ドストエーフスキイ全作品を読む会


ドストエフスキーと「オープンダイアローグ」


下原康子

1.オープンダイアローグとバフチン

現在、「日本の精神医療のパラダイムシフトとなるケア手法(斎藤環)」として大きな注目を集めている「オープンダイアローグ」(開かれた対話)。統合失調症の患者さんを、薬物治療を行わずに「対話」だけで回復に導いてきたという実績が数多く報告されています。このたび、わたしは、この新しい手法のルーツが、他ならぬドストエフスキーにあった!という発見をしました。

オープンダイアローグとは(ウィキペディア)
統合失調症に対する治療的介入の手法で、フィンランドの西ラップランド地方に位置するケロプダス病院のファミリー・セラピストを中心に、1980年代から実践されているものである。「開かれた対話」と訳される。統合失調症、うつ病、引きこもりなどの治療に大きな成果をあげており、発達障害の治療法としても期待されている。現在、統合失調症等の精神疾患に限らず会社、組織、家族等あらゆる場面において個々の生き方やその環境に置いての過ごし方をスムーズにする目的で利用され始めている。

きっかけは、敬愛する中井久夫さんの逝去(2022.8.8)でした。

中井久夫さんを読む(康子の小窓 読書日記)

中井さんの面影をインターネットのなかに探しまわっていたとき「オープンダイアローグ」という言葉が目に飛び込んできました。偶然が必然に変わる予感がしました。

国内におけるオープンダイアローグの第一人者は精神科医の斎藤環さんです。『オープンダイアローグとは何か』(医学書院 2015)、『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(医学書院 2021)などの著作や数多くの論文を発表されています。その斎藤さんが、追悼文のなかで、次のように書かれています。

私が目下啓発に取り組んでいる「オープンダイアローグ」は精神疾患に対する統合的なアプローチだが、その対話実践も「治療」より「ケア」としてなされる。中井先生の著作には、オープンダイアローグの思想に通底する発想が実に多い。中井先生の膨大な仕事から、対話とケアにまつわる知恵を継承することを、私は宿題として自らに課した。(斎藤環)

「オープンダイアローグ」に対する関心が一気に高まるのを覚えました。

オープンダイアローグの中心人物であるヤーコ・セイックラ教授は、それが「治療プログラム」でなく「哲学」であることを強調しています。曰く、「オープンダイアローグにおけるミーティングの言語実践は、他の治療技法とははっきり異なる。治療面接の基本となるのは『不確実性への耐性』『対話主義』『ポリフォニー』である」
(『オープンダイアローグとは何か』)

「対話」と「ポリフォニー」は、言うまでもなく、バフチンがドストエフスキーの芸術家としての独創性を表現するために創始した概念です。『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』(新谷敬三郎訳 冬樹社 1968)の中で展開されています。
ちなみに『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫 1995) は同書の2番目の訳です。翻訳者の新谷敬三郎先生はわたしにとってなつかしい方です。「ドストエーフスキイの会」や「全作品を読む会読書会」で何度もご一緒させていただきました。研究者には厳しく読者には優しい先生でした。

わたしの本棚にもこの本はありました。しかしながら、今の今まで開いたことさえなかったのです。実際、読み易い本とはいえません。『オープンダイアローグとは何か』のなかに、バフチンの名前を見出さなかったら、一生、読まずに終わったことでしょう。

「オープンダイアローグ ←→ バフチン ←→ ドストエフスキー」がつながったところで、互いの相関関係の説明が期待されそうですが、純粋読者のわたしには無理な注文なので、バフチンについては「引用」でお許し願います。『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』から、「対話」および「ポリフォニー」がまとまって説明されている箇所をそのまま抜粋させていただきます。

