下原敏彦著作
キンチョウ KINCHOU
―サムライの約束―
志茂屋寿彦
(金打(キンチョウ):誓いの印として、金属製の物を打ち合わせたこと。武士は太刀、小刀などの刃や鍔(つば)などを、相手のそれと打ち合わせ、僧侶は小さな鉦(かね)、女子は鏡を打ち合わせた。)
■登場人物
早崎泰造・・・・・熊島建設(ダム建設現場監督)
中島教一郎・・・・日東大学助教授
高木 健二・・・・五井物産社員
柳沢晴行・・・・・日東大学付属病院医師
一ノ瀬幸基・・・・高校教師
沢井圭介・・・・・戦場カメラマン志望の若者
ソクヘン・・・・・プノンペン大学の学生
タオ・・・・・・・・ヤマ族の長老
シナタ・・・・・・・長老の甥
ボト・・・・・・・・族長
ユン・・・・・・・・ヤマ族の女性
ニホン・・・・・・・ユンと柳沢の子
ビバット・・・・・・ヤマ族の青年
オシム・・・・・・・ヤマ族の青年長
目 次
背景メモ ・インドシナ情勢
プロローグ 遺跡に眠る者
第一章 一枚の写真
第二章 過去からの訪問者
第三章 新生クメール共和国
第四章 赤い悪魔
第五章 密林逃避行
第六章 決戦カオ・プレア・トム
第七章 虹の彼方に
エピローグ 密林だけが知っている
背景メモ・インドシナ情勢
一九六四年八月、アメリカはベトナムのトンキン湾での衝突を口実にベトナム戦争を開始した。近代兵器を重装備したアメリカ軍を迎え撃つのは、ゴムぞうりを履いた徒手空拳のベトコンと貧弱な旧式の武器しかもたない北ベトナム軍だった。だれの目にも北ベトナムの早期敗北が予想された。だがしかし、戦況はそうはならなかった。米国は苦戦した。四年たっても勝利の予感すらつかめなかった。それどころか六八年の激戦では多くのアメリカの若者の命が散った。勝てぬ原因は何か。アメリカは焦った。軍司令部は、夜間撮影した航空写真を前に地団駄踏んだ。真っ黒な写真に写っていたのは、放物線を描いて幾筋も延びた糸のような光の線だった。真っ暗な密林の中を、松明をかざしてベトコンや北ベトナム兵士に食糧、武器弾薬を運ぶ人々の列だった。米軍が勝利するための戦略は、ホーチミン・ルート、すなわちこの補給路をたたくことだった。しかし、できぬ相談だった。光線の曲線部分は隣国カンボジアの領土だった。カンボジアと米国は、国交がなかった。独裁社会主義という奇妙な政治形態を維持するカンボジアの統治者、シアヌーク殿下は、国内の共産勢力を弾圧しながら、アメリカとも張り合うことで国体を保っていた。それは東西冷戦上に張られた綱の上を歩くような危なっかしいものだった。が、その外交手腕は世界の脚光を浴びていた。それだけにアメリカは簡単に手をだすことができなかった。
しかし、補給路への爆撃をアメリカ軍は、なんとしても実行したかった。シアヌークはノドに刺さった魚の骨。ベトナム戦争に勝利するために、南下する共産勢力を押し返すために是非に抜かなければならなかった。そのためには親米政権の樹立が必要だった。米情報局はひそかに、その作戦を開始した。一九七○年三月十九日、ついにカンボジアに無血クーデターが起き、親米のロン・ノル政権が生まれた。アメリカの画策は成功した。シアヌークは失脚しアメリカ軍は、カンボジア領内のホーチミン・ルート爆撃を可能にした。その作戦は、つり針作戦と名づけられ、さっそくに開始された。北ベトナムからつり針のような曲線を描いてカンボジア領に入り込んだ補給路への攻撃。泥沼にはまっていたアメリカ軍にとっては希望の作戦だった。手を焼いているベトナム戦争は好転し泥沼から脱出できる。そのように思われた。
だがしかし、事態はそうはならなかった。アメリカ情報局は、三つの見誤りをしていた。一つは、シアヌーク政権下の反政府の共産ゲリラ、クメール・ルージュが、クーデター後あっさりシアヌークと手を握ってしまった。シアヌーク時代、犬猿の間柄にあったにもかかわらず、である。二つには、その結託したクメール・ルージュを三百人足らずの武装グループと推計していたこと。加えて、そのグループは、軍事組織にもなっていない、軍事訓練すら受けたことのない山賊集団と決めつけていたことである。そして、三つめに、最も重大な見過ごしをしていた。かつてカール・マルクスは、その書『共産党宣言』の冒頭で「ヨーロッパを得体の知れない怪物が歩き回っている」と記した。が、アメリカは知らなかった。フランス帰りの元小学校教師がカンボジアの密林の奥で、得体の知れぬ無慈悲の怪物となって蠢きはじめたことを。そして、その怪物が、赤いゲリラ、クメール・ルージュを徐々に支配し彼らのカリスマになりつつあったことを。アメリカはむろん、世界中の誰も知らなかった。
一九七〇年四月、カンボジア北東部の密林の中を黒衣の一団が南へと向かっていた。クメール・ルージュと呼ばれるカンボジアの反政府ゲリラだった。理念のないゲリラ、それ故にインドシナの孤児だったクメール・ルージュ。だが、このとき北京とハノイの密約で確かな後ろ盾を得て、意気揚揚の帰国の途にあった。一団のリーダーは、おだやかな顔で常にやさしい微笑を絶やさなかった元小学校教師。だが、彼らが通り過ぎた後には、戦時下のベトナム人でさえ戦慄する残虐な殺され方をした死体が転がっていた。反政府活動の協力を拒んだ少数部族は、老若男女問わず皆殺しにされた。あるものは股を裂かれ、あるものは首だけになって晒された。竹やりで串刺しされた赤ん坊の下に協力しないもの、協力したふりをするもの、したがわないものは人民の敵である。かならず裁かれる!
民主カンプチァ統一戦線
こんな張り紙が残されていた。書いたのはやさしい微笑みをたたえる中年の元小学校教師。彼の名は、サロト・サル。カンボジアではありふれた名前だったが、ゲリラたちがこの名を口にするとき親しみと尊敬がこめられていた。この男こそ、密林のなかで内なる怪物を育てあげた悪魔の化身だった。男は六年後、ポル・ポトと名乗り自国民「大量虐殺マニア」として、その名を全世界に知らしめた。だが、このときサルの名は、密林の少数部族たちの間に部族の若者を連れ去る、クメールのゲリラ赤い悪魔として、恐れはじめられたばかりだった。
一九七〇年三月、ベトナム戦争の火の粉は政変のカンボジアに飛び火した。戦火は、インドシナ全土に燃えひろがった。山岳地帯で暮らす少数部族は、平和な地を求めてカンボジア脱出を図った。
プロローグ 遺跡に眠る者
乾季の午後の密林は、まるで時間が止まったように静まりかえっていた。ときどき風が過ぎると高い木々の葉が眠りから覚めたように物憂く揺れた。そのたびに木漏れ陽が白雨となって苔むした巨石の上を走った。風が止むと、ふたたびすべてのものがピタリと静止した。くっきりと陰影が落ちた地上に動くものは何もない。しかし、よく見ると巨石の端に動く小さな影ひとつ。少年が一人、崩れた回廊の隅で、黙々と遺跡の欠片を掘り起こしていた。
少年は、左足の膝から下がなかった。が、一本足ながら手製のスコップを器用に使っていた。腐葉土を取り除き、埋まっている遺跡の欠片を探し出す。今も、少年は自分の頭ほどある石壁のかけらを掘り起こしたばかりだった。これなら持って帰れる。少年は、勇んで泥土を払った。彫り物はどこにもなかった。ただの壁の欠けらだ。
「なんだ」少年は、額の汗をぬぐって軽く舌打ちした。
が、落胆の表情はなかった。徒労には慣れている。そんな様子だった。少年は、ふたたび腐葉土を掘りはじめた。金目になりそうな欠けらは皆無だった。壊れた石像でも、ちょつとした浮き彫りのある石でもよかった。だが、そんなしろものはめったに見つかりはしない。かつて人跡未踏だった、この密林の遺跡も最近では、タイの盗掘者やまだ隠れて抵抗しているポルポトの残党に荒らされ、人力で持ち運び可能なものは、ほとんど運び去られていた。回廊の浮き彫りも見つかれば削りとられていた。密林の遺跡は、食い尽くされた残骸。まさに廃墟の中の廃墟と化していた。
だがしかし、それでも、自然の力と偶然がまだいくつかの遺跡を盗人たちから守っていた。あるものは巨木の根の中に、またあるものは厚い腐葉土の下に眠っていた。アプサラの彫刻像が見つかれば広東人に高く売れる。アンコールワット出土と書いてPKOで沸くプノンペンの中央市場に並べられれば、大挙して押し寄せている日本人が土産に買って行くという。
少年は、お金をためて義足を買うつもりだった。二年前、水くみに谷川に降りた時、地雷を踏んだ。三ヶ月プノンペンの病院にいて、家族が遺跡探しに移り住んだこの山に帰ってきた。片足の者が密林で暮らすのは厳しい。なんとしても義足が欲しかった。それには、遺跡の欠けら探ししかなかった。少年は、毎日のように山頂のこの遺跡にきて石像を探した。それが一日の仕事になっていた。当てはなかったが、これより他に現金を手に入れる術はなかった。
上空を一陣の風が通過していった。高い梢の葉々がざわめくたびに、深海のような密林の中にも強い日差しが驟雨のように降り注いだ。少年は、手を休め光のシャワーを浴びながら密林を眺めた。昼なお暗い密林の中に降り注ぐ光の雨。幻想的な風景だった。ここまで風が届けばいいのに。少年は、恨めしげに額の汗をぬぐいかけ、ふと手をとめた。つる草が覆う急斜面の繁みに一瞬、キラリと光るものを見た。何かが反射したのだ。
なんだろう!?風はやんで密林は、ふたたび薄暗くなった。が、すぐに木々はざわめき光が降り注いだ。風が吹くたびに繁みは、光を返した。あそこだ!少年は、見定めるとそこに向かった。光が反射する場所は、大きな石壁が入り組むように埋もれている所だった。大樹の根が、大蛇のように四方八方にのび、石柱や回廊の壁を押しつぶし、持ち上げていた。反射の光は、僅かにできた巨石の隙間からだった。最近、朽ちた大木が倒れたときに穴ができたのだ。はがれた苔の跡が新しかった。少年は、大木の上を歩いて行って、隙間を覗きこんだ。中は暗い空洞だった。カビ臭い冷んやりした空気が感じられた。頭上の木の葉がざわめき光の雨が降り注ぐと、そのたびに空洞の底からキラリと光が返った。まるで、何かを外の世界に知らせようとするかのように。
何かある、もしかしてルビーの原石か。この辺りは、昔、ルビーの産地と聞いたことがある。少年はにわかに元気づくと、太いつる草をつかんで遺跡の隙間に両足をすべり込ませた。狭い隙間を抜けると、いきなり空間だった。一瞬、少年は、宙吊りとなった。が、そのままズルズルと落ちていった。蔓から手を離すと足はすぐに着いた。腐葉土が柔らかだった。空洞は小部屋ぐらいの広さで、回廊が崩れたとき偶然にできたようだ。冷んやりしたかび臭い空気がよどんでいた。仰ぐとぽっかり開いた穴の入り口が見えた。随分と高いように感じた。そこから光線が差し込むたびに足元の腐葉土が、キラリと光った。何かが反射している。
ここだ!少年は、はやる気持ちを抑えて反射する場所をスコップで掘り起こした。小さな土の塊だった。少年は、拾って土を落とした。出てきたものはサビの塊となったカメラだった。反射していたのはレンズだった。指先で土を拭うとレンズは差し込む光りを反射させた。
「なんだ、これだったのか」少年は、落胆した。が、すぐに「なぜこんなところに、カメラが・・・?」と、思い返した。カメラがあるとすれば、ほかにも何か。少年は、急に目を輝かせてふたたび足元の腐葉土を掘り起こした。スコップの先に感触があった。ぐいとすくいあげると、丸く白っぽいものがゴロンと転がりでた。なんだ!? 少年は、拾いあげて、顔を近づけたとたん、悲鳴を上げて、投げ捨てた。人間の頭蓋骨だった。が、少年の驚きはすぐにおさまった。ドクロはこの国では珍しくはなかった。
そう遠くない昔、この国で大勢の国民が、主にプノンペン市民が殺されたと聞いている。国のいたるところに墓場があって、いまも掘り起こされている。麓の村にも、そんな場所があって数え切れないほどの人の頭が埋まっていた。これも、そのころの人だろうか、少年は、意味もなくそんなことを考えながら腐葉土を注意深く掘り返していった。こんどは白骨がでてきた。背骨、骨盤、手足と次々にでた。完全な一人の人間だった。回りを掘り返したが、他にはなかった。想像するに、この人間は、たった一人でこの回廊の中で死んでいたようだ。骨がバラバラでなかったのは、倒れた巨石が密室状態をつくって獣たちから守っていたのだろう。積り積もった腐葉土から、その人間が死んだのはもうかなり昔のように思えた。あの恐怖時代よりもっと前の時代かもしれなかった。
そんな昔にも、カメラを持った人がこんな山岳地にきたのだろうか。なんのために?密猟者か、盗掘者か。いずれにせよカメラを持った人間がここにきて死んだ。空洞に落ち込んで、助けもなく。彼は一人だけだったのか。ちらっと思いを馳せた。が、それ以上は、なんの想像も呼び起こさなかった。光っていたものは、宝石ではなかった。腐食したカメラだった。それがひどく残念だった。少年は、この人物が金目のものを持っていたのではないかと、さらに掘りつづけた。そのかいあってものの十分もたたないうちにビニール袋を発見した。中に変色してはいるが、辛うじて原型を留めたノートと財布らしきものが入っていた。出してみようとするとノートはパラパラ崩れて散乱した。財布の中にあった紙幣は、ボロボロでどこの国のものかはわからなかった。価値あるようには見えなかった。だが、少年は、満足だった。古いものなら金になる。遺跡がそうだ。もしかしたら、百リエルぐらいにはなるかも、そんな期待を持った。
小一時間後、少年は巨石の上に立っていた。手にはドクロの主の所持品と思われる、拾い集めたノート片とサビの塊となったカメラを入れた麻袋を持っていた。少年は自分が這い出てきた巨石の隙間を見た。ちょうど光の雨が降り注いで白っぽいものが見えた。散乱した骸骨の破片だった。さっきまでまるで自分の存在を知らせるかのように光を反射させていたが、いまはもう役目を終えて安心したように自然の一部にかえっていた。
「高く売れたらお礼にくるから。やくそくするよ!」少年は、隙間に向かって叫ぶと、きびすを返して、一気に巨石をすべり降りるとびっこをひきながら崖道を下っていった。頭の中は、麻袋の中身のことでいっぱいだった。「お金になったらいいな」明日、村にプノンペンから雑貨商の広東人が来ることになっていた。遺跡は、再び静まりかえった。葉影は、焼け付いたように動かなかった。
第一章 一枚の写真
1
一九七〇年五月末 インドシナ最大の密林カルダモン北西部の山岳地帯。まだ昼だというのに辺りは夜のように暗かった。暗雲垂れ込める空に時折、闇を切り裂く稲妻が走り、さながら天地のはじまりを思わせる光景だった。鬱蒼と繁れる密林には雨季入りを知らせる激しい雨が容赦なく降り注いでいた。それは雨というより、まるで滝のようだった。地上は瀑布で煙っていた。雨はあらゆる植物を育てジャングルをつくる。そしてジャングルは、緑の波となっていかなる文明さえ呑みこんでゆく。あの絶大な栄華を誇ったクメール王朝さえも、いまはただつわものどもの夢の跡と化している。雨は、密林の命であり、支配者でもある。密林に棲むあらゆる生き物はすべて、小動物はむろん、トラや山ネコのような獣たちも、猛毒のグリーンスネークやコプラでさえ、ひたすらじっとして雨脚が静まるのを待つのだ。だが、例外の生き物もいた。
豪雨のなかを黒髪の若者が一人必死の形相でかけて行く。クメール人のように細身の体躯だが、釣りあがった目、尖った鼻、引き締まった口元は、明らかに彼らとは違っていた。若者は、少数山岳民族ヤマ族のソクヘンだった。密林を抜け岩場を登りきったところに柵で囲ったヤマ族の集落があった。二本の丸太が打ちつけてある入り口に、かつてはクメール・ルージュと呼んだ、いまは赤い悪魔と呼ぶゲリラ兵士の死体が五体、激しい雨に洗われていた。一体は黄土色の軍服姿だったが他の四体は、お馴染みの黒いベトコン服だった。が、首に巻いた白黒の縞の布切れが、ベトコンとは一線を画していた。ソクヘンは、彼らに一瞥もしないで集落のなかに飛びこんでいった。
険しい山頂近くにある猫の額ほどの平地に二十戸ばかり、竹づくりの高床式住居が軒を並べていた。離れたところに一軒だけ他の住居より幾分床の高い大きめな建物があった。ヤマ族の集会所だった。中では十数人の年配の男たちが黙然と車座になっていた。各家族の長でヤマ族の幹部たちだった。一人だけ離れた所に痩せた白髪の老人がじっと目を閉じて座っていた。最長老のタオだった。車座の男たちは、どの顔も怖れと不安に満ちていた。薄暗い室内は、緊張した重苦しい空気がよどんでいた。老人と女子どもは密林に隠れた。若者たちは命令どおり持ち場についている。しかし、ヤマ族には武器と呼べるものは、狩りに使う弓矢しかない。はたして抗戦という選択は、正しかったのか。成り行きから起こしてしまった反乱行為だが、興奮が過ぎると徐々に不安が増してきた。徴収された若者は途中から逃げ帰ってもよかったのだ。なにも攻撃することはなかったかも・・・他に策はあったのでは・・・彼らの表情から、そんな苦悩が読み取れた。しかし、もう遅い、部落入口には元クメール・ルージュ、いま赤い悪魔と呼ぶゲリラ五人の遺体が転がっているのだ。
不意に、彼らは、耳をそばだてた。誰かが駆けてくる足音を聞きつけたのだ。彼らは、沈思したまま入口に目をやった。竹の階段を駆け上がってくる物音。ソクヘンが飛びこんできた。
「いなくなりました!」ソクヘンは、咳き切って叫んだ。「姿を消しました」
男たちの顔に一瞬安堵が走った。が、表情は、まだこわばったままだった。
「山を下りたんです」ソクヘンは、ゆっくり言い直した。「引き揚げたようです」
「ほんとうか・・・」車座の中心にいた族長のボトは、確認するように聞いた。
「はい――だと思います!」
ソクヘンは、大きくうなずいた。びしょ濡れの頭から雨水が飛び散った。つづいて二人の若者が飛び込んできた。麓に近い谷を見張っていたシナタとレノンだった。
「勝ちました!」シナタは、自慢げに胸を張って報告した。「連中、鉄砲水に恐れをなして、逃げていった。見ものだったな」シナタは弟分のレノンをみて大きく頷いて言った。
つづいて西の谷を守っていた青年長のオシムが入ってきて報告した。
「西の谷は、いなくなりました」
「そうか・・・」ボトは頷いてから、確かめるように聞いた。「全員か?」
「はい、この雨であきらめたようです」オシムは、落ちついた声で答えた。
「犠牲者は ――だれか犠牲者はあったか」
「ソティが逃げ遅れてケガをしました」
「ケガを!」一瞬、皆の顔がこわばった。
「撃たれたのか」
「違います、鉄砲水が速すぎて、巻き込まれたんです」
「流されたのか」
「いえ、運よく木の根っこに、はさまって、かすり傷ですみました」
「そうか、よかった」
ボトは、二、三度小さく頷くとはじめてふっと安堵のため息をもらした。それをみて皆は、一斉に緊張を解いた。勝手知った山岳地帯とはいえ、毎年、雨季のはじまりに突然、襲ってくる鉄砲水や土石流の恐ろしさは、ヤマ族の誰もが、身にしみて知っていた。今日、突然に起きた赤い悪魔との戦いは、その自然の脅威を武器とした作戦が功を奏したのだ。
この時期、沢地に小枝の束を積めば、たちまちに水たまりができた。乾季のあいだに落ちた葉や枝が自然の堰となった水溜まりもある。それらは上流の一箇所の堰を崩せば、たとえ小さな流れでも、二つ三つの水溜りを過ぎるころには強力な鉄砲水、もしくは土石流に変っている。それは巨大なエネルギーの塊と化して山肌の巨岩や巨木を飲み込み、怒涛の瀧のように、物凄いスピードで雪崩落ちていくのだ。それには、いかなる兵器を有した軍隊とて敵わなかった。雨季のはじめ、このあたりの山は、どこもかしこも危険地帯だった。
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ヤマ族の集落から五㌔下ったパーデーン峠で一個中隊ほどの赤い悪魔の一団が待機していた。少数山岳部族の若者狩りに行った仲間を待っているのだ。ほとんどのグループが、何人かの少数部族の若者を徴集してきた。が、ヤマ族に行った小隊だけがまだ戻らない。そればかりか、怪しんで偵察に行った斥候三人も帰ってこない。ヤマ族は、徴集を拒否したのか。おそらく小隊も斥候も抵抗され全滅した。その予想は、時間を追って現実みを帯びてきた。従わない者に対する怒りと憎しみが幹部たちの表情にあらわれていた。
しかし、赤い悪魔のゲリラたちは動かなかったーというより動けなかった。ここが平地の密林なら全部隊のゲリラ総出で猛襲するのだが、この山岳地帯では、へたな動きは命取りになった。
この時期、山岳地帯はどこもかしこも危険過ぎた。鉄砲水と土石流が、いつどこで発生するか、予測不能だった。この豪雨を、ヤマ族は、武器として利用した。ゲリラたちは、そのことに勘づいていたが、どうすることもできなかった。ゲリラたちは、鉄砲水の恐怖におびえながらも、ひたすら少数部族徴集作戦の終結命令を待っていた。最後の偵察隊が西の谷からひきあげてきた。
突如、集団のなかほどにいた人民服の男が立ち上がって演説をはじめた。激しい雨の音が、ほとんど言葉をかき消したが、ゲリラたちは黙って聴き入っていた。
「同志署君、闇が迫っている。だが、任務遂行のわが同志たちは、まだ戻らない。ヤマ族の徴集作戦は失敗に終わった、と判断する。だが、裏切りは、断じて許さない。――― 協力を拒んだもの、反抗するものは、必ず罰せられる。正義は常に我々、民主カンプチア統一人民軍にある。しかし、我々は無駄な危険は冒さない。この雨は、やがては止む。我々は還ってくる。そのときが反逆者ヤマ族たちの最後になる。我々は、この屈辱は忘れない。我々は、正義のためには、いかなる反抗も許さない。民主カンプチア、バンザイ 民主カンプチア統一戦線に栄光あれ!」
「栄光あれ! 栄光あれ! バンザイ!」
ゲリラたちは口々に叫んで立ち上がると、新式のカラシニコフ銃を突き上げ乱射した。そして、それぞれのオンカー(幹部)の後に従って下山を開始した。ヤマ族、全部族の皆殺しを誓って。
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次々と入る朗報にヤマ族の集会所は、沸いた。しかし、喜びは長くはつづかなかった。これからどうなるのか。赤い悪魔たちが引きあげたのは戦って負けたからではない。自然の脅威に恐れをなしたからだ。いわば賢明な決断を下しただけ。徴兵を拒んだ上に仲間のゲリラ五人が殺され、その上、偵察にいった斥候も人為的に起こした鉄砲水作戦の犠牲となった。そのことを理解すれば、たとえ理解しなくても、彼らがこのまま引き下がるとは思えなかった。雨季が終われば、奴らは憎悪を貯めて必ずやってくる。それを思うと族長ボトの表情は強張るばかりだ。
あのときひたすら追従すればよかった。そんな後悔と、一度屈したら部族の若者は、根こそぎ連れていかれる。攻撃は正しかった。そんな否定と肯定が、振り子のよう揺れた。決断を迷うボトの顔は、苦渋に満ちたものだった。それをみて皆の顔からも笑顔が消えた。赤い悪魔に従わなかった部族が、どんな報復をうけるのか。誰もが最近、噂で知る彼らの残忍な所業を思いだしていた。室内に再び重苦しい雰囲気が漂った。
「え、なんですか。やつら、しっぽまいて逃げてったんですよ」シナタは、幹部たちを不満そうに見回して、わざと陽気に叫んだ。「皆さん ! もっと喜びましょうよ」
「馬鹿もの!」突然、離れたところに一人黙然と座っていた長老のタオが、いきなり甥っこのシナタを叱りつけた。「浮かれてるときか。これからのことを考えろ!」
「やつらがなんどきても同じですよ。鉄砲水のえじきです」
「この雨だ、それぐらいは子供でもわかる」タオは、目をつむったまま告げると、自答するようにつぶやいた。「心配するのは、雨季が明けたときだ」
「こんどは、大勢でやつてくる」ボトがつづけた。
「どうするんだ。そのときは水はない」
幹部の男たちは、騒ぎ出した。
「なんだよ。びびっちゃって」シナタは、負不貞腐れ声をあげた。「だったらやらなきゃよかったじゃないか。おとなしく言う事を聞いてゲリラになりゃあよかったんだ」
「そうしたら、お前は行ったのか」
タオは、甥を睨んだ。
「そ、そういうことじゃない。ただ、いまになって怖がるぐらいなら・・・・」
シナタは、しどろもどろになって黙った。
4
山岳部族のヤマ族と、この国のゲリラ、クメール・ルージュは、これまで密林では共存関係にあった。彼らとは物々交換する仲だった。それが最近になってギクシャクしはじめた。それまで山賊同然だが、親切で義侠心もあった。それが、サルという指導者を得てから、妙に組織だって高圧的になった。その傾向は、昨年からますます顕著になり政変後は、すっかり変わった。まるで、この国を支配でもしているように何かと要求を出すようになったのだ。はじめ税金は、プノンペン政府ではなく自分たちに納めよと云ってきた。断りつづけていたら、今朝の若者狩りである。いきなり現れた五人のゲリラは、友好顔で、広場に皆をあつめて、
「この国に住む以上、たとえクマイ人でなくても革命政府に忠誠を尽くす義務がある」
そう告げて、召集令状のような文書をよみあげた。
そして、その場に居合わせたヤマ族の若者を、強引に連れて行こうとしたのだ。ソクヘン、チャット、シナタ、ビバットの四人は、銃口を向けられ、否応なく整列させられた。アメリカに行ったことを自慢していたシナタは、事情は知っているといった顔でニヤニヤと追従笑いしていた。が、ソクヘンは、プノンペンで、彼らに徴集された少数部族の若者がどうなるか、知っていた。ゲリラの手足となってプノンペンの新政府と戦わされるのだ。逃げ帰ると部族ごと皆殺しされる。それで仕方なく多くの少数部族の若者が、渋々銃を手にして新政権と戦っている。そんな噂を耳にしていたし、実際にそんな学友もいた。
「どうする―」いとこのビバットが耳元でささやいた。
ソクヘンは、狼狽した。こんなときどうしてよいのかわからなかった。彼は一ヶ月前までプノンペン大学で、国際法を学んでいた。三月末にこの国の元首シアヌーク殿下追放の政変が起きた。軍人のロン・ノル首相がアメリカの後押しで政権についた。無血クーデターと世界に打電された。が、プノンペン周辺ではベトナム人や広東人の大量虐殺が起き、各地でゲリラ活動が活発になった。そして、新政府が樹立すると、間髪をいれずが米軍の戦闘機が国境を越え爆撃を開始した。
にわかに騒々しくなったカンボジア。少数部族は、息をひそめて見守るしかなかった。が、火の粉は、関係のない少数部族にも降りかかってきた。政府軍、ゲリラの双方から若者が徴集されだしたのだ。学生のソクヘンは、新政権の兵士になるよう要請があった。どちらにも組みしない。それが山岳部族ヤマ族の生き方だった。国をもたない少数部族の生き残りの秘訣だった。どんな嵐もいつかは治まる。彼は、プノンペンを脱出して故郷に戻ってきた。そしたら、このゲリラの徴集である。この地は、クマイ人の領地かも知れないが、ヤマ族は、先祖伝来ここに住んできた。税も役人に払ってきた。しかし、この国の国民ではない。いきなり新政権と戦うために兵隊になれと強要されても、できぬ相談である。こんなとき、国際法は、どうなっているのか。ソクヘンの頭の中は、思考が止まってしまった。
「どうするー」彼は、オウム返しに聞いた。機転がきく狩りの名人のビバットなら、既に何事か決断していると思った。ビバットは、無言のまま指を喉につき刺した。ソクヘンは、一瞬、凍りついた。殺す。それがビバットの判断か。狩りの仲間チャットも同じ考えか。チャツとトを見ると、彼も小さく頷いた。確かに重大な局面だ。しかし、「殺す」は、ソクヘンには過激過ぎた。政変以来、プノンペンでメコン河に浮かぶ死体を何度も目にした。山に帰る途中にも、虐殺現場を目撃した。人が殺されるのは見慣れていた。しかし、いま自分の手で、と思うと、体が震えた。彼は、確認するようにビバットを見た。ビバットは、何事もない顔で立っていた。青年長のオシムを目で探したが、どこにもいなかった。状況を察して攻撃のため、素早く身を潜めたか。
「オンカーの幹部同志から話がある。もっと、下がれ」
黒服に縞マフラーした目つきの鋭い四人のゲリラは、集まってきた村人たちに銃を突きつけ押し戻し、前にソクヘンたち四人を整列させた。一人だけ中国製の軍服を着た小太りの兵士が進み出た。まだ若い三十歳に満たない幹部だった。彼は、いきなり甲高い声で檄をとばした。
「ロン・ノル政権は腐っている。この悪を打ち負かすために、このものたちは行くのだ。この国を救うために英雄になるために進んで協力するのだ。革命本部は約束する。この地をヤマ族の自治区とすることを ―」話終わると彼は右腕を突きあげて、大声で檄をとばした。
「革命バンザイ! 民主カンプチャ人民統一戦線に栄光あれ! 偉大な指導者サル同志に勝利あれ!」
彼は、呆気にとられて見守るヤマ族の皆にも、その檄を強要した。ヤマ族の人々は、困惑して黙ってたたずんでいた。シアヌーク政権のときも、一度軍人がきて同じようなことを言っていた。あのときは、志願すれば金をくれ、断ればあきらめて帰っていった。が、この赤いクメールは違う。有無を言わさず連れて行こうというのだ。朝のうちすばらしい青空だった空がにわかに雲ってきて、たちまちに大粒の雨が降り出した。雨季はじめの特有の空模様だった。
「では、出発する !前進はじめ!」幹部のゲリラは、威厳をつけた声で怒鳴った。四方から銃を向けられソクヘンたちは渋々歩き出した。
そのとき、チャットの母親が、何事かわめきながら飛び出してきた。次の瞬間、黒服姿のゲリラが銃尻でたたきつけた。訓練された機敏な動きだった。母親は、地面に転がった。チャットが駆け寄ろうとしたが、それより早く新式のカラシニコフの銃口が鼻先にあった。
「諸君は、赤いクメール軍下に入った。勝手な行動はゆるさん」軍服のゲリラは、厳しい命令口調で言ってから、今一度、大声で宣告した。「反抗した者は厳罰に処す。わが同志赤いクメールの一個小隊が、峠で待機している。協力を拒むもの、反抗するものは容赦しない」
雨の中、若いゲリラ二人が先頭に立って歩き出した。四人はあとにつづかされた。後をもう二人の若いゲリラが。しんがりは軍服姿の幹部ゲリラだった。いきなり現れての有無をいわさぬ徴集である。理不尽な話だが、銃の前にどうすることもできなかった。部族のものは見送るしかなかった。ロンノル軍の兵士になるのが嫌で逃げ帰った故郷だが、こんどはプノンペンの新政府軍を攻撃するゲリラ兵士に仕立てられる。情況を拒むとしたらビバットが仕草で示したように、このゲリラたちを殺すしかない。選択肢はほかにない。ソクヘンは、遅まきながらそう思いながら即座に、そのことを決断できるビバットを凄いと思った。自分がプノンペンに行っている間に頼もしい大人になった。しかし、いつ、どうやって、考えると、実行することを考えると心臓が高鳴った。ソクヘンは気持ちを鎮めようと空を仰いで大粒の雨粒を喉に落とした。そのとき、どこかでヒューヒューと、鳥の鳴き声のような 声を聞いた。雨の中、鳥は、鳴かない。青年長のオシムが、真似ている、とわかった。
ヤマ族の狩の合図だった。前を行くシナタとチャットがちらっと手を振った。待ち伏せを了解したのだ。ヤマ族は、山繭の絹織物と狩りで自給自足の生活をしていた。が、自由を尊ぶ誇り高い部族だった。カンボジア領土に住んではいたが、一度たりとクメールの王族に支配されていると思ったことはない。彼らの主権争いに加担しないのが少数部族存続の知恵。赤い悪魔の理不尽な要求への答えは、考えるまでもない。ソクヘンは自信を取り戻した。
襲撃はあっという間に終わった。岩場を下りかけたとき岩陰からオシムが、不意に飛び出してしんがりの軍服姿の幹部ゲリラに体当たりした。彼はもんどりうって崖下に落ちた。驚いて振り返った若いゲリラの首筋にビバットが丸太のような両腕をたたきつけた。もう一人の少年ゲリラは、恐怖で顔を引きつらせたまま、声もなくその場にへたりこんだ。その上に岩場に隠れていたヤマ族の若者たちが襲いかかった。異変を察した先頭の若いゲリラ二人は、ほぼ同時に横とびに岩場に隠れようとした。が、遅かった。次の瞬間、シナタとチャットが飛びかかりその場に押し倒した。それを合図に、先回りしていた部族の男たちが、岩陰から一斉に躍り出て二人に飛びかかった。ソクヘンは、震えて動けなかった。が、赤い悪魔の兵士たちは、反撃する間もなく撲殺された。あまりに呆気なかった。ヤマ族の若者たちは、暫くの間興奮して騒いでいた。しかし、しだいに不安になった。これから何が起きるのか予想がつかなかった。駆けつけた族長のボトや年配の幹部たちは、若者たちの機転を褒めたが、引き返せないことの重大さにうろたえた。
ゲリラの本隊が、不審を抱くのは時間の問題だった。この周辺の少数部族の集落に若者狩りに行った仲間のうちヤマ族の集落に行った五人が、なかなか帰ってこない、となれば異変を察知し行動を起こすに違いない。赤い悪魔たちは、すでに戦闘態勢で山を登りはじめたかも知れない。元は山賊ゲリラだが、いまは新しい銃カラシニコフを手にし訓練された兵隊だ。敵うはずはなかった。しかし、もはや悔いてもはじまらない。不安顔の幹部たちに代わって青年長のオシムは、皆に告げた。
「クメール・ルージュの手先になったら二度と山には帰れん。ヤマ族は、クメール族同士の争いにはまきこまれない。みんな、そのことを肝に銘じてくれ!」
「おれたちはヤマ族だ!」若者たちは喊声をあげた。クメール人は、少数部族を軽んじ差別するところがあった。自分の国に居ながら広東人やベトナム人に使われる鬱憤を、クマイは、少数部族を蔑視することで解消していたのだ。それを感じるからヤマ族は、無意識にクメール人に反発していた。
「この雨が味方してくれる。鉄砲水をだして、やつらを山から追い出すのだ」
ビバットは、力強く叫んだ。
「そうだ、追い出そう!」
「戦うぞ!」
ヤマ族の若者たちは、互いに喊声をあげあい勇気を奮い起こした。なにもしないことは、部族全員の死を意味した。赤い悪魔たちが異変に気づいてからではもう遅い。それはだれもがわかっていた。
「こうなったら、気づかれない前に戦うしかない」ボトは決断し長老のタオに報告した。
「早かれ遅かれいつかはこうなる」タオは、つぶやいた。
先決は、赤い悪魔の兵隊を山から追い払うのだ。降り始めた雨は止む気配がなかった。部族の男たちは鉄砲水を起こすために、山を下りていった。ヤマ族には、自衛としての戦法があった。雨季のときは、鉄砲水の流れを嶮しい一本道に狙い定めるのだ。決壊させた水は、鉄砲水となって山道を雪崩のように襲うのだ。乾季のときは、山の上まで来るのを待って下から火を放つのだ。天候と地の利を利用するのは、武器をもたない山岳部族の知恵だった。かつては、フランス軍や日本軍との戦いでもこの作戦で部族を守った。どの軍隊も不慣れな山の戦いに手を焼き、結局は皆あきらめて山をおりた。
