆殺人疑惑。その悪行は枚挙に暇がない。血筋は変わらない。文豪の父親も、ひどい領主だったらしい。領地の村娘をてごめにする。搾取するで、とうとう怒った農奴たちになぶり殺しにをされたという。これらは真実か虚偽か。運転手が耳にするのは、母以外は、こんな誹謗中傷の話ばかりだった。それ故に運転手は、自分が、もしかしたらペテルブルグの文豪の曾孫。呪われた悪しき血が流れている。そう思うと、たまらない気持になった。嫌悪感に苛まれた。それになによりも心配したのは、文豪に癲癇の持病があったということだ。運転手という職業柄、文豪の子孫ということが知られてしまえば、仕事をつづけられないかも知れない。そんな恐怖もあった。しかし、そうした不安とは別に心の隅に自分には、芸術家の血が流れている。父親のアンドレイが抱いていたそんな優越感がこびりついていて、それが文豪に対し複雑な気持をつくりだしているのも事実だった。そのことが、激しい敵愾心と酒場の大演説で無意識に口走る「カラマーゾフ、バンザイ」にあらわれていた。
四
彼は、窓外を眺めるともなく見ながら母が聞いたヤナーエフ医師の話を思い出した。退院の日のときのことだ。それより前。いつのころから、運転手は、こう丸のかゆみに悩まされていた。はじめケジラミと思った。それで毎日、石鹸で洗ったが、かゆみは増すばかりだった。てっきりインキンになったと思った。なにせ三十五歳の今日まで、病気らしい病気はしたことがなかった。水虫か痔は、いつも患っていたが、これは一種職業病と酒の飲みすぎ。そう安易に考えてほうっておいた。が、引っかき過ぎて下着が血だらけになったのを妻や母親のタチャーナに知られ疥癬か、よからぬ遊びでもらった皮膚病と疑われ、中央病院に行くことになった。しかし、検査の結果は、予想外の病名だった。
「こう丸腫瘍です」と診断された。しかも悪性のガンとのこと。運転手は、むろん家族は、谷底に突き落とされた。が、手術して切除すれば命に問題はないということで一安心した。で、師走に入ったばかりの十二月四日に手術した。術後は、順調だった。彼は、かゆみから解放された。こんなことなら、もっと早くに診てもらえばよかった、と悔やむほどだった。生来が丈夫で入院などしたことのない彼にとって、天国のような日が過ぎた。西側では、大金がかかるので、貧乏人は病気になれば死ぬだけと聞いていた。わが偉大な革命国家は、寛容で平等だ。ガンになって入院しても、ただの一ルーブルもかからない。共産党国家に感謝するばかりだった。
聖誕祭前に退院が決まった。母親のタチャーナが迎えにきた。妻と二人の子供たちは、家で退院祝いの準備に忙しいのだ。最後の診察をうけた。「すっかりよくなっていますよ」ヤナーエフ医師は、眼鏡の顔を近づけて明るい声で言って聞いた。「もうかゆみや痛みはないでしょう」
「ええ、たすかりました」運転手は、礼を言ったあと、恥ずかしそうに聞いた。
「それで、アレはもういいのでしょうか」
「アレ?ですか」ヤナーエフ医師は、一瞬わざとらしく考える風をした。それからニヤリとして「かまいません、かまいません。ただ過ぎてはだめですよ」と言った。その後、急に真顔になって言った。
「ドミイさん、ご家族の方は来ていらっしゃいますか」
「母が、きています」
「じゃあ、お母さんに、ちょっとお話が」
「なんでしょう」
「手術は成功、術後も良好。でも、病気はガンですからね。一緒に暮らしている家族に知っておいてもらいたいことがあるんですよ」言って医師は笑った。
病室では、タチャーナが大きなかばんに、洗濯物や日用品をせっせと詰め込んでいた。
「あとは、ぼくがやるよ」
「そうかい。ちょうどよかったお礼にうかがおうと思っていたところさ」彼女は、腰をさすりながら出ていった。ヤナーエフ医師は、にこにこしながら、彼女を迎えた。
「先生さま。おかげで退院できます。ありがとうございます」タチャーナは床に白髪がつきそうなばかりにお辞儀した。
「よかったですね。順調にいって」ヤナーエフ医師は、どこかぎこちない笑みを浮かべて言った。「およびだてしたのは、これからのことについて、お話しておきたかったのです」
「これからの・・・」
「そうです。なにしろガンですからね。切って治れば、はいそれまで、というわけにはいかないんです」
「なにか、問題が・・・」タチャーナは、不審そうに医師の顔を覗き込んで恐る恐る聞いた。
「もしかして死ぬんですか、ディーマは。まだ小さい子供がいるんです。二人も」
「お母さん、落ち着いてください。息子さんの病気は、すぐにどうなるという病気ではありません」ヤナーエフ医師は、やさしく笑った。
「じゃあ、助かるんですか」
