下原敏彦の著作
収録:ドストエフスキー曼荼羅2号(2008年11月)日本大学芸術学部文芸学科


今後、私はドストエフスキーをどのように読んでいくか


下原敏彦

私は、一昨年還暦を過ぎた。ドストエフスキーは1821年10月30○日に生まれ1881年1月28日午後8時38分に亡くなっている。享年59歳である。ということで私は、文豪より、すでに2年余り、余分に生きたことになる。凡人が、いくら長生きしても自慢にはならないが、私は、いまドストエフスキーが知らない時間の領域を歩いている。そのことは事実だ。文豪より年上になった自分。それを思うと不思議な気がする。同時に、心細い気持にもなる。

文豪の「人間の謎を解きたい」この目的に魅せられて旅してきた。いっこうに解けぬ謎だった。文豪の歳を越えても、この体たらくである。結局は、なにも謎解けぬまま人生を終えてしまうのか。そんな焦りと自分の不甲斐なさを恥じるばかりだ。が、時は待ってくれない。そこで、五十の手習いよりは遅れるが、還暦後の出発として、今後、私はどのようにドストエフスキーを読んでいくか、を考えてみた。

それは取りも直さず、これまで、私は、どのように読んできたのかに帰す。ドストエフスキーは、17歳のころ、「人間は謎です!謎は解かねばなりません」こんな人生目的を掲げ、その謎解きに旅立った。37年前、私はこの目的に魅せられ後を追った。旅の途中、さまざまな人間に出合った。熱心に、何年も文豪の作品を読む人々。訳や解釈の違いで喧々諤々する学者たち。可憐だがちゃつかりした娘と純情一途な中年小役人。役所勤めの奇妙な双子、歯痛を愉しむネズミ男、豚にもなれない酔っぱらい、屋根裏部屋の夢想家、生きている幽霊、聖女の娼婦などなど、サディスト、マゾヒスト、小悪党、善人、吝嗇家、天使のような青年。この星に棲むありとあらゆる人間に出合った気がする。彼らの言動に驚いたり、怒ったり、悔しがったり、嘆いたり、感心したり、笑ったりした。やさしい人、愛すべき人、恐ろしい人間、好色漢、破廉恥漢がひとつところで蠢いていた。こんな人間が、この世界にいるのかと驚愕するばかりの生き物列伝。その奇妙さ異常さ珍奇さに辟易して、あるとき、私はこぼした。「よくもまあ、変わった人間ばかりいるものですね」と。すると、ドストエフスキーは、妙な顔をしてこう答えた。「そうですか、彼らは、みんなあなたですよ」

私は、愕然として立ち止まった。私は、杜子春のように自分の心のなかを旅していたのか。ピョートルも、ラスコーリニコフもマルメラードフもスタヴローギンも自分の心の中にいる怪物。それを思うと慄然とした。はるか彼方に微かに見え隠れするアリョーシャらしき背中。それが、唯一の希望だった。「人間は、どんなことでもできるし、なんだって慣れるのですよ。特別な人間なんていやしません」ドストエフスキーはニヤリとして言った。「神さまや悪魔にだってなれるんです」「そうですか」私は、返す言葉もなく冷や汗を拭いながら人間の謎の深さを知った。

結局のところ、私は、ドストエフスキーの年齢を越えても、文豪が目指した「人間の謎」解明の糸口すら掴むことができなかった。ドストエフスキー研究を長年つづけている清水正氏は、多くの著作で謎の一部を明らかにしつつある。が、ドストエフスキーの厄介なところは、他者の理解は自分の理解にならないところにある。解明はあくまでも個人の問題に終始するからである。謎は読む人一人ひとりによって違うのだ。その意味で私の解明はまだ遠いところにある。読書会で作品を4サイクル、40年近く反芻し議論してきたにもかかわらずである。

もしかして、私には、謎解きは不可能。たとえ作品のなかにヒントがあったとしても、永遠に探し出せない。最近、こんなあきらめも感じはじめた。こんななかで、ふと頭に浮かんだ一言がある。西欧とロシアの謎について考察する河上徹太郎のこの言葉だった。(河上徹太郎『わがドストエフスキー』河出書房新社1977)

