下原敏彦の著作
収録:清水正著「三島由紀夫・文学と事件」栞(2005年9月)D文学研究会
三島事件の謎
下原敏彦
三島由紀夫は謎の多い作家である。私も、気になることというか検証してみたいことが三点ほどある。一つは、この作家は、いわゆるドストエフスキー作家であったかどうかということである。二つ目は、三島事件についてである。私が割腹自殺した三島の年齢、つまり四十五歳になったとき、私ははたして若者を道連れにできるか、大義のために若者に一緒に死ねと命ずることができるかということだった。三つ目は、三島事件とは完全犯罪だったのか、である。
まず三島由紀夫がドストエフスキー作家であったかどうか。書かれた本の中に言及したものは少ない。好きな作家はトーマス・マンと答えている。しかし、三島はドストエフスキーを意識しないでいられるはずはないのである。この作家が師と仰ぐ川端康成は、自分のところに来る文学青年たちに、だれかれとなくドストエフスキーを読みなさいとすすめていた。また、三島研究の英国人ヘンリー・スコット氏の印象も三島は「アンドレ・ジードになぞらえられるようになるかもしれない」と評している。これらの印象から、三島が十分にドストエフスキー作家だという仮定がつく。それに、なによりも『仮面の告白』の冒頭を『カラマーゾフの兄弟』の引用で長々と飾っているという事実。つまるところ三島由紀夫という作家は、好むと好まざるとに関わらず、ドストエフスキーを感じる環境下にあった。ドストエフスキー作家としての資格は十分に持ちえていたのである。だがしかし、あの事件を起こしたことで、私のなかで三島は決定的にドストエフスキーと遠い存在となった。今回、三十五年ぶりに三島由紀夫を批評対象にした清水正氏も本論初頭でこう述べている。「第一、文学の天才が若い青年に首を切らせるような真似をするかい」この文が否定の全てである。ドストエフスキーの究極の目的は精神の解放である。他者を救うことはあっても、他者の精神の自由を束縛し、なおかつ肉体までに犠牲を強いることは絶対にない。それ故に長らく収容所国家であったソビエト時代は忌み嫌われてきたのだ。三島はドストエフスキー作家ではなかった。二つ目は、私が、四十五歳になったとき若者と死ねるか、という問いである。三島事件を知ったとき、私は強い衝撃を受けた。割腹自殺という時代錯誤の死に方に驚愕したこともあった。が、それより衝撃が私の胸のなかにいつまでも残ったのは、一緒に死んだ若者が知人だったからである。二年前、森田必勝君はバイト仲間だった。その頃は政治家になりたいと語っていた。東西線の高田馬場駅で偶然会ったとき「これから会に行くところだ」といって誘った。私はパスポートをみせた。外国に無銭旅行に行くことにしていた。私たちは「じゃあ」と別れた。それが最後になった。そして二年後、その死を知った。なぜ三島についていったのか。なぜあんな死に方をしたのか。そんな疑問ばかり先に立った。
三島由紀夫のことは、ボディビル好きの作家という以外ほとんど知らなかった。ただ四十五歳という年齢が気になった。著名な流行作家。そんな人間が、人生半ばで、若者と死んでいく。なぜか。二十三歳の私には想像できなかった。それから二十一年後、『江古田文学』でドストエフスキーの特集を組んだことがあった。そのとき当時編集長だった清水正氏から原稿を依頼されたので、森田君への追悼文のつもりで「ドストエフスキーと三島事件」と題したエッセイを書いた。このとき、私は三島由紀夫が死んだ年齢とほぼ同じになっていた。で、自分だったらどうするか考えた。非凡人と凡人では、話にならん、といわれればそれまでだが、とにかく四十五歳の目線でみた。答えは、明白だった。たとえどんなに崇高な大義があったとしても、私は二十歳も年の離れた若者を、しかも自分を信じてついてきている若者を、断じて死なせはしない。終戦末期の特攻隊しかり、現在のイスラム過激派自爆テロ犯しかり。また無理心中の親しかりである。人間は生まれてくるときも死ぬときも一人なのだ。