2.「対話」と「ポリフォニー」 
『ドストエフスキイ論 創作方法の諸問題』より引用

ドストエフスキイの創作の世界の中心にあるのは対話である。
ドストエフスキイの主人公の自己意識はたえず対話化されている。いついかなる時といえども、それは内部に向かい、自分に対して、相手に対して、第三者に対して切迫した呼びかけを行う。自分自身と相手とに対するこの生々しい呼びかけをほかにしては、自分自身にとってすら自己意識は存在しない。この意味においてドストエフスキイの人間とは呼びかけの主体であるといえる。主体について語ることはできない。━ だた呼びかけることだけが可能である。ドストエフスキイは《人間の魂の深奥》の描写を《最高の意味での》自分のリアリズムの主たる課題だと考えていたが、それは切迫した呼びかけによって初めて明らかにされる。内部の人間を冷厳中正な分析の対象にしてしまっては、捉えることも、見ることも、理解することもできない。かといって、それと一体になり感情移入を行っても、やはり捉えることはできない。そうではなくて、それに接近し、それを開示する━より正確には、それをしてみずから開示せしめる ━ ためには、それと対話的に交流するより他にない。ドストエフスキイが理解していたように、内部の人間を描くことができるのは、それとひととの交流を描くことだけである。人間を人間との交流、相互作用によって初めて、ひとにも自分自身にも《人間の内なる人間》が開かれる。

ドストエフスキイはポリフォニイ小説の創始者である。
それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家の意識の光に照らされて展開するが、そこではそれらの世界と等価値の多くの意識たちが、その個性を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる。実際ドストエフスキイの主人公たちは、作者の発想のそもそもから、ただ単に作者の言葉の対象たるにとどまらず、個々それぞれに意味を持った言葉の主体なのだ。主人公の言葉はしたがって、そこでは性格描写とか筋の運びの機能として使われているのでもない。主人公の意識は全く作者とは別な他者の意識だが、同時にそれは対象化されてもいず、閉ざされてもおらず、作者の意識の単なる客体ともなっていない、その意味においてドストエフスキイの主人公は伝統的な小説の主人公のいわゆる客観的な形象とは違う。


3.ドストエフスキーの小説は「オープンダイアローグ」仕様で描かれていた!

バフチンの「対話・ポリフォニー論」は、わたしの「ドストエフスキーの読み方・感じ方」にとてもなじみます。図らずも、わたしはバフチン的に読んでいたようです。このたび、ドストエフスキーの小説は「オープンダイアローグ」仕様で描かれている、という発見をしました。この発見について、読者の読みによる検証を、以下のように試みました。

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』第4章の「オープンダイアローグの5つの柱」を引用したうえで、わたしがドストエフスキーの小説から受ける印象や連想する場面などをコメントします。
(この部分は、「下原康子「オープンダイアローグとドストエフスキー」(ウェブマガジン『地域医療ジャーナル』2022年10月号)に書いたものと同じです。)

オープンダイアローグの5つの柱

第一の柱 対話を続けるだけでいい
対話が安全・安心で自由な場になることが基本。対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、“おまけ” として変化(≒改善、治癒)が起こる。対話を長く続けるために大事な心得は「大事な話ばかりしないこと」である。


ドストエフスキーの小説は入りこむまでにかなりの忍耐を要します。しかし、読了したときのいわく言い難い “おまけ” の実感が、得難い貴重な体験になるのは確かです。ドストエフスキーの小説は対話場面が大半を占めています。モノローグに見える『地下室の手記』でさえ、全編が「内的対話」です。読みながら読者も内的対話に導入されていきます。ドストエフスキーとの対話を長く続けるために大事な心得は「本筋に関係のない登場人物や横道」をも愛でることです。

第2の柱 計画は立てない
いっさいプランを立ててはいけない。予測もしてはいけない。改善が起きるときは、こちらの予測を超えた形で、飛び石的に改善していく。予測は裏切られることが多い。裏切られるとだんだん悲観主義になっていく。治療においては、悲観主義はなんの役にもたたない。圧倒的に楽観主義の方が有利である。


セイックラ教授は「治療者を含む参加者のあいだでなされる感情のやりとりにこそ、ドラマがある」「存在の一回性の出来事、それぞれの瞬間で何が起こっているか、その瞬間瞬間に同調できなければ対話のプロセスは止まってしまう」と述べています。この感覚は、ドストエフスキーと読者の交感のプロセスそのものです。ドストエフスキーのドラマは「突然に」が乱発されます。読者は、徹頭徹尾「予測を裏切られっぱなし」です。想定外だからこそ、わたしが「親密リアリズム」と名づけたところの大満足が得られるのです。

第3の柱 個人ではなくチームで行う
チームのいいところは、二者関係という密室から解放されること。転移などの依存関係が非常に起こりにくくなるので、治療者も解放される。すごく楽になる。関係者を巻き込むことによって話題が広がり、対話の継続性も高まる。