「私は以前から『作家の日記』が、この問題を解く鍵だと思っていた」

私は長年、全作品を読む会に参加している。読書会は長編大作が主流で、毎回熱い議論が戦わされている。が、『作家の日記』は、ほとんど俎上にあがらなかった。私自身も、面倒にかこつけて顧みなかった。この作品が敬遠される理由は、いくつかある。ある人たちにとって『作家の日記』は、すこぶる悪評が強い。考えが独断的、助長過ぎる、思想的に偏りがあるなどなどが指摘されている。『作家の日記』で展開する社会批評は、取るに足らない。そんな酷評である。それもこれも名作の長編群と比較されてしまうからかも知れないが・・・確かに、長い、くどい、自分流過ぎる。

しかし、人間の謎を解く鍵は、作品だけではない。作家が晩年の10年間に書いた『作家の日記』のなかにもある。唐突だが、最近、私はそんなふうに思いはじめている。というのも、『作家の日記』には、現代の問題が、比喩的ではなく、自由に歯に衣着せぬ論調で語られているからである。

北京五輪の開会式の最中、グルジアとロシアは、内紛状態に入った。このニュースを知ったとき、頭を過ぎったのは、19世紀当時のロシアのトルコ問題であった。セルビアとトルコの開戦にあってドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』論において躊躇なく主戦論を掲げた。いま、ドストエフスキーがいたならロシアのグルジア侵攻をどう論ずるだろうか、興味あるところだ。たとえそれが一方的過ぎるにしろ、間違いであるにしろ。

今日、『作家の日記』を想起する出来事は多々ある。少年犯罪、幼児虐待、自殺などなどあるが、いま一番にあげるとすれば、法廷判決に対してのドストエフスキーの見解と対応である。日本は、来年の5月から裁判員制度がスタートする。普通の人が、犯罪を裁き、刑期を決める。善良な市民にとって精神的負担は大きい。が、当時のロシアにおいてドストエフスキーは、積極的にいろんな事件に注目し、『作家の日記』において持論を展開した。そこに論じられた事件・出来事は、まさしく今日の社会で起きている問題でもある。ドストエフスキーが熱心に関与した法廷ものを一つとりあげてみた。

その前に、余談だが、陪審員映画に『十二人の怒れる男』がある。アメリカでテレビドラマを映画化したもので、監督は、シドニー・ルメット・脚本は、レジナルド・ローズ。日本公開は1958年。ストーリーは映画サイトの解説によれば「父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く(評決は全陪審員一致である事を要する)。当初法廷に提出された証拠や証言は被告である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していたが、ヘンリー・フォンダが演じる主人公(8番陪審員)が、証拠の疑わしい点を一つ一つ調べていくことを主張したことによって、懐疑的だった彼らの心にも徐々にある変化がおとずれる」。一人ひとりの考えが変わっていくところが見ものである。

この名画『十二人の怒れる男』がリメイクされたというので、どんなものかと観に行った。名作をリメイクした映画は、これまで、いくつも観たが、ほとんどが駄作の域をでなかった。目も当てられないものが多かった。が、監督は二キータ・ミハルコフ(1945-)、現代ロシアを代表する映画監督である。ちなみに、この監督作品は『黒い瞳』『太陽に灼かれて』などを観ている。この作品は、第64回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、特別銀獅子賞(生涯功労賞)を受賞した。また、第80回アカデミー賞では外国語映画賞にノミネートされた。物語は、(義父)殺人を犯した少年を十二人の陪審員が裁く。有罪は、決定的と思われた事件だが、陪審員の1人が無罪を主張したことから、他の11人の意識が無罪方向に変化していく。内容は、ほぼオリジナルと同じだが、監督がロシア人、舞台がロシアということで、少年をチェチェン紛争の孤児にするなど現代ロシア事情を背景にしている。