今度も山の神に頼るしかなかった。幹部たちは老人と女子供を密林に隠すと集会所に集って連絡を待った。密林を棲み家とする赤い悪魔に、この作戦は通じるのか。不安だったが、心配には及ばなかった。町や村が活動範囲のゲリラの幹部たちは山の恐ろしさを知らなかった。
この時期、雨季のあいだ、降り始めた雨は乾季の間に積もりたまった枯れ木や木の葉に流れを妨げられて、狭い谷間にいくつもの水溜りをつくっていた。それはすぐに池となりたちまち満水になって、自然の堤防を決壊させた。谷のあちこちから鉄砲水が流れ出て一つの激流となり大きな濁流となって偉大なるトンレサップ湖やメコン河に流れ込んでいった。雨量の多いこの季節、山は危険地帯がいっぱいだった。密林を棲み家とする赤い悪魔のゲリラは、斜面を突然、濁流のように流れ襲ってくる土石流に為すすべもなかった。新式銃も、なんの役にも立たなかった。密林が幾多の王朝を滅ぼしたように、水もまた近代兵器で武装した赤い悪魔の兵士の攻撃を阻んだのである。
5
「やつらは山を下りた。しかし、雨季が明ければ奴らは、必ず襲ってくる」
「また、追い返せばいい」シナタは、無理に薄笑いを浮かべて言った。
「どんな作戦でーか」ボトは、苦虫を咬んだように言い捨てた。「水はないんだ」
「こんどは火責めにすればいいんだ」シナタは、振り返ってレンに言った。「な、そうだろ」
「火は燃え尽きたら終わりだ」
「そしたら石を落とせばいい。石だって武器になる」
「石がなくなったらどうする。結局は、皆殺しにされる」
「じゃあ、どうすりゃいいんです族長」シナタは、口をへの字に曲げて不満そうに言った。「あれもだめ、これもだめ。やつらがあきらめるのを待つんですか――」
「シアヌークの兵隊は、あきらめたが、赤い悪魔は、あきらめん。徴集部隊の五人を殺され、斥候もわざと起こした鉄砲水でやられた。それがわかればなおさらだ」
ボトは、首をふって言った。
「じゃあ、どうすりゃあいいんです」こんどはオシムがたずねた。
「おれたちが、おとなしくついてゆけばよかったのですか。そしたら、ヤマ族は生き残れる。そう思うのですか」
誰も、言葉を発しなかった。重苦しい空気だけが、漂った。
「ロンノルの新政府に頼みましょう」不意にシナタが言った。
だれも返事をしなかった。四月に誕生したロン・ノル政権が、どんな政府か知らなかった。プノンペンにいたソクヘンでさえ、まだよくわかっていないのだ。わかっていのは、できたときから腐敗しきった政権とのよからぬ噂と、それに若者を兵隊にしたがっていること。よいこともある。リーセン商会が運んでくる日用雑貨にアメリカの品物が多くなった。これまでの粗悪な中国品とは格段と違った。アメリカに行ったことがあるシナタは、そのことをまるで自分の活躍でもあるように自慢していた。
「不可能な提案だ」
「なぜです」シナタは憮然として睨んだ。
「密林はゲリラの支配下だ。引き受けたって来れはしない。それに誰が頼みに行くのだ。ソクヘンが逃げ帰ってきたところに」
「提案しただけですよ、だれも何も意見ださないんで・・・」
シナタは、ぶつぶつ言いながらうつむいた。
実際、だれも何も言わなかった。
「長老さま、どうしたらいいんです」ボトは、タオを見て言った。
タオは目をつむったまま、じっとしていたが、不意にぽつんと言った。
「この地を捨てるしかない」
「えっ」皆は、意味がわからずタオをみた。
「この地を捨てるしかない」タオは、再び言った。こんどは、はっきりした声だった。
バナナの葉を敷き詰めた屋根をたたく雨の音だけが薄暗い広間に響いた。
「ここを捨てる!?」ボトは確かめるように聞いた。
「この地から離れるということですか」
「そうだ、雨季の終る前にこの地を去るしかない」タオは、静かに言ってつづけた。
「赤い悪魔の兵隊を殺したと聞いたときから、これより他ないと考えていた」
「そんな、いやです!」チャットが叫んだ。「ここを捨てるなんてできません」
「どちらかを選ぶしかない。残って戦うか。勝ち目はないが。それとも、一時的にでも、やつらの手の届かないところに逃げるか。生きていれば、また戻ってくることもできる。奴らの所業を天はいつまでも黙ってはいないだろう」
「そう、そうするしかないでしょう。長老様のおっしゃる通りです」オシムは、自分に言い聞かすように頷いて言った。
「いまは、いっとき避難するしかないのです。天が雨となって味方してくれているうちに」
「しかし、どこに逃げるんです?」ソクヘンは聞いた。
「そうです、どこに・・・我々はこの地を離れたことがない」チャットは臆病そうな目を向ける。
「ソクヘン、おまえはプノンペンにいたんだ。どこに行ったらいいかわかるだろう」
「プノンペンに行こうぜ」シナタがうれしそうに叫んだ。「シアヌークはだめだったが、新政府ならかくまってくれるだろう」
「まだ、そんなことを。山の下はゲリラだらけだ」オシムは、あきれ顔で言った。
「じゃあどうすればいいんだ。ここで、むざむざ殺されるのを待つのか」シナタは、食い下がった。
「いまから許しをこうて、やつらの手下になったほうがましかも」
「無理だろう」ビバットは、厳しい口調で言下に否定した。
「一度、反抗した部族はどうなったか。ミャン族のことを聞いているだろ」
麓に住む少数民族のミャン族は、全員なぶり殺しにされた。子供は棍棒で叩き殺され、女は暴行されそのあと八つ裂きにされ、年寄りは銃の的にされた。そして、集落は焼き尽くされた。真相はわからないが、そんな噂が流れている。
「しかし、昨日までシアヌークと戦っていた赤い悪魔が、こんどはシアヌークと手を組んで、新しい政府と戦いだした。クマイ族のすることはわからん」ボトは、ため息ついてうなだれた。
「むかしのクメール・ルージュは、我々には何もしなかった」
「赤い悪魔がきてからやつらは狂ってきた」。
皆、小声で話しはじめた。
「ねらわれたら最後か・・・・」
「そうじゃ、狙われたら最後、我々の生き延びる道は、二つしかない」タオは、つぶやくように、しかし、確信をもった声で言った。
「ここで戦って死ぬか、この地を捨てるか」
「しかし、捨てる、といっても、捨ててどこへ行くのですか」
「やつらの手のとどかない場所までだ」
「届かない場所 ?」
「そんなところが、このあたりにあるのか」
「タイの国境のことですか」ソクヘンは、聞いた。
「そうだ。国境を越せばやつらは手は出せない」タオは、言った。
「そうだな、ソクヘン」
「は、はい。国境侵犯は国際問題になります。どんな大国も破れません」
「ではタイに逃れるのですか」族長のボトは、怪訝そうに聞いた。
「この密林の中を――行くんですか」
「そうだ。シャムだ。われわれが大変なら、やつらにも大変だ」
「たしかに、タイに向かう密林は、まだ゛ゲリラの支配下ではない」
「しかし、誰も行ったことがない密林を」ソクヘンは、聞いた。
「大勢の部族の者をどう引きつれていくのですか」
「無理だ」チャットは、叫んだ。
「無理も、無理でなくても、それしかない」
「タイの国境は、そんなに遠くない」ビバットは、言った。
「ここで殺されるのを待つよりいい、行きましょう」
「よし、それで決まりだ。早く行きましょう」シナタは、急に元気になって言った。「たぶんタイ政府は、赤い悪魔は嫌いです。タイ軍に頼んで、やつらをやっつけてもらいましょう」
「バカか」族長のボトは、顔をしかめて言った。
「おまえは、ジャングルで迷ったときの怖さを知らないのだ。案内人もいないジャングルは羅針盤なしで海を渡るのと同じだと聞いたことがある。全員が野たれ死ぬか赤い悪魔に見つけ出されて殺されるか、獣の餌になるのがおちだ」
「やっぱり、どのみち我々ヤマ族は、生き残る道はないということか」
ビバットはため息をついて肩を落とす。薄暗い室内に重苦しい沈黙がつづいた。
6
「いや、手はある。むずかしいが方法はある」唐突にタオは、ひとりごちるように言って暗闇の天井を仰いだ。皆、一斉に長老を見た。
「どんな、―です」ボトは、恐る恐る聞いた。
「案内人を頼むのだ。タイ国境まで」
一気に緊張の糸が弛んだ。
「長老様、そんなことは百も承知してます」シナタは、薄笑いを浮かべて言った。
「案内人がいれば、みんな、悩んだりしません。いますぐに頼みに行きます」
「長老様、シナタの言う通りです」ボトは、苦笑して言った。
「誰か、いれば頼みます。しかし、このあたりで密林を抜けてタイに行った部族の話はききません。密林に住む、われわれヤマ族の人間でさえ、だれ一人行ったことはないのです。タイから山繭の絹織物を買いにくる商人だってプノンペンからの道を通ってきます。カルタガンの密林は広いです。ただ広いだけじゃない、ここにはトラや毒蛇や毒虫もいる。それにいまじゃ、そんな猛獣より恐ろしい赤い悪魔のゲリラまでいるんです。そんな恐ろしいところへ、たとえ道を知っていたとしても、誰も案内などしてはくれません」
「・・・・そうだな・・・」
タオは、ぽつりと言って押し黙った。ふたたび深い沈黙が室内に流れた。
山岳部族のヤマ族が、山麓の密林におりることは殆どなかった。狩りも、山繭採集も自分たちの住む山岳で事足りた。唯一、山をおりたのは、アメリカに行ったことのある長老の甥のシナタとプノンペン大学の学生となったソクヘンだけだった。が、彼らとてプノンペンに通じる山道以外、歩いたことはなかった。これまで密林を抜け出ることなど、だれも考えたことがなかった。暫くして、「長老様」ボトは、否定したのを悪いと思ってか、遠慮がちに聞いた。
「方法があるとおっしゃいましたが・・・」
「うん、突飛だが。ある」タオは、しっかりした口調で言った。
「案内できる人間は、いる」
「え、だれです?!」幹部の男たちは、思わず声をだした。
「彼らだ」
「彼ら?」誰もが眉をひそめた。自分たちヤマ族のために危険な役を引きうけてくれる人。そんな人間は誰も思い浮かばなかった。
「ここにおる」タオは、言って革袋を引き寄せ、中から古びたエアーメールの封筒をとり出した。この会議のために自宅から用意してきたらしい。長老は、封筒の中から、色あせた紙包みをとりだしひろげた。
皆は一斉にのぞきこんだ。包まれていたものは一枚の古びた写真だった。まだ黒髪が少しあるタオ、青年顔のボトをはじめ部族の男たちが写っていた。皆、若かった。そのなかに服装の違う五人の青年がいた。もう何年も前に、この地を訪れた五人の日本の大学生との記念写真だった。写真は、大学生たちが帰国後、日本から送ってくれたものだった。
「彼らに?!」ボトは、怪訝そうにつぶやいた。
皆も、訝しげに長老をみた。意味がわからなかった。
「そうだ。彼らだ」タオは、はっきり言った。
「・・・・」
考えてもみなかった答えと確信をもった長老の言葉に皆の反応は鈍かった。あまりに突飛な考えに、どう答えてよいかわからなかった。
「彼らはタイからきて、再びタイに帰っていった」タオは、言った。「そうだな」
「ええ・・・」ボトも幹部たちも頷いた。そういえば、遠い昔、そんなことがあった。
たしかにあの日本の大学生たち密林の中の道を知っているはず。彼らなら案内してくれるかも。だがしかし、それはあまりに非現実の提案過ぎた。
「たしかに、そうですが。しかし、あれから何年もたっています」族長のボトはぼそっと言って、振り返ってオシムに聞いた。
「ニホンはいくつだ」
「ニホンですか。このくらいではないですか」オシムは、両手をひろげてみせた。
「十歳か、もう十年も過ぎているんだ。とても無理だな」ボトは苦笑いして首を振った
いくら未踏の山岳地方に住んでいるとはいえ、半年に一度プノンペンから日用雑貨を売りにくるリーセン商会の広東人イエン・リーセンと話している彼は、世の中の常識も、十年という歳月の長さも理解していた。たとえ、千に一つ可能性があったとしても彼らは日本人だ。引きうけてくれることなどありえない、と思った。もし自分が彼らだったら百パーセント断るだろう。
「無理な、荒唐無稽な話かもしれん。だが、わしは、信じている」タオは、皆を見回して言った。
「ええ、少し思い出しました、彼らのことを」ボトは、あいまいに頷いた。
遠い昔だが、ぼんやりあの日のことが思い出された。彼らが山を去る日、彼らは誓った。
「何か困ったことが起きたら、知らせてください。必ず来ます」と。
そして、固い握手を交わした。あのときは、その言葉にウソはなかったかも。しかし、たとえ真実だったにせよ。十年という歳月が反古にしている。そう考えるのが真っ当なところだ。
「だんだん思い出しました。たしかに約束をしました・・・」
「わしは、はっきり覚えている」
タオは、そう言いつつ後ろに置いてあった山刀を引き寄せると、皆の前で、ゆっくり鯉口を切るとそろり中ほどまで引き抜いて、いきよいよく白刃を鞘に戻した。ビシ!という、はぎれのよい音がどんより湿った室内に響いた。
「彼らは誓ったサムライの約束は、こうするのだと」
「サムライの約束…」
男たちは思い出したように口々につぶやいた。
「ああ、たしかに、そのような儀式のようなことをしました、が・・・」
「困ったことがあったら、遠慮せず知らせてくれ。彼らはそう言った。いま、われわれは困っている。だから彼らに知らせるのだ」
「ふん、バカバカしい」シナタは横を向いて小声で言い捨てたあと、薄笑いを浮かべながら言った。
「長老さま、わたしも子供でしたが覚えています、彼らがそうやって皆の前で約束したのを。しかし、彼らが約束を守るとは思いません」
「なぜだ?!」
「あのときは、彼らは若者でした。でも十年もたてば、人間は変わります。彼らだって大人になっています。あんな約束など忘れているでしょう。たとえ覚えていたとしても、我々の為に、海を越えてこの地にわざわざ来るでしょうか。わたしは信じません。もしわたしがアメリカでそんな約束してきたって、わたしは行きませんよ。ドル札を送ってくれたら考えてもいいですが、案内するところが密林では、やっぱり断ります。それに、あの儀式、ハリウッドの映画のようでした。芝居がかっていました」
シナタの言葉にだれもが小さく頷いた。その見方に反論の余地はなかった。
「ふうむ」タオは大きなため息をついて黙り込んだ。が。すぐに顔をあげて皆に問い掛けた。「では、ほかになにか策はあるのか。雨季があければ奴らは攻めこんでくる。五人も殺したのだ、許してはくれまい」
誰もその問いに答えられる者はいなかった。ふたたび長い沈黙のあと族長のボトは、恐る恐る口を開いた。
「もし、ですがー彼らに頼むとしても、どうやって知らせるんです。彼らが写真を送ってきたのは十年も前の話です。あれ以来、彼らからは何の連絡ない。それに手紙を書くにしても日本の字も知らないし、どこに出していいのかもわからないです」
「長老様、やはりあまりにも荒唐無稽すぎます」別の幹部が、たまりかねて言った。彼は、若い頃、プノンペンにでて広東人の店で働いていただけに世間のことはよくわかっているつもりだった。
「彼らは、違う」
「どこがです」
「サムライの約束といった」
「サムライは、ただの言葉です。いまの日本にはいません」
「いるのは映画の中だけです」
「わかっておる。わしがいうのは、魂だ」タオは、言った。
「二十何年か前、日本の軍人が密かに山にきた。はじめは知らずに怪しんで交戦した。が、フランス人の敵と分かって親しくなった。かれら日本人は、シンガポールを攻めるためにこの国のフランス人を追い出したい、そのために協力してくれと言った。シンガポールには、難攻不落のイギリス軍の要塞があった。何世紀も前から君臨している堅固な要塞だ。東洋人の日本軍が落とせるわけがない。荒唐無稽な話と思った。シンガポールどころか、フランス軍に勝てるとも思えなかった。しかし、その日本の軍人は、必ず、フランス人を打ち負かし、シンガポールを陥落させるのだ、と誓った。そして、アジアを白人から救うと、サムライの約束、キンチョウをみせたのだ。そのときわしは本気にはしなかった。いくら日本人が中国人より強くても、神のような白人に勝てるはずはないと思った。しかし、彼はサムライの約束は絶対だと言った。本当だった。日本人は、ベトナムからもクメールからもフランス人を追い出した。そうして、イギリス軍が誇るシンガポールの要塞を落としたのだ。日本人は、アメリカに負けたが、わしと結んだサムライの約束は果たしたのだ」
タオは、頑とした口調で思い出を語った。そうして、その頃を懐かしむようにほの暗い天井を見上げた。自分たちは、万能の神である、そう言ってクメール人はむろん、ベトナム人も広東人さえも水牛やブタ扱いしていた白人たち。彼らは、日本軍と聞いただけで、恐怖におびえ右往左往しながら逃げて行った日のことを。
あのときの日本の軍人と、十年前の日本の大学生とでは、まったく印象が違った。大学生には、威厳も礼節も感じなかった。それは認める。しかし、彼らがキンチョウだといって山刀の鯉口を打ち鳴らしたとき、同じ魂を感じたのだ。
7
「彼らが、うそをついたとは思えん」
「いえ、そうではないんです。しかし、もしですよ」ボトは、絞り出すような声で聞いた。「あのときの日本の学生たちが、本心から、約束したとしても、どうやって頼むんですか・・・」
「そうです。手紙を書くにしても、何語で・・・第一、どこに送るんです」
「彼らとて、この国の言葉を話せない」
皆は、てんでに不可能なことだと小声で話しはじめた。
タオは、大きく手を振って言った。
「こういうことは、直接に頼むしかない」
「直接に!?」皆は、きょとんとしてタオをみた。一瞬、時間が止まったように静まった。
「そう、直接に行って、じかに頼むしかないのだ」
「行くってどこにですか ?」
「日本だ、ほかにないだろう」
「えっ、日本に!?」皆は、一斉に驚き声をあげた。あまりの荒唐無稽さに、失笑さえ漏れた。
「他に道はない」タオは、静かに言って聞いた。「あると思うものは、話してみろ」
「しかし、行くといっても・・・いったいだれが行くです。その、頼みに」
「英語なら、できる」シナタは、すかさず言った。
「日本語は、わからないだろ」
「なんとかなるさ。言葉なんか、どうにでもなる。そんなことより、行くとなれば旅費がいる。旅費はどうするんです。日本まで、といえば何千リエルが必要だ。いや、頼みに行くのだから彼らの旅費だって必要じゃないか。いくら約束したからって、ただじゃあこない」
シナタは、外国のこととなると俄然、意欲がわくらしい。とたん、饒舌になった。決まれば、自分を選んで欲しい。自分こそが適役だみたいな口ぶりになった。が、だれも相手にしなかった。
言葉に旅費。どれをみても、この話は不可能に思えた。外の雨は、いっそう激しくなった。五人のゲリラの死体を片付けなければ、皆の考えは、現実的なことに移っていた。
「とにかく、いまは」言ってボトは、腰をあげかけた。
「行くものは考えてある」突然、タオは力強く言った。長老はどこまでも本気だった。
「考えてある ?!」
「誰です」
タオはゆっくり振りかえると、入口近くで、幹部たちの話を、黙って聞いていたソクヘンを指差した。
「ソクヘンを?」 部族幹部たちは、すっかり忘れていた。ヤマ族でただ一人の大学生ソクヘンはプノンペン大学で日本語を専攻していたのだ。
「ソクヘンより、外国は、おれのほうが」
シナタは、不満そうに言った。
「おまえは、黙っていろ」タオは、激しく叱った。
「ソクヘンは、わかりますが、お金はどうするんです。彼一人だって行かせられるかどうか」
ボトは、眉をひそめてたずねた。
とたん白髪のタオの顔に笑顔が浮かんだ。
「もしかのことは、いつも考えていた」タオは、言って懐から皮袋をとりだした。皆の視線が一斉に注がれた。タオは、紐をほどくと、中に入っているものをゴザの上にぶちあけた。鈍い光の粒がいくつも転がった。ルビーの原石だった。
「山で、見つけてとっておいたものだ」
皆は、ため息をつくばかりだった。この山岳地帯でルビーの原石が採れるという話は、噂では知っていた。が、実際に目にしたことはなかった。
「ソクヘン、ここに来い。話は聞いての通りだ。ヤマ族を救うのは、お前しかいない。行って彼らに案内を頼んでくれ」タオは、大声で言った。
「はい」ソクヘンは、思わぬ任務に頬を紅潮させて大きく頷いた。
「孤児である私をプノンペンの大学まで行かせてくれた一族のためにお役にたてることをうれしく思います」
ソクヘンの両親は彼が幼い頃、亡くなっていた。人食いトラに襲われたのだ。父は、妻と我が子を助けようと勇敢に戦った。矢尽き刀折れても、必死で向かっていった。しかし父、母とも獰猛な人食いトラの牙から逃れることはできなかった。トラは、母親を、前足の一撃で絶命させ、息子をかばう父親に襲いかかった。が、次の瞬間、トラの喉に父親の山刀が突き刺さった。そのままこと切れて倒れこんだ人食いトラ。ソクヘンはその牙のほんの数センチのところで泣いていた。
「これをイエン・リーセンに買ってもらうのだ。日本へのことは彼に聞け」
「わかりました」
「今から行ってくれるか」
「はい」
「おまえの方がゲリラより山を知っている。だが、油断するな」
それから一時間後、ソクヘンは誰にも見送られることなくヤマ族の集落を後にした。一か月前にプノンペンからシアヌーク追放、ロン・ノル政権誕生のニュースをもって逃げ帰ってきた道を、今度は部族興亡の重責を背負って再びプノンペンへ戻っていく。こんな事態になろうとはソクヘンはむろん、誰が想像できたといえよう。それにソクヘンにとって憧れの国、ジャポンに行くことになったのは嬉しかった。しかし、自分が十歳のときにきた彼らのことは、ほとんど記憶になかった。密林ガイドを頼みにきたと、知ったら、どう思うだろう。引き受けてくれるだろうか。不安な思いが交差した。が、なんとしてもこの任務を果たさなければ、と心に誓った。
リミットは雨季明けまでの二ヶ月。乾季になれば復讐に燃えた赤い悪魔たちは、山に登ってくる。それまでにタイ領に逃げなければ。だが、はたしてあのときの日本の大学生たちは約束したキンチョウを覚えているだろうか。そして、あの約束を守ってくれるだろうか。不安はなかった。ルビーは五人分の飛行機代に足りた。日本への旅費代をとって、あとはリー・センにそっくり預けた。後払いとはいえ、なんの保障もないのに自腹でくるだろうか。そんな疑いは微塵もなかった。すべてはキンチョウのため。彼らは万難を排しきてくれる。そう信じていた。
二週間後、雑貨商イエン・リーセンの手引きでパスポートを手に入れるとソクヘンは一族の命運を背負ってプノンペン郊外のポーチェン・トム空港から香港経由で日本に旅立った。
「日本人、二人いる。いい日本人と悪い日本人」リー・センは繰り返し言った。
彼らが、「いい日本人」でありますように。ソクヘンは、眼下に広がるメコンデルタをながめながらそう祈るしかなかった。ベトナムでは戦争が激化していた。その火の粉はカンボジアに飛び火した。政変とともに静かだった空に米軍の爆撃機がとびはじめた。そして、かってのクメール・ルージュ、赤い悪魔の動きもいっそう活発になった。
風雲急を告げるインドシナを後に南ベトナム航空のプロペラ機は、機体をきしませながら一路、香港に向かった。
二章 過去からの訪問者
1
どんよりと垂れ下がった雲の間から薄陽が差していた。久しぶりの梅雨の晴れ間に、正午を待って、ここ丸の内のビル街で働く人々がどっと外にくりだした。雨に洗われた濃い緑があざやかなマロニエの街路樹。その下の歩道が勤め人たちのワイシャツの白さと女子社員のカラフルな色合いの制服で埋め尽くされていく。それらの光景を見下ろすように、林立するビル。そのなかでも一際高くそびえているのは、さきごろ完成したばかりの三十五階の五井物産ビルである。そのビルの二十階にある外交部のフロアーは昼時でごった返していた。急いで席を立って最上階の食堂に向かう中年社員。早く仕事を終らそうと広いフロアを駆けずり回る若手社員。様々である。
「カルガモの赤ちゃん見にゆきましょうよ」
最後の女子社員たちが騒々しく出ていくと、急に広い室内はひっそりした。
髙木健二は重要書類の入ったアタッシュケースを金庫にしまうと、窓際に行って外を見た。皇居の濃い緑にほっとした気持ちになる。目まぐるしく変化する都会の風景のなかで、いつみても変わらぬ光景は、このところの張り詰めた神経を和らげてくれた。夕方の接待仕事まで時間はある。会場が赤坂の料亭というから政治家が同席するのだろう。大きな仕事になるかも知れない。そんな予感がした。それまで命の洗濯でもするか。彼は、恋人の亜希子を誘って日比谷公園をぶらつくことにしていた。秘書課は、まだ会議中だが、そのうち来るだろう。それまで高みの見物だ。高木は、窓際の机の端に腰をおろしかけた。そのとき電話番で居残りの女子社員が、遠慮がちに取り次いだ。
「高木さん、お電話です。ナカジマ様からですが」
「おれに?」高木は、振り返って聞いた。
「ええ、よろしいでしょうか」
「いいよ、いいよ。出る前でよかった」言って健二は、目の前の受話器をとりながら女子社員に小声で「ナカジマ?」と確認してから言った。
「はい髙木ですが」
「髙木君?」
相手は確かめるように言った。聞き覚えのある声だったが、すぐには思い浮かばなかった。商社マンという仕事柄、日に何人もの人に会っている。電話も多い。ナカジマと名のつく名刺も何枚もある。
「はあ、そうですが・・・」
健二は、君づけの慣れなれしさを訝しみながら用心深く答えた。
とたん、相手の声が崩れた。
「高木、オレだよ。アジケンの中島だけど」
「えっ!中島先輩スか」次の瞬間、健二は破顔一笑して思わず叫んだ。
「オス!」
取次ぎの女子社員が、驚いて振り返った。電話の主は学生時代、所属していた「アジア研究会」探検部の先輩、中島教一郎だった。アジア研究会、略してアジケンは、日本民族のルーツ探しが主な活動だった。東南アジアや中央アジアの奥地に日本人と似た民族を探し、資金ができれば現地調査に出発する――そんな会だった。電話の主、中島は副長を務めていた。現在は、母校の日東大学で教鞭をとっていた。昨年、助教授になったという年賀状をもらった。几帳面な性格で、一緒にいても楽しくはない先輩だったが、会の活動計画を実行するにはなくてはならない人材だった。計画書の作成、提出、パスポート申請、ビザ許可。予防注射の有無。探検隊に必要な事務的手続きは、すべて彼の役目だった。
アジケンの探検対象は、いわゆる秘境といわれる地域。人跡未踏の熱帯のジャングルや中央アジアの草原。標高三千メートル以上のヒマラヤ山中。その地に日本人と似た人たちが住んでいると云う話を聞けば、すぐに探検計画が練られた。資金繰りがつけば、出かけて行った。文化部に属していたが、日ごろの訓練や合宿は、運動部と同じに厳しかった。それが原因か、現在は入部者がいず休部中とのこと。当時の部員の団結力は強かった。が、卒業してからは忙しさにかまけて、賀状以外の連絡は途絶えていた。
「久しぶりだな」中島教一郎は、相変わらず落ち着き払った声で言った。が、それでも、さすがになつかしそうに言った。
「元気そうじゃないか。噂は聞いてるよ。バリバリやつてるって話じゃないか」
「ただのお使い小僧ですよ。学校の方、ご無沙汰していて、すみません」
「便りがないのは、元気な知らせさ」中島教一郎は、真面目な声で言ったあと、卒業後、少しはやわらかくなったらしく、めずらしく冗談口をたたいた。
「でも、たまには大学にも顔だせよ。夜の蝶ばつかし追いかけてないで」
「副長、蝶がいるとこなんて行ける余裕なんてありませんよ。毎日、ジャングルの中で生活してるみたいな気分ですから」
「ジャングル!?エリート商社マンの生活にもそんなところあるのか」
「ありますよ。毒蛇や猛獣よりすごい連中がうようよいますからねえ。妖怪とか怪物ですよ」
「じゃあ、役に立ってるだろ」中島教一郎は、笑って言った。「アジケン根性が」
「ええ、ほんと大いに役立ってますよ。ひるまず、怖れずアジケン魂」
「しかし、ジャングルなんて言葉を聞くと、なつかしいねえ」
「そうですね・・・・」
髙木は、感慨深げにうなずいた。脳裏を、ちらっと卒業してからのことが頭をかすめた。
高度成長の真っ只中にあって、学生時代の仲間と、ゆっくり酒を飲み交わす暇もなかった。仕事、仕事で明け暮れるビジネスマンの世界。それだけに、共に探検活動した副長の中島教一郎の声は、相変わらずとはいえ、ほっとするものがあった。やはり学生時代の仲間、それも同じ釜の飯を食った仲間はなつかしい。
「実は、電話したのは・・・」中島は、一瞬、間をおいたあと、不意に事務的な声になって切り出した。
「昨日の夕方めずらしい人物が、学校に訪ねてきてね。そのことで、連絡したんだ」
「めずらしい人物ですか、誰です ?」
「うん、めずらしいというか、思いもしなかったというか・・・」
「だれです。早く言ってくださいよ」
「ヤマ族って覚えているか ?」
「ヤマ族!」高木は、一瞬、考えたあと言った。
「ええーと、カンボジアとタイの間にあった山岳部族の・・・でしよ。あそこは覚えてますよ。えらい苦労してたどり着いた、それに柳沢隊員が医療班のくせに病気になって、一ヶ月も滞在した山岳部族の村」
「うん、そうそう、あそこなんだ・・・」中島助教授は、他人事のように頷いたあと、なんとなく重い声で言った。
「そのヤマ族の若者が、昨日、いきなり大学にたずねてきたんだ」
「ヤマ族の若者 ?!」高木は、眉をひそめて聞いた。「だれです ?!」
「バヤン・リーチなんとか・・・えーと、ソクヘンという名前の若者だ」
「ソクヘン・・・ソクヘン・・・」高木は、明るい天井を見上げながらつぶやいた。まったく思い出せなかった。
「いま、二十歳というから、我々が行ったときは、十歳の子供だった」
「それじゃあ、わかりませんよ」
「ロンといえばわかるだろ」
「ろん?なんです、それ」
「ロンだよ。マージャンのロン」
「マージャンですか ?!」
「そうだ、そのロンだ」
高木の脳裏に十年前の記憶がかすかによみがえった。隊員たちが、退屈しのぎにマージャンをはじめると、ヤマ族の子供たちが見物に集まってきた。その中にリーチが自分のことだと思って、誰かテンぱって「リーチ」と叫ぶと、大喜びする子供がいた。つづいて当たり牌がでて「ロン!」と怒鳴ると、こんどは一転半べそになった。ロンは、ヤマ族の言葉で間抜けという意味らしい。それで、皆は面白がってその男の子をロンと呼んでいた。
「ああ、いたっけな、そんな男の子が」高木は、頷いた。ぼんやりだが記憶がよみがえった。顔は、まったく思い出せないがなつかしい気持になった。
「そうか、あのときのロンが日本に。マージャンをすぐにおぼえた頭のいい子だった。で、留学か、なにかで・・・」
「いや、そうじゃないよ。羽田から、直接きたんだ」
「えっ!?昨日ついて、その足で、すぐに、ですか」
「そうだ。着いたその足で、まっすぐ大学にきたんだ。驚いたよ」中島教一郎は、苦笑まじりに言った。
「昔、ぼくらが送った写真と、エアーメールを持って大学名を頼りに来たんだ」
「大学名を!?じゃあ副長、いてよかったですねえ。学校に」
「そうだな、十年も前の写真みせられて学生課も困ってたよ」
「ロン、というかその彼、日本語しゃべれるんですか」
「いまプノンペン大学で日本語を専攻しているとかで、片言だがなんとか通じる」
「そりゃあ、すごい。なんとなく思い出した。たしか両親が虎に喰われたとかいう子だった」高木は、大きく頷いてから、怪訝そうに聞いた。
「で、羽田からまっすぐきたっていうことは、何か急な用事あってですか」
「そうなんだ。我々に用件があってきたんだ・・・」
「用件。なんです、用件って ?」
「うん・・・」中島は、曖昧に頷いて言った。
「それが、突飛な用件なんだ。話は聞いたが、なんともいえない話さ。おれ一人じゃあ答えようもないし、みんなに連絡するから、時間くれと伝えたら二、三日後、また来るからといって帰っていった。かなり疲れている様子だったが」
「用件って、なんです」高木は、急いて聞いた。なぜか気になった。
「まさか、十年前の忘れ物を届けに、でもないんでしょ」
「忘れ物、うん、忘れ物か、似たようなもんだが・・・」
中島教一郎は、曖昧につぶやいた。
「なんですか、似たようなものって」
「ちょっと、一言じゃ言えん話だ、会って話す。とにかくみんなに集まってもらうから」
「えっ、そんなにでかい話なんすか!?」
髙木は、考えたが、まったく想像つかなかった。
「うん、まあ、そうなんだ。他にもある、こっちは個人的な正真正銘の置き土産だが。とにかく、みんな集まったとき話すよ。あのときの探検部員全員の問題でもあるからなあ。じゃあ、時間と場所きまったら連絡する。空けといてくれ二日後だ」
なぞめいた言葉を残して中島教一郎は、電話を切った。
何だろう・・・高木は、受話器を置くとちょっとの間、考えこんだ。中島の奥歯にもののはさまったような話し方が気になった。敏腕商社マンの勘と想像力をもってしても思いつかなかった。いったい何の用事で・・・。高木は、あごに手をあてたまま夢遊病者のように窓際を右に左に歩いていた。十年前のインドシナの密林探検・・・ヤマ族の集落・・・あそこで何が・・・。
一九六十年三月 タイ国境を越えてからすでに五日が過ぎていた。空には一片の雲もなかった。乾季の太陽が照りつける高地密林地帯は、まるで全ての生き物が眠りこけてしまったように静まり返っていた。十数メートルの樹木がそそり立ち熱帯植物が生い茂る緑の大海。日東大学アジケン隊の一行は、高台にある遺跡で休憩した。全員疲れ果てていたが、まだ元気一杯だった。ジャングルという荒海のなかで迷い遭難しかかった。三日間さまよったが、なんとか目的地の近くにあると思われる遺跡にたどりついたのだ。ピラミッドのように高く築きあげられた巨石の上に立つと、ジャングルがまるで緑の海のようにはるか彼方までつづいているのが見えた。
まっさきによじ登った医療班の柳沢晴行隊員は「うひょーこれはすごい眺めだ!」思いきり両手をひろげて叫んだ。
「なんだって、こんなところに、こんなものをつくりゃあがったんだ」
隊長の早崎泰造は、土木学科の学生らしく、興味深そうに巨石の下をのぞきこんでいた。
「ここにいると、人間世界のことなど、もうどうでもいいよ」
副長の中島教一郎は、畳三畳はある平らな巨石の上に座り込んで大声で叫んだ。出発するときに報道された全学連の動きが気になるようだ。
「五月か六月にはでかいデモが計画されてるようだ」
「副長!今は、安保どころじゃないでしょう!」高木は、あきれて言った。
「二日のはずが、もう五日もジャングルの中さまよってるんですから」
「ここが、どこかわかったぞ。もうすぐだ」地図の上の磁石を見ていた早崎が大声で言った。
「本当にヤマ族の集落あるんですか」柳沢は、皮肉っぽい薄笑いを浮かべて言った。
「まあ、ぼくはどっちでもいいですけど、そろそろあきてきた」
