下原敏彦の著作
『清水正・ドストエフスキー論全集 第11巻』(D文学研究会)
松原寛とドストエフスキー 栞(2021.5.25)



日芸と清水正
─「私は日芸」を立証するもの

下原敏彦

清水正教授は、気のあった先生方との飲み会で、芸術論に熱が入ってくると、「わたしが日芸だ !日芸はわたしだ!」と、宣言した。あるときは真剣に、あるときは冗談ぽかったが、妙に納得するものがあった。しかし、それは何かと問われても、答えに詰まった。清水教授は、文芸学科においてドストエフスキー研究で秀でているが、日芸には、ほかに7学科ある。現実的には、8学科をたばねるには無理がある。そのように思えた。ところが、清水教授は、病気入院したことで、その何かを立証することになった。人生は、全て人間万事塞翁が馬である。

平成二八年正月明け、私と妻の康子は、お茶の水の日大病院に清水正教授を見舞った。昨年の暮れから検査入院していると知ったからである。教授は、ドストエフスキーを通じて康子とも親しい友人だったので夫婦でのお見舞いとなった。清水教授は、いつの頃からか体に異変を訴えていた。はじめ虫さされのような一点の痒みだった。が、日を追うにつれ広がった。症状は、突然に激痛が電流のように走るのだという。

病名は一向にわからず、教授は何年も皮膚科巡りをした。毎日が薄氷を歩く心境だろうか。そんな状態で日常生活は、さぞ大変だったに違いない。が、そこは根がサービス精神旺盛な人である。診察のときの様子を酒席で、漫談ばりの話術とジェスチャーで演じて皆を笑わせた。しかし、研究室で一人でいるときの教授は、さすがに辛そうだった。いったい、どんな病気なのか、同情するほかなかった。私は黄色靭帯骨化症という難病をかかえている。数年前、手術したが、症状の両足のシビレはいまもつづいている。それ故、教授の不安と辛さはよくわかった。

昨年の暮れになって病名が判明した。難病で治療は難しいとの診断だった。健康面は問題なく見舞いは大丈夫とのこと。そんなわけで、夫婦で出かけてきたのだ。私たちは、道々、「さぞ退屈しきっているかも」「あれだけ話したり書いたりすることが好きな人だから」こんな同情的会話を交わした。しかし、まったくの杞憂だった。病室にいた清水教授は、検査のため全身をミイラのように幇帯でまいた痛々しい姿だったが、至って意気軒昂だった。壁際にうず高く積まれた本を指さして「本ばかり読んでますよ」と、豪快に笑った。いつもの清水節だった。想像していたより、だいぶ元気だったのでほっとした。教授は、私たちを面会室に案内してテーブルに着くと、いきなり「いま、松原寛を読んでいるんですよ」と宣言した。

日芸の創設者松原寛について教授は、『日藝ライブラリー No.3』〈松原寛との運命的な邂逅〉で日大病院に入院以来、わたしは毎日、松原寛の著作を読み続けた」と書いているが、まさにその最中であったわけである。教授は、ドストエフスキーを語るときと同じような勢いで、息つくのも惜しむように熱く松原寛について語り始めた。私たちは心配になった。「しゃべっていると、痛みや痒みを忘れるんですよ」教授は、苦笑して気遣うように言った。それで私も康子もいくぶん安心した。教授は再び話はじめた。そのときの切れ切れな記憶は、およそこのようなものであった。

「松原寛という人が日芸にとって、どれほど偉大で大切な人か。これから松原寛を徹底してやっていきたい。天が与えてくれた使命かもしれない」このような話を一時間近く、連射砲のように論じつづけたのである。看護師さんが検査時間を知らせにくるまで途切れることはなかった。すっかり健全な頃の清水教授に戻っていた。私も康子も、ただほっとするばかりだった。その安心感から松原寛についての貴重な話は、ほとんど記憶に留めることができなかった。

後日『日藝ライブラリーNo.3』を読んでみて、ああ、あのとき話されていたことだ、と思いだしたしだいである。もっとも、私は松原寛について、恥ずかしながらほとんど知識がなかった。江古田校舎の西棟一階の入口横の小さなスペースに銅像がある。日芸に通い始めた頃、私は、この銅像の人物を日本大学の学祖・山田顕義と勘違いしていた。後で日芸の創設者・松原寛と知ったが、校舎に入るとき、たまに一礼する程度でそれ以上の関心はなかった。

