下原敏彦の著作
ドストエフスキー曼荼羅 特別号 2018
清水正とドストエフスキー
日芸のモノリス 清水正・ドストエフスキー論 五十周年に想う
下原敏彦
一 祝「清水正・ドストエフスキー論」五十周年
清水正先生、ドストエフスキー論執筆五十周年、おめでとうございます。ドストエフスキーに魅せられ、あるいは憑かれて作品論に挑戦する読者や研究者は、いつの時代にも大勢います。しかし、半世紀にわたって間断なく書きつづけ、発信しつづけている論者となると、稀です。古今東西を見渡しても、はたして何人の論者をあげることができるでしょうか。―その意味で「清水正・ドストエフスキー論」は、奇跡です。この偉業、天国の文豪も驚きと称賛をもっと見守っていると思います。
想像・創造批評によってできた、このドストエフスキー作品の批評山脈。そのスタートは、いつどのような動機からだったのか。例えば、ドストエフスキーは、十七歳のとき、生涯を決定するこんな手紙を兄ミハイルに書いてる。
ペテルブルグ、一八三九年八月十六日
「ぼくは自信があります。人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。もし生涯それを解きつづけたなら、時を空費したとはいえません。ぼくはこの神秘と取り組んでいます。なぜなら人間になりたいからです。」(『ドストエーフスキイ全集十六巻書簡(上)河出書房新社一九七〇 米川正夫訳)
こう宣言して小説を書き始めた。奇しくも清水教授は、同じ十七歳のとき、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』と出会った。そして、自分の人生を「ドストエフスキーの作品を残らず批評しつくすこと、それが私の仕事になった」(『ドストエフスキー初期作品の世界 清水正』沖積社一九八八「あとがき」)と、決心してドストエフスキーの作品批評の道を歩みはじめた。
「青春時代の真ん中は、道に迷っているばかり…」そんな歌もあるが、二人ともなんと早熟で探究心に溢れた若者であったことか。だが、その決意に些かの迷いも偽りもなかった。ドストエフスキーは、シベリヤ流刑、借金、家族の不幸、癲癇発作など、幾多の試練に遭いながらも五十九歳で生涯を閉じるまで、人間探究の作品を書き続け、初心を貫いた。清水教授は、順調な船出ではなかったが、日芸という土壌にしっかり根をおろし、ドストエフスキー研究に没頭した。十九歳で、早くも最初のドストエフスキー論『白痴』に着手。そして『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』、『未成年』と矢継ぎ早に、発表してその成果をみせた。この頃の教授の活躍はめざましいものがある。二十二歳のときには『ドストエフスキー体験』を改訂した『停止した分裂者の覚書』(豊島書房)を出版している。一九八八年には『ドストエフスキー初期作品の世界』(沖積舎)を上梓している。
あの日から五十年間。教授は、ひたすら想像・創造批評を駆使して、謎多きドストエフスキー作品の解明に取り組んできた。そして二〇〇七年には、ドストエフスキー論の集大成の手はじめともいえる『清水正・ドストエフスキー論全集』第一巻を出版した。そして、約十年の後、ことし二〇一八年には、一つの区切りとして『清水正・ドストエフスキー論全集』第十巻を刊行した。この五十年に及ぶドストエフスキー作品批評の人生。それは、傍目には知られざる悲しみと苦しみの旅でもあった。その人生において、最愛の母を失い、幼き息子を送った。ドストエフスキーを探究することが、こんなにも辛いことか、苦しいことか。いくたび、絶望の淵で、運命を呪ったことか。