柳沢の疑問は、もっともだつた。目指す山岳部族のヤマ族は、まぼろしの少数部族だった。山繭を採取して草花染で織った絹布は、タイシルクの商人たちのあいだでは伝説的な織物だった。商人たちは、競ってヤマ族の集落を探した。しかし、集落は、密林の奥、激流と断崖の山岳地帯にあって、辿りつくのは容易ではなかった。それにカンボジア政府の鎖国政策が、いっそうヤマ族との接触を難しいものにしていた。そんな事情から当時としては、密入国だが、タイ国から広い海のような密林を通って行くしかなかった。
しかし、その密林は、迷ったら最後、出られぬ魔境と恐れられた。運よくヤマ族の集落にたどりついた商人たちは、自分たちだけが織物取引を独占するため、自分だけがわかる地図をつくった。そのため、その人間が死ねば、地図もまた消えうせた。誰も来るものがなければ、ヤマ族は山を降りプノンペンの商人に絹織物を持ち込んだ。わずかにタイに流れるヤマシルクの存在が、ヤマ族の存在を証明していた。
日東大学のアジケン隊は、当初、ボルネオに人食い人種探しを計画していた。が、たまたまなにかの雑誌で紹介されたヤマシルクを知ったことから、急遽ヤマ族探しに変更した。ヤマという名からして日本となんらかの関係があるのではないか。もしかして日本人の源流。そんな憶測までして早々に決定した。しかし場所は、タイの絹商人たちの伝聞からといったこころもとないものだった。もっとも噂だけの人食い人種より、絹織物という物的証拠があるヤマ族を探す方がより現実的だった。が、タイ、カンボジア、ラオスにかけて広がる大海のような密林は、一歩進むにも困難を極めた。昼なお暗い大木、網の目のように行く手を阻むつる草。密林というより大海の只中を漂流している。昨日までそんな危機的状況だった。もしかしてこのまま永遠にこの密林を彷徨いつづけるのでは。不安を通り越して恐怖すらあった。もし富士山麓の樹海訓練で、足跡の目印がいかに大切で重要だということを身にしみてわかっていなかったら、絶望するほかはなかった。タイ国境から踏み入れた昼なお暗いジャングル。その地はまさに魔境だった。朽ちた大木と、網の目のようにのびたつる草。毒虫や毒蛇、巨大蛭。そして、繁みに光る獣たちの眼。あらゆるところに危険と困難が潜んでいた。緊張の連続のなかで唯一ほっとさせられるものは、大木の下に眠る大小さまざまな巨石遺跡だった。
その昔。こんな密林の只中にも、こんな巨石の都があったのだ。そのことに勇気づけられた。巨石に、描いた印が帰り道の命綱だった。しかし、人跡未踏のジャングルは想像をはるかに越えていた。たった百メートルを何時間もかかつた。有り余る樹海のなかにいての水の乾き。絶えず襲ってくる蚊とアリ。そして吸血ヒル。なんども行軍を断念しようとした。だが、その都度、若さと無謀さで探検隊はひたすら前進した。そして、遭難寸前、奇跡的に伝説の山岳部族ヤマ族の集落にたどりついた。
突然、神聖かつ怖れの領域である密林から現れた五人の外国人。プノンペンからの広東人しか知らないヤマ族の人たちは驚いた。遺跡盗掘者と怪しみ警戒した。が、探検隊が、ただの日本の大学生だとわかると親切になった。ヤマ族は、山マユの絹織物を生活の糧としてくらしていた。体つきは細いクメール人に比べがっしりしていて、肌色や顔かたちは、整った都会風の日本人に似ていた。そんなところから探検隊もすっかり心をゆるした。医療隊員の柳沢がマラリアにかかったのでまるまる一ヶ月の滞在延長となり、彼らといっそう親交を結ぶことになった。あのなつかしい密林の集落から若者が一人、十年の歳月の後に突然やってきた。たんなる旅行者としてではなく、なにか目的をもって。
援助の話か。仕事がら高木は、そんなふうに想像した。ヤマ族の集落がある、あの国は、この三月にクーデターが起きた。親米派の軍人が政権をとり、それまで鎖国政策をとっていた国王シアヌーク殿下が追い出され、、独裁社会主義国から民主国家になった。米国とも国交を回復した。そのことと関係あるのだろうか。しかし、政変がジャングルの奥地にある少数山岳部族に影響するとは思えなかった。たぶん留学か経済的なことだろう・・・。
「高木さん」
不意に呼ばれて振り返った。秘書課の津島亜希子が小走りで入ってきた。
「ごめんなさい」亜希子は、うれしそうに言った。
「いま終わってフリーになったの」
「ああ」高木は、心ここにあらずの様子で頷いた。
「どうしたの、遅くなったから」
「ばか、そんなことで怒るか。ちょっとはっきりしない電話があったんだ」
「クレーム?」
「いや、仕事じゃない。学生時代のことだ」
「学生時代・・・」
「大学の探検部のこと」
「大学の」彼女は、驚いて言った。「もう十年もたっているのに!」
「そう、もう十年もたっているのにだ」高木は、首を傾げた。
「じゃあ早くでましょう。また電話があったら困るから」
「そうだな。三十六景といくか」
高木は、苦笑して歩き出した。
「いいのね。ほんとに」
振り向いた亜希子の黒髪が、鼻先に甘く匂った。
高木は、不意に愛しい気持が湧き上がった。先日アメリカから帰国してから報告と接待に追われ、ゆっくり二人だけで会う時間がなかった。今日も、夕方から赤坂の料亭である。与党の大物政治家、右翼の大物、著名な経済人のお忍び会合。億のつく大きな仕事が決まるかもしれない。エコノミックアニマルと世界から恐れられている日本を動かしているのは、国会ではなく、深夜の料亭である。そのことを実感するだけに、接待は、極度の緊張で息つくひまもない。せめて、この昼時間、日比谷公園と銀ブラで気持を癒そうと思った。
「どうせ、たいした話じゃない」
高木は、笑って言った。亜希子との会話が中島教一郎の電話のことを遠のかせた。 ・・・今度の大仕事が終ったら、はっきり申し込むか。エレヴェーターに乗りながら、思った。
「ねえ、ほんと。こんどニューヨーク支店に行くのはあなたという噂」
亜希子は、振り返ってささやくように聞いた。
「さあ、そんなことはわからん」
高木は、苦笑して乱暴に言った。が、その顔は自信に満ちていた。
「そのときは、わたしも一緒よ」
亜希子は、人目もはばからず高木の左腕をしっかり抱きしめた。ガラス張りのエレベエターから見える皇居の緑がすがすがしかった。
2
中島教一郎は、研究室の窓辺にたたずみ、校舎の中庭を見下ろしていた。久しぶりにアジケンの仲間と話したことで、気持が高揚していた。机の上には、電話番号を調べた「アジア研・OB会」名簿がひろげられたままだった。
窓外は、雨上がりの中庭に、四時限目の授業を終えた学生たちがどっとでてきたところだった。カップルあり、グループあり。流れは淀み、あちこちのベンチでおしゃべりがはじまった。半年前まで、吹き荒れていた学園紛争が嘘のような、平和な学園風景だった。しかし、教一郎は、何か落ち着かなかった。柳沢隊員以外、全員に電話した。久しぶりの電話だった。が、肝心なことは何も話さなかった。それで、なにかすっきりしないのだ。
皆にヤマ族の若者の目的を話してしまった方がよかったのか。いまも迷っていた。なにしろソクヘンの話は、あまりにも突飛過ぎて電話で説明しづらかった。それに、十年前とはいえアジケン全体の問題でもある。一人ひとりに話すより、皆が顔を揃えた席で、と思ったのだ。しかし、その反面、あの若者の要件を知ったら、どう思うか・・・早く、知らせたい。そんな気持も強かった。
一ノ瀬幸基は、神社の境内にある武道センターの弓道場にいた。夕闇が漂いはじめた武道センターの広い正面玄関は、空手、合気道、柔道の稽古に通ってくる子供とその送り迎えの親や若者たちで騒々しかった。が、その喧騒なにぎわいとは別にセンターの後ろにある弓技場はひっそり閑としていた。近頃は、学校の部活以外、稽古事で弓道を習う子供はいなかった。一般の弓道同好会の会員も、郊外のこの町では、登録者は、十人ほどで、そのほとんは、名ばかりの会員だった。そのなかで高校教師の一ノ瀬は、熱心な会員だった。勤務帰り、よく立ち寄っては弓を引いた。教師仲間との付き合いが苦手な彼は、誰もいないこの練習場で、時間まで一人貸しきり状態で練習することを気に入っていた。的の前に立つと気持ちが落ち着いた。
彼は、無心に構え弦を引き絞った。そのとき不意に中島からの電話のことが頭に浮かんだ。一瞬、疑念が過ぎった。放たれた矢は、的をわずかに逸れて盛り土に突き刺さった。幸基は、二の矢を手にしたまま、思いめぐらした。アジケンの仲間の声はなつかしかった。が、会ってもわずらわしい気がした。昔話には興味がなかった。重大な要件と言っていたが、欠席してもよかった。しかし、妻は、明日も明後日も家にいないだろう。小学校教師の妻が、同僚と不倫している。匿名の手紙をもらってから、妻の行動に不審を抱きはじめていた。疑心暗鬼な気持ちで一人、妻の帰りを待つのは嫌だった。やはり、行ってみるか。
「びっくりする人物を連れていくから」副長だった中島教一郎の真剣とも冗談ともつかぬ声が耳に残っている。びっくりする人物・・・誰だろう・・・。思い当たらなかった。アジケンの仲間の他に、そんな人間がいたのか。思い出せなかった。微かな焦燥が、また的をはずした。
翌日の同じ時刻、早崎泰造は、中央線の上り列車、新宿行きの車内にいた。北アルプス山中のダム建設現場から本社に戻る途中だった。早崎は、六〇年アジケン探検隊の隊長だった。土木科だった彼は、ゼネコン社員となり、入社早々、本社が落札した秘境のダム建設現場に赴任した。最初の三年は飯場暮らしだった。一番の難関、隋道が開通し赤部第四ダム完成のメドがついてからは本社との連絡で年何回か山をおりていた。母校の教職員となった中島教一郎から電話をもらったのは、ちょうど明日東京の本社に戻ることになっていた。
「おお、ちょうどよかった。あす東京に出張するところだ」
泰造は、髯面を破顔させて怒鳴った。両足を靴のまま事務机の上に投げ出し椅子の背もたれに体を預けた。
「みんなくるんか。何年ぶりだろ、なつかしいな。ケルン、変わってないよな。いつもとんぼ返りだから、学生時代以来だ。楽しみにしているぜ。副長!じゃなかったセンセイ」
右手に夕日を浴びた甲斐駒が見えていた。ダム建設は、大工事だった。規模も日本最大の大きさなら場所も、場数を踏んだ登山者も恐れる峻厳な北アルプス山中だった。工事は困難を極めた。が、高度成長下にある日本経済は、その成長速度の速さから極度のエネルギー不足に陥っていた。それ故に一日も早い完成が待たれ昼夜もない突貫工事がつづいた。落石、なだれ、土石流と自然との闘いに加え過酷な重労働のなかで大勢の部下や同僚を失った。現場はまさに戦場だった。しかし、それももうすぐ終わろうとしている。その安堵感と大学時代の仲間に会えるということで、泰造は上機嫌だった。ゆったりした気持ちになっていた。車窓に置いて焼きスルメでちびちびやっているウイスキーがうまかった。松本駅の売店で買った小瓶はすでに空で、いまは車内販売で買った二本目が半分になっていた。眠くなった頭の隅で、もやっているものがある。
「驚くことがある」
「なにが!?」
「まあ、来てのお楽しみだな」
「なんだよ。気になるじゃないか。早くいえよ」
「めずらしい人を連れていくよ」
「めずらしい人?」泰造はオウム返しに言って聞いた。「だれだよ」
「会わなきゃわからん。いや、会ってもわからんかもしれんが」
中島教一郎は、しゃくり笑いした。
「だれだよ」
泰造はじれて怒鳴った。
「ヤマ族の若者だよ」
「ヤマ族?!」泰造は、鸚鵡返しにつぶやいた。
「タイから行った山岳部族の・・・」
「うん、そうだ。あのカンボジア領内の山岳部族」
「あの部族のだれがーー」
「言ってもわからんよ。だから来てのお楽しみだ」
中島は、無理にヒヒと作り笑いして電話を切った。
いったい、だれなんだよ。気イ持たせやがって。泰造は、ぐいとウイスキーをあおると眠りに入った。車内は、ぶどう狩りに来た帰り客で混み始めた。黄昏のなかにブドウ畑が濃い緑の絨毯となってひろがっていた。特急「あずさ」は、甲斐盆地を一路新宿に向かって走っていた。
同じ時刻、柳沢晴行は日東大学付属病院にいた。午後の定期回診を終えて看護婦詰め所に戻るとちょうど中島教一郎から電話があったところだった。
「明日の晩、時間とれるか」
「明日、無理だな当直だ」
柳沢医師は、あっさり断った。
「そうか、当直じゃあしょうがないなあ・・・」中島教一郎は、落胆気味につぶやいた。
「全員、集まった方がよかったんだが。とくにキミには」
「おれに? なんだよ」
「めずらしい人物がきたんだ」
「めずらしい?」
「ヤマ族の若者さ」
「ヤマ族!?」柳沢医師は、ちょっと考えてから聞いた。「あのタイから行った山岳部族か?」
「そうだ」
「え、あそこから来たって、誰が?!年寄りか」
「いや、若いのが」
「若いって、いくつぐらいの・・・」
なぜか、柳沢は、慌て声で聞いた。
「二十歳前後か、大学生だっていうから」
「ああ、そうか」柳沢は、ほっとしたように言った。
「じゃあ、あのころは十歳くらいか、それじゃあ、まったくおぼえてないな」
「記憶にないか」
「留学生か」
「いや、そうじゃない。昨日、きたばかりだ」
「なにしに、観光か――」
「柳沢先生、竹見先生がお呼びです。」
不意に、とおくから看護婦の呼ぶ声がした。
柳沢は、軽く頷くと言った。
「おお、ちょっと用がはいったから」
「そうか、また電話するよ。大事な話がある」
「大事な話?」
「そうだ、だいじな話さ」
「柳沢センセイ」
とおくで白衣の看護婦が再度、呼んだ。
「悪いな、あとで連絡する。皆によろしく」
柳沢晴行は、目の前を過ぎて行った看護婦にウインクして受話器を置いた。
彼にとって学生時代の仲間は、まったく興味なかった。今晩は、仕事明けになる看護婦の吉沢美奈子と会う約束があった。学生時代の仲間と会うより豊満な美奈子を抱くこと。その方がいまの彼にとっては優先すべきことだった。
しかし、何か引っかかった。たしかヤマ族とかいったな・・・・。ちらっと気になることが過ぎった。が、すぐに振り払った。研修医が終わって晴れて大学病院の勤務医となった柳沢だが、生来の負けず嫌いと見栄張りの性格から神経を使い減らしていた。新米と思われるのが嫌で、尊大にみせてはいるが、毎日は薄氷を踏む思いだった。先日も冷や汗をかいたことがあった。当直の夜、運悪くベテランの医師が急用で帰ってしまった。何事もなければと思っていると、そんな晩に限って急患がある。夕方、ジョギング中に呼吸困難になった若者が担ぎこまれてきた。彼は、慣れたふりをして胸部聴診したあと、マニュアル本通り、点滴をオーダーした。
ところが患者が苦しみだした。たんなる過呼吸だったが、焦って、酸素を与えてしまったのだ。急患が余計に苦しがったのにすっかり動転してなおも酸素量を多くし、婦長に助けられた。単純なミスでも命とりになる。医者になるのは、毎日が戦争だった。その疲れを癒してくれるのは、女性だった。豊満な女体に抱かれて眠ることが、なによりのやすらぎだった。大学時代の仲間など、いまは、面倒なだけだった。大学病院で実績を積み、早く郷里にある父の経営する大病院に帰ること。それが彼の目的。人生に敷かれたレールだった。
十年ひと昔。大学を出てからの十年は、長い歳月だった。学生時代アジア探検部だった彼らはそれぞれの道をしっかり歩いていた。エリート商社マン、大学助教授、高校教師、ダム建設の現場監督、大学病院の勤務医と皆、それぞれの今を生き、その場所で確固たる地位を築こうとしていた。長老タオが頼みの綱とする「キンチョウ」は、彼らにとって遠い過去の青春時代の思い出でしかなかった。
3
赤坂とはいえ、路地に入ると、まるで郊外の住宅街のように暗い。政治家、財界人が毎日のように通う道にしては、あまりにも粗末な明かりである。ここを通る誰か一人でも、会社か国会で「暗い」とつぶやけば、翌日にはたちまちに、街灯がいくつもとりつけられ、本でも読めるほどになるはずである。が、決してそんなことにはならなかった。この界隈に集まってくる連中は、顔を見られるのを嫌う魑魅魍魎の輩なのだ。昼間は、あるものは赤じゅうたんの上を闊歩し、またあるものは何千人もの社員の前で教訓をたれる。そんな華々しい活躍をしている。が、夜ともなればなぜか暗がりに暗がりにと入っていく。「分け入っても、分け入っても、闇」の世界がここにある。普通の人間にとって、暗がりの道は危険な道である。しかし、かれらにとってはもっとも安全な道であった。
しかし、二日前の夜、この日ばかりは、安全とはいえなかった。暗い路地の中で一際暗い場所があった。こんもり繁った立ち木と、窓のないビルに囲まれた一角で、そこだけが墨を流したような真暗闇となっていた。その闇のなかに、何者かが獣のように潜んでいた。夕方から降り始めた雨の中、もう二時間もじつとしていた。梅雨末期の雨は、夜に入るとしだいに激しさを増していった。
「くそ、これで何も撮れなかったらアホや」
何者かが闇のなかでつぶやいた。若者だった。
沢田圭介は、高校生のとき、フリーカメラマン岡村昭彦の『続南ベトナム従軍記』を読んで感動した。将来、絶対に、戦場カメラマンになる。圭介は、大志を抱いて上京し写真学校に入った。しかし、寒村の農家の次男坊。生活費と学費を自力で捻出するには、過酷過ぎた。バイトに明け暮れながらも、学園デモを撮って歩いた。一人前のフリーカメラマンになった気持ちだった。何枚かが週刊誌に採用されたが、お金は下宿代とフイルム代にすべて消えた。学園紛争が終わり学校が平常になると滞納した学費の額に驚いた。働いて返済するには気の遠くなる数字だった。もしかしたら学校に行かなくても、名をあげることができるのではないか。当時フリーカメラマンを夢見る若者はごまんといた。が、結局、圭介の考えもそこに落ち着いた。彼は、一攫千金を夢みて学校をあきらめた。しかし、フリーの道は厳しかった。甘い考えだった。ベトナムはすでに遅すぎた。アフリカの飢餓も中東の戦場も、食傷気味になっていた。フイルムを買うためのバイト。学生時代と変らぬ生活。何かスクープを、街をあてもなく徘徊した。そんなとき三流雑誌に記事を書いているフリーライターの笠間と知り合った。
「カメラマンはいいよ。一発勝負だからな。たった一枚で有名になれる」
笠間は、居酒屋でコップ酒をあおりながらよく愚痴た。彼が追っているヤマは、とてつもなく大きなヤマだという。が、誰も相手にしてくれない、と嘆いていた。友人に大新聞社の記者が何人もいる。が、彼らにすればそのヤマは犬が人を咬むほどのことだという。しかし笠間は追い続けた。そして、肝臓を病んで倒れた。見舞いにいくと、別人のようにげっそり痩せていた。笠間は、息子のような圭介を見ると泣きながら「俺は、もうだめだ」そう言って遺言がわりに教えてくれたのが、旅客機購入に絡む大物政治家と商社との黒い噂だった。
「これはペンでは、どうにもならん。連中の密会現場の写真がいる」
笠間は、悔しそうに言った。もっともアメリカの大手飛行機会社と日本の商社、政治家の癒着は今に始まったことではないという。ワイロのやりとりは、一種、儀式化していたのだ。
「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている」
笠間は、酒が入ると月光仮面の歌を好んで口ずさんだ。不正は周知だった。その証拠に新聞記者はじめ週刊誌記者はまったく関心を示さなかった。笠間は、一ヵ月後に亡くなった。不摂生な生活が、たたったのだ。彼の話は本当なのか。圭介は、顔見知りの大新聞の記者たちに、ちらっと探りを入れてみた。が、彼らは、「口きき料はどこの世界にだってある。早い話が不動産屋の礼金さ。悪しき風習だが、追うだけヤボ」と、一笑に付した。
「政治家と商社マンの密会現場の写真など金にはならんよ」
写真家仲間や、雑誌社の編集者からも言われた。
「そんなのより、芸能人の密会写真を撮れよ。バンバン仕事がくるぜ。これからはそっちだな。やっかいな政治ネタより芸能ネタだ。メディアは、下ネタで回ってるんだ」
冗談ぽいだ。おれはぜったいフリーの報道カメラマンになる。狙っているのは、日本を揺るがす大きなヤマだ。絶対にモノにする。大新聞の記者たちからは笑い飛ばされたが、圭介は、笠間の言葉を信じたかった。彼の追っていたヤマを写真に収めれば、自分は写真家になれる。一夜にして有名になれる。そんな気がした。だからなにがなんでも写真に納めてやる。決意は固かった。 雨の中、長時間の張り込みで、ともすれば落ち込みそうになる気持ちを圭介は、胸の中で「大スクープ、大スクープ、大スクープ」と念仏のようにつぶやいて奮い立たせていた。
「きた!」
不意に音もなく黒塗りの高級車が路地にすべりこんできた。車は、薄明かりの門灯がつく料亭の前に停まった。勝手口から番傘をひろげた割烹着姿の女性と、スーツ姿の青年が出てきた。青年は、コウモリ傘をひろげて路地の左右を確かめるように見てから、勝手口に向かってうなずいて傘を差し出した。中から恰幅のよい小太りの老紳士が出てきた。青年は自分が濡れるのもかまわず老紳士の頭の上に傘をさし車のところに送った。運転手がドアを開けた。そのとき、雨の音に混じって動物が飛び出してくるような物音がした。緊張が走った。次の瞬間、暗闇にフラッシュの閃光が流れた。青年は、すばやく傘を横に倒して老紳士を隠した。
「誰だ!」
彼は、叫びながら脱兎のごとく閃光が消えた暗闇に向かって飛び出して行った。
雨脚が一段と激しくなった。激しい雨と暗闇が盗撮者の足音と姿をかき消した。異変に気づいて料亭から、何人もの男たちが飛び出してきた。薄暗い街灯のなかに人影が浮かんだ。一瞬、男たちは構えた。が、追っていった青年だった。
「いや、逃げ足の早い奴でした」
青年は、ずぶ濡れになった肩の雨つぶを片手で払い落としながら大声で告げたあと、車の中をのぞいてわびた。
「すみません、逃がしちゃいました」
「かまわんよ、高木くん」車の中から老紳士の笑い声が聞こえた。
「どうせ押さえてあるんだ、大きいところは。それより濡れるから」
「はあ、でも・・・」
「心配せんでもいいよ、ネズミの一匹や二匹」
老紳士の、落ち着いた声と葉巻のにおいを残して窓ガラスが閉まった。高木は、雨の中一礼したまま見送った。
圭介の前を、黒塗りのベンツ車が音もなく通っていった。ヘッドライトの明かりがなければ、風が過ぎたようにしか感じないかも知れなかった。それほどに静かに速く車は去って行った。
危なかった・・・。追いかけてきた青年にもう少しで捕まるところだった。圭介は、ふっと大きく安堵のため息をついた。彼は、隠してくれた繁った老木とビルの間から抜け出すと、急ぎ足で明るい表通りに向かった。いま撮った写真が、どれだけの闇を照らすものか。まったく見当がつかなかった。ただかなりの大物のようだ。先に入った政治家と一緒のところが撮れれば。自分がなにか、とてつもなく大きななヤマに向かって近づいている。そんな予感がした。それにしても、追ってきたビジネスマン風の青年はだれか。かなりの俊敏さから秘書ではないような気がした。
SPか、たんなるガードマンか。そんなふうには見えなかった。もう二度三度、彼を目撃している。が、彼は政治家、右翼の大物らしい人物、料亭の女将。誰とも親しそうだった。一体、何者だろう。現像すれば判明する。早く正体を知りたかった。
青年の身元は、意外に早くわかった。二日目の夕方、圭介は、青年を発見した。癒着に絡んでいるとみられる五井物産の本社ビルを張っていたら出てきたのはなんとあの青年だった。長身でがっしりした体格。まるで背広のモデルのようだった。いかにもエリート商社マンというった風情だ。昼間はええ恰好しゃがって。圭介は舌打ちした。青年は、年配の外人と連れ立って流暢な英語で談笑していた。交差点で外人と別れると、地下鉄の構内に入って行った。圭介は追った。いくつもの路線が入り組んだ地下構内は、帰宅の人波でごったがえしていた。つけていても気づかれる心配がなかった。
4
新宿駅構内は若者で埋まっていた。西口はベ平連の集会、ギターを抱えた若者のグループ。怒号とフォークソングで満ち満ちていた。東口は、フーテン族やアイビー族の若者であふれていた。歌舞伎町近くにある喫茶店ケルンの三階。ミュージックボックスから「バラの恋人」が流れる店内には、中島教一郎、早崎泰造、一ノ瀬幸基とソクヘンがいた。
「あとは高木と柳沢か」
泰造は、階段の方に目をやって言った。
「高木は、ちょっと遅れると」中島は、言った。
「柳沢は?」
「大事な話があると、知らせておいたが、今日も救急と言ってたから、どうかな」
「まあ、いいだろ、仕事が仕事だ」言って泰造は、大声で笑う。
「まさか、オンナじゃないだろうな」
「どっちでもいいや。来ない奴は、それより説明してくれ、副長」
一ノ瀬は、中島を見て促した。
「ああ、そうしょうか」
中島助教授は、頷いた。そのとき階段を上ってくる足音がして高木が姿をみせた。
「お、ちょうどよかった」泰造は、手をあげた。
「おす!」
高木は、挨拶を返しながら、不審そうに後ろを振り返った。
「どうした ?」
「いや、なに、つけられているような気がしたんだ」
高木は、言って、もう一度、階段下をのぞきこんだ。
「ヤバイ仕事してるんじゃないのか」
「ンなあ、そんなことはないだろ。五井物産といえば一流中の一流会社だ」
早崎は、からかい気味に言った。
「それより私生活、探られてるんじゃないのか。私立探偵に」
「ばかいえ、品行方正そのものだよ」
高木は、言って皆と握手した。
「ご無沙汰,ご無沙汰」
ソクヘンは、黙ってもじもじしていたが、手を差し伸べられると、恥ずかしそうに手を出した。
「彼、ロン、覚えてないか、ロンだよ」
中島が紹介した。
高木は、眉をひそめてソクヘンを見て頷きながら言った。
「えっロン、あのロンか。そういえばどっか記憶ある」
「バン」
ソクヘンは照れくさそうにおじぎをした。
「覚えてるか、われわれのこと」
三人から子供のときのことをあれこれ言われたが、ソクヘンは愛想笑いするしかなかった。十歳の頃、自分たちと同じ顔の外国人がきてしばらく暮らしていた。よく遊んでもらって楽しかった。そんな記憶があるだけだった。
ネオンが華やかな路地で圭介は、躊躇していた。目の前の「ケルン」へ入るべきかどうか。赤坂の料亭にいつも出入りしている商社マンらしい青年が、実際に五井物産から出てきたのは、大きな収穫だった。背の高いがっしりした体。高級そうな背広。赤坂の料亭前で盗み見る彼は、その体躯からSPか保障会社の社員のようにも見えたが、今アタッシュケースを下げてさっそうと歩く姿は、どこからみてもエリート商社マンのそれだ。彼の行くところ大物政治家や五井物産の重役、右翼の大物がいた。間違いなく政治家と飛行機会社を取り持っているのは彼だ。あの青年だ。間違いなかった。幸いラッシュ時で気を使わなかった。接待かと思った。が、今日はいつもの赤坂の料亭には向かわず、地下鉄丸の内線で新宿にきた。そして、この喫茶店に入った。意外な気がした。
「なんだろう」圭介は、ちょっと間をおいて店に入った。待ち合い人を探すふりして店内を見回す。一階にはいなかった。二階にのぼるとすぐにわかった。商社マンは四人の客と一緒のテーブルにいた。運良く隣りが空いていた。こちらの顔は知らないはずだ。そう思っても近づいたが心臓はドキドキした。同席の四人は、一人が自分と同じ二十歳ぐらいの若者だった。彫りの深い端整な顔立ちをしていた。浅黒い肌から東南アジア系の人間らしい。あとの三人は、五井物産の社員と同じ年頃、三十路をちょっと過ぎたところか。全員が久しぶりに会った。そんな感じだった。なんの集まりだ。山岳会サークルか草野球のチーム仲間を連想させた。追っているヤマとは関係なさそうだった。なんだ、プライベートか。圭介は、落胆した。が、次の瞬間、耳を澄ませた。
「アンナイ、オネガイシマス、オネガイシマス」
東南アジア系の若者がカタコトの日本語で、一生懸命、繰り返している。何事か頼んでいるのだ。
「しかしなあ・・・」
四人の青年は、苦笑しながら深くため息をつくばかりだ。
「キンチョウしたと――」
「そう、たしかに、キンチョウした」
「まさか、彼らが本気にしてたとは、なあ」
「調子のいいこと言っちゃつたよ」
二人の青年は、小声でささやきあった。
アンナイとは何だろう。案内のことか。どこかに案内してくれと頼んでいるのだろうか。それに、さっきから繰り返しているキンチョウとは何か、何かの暗号か。しかし、声の大きさや青年たちの陽気な雰囲気から、秘密の話のようには思えなかった。
「とにかく、聞いての通りだ」
眼鏡の男が言った。青年たちの表情は、若者が何事か頼むとき以外は、再会の喜びに溢れていた。五井物産の社員の顔も、赤坂で見る顔と違っていた。
大学時代の仲間、だいたい、そんな感じが読み取れた。が、東南アジア系の若者の存在だけが、どうにもわからない。彼は、四人の日本人青年に、何事か頼みつづけていた。その必死な表情は、時折り苦笑する青年たちとは対照的だった。なんだろう。少しばかり気になった。たいていの場合、グループの会話は小耳にはさめば、何の話をしているか、多少わかるものだ。それがさっぱりわからない。アンナイと言っているから、あの東南アジア系の若者は、どこかに連れていってもらいたいらしい。しかし、四人の日本人の青年は、困惑顔だ。案内するには、よほど難しい所か。そんな場所を思い浮かべたが、思いつかなかった。いったいどこに連れて行って欲しいと頼んでいるのか。
圭介は、いらいらした。聞いてみたい衝動に駆られながらも、彼らの様子をうかがった。五井物産の社員のこととは別に、彼らが何者か知りたくなったのだ。
「ジカンナイデス」
「オネガイシマス」
ひたすらくりかえす若者に対して青年たちは、すっかり困りきった様子で
「いまは無理だよ」
「忙しい」
「不可能」
「ビジィ」
を苦笑して繰り返すばかりだった。
とくに五井物産の彼は、てんで受け付けないようだった。二時間近く聞いたが、なんの話かまるで想像つかなかった。東南アジア系の若者だけが、ひどく落胆したのがわかった。
「まあ、とりあえず再会を祝おう」
髭づらの青年が言って皆、席を立った。居酒屋に行くらしい。
圭介は、どうしょうか迷った。追っている件とは、まったく関係のないようだ。商社マンの個人的な付き合いか。東南アジア系の若者を除けば、学生時代の仲間と想像できた。これ以上、後をつけても仕方がない。圭介は、ちょっと遅れて外にでた。彼らの姿はもうなかった。探す気はおきなかった。
「なんなんだ、あの連中・・・」
圭介は、すっきりしない思いで駅に向かった。
まったくの無駄骨だった。が、ひとつだけわかったことがある。高級料亭に入り浸り、大物右翼や政治家と付き合うエリートサラリーマンにも、普通の青年のような日常生活があった、ということだ。あの東南アジア系の若者を除けば、久し振りに会った高校か大学の同級生、部活かサークル仲間。そんなノリだった。それがわかっただけでも収穫だ。圭介は、気持を切り替えようと人波を抜けて東口広場に足を止め、花壇に腰を下ろした。アベック、フーテン、人待ちの若者たちが並んで坐っていた。目の前の二幸の看板が目につくと、急に腹が減ってきた。五井物産ビル前で張り込んでから、ずっと何も食べていなかった。小便横丁で定食食うか。立ちあがったとき遠くに歌声を聞いた。まだベトナム反戦集会が、つづいているようだ。とたん、気が変わった。
カメラが先だ。圭介は、再び人混みに飛び込むと地下道に降りていった。西口に通じる地下道は、人波であふれていた圭介は、人混みの流れに任せて進んでいたが、ふと先の方に見覚えのある横顔を見つけた。さきほどケルンにいた東南アジア系の若者だった。一緒に飲みに行ったと思ったが、もうあの四人の青年たちとは別れたようだ。ケルンでも笑顔一つみせなかったが、いまはひどく疲れた様子だった。圭介は、小走りに人混みを縫って若者に近づいた。
ソクヘンは、落胆していた。長老や族長たちの話から、彼らは二つ返事で引き受けてくれると確信していた。それが、さんざん話した末の答えは「これから一杯やりながら考えよう」というものだった。再会を祝して、酒宴を開くらしい。が、ソクヘンには、とても、彼らと一緒に祝う気分にはなれなかった。いまは、もうこれ以上頼んでもだめなような気がした。それより自分がいないところで、彼らだけでじっくり話し合ってもらった方が。キンチョウのことも、徐々に思い出してくれるかも知れないと思った。ただ、気がかりが一つあった。それは、まだ赤い悪魔のことを一言とも話していないことだ。「ぜったいに、そのことだけは口にするな」リー・センの教えを固く守っていた。
「いま、あっちは雨季だろ、乾季になってからじゃだめなのか」泰造は、不思議そうに聞いた。
「だめなんです。新政府から、早くに立ち退け、といわれているんです」
これもリー・センに教わった理由だった。
「ロン・ノル政権になったら、民主化になるとおもったのになあ」
皆の感想は、そんなのんきなため息ばかりだった。ソクヘンは、焦りと不安と失意でいっぱいだった。喫茶店では、すべて日本語を理解したわけではないが、彼らの態度から渋っていることがわかった。いやほとんど「約束は守れない」と、返事しているように感じとった。
あのときは「十年たてば人間は変る」と、薄笑いを浮かべたシナタの言葉より「サムライの約束キンチョウをしたのだ。頼みに行けばきっと来てくれる」そんな長老タオの言葉の方に真理があるように思えた。キンチョウの誓いは、天地のように確かなもの。そう固く信じて疑わなかった。
しかし、そのキンチョウは、彼らにとって木の葉より軽いもののようだ。落胆がどっとソクヘンを襲った。ゲリラ殺害から飛行機の旅。十年ぶりの再会。疲労と緊張は限界を過ぎていた。が、いまのソクヘンは、それにも増して体の不調を感じていた。悪寒、喉の痛み、頭痛、そして額は火のように熱かった。体調不良もあったが、自分がいたのでは、キンチョウについて話し合えないのかも知れない。それにすぐ返事も無理かも知れない。そんな思いから、後日、連絡することにして四人と別れてきた。どこにも行くかあてはなかった。体がフラフラしたが、人の波の流れに身をまかせて歩きつづけた。
こうしている間も、日にちは過ぎる。こんなことなら来なければよかった。シナタの言ったことが正しかった。後悔だけが、あとからあとから湧いてきた。が、そのうち頭がぼんやりしてきた。体がフラっとした。ヨロけた体を支えようと地下道の壁に手をついた。そのとき、誰かに肩をたたかれた。振り向いて見た。見知らぬ若者が立っていた。誰か・・・考える間もなく意識が薄れていった。
翌日、中島教一郎は四谷にある日東大学付属病院をたずねた。柳沢には、どうしても話したいことがあった。昨夜、電話で伝えてもよかったが、やはり直接会って話そうと思った。病院ロビーは朝から混んでいた。昨夜、飲みすぎたようだ。いささか頭が痛い。出掛けに連絡してある。受付で呼び出してもらい、待合室で待った。柳沢は、すぐに出て来た。
「朝は、忙しいんだぜ」白衣のボタンをはめながら迷惑そうに言ったあと、それでもさすがになつかしいのか聞いた。