「そうですよ。もちろんですよ。そんな病気じゃあありません」元気にこう言ったあと、一瞬複雑な笑みを浮かべて切り出した。「この病気は、手術後が重要なのです」
「重要・・・なんでしょう」
「薬を飲む必要があるんです」医師は、繰り返し言った。「抗がん剤を服用が必要なんです」
「ああ、そんなことで・・」タチャーナは、ほっとしたように微笑んだ。
「ええ、そうなんです。そのことなんですが」医師は、一瞬ためらっていいにくそうに言った。「その薬は、わがソビエト連邦にはないのです」
「ない?!」タチャーナは、意味がわからなかった。
「わが国では、薬学の分野は、まだ遅れているのです」
「ああ、神様」彼女は、思わず手を合わせた。が、すぐに気を取り直して聞いた。
「どこにあるんです、そのお薬」
「調べてみました。アメリカにもありますが、最新では日本の方が進んでいます」
「にほん?!」
日本と、聞いてタチャーナの頭に浮かんだのは、ろくでなしの夫が、戦場から戦利品として持ち帰った人形だった。日本人のことは、まったく知らないが、あの人形から受ける印象は、繊細な民族だということである。わが国は、宇宙にまで人間を飛ばせるのに、薬づくりは日本人に負けている。ツアー時代、戦争に負けたという噂は本当かも知れないと思った。
「そうです。日本の薬ブレオマイシンが、よく効くとのことです」
「じゃあ、お願いします。その薬を、どうかディーマに」タチャーナは、十字を切って頭を下げた。
「そのことで、実にいいにくいのですが、その薬は、とても高額なんです」医師は、気の毒そうに言った。レニングラードの労働者階級の経済事情は知り尽くしているといった顔だった。
「高額!!」タチャーナは聞いた。「おいくらですの」
「それが、見当がつかないのです」ヤナーエフ医師は困った顔で首を振った。「あちらでも、日本でも、相当な額とききました。たしか円だと16万円以上すると・・・一ヶ月の生活費に匹敵する額とか」
「ルーブルだと・・・」タチャーナは、ためいきまじりにつぶやいた。
実数は、わからなくても、とても家計からだせる金額ではないことが想像ついた。わが家には一銭だって余分なお金はなかった。二人の子供を持つ息子のディーマだって、そんな余裕はない。日本円で16万円もする薬は、トロリーバスの運転手の家族には、あまりにも大きな額だった。
五
「母さん、あきらめるよ」ディーマは、陽気にふるまった。家族のものにも、心配させまいとした。「薬を飲んだからといって、治るとも限らないし」しかし、家族の心配は、大きくなるばかりだった。「どうしたらいいんだろうね」タチャーナの毎日は、その呟きで明け暮れた。「アンドレイがいたら」元夫への愚痴もでるようになった。重苦しい家の中が嫌で、運転手は外にでた。帰りは、またあの家に戻るのかと思うと気がふさいだ。が、今日は、めずらしく足を速めた。妻は、降誕祭の準備を終えて待っていた。ご馳走が並べられてあった。子供たちは、うれしそうに騒いでいた。ほどなくしてタチャーナが帰ってきた。夕食のとき、運転手は、ついでのように聞いた。
「そういえば、今日、バスの中から母さんとよく似た人を見たよ」
「あら、そうかい。世の中には、いるからね。他人の空似といわれる人が」タチャーナは、そっけなく言った。
「私なんか、しょっちゅうセンナヤ広場であんたを見かけるような気がするわ」妻は、皮肉っぽく言った。
「あそこには手術以来いってない。いまだって、こうして帰ってるじゃないか」運転手はむっとして言った。
「だから、よく似た人の話でしょ。あんたが言い出した話じゃないの」妻は、笑ってかわした。
「パパ、なんの話してるの」息子のアリョーシャがホークをにぎったまま聞いた。
「おばあちゃんを見たって」カチューシャが答えた。
「どこで」
「あそこさ、反動作家の館」運転手は言った。
「はんどうさっかって」
「知らない」
「さあーさ、二人ともおしゃべりはいいから、早くたべてちょうだい」妻のニーナは、せきたてた。
二人は、皿の残りを急いで詰め込むと、テーブルを立ってソファーに行った。テレビで日本製のアニメが始まるのだ。狭い家だが、子供たちはいつも駆け足だ。ニーナは、運転手から、記念館の反動作家と我が家との関係を聞いていた。結婚して、しばらくしてバスのなかで、記念館を指差してよそ事のように言ったのだ。「もしかしてだが、あの記念館の反動作家は、曾ジィさんかも知れないんだ」「えっ!」彼女は、ひっくり返った。彼女にすれば、大泥棒が自分の家系の人間だと言われたようなものだった。反革命作家、人民の敵。学校でさんざん悪口をいわれてきた人物の血筋。でも、正直いうと彼女には、よくわからなかった。国家がそういうから、皆がそういうから、そうなのか、ぐらいだった。「親父が、あの逃げた親父が隠してたんだ」「結婚する前に言ってほしかった」彼女にしてみれば、自分の愛が、そんなもので計られたのかと悲しかった。反動作家であろうが、なかろうが自分はディーマを愛して結婚したのだ。子供たちが去った食卓は、急に静かになった。