しかし、教授は、やめなかった。あきらめなかった。迷いこんだら抜け出せない深き森。はるかに聳える峻厳なドストエフスキー山脈。地図あれど道なき道。羅針盤さえ役立たない海路。その歩みが、どれほどの犠牲と困難を必要としたか。いま満身創痍となって、難病の痛みに耐える教授の日常生活をみれば、わかるというもの。ドストエフスキーの旅がいかに厳しく大変なものであったか想像に難くない。だが教授は、その人生において目標とした「ドストエフスキーの作品を残らず批評しつくすこと」は立派に成し遂げた。今日までに刊行された多大な批評作品群がそれを証明している。これら世界でも稀な批評作品群は、モノリス(映画『二〇〇一年宇宙の旅』で類人猿に知を与えた建造物)として、この先、注目されるに違いない。改めてドストエフスキー論執筆五十周年の偉業に敬服する。清水教授は、来年古希を迎える。ドストエフスキーより十年、この世を長く過ごしたことになる。読者としては、さらなる解釈と発見を期待している。が、これからは、健康第一として、身体に気をつけながら想像・創造批評に励んでほしい。今後ますますのご健勝をお祈りしたい。
二 はるか学園紛争を離れて
半世紀に及ぶドストエフスキー作品との格闘。その人生は内外ともに決して安楽な旅ではなかった。とくに学生時代――教授がドストエフスキー論に着手した頃、外的には、大変な時代だった。一九六八年、その年の五月フランスのパリで燃え上がった大学紛争は、あっという間に全世界に燃え広がった。日本でも全国の大学に火の手があがった。全共闘時代の幕開けである。しかし、教授の母校日大は「我が日大からはデモ学生は一人も出ない。出さない。学園紛争など起こるはずはない」と、豪語していた。
だが、日大も例外ではなかった。ある日、突然に自然発火し、一気に燃え広がった。もっとも日大闘争の発端は、他の大学のように政治や思想的背景ではなかった。当時、激化しつつあったベトナム戦争反対でもなかった。日大の学生運動は、単純で深刻な問題から発生した。学校当局の不正、学園の封建体制への反発。そして社会のなかでの差別と偏見と、いわれのない侮蔑。日大闘争は、悲しき魂の怒りの爆発だった。正義の訴えと、悪の追放。それがはじまりだった。そんな吹き荒ぶ学園嵐のなかで、「清水正・ドストエフスキー論」の執筆はスタートした。右派でも左派でもない。ましてノンポリでもない。清水教授は、たった一人、孤独の闘いを開始したのだ。この頃の様子を、教授は『日藝ライブラリー No.3』のなかでこのように回想している。
全学連の連中が動き出し、連日、校舎前ではデモ行進が行われた。わたしは大講堂の二階から彼らの熱い行動をひたすら見ていた。わたしには彼らと行動を共にする情熱も理論的な支柱もすでに崩壊していた。わたしは十七歳でドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んで以来、行動する理論的根拠をなくしてしまったのだ。(『日藝ライブラリー
No.3』「松原寛との運命的な邂逅」)
「一人衝立の中に籠って、ドストエフスキーを読みつづけ、作品論を書きつづけていた」近年、清水教授は、当時のことを、飲み会の席などでこのようにも述懐していた。バリケード破り、学校封鎖、投石、火炎瓶。右翼学生とデモ学生の衝突。戦場となった大学構内。そんな江古田校舎の校内にこんな架空場面を想像する。
デモ学生、体育会系の右翼学生、機動隊が入り乱れての芸術学部校舎。戦いすんで日が暮れて森閑となった教室や研究室。無人の教室を見回る勝ち組の学生たち。彼らは、文藝棟の教室の隅に衝立を見つけた。なかに人の気配。
「だれだ!」誰何すれども返答なし。さては逃げ遅れた敵対勢力か。気色ばんで衝立を開ければ、なかにいたのは学生一人。机にうず高く積まれた書籍のなかに顔を埋め黙々と本を読んでいた。取り囲む男たちに動ずる様子もない。我関せずで読書に没頭している。長身の体はやせ細り、背中までたれた長髪。幽谷でなくても不気味な雰囲気が漂う。
「だれだ!なにをしている?」さすがの兵どもも恐怖に駆られて叫んだ。その問いに、漸くその学生は緩慢に振り返った。眼鏡の奥からの視線は、どこか遠くを見据えているようだった。その異様さに取り囲んだ暴力学生たちは、逡巡した。
「ここで何してる」一人が勇気を振り絞って大声で聞いた。
「もう少し静かに願いませんか。本を読んでいるんです」突然、その学生は口を開いた。落ち着いた低い声だった。
「ほん?本を読んでいるだと?」
「こんなときにか――」