「昨夜は、みんな集ったのかよ」
「ああ、全員な。おまえをのぞいて」
「しょうがないだろ。緊急医だもん」柳沢は、落ち着きなく言った。
「で、なんだよ。早くしてくれよ。教授回診があるんだ」
「大事な話があると言ったろ」
「ああ、そうだった。なんだよ」
教一郎は、メガネの奥から柳沢を見据えて言った。
「ユン、覚えているだろ」
「ユン!?」
柳沢は、目を丸くした。まつたく見当がつかないようだ。
「なにそれ」
「まったく、忘れてるのかよ」教一郎は、あきれたように舌打ちして言った。
「ユンだよ。ヤマ族の」
「ユン ?! ああ、あのヤマ族の」
とたん柳沢は、大きく頷いた。
「晴行、おまえ、やったろ」
教一郎は、唐突に言った。副長としての威厳のこもった声だった。
「な、なんだよ。いきなり」
柳沢医師は、狼狽した。
「いい、わかってるんだから」
教一郎は、判決文でも読むような口調で言った。
「ソクヘン――日本にきたヤマ族の若者だが、彼から聞いた。我々が帰って十ヶ月後に、ユンが赤ん坊を生んだ。父親はおまえだと言っている」
「俺の子が!」
柳沢は、絶句して目をむいた。そのあと引きつった顔に苦笑いを浮かべて言った。
「悪い冗談いうなよ。なんで俺の子が、いるんだよ」
「おぼえあるだろ」
「おぼえ・・・」
「とぼけるなよ」中島助教授は、詰責した。
「むかしのことで・・・」
晴行の頭に、マラリアで寝込んでいた自分の枕もとでつききりで看病してくれていた娘のことが思い浮かんだ。言葉が通ぜず、ただ恥ずかしそうな笑顔をみせるだけであったが、自分に好意をもっていることがわかった。皆は、ヤマ族の男たちに案内されて近くの遺跡を見に行っていた。女たちは、子供たちと山繭集めでふもとの野生の桑林に出払っていた。集落は静まりかえっていた。宿舎にしていたのは高床式の集会所だった。竹で作った階段を誰があがってきた。ユンだった。かかえたバナナの葉の中には野イチゴのような実が沢山入っていた。晴行に食べさせようと一人で戻ってきたようだ。ユンは、恥ずかしそうに笑って枕もとに座ると、食べろとすすめた。十五六だろうか、サロンを巻いた腰のあたりに女を感じた。晴行は、もうすっかり回復していた。病後の疲れで、起きるのが面倒になっていただけだった。が、ユンは、ぐったりしている晴行が自分でその実を食べる気力がないと思ってか、一つをつまんで口先にもってきた。晴行は口をあけた。薄い甘酸っぱい味がした。野イチゴとも違う味だったがまずくはなかった。二つ目を口さきにもってきた。胸のふくらみが目の前にあった。晴行は、頭をもたげて小娘の実をつまむ細い指までくわえた。ユンは逃げなかった。ユンの親指と人差し指をしゃぶりながら、両手で彼女を抱き寄せた。柔らかな綿のような体だった。サロンの中に手を入れ太股に指の腹をはわせた。ユンは、なんの抵抗もしなかった。ぐったり身をまかせていた。恥丘は、ざらざしていてまだ陰毛が生えきっていなかった。半分少女。そのことがよけいに晴行の体を興奮させた。
「おまえ、ちょっかいだしたろ、まったく」教一郎は、皮肉っぽく言った。
「医者だろ、いや、あのときは医者の卵か。それでも結果はわかっていただろ。なんで予防しなかった」
「う、うん。まあ、あのときは・・・」
晴行は思いだしてしどろもどろになった。さすがの遊び人の彼も、あのときは、探検で一ヶ月も女を絶っていたし、病み上がりということもあった。体が本能的に回復度を確かめようとするのか、無性に性行為をしたくなったのだ。それに女になりきっていない体を抱く喜びに我を忘れ、つい膣内射精をしてしまったのだ。
もしかして・・・集落を去るときそんな不安が過ぎったが、帰国するとすっかり忘れてしまった。仕事の忙しさとあきることのない女遊びの日々。あの日のことは、完全に記憶からも消し去られていた。それだけに、いきなり、自分の血を引き継ぐものがいる。そういわれても驚くばかりだった。
大病院の院長をやっている父にも知られたくなかったし、なによりもそうした話は面倒くさい気がした。さすがに口にはできないが、できるなら金を渡して解決したかった。あの山岳部族の若者が、はるばるたずねてきた。その話を中島教一郎からを聞いたとき、なんとなく引っかかるものがあった。それがこのことか。悪い予感が的中したような気がして柳沢は舌打ちした。こうなったらひたすら詫びの一手しかない。晴行は観念して、さらなる叱責を待った。ところがその話は、それで終わった。中島副長の口からでた次の話は、全く別のことだった。
「キンチョウのこと、覚えてるか」中島副長は、無表情で言った。
「なんだ、それ。知らんな」
「武士の約束だとかなんとか言って格好つけて、やったろ」
「ああ、あのキンチョウね」
晴行は、頷いた。話が変わってほっとした。
「連中、すっかり信じまったようだ」
「キンチョウを? うそだろ?!」
「本当さ、だから、日本語のできる学生を、はるばるよこしたんだ」教一郎は、ニコリともせず言った。「タイまで密林ガイドを頼みたい、という話だ」
「あの密林、まだ秘境かよ」
「そうらしい」
「なんだって、あそこを離れなきゃいけないのか」
「政府軍に、部族の男たちが兵隊にとられるらしい。それで、内乱が治まるまでタイ領に逃げていたい。そんな頼みだ」
「え、そんなことで、か。ほかにいないのか案内してくれる者は」
「わからん。が、なぜか切羽つまっているようだ」
「あそこはクーデターが起きたばかりだ。やっかいな話かも」柳沢は、真面目な顔になって言った。「かかわらん方が、いいんじゃないか」
「どうする ?」
「どうするって ?」
「きみの考えさ。返事をしなくてはいかん」
「じ、冗談ぽいよ。あんな約束、社交辞令だよ。まともに受ける方がどうかしている」
「じゃあ、きみの返事は」
「もちろん、行くはずも、行けるはずもないよ」
柳沢は、きっぱり断った。が、さすが薄情と思ったのか照れくさそうに苦笑して言った。
「あっちの方は、なんとかする,ドルでいいんだろ」
「そうか、あとで皆の結果をしらせるよ」
「そうしてくれ。あのジャングルか。なつかしいが、ハワイだったら考えてもな。じゃあ」
柳沢は、片手をあげて踵をかえした。
これで四人になったか。自分はどうする。教一郎は、そんなことを考えながら患者で混雑する待合室を横切って外に向かった。
5
深夜近かった。高木は赤坂の料亭前にいた。あれから一週間過ぎていたが、キンチョウのことを考える暇はなかった。いまも今度の取引の最重要人物元総理と刎頚の友といわれるホテル王を送り出してほっとしたところだった。テキサス社からの取り分が大豆一袋一千万ということで話がついたのだ。あとは右翼の大物の取り分が残すだけとなった。アメリカ行きも早い気がした。ホテル王を乗せた高級車が角を曲がってみえなくなった。高木は、料亭に入ろうとして足をとめた。向こうのケヤキの木の暗闇でなにかが動いたのを見逃さなかった。
このまえの奴か!思う間もなくフラッシュの閃光が闇を裂いた。次の瞬間、高木は、その方向めがけて猛ダッシュした。盗撮犯は、あわてて街灯の下に飛び出すと、大通りめがけて逃げだした。が、無駄だった。高木は、たちまちに追いついくと盗撮犯の前に立ちふさがり、間髪をいれずに中段けりを盗撮犯のみぞおちへたたきこんだ。
「ウグツ」うめき声を残して盗撮犯は路上にかがみこんだ。
高木は、ニューヨークの裏通りで一度、物取りの若いギャングに回し蹴りを入れたことがある。あのときは失敗したら、死が待っているかもしれない。そんな思いから、力まかせだった。喉にあたった靴先に角材をたたき折ったような衝撃があった。若いギャングは、無言のまま倒れこみ、ピクリともしなかった。高木は脱兎のごとく走り、大通りの人混みにとびこんだ。あの若いギャングがどうなったかは知らない。もしかして即死したのかも。そんな気がした。たとえそうだとしても、ニューヨークでは日常茶飯事だった。が、いまの中段蹴りは、余裕があっての蹴りだった。拳銃を持っていないという安心感からだった。しかし、この前、逃げられたという思いから高木は、用心深く屈んで苦しむ盗撮犯を見下ろしながら獲物を狙う獣のようにじりじりと間合いを詰めた。が、顔をあげた相手を見て緊張を解いた。まだ少年のような若い男だった。
「なんだガキか」高木は、いまいましそうに言い捨てた。
「このあいだから、ちょろちょろとしてたのは、おまえか」
「・・・」
返事はなかった。
「いま撮ったフイルム返せ。そしたら何も言わずにかえしてやる。警察にも言わん」
「・・・」
若者は、黙って膝まづいたままだ。
「人がくるぞ。そしたら知らんぞ」
高木は言って転がっているカメラを蹴とばした。
「盗撮なんて汚いマネはよせ。どこにタレこんだって売れん」
「・・・・・」
「よーし、上等だ」
高木は、荒っぽく怒鳴って、いきなり頭上に蹴りを入れた。
「うわー!」
若者は、悲鳴をあげて後ろにひっくり返えると、手を振って声をだした。
「わかった。やめてくれ」
「なんだ、しゃべれるじゃないか」
若者は、カメラを拾うと両手で腹を押さえながら立ち上がった。
「それでいいんだ。それでー」
高木は、小さく頷いて言った。
「さあ、フイルム渡せ」
「渡します」
若者は、素直に頷いたあと言った。
「でも、一つ交換条件がある」
「なに、交換条件 ?」
高木は、一瞬、眉をひそめてた若者をまじまじ見た。二十歳前かも知れない。まだ幼さが残る顔だが、ジーパンと袖なしジャケットは、いかにもいまはやりのフリーカメラマンといった出で立ちだ。猫も杓子もカメラを手にする時代となった。そして、カメラを手にすれば誰も彼もがフリーカメラマンになれる。そう思っている。この若者も、そんな若者の一人と想像ついた。高木は失笑して言った。
「そんな立場か。早く、フイルムだしてわたせ」
「ですから、交換条件聞いてくれれば、渡します」
若者は、まだ、そんなことを言っている。
「野郎、いい気になるなよ」
高木は、睨みつけた。
「わかりました。渡しますから、聞いてください。お願いします」
若者は、抜いたフイルムを差し出しながら言った。
何を話すというのだ。高木は、ちらっと興味を抱いた。
「いいだろう。で、なんだ、早く言ってみろ」
「ぼくを仲間に入れてください」若者は、不意に土下座して頭を下げた。
「ぼくを一緒に連れて行ってください」
「なに言ってるんだ ?!なんの話だ」
高木は、わけがわからずちょっとのあいだ自問した。
「タカギさん、大丈夫ですか」
料亭のほうから男たちが叫びながらかけてきた。
「おい早く立て」高木は、慌てていってから大声で言った。
「取り逃がした。いま、通行人の方から話をきいているところだ」
「この前のやつですか」
「そうらしい」
「逃げ足が早いやつだ」男たちは口々に悪態つきながら踵を返した。
「見逃してやったぞ」
高木は、押し殺した声で言って睨みつけた。
「ありがとうございます」若者は、立ち上がって頭を下げた。
「で、なんだ、話してみろ」
「このまえ、皆さんの話ききました。カンボジアに行くんでしょ」
「えっ!聞いたって、いたのか、ケルンに」高木は、怒鳴りながらもぼんやり思い出した。そういえば誰かにつけられている気がした。隣りのテーブルに客が一人いた。こいつか!怒りがむらむらとわきあがった。
「この野郎、ずっと張ってやがったのか!!」
「すみません」
「なんで、張り込んだ」
「スクープが撮れるような気がして、すみません」
若者は、ぺこりと頭を下げた。
「スプークだとお・・・」
「飛行機会社と大物政治家、商社、右翼の大物。何か大きな癒着があると確信しています。でも、もうどうでもいいんです。そんなこと、これフイルムです。あげます。これまで撮ったフイルムも全部あげます。だから、仲間に加えてください。ぼくも一緒に連れていってください」
若者は、一気にまくしたてた。
「おまえとは、関係のないことだ」
高木は、不愉快になって言い捨てた。
極秘にすすめていた接待が、こんなガキに知れ渡っている。そればかりかこのあいだの仲間内の話まで。いったい、どうなっているんだ。高木は、自分の油断に苛立った。
「お願いします。連れていってください」
「まだ行くと決まったわけじゃない」
高木は、思わず怒鳴った。
「決まったわけじゃない!?」
若者は、鸚鵡返しにたずねた。
「とんだ泥棒野郎だ。全部、盗み聞きしてたのか」
高木は、あきれ顔で言った。
「あの話、本気に聞いていたのか。バカか。それに急に言われたって行けるわけない」
「じゃあ、どうなるんです、彼の頼みは」
「彼!?ああ」
高木は、小さく頷いた。この若者がどこまで聞いているのか見当がつかなかった。
「彼には事情をわかってもらうしかない」
あの若者のことは、気になってはいた。が、もう一週間、なしのつぶてだった。もしかして、あきらめて帰ってしまったのかも。
「それじゃあ、約束を破るんですか」
「あのなあ、おまえにそんなこと言われる筋合いはない」
高木は、ついムキになった。おそらくは、自分に後ろめたい気持ちがあるからだろう。
「でも、したんでしょ。キンチョウ。サムライの約束だといって」
「なんで知ってる ?!」
高木は、ぎょっとして聞いた。盗聴されたのか。
「彼から聞いたんです」
「彼!?」
「ソクヘン君ですよ」
若者は、劣勢なのにどこか威張った口調で言った。
「なんだと、ソ、ソクヘン君だと」
高木は、思わず声を張り上げた。
こいつはソクヘンの名前まで知っている。なにがなんだかわからなくなった。なんで、こいつがロンの名前を知ってるんだ。高木は、冷静さを取り戻そうと呼吸を整えてから聞いた。
「どうしておまえがソクヘンを知ってる ?」
「彼、いま、ぼくのアパートにいるんです」
「お、おまえのアパートに!? なんでだ」
「あのあと、駅で偶然、彼に会ったんです。それで詳しい話をきいたんです。日本にきた目的を。彼、風邪ひいて熱だして寝こんでるんです」
「ああ、そういうこと・・・」
「そうです。彼、お金もないし、いくともこないというんで、ぼくの下宿に泊めてやってるんです」圭介は非難するように言った。
「外国にはじめてきて、あなたたちが当てにならないとわかったから困っているんですよ。薄情じゃないですか、探検で行ったときはさんざん世話になったくせに」
なにを言われても、高木は言い返す言葉がなかった。完全に立場は逆になっていた。若者は自分の思いのたけをぶちまけた。圭介は、ソクヘンから日本に来た理由を聞いているうちに、目からうろこが落ちた気持ちになった。ジャンボ旅客機購入をめぐっての政治家と商社、右翼が絡んだ賄賂疑惑。もしかしたら戦後最大の疑獄事件となるかも知れない超特大スクープ。だが、密林ガイドの冒険の前にそんなものは、どうでもよくなっていた。
「困ったときは、必ず助けに行く」
十年前、インドシナの密林でそんな約束がかわされた。短刀をパチンと鞘に納めたキンチョウの響きは、彼ら山岳部族の心の奥底に消えずに残っていた。そして、いま、その約束を果たしてもらおうと自分と同じ二十歳の若者がたった一人部族の命運を担って、はるばる日本にやってきたのだ。
話を聞いたとき、この約束を撮る―自分が撮るものはこれだ。圭介はそう思った。とたんに、これまで追っていた疑惑、癒着、賄賂といった不正問題への興味は雲散霧消した。インドシナのジャングルの奥地に行く。これこそが、自分が撮るものだ。ベトナム戦争、反戦デモ、飛行機購入、くすぶる学園紛争。そんなものはどうでもよくなった。
高木は、若者に痛いところを突かれて、思わず熱くなった。
「勝手に、入れ込むなよ。おまえの趣味なんてどうでもいいんだ」
高木は、怒鳴った。
「カメラマンが、でしゃばりゃがって。おまえらなんか、女の裸でも撮ってれやあいいんだ」
「連れて行ってください」
「くどいな。まだ決まってもいないし、第一、おれは行く気はない」
「ソクヘン君の部族は、どうなるんです」
「知るか!!」
「卑怯じゃないですか、うそつきじゃないですか」
若者は、興奮した口ぶりで言った。「約束を守ってくださいよ。ソクヘン君、わざわざ日本まで頼みにきたんでしよ」
「うるさい。おまえが口出すことじゃない」
「ソクヘン君、日本にきて、どこに泊まっていたか知ってますか」
若者は、たずねた。
「どこって・・・」
まったく違った質問に高木は、思わず答えた。
「そりゃあ、ホテルだろうが」
「彼は公園で寝泊まりしてたんですよ」
「公園に?」
「そうですよ、あなたたち五人分の飛行機代は、プノンペンに用意してあると言ってた。預けてあると。でも、日本での自分の滞在費は、持ってないんだ」
圭介は、勝ち誇ったように言った。
「あなたがここの高級料亭で政治家たちと飲み食いしているときに。ろくに食事もしないで。公園で寝て、駅の立ち食いで食事してるんです。恥ずかしくないのですか」
「なんだって・・・」
高木は、口ごもって言った。
「お前の知ったことか」
高木の声は小さかった。ソクヘンが公園で寝泊りしていた。衝撃を受けた。
「パスポートはあります。お願いします」
「知らん」
高木は、きびすを返して歩き出した。
「キンチョウ、破るんですか。ヤマ族は、信じているんですよ」
若者は、起き上がって怒鳴った。
「破るんですか、約束を。そのときになつたら自分が忙しいからって、ひきょうじゃないですか」
「うるさい、第一、なんで我々なんだ。ガイドなんて雇えるだろ、飛行機代のことを考えれば」
「知りませんよ、そんなこと。しかし、ソクヘン君の部族は、あなたたちに頼みたいんですよ。何か切羽つまったことがあるんでしょう。それがわからんのですか。たとえ、ちっぽけな約束だって、約束は約束です。反古にするなんて最低です。商社マンだか、なんだか知らないが、あなたの仕事と同じ最低です。ワイロの手伝いするくらいなら少数部族を助けやったらどうなんです」
「うるさい、黙れ、もうこれ以上は聞かんぞ」
高木は、振り向いて怒鳴った。
圭介は、まだ罵っていた。高木は、平静を装って小走りに歩いた。聞くまいとしたが、「卑怯者」の声が、いつまでも背中に突き刺さって離れなかった。高木は、振り払うように自分に言い聞かせた。おれは忙しいんだ。仕事は今、一番大事なときだ。政治家からの内密な依頼を、米国の飛行機会社に理解してもらったばかりだ。たとえ休暇がとれたとしてもだ。ニューヨーク支店栄転の前に穴などあけられるものか。亜希子との約束もある。エリート商社マンとして、出世街道をスタートしたばかりだ。こんな人生の大事なときに十年前の、それも学生のときに悪乗りでかわした約束を果すために十日はかからないとはいえ、インドシナの密林などに行けるものか。たいして重大事でもないのに。
「絶対に無理だ。不可能だ」
高木は、声にだして何度もつぶやいた。しかし、キンチョウの言葉はずっしりと重さを増すばかりだった。
6
ソクヘンは、目が覚めた。薄暗い部屋にいた。一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。が、隣りで、まだぐっすり寝込んでいる若者を見て、すぐにわかった。ここは沢田圭介の部屋で、自分はここにもう丸十日も泊まっているのだ。日本にきてから半月があっというまに過ぎてしまった。目的は、何も果たしていない。せめて一人でも案内役をしてくれる人がでてくれればと期待するが、七日ぶりで中島にかけた電話の返事は芳しいものではなかった。隊長と一ノ瀬隊員は、まだはっきり断ってはいないらしい。中島副長と、高木健二のふたりの考えもわからない。何度でも、頼んでみよう。そう思うとこうしてはいられなかった。急に落ち着かない気持ちになって起き上がった。体の節々は痛かったが、頭はすっきりしていた。若者の名前を思いだすと呼んだ。
「ケイスケ、ケイスケ」
なかなか起きないので肩をゆすると、ようやく圭介は目を覚ました。
「何時」
「六時半」
ソクヘンは目覚まし時計を見て言った。
「なんだよ、まだ早いんじゃ」
「皆さんにお願いに行かないと」
「またそれかよ、熱は」
「もう大丈夫です」
「あの商社マン、まだ出社してないよ
」圭介は、寝ぼけ声で言いながら可笑しそうに笑った。
「会社に乗りこんだらびっくりするぜ、あの商社マン」
「はっきりノオと言ってない人です」
「そうだけど、あいつは典型的なエリートサラリーマンだ。政治家や財界のお偉方のお子守さんはやるけど、おれたちには目もくれないだろ。ゴミと思ってるかも」
「おこもりさん?なんですか、それ」
「おこもりさん、わからんよな」圭介は苦笑して言った。「おべっかつかい。これもわからんよな。要するにあいつは、会社の仕事に夢中ってこと。べつにあいつに限ったことじゃあないが、日本じゃあみんな会社の仕事に追われてるんだ」
「会社、キンチョウよりも大切か」
「まあ、いまの日本の社会じゃあな。金にならんことは論外だよ」
「ロンガイ・・・なんですか、それ」
「話にならん、つてことさ」
圭介は、話ながら、やっぱり無理かと思いだしていた。
学生時代に旅行先で気軽にした口約束。十年後に持ち出されても・・・外国では、どうかは知らないが、日本では、反古されても当然といえる。だが、そのことをソクヘンに説明するのは、難しかった。ソクヘンの頭の中は、ガイドしてくれる人を一人でも連れて帰りたい。そして一日でも早く部族のものをタイに連れて行きたい。そのことで一杯だった。二人は、アパートを出た。朝食は池袋駅前の喫茶店でモーニングサービスのサンドイッチを食べた。
「密林ガイドなんて、十日も有休とればできるんだろ。それなのに、なんだあいつら」
圭介は、パンを食べながら憤慨した。
その思いはソクヘンにも通じていた。来日して、日東大学をたずね中島教一郎に会ったときは、すぐにでも引き受けてくれると思った。彼らと一緒に折り返し帰国できると思っていた。まさか彼らが、困惑し逡巡するなど夢にも思わなかった。
「日本人が十年も前の約束など守るか」
シナタの嘲笑が聞こえてきそうだった。
日本人に対する見方も、日本にきてから大分かわった。プノンペンで知る日本人は、二十年前、アメリカと戦争し、インドシナからフランス人を追い出した勇敢な民族という印象だった。長老のタオや族長のボトからもそう聞いていた。
しかし、日本に来て知ったのは、日本人はすべてお金と時間で動いているということだった。なにをするにもお金と自分の仕事のことだけ。損得外の約束など、まったく念頭にない、見向きもしない。他人のためには指一つ動かさない、そんな民族に思えた。生身の日本人に会って感じたのは、失望と落胆だった。
しかし、なんとしても彼らを説得して連れて帰国しなければ、ヤマ族の生きる道はない。あきらめるにはまだ早かった。自分を救ってくれた圭介のような若者もいるのだ。太陽の光が入らない、穴倉のような狭い部屋に住みながら、自分の話を聞いて、看病までしてくれた。そして、キンチョウに困惑する彼らに憤慨してくれた。そこに一縷の希望あった。満員の車内でソクヘンは、祈るしかなかった。
7
雲ひとつない青空が羽田空港の上に広がっていた。関東地方は、三日前に梅雨明け宣言がだされた。見送りの人々で混雑する空港の歓送ロビーに早崎泰造と中島教一郎の姿があった。二人とも学生時代と同じ大きな探検隊リックを抱えていた。
「こいつは、いいや、まさに出発日よりだ。幸先いいぞ」
早崎隊長は、満足そうにひとりごちて何度も空を仰ぎ見た。
「本日、天気晴朗過ぎて、空、目に痛しか」
中島副長も珍しくはしゃいでいる。
二人とも、すっかり学生時代に戻っていた。それもそのはず、早崎も、中島も、懸念していた十日間の長期休暇があっさりとれたのだ。一か月ぶりに熊島建設本社ビルに出向いた早崎は、現場報告の際、健康検査でしばらく休む旨を告げた。工事が順調だったのと、難関だった山岳道路や隋道工事完成の功労が認められての許可だった。
「とにかく、君が頼りなんだ。しっかり健康チェックしてから、ラストスパートをかけてくれたまえ」二十階にある重役室で赤部ダム建設最高責任者の吉原専務は満面笑みをたたえて言ったものだ。
一緒に働いている現場の連中には、申し訳ないと思った。が、戻って分けを話すと、そこは五年間も、飯場で同じ釜の飯を食ってきた連中だった。快く理解してくれた。
「大将、人助けに行くんだ。遠慮なんかいりませんよ」
「おれらも困るけど、その何族っていうだべ、ジャングルの中の連中、大将が行かないと、動くにもうごけないんだべ。工事の方は心配いらんですから」
北アルプスの冬は早い。冬がくる前に片づけねばならない工事は、山ほどある。梅雨明けのこの季節、十日間のアナは痛い。早崎は、山の男の友情に感謝した。
中島教一郎は、偶然にも夏休み短期留学制度を利用してアメリカの大学に行く届けをだしてあった。短期留学は、助教から教授にステップアップするには重要だった。が、全てキャンセルした。行くと決めてしまうと、他のことは、もうどうでもいいように思えた。
「なんだ、タツジン、もういるじゃないか」
早崎は、うれしそうにあご髭をかいた。
待合ロビーのソファに一ノ瀬幸基がひとり静かに座っていた。袋に入れた半弓を持っていた。
「おっ、こんどは自前の弓、持参か」
「ああ」
一ノ瀬は、にこりともせずに頷いた。
「この前のとき、現地でつくった竹の弓は、すぐに折れたからな」
「こんどは竹のせいにできんぞ」
泰造は、大声で言った。
「トラの丸焼きでも食わしてもらうか」
「この前はコウモリばかりだつたからなあ」
中島副長までもが、からかい気味に言って笑った。
何を言われても一ノ瀬は、我、関せず。黙って座っていた。
十年前の探検の際、狩りの獲物が不作で、食事は木の実や昆虫、コウモリだけだった。閉口して皆で猪狩りにでたが、ヤマ族手製の弓は、みな折れてしまい使い物にならなかった。日本人とは、力の配分が違うようだ。あのときの教訓から、こんどは日本の半弓を持っていくらしい。一ノ瀬は、学生時代から弓道に凝っていて、ひまさえあれば弓の手入れをしていた。弓道の世界がどれほど一般的かどうか、誰もしらなかったが、大会にでればいつも賞状を持って帰った。卒業してから弓道趣味はますます高じていったようだ。
「どうして、そんなに弓がすきなのか」と、誰かにきかれたことがある。
彼は真面目な顔で「汗をかかないで、自分より強い敵を倒せるからだ」と、答えたものだ。
彼は、侍が刀を尊ぶように弓を大切にしていた。小説家の中島敦が書いた弓の名人の短編を愛読していた。その本を、バイブルのようにいつも手にしていた。こんどの密林行きも一ノ瀬は、待ち望んでいたかのようにあっさり承諾した。卒業してから十年近く、まったく付き合いがなかったが、再会した三日後、中島が電話すると二つ返事でOKした。あまりの即決に副長は戸惑って「おいおい、嫁さんに相談しなくてもいいのか」と、たずねかえしたほどだった。
「おれは、大丈夫だ」
彼は、一言ぽつんと言ったきり黙りこんだ。学校のことを聞いたら、こちらも一言「関係ねえや」だったという。
まるで、弓以外のことは、まったく興味がないようだった。十年前、密林で豹や猪といった大物を射ることができなかったが、そのことにいまだ、こだわっているのかも知れない。
「お、高木だ」
中島は、外を見て言った。
羽田空港ロビー入り口に大きなリックを背負った高木健二の姿が見えた。隣りにソクヘンと沢田圭介がいる。
「ほう高木が言ってたカメラマンって彼か、若いな」
「ロン、彼のアパートに泊めてもらっていたらしいね」
「一番の功労者ってわけか。じゃあ断れんな」
「一人でも多い方が、にぎやかくていい」
「しかし、二十歳か。大丈夫か」
「大丈夫だろう、おれたちだって、十年前、行ったときは、あの歳に毛が生えたぐらいだった」
「そうだな。しかし、なんだって」泰造は、怪訝そうに首をひねって言った。「フリーカメラマンだろ。どうせインドシナに行くならベトナムに行った方がいいような気がするが。ヤマ族じゃあ、たいした写真とれんだろ。なんだって」
「ソクヘンから話を聞いて、キンチョウに感動したんだと」
中島は、苦笑して説明した。
「それに高木が落とされたってわけか」
「そう、会社にまで乗り込んでこられ、落城したらしい。キンチョウの魔力だ」
「いいだろ、人が増えるぶんには」
「そうだな、にぎやかな方がいい」
二人が、そんな話をしていると高木と圭介とソクヘンが旅行客の人ごみをぬってきた。
「若者と一緒だと、ダンディ高木もおっさんにみえるぞ」
「ばか言え、まだまだ現役だよ、ここは」
高木は、笑って胸を叩いく。
「まあ、気持は学生時代に戻った感じだ」
「副長はかわらん」
「どういう意味だ」
四人は、口々に冗談をいいあって互いの胸を殴りあった。
そんな光景に圭介は、すぐに溶け込んだ気持ちになった。
「これで、全員か」
「ヤナちゃん、やっぱり気が変わらなかったか――」
「ハワイなら行ってもいいと言ってたが、やっぱりジャングルじゃあな」
中島は、航空券を出していった。
「もしかと、おもって予約はしてある。柳沢よく直前になって変更するだろ」
「医者が、いれば安心と思ったのに」高木は、ちょっぴり残念そうに言った。
「あの女好きが、よくアジケンにいたよ。違うサークルにいたら、あっちこっちに、柳沢の子供だらけだ」
泰造の冗談に皆、どっと笑った。
「しかし、どのみちくることはくるはずだ。ドルをことづけるとか、なんとか言ってから」
「会わなくても自分の子供と認めてるんだ」
「だいたい四人と一人で計五人、これで決まりだな」
中島は、柳沢のチケットをキャンセルしようとカウンターに向かって歩き出した。
「いや、六人だ」
不意に一ノ瀬が言って止めた。
皆、一斉に振り返った。向こうからアロハシャツを着た男がやってくるところだった。医師の柳沢だった。大きな探検隊リックを持っているところをみると同行するつもりのようだ。こちらがわかると、うれしそうに手を振った。
「あのダテ医者、ハワイにでも行くつもりか、あんな派手なシャツ着て」
「よお、先生、遅いじゃないか」
高木は、迎えに行って握手した。
「おっ、先生、噂してたんだ。今回はパスかと思ったが」
泰造は、そう言いながらもうれしそうに手をだした。
「キャンセルしかかったとこだぜ」
中島は苦笑いして言った。
「おれもバカだよ。きたよ。来ちまったよ」
柳沢は、おどけて言ってから「サムライの約束は守らんとな」と笑った。
「なにか妙だ」
早崎は、ニヤリとして怒鳴った。
「女の問題か」
「た、隊長。それはないですよ」
言って柳沢は、白状した。
「よく考えたら病院で患者みてるより、ジャングルの方が楽しそうだ。それに帰りにチェンマイに寄れるかも」
「やっぱり女か」
「ノー、ノー 第一の目的は、娘、第二は、キンチョウ、女は第三ですよ」
「殊勝なこと言って、どこまでが本気なんだか」
「まあいいって、全員そろったんだ」
早崎隊長は、髭面をほころばせて指で数えた。
「ひいふうみい、ケイスケをを入れて・・・・六人か」
「いや、七人ですよ」
ソクヘンが言った。
「七人!?」
皆は、不思議そうに顔を見合わせた。
「ぼくを入れてください。ぼくを入れて七人になるでしょう」
「そうか、七人か」
早崎は、髭面をさすって満足そうに言った。
「映画の七人の侍みたいだなあ」
「そうだよなあ」
柳沢は感心したように言った。
「それなら誰が、菊千代だよ」
「当然、おまえだろ」
高木は言った。
「バカいえ、おまえだろ」
「じゃあ、だれが生き残るんだ。映画は三人だったろ」
「縁起でもないことを言うなよ」
「全員、帰ってこれるに決まっている。何も山賊と戦うために行くんじゃない。ただのガイドだ」
「そうだな、山岳ガイドがあるから、我々は密林ガイドか」
「旅行ツアーの添乗員のようなもんだろ」
「天気は雨季の最中だから、わからんが。またふたたびの青春、いい旅になりそうだ」
中島教一郎の言葉に、皆は喜色満面で頷いた。しかし、ひとりソクヘンだけは、浮かぬ顔だ。
「日本の雨季は、もう終わったんですね」
と、恨めしそうにつぶやいて高い天井ガラスの上に広がる青空をながめた。
彼の心中は、穏やかならざるものがあった。雨季が明けたら、クメール・ルージュの赤い悪魔たちは、やってくる。こんどは若者を連れ去りにではなく、ヤマ族全員を皆殺すために。一ノ瀬を除いた五人のはしゃぐ声を聞きながらソクヘンは、重苦しい気持ちになっていた。彼らには、まだ赤い悪魔のことを話していなかった。徴兵にきた五人の赤いゲリラを殺したことも、斥候隊に土石流をしかけたことも。そのために雨季が終わらないうちにタイ領に逃げ込みたいことも明かしていなかった。もし彼らが赤い悪魔のことを知ったら、密林ガイドは断るに違いない。予想はできた。行けばわかることだが、今は、打ち明ける勇気はなかった。
フランス帰りの元教師が支配しはじめたクメール・ルージュは、以前の山賊のようなクメール・ルージュではなくなっていた。組織力が強くなって残忍になった。ベトコンにある理念も正義もなかった。ただ命令に従わないもの、意見を持つものは、即座に殺されるだけ。彼らの非情さ酷さは政府軍の非ではなかった。そのことを話したら、とても、来てはくれないだろう。騙すつもりはないが、ヤマ族が置かれた立場を、日本ではどうしても話せなかった。彼らが、村についてその真実を知ったとき彼らは何と思うだろうか。そのときのことを思うと気が重かった。
七人を乗せた飛行機は、銀翼をきらめかせて青空の中に飛び立つた。今度はナイフを持ってゆかれないことが残念だった。この春、起きた連合赤軍のハイジャック事件で日本刀が使われてから、刀剣類の持ち込みは厳禁となっていた。
眼下に東京の街を右手前方に富士山。日本は、燃え盛った学園紛争は沈静化に向かっていたが、代わって過激派が台頭しはじめていた。しかし、高度成長の波は止まらなかった。眼下には繁栄と平和を謳歌する昭和元禄の日本があった。
彼らが目指すのは、カンボジア北西部にあるインドシナ最大の密林カルタガン山岳地帯。なつかしの密林地帯だ。飛行機は、一気に高度をあげ日本の領域を離れると香港に向かった。眼下の雲間に南シナ海の海原が穏やかにひろがっていた。
夢のようだ。ソクヘンは古ぼけた一枚の写真をだしてながめた。ここに写っている全員を連れて帰ることができた。大きな仕事を成し遂げた満足感があった。
しかし、ソクヘンは心のどこかで後ろめたいものも感じていた。赤い悪魔のことは、まったく知らない彼らだ。もしかして、村に着くまでに奴らの噂を聞くかも知れない。いや、それより、途中で赤い悪魔の襲撃を受けたら・・・次々と新たな心配が湧きあがった。考えると胸が苦しくなった。
しかし、いまは、口が裂けても言えなかった。いまはただカルカダンの村に着くまでにやつらに出会わないこと、雨季の終わるまでに、無事密林を抜けてタイ国境を越えること。そのことをひたすら祈るしかなかった。そんなソクヘンの胸中を知ってか知らずか、五人の青年たちは、まるで学生時代にかえったように、無邪気にはしゃいでいた。