「わたしよ」不意にタチャーナは言った。「ディーマが見たのはわたしよ」
「えっ、母さん、やっぱり」運転手は、口をあんぐりあけたままタチャーナを見た。そして、不思議そうに聞いた。「どんな用事で・・・」あそこに行ったのか。まるで見当がつかなかった。
「お前も、知ってるだろ、あそこには、日本人がよく来ることを」
「知ってるさ、金持ちチビザルが金をばらまきにくるんだ」
「お前の病気に効く薬が、日本にあることは、前に話しただろ」
「ああ、知ってる」
「だから、お願いしてみようと・・・」
「な、なんだって、母さん!」運転手は、思わず声を張り上げた。
「ばかばかしい。母さん、そんなみっともないこと、やめてくださいよ」子供たちが、びっくりして振り向いた。彼は、声を落として言った。
「あんなチビザルに頭を下げるくらいなら死んだほうがましだよ。なんだって母さんは、そんなことを、悔しくないんですか」
「だって、ディーマ。ほかにどこも、頼みにいくところがないんだよ。お前は嫌でも、もし何かあったら孫たちが可哀そうで。わたしゃ、この一週間、あちこち、算段に回った。でも、どこもだめだった。あそこが、お前と?がる最後の糸なんだよ」
「母さん、まさか、旅行者に頼んだりしなかったよね。そんなことしたら革命政府の、わがソビエト連邦の恥になるよ」
「旅行者に、するもんですか、第一、おまえ言葉が通じないじゃないか」
「それもそうだ」運転手は、苦笑した。気持が落ち着いたようだ。「じゃあ、だれに」
「あそこのお役人に相談してみたんだよ」タチャーナは言った。「お前のことを知っている人がいるからね。そしたら親切に教えてくれたんだ」
「どんなことを」運転手は、身を乗り出した。
「日本には、ペテルブルグの文豪の会というのがあるそうだよ。ここを詣でにくる人たちのなかには、その会員が多いといっていた」
「聖地めぐりのつもりか。まったく奇妙な連中だ」運転手は、不愉快そうに吐き捨てた。
「事情を話したら日本人は、金持ちだから、力になってくれるかも、といってくれた。なんといってもおまえは血筋のものなんだからね。日本人は、ペテルブルグの文豪を神様みたいに思っているそうだから、と励ましてくれたよ」
「ふん、あてになるもんか」運転手は、てんで信じなかった。
「明日は降誕祭。きっといいことがあるよ。偶然か、お前の曾ジィさまの作品に貧乏で可哀そうな子どもを書いたのがあるんだよ」
「チビザルに救われる話か」
「いや、キリスト様だよ。最後は、みんなキリストの子になるんです」
「なんだ、やっぱりだめな話じゃないか。キリストの子っていうのは死んだ子ってことだろ」
「あれはお話だかね。でも、こちらは真実だろ。キリスト様の力で、なにかいいことがありそうな気がするのさ。それで私は、その会にお願いしてみようと思うのさ。いいだろ」
「まあ、団体なら」運転手は、渋々頷いた。それから妙な顔をして言った。「へんだな文豪は、集団を嫌っていると話だったが・・・」
「そうかも知れないけどね。なんだって許してくださるよ、神様は」タチャーナは、浮き浮きした様子で立ち上がった。
「それでお母様、あちらの、住所は・・・」ニーナは、怪訝な顔で聞いた。
「ありがたいことに日本人は、丁寧に住所まで書き残していくんだよ。それも、日本語とロシア語で」
「まったく奇特なチビザルだ」
「善は急げだからね、エアーメールどこかにあったねえ」タチャーナは、探しはじめたが、ふと思い出したように立ち止まって聞いた。「日本は、どの方角だろうね」
「東だろ、あっちだ」運転手は、なげやりに指さした。
タチャーナはひざまずくと、その方角に向かって拝んだ。妻のニーナもつづいた。「どうぞ願いがとどきますように」長い長い祈りだった。部屋のなかには、二人の子供たちの明るい遊び声が響いていた。
外は、昔、文豪時代ペテルブルクと呼ばれたレニングラードの街に、雪がしんしんと降りつづいていた。(完)
【物語材料の後日談】 1981年1月6日、日本にある「ペテルブルグの文豪の会」事務局に、レニングラードから一通の手紙が届いた。文豪の曾孫の母と名乗るロシア人の女性からだった。頼みはガンの特効薬プレオマイシン懇願だった。高価な薬だったが、多くの人の好意によって1月15日、差出人の手に届けられた。このニュースは美談として1981年2月7日サンケイ新聞朝刊で報じられた。