「いったい、どんなほんか?」興味をもったのか一人が聞いた。若者は、無言で読んでいた厚い本をもちあげ表紙をみせた。
「ど、す、とえふ――」
「なんだ、それは」 彼らは、あんぐり口をあけて佇んでいた。不可解なもの、理解できぬことには対応できないらしい。
「こんなときに、なんなんだ。あたまがおかしいのか」彼らは、首を傾げ口々に疑問を呟きながら去って行った。その学生は、何事もなかったように再び、読書をはじめた。彼らは知る由もなかった。その本がドストエフスキー全集だったことも、その学生がその後、五十年も同じ姿勢で、その本を読みつづけていくことも、作品の謎に挑戦してドストエフスキー論を執筆しつづけていくことも。そして、日芸の名物教授にして日本を代表するドストエフスキー研究者の一人になることも、想像すらできなかった。
少々、空想的過ぎたが、清水正教授が、ドストエフスキー論を執筆しはじめたときの身辺は、およそ、このようなシーンが展開されたのではなかったか。
三 一九六八年の日大闘争
学園闘争の真っただ中で無心にドストエフスキーを読む日大生。彼の頭にはドストエフスキーしかなかった。ドストエフスキー以外のものは目に入らなかった。「人間の神秘を解く」十七歳のときにドストエフスキーが宣言したように、その学生も、十七歳のとき人生を懸けて「ドストエフスキーの作品をすべて批評しつくす」と決心し歩みはじめたのだ。ところで教授は、知っていただろうか。ちょうどそのころ、ドストエフスキー論で知られる日大出身の作家が、義憤に駆られ(日大出身の俳優や評論家たちと協力して)ある声明文を発表していたことを。
清水教授の学生時代は、はるかデモ群衆を離れてだった。ドストエフスキーを読み、作品論を書き始めた。それはニコライ一世の(秘密警察)統制抑圧の嵐が吹くロシアで文学を志し、小説『貧しき人々』を書き始めたドストエフスキーの青春と重なる。文豪は、やがて活発な思想活動に嵌っていく。教授は、学園紛争には「行動する理論的根拠をなくしてしまった」として、ドストエフスキー論を書きつづけたが、戦い終わった日大の戦場が原にはどんな風が吹いたか。それを知るためには、あの日大闘争について、もう少し振り返ってみたい。
一九六八年五月、フランスで燃え上がった学園紛争の炎は、たちまちのうちに全世界の大学に燃え移った。日本も例外ではなかった。その炎は、枯野に放たれた野火のごとく勢いよく日本全土に燃え広がった。
そのなかにあって一人日本大学だけは、学園紛争と無縁だった。それ故「ポン大生がデモなどやるか」そんな悪口が公然と囁かれた。
しかし、その年の夏、突如、日大に火の手はあがった。日本一の学部数、学生数を誇る各地の日大校舎から一斉に火の手があがったのだ。世間もマスメディアも驚いた。「あの日大生が?…」誰もが唖然とした。容易に信じなかった。が、真実だった。学部ごとに各地に聳える日大校舎は、学生たちによって次々に落城、占拠されていった。
大学も政府も、対策には、なぜか機敏だった。香港帰りの警視庁公安部警視正・佐々淳行警備第一課長を、鎮火すべき神田三崎町の日大校舎に向かわせた。彼は、後に東大安田講堂攻防戦や連合赤軍浅間山荘事件で警備幕僚長として活躍、名将として名を馳せた。その彼とて「日大生起つ」の報に接したとき、容易に信じられなかった。どうせ他大学の学生運動家が、宿り木のように巣くったに違いない。そう思った。それもそのはずである。当時、彼の知る日本大学はこのようだった。
日大は徹底した商業主義に基づくマンモス教育企業であり、その放漫きわまる経営方針ゆえに私立大学紛争の最高峰となったのである。そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。(中略)二部(夜間)や通信教育をいれると三十万人ともいう。(佐々淳行著『東大落城』文春文庫)一九九六」