ドストエフスキーの人物は単独では意味を持つ現れ方をしません。彼らはいつでも、兄弟、家族、師弟、友人、子どもたち、世間など、ポリフォニックな対話空間の中でその姿を露わにしています。

第4の柱 リフレクティング 患者に治療者を観察してもらう
オープンダイアローグでは、ミーティングの途中で、リフレクティング ━ 治療者同士が椅子の向きを変えて向き合い、患者について話し合う場 ━ を設ける。患者に、治療者の迷いやためらい、治療者間の不一致や対立などを観察してもらうのだ。これが重要なのは、「患者がいないところで患者の話をしてはいけない」というルールがあるためでもある。患者の尊厳や知る権利を尊重することで、患者は自分が主体的に判断していいという余裕、余白、スペースを回復していく。


治療者同士の話をうわさ話のように患者に聞かせる「リフレクティング」は、『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などに登場する「第三者の語り手」━ うわさ話やジャーナリズムの役割を担っている ━ を連想させます。ポリフォニー小説の創作方法の一つかもしれません。

第5の柱 ハーモニーではなくポリフォニー
他者は、自分とは決定的に違うし、他者を自分と安易に同一化することは間違っているという認識。これがオープンダイアローグの一貫したテーマである。それをポリフォニー(多声性)という言葉で表している。私たちがこれまで医療現場で行ってきた、説得、尋問、叱咤激励、アドバイスなど、そのほとんどは、ただのモノローグ(独り言)だった。「会話」と「対話」は違う。「合意と同一化を目指す」のが会話。一方、対話は「自分と相手がいかに違っているのかを理解し受け入れる」ためのもの。常に、主観と主観の交換でしかありえないという意識で、「敬意を込めた好奇心」を持って他者の話を聞く。


ドストエフスキーの小説は、本筋とはあまり関係のない小人物たちやエピソードがむやみに多いという理由から敬遠されることがあります。わたし自身も、読み始めたころは、そういう箇所は退屈で読み飛ばしていました。でも、辛抱強く読んでいるうちに、登場人物たちのそれまでとは別の顔が(主人公、小人物にかかわらず)生き生きと現れてくるようになりました。今のわたしは、読み返すたびに、新鮮な驚きの感情で心が満たされるのを感じます。このたび、その理由の一つが「ポリフォニー」に由来することがわかりました。ポリフォニーは「敬意を込めた好奇心」に根ざした「哲学」ではないでしょうか。

4.ケアの達人「私のアリョーシャ」論 
下原康子:ケアの達人 「私のアリョーシャ」論(下原敏彦・康子著『ドストエフスキーを読みつづけて』D文学研究会 2011)所収)

(この章は蛇足かもしれないので、飛ばしていただいてかまいません)
このエッセイは、わたしががん専門病院の患者図書室で司書をしていた2007年に書いたものです。図書室で、患者さんの深刻な話に接したときに感じたとまどいや葛藤、ロボットと化した自分自身に対する不満を解消したいという思いから、お手本探しを始めました。思いついたのが『カラマーゾフの兄弟』の末っ子アリョーシャでした。「オープンダイアローグ」を知った今なら、アリョーシャを「ケアの達人」よりも「「オープンダイアローグの御用聞き」に見立てたでしょう。これならば、お手本にしやすく、あれこれ悩まずに、セイックラ先生が言われたように「今まさに苦悩のただなかにある人とのコミュニケーションに細心の注意を払う」ことに集中できたかもしれません。

おわりに

「オープンダイアローグ」の5つの柱が、「ドストエーフキイ全作品を読む会 読書会」に(よいかどうかは別にして)奇妙に符合していることに、はたと気づかされました。

新谷先生の言葉を思い出します。

この会はこうした出会いの場所、そこにはしかし、いつもドストエーフスキイがいるはずなのですが、実は私たちはまだその人を見たことがない。おそらくそのせいで、しきりに彼の噂をして、出てくるのを待っている。あるいは無駄なことをしているのかもしれません。確実なこと、有用なことでなければしないという人にとってはきっと意味のない場所に違いありません。でもおかげでちゃんと続いているのでしょう。(ドストエーフスキイの会10周年の挨拶)

新谷先生亡きあと数年間、奥様と年賀状のやり取りがつづいていました。ある年の年賀状に「高齢のため来年からは失礼いたします」続けて「本も読まなくなりましたが、中井久夫さんだけ読んでいます」と記してありました。