そんななか、一人、圭介は、現実になった冒険に胸を高まらせていた。野心は、大空のようにどこまでもひろがっていた。
第三章 新生クメール共和国
1
一九七十年七月
元アジケン隊の一行は飛行機の欠航で丸一日、香港で足止めをくらった。翌朝、フランス機からプロペラ機に乗り換えると、四ヶ月前までのカンボジア、今は新生クメール共和国に向かった。眼下にひろがるメコンデルタ。緑のじゅうたんのところどころに見える赤土が、今現在も繰り広げられている米軍とベトコンとの激しい戦いを教えていた。ふたたびインドシナに戻って来たのだ。
ひとり圭介を除きアジケン隊、彼らの胸は緊張となつかしさで高鳴っていた。国境を越すと、にわかに空一面が黒雲で覆われた。遠く地平の果てに稲光が走った。大粒の雨が機体を打ち始めた。もうすぐポーチェントムの空港に着くとのアナウス。だが、薄暗い地上には空港らしきものはなかった。ヤシ林と潅木がつづく原野である。機体は大きく高度を下げると、その原野のなかに下降していった。彼らはおもわず「うっ!」と。呻き声をあげた。
「うそだろ!こんなところに空港、あるのかよ ?!」飛行機には慣れているはずの高木も、驚いた声をだした。
赤土の平地が目に入った。滑走路らしい。ガタンと機体が揺れ、震動で尻が浮いた。機は、何度か小さなバウンドを繰り返しながらも速度を落とした。どうやら無事に着地したらしい。皆は胸を撫ぜ下ろした。打ちつける雨粒で窓外はほとんど見えなかった。機体が止まり、ドアが開けられた。まるで夜のように暗かった。激しい雨と暗さで視界がきかなかったが、どうやら学校の校庭ほどのちっぽけな空港だった。周囲はヤシか何の林のようだった。あちこちに水たまりができていた。舗装はされていないようだ。
「これが空港かよ」
柳沢は、呆れ声で怒鳴った。
「――らしい。が、残念、お出迎えはないようだ」
高木がそう言って冷やかした。
「せっかくアロハで決めてきたのにな」
皆はどっと笑った。それで緊張がほぐれた。皆は、十年前の彼らを取り戻した。
「この国に、飛行機で来れるとは、堂々と・・・」
早崎隊長のしみじみした言葉に皆は、頷いた。四ヶ月前まで、この国は社会主義独裁体制で鎖国をしていたのだ。
向こうに貧弱な管制塔と思われる建物がぽつんと建つていた。ヘッドライトをつけた車がこちらに向かってくる。送迎バスか。
「ここがプノンペン」
教一郎は、ソクヘンに聞いた。
「違います」
ソクヘンは、大きく首を振って答えた。
「ここはポーチェン・トムです」
「ポーチェン、・・・?」
「トムです。プノンペンの郊外の町です」
「ああ、そういうこと。日本なら羽田村ということか」
小型バスが横付けされると、早崎隊長は先陣をきって、激しい雨の中に飛び出して行った。後に高木、一ノ瀬、中島、柳沢、圭介もとつづいた。皆は、バスに飛び乗った。皆、頭からバケツの水をかぶったようにびしょ濡れだった。
コンクリートでできた空港の建物には、大勢の兵士が、雨宿りしていた。飛行機の乗客五人と彼ら七人が入っていくと、兵士たちが一斉に
「クメール共和国、バンザイ!」
と口々に叫んだ。
外国人を迎えるときは、こうするのか、たまたまふざけているのか、わからなかった。ひょうきん者の柳沢も、さすがとまどっていた。が、海外出張の多い高木は、慣れた顔で軽く手を振って挨拶した。早崎と中島は、久しぶりの外国で、しかもはじめての国とあって、少し緊張気味の様子だった。圭介は、はじめて見る異国人、それも大勢の浅黒い兵隊の歓迎に、驚きながらも薄気味悪さを感じた。鳥肌が立った。建物には、兵士の他に大勢の民間人もいた。女や子供が多かった。彼らは、皆、大きな荷物をいくつも持っていた。ほとんどが家族連れのようだった。
「この人たちは?}
中島は、見渡しながら聞いた。
「避難民のようにみえるが・・・」
「そうですねえ」
高木も、つぶやいた。
「このあたりの村人たちです」ソクヘンは、あわてて説明した。
「プノンペンに行くのです。ここバス停にもなってるんです」
「なぜ、あんなに荷物を持ってるのか」
「市場で売るものです。プノンペンに行く農民、いつも荷物、多いんです」ソクヘンは、なぜかあいまいに答えながら人を探していた。香港で、国際電話をかけた相手らしい。
「あっ、いました。あの人です、リーセンさんです」
ソクヘンは、皆に教えながら手を振った。
人混みから白髪で顎鬚をのばした痩せた背の高いな男が現れた。丸顔で目の細い顔立ちから中国系、つまり華橋のようだ。
「いらっしゃい」
彼は、流暢な日本語で挨拶した。
「ヤマ族が、日用雑貨で世話になっているリーさんです」
ソクヘンは、紹介した。
「リーさんには日本に行くとき世話になりましたが、こんども途中まで世話になります」
「よろしく」
泰造は、手をのばして握手した。
「むかしニホンの兵隊さん、おおぜい友だちになりました」リーセンはにこやかな顔で挨拶してから「空港の雑貨、わたしの店が全部、引き受けてるんです」と、自慢げに売店の方を指した。
広東人の彼はクーデター前からロン・ノルの部隊と取引があったのでクーデーター後は、相当に羽振りがよくなっていた。それで、空港にも、毎日、幌つきトラックで荷を運んで来る。帰りは、香港から空輸してきた雑貨をプノンペンに運ぶといった。
一行は、積み荷が終わったトラックの荷台に乗ってカンボジアの首都プノンペンに向かった。雨は小降りになり、外は幾分明るくなってきた。首都につづく道路は、広く立派だった。道路の両側は、潅木から広々した田園地帯にかわった。田のところどころに水牛がいた。
「のんびりした風景だ。むこうに山脈があれば安曇野とたいしてかわらん」
泰造は、笑って言った。
「ぼくは、クーデターが起きた国というから、ドンパチやってると思いました。まあ、お隣は、派手にやってるけど」
柳沢は、冗談ぽく言った後、不審げに首をひねりながらつぶやいた。
「しかし、こんなならヤマ族は、なにもタイに行く必要ないんじゃないか」
「いられないんです。この国には」
ソクヘンは、苛立った口調で、繰り返し言った。
「この国は、クメール民族の土地ですから」
ソクヘンの言葉に、皆は、黙るしかなかった。少数部族の諍いは、どこの国でもある。そのことはニュースや歴史で知っている。が、この国の政変で国内に住む少数部族の立場が、どのように変ったのか。単一民族の日本人にはわからなかった。
「まあ事情は、どうだっていいよ。とにかくヤマ族はタイ領に行くことを希望している。我々は、その手助けにきた。まあ、言うなれば水先案内だな」
「ジャングルが海か、面白い。それにしても五人も必要か」
「高くつくな。船頭多くしてーーにならんことを祈る」
「縁起でもないことを。一度往復した道だ。交替でやるさ。嵐がないだけ楽な後悔だ」
泰造の言葉に皆、どっと笑った。
いつのまにかに、激しい雷雨はやんでいた。幌をはずすと、黒雲の割れ目から青空が見えた。どんどん晴れ渡っていくようだ。首をのばして進行方向を見ると、彼方の緑の森のなかに煉瓦色の建物が林立している。パコダのような塔もある。
「プノンペンです」ソクヘンは指差した。道路は、自転車、オートバイ、シクロであふれている。人をのせた象もいる。トラックは、やかましく警笛を鳴らして、街に入っていった。
2
盲人は原始的なギターの伴奏に合わせてラーマーヤナを吟唱していた。崩壊していくカンボジアが、もはやその英雄詩によって、まわりを囲む乞食や婢の心を動かすばかりの老人の姿にしのばれた。支配された土地、頌歌も寺院もともにくずれさろうとしている下僕の土地、滅びの中の滅びの土地。(『王道』アンドレ・マルロー)
かってこの国で怪しげな青春時代を過ごしたフランスの作家、アンドレ・マルローは遺跡盗掘者を描いた作品『王道』のなかで、この国の首都プノンペンの光景をこのように書いていた。政変から四ヶ月、戒厳令下のこの街は、この文面を再現させていた。地方から流れてきた物乞いと娼婦。彼ら彼女らはほとんど十五歳にもならない、小さな子供たちだった。
クーデターで、それまで鎖国をしていたカンボジアは、開国した。アメリカとも国交を回復した。そして、カンボジア領内にいるベトコンを一掃するために、米軍の進軍と駐留を認めた。リー・セン商会は、その米軍の日用雑貨を取り仕切るというのだから景気はいい。政変で、多くの華僑が排斥された。が、リー・センは、新政府の将軍の一人と親しかったので、生き残ることができた。
センは、モニボン通りのレストランに皆を案内した。モニボン通りは、東京でいえば銀座である。パリの街角を思わせる瀟洒な店が軒を連ねていた。レストランは大きな店で店内も広かった。ほとんど満席だった。センは、奥の大きな丸テーブルを予約していた。皆が席につくと笑顔をみせた。
「ようこそ、プノンペンに」と会釈してから、声をひそめて言った。
「話は、ソクヘンからすべて聞いています。ヤマ族は優秀な気持のいい人たちです。ガイドよろしくお願いします」
「ええ、もちろんです」早崎は、力強く頷いた。
「そのために来たんです。十年も前になりますが、往復した道です。任せてください」
「このこと、この国では秘密ですから」
センは、周囲に視線を漂わせて微笑んだ。
「理解しています」
「しかし、なにか、あるんですか、理由が・・・この国を急いで抜け出さなければならない理由が」
中島は、メガネをとるとハンカチで拭いながら穏やかに詰問した。
「あったら教えてください」
「理由、ですか。それは ―」
センは、何か言いかけたて、口をつぐんだ。
ソクヘンは、困った顔でうつむいた。センは、すっかり忘れていた。赤い悪魔たちのことは、話さない方がいい。ソクヘンにそう指示していたのだ。ソクヘンは、まだ話していないようだ。
「理由は、・・・」
センは、考えながら説明した。
「治安の問題です。シアヌーク時代は独裁でしたが、いまは民主主義国家、自由です。しかし、自由は最初は混乱します。おわかりでしょう、プノンペンをみれば。密林や山岳地方は、もっと混乱しているんです」
「つまりゲリラが出るんですか」
「そうです、シアヌーク時代もいましたが、ゲリラがでるんです」
「それだったら大丈夫じゃないんですか」
中島は、言った。
「彼らは他の部族や民間人には手を出さないでしょう。ベトコンと同じでしょう」
「岡村昭彦、知ってますか。彼の『続南ベトナム従軍記』すばらしかったです。ゲリラの潜入記ですけど」
圭介は、童顔を輝かせて言った。
「この国のゲリラは、ベトナムのゲリラと違います」
リーセンは、首を振ると、冷ややかに言った。
「サルという元小学校教師が指導者になってからクメール・ルージュは、赤い悪魔と呼ばれる恐ろしい殺人集団になったんです」
「赤い悪魔?!」
「ええ、悪魔です。密林に住む少数部族は、そう呼んでいます。赤い悪魔と」とソクヘンは、答えた。
「悪魔か、穏やかじゃないな」
「恐ろしい連中です」
「しかし、勢力を伸ばしているということは・・・」
泰造は、言いかけてやめた。リーセンは、いまアメリカ軍の日用品で大もうけしている。現政府に反対するゲリラのことを悪くいうのは当然のことだ。そのことを意識してかセンは、流暢な日本語で実情を詳しく打ち明けた。
「みなさんがヤマ族の人たちをガイドしてくださると聞きました。感謝しています。この国では、三月の政変以来、少数民族や部族は住みずらくなっています。長年、この国の経済を支えてきた華僑である私たちも迫害されています。幸い私は、新政権の指導者と親しかったので、こうして商売をつづけられていますが、いつどうなるかわかりません。先の見えない不安があります。しかし、ヤマ族のような少数部族は、現実的な不安と恐怖が迫っているのです。シアヌークの前政権のときも彼らは疎外されてきましたが、直接的な干渉はありませんでした。税金だけ払って、のんびり暮らしてこれたのです。が、政変後、新政府も、密林のゲリラも、少数部族に徴兵の義務を押し付けたのです。新政府の徴兵はワイロやコネなどで、いくらでも逃げ道があります。が、ゲリラの徴兵は、強制連行です。逃げ道がないのです。断れば、どうなるか・・・」センは、話を中断して首を振った。そして、再び話をつづけた。「ヤマ族は、新政府の徴兵も、ゲリラの徴兵もはねつけました。それで、今までどおり山で暮らせなくなったのです。この国が、平和になれば、きっと徴兵制度もなくなり元の生活に戻れるのではと希望を持っています。しかし、それまで、徴兵を断った以上、ゲリラや新政府の法律が届かぬ場所に避難するしかありません。しかし、タイ国境まで、密林の縦断は、経験者の助けがなくては不可能です。幸い、皆さんが親切にも、こうして来てくださった。ソクヘンに聞きましたが、サムライの約束キンチョウを果たすためということで、感動しました。やっぱり日本人は、すばらしい人たちと思いました。わたしも微力ではありますが、協力したいです」
「お話、よくわかりました。ありがとうございます」
泰造は、頭をさげた。リーセンの話に嘘はないと思った。ヤマ族を愛する気持は自分たちと同じかも知れない。日本では、まつたく聞かなかった赤い悪魔と呼ぶゲリラのことについて気にかかることはあったが、やはり来てよかった、とあらためて思った。
皆の気持も同じだった。柳沢も、珍しく神妙な顔をしていた。一行は、今夜、リーセンがチャーターした船で出発することにした。涼しくなるまで、この店で時間をつぶすことにした。
3
空はすっかり晴れわたっていた。時刻は、三時を過ぎたところだった。街はうだるような暑さなのに相変わらず騒々しかった。鉄道の発着駅プノンペン駅前からワットプノンにかけての道路や広場は今も地方から流れてくる難民でごった返ししていた。メコンの河岸に並ぶ娼婦館や市場周辺の歓楽街は、朝から呑や踊れやの乱痴気騒ぎがつづいていた。あちこちで酔っ払いの兵隊たちが新式銃を面白半分にぶっ放していた。皆は、食事のあとコーラーやセブンアップを飲みながら、くつろいでいた。天井の大型扇風機が、液体をかき混ぜるかのようにゆっくり回っていた。
「おい、みろよ」
通りを眺めていた柳沢が言って指差した。
向こうの十字路で少年が二人の米兵相手に何か交渉していた。何を売ろうとしているのか。少年の卑猥な身振りですぐにわかった。米兵がニヤついてOKすると、少年は路地に飛び込んでいって、すぐに出てきた。後ろから同じ年恰好の少女がついてきた。
「えっ、子供じゃないか」
皆、声をあげた。周りの客が訝しげに彼らをみた。
二人のアメリカ兵は、大喜びで路地に消えた。少年は、近くの物売りたちに大声で悪態つくとどこかに走って行った。
「どうするんだ三人で」柳沢は、卑猥に笑った。
「赤い悪魔は、米軍とも戦うんだろ」
中島は、いまいましそうに言った。
「じゃあ悪魔じゃないだろ」
「いえ、やつらは悪魔です」ソクヘンは、きっぱり言った。
「どうしてだ」
中島は、納得いかない顔で聞いた。
そのとき、入り口の方がにわかに騒々しくなった。軍の巡察隊が入ってきたのだ。満席の客たちは一斉に口を閉じた。しんとなった店内に兵隊たちの靴音と銃の触れ合う金属音がやけに大きく響いた。兵隊たちは、テーブルごとに金をせびって回っていた。殆どの客が広東人、裕福な華僑か、ベトナム人だった。皆、怯えた顔でじっとしていた。ゴム農園で広東人やベトナム人が多数虐殺されたという噂が流れていた。兵隊たちは、アジケン隊のテーブルに向かってきた。ソクヘンは、窓外にセンの姿を探した。センは仕事で帰ったが、まだ来る時刻ではなかった。五人の兵隊たちは、立ち止まった。高木も早崎も、無視していた。愛想笑いもなし、金もださない。兵隊たちは苛立ったようだ。一人がいきなり何事か怒鳴って銃の台尻をテーブルに突き立てた。圭介は、テーブルの下でカメラをにぎりしめた。店内に緊張が走った。
「おまえたちだれだ」
浅黒い精悍な顔をした兵士がクマイ語でたずねた。
「ぼくらは―」
答えようとしたソクヘンを遮って、泰造が大声で日本語で聞いた。
「なにか、用事か」
日本語がわからない兵隊たちは、キョトンとしてお互い顔を見合わせた。
「外国人か」間をおいて上官らしい青年がクマイ語で聞いた。
「ジャポンです」ソクヘンは答えた。
「ジャポン、ジャパニーズ」
とたんに、彼は笑みを浮かべて「カラテ、ジュウードウ」と、言いながら空手のポーズをみせた。
兵隊たちは、一気に普通のクメールの若者になった。入ってきたときの横柄さはどこえやら締りのないへらへら笑いで店を出ていった。
「なんだよ、あいつら」
「日本人は、あこがれですから」
ソクヘンは、悔しそうに言った。
「華僑やベトナム人、ぼくらみたいな少数部族には威張っているのに」
「せっかくクーデーターやったのに、あんな連中が天下とったんじゃあ、しょうがないな」
中島は、忌々しそうに店を出て行く彼らを見送って言った。
「やっぱり、赤い悪魔さんのゲリラさんに頑張ってもらわないと」
「ゲリラは、もっと悪いです」
ソクヘンは、何かいいたげに首を振った。
外は、にわかに暗くなって、大粒の雨が降り出した。店内が薄暗くなると、昨日からの旅の疲れがどっとでた。皆は座ったまま居眠りをはじめた。ふたたび降り出した雷雨は夕方になってやんだ。通りは、また騒々しくなった。人や荷物を屋根に満載したバスやトラック。警笛を鳴らしっぱなしのオートバイ、シクロの列。そして、人の波。それらが混濁して川のように流れていた。一見、無政府状態にみえる街の光景だった。が、太い街路樹の幹に巻きつけられた有刺鉄線や、一定の間隔と時間をおいて通過する歩哨の姿が、かろうじてまだこの国が行政下にあることを知らせていた。仕事を終えたリーセンが迎えに来た。
「船が用意できました」
皆は、のろのろと店をでると喧騒のモニボン通りをメコンに向かって歩いていった。外国人とわかってポン引きや何を売るのかもわからない物売り、それに物乞いが蠅のようにたかってきた。
「てー、なんだよ、ここの連中、何を売りたいんかわけがわからん」
はじめは、いい女はいないかとのんきなことを言っていた柳沢も、さすがに悲鳴をあげた。
「早くこの街を出たいね」
潔癖症の中島は、苛立って吐き出すように言った。
「滅びの都、まさに滅びの都だ。ここは」
黄昏のメコン河畔の歓楽街は、騒々しかった。ボリュームいっぱいにあげた音楽、エレキの生演奏やら酔っ払いの歓声、それらの騒音に混じって時々銃声まで聞こえてくる。しかし、通称ニホン橋の上は、黄昏時の平穏が漂っていた。夕涼みの市民たちが、あちこちでのんびりくつろいでいた。一行は、出発前の一時、ニホン橋を見物することにした。
「これは、すごい、日本人がつくったのかよ」
泰造は、橋の壮大さに驚いた。北アルプスのダム建設も苦難の連続だったが、メコンを一跨ぎする、この橋梁建設も容易ではなかったであろうことは想像に難くなかった。
「立派な橋だ。向こう岸が見えん」
高木は、感嘆しながらも、いま手がけている航空機購入に関する仕事を思い出した。政治家や右翼の人間への口利き料をいかに捻出するかの算段。あんな裏仕事より、人のためになる、明るい陽の下で正々堂々と働ける仕事がしたいものだ。商社マンという仕事が後ろめたく思えた。
夕涼みの人々の多くは、橋の袂付近で、欄干にもたれて、満々と水をたたえて流れるメコンの濁流をながめていた。監視兵か、二人一組の兵隊が間をおいて、全長何百㍍もある橋を往来していた。彼らの顔に緊張感はなかった。気持は、すでに歓楽街にあるようだ。中島とソクヘンは、泰造と高木を追い抜いて、橋の中ごろまで歩いて行った。圭介は、橋の袂で子供の物売りにカメラを向けていた。柳沢と一ノ瀬はリーセンと河岸でたそがれのメコンを眺めていた。皆それぞれ、のどかな夕暮れのひとときだった。
「まったく、ここの兵隊は。ロン・ノルとかいったっけ、新政権は」
中島は、まだぼやいていた。さきほどの巡察隊の態度がよほど気に入らなかったようだ。
「シアヌーク殿下のときも同じです。ずっと腐敗しているんです。この国の政治は」
「やっぱり、頼るはベトコンか」
「ベトコンはベトナム人です」ソクヘンは、腹立たしそうに答えた。
「そうか、赤い悪魔だっけ。この国のゲリラは」
「ええ、・・・」
「君らの話では評判悪そうだけど、その連中に、頑張ってもらわないとだめじゃあないのか」
「そんなことありません。やつらは、もっとダメです」
ソクヘンは、声に力を入れて言った。なんとかして教一郎に、赤い悪魔の恐ろしさを教えたかった。やつらが密林でどんなことをしているのか。のどまででかかったが、言えなかった。恐れをなして帰国してしまう。まだその心配があった。
「もっとダメ ?なぜ ?!」中島は、不審げに聞いた。センもソクヘンもこの国のゲリラのことになると否定的になる。「なぜ、ダメなんだ。日本では、そんな話は全然、聞いていない」
「赤い悪魔は、昔は、クメール・ルージュというゲリラというか山賊集団でした。しかし、いつのまにか思想を持った山賊に生まれ変わったのです。それも悪魔になって」
「悪魔か、穏やかじゃないな。ふつうゲリラは弱いものの見方のはずだ」
「違うんです、赤い悪魔は」
「日本では、ゲリラといえばベトコンやゲバラのイメージだ。英雄だよ」
中島は、言って不可解そうに首をひねった。いまひとつソクヘンが恐れる理由がわからなかった。
「そのうちにわかります」
ソクヘンは、あいまいに言った。なぜ悪魔と呼ばれるのか。密林に入れば、すぐにわかる。なにもいま、詳しく話すことはない、いま帰られては元も子もなくなる。
「それにしても立派な橋だ」
河の中ほどにくると中島は、欄干に両手を乗せて聞いた。「なんという橋だっけ」
「ニホンバシと呼んでます」
ソクヘンは、答えて河を見下ろした。
メコンとトンレサップの流れを集めた大河は、恐ろしいほどの濁流となって流れていた。
「ニホンバシ?!なぜ、ニホンバシと」
「日本人がつくったからです」
「へえ、そうか。それでさっきの兵隊たちも一目おいたんだ」中島は、感心して言った。「東南アジアじゃエコノミックアニマルなんていわれて嫌われているけど、この国じゃ評判いいんだな」
「そうですよ」
ソクヘンは苦笑した。
「ヤマ族は、尊敬しています」
「そのくどきで、おれたちは、ここまできちゃったんだ」
中島は言って、愉快そうに笑った。
「あの船じゃないですか」
ソクヘンは、河上を指差して言った。
「ボスが用意した船」
河上の岸辺の桟橋に舳に明かりをつけた船がみえる。隅田川の川舟のようだ。
「やけに小さいな、乗れるのか」
「十五人は乗れるって言ってましたよ」
そのとき、小型車が、二人の近くで停まった。運転手が顔をだして、何か話しかけてきた。目つきが鋭い男だった。
「なんて言ってる」
「タバコの火をかしてくださいって」
「オッケー」
中島は、ポケットからライターをだした。
それを見咎めてか、向こうから監視兵が二人何か大声で叫びながら駆けてきた。
「車を止めるな、って叫んでます」
ソクヘンは、言った。
「駐車禁止なんです」
しかし、運転手は、気にすることなく降りてきた。中島は、困惑しながらライターをさしだした。
「オックン、チャランナー」
運転手は、薄笑いを浮かべてクマイ語で礼を言って近づいてきた。浅黒い精悍な顔つきの若い男だった。ソクヘンは、凍りついた。
男は、低い声で言った。
「動くな。そのままにしていろ」
中島は事情がわからず困惑して立ち尽くした。
「おい車、止めるな!」
「早く出せ!」
兵士は、怒鳴りながら近づいてきた。
「なんだよ、威張りくさって」
中島は、兵隊の態度に腹が立って言った。ソクヘンを見ると、怯え顔で立っている。
「なんだ?」
突然、運転手の男はソクヘンと中島を前に突き飛ばして発砲した。銃を隠し持っていたのだ。至近距離から撃たれた二人の兵隊は、声もなく崩れるように転がった。撃った若い男は、倒れている中島とソクヘンを無視して、車に駆け寄ると、荷物を取り出して何か作業をはじめた。
「赤い悪魔です。早く逃げましょう」
ソクヘンは、叫んで走り出した。
中島は、後につづいた。近くにいた涼み客も気がついて一斉に袂に向かって逃げ出した。巡回の兵隊たちが、こちらに向って駆けてくるのが見えた。何か、大声で叫んでいる。逃げる市民は、つぎつぎ腹ばいになった。
「センセイ、伏せて!」
ソクヘンは、大声で言ってその場に伏せた。
中島は、急いで倒れこんだ。頭の上を、兵隊たちが、ドヤドヤと駆け抜けていった。と、同時にに左右の欄干から、タンタンタンと乾いた銃声の連続音がした。涼みの市民を装ったゲリラが、挟み撃ちにしたのだ。撃たれた兵隊が、次々、腹ばいになっている市民の背中の上に倒れこんだ。後からきた兵隊は、屈みこんでやみ雲に銃を撃ち始めた。頭上をピゅーピゅーと音をたてて弾が飛び交っていたが、伏せていた市民は、構わず起き上がって逃げだした。誰が市民かゲリラか、見分けがつかなかった。我さきにと逃げる人々で橋の上は大混乱になった。流れ弾に当たって倒れる人、泣き叫ぶ親子。その上を駆けていく兵隊たち。
橋の中ほどで突然、はじまった撃ち合いと混乱は、岸辺の喧騒ですぐにはわからなかった。爆竹か酔った兵士が、空に向って乱射している。乱痴気騒ぎがはじまった。橋のたもとにいた泰造と高木は、最初そんなふうに思っていた。が、血相を変えて逃げてくる人々を見て異変を察した。圭介もかけてきた。
「みんな逃げてきます」
圭介は、振り向きざまにシャッターを押しながら叫んだ。
「あの音、撃ち合いか」
「そうみたいです」
「こんなところでか ― 」
泰造は、絶句したあと慌て叫ぶ。「早く橋をでよう」
三人は、逃げる市民たちに混じって走り出した。国道は、橋から逃げ出す市民と、橋に向って押し寄せる兵隊たちで動きがとれなかった。土手下でリーセンと一ノ瀬、それに柳沢が、手招きしているのが見えた。
「あそこだ!」
三人は、人混みから抜け出ると土手の斜面を駆け下りていった。
ソクヘンは、まだ橋の上にいた。腰を落とし頭の上に両手をあげ欄干沿いに走っていた。撃ち合いの只中からは脱したが、こんどはゲリラと間違えられる恐れがあった。政府軍の兵隊たちが、続続と橋中央に向っていた。ゲリラは、押されて、はるか向い岸のコンポントムに退散しているようだ。騒ぎで中島とはぐれてしまった。ときどき振り返って中島の姿を探したが、わからなかった。先に逃げたのかも、まだ後方かもわからなかった。が、ソクヘンは、ひたすら進むしかなかった。
突然、後方で大音響がした。橋が、グラリ大きく揺れた。橋中央付近か、空中高く吹き飛んだ欄干と黒の小型車が見えた。続いて小さな爆発が、つぎつぎ橋や欄干を吹き飛ばしていった。ゲリラは、夕涼みの市民を装って、いくつも橋に爆薬をしかけていたのだ。爆発は、まるで仕掛け花火のように、連続で爆発して逃げる人たちを追ってきた。すぐ背後で閃光と火柱があがった。ソクヘンは、おもいっきり吹き飛ばされた。全身を打ったが、けがはなかった。すぐに飛び起きて必死で走った。
大きな地響きとともに日本橋が、大砂塵ならぬ大しぶきをあげて次々、崩落していた。メコンの大河とトンレサップの流れを一跨ぎした勇壮な日本橋の最後だった。橋は巨大な瀑布となって濁流のなかに消えていった。
目の前で起きた、壮大な崩壊シーンに、船着場の皆は、しばし呆然となって見とれていた。
「すごいな」
高木は、つぶやいたまま興奮冷めやらぬ顔で立ち尽くしていた。
「ほんと、すごいもの見ちゃつたな」
柳沢は、感動していた。
「来てよかったよ。こんなものを見れたんだ」
「もったいないな」
泰造は、舌打ちした。北アルプスのダム建設で、これほどの建造物を造るのに、どれほどの人力と資金、才能が必要か、知りすぎるほど知っていた。
岸の人波から一人の若者が脱して土手を駆け下りてくる。
「よかった、ソクヘンがきた」
泰造は、ほっとして言った。この騒ぎで全員の安否の確認を忘れていた。ソクヘンが来るのを待って、遠くから聞いた。「中島副長は、どうした?」
「きてないですか、センセイ」
ソクヘンは、驚き顔で言った。
「一緒に橋の上にいたろ―」
「ええ、撃ちあいと爆発にまきこまれて、夢中で逃げてきたんです。が、途中で別々になってしまって」
「えっ!じゃあ、まだ、橋の上に」柳沢は、驚き声をあげた。
「橋は、もうない」
泰造は、絶句して指差した。
皆は一斉に日本橋があった方向を見た。雄大さを誇った日本橋の橋げたが、巨大な墓標のようにメコンの流れの中にあるだけだった。
「迷っているかも・・・すごい人でしたから」
「よし、戻ってさがそう」
高木は、言った。
「まて、みろよ」
泰造は指差す。
いくつものサーチライトが、夕闇迫るメコンを照らし出していた。国道と橋のたもとは、いつのまにか大勢の政府軍で埋まっていた。逃げる市民の騒ぎはすっかり治まっていた。
「どこまで一緒だった?」
「爆発のときまでです。吹き飛ばされて、そのあとは夢中で――」
「まさか、落ちたのでは」
「わたしの後ろからきた何人かが、吹っ飛んでメコンに落ちていくのを見ました」
「中島副長はいたのか」
「わかりません」
「一緒に河に落ちた可能性もあるな」
「まさか・・・」
「そうだったら、この流れと水量だ」
轟音をたてて流れる濁流をみると、生存は不可能に思えた。絶望が一気に皆を襲った。
「いや、ケガをして兵隊に手当てしてもらってるかも知れん」
「そうだな、病院にいるかも」
泰造は、自分に言い聞かすように大きく頷いていった。
「もし、万一、探して、いなかったら日本大使館に届けよう」
「そうだ、それがいい」
柳沢は、これ幸いとばかりに言って、さっそく歩き出した。
「まってください!」
ソクヘンは、叫んで、両手をひろげて皆のゆく手をふさいだ。そして、必死に訴えた。
「そんなことしたら、政府軍に拘留され、国外退去させられます」
「そうなるかも、な…たぶん」
皆、足を止めて思案に暮れた。
「ダメです、ダメです。約束、守ってください。キンチョウ守ってください」
ソクヘンは必死だ。
「しかし、中島助教授は、どうするんだ」
柳沢は、聞いた。
「このまま放置しては、おけないだろ」
「そうだ。もし、けがしてるのなら。ドクターもいるんだし、早くした方が」
高木は、急かせた。
「行けば、全員、拘束されるだけです」
ソクヘンは、泣き声になって両手を合わせた。
「お願いです、どうか助けてください」
泰造は、困窮してくしゃくしゃ髪の頭を抱えた。辛い選択だった。まさか、こんなところで、こんなアクシデントが起きるとは思ってもみなかった。
「我われが捕まっても、日本大使館に連絡すれば大丈夫だろう」
柳沢は、じれったそうに言った。
「ヤマ族のことは現政府か国連に頼めばいい。きっとなんとかしてくれる」
「だめです、時間がないんです。雨季が終わってしまうんです」
「なぜ、雨季が終わるとだめなんだ」
一ノ瀬は、怪訝そうに聞いた。
ソクヘンは、一瞬はっとした。が、もう隠してはおけないと思った。
「乾季になると、部族のものは全員、皆殺しにされてしまうんです」
「皆殺し?!穏やかじゃないな」高木は、眉をひそめた。
「誰が、皆殺しにするんだ」
「赤い悪魔です」
「また赤い悪魔か」
「いま橋を爆破した連中です」
ソクヘンは、必死に訴えた。
「なぜ隠していた。そんな重要なことを」
「言ったら、きてくれないかと・・・」
ソクヘンは消え入りそうな声でうな垂れた。
「しかし、皆殺しなんて、大袈裟な、ゲリラがそんなことするはずないだろ」
泰造は、首をかしげて言った。
「ベトナムでソンミ村の村人を虐殺したのはアメリカ人だ」
「ベトコンとは違います。赤色クメールは、悪魔に魂を売ったのです。それで恐ろしい悪魔になったんです」
「げー、それなら、なおのこと、そんな連中がいるところへ行ってどうなる。ジャングルを道案内するだけでも大変なことなのに」
柳沢は、騒ぎ出した。そのとき、困惑顔で立っていたリーセンは、土手の方を見上げて大声で知らせた。
「まずいですよ。兵隊が」
大勢の兵隊たちが、こちらに向かって何事か大声で呼びかけている。
「動くな、といっています」
ソクヘンは、焦って告げた。
「わたし、行って話してみます」
リーセンは、言って歩き出した。リーセン商会の若者が後につづいた。
「大丈夫かよ。華僑は危ないんだろ」
「親しい将軍が来ていれば大丈夫です」
皆は、土手を上っていくセンを食い入るように見守った。二、三分してついていった若者が、引き返してきた。あとを兵隊が追いかけてくる。気づいた若者は、走り出して大声で叫んだ。
「ボスは、本部に行って直接、ロン・ノル将軍に話すそうです。不明の外国人は、いません。調べて知らせるから行ってくれ、と言ってます。いま行かないと全員拘束されると言ってます」
ソクヘンは、悲痛な声で叫んだ。
「国外退去かスパイ罪で投獄させられます!ここは、センさんに任せて、脱出しましょう」
「うーん、どうする」
泰造は、唸り声をあげて皆を見回した。高木は、唇をかみしめ判断に窮した。一ノ瀬は、無表情だった。柳沢は、苦虫をつぶした顔で、皆の様子を見ていた。彼としては、国外退去は望むところだったが、土手を下りてくる兵隊たちの表情が尋常でないのを危惧していた。もしかして射殺される。だれもが本能的に感じ取った。重苦しい瞬間が流れた。
「よし、決めたぞ」
不意に泰造は怒鳴って船に飛び乗った。そして、大声で言った。
「俺は行く。センさんに任せた。残りたい者は残って、中島を探してくれ。元気なら、あとで合流しよう。最悪の場合は、帰国してくれ」
「タイチョウサン。ありがとうございます」
ソクヘンは、泣きながらクマイ語で礼を繰り返した。
「中島も、文句言わんだろ。そのために来たんだ」
「そうだな、副長なら、つづけろというな。せっかく来たんだ、おれもいく」そう叫んで高木は、飛び乗ると振り向いて一ノ瀬に聞いた。
「どうする」
「むろん、おれは行く」
一ノ瀬は、つづいた。
「なんだよ、なんだ」
柳沢は、地団駄ふんでいった。
「結局、みんなじゃないか」
「どうするんだ、ヤナは」
「一人だけ、残るわけいかんだろ」
柳沢は、まだ迷っていた。
「早くしろ」
泰造は、叫んで指で示した。
こちらが逃げるとみて兵士たちが一斉に走りはじめた。
「うわー大変だ」
圭介は、カメラをかまえながら悲鳴をあげた。
「ぼうや、どうする」
「やめてください。そのいいかた」
圭介は、ムッとした声で怒鳴って走りながらシャッターをきると、桟橋から船に飛び乗り、息を切らせて言った。
「決まってるじゃないですか、ぼくは。どこまでも行きますよ」
「しょうがねえ、まあいいや、決めた。おれも行く」
柳沢は、迷いに迷いながらも意を決して船に飛び乗った。はじめて自らの意思で自分の人生を決めた瞬間だった。大病院の息子に生まれた彼は、これまで常に誰かが彼の前途を用意し準備していた。幼稚園、小学校は母親が、高校、大学は父親が、といったようにレールのひかれた人生だった。アジア研究会は、たまたま研究室の主任教授がアジアの少数民族の骨格を研究していたのが縁で入会した。籍だけのつもりが、四人の隊員と気が合い、探検隊の仲間になった。はじめて自分でつくった友人だった。土壇場で彼は、友人を選んだのだ。