学生の大量生産化は、学生たちを無気力、無関心にした。また応援団や暴力右翼勢力によって問題意識の徹底的な排斥もおこなってきた。それにより向こう百年、日本大学には、学生運動は起きない。そんな定説が生まれもした。それだけに日大生の反乱は、市井の人々にとっても驚きであった。そして、或る種の感動でもあった。あの日大生が、ついに起った。不正に怒りの狼煙をあげた。バリケード解除を要請された警視庁も「これじゃあ日大の学生たちが怒るのも無理はない」(佐々淳行著『東大落城』)とまで思わせた日大紛争だった。が、暴力に対する暴力の訴えは、しだいに彼らを窮地に追い込んでいった。
孤軍奮闘の彼らに援護の声明文を送ったのは、ドストエフスキー論で知られる作家埴谷雄高はじめ九名の日大出身者だった。埴谷雄高 宇野重吉 佐古純一郎 池田みち子 伊藤逸平 後藤和子 沙羅双樹 当間嗣光 中桐雅夫 である。(『叛逆のバリケードー日大闘争の記録』日本大学文理学部闘争委員会 一九六八)
埴谷氏は、自らの経験からも組織運動の末路、暴力闘争の果てを充分に理解し認識していた。ドストエフスキーにも学んでいたはず。だが、それでもなお身を挺して、声明文に名を連ねた。彼らは、世間の評価を気にすることなく、学校当局を恐れることなく、正々堂々、日大魂をみせた。次がその声明文である(このとき筆者が知っていたこのなかの著名人は、俳優の宇野重吉だけだった。宇野重吉は、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」の大泥棒・蜘蛛の陣十郎役で覚えていた。)
日大出身者たちの声明文「燃える怒りの火を消すな」
三四億円の使途不明金問題をかわきりに学園の民主化をめざして闘っている学生諸君、君らは今、日本大学の新しい歴史をきり刻んでいる。日本大学の民主化闘争は日本の最右翼の大学における反逆である。だからこそ、砲丸から日本刀まで持出した体育系右翼の暴力と、機動隊の介入は決して偶然のものではありえない。しかし、一〇万人の日大生は、かいならされてはいなかった。その証明を、君らは闘いの中で展開している。日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。それは自由を暴圧するすべてを包み、反逆の怒りをさらにもえあがらせる力となるだろう。私たち日本大学を巣立った有志は、君たちの闘いを支持し次のことがらを声明する。
一、三四億円の使途不明金問題を出し、さらに右翼暴力団、体育系学生を動員しての暴
力事件に対して、理事会は責任の所在を明確にし、大学を真の教育の場とする方針を
具体化せよ。
一、大学は学問追究の場として、学生の、表現・出版・集会の自由を認めよ。
一、これまでにおこった暴力事件の責任を無学生に転嫁した退学・停学等の処分を撤回
し、今後このような学生に対する不当処分をくりかえすな。
一、学園民主化のため、暴力と弾圧に屈せず闘っている学生諸君の勇気ある行動をたた
えこれを支持する。
(『朝日ジャーナル』一九六八年六月三〇日号より転載)(『叛逆のバリケード』――日大闘争の記録)
このときたちあがった学生たちは、結果的には国家権力の前に敗北した。だが、この声明文は十万日大生の胸を打った。心の中に支えとして残った。そして日本社会底辺で働く数十万余の日大OBの誇りにもなった。そして、それ以降、日大の名誉を高める原動力となった。日大闘争の敗北を境に日大の評判は、少しずつ良くなっていった。大学の評価も高まっていった。結果、蔑称「ポン大」は忘却の彼方に去った。それは、まさに『カラマーゾフの兄弟』の序文を飾る福音書の教えをみるようでもあった。
まことに、まことに汝らに告ぐ。一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。(「ヨハネ福音書」第十二章二十四節 )
それほどまでに我が日本大学は、「恥辱の歴史」にまみれていた。ちなみに清水教授が学生だった頃の日本大学は社会からどう見られていたのか。日大芸術学部敗戦時の状況はどんなだったか。余談になるが機動隊警備課長の任にあたっていた佐々淳行氏の実況報告を証言としてもう少し聞いてみよう。
