下原敏彦の著作
収録:ドストエーフスキイ広場 No.14(2005)

                     
追悼 熱血の人岡村圭太さんを偲ぶ

下原敏彦

2004年は、後半になってドストエーフスキイ関連の人の訃報が相次いだ。一昨年秋にド会で記念講演してくださった作家の川又一英さんとロシア文学者の原卓也さんである。いつのときもそうだがドストエーフスキイに関係する人たちの死去は、直接に親交がなくても寂しい思いがする。それだけに例会や読書会に参加されていた人の死は、いっそう辛く残念なものがある。昨年の11月24日、一枚の喪中ハガキを受け取った。差出人の女性の名前を見て、一瞬、戸惑ったが、次の瞬間、すべてを理解した。あの熱血の人・岡村圭太さんはもういないのだ、と。晩秋の夜半、木枯らしが過ぎていくのを聞きながら何度もハガキを読み返した。

ドストエーフスキイの会会員であり、読書会の常連参加者でもある岡村圭太さんはここ何年か病魔と闘っていた。そのことは知っていた。そして、それが厳しい状況にあることも――。5年前だろうか。岡村さんから読書会欠席の連絡をもらった。そのとき「実は、手術することになってね」と病気のことを明かされた。が、なぜか、深刻には受け止められなかった。それまでの古武士然とした印象から、岡村さんなら、きっと病魔に打ち勝ってくれる。そんな勝手な望みを抱いたのだ。手術後、岡村さんは時々出席されるようになった。以前のような一刀両断の批評は聞かれなくなった。が、それも病みあがりのせいと楽観視していた。しばらくして岡村さんは、ふたたび欠席が目立つようになった。しかし、それほど心配しなかった。というのも、折に触れ『読書会通信』や投稿記事の感想をいただいていたからである。その都度、欠席をわびる末尾に「体調がよくなったら顔を出します」と記してあったのだ。だから、そのうち「悪いね。治っちゃったよ」こんな憎まれ口をたたいて、顔をみせてくれる、そんなふうに期待していた。

しかし、それも夢と消えた。もうあの眼鏡の奥に光る鋭い眼差しと子供のような人懐こい笑顔を、見ることはできない。そうしてまた、あの歯に絹きせぬ小気味良いだみ声を聞くことができないのだ。それを思うとよけいに無念で残念である。訃報のハガキを受け取った翌日の25日は、初訪日したドストエーフスキイの曾孫ドミトリイ氏が早稲田大学で講演する日だった。恐らく岡村さんは地団駄を踏む思いだったに違いない。「とにかく私も幼い魂をドストエーフスキイに鷲づかみされた一人」という体験(『広場』)あの日から密かに抱きつづけてきたドストエーフスキイへの熱き思い。それだけに、もしお元気なら、真っ先に駆けつけ、そうしてイの一番に手をあげ質問し感謝の念を告げられる。そんな光景が思い浮かぶ。 

岡村圭太さんとはじめてお会いしたのは、1999年5月に東京芸術劇場・中会議室で開催した30周年記念シンポジウムの会場だった。テーマ『ドストエーフスキイと現代』のパネルディスカッションがはじまる前、出席者の一人が木下先生の著書にサインをお願いしていた。少年のように頬を紅潮させたその人が岡村さんだった。ドストエーフスキイの会に出会った感激を岡村さんは、エッセイでこう書いている。

朝日新聞夕刊「会と催し」欄の告知記事の中にあったのが直接の参加理由です。定年後の拠り所は文学しかないと考え始めた矢先、木下豊房著『近代日本文学とドストエフスキー』の新聞評を目にし購入。まっさらの著書を携え、会場に顔を出し、ミーハー的にサインをいただいたのでした。これ(参加)を機会に、作品と生活の両面からドストエーフスキイを読み直そうと思い立ちました。かくて、平成11年9月25日、私はドストエーフスキイの会会員となりました。皆様、どうぞ宜しくお願いいたします。(『広場No.9』)

岡村さんは、それまで証券業界で超多忙なサラリーマン生活を送ってこられた。定年になって、残りの人生で、若いとき夢中になったドストエーフスキイをふたたび読んでみようと決心された。それ故に、ドストエーフスキイを読むということには、人一倍熱心ではなかったかと想像にかたくない。入会の経緯を述べる言葉から真摯な意気込みが伝わってくる。会員となった岡村さんは、毎回、例会、読書会に出席され、頼もしい会員となりつつあった。しかし、その辛口批評は、発表者にとって、ときには、煙たい存在だった。が、二次会では談笑されていた。あいまいさがまかり通る現代。常に本音でしかぶつからない岡村さんは、貴重な人材だった。その意味では、ドストエーフスキイの会にとっても読書会にとっても惜しい人を亡くしたと残念でならない。

私事でいえば、岡村さんは私にとっても、常によき読者、批評家であった。発行している「読書会通信」のみならず、新聞に投稿した私の拙文を読み、すぐに感想を寄せてくれた。必ず読んでくれる人がいる。発行者として書き手として、これほどの励ましはなかった。思えば、私が病気を励ました以上の励ましを岡村さんから受けていた。

岡村さんから最初に感想をいただいたのは、シンポジウムの質疑応答だった。「何か、質問は」木下先生の言葉が終わるか終わらないうちに、威勢のよい声で手をあげたのが岡村さんだった。「少年Aは、現代のドストエフスキーでしょうか」いきなりの、厳しい質問に満足いく答えというか説明ができなかったように記憶している。

しかしその後、『広場』に寄せていただいた感想は「ドストエーフスキイを『透明な存在』の発見者と規定し、何故、その発見ができ、それを描けたか、又、生身のドストエーフスキイ自身永い間捉えられつつもその支配を脱したのはなぜか、といった論考は、それ自体がすぐれたドストエーフスキイ論と思われました。」と、いった好意的なものだった。

私が『ひがんさの山』で郷里の新聞社主催の童話賞を受賞したときも、ドストエーフスキイと結ぶこんな書評をいただいた。「ラスコーリニコフの斧が憎悪の一撃であるのに対し、正雄少年のナタは愛の一撃であって、こんなところにも紛うかたなくドストエフスキーを感じた次第である」

欠席の岡村さんからは、たびたびハガキをいただいていた。最後のハガキは、今年の夏のはじめ、私の出版を祝う会への欠席の知らせだった。「誠におめでとうございます。参加できずまことに残念です。今や『ひがんさの山』の感想書かせていただいたこと、なつかしく光栄に存じております。岡村圭太」思えば、これが今生の別れのあいさつだったかもしれない。気づかなかったことが、悔やまれてしかたがない。

11月26日、岡村さんの奥様岡村恵子さんからからふたたび電話をいただいた。「娘が、こんど読書会に出席してみたいと言っていますが、かまわないでしょうか」。無念の闇のなかに一縷の光明を見た。一粒の麦は死なず。さらば熱血の人よ!