最後にリーセン商会の若者が、ロープをほどいて飛び乗った。
「これで全員か。オーライ」
泰造は、叫んだ。
「さあ、行ってくれ。スタート」
船頭は、白髪の浅黒い顔の男だった。黙って頷くとエンジンをふかした。スズキのエンジンは、軽快な音をたてた。船は、いきなり動き出した。
「出発進行!」
「中島副長、先に行くぞ!」
「待ってるぞ!」
皆は、岸に向って叫んだ。しかし、だれの脳裏にも、不吉な思いがよどんでいた。中島教一郎は、もはやこの世にいない。それを打ち消すように皆は、ちぎれんばかりに手を振って大声で叫んだ。
「くそ!一番のまとめ役がなあ」
泰造は、無念そうにつぶやいた。皆も同じ気持だった。その思いから逃れるように船はエンジンを全開にして、猛スピードをあげた。いきなりのスピードに五人は、不安顔になった。が、すぐに、その理由がわかった。
河岸に到着した兵士たちが、こちらに銃を向けて一斉射撃をはじめたのだ。船尾の河面に大粒の雨が落ちるような音がバチャ、バチャと聞こえてきた。
「ヤバイぞ」高木は、聞き耳をたてて目を凝らした。
兵隊たちが発砲している岸辺は、既に遠くにあった。が、皆は、雨音が弾丸の雨とわかって足が震えた。まさに危機一髪だったのだ。オンボロ船だが、船足は速かった。爆破されたニホン橋も、兵隊たちもたちまちのうちに、はるか遠くになった。小型船は、スピードを落としながら軽快にエンジンの音をたてて、トンレサップ湖の流を北上していった。いつのまにか周囲は墨を流したように真っ暗闇になっていた。河の中ほどから濁流は穏やかになった。エンジンと水しぶきの音意外なにも聞こえなかった。緊迫した状況が続いたせいか。皆は着かれきって押し黙っていた。しばらくして、だれかが、ぽつりと口にした。
「中島副長、どうしたかな」
「リーセン商会の、ボス、大丈夫か」
「我々を逃がしたんで、罰せられやしないか」
「大丈夫だって、言ってます」
ソクヘンは、リーセン商会の若者から聞いて言った。
「ボスは、ロン・ノル政権の将軍と親しいんです。きっと中島センセイ探してくれます」
「それなら、なにもあわくって逃げることなかったじゃないか、バンバン撃たれちゃって、弾が届くところにいたら、ヤバかったぜ」
柳沢は、不満そうに言った。
「ダメです。ロン・ノル軍、いろんな兵隊がいます。怪しいと思ったら見境ありません」
「やはり逃げるが勝か」
「なんです。ニゲルガ――」
「ことわざだ」
「コトワザ ?」
ソクヘンは、困惑気味に聞いた。
「出発したのが正解だったということさ」
柳沢は胸を張る。
「そうですか。それならよかったです」
「つまりオレの選択は、正しかったということだ」
柳沢は、自慢げに咳払いして言った。土壇場まで迷っていたことは忘れたようだ。
だれも笑わなかった。夕涼みで賑わっていた日本橋。だが平和な光景は、一瞬にして地獄と化した。ここは日本ではない。そのことを思い知った状況だった。極度の緊張状態が、まだつづいていた。闇のなかに、船のどてっぱらに打ち寄せるトンレサップの波音だけが、いっそうの沈黙を誘っていた。
5
六人は、もはや引き返せない旅にでた。漆黒の闇のなかを小型船は、進んでいた。聞こえるのは激しく流れるトンレサップ湖の水音と、スズキのエンジン音だけ。時間が経つにつれ、徐々に皆の緊張は解けていった。同時に、六人の胸中には様々な思いが交差した。早崎泰造は、まだ迷いがあった。中島を探しに行った方がよかったのでは・・・いや、やはり来た方が正解だった。二つの思いが行き来して当ての無い悔いだけが心のなかで右往左往していた。
高木は、橋の袂で拾った拳銃を、カンテラの薄明かりで眺めていた。M26の徽章がある新式の拳銃だった。ピストルは米国でときどき試射していた。にぎると感触がなつかしかった。不意に、撃ってみたい衝動にかられた。会社や仕事のことは、遠く昔のことのように思われた。アメリカの飛行機会社と国会議員、それに大物右翼の接待も夢での出来事のようだった。恋人の亜希子のことさえ頭に浮かばなかった。いまは、トンレサップの湖上にいる。それだけが現実だった。
「ヤマ族のところまで二日だって?」
柳沢は、闇の中から聞いた。
「らしいね」
高木は、拳銃を構えながら答えた。
「そのあとタイまで、三日はかかるな」
「道をおぼえていれば、そのくらいだが、迷えば、わからんぞ」
「まったく、えらいことを引き受けたもんさ」
柳沢は、他人事のように言った。自分で決めて船に乗ったものの、早くも日本がなつかしくなっていた。大学病院の緊急医は、きつかったが、それ以上のものをこの職業から謳歌していた。気にいった女性が、ほとんどものになる。そのことが面白くて仕方なかった。それで、早く戻りたかったが、日本には女性問題がある。ガイドが終わったら皆と別れ、ほとぼりが冷めるまでタイのチェンマイで遊んでいくことにしていた。ヤマ族の娘とのあいだにできた十歳のわが子のことを思うと気が重くなるので、そのことは考えないことにしていた。金をわたせば、気持が軽くなるかも。
一ノ瀬幸基は、仰向けになって、真っ暗な夜空を仰いでいた。この国にきてから、というより日本を飛び立ってから、かれの表情はなぜか晴れ晴れしていた。それがなにからきているのか、彼は黙して語らずであった。彼は、性格からか自分の感情を現さなかった。話はいつも理論的で、およそ会話というものができなかった。常に冷静で酒を飲んでも崩れず赤くもならなかった。
「よく結婚したよな。ちゃんとあっちの方はやってるんだろ。おれ、やっと安心したよ。一ノ瀬も人間とわかって」
機内で柳沢にからかわれたときも一ノ瀬は平然と「生物の生態にのっとったまでだ」と、言った。「それよりだれかれの見境がないおまえの方が不思議だ、動物は本来、お前のような行動はせん」これには、皆も爆笑した。が、一ノ瀬はいたって真剣だった。堅物の彼は、弓道愛好会で知り合った美人の小学校教諭からほれられて結婚した。彼の弓道趣味は、かなり高じていた。読書も弓関係がほとんどで、なかでも中島敦の「名人伝」という短編小説を愛読していた。この小説は、中国の紀昌という男が弓の極意を知ろうと修行し、その境地に到達したとき、弓という名も、その使い道もすっかり忘れ去っていた。という物語だ。一ノ瀬が高校の数学教師になったのは、弓に打ち込めるという理由からだった。その弓道熱が結婚の縁をもった。が、皮肉にもその弓道熱が夫婦の絆を絶つことになった。弓にしか興味をもてない彼。はじめのうちは、妻には、それが新鮮に見えた。男らしく感じられた。が、一緒に生活するにつれ、それは偏屈、変人に変っていった。弓は趣味だと思っていたらすべてだったのだ。妻は不倫するようになった。
圭介は、フイルムを計算していた。圭介にすれば、すべてが予想外、それも自分にとつて幸運な予想外であった。もしかしたら自分は、これで名をあげることができるかも。そんな大望を抱きはじめた。プノンペンのニホン橋での銃撃戦、橋の爆破と崩落。まるでハリウッドの戦争映画を観るようだった。あまりにも非日常的な出来事。だが、夢ではない。全てが事実だった。中島教一郎の行方不明。政府軍の兵士とゲリラの撃ち合い。すべてが現実の出来事なのだ。
しかし、不思議と恐怖はなかった。中島の安否の心配も薄かった。それよりある種の喜びがふつふつと湧き上がっていた。チャンスが飛び込んできたのだ。どれもこれも写真に撮っておきたかった。が、あの混乱のなかで実際にシャッターを押せたのは五十枚に過ぎなかった。ニホン橋大爆破の瞬間も、巨大な橋げたの落下も僅かな枚数しか撮ることができなかった。大いに悔いは残った。が、これからも何かがありそうで胸が高まった。
仰ぎ見ると、雲が切れたのか、はるかとおくに星がぼんやりとまたたいている。ピューリッア賞の星だ。夢じゃないぞ。圭介は、うきうきした気持ちになって口笛を吹きはじめた。
「知ってます、その歌」ソクヘンは、近づいて横に並ぶと、たどたどしく歌いはじめた。
いつでも会うたびに きみのひとみを ~
「あれ、よく知ってるね。この歌」
圭介は口笛をやめて聞いた。
「知ってますよ。プノンペンで流行ってます。スキヤキソングと星影のワルツ、それとこの歌、大人気なんです」
そう言って、ソクヘンは、こんどはクマイ語で歌いはじめた。
圭介も、船べりを軽くたたきながらグループバンドになりきって歌声をあわせた。クマイ語と日本語の歌声、奇妙な組み合わせだったが、荒々しく打ち寄せるトンレサップ湖の波とメコンの流れが、リズムよく船体を揺らした。早崎も、一ノ瀬も、高木も、柳沢も、黙って二人の若者の歌声に耳を傾けていた。思えば、彼らにとって、このときが、この旅でもっとも楽しかったひと時だったかも知れない。
明け方になって雨がふたたび激しく降り出した。水量は増して流れが激しくなった。降る時間は短くても、その量は半端じゃない。水かさが、一気にあがった。湖面は、まるで荒れ海のようだった。小型船は、高波の間を木の葉のように揺れながらも、エンジンを全開にして進んでいった。雨脚が弱くなると、靄がでてきた。岸が近くなると船頭は、エンジン音を静かにして、しきりと左方向を気にしていた。
「天が助けてくれます」
彼は、ほっとして言った。
岸が近いと河岸から政府軍やクメール・ルージュに狙い撃ちされることがあるというのだ。この靄の幕が助けてくれている。流れが、ゆるやかになった。あたりは物音一つしなかつた。不気味な静けさだった。皆、緊張した面持ちで濃い靄を見つめていた。突然、ものすごい悪臭が鼻をついた。船の横っ腹に何かが連続してゴツン、ゴツンとあたった。
「なにか当たったぞ、なんだ」
「流木か」
泰造と高木は、カンテラをかざして水面を覗き込むと、同時に悲鳴をあげた。
「くせえーなんだ、これ」
「これは!死臭だぞ。生ものが腐ったにおいだ」
柳沢は、鼻を押さえて言った。
船頭は、船先を左舷にまわした。
「なんの動物だ」
泰造は、ふたたびカンテラで照らした。
皆は、首をだしてうす明かりの流れを見た。
「これは・・・・」
皆は、浮いているものを見て声を失った。
人間の死体だった。いく体もいく体も流れてくる。圭介は、気がついてシャッターを押しつづけた。昨日、ニホン橋の撃ちあいで弾の下をくぐりぬけてから、すっかり戦場カメラマンになりきっていた。いまは恐怖や驚きより野心が勝っていた。死体は、後からあとから流れてきた。女も子供も老人も。数珠繋ぎになった遺体もあった。
「だれが、こんなひどいことを・・・」
「死体はだれ・・・」
「みんなベトナム人です。ゴム農園で働いている人たちと家族です」
リーセン商会のホイが説明した。
「だれが、こんなことを」
「クメール・クロムの連中の仕業です」
船頭のチェンが、たいして驚いたふうもなく答えた。クメール語だから、むろん五人にはわからない。
「死体はベトナム人で、殺したのは、クメール・クロムの兵隊だと言ってます」
ソクヘンは、日本語で皆に伝えた。
「クメール・クロム?」
泰造は、聞いた。
「だれだ、それ」
「南ベトナムからきたクメール人の兵隊です」
「南ベトナムからきた?」
「はい」
ソクヘンは、チェンに聞いてから説明した。
「メコンデルタに住むカンボジア人で南ベトナムの兵隊だと言ってます。アメリカ軍が訓練して連れてきたらしいです」
「アメリカ軍が!なぜ・・・」
「新政府の軍人だけじゃあ頼りにならんからです」
「そうか、でもなぜ、彼らが」
高木は、頷きながらも訝る。
「差別されていたからでしよ。向こうで」
ソクヘンは、忌々しそうに言った。
「差別!?」
「クメール・クロムはベトナムでは差別されてるんです。だから、ベトナム人が憎いんです」
「へえ、そんなもんか」
柳沢は、呆れ声をあげて言った。
「しかし、それだけでこんなに殺すのか、女や子供まで。赤ん坊までだぜ、狂ってるよ」
「クメール・クロムの連中だけの仕業じゃありません」
「えつ、ほかにもこんな残酷なことをする連中がいるのか」
高木は、驚いて聞いた。
「赤い悪魔です」
「また赤い悪魔か」
「は、はい、そうです・・・」
ソクヘンは、返答につまった。
「ゲリラも政府軍も大量虐殺か。どうなっているんだ、この国は」
「カンボジアはひとつじゃないんです」
ソクヘンは、言って口をつぐんだ。
トンレサップ湖に浮かぶ無数の死体は、皆の気持ちを重くさせた。雨が再び激しくなった。大粒の雨粒が小石のように頭や背中を打ちつけた。丸一日、船は雨のなかを河とも湖ともつかぬゆるい流れ中をゆっくりのぼりつづけた。夕方が近くなるにつれ川幅も狭くなった。密林が両岸から迫ってきた。繁みが船体をこすった。
6
時刻は昼近くだったが、辺りは夕暮れのように暗かった。激しい雷雨がやんだばかりだった。こい靄がたちこめるなか日本人五人とヤマ族一人、そして船頭のチェン、リー・セン商会のホイを乗せた船は、わりとおおきな船着場に着いた。隙間から数人のクメール人が忙しそうに働いているのが見えた。リー・セン商会のトラックが迎えに来ている手はずだという。
「まだのようです」
様子を見に、外に出ていったソクヘンが、顔をのぞかせて知らせた。
「町があるのか?」
「ええ近くに、ここから、アンコールワットにも行けるんですよ」
ソクヘンは説明した。
「そうか、やっと降りれるのか。飯でも食って、ついでに見物していくか」
柳沢は、やれやれといった顔で、立ち上がろうとした。
「そうだな、せっかく来たんだ。歴史的建造物でも拝んで行くか」
高木も同調する。
「だめ、だめですよ」
ソクヘンは慌てて言った。
「迎えがきますから、それまで待っててください。日本人が、こんなに大勢いたらすぐ知れ渡ってしまいます。それまずいです」
「こんな窮屈なところでか。隅田川の屋形船だって、せいぜい二時間だ。あれより狭い」
柳沢は不満そうだ。
「だめです、じっとしていてください」
「なぜ、だめか?!」
泰造は、眉をひそめて聞いた。
「怪しまれるとやっかいです。政府軍に拘束されるかも知れません。迎えが来ますから、それまで船から出ないでください」
「なんだよ、話せばわかるさ」
柳沢は、一人で騒いでいる。
「やめとけ。橋のこともあるから」
一ノ瀬が押し留めた。
「そうだな、ドクター、せっかくここまで来たのだ。おとなしくしてようぜ」
泰造は、笑って言った。ソクヘンが、クメール人を恐れているのが、なんとなくわかる気がした。皆に諭されて、柳沢は不服そうにあきらめた。
また雨が激しく降り出した。林の方に駆け去る船着場の男たちを割って、一台の幌つきトラックが現れた。
「あ、きました!」
ソクヘンは、叫んだ。「乗ってください」
六人は、外に飛び出した。シャワーのような雨が頭に降り注ぐ中、渡し板にとび移った。
「気をつけて、チョムリアプ リーア リーア」
ホイが、クマイ語でさよならと叫んで手を振った。
「ありがとう」
皆は、身の危険も顧みず、ここまで送ってくれた青年に、ただ礼を言うしかなかった。
「グッドラック」
船頭のチェンは、大声で一言叫んで返した。
「グッドラック」
高木は思わず鸚鵡返しに言ってから、チェンをみて話しかけようとした。船は、もう岸を離れていた。高木は、振り返ってソクヘンに聞いた。
「彼、英語話せたのか。船の――」
「ええ、サイゴンにも行ってますから、少し」
「なんだ、そうなら、情報仕入れておけばよかった」
高木は舌打ちして残念がった。
ソクヘンは、ほっとした。もし彼と話していたら、ヤマ族がなぜ、この国を急いで出たがっているのか知られてしまったかも。事実を知ったら彼らは、ここからでも密林ガイドを断わるに違いない。そんな不安があった。
六人は、急いで幌付きトラックの荷台に飛び乗った。中は、衣料品や缶詰類の日用雑貨が詰まれていた。
「ソクソバイ」
いきなり幌の隙間から人の良さそうなクメール人の中年男が顔をだした。
「ドライバーのイェンさんです」
ソクヘンは、両手を合わせてて紹介した。
「これボスが渡せと。食事です」
言って彼は、紙袋を差し出してソクヘンに渡した。それから、ちらと全員を見回して、申し訳なさそうに言った。
「ボスから連絡ある」
「どんな、――」
「彼、いたか」
皆が一斉に聞いた。が、イェンは、意味がわからないのか、首をふる。
「ニホン橋で不明になった人は無事か」
ソクヘンはクマイ語で、聞いた。
「わからない。いないといってた」
イェンは、暗い顔で首を振った。
言葉がわからなくても、その仕草で皆には理解できた。
「センセイ、見つからなかったそうです」
ソクヘンは、合掌しながら伝えた。
「そうか・・・」
皆、黙って頷いた。
「スミマセン、わたし一緒にいて」
「きみのせいじゃない。運が悪かった。撃ち合いがもう少し遅ければ、われわれ全員、橋の真ん中に行っていた。ロン、きみを含め全員メコンの濁流のなかだった」
泰造は、自分に言い聞かせるようにしんみりと言った。
中島教一郎は、あのとき爆破されたニホン橋と一緒にメコンに落ちた。彼は、もういない。旅は、はじまったばかりなのに早くも密林ガイド隊は、一番重要な係り、ガイド隊運営の要を失った。これから副長中島の冷静な性格が必要となるのにだ。
しかし、皆に動揺はなかった。エコノミックアニマルを育てる日本の荒波が彼らを精神的にも逞しくさせていた。何が起きても大丈夫。ガイドは続行する。既に腹は決まっていた。長い旅路のはじまりに副長の思い出は無用だった。
「黙とうする」
泰造は、低いが力強い声で呼びかけた。
皆は、起立し姿勢を正した。
「黙とう!」
泰造は、悲劇を断ち切るように言った。隊長の役柄を取り戻した声だった。。皆は、長い黙とうを捧げた。そのあと皆は、平素の顔に戻った。これからのことしか頭になかった。差し入れが気になった。
紙袋の中には、細長いフランスパンと、ハムとオレンジが六人分、それに竜眼と呼ぶ果物が入っていた。皆は、夕べから何も食べていなかったことを思い出し、夢中で頬張った。ほかに、ヤマ族の集落までの食料にとバナナが一箱積んであった。高木は、セブンアップの瓶の蓋をベルトの金の部分で開けると、ラッパ飲みしながら思った。なぜ華僑のセンは、我々やヤマ族によくしてくれるのか。ルビーをもらったからか。いや、あれは五等分したら、それほど残らないはず。残りは船の借り賃にもならないだろう。山繭の生糸が欲しいのか。それだけではないような気がした。
高木が思うに、キンチョウというサムライの約束を一途に信じている真摯さ。そんな純粋な心に魅了されたのではないか。華僑という身分で生きていくには、狡猾さが必要だ。それだけに十年前の約束を信じ、また果たそうとやってきた日本の青年に感動した故に違いない。きっとそうだ。高木は、山羊のような白い顎ひげの華僑の老人にシンパシィシィを抱いた。
「それから、もう一つあります」イエンは、、思いだしたようにたどたどしい口調で言った。
「これは、希望すれば渡すようにいわれました」
「なんだ?」
「これです」
そう言ってイエンは、紙包みをひろげてみせた。円柱型したバナナ一本ほどの物体だった。
「なんだ、それ?」
皆は、不思議そうにながめた。
「ダイナマイトだ」
泰造には、見慣れたものだった。
「危険物です。扱える人いて、ほしがればあげてもいいといわれました」
「なんで、そんなものをー必要ないだろ、そんなあぶないもの」
柳沢は、眉をひそめて言った。
「これを、どうしろと・・・」
泰造は、リー・センの意図を測りかねた。が、なぜか持っていたかった。この先、何があるかわからない密林ガイド。危険だがお守りになるような気がした。
「ダム建設現場で、さんざんに使った。ダム建設には、なくてはならないものだが、密林ガイドには必要ないだろう。しかし、あると安心する気がする。習性かもしれんが」
「すっかりダム屋になったな」
高木は、冗談ぽく言った。
「ということは、持ってゆくということ」
柳沢は、恨めしそうに言った。
「管理しっかりお願いしますよ。こんな女っけないところで、みなさんと心中したくないですからね」
「大丈夫だって、やたらには爆発しないよ」
泰造は、笑って受け取ると、リックに入れた。
高木も泰造も、このときは、このダイナマイトが本当に役立つものになろうとは想像だにしなかった。皆も、すぐにその存在を忘れた。それほどに、周囲は、非日常の連続だった。
トラックがひどく揺れた。幌の破れ目から覗くと、崩れた遺跡の中を走っていた。「ここは」高木は聞いた。
「シェムレップの近くの町です」
「ホテルはないのか」柳沢はハムをかじりながら聞いた。
「ありません。あってもダメです」
ソクヘンは、強い口調で言ってにらみつけた。
「冗談、冗談、ジョークだよ」柳沢は、笑いながら不審げに聞いた。「それにしても、なんだって、そんなに急いでいかなくちゃあならんのだ」
「すみません」ソクヘンは、謝るしかなかった。赤い悪魔の兵士を殺害したことで、一刻も早く、彼らの手が届かない土地に逃げなければならない。早晩、わかってしまうことだが、いまは、まだ教えたくなかった。
「ヤマ族には、知られちゃあまずい、よほどの秘密があるようだな」
柳沢は、首をかしげる。
「そりゃあ、あるだろ」泰造は、笑って言った。「ドクターのだってでっかい秘密だ」
「なんだ、まだはっきりしたわけじゃあない」
「この期に及んでまだ、そんなことをいってるのか」
高木は、驚いた顔で笑う。
「種まいたのをおぼえているんだから、たしかさ」
泰造のからかいに、皆、思わず声を殺して笑った。
ソクヘンは、聞こえぬふりをしていた。外がにぎやかだ。
「お、すげえ。兵隊だらけだ」
形勢不利とみて外をのぞき見た柳沢は驚きの声をあげた。
皆、幌の隙間から外を見た。トラックは、田舎町を走っていた。が、通りは、米軍とロン・ノル軍の兵士でいっぱいだった。いきなりトラックが止まった。検問だ。皆、緊張した。が、すぐに走り出した。リー・セン商会の威光は、ここでも強いらしい。町を離れると、しばらく田園地帯がつづいた。山に入るとひどい悪路になった。あまり揺れるので圭介は気持ちが悪くなった。道はどんどん狭くなった。木の枝がバシバシとトラックに当たった。しばらくして不意にトラックは止まった。
「どうした、まだ行けるだろ」
泰造は地図を見ながら言った。
「ここから先は、いけない」というように運転手は、激しく首を振った。
「レッドサタン。赤い悪魔の土地か」
「ええ」ソクヘンは、小さく頷いた。
「ベトコンみたいなものでしょ、ゲリラだから」圭介は、目を輝かした。ゲリラのなかに潜入して体験記を書く。カンボジアの戦争は、はじまつたばかりだ。遅れてきた自分にもチャンスはある。若い野心を燃えやしていた。「ゲリラは「民間人には、手はださないです」
「いや、政府軍の物資、運んでるから。狙われてます」ソクヘンは、代わりに言った。「ここまで、来れただけいい方です」
「そうだな、その通りだ。ここまで来れて幸運だった。降りるぞ」
泰造は、あっさり頷いて皆に告げた。
「やれやれ、やっと歩けるか」
柳沢は、真っ先に飛び降りていった。船とトラックにうんざりしていた。早崎、一ノ瀬、高木もリックを外にだしてつづいた。圭介は、ようやく大地の上に立ってほっとした。辺りを見回すと運転手が嫌がるのも無理ないと思った。道ともいえない岩だらけの山道だった。この先、行っても行き止まりになるように思われた。「ありがとう、サンキュー」の声に送られてトラックは、夕闇が迫る山道を逃げるように引き返していった。
7
時計をみると、まだ午後六時を過ぎたばかりだった。早崎は、リックをしっかり背負うと隊長らしい大声で宣言した。
「よし、ここからはソクヘン君の案内でヤマ族の集落まで行くぞ」一行は、ソクヘンのあとにつづいて歩き出した。足取りは、軽かった。
雨はあがっていたが、山道は、いつのまにか真暗闇になっていた。ソクヘンにとってはプノンペンに行くたびに、また帰省するたびに通い慣れた道だった。墨を流したような暗闇の中を小走りにどんどん進んで行く。文明に慣れてしまった五人は、眼が見えないも同然だった。道なのかジャングルなのかわからない繁みをぬけると遺跡らしき場所があった。この国は、アンコール・ワットのような大きな遺跡の他、大小さまざまな遺跡がそこかしこにある。ここも、その一つのようだ。蚊よけの網をかぶって寝袋で明け方まで仮眠した。
「知っているミン族の村があります。そこで朝食をとりましょう」
ソクヘンの計画で、皆は、まだ、暗いうちに出発した。
夜明けは早かった。雨が、再び降り始めた。が、周囲は一気に見通しがよくなった。うっそうと繁る、森のなかを歩いていた。かなり深い山のなかにいることがわかった。
「もうすぐです」
ソクヘンは、皆を案内して山道を急いだ。東の空が明るくなったころ森が終わり、遠くにバナナの葉を敷いた集落の屋根がみえる。そこは、まだいくつかの谷の向こうの山腹だった。集落まで青く繁った田んぼが棚田となってつづいていた。日本の山国で見かけるなつかしい風景だった。やっと休める。一行は、にわかに足取りが軽くなって谷を下り、渓流沿いに登っていった。峠を登りきると、視界が開けて、目の前に高床の家が十数軒見えた。火を借りてコーヒーを沸かそう。皆は、歩く速度を速めた。が、不意にソクヘンが立ち止まった。
「どうした」
しんがりの泰造が、不審げに聞いた。
「はい」
ソクヘンは頷いた。が、振り向いたその顔はこわばっていた。
「なんだ?」
「煙があがってません」
「けむりが・・・」泰造は、訝しげに眉をひそめて、確認した。「ほんと、どこからもでてない」
「ほんと、どこからも、でてない」
高木は、双眼鏡で見渡した。
「どういうことだ」
「誰もいないということです」
「誰もいない?!」
「朝っぱら、家を留守にすることがあるのか。村人全員が」
「ありません」
「じゃあ、どういうことだ」
「わかりません」ソクヘンは、両手で顔を押さえて座りこんだ。が、すぐにすくと立っと青白い顔で観念したように言った。「ぼく、見に行ってきます。皆さん、ここにいてください」
「よし、オレも行く」
ソクヘンの尋常でない様子に何かを察して高木は言った。
「そうか、じゃあ、おれたちは、ここで待つ、十五分たって、何でもなかったら、あの最初の家の横で何か合図してくれ。何かあったら、竹林の竹を一本揺すってくれ。きっかり十五分後だ」
「OK」
二人は、頭を低くして潅木の中に消えた。皆は、座り込んで、足についた笹ダニや、山蛭をとるのに専念した。暫くして
「いったい何だっていうんだ。この国は」柳沢は、またぼやきだした。「なにかへんだぜ、いまの奴さんの様子。何かを隠してるな、やっぱり」
「うん、たんなる密林ガイドじゃないな」泰造は、岩に腰をおろすとつぶやいた。
「ほんと、中島センセイはまきこまれるわ、死体がいっぱい流れてくるわ、町には兵隊だらけ。なにかあるぜ。この国には、そう思わないか」
「インドシナ全体がおかしいんだ。ここだけが特別じゃないさ」一ノ瀬は平然と言った。
「おいピューリッア賞。どうなってるんだ」柳沢は圭介をからかった。
「どうって、なにがです」
「この国のことさ」
「おい、まて」
泰造は、双眼鏡片手にふたたび立ち上がって村の方をみた。
高木が竹林を揺らしながら手を振っている。
「まだ十分しかたっていない。なにかあったな」泰造は、ひとりごちてリックからトランシーバーを出すとスイッチを入れて聞いた。「オッケー、合図、了解。どうした」
「たいへんだ、来てくれ」
上ずった高木の声がスピーカーから聞こえた。
「安全か」
「いまは、安全だ。至急、来てくれ」
「OK、了解」
泰造は、スイッチを切るとつぶやいた。
「いまは安全だ、――なんだろう」
皆は、足早に集落に向かった。向こうから高木が、駆け下りてきた。顔が引きつっている。手で背後の集落を指し示すばかりで言葉にならない。
「みんな死んでる」高木は、皆の前までくるとようやく言った。
「みんな殺されている、部落じゅうの人が、みんな」
集落の入り口にソクヘンがぼんやり立っていた。中に入っていくと、広場に大勢の人間が倒れていた。女も男も、老人も子どももいる。この部族の民族衣装か、色あざやかな赤や黄色の衣服が目についた。これで笛や太鼓が鳴りはじめれば、皆、起きて踊りはじめそうな気がした。しかし、あたりにいつまでも静寂がただよっていた。村人は、ここに全員が集められ殺されたようだ。五十人はいる。
「あっちは、もっとひどいぞ」
高木が、指差す方を見て、皆は凍りついた。集落の真ん中に幾本も杭が並んでいた。その杭に、人間の遺体が串刺しされていた。子供や赤ん坊もあった。陰部に竹やりを突き刺してある若い女の遺体もあった。この残虐行為の隣りに貼紙があった。
協力しないもの、協力したふりをするもの、
したがわないものは人民の敵である。
かならず裁かれる 。民主カンプチャ統一戦線
圭介は、カメラを向けたが、こらえきれず嘔吐した。
「なんなんだ、これは」
泰造は、あまりの残忍さ、酷さに目をそむけて聞いた。
「協力を断った村です」
ソクヘンは言った。
「協力?!だれの」泰造は、聞いた。「
「民主カンプチャ統一戦線です」ソクヘンは、答えてから言いなおした。
「赤い悪魔です」
「赤い悪魔?」
「赤い悪魔ってゲリラだろ」
柳沢は、舌打ちして言った。
「カンボジアのゲリラは、こんなひどいことをするのか」
「サルがきて、勢力を増してからです」
「さる?」
「赤い悪魔の指導者の名です」
「新政府は、捕まえないのか」
「ロン・ノル軍より強いという噂です」
ソクヘンは、苦々しそうに言った。
「シアヌークのときは、シアヌークと戦っていたのですが、三月のクーデターでロン・ノル将軍が政権をとると、シアヌークと手を結び、中国からも支援されるようになったのです」
「早い話、反アメリカか」
「北ベトナムもベトコンも彼らと手を組むでしょう」
「こんなひどいことをやる連中とか!」
柳沢は、思わず怒鳴った。
「そんな連中に刃向かったのか」
泰造は、押し殺した声で聞いた。
「ハムカウ!?」
「抵抗だ。拒否したのだろ、徴兵を」
「ええ、連れにきたゲリラを五人、殺しました」
「どうして、そのことを話してくれなかった」
「知ったら、来てくれないと・・・」
ソクヘンは、うなだれてか細い声で言った。
だれもソクヘンを責めることはできなかった。もし、日本で、密林ガイド依頼のわけを詳しく知ったら、はたして何人、この国に来たろうか。キンチョウを守ろうとするだろうか。あまりの事態の深刻さに皆は、立ちすくんだまま動けなかった。
南ベトナムのゲリラ、ベトコンは、日本では、正義のために戦う賞賛すべき人々だった。実際、彼らの中に潜入した記者や写真家が彼らの立派さを証言している。当然、カンボジアのゲリラも、ベトコンのようなもの、と理解していた。それだけに、この蛮行を目の当たりにしても、なお、信じることができなかった。
「こんなことをするのは、ゲリラじゃないだろう」
泰造は、嘆息した。彼は、三年前、南米で殺されたゲリラの英雄チェ・ゲバラを信奉していた。
ソクヘンは黙っていた。こんな残酷なことをする人間は、凶悪な山賊たち。そう思っていてくれた方がよかった
「おれたちは、とんでもない世界に来てしまったようだ」
泰造は、腹の底から絞り出したような声をあげて言った。
「中島副長なら、どうするでしよう」
高木はつぶやいた。
「副長は、かたいからあぶないことはせんだろう」
柳沢はつぶやく。
「いや、彼は立てた計画は必ず実行するよ。それに約束は、どんな約束でも守る男だ」
一ノ瀬は、言った。
「そうだな、副長が好きな言葉は、これだった」
高木は、今回の話のことで、彼がはじめて電話してきたときのことを思い出して言った。あのとき、電話口で、声を合わせて言った言葉だ。
「恐れず、ひるまず、アジケン魂」
「おそれず、ひるまず アジケン魂、か」
皆は、てんでに口の中で反すうしながらソクヘンの後につづいた。
東京で、真実を知ったなら、おそらく誰もが、断っただろう。しかし、いまこうして密林にいる。サムライの約束、キンチョウを果すために。この先、たとえなにがあろうと、進むしかないのだ。アジケン隊の各人の胸に熱い覚悟がみなぎってきた。
ソクヘンは、狭い谷の間を渓流沿いにどんどん登って行った。急な流れと、岩に足をとられたが通い慣れた山道だった。さすがのアジケン隊も、ついてゆくのに必死だった。圭介は、一人若さからか、疲れを知らなかった。フイルムを心配しながら、シャッターを押していた。
第四章 赤い悪魔
1
いくつもの山を越え谷を渡って一行は、ようやくヤマ族の集落のある山に着いた。三日三晩の旅だった。岩山を登り尾根に立つと眼下に緑の絨毯を敷き詰めたようなジャングルが一望できた。インドシナ最大の密林は、降りしきる雨のなかで眠っているよぅに静かだった。アジケン隊にとって十年ぶりの風景だった。
「おお、この眺めだ」
「いつ見てもスバラシイ」
「まさに絶景かな、絶景かな」
彼らは、口々に雄叫びをあげて、しばし見入っていた。
重く垂れこめた雲の隙間から時々、太陽の光りが見えた。ソクヘンは、小さな手鏡でもって遠くに光りを反射させた。しばらくするとチカチカと光りが返ってきた。
「合図か」
「ええ、交替で見張っているんです」言って、ソクヘンは、促した。
「暗くならないうちに、行きましょう」
皆は、ふたたびあとにつづいた。岩場の多い尾根だったが、足取りは速かった。夕方までにヤマ族の集落につくことができた。竹と丸太で作った床の高い家屋が靄の中に並んでいた。十年前は、乾季だったが、変らぬ風景だった。ソクヘンの合図で到着は知っていたようだ。窓から次々村人が顔をのぞかせた。手を振っているものもいたが、外に出て迎えようとするものはいなかった。圭介は、激しい雨のせいだと思った。が、ソクヘンとアジケン隊は、そうは思わなかった。ヤマ族は、はるばる険しい山を登ってきた客人は、たとえ雨がどんなに激しく降っていても迎えに出る。
「なにか、あったのか」
ソクヘンは、不審な思いで集会所の階段を上っていった。五人はつづいた。
部屋の中には、長老のタオをはじめ部族の男たちが待っていた。薄暗いせいもあるが、男たちの顔色がよく分からなかった。皆、悩み沈思しているようにみえた。二ヶ月前、赤い悪魔のゲリラ兵士を殺したあと、恐れ、うろたえていた重苦しい光景。あの光景を思いださせた。
ソクヘンが使命を果たして帰ってきたのに、喜ぶ様子がない。キンチョウを守るために十年ぶりにやってきアジケン隊を歓迎する様子もない。部族の男たちは、皆一様に困惑げに座っていた。が、ひとりシナタだけが、顔をあげ、薄笑いを浮かべてソクヘンをみていた。
「ただいま、帰りました」ソクヘンは、タオとボトに報告した。
アジケン隊も頭を下げた。十年前にいた長老や族長は、もう亡くなっていたが、あのとき後継者のタオやボトは、滞在中なにかと世話をしてくれたのでよくおぼえていた。なつかしさがこみあげてきてお互い、しっかり手をにぎりあった。しばしの感激のあと、ボトは、姿勢を正し、再会の喜びを挨拶した。が、不意に額を床にすりつけて詫びた。
