下原敏彦の著作
収録:下原敏彦『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006 
初出:ドストエーフスキイの会会報 No.98/1986




三島由紀夫とドストエフスキー 十六年を経て見えてきたこと


あれから十六年。今、なぜ三島由紀夫か、これまでの「ドストエーフスキイの会」会報を繰って見ても不思議と三島に関する論評が見当らない。なぜか。あの全世界に衝撃波を走らせた三島の死は当時発足二年目にあって意気揚々としていた新生ドスエーフスキイ会にとって格好の教材ではなかったか。現にその年の事務局だよりには、「ドスト文学を手がかりに問いつめよう」と意欲のあるところをみせている。しかしながら今日までついに会では、三島は論じられることがなかった。対照的に巷には彼に関する記事や出版物が横溢した。ハリウッド製作の映画にまでなった。このように多方面から言及されつづけているにも拘らずドストエーフスキイの会でのかくも長き沈黙はいったい何故か。ドストエフスキーの執刀をもってすれば如なる人間の深層心理をも腑分けでき垣間見ることができる―そう信じる読者にとって大いなる疑問は無理からぬところである。が、ここであらためて客観的に回顧検証してみるとその理由がわかる気がする。多分、当時は三島は湖水に落ちたばかりの石であったのだろう。舞いあがった塵芥が水を濁していてその位置を確めるには辛抱強く待つしかなかったのだ。こう解釈すれば納得できる。然るに今、十六年の歳月を得て徐々に澄みつつあると見る。で、もはや語り尽されたかもしれない三島像をドストエフスキー的見地から(と言っても独断ではあるが)想像してみたくなったのである。

はじめに三島は、学生時代、どれほどドストエフスキーに憑かれていたか、である。が、深化についての実証は不可能である。そこで、目に見えるものから想像して行きたい。まず両者を結ぶものはどこにあるのか。生前三島はドストエフスキーについて多くを語ってはいない。が、真っ先に思い浮かぶのは、三島の代表作『仮面の告白』の序文を『カラマーゾフの兄弟』の一節で長々と飾っていることだろう。またある作家との対談の中で真の小説家はドストエフスキーと言う話になって三島は二度までもうれしそうにわが意を得たりといわんばかりに「そうだ」と領いていることもある。こうしたちょっとした所に彼のなみなみならぬドスエフスキー熱が感じられる。もっともこんな風に勝手に推量できるのは、折りよくあの事件直後にドスエフスキー体験できた者からかも知れない。

もしドストエフスキーを読まなかったら三島由起夫という作家のことなど永久に考えこともなかったに違いない。私にとってドストエフスキー体験以前の三島は時代錯誤な思想を持った、それでいて倒錯した性を感じる何やらグロテスクな薄気味の悪い有名人に他ならなかった。むろんあの事件はその見方を広げただけである。ところが、ドストエフスキー体験で一変した。三島は、それまでの作りあげた肉体美を誇らし気に見せるピエロではなかった。そこには絶望の淵に佇む孤独な芸術家がいた。良質の種を持ちながら撒くべき土壌を持てなかった貧しき農夫がいた。瞳若してこのように三島像を感じたとき、やはり三島もドストエフスキーに向かっていたのだ、と確信した。以前、三島は出版社のインタビューで好きな小説家はと問われてトーマス・マンと即答している。これまで幾重にも虚飾の言動をめぐらせてきた作家だけに信じがたいが、ドストエフスキーと答えなかったのは多くの憑かれた人たちがそうであるように彼もまたその名をロにするのを憚ったのだろう。ドストエフスキー体験者にとって、ドストエフスキーは常に事物の対象外であったりする。ドストエフスキーを読むということは自分だけの秘密でもあるのだ。閉された幼年時代を送ったと言われる三島はもしかしてドストエフスキーだけが唯一人の友であり話し相手であったのかも知れない。思えばそのことが形を見る前に魂を知ってしまう、といった人生を遡航するような生涯になってしまったのでは。