昭和四十三年十一月十二日、三機、五機を主力とする機動隊一千二百二十五名が豊田武雄第五方面本部長の指揮のもと練馬区江古田の日本大学芸術学部攻めに出動した。日大芸術学部は、六月十九日以来日大全共闘にバリケード封鎖され、要塞化が進んでいたが、十一月八日未明、スト反対派の体育会系学生約二百名が角材をもって殴りこみをかけてきた。ところが全共闘約四百名に反撃され、大乱闘となったあげく、体育会系学生六十二名が監禁され、リンチを受けて重軽傷を負ういう流血事件が発生した。(『東大落城』文春文庫)
機動隊は、この流血事件の捜査協力を要請されたとみられる。が、事件の推移に、筆者が当事者から直接聞いたことと『東大落城』にある報告と、多少のズレがある。佐々氏の報告は、流血事件に至る推移をこのように報告している。「大乱闘の結果、日大芸術学部の全共闘、黒ヘル・銀ヘルたちは体育会幹部数名を、針金で縛ったあげく両手の指を折り、ローソクで髪などを焼き裸にして江古田の街をひきまわすという、正気の沙汰とは思われないリンチにかけたのだった。」(『東大落城』文春文庫)
筆者が、その場にいたというスト学生から聞いた話はこうだ。日大全共闘が籠城している芸術学部校舎(機動隊は「千早城」と呼んでいた)から右翼学生に襲われているので応援頼むという連絡を受けた。各方面から小隊がかけつけ奪還した。中にはいると全裸にされた男女が針金で縛られ吊るされていた。それで激怒したスト学生たちが捕虜にした右翼学生にリンチを加えた。そのとき空手部部員の拳を砕いたとも言った。まさに『悪霊』を彷彿させる惨劇。仕掛けたのはどちらか。藪の中である。が、わかっているのは、暴力は、結局暴力を呼ぶ空しさである。
当初、警視庁も機動隊も日大全共闘には同情的だった。佐々氏は、こう証言する。「わがまま勝手で無責任な大学当局の機動隊出動要請に、やや中っ腹で対応してきていたのだった。」(『東大落城』文春文庫)警察も世間も日大生に同情的だった。だが、あの瞬間から風向きは変わった。一九六八年九月四日午前五時四十分頃、神田三崎町日本大学経済学部本館四階から投げ落とされた人頭大の石。真下で支援警備に従事していた機動隊第三分隊長・西条秀雄巡査部長(三十四歳)に直撃したのだ。その怒りから難攻不落といわれていた「千早城」の異名をもつ日大芸術学部のバリケード砦は、あっという間に陥落した。それを契機に日大闘争は、一気に終焉を迎えた。
同時に気骨ある日大出身者たちが掲げた、あの声明文も忘れ去られていった。筆者の心の片隅に残存するのみであった。筆者は、この頃、ドストエフスキーを知らなかった。当然、埴谷雄高という作家も、である。夢は、文学とは程遠い海外(海外技術協力隊)にあった。既に茨城県内原で大型特殊(カタピラ車)免許を収得していた。
数年後、筆者は、はじめてドストエフスキーと出会って衝撃を受けた。岡村昭彦の『続南ベトナム従軍記』、石川達三の『蒼氓』を経てのドストエフスキー体験。この世界に、こんな小説があるのか。驚きと覚醒。「ドストエフスキーとは何か」知りたくなった。ドストエフスキーと名のつくものを手当たりしだいひろげてみた。様々な人たちがドストエフスキー論や作品論を出していることを、このときはじめて知った。そのなかに埴谷雄高という作家の名前を見つけた。「埴谷雄高」…はて、どこかで聞いた名前…。思いだせなかった。だが、あるとき突然、記憶がよみがえった。そうか、声明文に名前を連ねていた気骨ある先輩たちの一人だったのか。わかるとその作家が、なつかしく思えた。以前からの知り合いのような気がした。うれしかった。
映画『二〇〇一年宇宙の旅』(キューブリック監督一九六八)を見たばかりだった。洞窟で獣のように暮らしていた類人猿(筆者も仲間)は、神の贈りものモノリスに触れたおかげで智を授かった。そうして短い歳月の間に進歩した。「人間の謎」を解くために宇宙船で他の星に旅することができるようにまでなった。映画を思いだして、ふとあの声明文は、筆者にとって、『二〇〇一年宇宙の旅』にでてくるモノリスだったかも。そのように思えた。そんなことで最初に読んだドストエフスキーに関する論考は、埴谷雄高の『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHKブックス一九六五)だった。