「ところで、本当に申し訳ないのですが、皆さんにガイドしていただく必要がなくなるかも知れません」
「・・・」
アジケン隊一同は、意味がわからずボトを見た。
ボトは、困惑顔で恐る恐る言った。
「プノンペンでは副長の方が、行方不明になられたとか。そんなにまでして来ていただいたのに、本当に、申し訳ないです」
「えっ、タイまでの案内は必要なくなったんですか?」
ソクヘンは、驚いて聞きなおした。
「そうだ、おまえが出発したときと事情が変わってきた」
「ソクヘン、何て言ってるんだ」
情況を察して泰造は、聞いた。
「もしかするとガイドは必要なくなる、そんな話です」
ソクヘンは、いまにも泣き出さんばかりの顔で言った。
「えっ、中止か!?」
アジケン隊一同は、驚きの声を発した。
ボトの話はこうだ。最近になって赤い悪魔から、妥協案がもちこまれた。物資運搬手伝いにヤマ族の若者を貸してほしいというのだ。ゲリラ兵士としてではなく、あくまでも輸送協力ということらしい。協力すれば、先の五人のゲリラ兵士殺害と3人の斥候を殺した鉄砲水攻撃は水に流す、というのである。アメリカ軍と戦うための物資が北ベトナムから続々と密林の中を運ばれている。いわゆる松明ルートである。運搬の人手が足らないらしい。赤い悪魔は、後ろ盾の中国や北ベトナムに人海作戦を要請され、ひとまず抵抗する少数部族の虐殺は、中止した。つまり背に腹はかえられなくなったのだ。物資運搬を手伝えばこの山岳地帯を自治区にしてやってもよい。そんな甘言も持ち出しているという。
赤い悪魔の甘いささやきを聞いて、ヤマ族は迷いはじめた。密林を抜けてタイに逃げるより、かれらの妥協案を呑んで、これまで通り、この地で暮らそう。そんな考えが、長老タオの甥であるシナタを中心に、ヤマ族のなかにひろがりつつあった。
「赤い悪魔が、この国を支配したらカルダガンの山岳地帯は、ヤマ族のものになる」
シナタは、言った。
「そんな約束、あてになるんですか」
「約束は、守るさ、日本の皆さんだって、こうしてやってきた。赤い悪魔たちも、約束を守るさ」
シナタは、自信たっぷりに言って見回した。何人かの男たちが、頷いた。
彼らは、もともと赤い悪魔にシンパシィをもっていた。そもそもタイ国に逃げようということになったのは、あのとき徴集にきたゲリラ兵士を自分たちが一方的に攻撃したからだ。彼らが先に攻撃したわけではない。非は自分たちにある。そんなふうに思っていた。
「話し合えば、赤い悪魔は、もとはクメール・ルージュだ。去年まで、麓で仲良くやってきた。それに、政府よりよくしてくれる。彼らはもともと人民の味方なんだ」
シナタは、力説した。
族長のボトは、腕組みしてため息をつくばかりだ。彼は、あのとき、この地から脱出という長老の意見に従ったが、本心は、新政府に期待を寄せていた。追放されたシアヌーク殿下は、ときどき山岳地帯に兵をだしてクメール・ルージュと戦っていた。だから、新政府も、早い時期に、ゲリラの巣である密林にもやってくるはず。ボトの考えは、根拠のない楽観主義だった。
「なんか、まずい雰囲気だな」
高木は、眉をひそめてソクヘンに言った。
「すみません」
ソクヘンは、蚊の鳴くような声で謝った。
「方針が、分かれてしまったようです」
「骨折り損か」
「中島副長の死は、いったい何だったのだ」
泰造は、舌打ちした。
「だから言わんこっちゃない」
柳沢は、にわかに活気づいて皆に呼び掛ける。
「ガイド必要ないんなら、帰ろうよ。長いは無用だ」
「まてよ」
泰造は、憮然とした顔でたずねる。
「ガイドはキャンセルでも、ドクターは、まだ用事が残っているだろ」
「ふん、それもほんとかどうか知れたもんか」
柳沢は強気になって言った。
「ま、待てください。待ってください」
ソクヘンは、すっかり狼狽して、アジケン隊とボトの間を行ったり来たりしていた。
「ロン、ヤマ族は、いったいどうしたいのか。聞いてくれ。タイに行くなら案内するし、行かないのなら、われわれは帰る。プノンペンで行方不明の仲間を探さなければならなん」
泰造は、厳然とした口調で言った。
「いますぐ、会議を開いて決めてもらいます」
ソクヘンは、そう言って、ボトに両手を合わせて頼みこむ。
「いくら話し合っても無駄だって。せっかくクメール・ルージュの連中が水に流すといってきたんだ。ここは和睦するしかないだろ」
シナタが口をはさむと、ゲリラを嫌う者が声をあげた。
「しかし、ほんとに信じていいのか。平気で人を殺す連中だ」
「ベトナム人にいわれたからだろ。用事なくなりゃ皆殺しだ。ミン族みたいに」
皆が一斉に意見を言い出した。集会所はハチの巣をつついたような騒ぎになった。
突然タオが、大声で治めた。
「皆の衆、聞いてくれ。かれらはサムライの約束を守って来てくれた。しかし、われわれは、どうしょうか迷っている。この地を捨ててタイを目指すのか、新政府に助けを求めるのか、赤い悪魔の誘いにのるか。タイを目指すなら、約束を守ってきてくれた日本人の彼らに案内してもらう。新政府に頼むなら、ソクヘンにプノンペンに行ってもらう。赤い悪魔に協力するなら、彼らに会って具体的な話をきく。このどれかを選らばなければならん。まずはどうすべきか」
「新政府は、あてにならん」
「クメール・ルージュとの妥協からだ」
あちこちから声がとんだ。
「よし、決をとろう」ボトは、みなを見まわして言った。「この地を捨てタイに行く」
手をあげたのはソクヘン一人だった。
「クメール・ルージュとの妥協案は」
多くの手があがった。
「よし、じゃあ、まずクメール・ルージュとの交渉からだ」
ボトは、真剣な表情で決断した。
「無駄です。やつらは約束など守りません。みんなゲリラにさせられます」
ソクヘンは、なおも否定した。
「決めつけるな」シナタは、怒鳴った。
「水に流すと言ってるんだ。信じるしかないだろ」
「ここに来るまでに虐殺された村をみた」
「政府軍かも知れないぞ。わかるもんか」
「たしかに政府軍はベトナム人を殺している。だがミン族を皆殺しにしたのは、やつらだ。赤い悪魔だ」
「証拠があるのか」
「貼紙があった」
「政府軍の偽装だ」
「やめんか」
タオは、シナタを睨みつけた。「この際、だれがやったかは問題ではない。われわれは、どうするかが問題だ。赤いゲリラの妥協案に賛成なら、会って確約をとれ。約束を守るかどうか」
「おれが」
「そうだ、おまえだ」
タオは、するどい口調で言った。
「わしは、わしの考えで、日本の皆さんに来ていただいた。皆さんは、仲間が一人不明になっても来てくれた。だから、お前はお前の信念の正しさを証明してみろ」
「よし、そんなにいうなら確約をとってくる」
「早いほうがいい」
「いつまで」
「明日の朝、山をおりて確かめてこい。妥協案が本当なら、皆さんには帰っていただく」
「ヤマ族は、おれが守ってみせる」
シナタは、啖呵を切って弟分の若者二人を従え出ていった。
会議は混乱のなか解散。幹部の男たちは部屋を出ていった。最後になったボトは、柳沢を見ながらソクヘンに気の毒そうにささやいた。
「ユンはニホンに話してないそうだ。父親は狩りで死んでいないことになっている。だから、この人にも、名乗らないで顔を見るだけにしていてほしいと伝えてほしい」
「わかりました。その方がこの人にはいいと思います」
「よかった・・・」
ボトは、頷いた。
ソクヘンが柳沢に伝えると柳沢はめずらしく神妙な顔で言った。
「ぼくは、条件にすべて従います」
皆が出ていっても、アジケン隊は黙って座っていた。疲れと落胆で声もでなかった。睡眠不足もあって、用意された焼き飯を食べると、横になった。そして、そのまま朝まで眠りつづけた。翌朝、早くシナタと、弟分の二人は、霧雨のなか赤い悪魔と話し合うため山を下りていった
2
昔クメール・ルージュ、いま「赤い悪魔」と呼ばれるゲリラと話し合いに行ったヤマ族の青年たち三人は、夜になっても帰ってこなかった。合図の反射もなかった。
「何か、あったのでは」
次の日、夜明けとともに起きだしてきた村人たちは、口にこそ出さないが、顔はそんな不安に満ちていた。話し合いがうまくゆけば、合図してくるだろうし、どんなにゆっくりでも、もう戻ってきているはず。もしかして、そのまま兵士として連れて行かれたのでは・・・不吉な予感がした。時間がたつに連れ村人たちの心配は、ますます強くなった。真っ暗な空から、ときおり雨が激しく降った。昼近くなって、見張りの若者が集落に駆け込んできた。
「帰ってきました。一人戻ってきました」
だれかが息をきらして大声で知らせた。
大勢の村人たちが、雨の中入り口に向かった。シナタが、岩場を這いのぼってくるのが見えた。後ろには、誰もいない。戻ったのはシナタ一人のようだ。シナタは、黙ったまま皆を押し分け、部族の長たちが待つ集会所に歩いていった。
「レンとスオンは、どうした」
族長のボトが聞いた。
シナタは、苦しそうに首を振った。
「二人は、どうしたんだ。戻ったのはおまえだけか」
「おれはバーデーン峠で待って、レンとスオンは麓の休憩小屋で待った」
「なぜ三人一緒にいなかった」
「それは、万が一のことを考えて・・・・」
シナタは、話ずらそうに言った。
「ゲリラと接触できたらスオンが連絡にくることになっていた。いつまで待っても来ないんで、見にいったら二人は約束した休憩小屋にいなかった」
「それで、おまえは探しもせず帰ってきたのか」
タオは大声で怒鳴り飛ばした。
「二人はどうなった」
「わからん、隠れて待っていたら奴らがきた、二人の荷物を持っていた。それで逃げてきた」
シナタは、両膝をついて泣き出した。雨が激しくなった。皆、黙ったままながめていた。
集会所から、日本人たちがおりてきた。ボトが、彼らに説明した。泰造は首を振ってソクヘンをみた。十年の歳月は、クマイ語も彼らの言葉もきれいさっぱり忘れさせていた。
「二人は、捕まったようです。どうしたらいいのか、と聞いています」
「どうしたらいいって・・・・おれたちに聞いているのか」
泰造は、困惑顔で皆をみた。
「よし、おれが確かめてくる。どうなったか」
高木は、言ってソクヘンに声をかける。
「案内してくれ」
「無茶すんなよ。危険だ」
泰造は、心配そうに言った。「ミイラとりになるぞ」
「なに、ちょつとみてくるだけすよ。もし捕まったら、ゲリラと話してみる。ソクヘンに通訳してもらう日本人なら、やつらも変なマネしないだろ」
「うーん」
泰造は、頭をひねった。
「やつらだって、めったやたらに殺しはしねえよ」
「そうだな、まずは情勢確認が必要だな」
泰造は、シナタを見ながら言った。
「ここの連中じゃ、どうもあてになりそうにないからな」
「しかし、やつらベトコンとは、違うみたいじゃないか」
柳沢は眉をひそめる。
「うん、あの殺しがやつらならな。しかし、もしそうだとしても、やつらだってバカじゃない外国人は殺らんさ」
そう言って高木は、薄笑いを浮かべて聞いた。
「それよりニホンは、見たのか。ユンが、美人になっているには驚いた。焼けぼっくりになるなよ」
「ばかいうな。その話はなしだ」
」柳沢はうるさそうに手を振って打ち切った。
「そうか、まあいい。じゃあ、ちょっと行ってくるよ。ソクヘン行こうぜ」
高木は、皆に軽く会釈して雨の中を集落の入り口に向かって歩き出した。そのとき、唐突に一ノ瀬が後を追った。
「なんだ」
「おれも行く」
一ノ瀬は、振り返って言うと、軒下に立っていたヤマ族の男から、半弓と矢を受け取った。
「おい、なんのつもりだ」
「お守りだ」
一ノ瀬は、真顔で言った。
「ぼくも、一緒に行きます」
圭介は、隊長の顔をみた。
「やめとけ、危ないかもしれんぞ」と柳沢が言った。
「そんな、大丈夫です。おれ足も速いから」
圭介は、泰造に頼む。
「隊長、ね、いいでしょ」
泰造は、迷った。反対しても行くと思った。が、予測もつかない危険地帯である。二つ返事で許可するわけにもいかなかった。
「ぼうや、ついてこいよ。もしかのときの伝令だ」
高木が、笑って手招きした。
その声に、泰造は、圭介の背中をポンとたたいて怒鳴った。
「シャッターチャンス見逃すな。カンボジアのゲリラ撮るのは、世界でおまえがはじめてになるかもしれんぞ。しっかりやってこい、ぼうや!」
「ありがとうございます。でも、ぼうやは、やめてください」
圭介は、うれしそうに言って脱兎の如く駆け出した。
若い圭介の気持ちがわかるだけに泰造は、不安げに見送った。彼らが妥協案の確約とヤマ族の若者二人と戻れば、さっそくに山を下りプノンペンに引き上げることにしていた。
ソクヘンは、来たときと違う密林の道なき道を三人を案内しながら下っていった。
「ソクヘン、どうして普通の道を行かないのか」
「やつらと出会うかも知れないからです。ここはヤマ族だけの通り道ですから、安心して歩けます」
ソクヘンは、白い歯を見せて答えたから、申し訳なさそうに詫びた。
「すみません、こんなことになって」
「ロン、きみのせいじゃない。それに、まだわからんだろ。ゲリラが本当に何を考えているのか。まずは、二人がどうなっているかだ」
高木は言った。
「もし二人が兵隊にとられていて。二人も協力すると言ったら、どうしたらいいと思います。そうなればヤマ族全部がゲリラ側につくということになります」
「おまえは、どうしたいのだ」
「赤い悪魔たちは、許すとは思えないんです。だから、早く確かめて、協力したい者だけ残し皆を連れて逃げるしかない。そう思っています」
利口な若者だ。高木は、改めて思った。こんな山岳の少数部族に生まれなかったら、もっと明るい人生を歩けるだろうに。
「将来は、なにになりたい」
もう何度も聞いた問いだが、思わずまたでた。
「医者です。いえ、本当は金持ちかな。日本に行って働きたいです」
ソクヘンは、苦笑した。
密林を出ると岩場になった。四人は、ソクヘンを先頭に低い潅木の下を這うようにして進んで行った。通いなれた道らしく、足が速い。高木と一ノ瀬は、腰の痛みを我慢して後を追った。二人とも自分が獣になった気分だった。圭介は、航空機疑惑を追っていた先日のことを思い出した。政治家と商社マンの密会を盗撮しようと、路地の闇に何時間も潜んでいたことが遠い昔に感じた。ヒルがいくつも肌の出ている袖口にくつついた。山を下りると、雑草が生い茂った平地にでた。
「ここからやつらの縄張りです」
ソクヘンは、振り返って小声で言った。
ゲリラの支配地域に入った。虐殺の村を見ているだけに三人に緊張が走った。恐怖を感じた。全身ずぶ濡れの体が、寒くもないのに震えた。潅木の間に山道が見えた。ソクヘンは、なにも言わずに頷くと、腹ばいになって雑草をかきわけて進んだ。朽ちた大木の下で止まると、大きな草の葉を頭にのせてゆっくり朽木から顔を出し山道の方をみた。それから三人に顎で合図した。三人は、ゆっくり顔をあげ朽木の裂け目からソクヘンが顎で示す方向を見た。五十メートルばかり離れた草むらのなかに竹で作った掘っ立て小屋があった。山をおりたときの休憩所だった。後で教えてもらったが、乾季の時期、山岳民族たちがここで物々交換するらしい。シナタがいうには、戻らぬ二人は、この小屋でゲリラとの接触を計画したようだ。開け放たれた小屋には、誰もいそうになかった。が、四人は用心して雑草のなか匍匐前進をつづけた。三十メートルぐらい近づいたとき、前をゆくソクヘンがゆっくり頭を上げ様子をみた。
「あっ!」
不意にソクヘンがうめき声をあげて、忍び泣きしはじめた。
「なんだ?」高木と一ノ瀬は目をこらした。小屋の前に猫の額ほどの広場ともいえぬ草むらがあった。そこに大木が横倒しになっていて、その上に丸いものが二つ並べられていた。人間の首だった。
「二人か?」
高木は、衝撃を押し殺して聞いた。
ソクヘンは泣きじゃくりながら大きく頷いた。
「ひでえことしゃあがる」高木はつぶやくように言った。
「これで決まりだ。引き上げるか」
「まってください」
ソクヘンは、拝むように両手を合わせて言った。
「なんだ」
「このままにしてはいけません」
「首のことか」
「はい」
「どうするんだ」
「持って帰りたいんです」
「何をバカな」
高木は思わず小声で叫んだ。
「いま、誰もいません。だから」
「罠かも知れんぞ」
高木は、怪しんだ。
三人は用心深く、小屋周辺をながめた。雨はやんで、あたりは不気味なほど静まり返っていた。葉や繁みに落ちる雨だれの音が、時折、静けさを破った。
「交代か食事にいったんです。きっと」
ソクヘンはしびれをきらせて言った。
「うん、そうかも」
高木は、不安そうに頷くと一ノ瀬に聞いた。
「どうする」
「わからんときは、やめておいた方がいい」
一ノ瀬はつぶやいて、小さく首を振った。
「ぼく、すぐ戻ってきます」
二人が反対とみたソクヘンは、いきなり飛び出して行った。
「あ、待て」
高木は、呼び止めた後、一瞬 躊躇したが、自も飛び出して後を追った。
圭介は、自分もと立ち上がろうとした。が、いきなり大地に押え込まれた。「まだだ」
耳もとで一ノ瀬が冷静な声でささやいた。
「様子をみるのだ」。
圭介は頷いた。
二人は、黙って小屋めがけて駆けて行く二人を見守った。
ソクヘンは、首の前に着くと泣きながら手を合わせた。
「ひどい、な」
追いついた高木も、手を合わせた。
そのとき不意に背後の繁みが揺れた。低い潅木の繁みから銃を構えた二人の黒服の男が音もなく現れた。浅黒い顔に眼が異様に鋭かった。体は痩せてはいるが、精悍そうだった。
「しまった!」
高木は全身から血の気が失せた。やはり、罠だった。獲物がやってくるまで、何時間も辛抱強く待っていたのだ。背筋を冷や汗が滝のように流れていった。
「●×※×▲」
二人の黒服を着たゲリラは、大声で何事か怒鳴りつけながら、ソクヘンと高木を二つの首が並ぶ朽木の前に立たせた。射殺するつもりか。高木の全身に鳥肌が立った。ここで死ぬのか。人生に、まだ未練があった。まだ、死にたくない。短い時間のなかで、切羽詰まった思いが交差した。
そんな高木を二人のゲリラは、怪訝そうにながめた。一メートル八十の身長は、あきらかにヤマ族とは違った。
」
「こいつは、だれだ?」
一人が黒光りする銃の先でソクヘンを小突いた。
「この人は関係ありません」
「何者だ!?」
叫んで男は、いきなりソクヘンをなぐりつけた。
「答えろ!」
言葉はわからなくても、何をやりとりしているかは理解できた。
「おれは、日本人だ!」
高木は、怒鳴った。
「なんだ?」
二人は高木を見た。
「ジャパニーズ、ジャポン、ジャパンわかるか。日本人だ」
「ジャポン?!」
二人は、不思議そうにつぶやいて顔を見合わせた。その目は残忍そのものだった。
高木は一瞬、後悔と絶望感にうちのめされた。が、次の瞬間、歓喜に満ちた。誰何する二人のゲリラの背後の草むらから一ノ瀬が音もなくゆっくりと立ちあがったからだ。手にした半弓の矢先をこちらに狙い定め、弦を引き絞っている。
助かった、思わず嘆息した。が、張りつめた緊張は解けなかった。なぜか三年前、ニューヨークの裏通りで路上強盗に襲われたときのことが頭に浮かんだ。あの時は、運がよかった。いまは。一之瀬の腕を信じるだけ。そう思うとにわかに不安がひろがった。全身から汗が噴き出るのがわかった。「落ち着け、落ち着け」高木は自分の胸にいいきかせた。そうして、ゲリラの注意を集めるために大声で言った。
「そうだ、おれは日本人だ!」
「ジャポン、日本人が、なんで――」
言いかけて、ゲリラの男は不意に言葉をつまらせた。そしてそのまま崩れるように前に倒れこんだ。背中に矢が突き刺さっていた。
刹那、高木は渾身の力をこめてもう一人のゲリラを蹴りあげた。前蹴りは、男のあごを的確にとらえた。骨が砕ける鈍い音がしてゲリラは前のめりに倒れた。ソクヘンが驚きの顔でみている。
「早くしろ」
高木は怒鳴った。
ソクヘンは、二つの生首を抱えて走り出した。が、血と雨ですべって持ちにくそうだった。高木は、倒れているゲリラの黒服を引き剥がしてソクヘンにわたして怒鳴った。
「これで包め」
「銃だ、銃を拾ってこい」
一ノ瀬が向こうで怒鳴った。
高木は二人のゲリラの銃を拾いあげると駆け出した。繁みに飛び込んだ四人は、樹海の中を無言で走って山を目指した。
「すみません、すみません」
ソクヘンは、道々わびた。
「レンとスオンは」
途中、迎えにきた若者がきいた。
ソクヘンは答えるかわりに首につるしたシャツの包みを示すと、彼は仰天して座り込んだ。四人が集落に着くと、村人たちはぞくぞく集まってきた。集会場の前で長老たちが待っていた。ソクヘンはタオやボトたち族長のまえに行くと、何もいわず、首にぶら下げてきたものを置いて、包んだ黒シャツをひろげた。なかから生首がごろんと転がりでた。それを目にした村人たちの恐怖と嘆き。集落は、混乱状態になった。二人の両親兄弟の悲鳴と悲しみ。平和だったヤマ族の集落は、一瞬にして恐怖のどん底に突き落とされた。もはや、彼らに選択の余地はなかつた。
「結局は密林ガイドを引き受けることになるな」泰造は、苦笑してつぶやいた。
「早く、出発した方がいいでしょう」
高木は言った。
「宣戦布告しちゃったわけですからね。やつらも雨季明けまで、のんびり待つちゃくれんでしょう。いますぐにも来るかも知れん」
「まじか、せっかく帰れるとおもつていたのに」
柳沢は、残念そうに言った。留守に、集まった村人たちのなかにニホンを見つけた。ユンは、すっかりヤマ族の女になっていた。カラフルな布で編んだ民族衣装を着て、一人の美少女を連れていた。すぐにニホンとわかった。ユンは、柳沢をじっと見つめていた。柳沢は、ゆっくり頷いた。話すことを禁じられていたので助かった。こんなとき、向かいあっても何を話してよいかわからなかった。ニホンも知らないほうが幸せだろう。柳沢は、一刻も早く二人の前から逃げたかった。が、これで何日か同行することになった。落胆のなかに照れくささと嬉しさがあった。
「全員にこの地を離れることを伝えろ」
タオは、族長たちに告げた。
「いますぐだ」
村人たちは、荷物をとりに自分の家に走った。集落は、蜂の巣をつついたようなさわぎだった。何人かの老人が頑強に「密林で死ぬんなら、ここで死にたい」と訴えた。が結局は「同じ死ぬなら一族のものに見守られて死のう」と、タオに諭され渋々従った。
一時間のあと泰造と高木に先導されて、百八人ものヤマ族の一行は住みなれた集落を後にした。赤い悪魔たちがいなくなって、ふたたびこの地に帰って来られることを信じて。目の前に昼なお暗い樹海が果てなく広がっていた。一行は、山をおりその緑の海
総勢百八名の一行が集落を脱出してから四時間が過ぎていた。途中までは、ヤマ族の領域。山繭を採って歩いた山々で道もつづいていた。が、道が険しくなるにしたがって見慣れた風景は消え、いつのまにか道なき密林のなかに入っていた。探検隊にとっては、かつて往復した場所ではあったが、十年の歳月がすっかり地形や景色を変えていた。密林は、再び人跡未踏な秘境と化していた。なだらかな傾斜を登りはじめると視界がひらけてきた。ヤマ族たちにとって、まったく見知らぬ土地だった。振り返ると、眼下には緑の絨毯が、重く垂れ下がった灰色の雲のはるか彼方まで広がるばかりで、もはやどのあたりに集落があったのかもわからなかった。
二人の若者の生首を見せられた恐怖と、いますぐに赤い悪魔のゲリラたちが襲ってくる。そんな切羽詰った危機感から、大人も子どもも夢中で、ものも言わずに歩いてきた。が、ここにきてようやく故郷を捨ててきたという思いがこみあげてきた。あるものは涙ぐみ、あるものはおしゃべりをはじめた。子どもたちは、時間が過ぎたことで、緊張も薄らいできた。少しずつはしゃぎはじめていた。
泰造と高木は、先頭に立って十年前往復した密林を記憶と磁石を頼りに進んだ。起伏の多い山岳地帯だったので、岩や沢に、なんとなく見覚えがあった。が、見通しの悪い低地に入ると、まったく方向がわからなくなった。右も左もうっそうと繁る密林があるばかりである。
「こんなことなら、あのとき、しっかりした道標をつけておくんだった」
「また、くるとわかっていればな」
泰造は、残念そうに舌打ちしてから苦笑いを言った。
「しかし、あのときはカンボジアには不法入国だったからなあ。証拠は残せんしな」
「大きな岩と、遺跡が目印になりますよ」
高木は、言った。
足元で二人の子どもがクックと笑った。五、六歳の男の子だ。途中から二人にくっついてきていた。泰造が話しかけても、言葉がわからぬせいもあるが、クックと笑うばかりだ。泰造は、自分の子供を思い出してか二人をドングリと呼んだ。彼は、ダム建設でずっと単身赴任だった。子供とも離れ離れの生活だっただけに、よけいに足元の子どもが可愛かった。
「お、なんだ、またドングリが笑ってるぞ」
泰造は、ヒゲ面をほころばせた。
「隊長をドジョウと間違えてるんでしょう」
高木は、からかうように言ったあと、ふと思い出してか、北西方向を見て言った。「そうだ !ドングリといえばお山だが・・・たしか、その先にピラミットみたいなバカでかい岩があったような気がする」
高木の記憶どおり茂みを抜けると右手の森の向こうに白っぽい突き出た三角がみえた。
「おー」
泰造は歓声をあげて、いきなり二人の子どもを抱き上げて見せる。
「ほら、あの岩、みえるだろ。この道で間違いなしだ。記憶抜群、記憶のケンだな」
「ケン」
子どもはうれしそうに声をあげた。
「おっ、ドングリがケンと言った。覚えがはやい」
泰造は、笑って二人をおろした。
二人は笑いながら転がるように、後方にいる親たちのところに走っていった。
「子供は、どこの子供も同じだ」
泰造は、つぶやくように言った。
高木は見送りながら、その横顔に寂しさを感じた。彼にも、同じ年頃の子どもがいたことを思いだした。奥さんには、何と言ってきたのだろう。まさか、こんな危険なガイドをはじめているとは、夢にも思っていないだろう。自分だって、恋人の亜希子には、「いい機会だ。学生時代の気分に浸ってリフレッシュしてくるよ」と、軽い気持ちで言ってきた。大学を出てから、高度経済成長の波にのって仕事、仕事の毎日だった。キンチョウの話は、はじめは迷惑に思えた。が、ガイドを引き受けてからは、またふたたびの密林行を天からの贈り物。そのように思った。OKしてよかった。それはほかの隊員にもいえた。
しかし、中島教一郎の悲劇からはじまった、予期せぬ出来事の数々。ここは死体も殺人も日常時の世界だった。学生時代に戻ってジャングルでのんびり命の洗濯。そんな思いは吹っ飛んだ。だというのに、高木は、なぜか、日本にいれば非日常であるこの場になんの違和感もなかった。人間はこんなにも早く環境や状況になれてしまうものか。あのゲリラはどうなったのだろう。ニューヨークのときは感じなかったが、人間を力任せに蹴り上げた感触が後味よく残っていた。
「たしか、あの山を越せば、尾根にでる」
「そうだった、あとは楽になる」
二人は、互いの記憶を呼び起こしながら進んだ。いつのまにドングリが戻っていた。
ふつう道なき道を歩くだけでも大変だが、養蚕生活者のヤマ族は、密林を歩くのに慣れていた。子供や老人を引き連れた大移動だが、順調に進んだ。岩場は危険だったが、足場がわかれば、苦労はなかった。しかし、つる草が生い茂った平地は、前進するのに困難を極めた。ともかく一歩でも前に進む。それが一行一人ひとりの目標だった。夕方が近づいていた。
「ゲリラたち、どうするかな」
「どうするって?」
「殺された仲間を見てさ」
「そりゃあ、怒ってるだろ」
「雨季が終わるのを待つか」
「わからん」
「乾季まで、待つんだったら、こんなにあわててこんでもよかった」
「どうかな、わからん」言って泰造は、首を傾げる。「しかし、やつらは、何で二人を殺したんだろ。物資運搬を協力させるんじゃなかったのか」
「わからん」高木は首を振ってから言った。「おれたちのことを知ったからか」
「そうかもしれん」泰造は、頷いてつぶやく。「しかし、あんなゲリラがいるなんてニュースじゃ聞いたことがなかった」
「そうだな、ベトコンは知ってるが、クメール・ルージュなんて。日本では報道されたことがない」
高木は、忌々しそうに言った。
「いや報道されてたって、知らなかった。インドシナのことなんか、すっかり忘れていたからな」
「おれだって同じさ」
つぶやいて早崎は、会話をもとにもどした。
「これで二度、連中を殺したことになるんだろ。君らがやった二人が死んだとすれば、ソクヘンの話だと、徴兵にきた連中五人殺したといっていたから合計で七人殺したことになる」
「七人もかよ」
「それに、鉄砲水で斥候が二、三人流されたといっていた」
「じゃあ、ゲリラ連中、とても雨季が終わるのを待てないだろ」
「追ってくるのか」
「うん、それが最悪のパターンだ。おれがゲリラだったらすぐに仕返しにいく」
早崎は、深刻な顔で言った。それから、不安を振り払うように無理に笑顔をつくってつぶやく。
「まあ、そうならないのを祈るが」
最後尾の一ノ瀬とヤマ族の若者ビバットとシナタは、一行が通り過ぎたあとの草木の倒れを直しながら進んだ。百八人の通過の痕跡を消すのは、むずかしかった。が、それでも時折,、降る激しい雨が、草木を倒しわかりにくくしていた。列のなかほどを柳沢とニホンが、手をつないで歩いていた。その後ろをユンが黙ってついてゆく。三人の後姿をみれば、若い親子にみえた。が、お互い名乗ったわけではなかった。言葉も通じない。ただ、柳沢が二人に近づいたらニホンが、少女らしい好奇心で話しかけてきたのだ。柳沢は、最初、面映かったが、いつのまにか父親らしい感情になっていた。二人は、気がつくと手をつないでいた。
圭介は、興奮気味だった。列の後先に回ってシャツターを切った。このフイルムを日本に持ち帰ったら、採用しない雑誌はない。その確信はあった。もうピューリッア賞確実の気分だった。
「そのままでいいよ、そのままで」
圭介は、ジェスチャーと日本語で絵になる村人を追っていた。
子供たちは面白がって圭介の後を追いかけまわしていた。皆、出発したときの緊張感は薄れていた。部族の大移動は、お祭り気分となっていた。
峠を登りきると眼下に密林が波打つようにひろがって見えた。はるか東の地平は、夕方が近いこともあって、ほとんど暗黒色だった。
「まるで海だな、嵐の前の」早崎は言った。「北アルプスも雄大だが、スケールが違う」
「ゲリラ、追ってくるだろうか」
一ノ瀬は、目を凝らしてぽつりと言った。
「追ってきても、このジャングルでおれたちを見つけるのは難しいだろ」
高木は、つぶやく。一縷な望みだった。
「しかし、もともと密林をねじろにするゲリラだ」
「そうだな」
高木は、不安な顔でつぶやいた。
「やつら、村にきたかなあ」
「来たな、おそらく」
一ノ瀬は、言った。
「じゃあ、いまころ村は襲われているころだ」
高木は、腕時計を見ながら言った。
そのとき突然、列のなかほどで悲鳴があがった。皆、一斉に声の方を見た。オシムが大きな岩の上に立って南東の方角を指差していた。
緑の荒波の彼方に糸のような白い煙が、いく筋も上がっていた。意外と近い場所だった。集落が燃えている。だれにもすぐにわかった。とたん泣き叫ぶ村人たち。すぐにも戻るつもりの村人もいた。が、これで、帰るのは不可能となったのだ。
「泣いてる場合か。はやくしろ、追っ手がくるぞ」
泰造は大声で怒鳴った。
「これで皆もあきらめがついたろ」
タオは、族長のボトに言った。その目に涙が浮かんでいた。
「はい、もう本気で、逃げるしかないと」頷いてボトは、悲嘆にくれる皆に大声で叫んだ。
「出発するぞ! 赤い悪魔が来る。暗くなるまで歩きつづけるんだ!」
一行は、恐怖に顔を引きつらせ、足を速めた。話をするものはいない。子供たちは、さきほどの騒がしさはどこへやら、震える手で親の衣服をしっかりにぎりしめていた。一行は、まるで蟻の列のように黙々と進んでいった。密林は、荒海の藻ような草木が生い茂っていた。所々には、岸壁のような巨石が緑の波濤を防ぐように聳えていた。何世紀も前、こんな密林の高地に寺院があったのだ。その巨石が薄闇のなかでも、確かな道標となった。しかし、十年の歳月は、よりいっそう行き手を閉ざしていた。つる草が縦横無尽に走り、巨石を空中高くもちあげ、風景を変えていた。早崎は、先頭に立って磁石を頼りに、一歩一歩前進した。一族の命運を両肩にひしひしと感じていた。
赤い悪魔が追ってくると思うと、だれもが必死だった。やがて、夜のとばりが完全におりて、密林は墨を流したような暗がりになった。「ここで泊まる」その声に皆は、その場にへたり込むとたちまちのうちに眠った。蚊の大群が襲ってきた。アジケン隊は、網帽子をかぶったがヤマ族たちは、平気だった。蚊は彼らに近づかなかった。住む者の知恵か体質か、そのことに疑問を感じる余裕はなかった。アジケン隊の皆も、朝からの疲れで、ドロのような眠りに引きずりこまれていった。
第五章 密林逃避行
1
翌朝、小雨が降る暗がりのなか一行は、、出発した。寝ているあいだにゲリラが、どれほど近づいたか。気になったが、心配してもはじまらない。赤い悪魔とて人間だ。夜の密林を歩く危険は熟知しているはず。泰造と高木は、そう信じるしかなかった。一行は、話もせず、配給のバナナをたべながら歩きつづけた。子供たちも事態の重大さはわかっているようだ。泣く子も騒ぐ子もいなかった。
そのかいあって昼近くに、目指した遺跡に到達した。十年前、迷いに迷って密林のなかを彷徨った末、漸く見つけて、最後に休憩した場所だった。
「ここで小休止する」泰造は、ソクヘンに告げた。
ソクヘンは、すぐにボトに連絡した。ボトは、大声で告げ、皆は、どっと座り込んだ。疲労困憊の様子で、だれも口をきくものはいなかった。雨もやんで静寂だけが密林を押し包んでいた。
「静かだな」泰造は、つぶやいた。
「うん」高木は、薄晴れになった空を見上げた。
ふたりとも妙に胸騒ぎがした。とおくで、なにか動物の鳴き声らしい叫びがした。
「あれは」
ソクヘンはタオに聞きにいって戻ってくると緊張した顔で言った。
「ブタザルが騒いでいるそうです」
「それが―」
「ブタザルは侵入者がいると騒ぐそうです」
「われわれか」
「いや、いま動いているものにたいする警戒だと」
「赤い悪魔 か?」
泰造は、近づいてきたボトに声をひそめて聞いた。
「そうかもしれません」
「早いな。もう追いついたのか」
「そのようです」
「皆には―」
「タオさまが、指令を出しています」
「どうすると」
「シナタを置いてきてます」
長老の甥のシナタは、交渉にいったとき二人を残してきたので罰として、一行からかなり遅れたところで見張り役を言いつかっていた。本人は、不満だったが、首を切られた二人の若者の家族と、顔を見合わせるのが嫌で渋々引き受けた。そのシナタが、息をきらして知らせにきた。
「やつらです」
「何人だ」
「五人です」
「プラン」ボトは聞き返すと、右手をひろげてもう一度言った。「プラン」
「五人か、斥候だな」
泰造は、高木に言った。
「そうのようだな」
「どうする」
「やるしかないだろ」
「どうやって」