感想は、モーッアルト『魔笛』もそうだったが、新聞評でみた話題の映画を観に行くと、たいていは閑古鳥が鳴いている。が、全席指定のこの映画は、ほぼ満席だった。銀座という場所もあるのだろうが、なによりもオリジナルの『十二人の怒れる男』が、あまりにも名作ということもある。舞台が、法廷のみというこの作品は、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」と言わしめた。そして、それが的確であると思わせるほどの傑作だけにニキータ監督の手腕が見ものだった。この監督のチェーホフの短編を巧みに織り込んだ『黒い瞳』とスターリン時代の暗黒を描いた『太陽に…』はよかったが、この新作『十二人』は、エンターテイメントにつくり過ぎたきらいがある。ゲリラとの戦闘シーン。何度も登場する人間の腕を咥えた犬。法廷ものからはみ出したところが気になった。やはり、オリジナルの壁は高い。

余談が長くなったが、この話をとりあげた理由は、まったくの有罪を無罪にしてしまう。そんな映画の作り話のような出来事が、実際にあったからである。132年前のロシアで本当にあった話。仕掛け人はドストエフスキー。有罪から無罪へ。この転覆判決をドストエフスキーは、『作家の日記』において詳しく書いている。「単純な、しかし、厄介な事件」(ドストエフスキー全集『作家の日記』上巻)がそれである。人間の謎を解明する手掛かりとなるかも知れないので、また、今日の裁判においても、大いに参考になる事例であると思うので紹介する。

1876年5月×日、ロシアのペテルブルグでこんな事件が起きた
(事件の実際の情報が少ないため、事件発生時と現場状況について多少の推理・憶測がある)

<事件の推移>

1876年5月×日、午前7時頃(推定)ペテルブルグの警察分署に、一人の若い女が出頭した。若い女は、応対した警官に、「たったいま、継娘を4階の窓から放り投げて殺してきました」と、言った。つまり殺人を自首してきたのである。継娘は6歳、4階の高さは地上から10数メートルある。驚いた警察は、現場に駆けつけた。女は遺体を確認してこなかった、と言ったが、誰もが最悪を思い描いた。この季節にしてはめずらしく、雪が道路のそこここに残っていた。女が放り投げたという4階の窓下にも、かき寄せた雪がうず高くあった。警察は被害者を探した。6歳の女の子は、まったくの偶然に、寄せられた雪の中に落ちて気を失っていた。怪我一つなく、奇跡的に助かったのだ。警察は、女を継娘殺人未遂事件の犯人として逮捕した。

<犯人の身元>

犯人の若い女は何者か。名前、エカチェリーナ・コルニーロヴァ。年齢20歳。職業、農婦。一年ほど前、妻が病死した子連れ男と結婚した。連れ子は6歳の女の子で、この事件の被害者となった。この夫婦は結婚当初から夫婦喧嘩が絶えなかった。

<殺意の動機>

自己中心的な夫への憎しみ。自分を親戚のところへ行かせず、親戚が来るのも嫌がった。喧嘩のたびに、死別した細君を引き合いに出しては、「死んだ妻の方がよかった」「あのころは、世帯向きがもっとうまくいっていた(米川訳)」など言葉の暴力を受けつづけた。このためいつしか愛情より憎しみが強くなり、復讐したいと思うようになった。復讐は、何がてきめんか。それは「亭主がいつも引き合いに出しては自分を非難した先妻の娘を、亡きものにすること」だった。夫に対する面当てから、なんの落ち度もない6歳の継娘を殺そうと計画し、実行したのである。

陳述>

継母はこのように犯行を話した
夫婦喧嘩では、夫にいつも怒鳴られていました。亡くなった前妻の方がよかったと責めるのです。罵られるたびに、連れ子の6歳の継娘まで憎くなってきました。それで、いつか、面当てに夫が一番の打撃になること、継娘を亡きものにしようと思っていました。このところ、ひどい喧嘩がつづいたので、ついに限界に達し、昨日、それを実行する決心をしました。しかし、昨晩は、夫が家にいたのでできませんでした。今朝、夫が仕事に出かけたので、計画を実行することにしました。私は、4階の窓を開け、草花の鉢植を窓じきの一方に寄せました。それから、起きたての継娘の名を呼びました。