四 清水正「ドストエフスキー論」との四十年
極めて個人的ではあるが、五十年前の日大闘争。筆者は気骨ある日大OBたちの勇気ある声明文によって智を得た。あの声明文は、世界無銭旅行を夢見て柔道とアルバイトに明け暮れていた筆者にとって巨大なモノリスだった。連名にあった埴谷雄高という作家が、ドストエフスキー愛読者と知って、より身近で親しいものになった。
前に書いたが声明文を見てから数年後、筆者は、突然、ドストエフスキーと出会った。きっかけは退屈凌ぎに開いた小説本のあとがきだった。〈十九世紀末のロシア。友人がはじめて書いた小説。読み終えた二人の若者は、感動のあまり、白夜の街を走って作者に感想を知らせに行った。〉そんな文豪デビューのエピソードだった。この話は真実か。そんな面白い本が実際にあるのか。そんな疑問から手にした翻訳本『貧しき人々』(江川卓訳)。読み始めたらとまらない。周囲の景色が変わっていった。あの話は本当だった。気がつくと筆者は、ドストエフスキーの世界から抜け出せなくなっていた。その時期に発足した「ドストエーフスキイの会」に入会し、併せて「ドストエーフスキイ全作品を読む会・読書会」に参加するようになっていた。あんな小説を書いた作者のことを知りたかった。
そして、そこで清水正という名を知った。ドストエーフスキイの会開催の第九回例会報告で、「ドストエフスキーに関する勝手気儘なる饒舌」を報告して、話題になった日大の学生とのこと。日大にも、そんな学生がいたんだとうれしく思った。声明文の作家と同じく勇気と誇らしさをもらった。
清水正「ドストエフスキー論」を、はじめて読んだときのことはよく覚えている。大失敗をやらかしたのだ。清水正発行の『ドストエフスキー狂想曲T〜Z』(一九七五)の書評が回りまわって筆者のところにきた。ドストエフスキー熱にかかったばかりの筆者は、迂闊にも引き受けてしまった。しかし、送られてきた、雑誌を見て、言葉をなくした。十年近くドストエフスキーを読みつづけている清水教授と、昨日今日、読みはじめたばかりの筆者では、比較対象にもならなかった。作品理解度の差は歴然、到底内容に踏み込んでの書評など書けるはずもなかった。失礼とは思ったが、一部感想と、内容の紹介だけに留まった。
後日、画家・小山田チカエさんのアトリエで『ドストエフスキー狂想曲』雑誌発行者のメンバーと顔を合わせることになった。清水教授とは、はじめての邂逅だった。印象は、うわさに聞いていた通りだった。(ラスコーリニコフ的雰囲気)。もしくはそれ以上だった。筆者は、逡巡するばかりだった。当然ながら、メンバーから先の書評は「よく読んでいない」と批判された。険悪な雰囲気になった。救ってくれたのは教授だった。不満の仲間たちをなだめてその場を治めた。おそらく、教授は、筆者の未熟さをすでに看破していて批判は無用と思っていたのだろう。筆者は、安易に書評を引き受けることの怖さと、自分のドストエフスキー作品読みの浅さを、痛感した。教授とは、二度とふたたび会うことはないと思った。
しかし縁は異なもの不思議なもの。十余年の後、筆者のもとに、なぜかふたたび清水教授が出した本の書評依頼がきた。筆者もドストエフスキーの道を歩きはじめて十余年、こんどばかりは躊躇することなく引き受けた。『宮沢賢治とドストエフスキー』(創樹社 一九八九)が、それであった。この本は、亡くなった息子さんに捧げた命の書でもあった。読後、ひろがっていく静かな感動。私は、このときはじめて教授の批評精神の真髄に触れたように感じた。文明という荒れ野に立つモノリスを思った。
その後、筆者は「清水正・ドストエフスキー論」が発表されるたびに読み続けていくようになる。教授は、「批評しつくす」の言葉通り、様々な場所で書きあげたドストエフスキー論を、発信し報告した。或る時は自ら発行の『D文学通信』で、あるときは編集長を務めたた日芸誌『江古田文学』で、またあるときは様々な出版物で、二〇一八年の今日まで、筆者は、ひたすら「清水正・ドストエフスキー論」を読みつづけてきた。その歳月を指折る、四十年という長き歳月に驚く。筆者の人生は、まさに「清水正・ドストエフスキー論」とともにあったのだ。あらためてそのことを思うと我ながら驚く。