太宰治が情死したときに、志賀直哉は、「死ぬなら何故、一人で死ななかったらうと思った」と感想を述べた。全く同感である。なぜ三島は希望ある若者に生への道を残さなかったのか。「人柄については真面目で、立派な人だと思う。あんなふうに死んだのはそんな事がなければ今でも生きていて、自由に仕事ができたのにと思うと非常に残念な気がする。」と小林多喜二の死を悼んだ、これも志賀直哉の言葉が思い出される。あんなことがなければ、森田君はいまごろ国会で中堅議員として活躍していたかも知れない。三島が死んだときから、さらに十四年が過ぎた。前途ある若者を犠牲にするなど、私にはますます考えられなくなっている。
最後の三つ目は、三島事件は完全犯罪か、である。ドストエフスキーの真髄は懐疑である。百人が百人、千人が千人、同じ意見であったとしても、まず「本当だろうか」と問うところからはじまる。それは、たとえ相手が神であっても変わることはない。三島事件は、作家の日頃の言動や凄惨な結末もあって、ほぼ計画通りに運んだとみられている。つまり完全犯罪だったというわけだ。が、はたして本当にそうだろうか。私は事件直後からそんな疑念が湧いて仕方がなかった。歴史に「たら」はないが、三島事件をみたとき、事件の推移にこの禁句があまりに多すぎるのだ。それ故、二人の割腹自殺までに至った三島事件は建前の成功であるように思えてならない。三島が真に夢みたのは、割腹寸前に取り押さえられた自分の姿ではなかったか。
そもそも三島事件とは、どんな事件だったのか。三島由紀夫と四人の学生が市ヶ谷にある自衛隊東部方面駐屯地へおもむき、総監たちを監禁して自衛隊員に決起を促す。失敗したら皆の見ている前で割腹自殺する、といった筋書きである。計画は実行され失敗に終わった。で、当初の計画通り自殺した。建前的には成功したのかも。だが、この事件を完全犯罪とみるには疑わしい。人知れず列車の前に横になったり、ビルの屋上に立つのとはわけが違う。衆人環視のなかで、たっぷり時間をかけて実行するのだ。しかも大勢の自衛隊員のなかで、である。どう考えても完遂率は半分以下としか思えない。もし正門で衛兵が規則通りに刀を預かったら。総監室の小競り合いでもう少し自衛隊員が強かったら。バルコニーから引きずりおろされていたら。割腹前に催涙弾を撃ち込まれていたら。どれも完全犯罪をすすめるには大きな障害だ。三島は掣肘を覚悟で実行していたに違いない。なぜか。『仮面の告白』に「私はただ生まれ変わりたかった」とある。が、ここから想像できることは三島の真の狙いは計画の完遂ではなく、計画の挫折にあったのではないか。「名誉の戦死」を夢みながら、徴兵を逃れることができたように。「武士らしい割腹」を夢みながら、政治犯として収監される。それを見越しての、行動だったような気がしてならない。例えば『金閣寺』の最後をこんな文で締めくくったように。「気がつくと体のいたるところに火ぶくれや擦り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲んでいた。私は遁れた獣のようにその傷を舐めた。ポケットをさぐると、小刀と手巾に包んだカルチモンの瓶とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。」
清水氏は、そのへんの三島の心情を「死を恐れながらも、死を欲求し、死を欲求しながらも、死を恐れる」と指摘し、その信念のなさを「たとえばドストエフスキーの人物たちのようには生きていない」と切っている。この頼りなさ、この周到さはどこからきたのか。生後四十九日目にして母親から離された孤独。三島はアダルトチルドレンだったのだ。
以上、三島由紀夫とその事件について不審に思っていたところを、自分なりに推理検証してみた。しかし、これはあくまでも空想の域をでるものではない。これらの問題が清水氏の想像・創造批評によってきちんと解析されることを期待したい。清水氏は「『仮面の告白』の中に三島由紀夫の<死>の秘密は潜んでいたという確信を得た。」としている。