青春期、彼は一度だけ自分のドストエフスキーを他者と語ってみたい衝動に解られたことがある。太宰治との会見をそうとるのはあまりに空想的過ぎるだろうか・・・。ともあれ彼が太宰を訪ねたのは事実である。三島はその時の情景を季節の記憶も定かでないと断わりながらも克明に記している。会うのに懐ろに匕首をのんで出かけるテロリスト的心境と豪語しているが、おそらくはそんな勇ましさより、故郷を同じくするものを訪ねる心境に近かったのでは。太宰は、大流行作家ではなく竹馬の友なのだ。なつかしく語り合いたい。そんな思いがあったに違いない。しかし、その期待は見事に裏切られた。会席は彼が思い描いていたような場所でも雰囲気でもなかった。大ぜいの人が居並んで酒宴を開いていたのだ。とても故郷の話をする場所ではなかった。このときの三島の言葉を借りれば、「ひどく甘ったれた空気が漂っていた」のだ。はじめて知遇を得ようとした人から盃をもらいながらも若き三島の胸中は失望と後悔で溢れていた。「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」煮え湯を飲まされた思いで吐露したこの一言は用意してきたものではなくその場で咄嗟に出た言葉ではなかったか。そして本当はこう捨て台詞叶きたかったのでは「あなたはドストエフスキーなんか、これっぽちもわかっていない」と。「そのキリスト気取りの顔」、そう毒づくなかに勝手にではあるが信じていた者に裏切られた三島の口惜しさが汲取れる。以後、彼は懐にドストエフスキーをしのばせた刺客になろうとはしなかった。かわりにそのドストエフスキーをひたすら自分の心の奥に向けていった。それは刀剣愛好家が倉の隅で名刀をこっそりほくそ笑んで眺めるような、屈折した固執した対話ではなかったか。それによって三島の精神はより孤独に研ぎ澄まされていった。が、それはまた悲劇の序章でもあった。ドストエフスキー文学は、あくまでも魂の自由の尊厳にある。にもかかわらず、三島の文学は、太宰同様、人間を追い詰める不自由な文学となってしまったのだ。

もはや、ドストエフスキーに通じる道はない。暗たんたる絶望のなかで三島が思いついたことはもう一度人生を元に戻すことだった。金ピカの衣装を脱ぎ捨てて初心に帰る。三島の好んだ行動学とやらはここから生まれたのかも。そうすれば世間をア然とさせた彼の奇異な生活のすべてが理解できる。三島はドストエフスキーへの旅を目指していたのだ。虚飾を重ねることは彼の言う行動のためのぜんまいを巻くことだった。若者たちを集めてデパートの屋上で奇妙な行進練習をしていたのは、この目的実行のためだったのか。そしてあの日、三島はついに巻ききったぜんまいを解き放した。行動ははじまったら止まらない。むろんゆるみきった最終地は計画通り死である。が、しかし最終地はもう一点あった。生か死の二点である。生はドストエフスキーへの門であり、死は文字通り死である。当然彼の選択は生であったはず、それがあの計画のすべてであったのだ。荒唐無樺な発想かもしれないが彼は撃肘されることを信じていた。もしかして銃口から生還したドストエフスキーのあの茶番を演ずる余裕すらあったかも−たとえこれほどに空想の羽をのばせないとしても切先を脇腹に突き刺す間まで生への望みを捨てなかったと誰が否定できよう。外では特殊訓練された兵士たちがが突入の合図を待っている。生も死も彼等の掌中にあるのだ。その緊迫の中で最後の五分間どう過したろうか。脳裡に浮んだものは・・・森田という青年に話した狂言割腹か榎本武揚か、いやそうではなく装填しながらもまだこの決闘が信じきれずに仲裁人を待って彼方に目をやる、かの詩人であったろうか。

しかし使者は来ず拳銃は発され、俸大な詩人は死んだ。だが彼はドアが蹴破られ雪崩れこんでくる勇者に賭けたろう。誰でもいい一足たりと踏み込んでくれたら即座に白刃を投げ捨てるのに。金閣寺の主人公溝口がカルチモンの瓶を谷底めがけて投げたほどあっさりと。生きのびたらまず煙草を吸ってみょう、うまいだろう・・・小春日和りの光の中で彼はそんな夢に酔いしれたかも。だがしかし、つぎの瞬間、彼の首は落ちた。彼は死を乗り越えて人生をやり直すことはできなかった。けれど、もう飾ることのない永遠の安らぎを得たかもしれない。三島と親交のあったへソリー・スコット=ストークスは事件の報を開いたとき阻止できなかった自分を責めた。「友達を見捨てた私の罪は許すべからざるものである」と。その悲痛な叫びはなぜか彼を救えなかった我々日本人に向けられているような気もする。そしてまたその念は偉大なる詩人をむざむざ死に至らしめてしまったロシアの貴族社会に対するドストエフスキーの怒号ともとれるのはいささかこじつけだろうか。とまれ同氏は自著『死と真実』の終りにこう述べている。「人間としても作家としても彼と共通点の多いジイドになぞらえられるようになるかもしれない」と。この言葉はドストエフスキーと三島とを結ぶ手がかりになるような気がする。