6歳の継娘は、眠い眼をこすってやってきました。私は、「○○窓の下を見てごらん」と、言いつけました。継娘は、朝っぱらからなんだろうという顔をしました。が、窓の下にどんな面白いものが見えるのかと思ったのでしょう。すぐに窓じきにはいあがりました。そして、両手を窓に突っ張って、下をのぞきました。ちっちゃな両足が、私の目の前にありました。その可愛らしいちっちゃな両足を私は、つかんで持ち上げ、窓外に放り投げました。娘は、宙にもんどり打って落ちて行きました。私は、すぐに窓を閉めて、着換えをすませ、部屋の戸締りをして警察に出向しました。これが犯行のすべてです。嘘偽りはありません。

検察の第一審・判決>

前日に計画。落ちれば必ず死ぬ高さ。実に、情け容赦のない人非人の恐ろしい犯罪とみた。検察側の求刑は次の通りであった。「犯行当時17歳以上20歳未満に相当するエカチェリーナ・コロニニーロヴァを、2年8ヶ月の懲役に、その満期後、終身シベリヤ流刑」に処す。今日の日本ならば、幼児虐待と殺人未遂か。ちなみに『罪と罰』の強盗殺人で、金貸しの老婆とその妹の二人をオノで殴り殺した元大学生には、「潔く自首したこと」、過去に「火事場から二人の子供を救出したこと」その他2,3の酌量すべき情状から、刑期はわずか8年と決まった。

ある中秋の朝、ドストエフスキーは、この判決が掲載された新聞を読んで刑が重過ぎると感じた。「…判決を読んだとたん、ふと頭に浮かんだのは、今こそ彼らとしてはこの女を弁護してやるべき時だ、まったく今こそ…なんとか軽減することはできないものだろうか?ほんとうにどうしてもできないのか?」と自問した。(『作家の日記』下巻10月)そして、軽減のために奔走した。その結果、1877年4月22日、地方裁判所で再審された。法廷は、裁判官と陪審員は新しい顔ぶれだった。判決は「無罪」。コロニーロヴァは、その日に釈放された。

なぜ、「有罪」確定と思われた事件が「無罪」となったのか。これも、ひとつの大きな謎解きといえる。ドストエフスキーは、この謎解明を『作家の日記』のなかで語っている。ドストエフスキーの主張をまとめると、弁護は以下の8項目に要約できる。

1.医学上の鑑定が不充分のため。妊娠4ヶ月で、「妊娠時の激情」があった。
2.奇跡的に継娘は、けが一つなく助かった。現在、寄宿舎にいるが心の傷より許しが強い。
3.夫は、改心し、なんども面会にきている。本人は、充分反省して悔いている。
4.被告は女児を出産している。母親としての自覚がでてきた。
5.有罪になった場合、女児の運命も寄宿舎にいる継娘も母無し子になる。
6.有罪になった場合、彼女の人生は悲惨なものになる。予見:懲役→シベリヤ→身を持ち崩す→病気→死生まれた赤ん坊も、被害者の娘も同じ人生を辿る可能性が高い。
7.被告の反省と悔い。夫の反省と悔いを考慮。有罪で、この家庭を破壊するより、無罪にして、もう一度チャンスを、の性善説に立った考えを支持。
8.自首したこと。犯罪が成立していて犯人が自首しなければ、誤って落ちた事故の可能性もあった。

いずれにせよ、ここからわかることは「人間の謎」の解明は、周囲に惑わされることなくしっかり観察し、自分の考えをはっきり述べることにあるようだ。『作家の日記』は、そのよい手本となってくれそうだ。そんなことで、私は還暦後の新たな目標として、作品再読と併せて『作家の日記』にも注目することにした。たとえドストエフスキーの公的見解が、どう評価されていようが、以下の言葉を信じて。

ドストエフスキーの公的見解を人が何と思おうと、またドストエフスキーの政治的、社会的観念がいかに誤っていて、反動的なものであろうと、彼の芸術の本質は20世紀にむけての訴えかけである。人が必要とするのは、局部的な不調和を無視することのない、そして、いかなる人間の個人的難儀といえどもそれを黙認することを拒否する社会的、道徳的調和であり、強制や抑圧や弱者への軽蔑を許さない調和である。(『アインシュタインとドストエフスキー』B・クズネツォフ・小箕俊介訳)