日芸は、一朝一夕にしてできたのではない。松原寛、この人の芸術への夢と熱い情熱があったればこそ創設された。なにごとにも先人はいる。日芸にも、そんな人がいたのだ。法律に熱意を燃やした学祖山田顕義は、日本の未来のために日本法律学校を設立。国の名を冠とした。だが、日大は、それに値する学舎とはならなかった。無念にも学祖の謎の死でその夢は散った。学舎は、突然の学祖の死で草刈り場と化した。

想像するに、明治、大正、昭和とつづく激動の時代のなかで日大は、政治家や権力者の私利私欲のために利用されてきた。十万余の犠牲をだした学徒出陣。失った学士製造を押しつけられる学舎ともなった。それによって得た学部、学科の数々。だが、学生たちは狭い小屋に押し込まれた家畜だった。差別と侮蔑にまみれていた。

余談だが、昭和四十三年ころ日大は、世間からどうみられていたか。日大全共闘にバリケード封鎖された日芸校舎の解除を命じられた佐々淳行(警察庁)は、日大生に「造反有理」を感じながらも、こんな感想をもっていた。

もう一つの学園紛争の最高峰は、日本大学だった。こちらは東大とは全く逆に、その紛争の原因は、極端な「教育の商業化」にあった。/ そもそも学生の総数すら日大当局の誰にきいてもはっきりしない。あるいは十二万人、あるいは十五万人という。(『東大落城』「奇々怪々の金権大学」文春文庫)

昭和元禄、嵐の時代。日大は、大学であって大学でなし。そんな屈辱の中にいた。マンモス日大は、瀕死の状態にあった。だが、そんな絶望のなかにあって堂々と、桜旗をなびかせつづけていた学部があった。日大芸術学部である。十年前の一九五七年創設者松原寛は亡くなった。六五歳だった。昭和四三年、日大紛争により松原寛の資料や原稿は散逸した。偉大な日芸の創設者は、混乱のなか消え去った。だが、その様子は、ドストエフスキーの最後の作品『カラマーゾフの兄弟』の序文を飾る、福音書の一節を想起させる。

まことに、まことに汝らに告ぐ、一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、一粒のままにてあらん。されどもし死なば、多くの実をもたらすべし。
(ヨハネ福音書 第十二章二十四節 )

ここで清水教授と松原寛の出会いを想像する。日大紛争で戦場となった日芸校舎。焼け野原となった江古田の地。日芸は息絶えたのか。否、松原寛の教え「自主創造」は、多くの芽を息吹かした。それは十万日大生の勇気と誇りにもなった。松原寛の魂は、それを善しとして江古田の路地裏で宿るべき肉体を待った。  

清水教授は、受験生ではじめて日芸にきたときのことを、このように書いている。「日芸校舎に向かう途中、突然背中がゾッとした。何か霊的なものにつかまれた感じで、わたしはその感覚を忘れたことがない」思うに、その感覚こそ「私が日芸」を立証する何かであったのだ。しかし、その何かに会うのは、何十年という長い年月を待たねばならなかった。清水教授は、その歳月をドストエフスキ―研究で費やした。それはまた、その何かに通じる道でもあったのだ。松原寛を論じること。それが「日芸は私」を立証することだった。が、謎はもう一つあった。清水教授は、なぜそんなにも松原寛に魅かれるのか。日芸の創設者だからだけでは、謎解けぬものがあった。

そのことで思いだしたことがある。面会室で痛みに耐えながら松原寛を論じていたとき、教授が、一段と熱を帯びて話したところがある。「松原寛を読んでいて、思った。この人は、きっとドストエフスキーを読んでいる」教授は、確信をもった声で言った。たとえ書かれてなくても教授は、宮沢賢治研究において想像・創造批評で賢治とドストエフスキーの関係性を立証した。松原寛とドストエフスキーの関係も想像・創造批評であぶり出すに違いない。しかし、その必要は、なかった。退院後、研究室に教授を訪ねたとき、教授は、開口一番、歓喜に満ちた顔で言った。「やはりありましたよ。最後に、一行、ドストエフスキーの名が」

どれでも良いからドストエフスキーの作一部を読め。(「現代人の芸術」)

ドストエフスキ―の道は、日芸創設者までつづいていたのだ。「私は日芸、日芸は私」この言に創設者松原寛も大きく頷くにちがいない。