五 現代のモノリス
現在、日本においてドストエフスキー熱はまだまだ衰えていない。一九六九年発足の「ドストエーフスキイの会」は、健在で隔月に開催する例会で、若い研究者たちに発表の門戸を開いている。また、二〇一七年四月には、新進の研究者が集う「日本ドストエフスキー協会」が誕生した。ドストエーフスキイの会発足時からつづいている「全作品を読む会・読書会」も、毎回二十名前後の参加があり、盛会である。いつの間に五十年の歳月が流れた。が、いつの時代も読者も研究者も変わらない。そんな気がする。
いつだったか孤高のドストエフスキー研究者として名高いA氏と会食した折りこんな質問をしたことがある。「これまでのドストエフスキー研究で、注目している人は、いますか」
「そうですねえ、わたしの考えですが」と、A氏は断ってから迷うことなく言った。「一人は江川卓さんでしょう。もうなくなられましたが。それからあとの一人は、やっぱり清水正さんかな」
福音書を手引きとしてドストエフスキー研究を進めるA氏は、清水正教授の、想像・創造批評を高く評価していた。多くのドストエフスキー論があるなか、清水正・ドストエフスキー論は、独創的で質、量ともに群を抜いている。
二十一世紀、テロで荒れた序盤だったが、この先世界はどうなるか。トランプ米大統領と北朝独裁者との会談で、ほんとうに極東に平和はくるのか。アフリカの混乱、欧州の移民問題、ユダヤ人とアラブ人の対立。W杯から東京オリンピック。民族の興奮と熱狂はつづくが、あるべき世界は渾沌としている。不透明なままである。全世界の統一を目指すための道標、ドストエフスキーは、人類にとってまだまだ必要だ。そのことは、取りも直さず清水正教授の母校(筆者の母校でもあるが)日本大学にとっても必要といえる。
二〇一八年上半期、日大は、大変な苦境に立たされている。アメフト選手のラフプレーに端を発した問題は、日大の存亡がかかるほどの大騒動となった。露呈された日大体質。連日、テレビはNHKはむろんすべての局がトップニュースとして報じた。地に落ちた日大を救ったのは、なんとラフプレーした加害選手だった。日本中が彼の誠実な一人会見に心打たれた。指導者たちの無策と無責任さを知った。その後につづく日大経営者たちの対応に怒りの声があがった。
今後、日大問題は、どう展開していくのか。現経営陣が潔く身を引くのか、それとも半世紀前のような混乱があるのか。たとえ事態がどうなろうと、これだけは言える。加害選手の勇気ある謝罪を無にしてはいけない。正義の火を消してはいけない。五十年前の声明文「日本大学のこれまでの恥辱の歴史に勇然とたちあがった怒りの炎を、君らの胸にもやしつづけろ。」を思い出してほしい。デモ学生が、右翼学生が、ノンポリたちが、OBが足をとめて振り返った。そうして日大生であることに誇りと希望をもった。その進化は、すぐに壁新聞にあらわれた。雑誌記者・柳田邦夫は、「不滅の夏」と題してこう報じた。「九月一〇日、嵐の先ぶれで、本降りになりはじめた神田三崎町の経済学部付近で、私はこの一文を書いている。たった今、三つの文章を読んだばかりである。雨にうたれて半ば破れかかった「壁新聞」ではあったが、それぞれに胸を衝く文章であった。」(『叛逆のバリケード ―日大闘争の記録』)
日大問題がニュースになってから、日大出身の著名人たちは、意識してか無意識にか、姿も声もみせなくなった。先日、人気タレントの毒蝮三太夫さんが出演して、堂々「日芸出身」と名乗っていた。久々の日大魂を見た。彼もまたモノリスとなって日大生に勇気を与えた。
今日、ふたたび日大は、渾沌の闇のなかにある。あのモノリスは、いまどこに。モノリスは、名を変え姿を変えて、いま日芸に悠然と聳えている。「清水正・ドストエフスキー論」がそれである。十七歳の少年が目指した夢は、確かな成果として光り輝いている。日大には、こんな教育者がいる。日本にはこんな研究者がいる。そのことをひろく世界に知らしめている。