「いい場所がある」
「いい場所―」
泰造は、オウム返しに聞き返した。
「いい場所さ、始末するには」
高木は言った。自然にそんな言葉がでる自分に驚いた。待ち伏せて人間を殺す。そのことに妙に興奮した。ふもとで蹴り倒したときの感触が忘れられなかった。
「よし、こんども、おれが行く」
いつのまにか来た一ノ瀬が、静かに言った。
「そうだな」
泰造は、頷いてソクヘンに言った。
「族長に腕自慢の若い衆を借りたいが、と聞いてくれ。度胸があるやつを」
「OK」
ソクヘンは、ボトに告げた。
「何人でも」
ボトは、大きく頷いて、すぐに数人の若者を呼び寄せた。
高木は、人選に迷ったが、地形を考え自分と、一ノ瀬、ソクヘン、ビバット、それに仇を討ちたいと志願した首をとられた若者の従弟シャイ、計五人を選んだ。
「待ち伏せには、いい人数だ。大勢だと気取られてしまうかもしれん」高木は、自分に言い聞かせるように言った。
「五対五、卑怯じゃないだろ」
「とどめはこれで殺れ。確実だから」
ボトは、ソクヘンにヤマ族の山刀を渡しながら言った。
「この前は、運がよかった。刀で、息の根を止めるのが一番だ」
素手で相手を倒すという高木の空手技に不安があるようだ。なんども、最後はこれでやれと、山刀を振り下ろしてみせた。
「ぼくも行きたい」
圭介は、希望した。が、一行と出発する方に回され口をとがらせた。
「こどもがいるとやりづらいんだ」
高木は、緊張をほぐすようにからかった。
一行は、出発した。見送って、五人は、もと来た道を戻っていった。ふたたび暗雲がたれこめ雨まじりの風が吹きだした。早くもヤマ族に迫る赤い悪魔の斥候五人。先手必勝。待ち伏せて殺す。そのことに高木は、妙に興奮した。もう遠い昔に思えるが、昨日、ふもとで蹴り倒したときの感触が忘れられなかった。蹴り上げた右足つま先が靴を履いていたのに、まだ軽い痛みがある。あごは完全に砕けたはずだ。ニューヨークのときは、夢中でよくわからなかったが、昨日は、実感できた。あのゲリラは確実に死んだ。そのことが、妙に自信になった。
五人は崖道まで引き返すと、そこを待ち伏せの場所に決めた。崖下は岩場と潅木の生い茂った繁みで足場が悪く、一人づつ一列に進まなければ、通り抜けできなかった。
「どうやる」
高木は、声を押し殺して言った。人殺しの作戦をたてることに高揚していた。ハードボイルド小説の主人公になった気分だった。
一ノ瀬は、先の茂みを指差し、まるで何かの競技の場所決めでもするかのように
「おれは、あそこで後ろから狙う。高木とソクヘンたちは、この辺でいいだろ」
と、配置を決めた。
「イチ、おまえ一人でダイジョウブか」
「もちろんだ。その方がいい」
「どうする」
「おれが最初に射る。五人といったな、何人やれるかわからんが、先のやつが気がついて、振り返ったら襲ってくれ」
「わかった。そこの岩場がいい」高木は、頷いてソクヘンたち三人に隠れるよう指示すると、持ち場に向かって歩き出した一ノ瀬の背中に言った。「グッドラック」
一ノ瀬は、ちらっと振り返ると、ちらっと笑みを浮かべて頷いた。めったに笑ったことのない一ノ瀬の笑顔に、高木は、不気味さと親しさを感じた。奴と、こんなに意気が合うとは・・・。高木は、前方がよく見える岩場の茂みに隠れると不思議に思った。学生時代、アジケン隊で何度も寝食を共にしたが、友人関係になったことはなかった。とにかく寡黙で、話もしなかった。卒業してからはなお更である。ここに来なければ、一生、再会しなかっただろう。それが、この待ち伏せ作戦で気心が知れた。人殺しを楽しむ、そんな趣味がおれたちにあったのか、高木は、緊張をほぐすように無理に苦笑した。
ものすごい雷とともに激しく雨が降り出した。時間がどれほど経ったかわからなかった。もしかして、斥候のゲリラは引き返したのか。そう思ったとき向こうの繁みが大きく揺れた。不意に首にトレードマークの白黒縞の布をまいた黒いシャツ姿の男たちが現れた。昨日、倒した二人のゲリラ兵の服装だった。ベトコンと同じように黒いシャツと黒いズボン。違うのは首に白黒の縞の布切れを巻いているところだ。一人、二人、三人、あいだをおいてまた二人があらわれた。シナタが報告したように五人だった。彼らは、激しい雷雨の中をたいして用心したふうもなく一列になって進んできた。人間の等身大のカラスのようだった。五人は、一ノ瀬が潜んでいる岩場を通り過ぎた。夕方のように暗かった。先頭のカラスが、立ち止まって岩壁を指差して何事か大声で言った。
「ここを通った痕がある、と言ってます」
ソクヘンが小声で言った。
高木は、黙って頷いた。おそらく、さきほどヤマ族の一行が通ったとき岩肌の苔がはがれたのだろう。五人は、再び歩きだした。高木やソクヘンが潜む繁みに向っていた。高木の胸は早鐘のように鳴って高まった。不意に、彼らの背後に一ノ瀬が、すくと立ち上がった。半弓を引き絞っている。
「射ろ、早く射ろ」
高木は、口の中で叫んだ。が、一ノ瀬は銅像のように動かない。
五羽のカラスは、近づいてくる。草木を打つ激しい雨音に混じって会話が聞こえてきた。
「何をしている。早く射ろ、早く」
高木は、高まる緊張のなかで何度も口のなかで叫んだ。が、一ノ瀬は、なかなか射らない。ゲリラたちは、どんどん近づいてくる。
六メートル、五メートル・・・・どうした、なぜ射らない。張り詰めたなかで高木は、苛立った。何してるんだ。瞬間、一の矢が放たれた。矢は吸い込まれるように最後尾のゲリラ兵の背中に突き刺さった。一瞬、ゲリラは立ち止まった。それから振り返えろうとしたまま、前のめりに倒れた。激しい雨で前を行く四人は気づかない。二の矢が、二人目の背中に命中した。が、運悪く倒れたゲリラの銃が木に当たり跳ね返った。前を行くゲリラが、異変に気づき振り返ろうとした。が、次の瞬間、つづいて放たれた三の矢が首に突き刺さった。若いゲリラ兵は、苦痛で浅黒い顔を歪め引き金を引きながら倒れた。
突然の銃声に先頭の二人は、反射的に脇の繁みに飛び込んだ。よく訓練された動作だった。次の瞬間、ゲリラの一人は、俊敏に立ち上がって一ノ瀬に狙いをつけた。間一髪、背後からヤマ族の若者が襲いかかった。が、ゲリラ兵は獣のような素早さで銃を反転させ、銃尻をビバットの顔面に叩き込んだ。血が吹き飛んだ。ビバットは、鳥の悲鳴のような叫び声をあげてぶっ倒れた。仇討ち志願のシャイは、恐怖で棒立ちになった。危ない ! やられる。と思ったとき、ビバットを殴り倒したゲリラ兵は、案山子のようにつ立つシャイにもたれるように倒れこんだ。間髪をいれず、ソクヘンが、山刀を首に叩き込んだのだ。シャイは、我に返ってゲリラを突き飛ばした。ゲリラは、潅木の繁みに倒れこんだ。そのとき、転がった銃が枝に引っかかったか、突然、暴発した。次の瞬間、倒れていたビバットが激しく体を反らした。弾が当たったようだ。すべてが一瞬のことだった。
最後の一人になったゲリラは瞬間、一ノ瀬を狙うべきか、ソクヘンを狙うべきか躊躇した。が、次の瞬間、、反射的に近くのソクヘンに襲いかかった。刹那、高木が、岩陰から弾丸のように飛び出して体当たりした。若いゲリラは吹っ飛んで転がった。間髪をいれず高木は、細首に膝頭を叩きつけた。バリッという頚骨の折れる鈍い音した。即死だった。が、高木は、なおも正拳を顔面に打ち込んでいた。ゲリラはピクリとも動かない。
高木は、飛び起きると、周囲をみた。ビバットのうめき声が聞こえた。ソクヘンとシャイが介抱していた。向こうから一ノ瀬が近づいてくるところだった。五人のゲリラは、全員、死んだ。一瞬にして五人もの人間を殺害した。それも一人は、板割りのように膝頭を思い切り叩き込んで殺した。高木は、こみあげる歓喜の気持を押し殺して一ノ瀬が来るのを待って聞いた。
「矢の方は即死か」
「そうだな」
一ノ瀬は、引き抜いた三本の矢を見せて答えるとビバットをのぞきこんで聞いた。
「ひどいのか」
「五人いなかったら危なかった」
高木は、答えた。
「素早かった、やつらよく訓練されてる」
「傷は?」
「わかりません、顔と右肩をやられました。顔は銃の後ろで殴られたんですが、肩は」
ソクヘンは、言った。まだ緊張しているのか唇が震えていた。
「もしかして暴発した弾が」
「うん、見ていた。そうかもしれん。彼が飛び掛らなかったらおれは撃たれていた」
一ノ瀬は神妙な顔で言った。
「傷の手当をしなくては。医者はいる。早くヤギにみせよう」
四人は、木の枝で作った担架にビバットを乗せ、ヤマ族一行の後を追った。彼らはすぐに追いついた。ビバットは、苦しそうに呻きつづけていた。両親と三人の兄弟がひたすら柳沢に手を合わした。
「タマが入ってる、みたいだ」
柳沢は、診察すると言った。
「どうするんだ」
泰造は、聞いた。
「取り出すしかない。このままじゃあ腐って死ぬ」
「おまえできるのか」
「隊長、冗談きついな、これでも救急外来の当直医ですよ」
柳沢は、苦笑いして命令口調で言った。
「おい、湯を沸かしてくれ」
「OK」
泰造は、皆に向かって火を焚くように指示すると、冗談ぽく言った。
「やっと出番が回ってきたな、センセイ」
「バカ言え、おれの出番なんかない方がいいんだ」
めずらしく柳沢は、真剣な声で返した。
「早くしてくれ」
「しかし、けむりは、どうする」
高木は、心配声で空を仰いだ。
「大丈夫。雨がやんだあとは、もやがでる」
一ノ瀬は、言った。
その言葉どおり、雷雨がやんだ密林は、もやがたちはじめた。火がたかれ、鍋に湯が沸騰した。ビバットは麻酔で眠った。柳沢は、医療箱からメスを出し、皆が見守るなか手術をはじめた。ソクヘンが懐中電灯を照らした。探し物が厄介な場所か、張りつめた空気が長かった。
「おい、カンシとってくれ」
しばらくのあと、振り返って言った。
「おう」
高木は、熱湯のなかから道具をとってわたした。
柳沢は、傷口から何かを引き抜くように力をこめて取り出したものを空鍋に落とした。カチンという金属音が響いた。
「至近距離からだろ、肩甲骨に食い込んでて、手こずった」
柳沢は、言ってふっと溜息つくと、今度は傷の手当に掛かった。
傷口を縫い終わるったときは、、夜のとばりがおりていた。柳沢は、汗まみれの顔を拭った。疲れよりさわやかな達成感があった。最新医療器具が備わった大学病院では味わったことのない気持だ。メスとカンシだけで摘出を終えたということが、大きな自信になっていた。
「きてよかった」
柳沢は、はじめてそう思った。
医師とは何か、医学生時代でも大学病院の救急外来でも分からなかった。が、それがいま分かった気がした。皮肉なことに、医療設備など何もないジャングルでそう感じたのだ。
2
「この先に、急斜面の岸壁があるはず」
早崎は地図を片手に、明けはじめた空を仰いだ。戻らない斥候に、追ってのゲリラ本隊は、先発隊を出したに違いない。そんな恐怖から、一行は、まだ夜が明けないうちから歩いていた。ようやく密林を抜けると、いきなり急勾配の崖になった。
「のぼりきれば、上は尾根になっている」
泰造は、ボトに伝えた。
ヤマ族の一行は壁にはりつくヤモリのように岸壁をのぼりはじめた。最初に登った男たちが、縄梯子をいくつも投げ下ろした。皆は、その縄梯子に掴まってつぎつぎのぼっていった。女、子供が先だった。全員がのぼりきるには、かなりの時間がかかる。先に上った早崎は、気が気ではなかった。焦燥した気持で急かした。しかし、そこは、さすが山岳民族。まるで蜘蛛のように、巧みに縄を伝わってたちまちのうちに、のぼりきった。後、数人となった、
そのとき、突然、銃声がした。最後尾の若者が、一人、二人もんどりうって転げ落ちていった。見下ろすと、下方の林のなかにカラスたちの黒い姿が見え隠れした。数人はいる。斥候を探す先発隊が、もう、追いついたのだ。彼らは、何事か叫びながら、まだ上り途中のヤマ族に向かって銃を撃ちまくった。絶好の標的だったが、幸い木立が邪魔をして、犠牲者は、四人だけですんだ。悲しんでいる暇はなかった。赤い悪魔は数を増していた。彼らは、林をでると、岸壁を蟻のようにのぼりはじめた。
「撃ち落せ。三丁か、四丁、あるだろ」
泰造は、ビバットに言った。
ビバットは、頷いて、ゲリラたちから奪ったカラシニコフ銃を三人の若者に渡した。四人は、岸壁にヤモリのようにへばりついて上ってくる赤い悪魔を狙い撃ちした。二人に命中した。思わぬ反撃に悪魔たちは、大あわてで退却して密林に消えた。
「この隙に、逃げよう」
「時間がない。早くしろ」
泰造は隊長らしい大声で、一行を急きたてた。
赤い悪魔たちが、ふたたび追いつくのは目に見えていた。こちらにも銃があると知って、どんな作戦でくるのか。考える余裕はなかった。いまは、ただできるだけ遠くに、その思いだけだった。とにかく追いつかれたら、確実に全員が死ぬ。それだけはわかっていた。だれもが追われるものの恐怖を味わっていた。高木と早崎は、何度も振り返った。緊張から冷や汗が滝のように背中を流れていた。もっとも、ひとり圭介は、この緊迫した危機的状況をまだ理解できていないようだった。フイルムを心配してはシャッターを押していた。
尾根の道なき道の道幅は、いっそう狭くなった。どちらに転んでも絶壁。一行は一列に進むしかった。遅々として進まない列。先頭の早崎は、立ち止まると、ボトに先頭を譲って一行をやり過ごした。高木が不審そうに聞いた。
「隊長、なにか」
「うん、さっきの銃、効果的だった」
「やつら驚いたみたいでしたね」
「うん、しかしすぐ、出直して追ってくるはずだ」泰造は言った。「こんどは、おれが銃で、時間稼ぎする」
「だめですよ」
高木は、即座に言った。
「おれがやりますよ。銃はアメリカで撃ったことがある。隊長は、先頭で案内の仕事がある」
「ガイドは高木、お前やれ。こんどは、ゲリラの相手、おれがする。したいんだ」
二人が、張り合っていると一ノ瀬が近づいてきて言った。
「銃は、最後に使った方がいい」
「最後に―」
「そうだ、最後にだ。それまで弾は無駄にせん方がいい」
一ノ瀬は、言って、矢の束を背負っている男を呼び止めた。
「おい、矢をみんなおいて行け」
初老の男は、一瞬キョトンとした顔で一ノ瀬を見た。
「この矢、もらう」
一ノ瀬は、言って、背から矢の束をとった。男は、愛想笑い浮かべて先に走っていった。
「どうするんだ」
泰造は、聞いた。
「おれが足止めさせる。だから先に行け」
「弓矢でか」
「そうだ」
「無茶だ」
「いや、地の利がいい」
一ノ瀬は、薄笑いを浮かべて言った。
「崖を上ってきて、この細い尾根だ。やつらも一列にしか通れない。そこが狙いどころだ。かっこうの標的さ」
「しかし、― いくらなんでも弓矢では」
「音のしない方が、かえって恐怖心がわく。それに、命中率は高い」
「しかし ― 」
「心配するな、何人かやれば、やつら、いったん、崖下に引くだろう。そのとき、追いかける」
「そうか、じゃあまかせる ― 」
泰造は、頷いたが、不安顔だった。
「その方がいいんだ。一人の方が、場所的に。さあ行け」
一ノ瀬は、無表情で言うと、来た道を戻っていった。
「妙にがんばるな。すぐ戻れ」
泰造は、言った。
「一緒に日本に帰るんだからな」
「そうだ、こんなとこで死なんぞ。いっしょに日本に帰るんだ」
高木は、大声で言った。
不意に一ノ瀬は、振り返って叫んだ。
「日本には、おれは帰らん」
意外な返事に泰造は、驚いて聞き返した。
「美人の奥さんが待っているだろ。聞いて知ってるぞ」
「ああ、あの世でな」
「なんだつて!?」
「殺してきた。日本を出る夜」
「殺した!? 」
高木と泰造は、驚いて声を失くした。
「行け。早く。で、ないと、ここで防ぐ意味がなくなる」
「そうか、行くぞ」
一刻の猶予もなかった。泰造は、再び先頭に戻ると
「急げ、急げ」大声で一行をせきたてた。
ヤマ族は、岩場の多い尾根道を西に向かって進んでいった。乳のみ子を抱える母親や老人の足は遅い。一行の速度は相変わらずカメのようにのろのろだった。それでも、すぐに話し声やざわめきは遠くなった。
一ノ瀬は、尾根道がはじまる断崖を見つめていた。両サイドが岩になっていて、崖を登ってきたゲリラは、狭いV字型の岩場に立つしかなかった。即ち的は、その一所だった。一ノ瀬は、大きな岩陰に隠れて、待った。これから人間を射ると思うと妙に心がはずんだ。
最初のゲリラが崖をよじ登って姿をあらわした。黒いシャツとズボン。首に縞の布をまいていた。彼は、周囲を確かめて崖下に何か告げている。あがって来い、と言っているようだった。
一ノ瀬は、引き絞った矢を放った。矢は、吸い込まれるようにブスっとゲリラの胸に突き刺さった。ゲリラ兵は、無言のまま崖下に、転がり落ちていった。機械のような正確さだった。
ゲリラは、それっきり姿を現さなかった。崖下で作戦を立てているに違いなかった。一ノ瀬は岩場の繁みの中に潜んで、ひたすら登ってくるゲリラを待った。彼らが姿を現す場所はここ一ヶ所しかなかった。大きな岩と巨石が崩れ落ちた場所。そこが唯一、崖下からたどり着ける場所だった。小一時間過ぎたあと、ふたたび様子見か、ひとりが登りきった。身を低くして急いで岩場に隠れようとした。が、瞬間、放たれた矢は、その若いゲリラの胸を正確に射た。一ノ瀬は、人間を射ることに快感を覚えた。この場所から離れ難かった。
ゲリラたちは戦法を変えた。しばらくして朽木の幹を盾にして上がってきた。一ノ瀬は、次々と矢を射ったが、幹に当たってゲリラを仕留めることはできなかった。あがりきったゲリラたちは、次々と尾根斜面の繁みの海の中にとびこんでいった。一の瀬は、頓着せず、落ち着いてなおも上がってくるゲリラを狙った。枯れ木の盾のわずかな隙間を狙って射た。矢は吸い込まれ、ゲリラは、声もなく枯れ木と共に落ちていった。
だが、不意に弦が切れた。一瞬、途絶えた攻撃をゲリラたちは見逃さなかった。悪魔たちは、繁みから一斉に飛び出してカラシニコフ銃を乱射した。
3
高木は、何度も振り返った。とおくに銃声の連射を聞いた気がした。いつまで持ちこたえてくれるだろうか。不吉な予感がした。一ノ瀬が残ったのは、英雄的行為からではなかった。彼は、人間を殺す魔力に魅せられてしまったのだ。崖を登ってくるゲリラを一人残らず射殺すまで、あの場所を離れない。そんな気がした。
「イチは、覚悟して残ったのか」
「そうらしいな」
「でも、なんだって嫁さんを・・・ 」
泰造と高木は、そこまで言って話を切った。いまさら、詮索しても仕方ないことのように思えた。
「しかし、なぜ奴らは、迷うことなく追ってくるのだ」
高木は、話題をかえて首をひねった。
「そうだな、いくら大移動といっても、雷雨や岩場もあった。足跡は、消せるところは消してきた。それなのに、追跡は正確だ。まるで、目印があるようだ」
「イヌでもいるのかな」
「イヌ ? 犬で追っているというのか」
「そうじゃない。内通者だ」
「まさか」
「そうとしか思えん」
「なぜ、そんなことをするんだ」
「わからん」
「ソクヘン、そんなことあるのか」
「いません、いるはずがありません。やつらの恐ろしさ、みんな知っています」
「長老さまに聞いてみます」
黙って話を聞いていたボトが、いきなり言って、列のなかほどにいるタオのところに走っていった。ボトは、何か心当たりがあるようだった。すぐに戻って来て申し訳なさそうに言った。
「長老様が、ちょつと小休憩してほしいと」
「こんなときにか」
泰造は、驚いたが、いまさら急いでも、もはやどうにもならないことはわかっていた。彼は、ソクヘンに休憩を告げた。
皆は、草の上に座り込んだ。最後尾からシナタがきた。タオに呼ばれたのだ。タオは、暗い沈んだ顔で岩場の陰に甥を連れていった。なんだろう。皆の視線が岩場に集まった。二人の言い争う話し声がした。そして、突然、タオの怒鳴り声ともつれ合う物音。
「助けてくれ」
シナタが血相を変えて、岩場から飛び出してきた。
シナタは、皆の前にくるとばったり倒れた。背中に山刀が突き刺さっていた。長老のものだった。つづいてタオがヨロヨロと出てきた。そして、すでに息絶えているシナタを見下ろした。
「赤い悪魔たちをおびき寄せいた犯人は、こいつだ。ルビーを盗んで逃げようとしたのだ」
タオは、はき捨てるようにつぶやくと白髪の頭を深々と下げてわびた。
「すまない」
シナタは、ヤマ族の資金であるルビーを盗んだあと、逃げ道として、目印をつけてきたらしい。それが赤い悪魔たちの案内となっていたようだ。
「とうとう最後まで、性根は治らなかった。治せなかった」
タオは、肩をおとしてつぶやくとシナタの上に折り重なるように倒れた。皆の悲鳴。
「タオ様!」
村人たちは、一斉に駆け寄った。
柳沢が割って入り脈をとったが、すぐに首を振った。あっけない最期だった。
「死んだ」
「ご臨終です」
柳沢は、告げてたちあがった。
突然に、一族の要を失って皆は、茫然自失となった。泣くことも悲しむことも忘れてへたりこんだ。
「時間がないぞ。族長に言え」
泰造は、ソクヘンの耳元にささやいた。
ソクヘンは大きく頷いて呆然とたたずむボトに伝えた。ボトは夢遊病者のように頷くと、それでものろのろと皆に支持を伝えた。長老亡き後は、ボトがこの一族の長となる他はなかった。タオのようなカリスマ性はないが、ボトは誠実さで皆から信頼されていた。
二人の遺体を繁みに隠し一行は、再び出発した。が、時、すでに遅し。遠くで銃声がした。尾根を上りきったゲリラの部隊が、景気づけか脅しの合図に、連射したようだ。
「弓センセイは、帰らないんですか」
圭介は、一ノ瀬が戻ってこないことに衝撃を受けた。口数は少ないが、どこかサムライらしさを感じる一ノ瀬に好意を抱いていた。それだけに、突然の別れが信じられなかった。
しかし、アジケン隊に悲しむ暇はなかった。相当数の悪魔の部隊が、すぐそこに迫っている。あるのは、たった四丁のカラシニコフ銃と僅かな弾。皆は、もはやこれまでかと観念した。
そのとき突如、どこかで金属音を聞いた。見上げると、大木の葉々の間に銀色の機体が見えた。
「飛行機だ、アメリカの戦闘機だ」
高木が歓喜の声で叫んだ。
戦闘機は、密林のすぐ上をすべるように飛んでいくと、いきなりバリバリと機関銃を連射した。尾根の方だった。皆、耳を澄ませた。地上から応戦する銃声につづいて、大きな爆発音。ジェット機がロケット弾を撃ち込んだのだ。火柱と黒煙。
「赤い悪魔たちが攻撃されているぞ」
高木が、うれしそうに叫んだ。
「バンザーイ」
圭介は、両手を挙げて喜んだ。やっと事情がわかったようだ。
「サンキュー! アメリカ!」
大声で叫んで、大空に手を振った。
それに応えるように、ジェット機は再びキーンという金属音を響かせて、頭上を過ぎていった。追ってきた赤い悪魔の部隊を一掃したらしい。それを知らせようとしたのか、かなり低空飛行だった。ヤマ族は、こんなに低く飛んでいる飛行機を見たことがなかった。皆、一斉に大空の見える場所に出て、彼方に去っていく戦闘機に手を振った。どの顔も明るかった。これで逃避行から解放された。助かった。そんな喜びに溢れていた。だが、それも束の間だった。遠くの空に、キラリと光る銀色。ジェット機が、再び、戻ってきたのだ。何のために・・・・。高木の胸に不安がよぎった。泰造も同じだった。
「隠れろ!隠れろ!」
二人は同時に怒鳴って繁みに飛び込んだ。
たちまちのうちに迫ったジェット機は、手を振るヤマ族たちに向かって、いきなりバリバリと銃弾を浴びせた。思いもしない絨毯爆撃に、人々は撃たれるままだった。
「どうして、どうしてなんだ」
圭介は、完全に混乱していた。米軍に爆撃されることが理解できなかった。幸いにして弾は当たらなかったが、足元には、いまのいままで話していた人たちが骸になって転がっていた。
「バカヤロー、ベトコンの輸送隊と勘違いしてるんだ」
高木が怒鳴って草むらにとびこんだ。
「伏せろ ! 伏せろ! 」
岩かげから泰造が叫んでいる。
圭介は、一瞬われに返って、その場に伏せた。飛び去った戦闘機が、再度、戻ってきた。呆然と立ち尽くしていた人々は、クモの子が散るように四散した。一人、二歳くらいの女の子が残された。ぽかんとした顔で立っていた。近くに母親らしき女性が息絶えていた。
次の瞬間、誰かが飛び出していって子どもを抱えると岩陰に飛び込んだ。高木だった。米軍機は、執拗に取っては返し一掃機銃を繰り返した。持っている弾薬を全て使い切る気だ。密林はロケット弾の火柱と煙で夜のように暗くなった。一行はなすすべがなかった。これが空襲か。圭介は、大人たちから聞いた東京大空襲の話を思い出した。恐怖に失禁していた。
長い瞬間だった。燃料切れか弾倉が空になったか。戦闘機は、不意にキーンという突ん裂く爆音を残して一気に空高く上昇していった。晴れ渡った青空に、一筋の白い線を描いてどこかに飛び去った。岩場は、まさに嵐が去った後だった。荒涼とした静寂が漂っていた。ボトたちは、のろのろと遺体を片付けはじめた。犠牲者のなかに青年長オシムの遺体もあった。有望な若き指導者を失ったことに村人たちは衝撃を受けた。が、嘆いてはいられなかった。ほかに多くの若者が命をおとしたのだ。結局、十二人の村人が死に、数人が負傷した。幸いに重傷者はいなかったが、手当てが必要な負傷者は何人かいた。
「おい、ドクターは」
泰造は、言って周りを見渡した。
このとき、はじめて柳沢がいないことに気がついた。一緒にいたニホンもいない。
「柳沢は、どうした」
「あれ、このへんにいたと思ったが」
高木は、不安にかられて探した。
突如、切り裂くような悲鳴が静けさを破った。見るとユンが叫びながら岩陰に飛び込んでいくところだった。高木と泰造は、同時にそこに駆け寄った。圭介もあとを追った。岩陰で、ユンが、誰かの上に覆いかぶさって泣き崩れていた。泰造は、ユンを押しやった。下に、銃弾を背中に浴びた柳沢が、何かを抱えるようにうずくまっていた。
「おい、ヤギ!」
泰造は、叫んで背中を押した。
何の返事もなかった。泰造が両手で揺さぶると、まるで段ボール箱が転がるようにゴロンと横倒しにころがった。なかにニホンがうずくまって震えていた。柳沢は、すでに事切れていた。
「バカやろう!なんだってこんなところで死んじまうんだ」
泰造は、泣きながら怒鳴った。
高木は、ショックのあまり坐り込んだ。ユンは、ニホンをしっかり抱きしめていた。柳沢は、父親ということを明かしただろうか。ユンは、教えただろうか。それもいまは、どうでもよかった。
戦闘機は、また襲ってくるかも知れない。赤い悪魔たちは全滅したのか。そうでなかったら、諦めはしないだろう。やつらの執念深さから一人になっても追ってくるはず。それを思うと、悲しみにひたってはいられなかった。獣から守るため遺体の上に、山ほど木の枝をのせ、悲しみの地をあとにした。
「中島に一ノ瀬、それに柳沢まで死ぬとは、なあ・・・」
泰造は、何度もつぶやきながら天を仰いだ。まさか、これほどの犠牲がでるとは、想像もしなかった。ニホン橋が爆破され中島が行方不明になったとき、中止すべきだった。悔やんでも悔やみきれない後悔がわきあがった。隊長としての責任を痛感していた。
「センセイ、せっかく本物の医者になったのにな」
高木は、つぶやいた。泰造の気持がわかるだけに、そう慰めるほかなかった。
圭介は、アメリカの戦闘機に攻撃されたことが、ショックだったようだ。まだ納得できないのか、空を見上げては首をひねっていた。が、そこは若者だった。しばらく沈んでいたが、すぐに被写体を探しはじめた。マジでピューリッア賞が頭にちらつきはじめたようだ。
第六章 決戦カオ・プレア・トム
1
激しい雷雨の中を一行は黙々と進んだ。赤い悪魔たちは、まだ諦めていない。そんな予感がした。激しい雨が足跡を消してくれることを祈った。米軍の戦闘機の攻撃で、どれほどの被害があったか知る由も無いが、一人でも生き残れば、新たに追跡隊を再編成して追ってくるに違い。こんどはシナタが残した目印はない。が、密林に大移動のこん跡を見つけるのは、そう困難なことではない。
いまや赤い悪魔は、他部族への見せしめのため、自分たちの面子のために、ゲリラの意地を賭けて追ってくるのだ。民主カンプチャ統一戦線に背いた部族はどうなるか。インドシナの密林に棲むすべての少数部族にわからせるために。蛇のように執念深く。
逃避行するヤマ族ができることは、両者に被害を及ぼした偶然の災難を利用することだ。即ち追っ手の足が止まっている間に、なんとしてもタイ国境を越えることである。十年前の記憶からすれば、タイ国境は近かった。山を越えた向こうにあるはずだった。一行は、渓流沿いに岩場の多い斜面を登っていった。道なき道だが、見覚えがあった。
「おう、この山を越せば、タイ国境まで近いぞ」
泰造は、十年前を思い出したのか、ふりかえって何度も大声で叫んだ。
「ほんとですか」
ソクヘンが、中ほどから聞きにきた。
「間違いない、この渓流を覚えている」
「間違いないですね」
ソクヘンは、鸚鵡返しに言ってからヤマ族の言葉で叫んだ。
「おーい、もうすぐ。国境は、もうすぐだ」
斜面を、のろのろと登ってくる一団から歓声があがった。動きが速くなった。あきらかに遺跡と思われる大きな石柱が、渓流をせき止め、みごとな滝をつくっていた。
「高木、あれ見覚えあるだろ」
「うん、思い出した」
高木は、流れる汗を拭って仰ぎ見てつぶやいた。
「たしか、この山の上に大きな遺跡があった」
「タイから、くるときは七日もかかったが、帰りは半分だった。脱出して三日目だから計算が合う」
「と、するとここが最後の難関か。ここを越えれば逃げきれるぞ。おれらの勝ちだ」
泰造は髯面をほころばせた。
傍にきて話を聞いていた圭介は、思わず
「やったー」
と、万歳しかかったが、犠牲者のことを思って上げかけた両手を下げた。
「―― だといいが、そう願いたいね、もう」
高木は、振り返って登ってきた斜面を不安げにながめた。眼下の密林の中を赤い悪魔たちが、追ってくる。そんな不安を拭えなかった。
「いまさら悲しんでもはじまらん。とにかくのぼりきるぞ」
泰造は、威勢よく叫んで上る速度を速めた。そして無理に楽しそうに話しかけた。
「なあタカ。ここ尾瀬を思い出さないか。大清水からのぼった」
「そういえばそうだな、あそこに似ているな」
「ハイキングに行ったんですか」圭介は、聞いた。
「合宿だよ。きつかったな」
「でも、楽しかった」
「こんなときに学生時代を思い出すなんて、のんきですね」
はるかな尾瀬 野の小道 ~
突然、高木が歌いだした。
「へんですよ。こんなところでそんな歌、よく歌えますね」
圭介には理解できなかった。
着いた早々に副長の中島教一郎を失い、つぎに弓の達人一ノ瀬を、そして、ドクター柳沢を。三者三様の最期。ゲリラ戦に巻き込まれての死、戦いを挑んでの死、そして空から連射されての死。日本にいたら到底、信じられない、考えられない死に方である。密林ガイドはあまりにも危険な旅だった。すべてが想像を超えた出来事の連続だった。悲惨すぎて現実として受け止めたくなかった。だが、まだ終わったわけではない。いま現在も続行しているのだ。とても平常心ではいられない。それなのに高木は、まるで何事もなかったような顔で鼻歌を歌っている。圭介がだまりこんだので高木はハミングを止めて、しっかりした口調で言った。
「へんなもんか、まだ終わっていないんだ。おれたちの約束、キンチョウは、まだ終わってはいない。不幸な予想外はあったがメソメソしてはいられん。最後までやり遂げんとな」
「はあ・・・」
圭介は頷いた。なんとなくわかるような気がした。
ヤマ族からみれば、アジケン隊は、サムライの約束キンチョウを果たしにきた立派な現代のサムライたち。必ずやヤマ族をタイの国境まで案内してくれる。それを信じている。それを思うと犠牲を嘆き悲しんではいられない。圭介は、陽気なふりして口ずさんだ。
水芭蕉の花が 咲いている 夢みて咲いている ~
なぜかわからないが涙がでてきた。ひどく日本が懐かしく思えた。圭介は、汗を拭くふりして目蓋をぬぐうと、ちらっと高木を見た。高木の頬を、涙が滝のように流れていた。高木は、拭いもせずに歌いつづけていた。のんきに歌なんかと思ったが、仲間を失って何十倍も悲しいのは彼なのだ。圭介は、自分の幼さを恥じた。
高木は、エリート商社マンということで、何か冷たい印象があった。はじめてあったときのことを思い出した。いきなりわき腹に蹴りを入れられた。そのときの痛みと、「そんな約束など守れるか」の怒鳴り声がよみがえった。いつも冷静に分析する自信家のようで親しみをもてなかった。が、いまはじめて目にする人間的な側面に思わず胸が詰まった。みんないい人だ。勇気ある立派な男たちだ。亡くなった三人のことが頭に浮かんだ。何か事務的な感じがした中島助教授、気難しそうな一ノ瀬。ただ好色だけにみえた柳沢医師。だが三人ともすばらしい青年だった。彼らはキンチョウを守るためだけにきた。日本にいたら絶対わからなかったに違いない。それだけに、彼らの死は悲しく残念だった。生きていて欲しかった。彼らと行動を共にできたことを誇りに思えた。
2
苔むした岩の山肌を雨水が滝となって流れていた。林を抜けると、斜面は、いっそう急勾配になった。潅木が繁る天然の岸壁だった。が、上るにつれ、それは、石を積み重ねた石垣となった。切り立った岩は天然の城壁となっていた。山の上にある遺跡は、当時、難攻不落な寺院だったに違いない。城壁の上から人工か自然か長い滝が音をたてて渓流に落ちていた。二十㍍はある。水しぶきと霧で、辺りは霞んでいた。
十年前もそうだったが、岸壁のぼりは、大変の一言に尽きた。それでも半日近くを費やして七十人全員がようやくにして上りきった。泰造と高木は、十年前に往復したので、それほど驚かなかったが、ヤマ族は、誰もが驚いた。なにしろ、山の上にあった遺跡は、規模から言えば小さな遺跡だが、シェムリェップにあるアンコールトムに似ていた。いくつもの回廊に大小の寺院。おまけにトンレサップ湖のような、池まであるのだ。かつては大勢の人々でにぎわい、繁栄を極めていたに違いない。だが、いまは、自然の猛威に破壊されつくされていた。何十トンもの巨石が大樹の根に持ち上げられ、長い石の階段は大地震のあとのように傾き無残に途切れていた。
「この空中遺跡も、やがては密林にのまれていく運命か」
泰造は、感無量の体でひとりごちた。
「カオ・プレアという寺院だったらしい」
高木は、ソクヘンに聞いた。
「そうだな」
「はい、プノンペン大学の図書館でみたような気がします。まぼろしの遺跡として」
「おーすげえ。ここ歴史的遺跡ってわけ」
圭介は、興奮して叫んだ。歴史書のなかでしかない遺跡。そこに自分はいる。圭介は、残り少ないフイルムのことも忘れてシャツターを押しまくった。
「驚いたな、十年前と、そう変っちゃあいない」
高木は、かって知ったる家のように、つるで覆われた石の階段を上って行った。長いヘビがあわてて逃げていった。
泰造と高木は、ここに来るのはこれで三回目となる。タイから入ったときと、ふたたびタイに戻って行った帰路のときだ。
「いや、木がのびた。もっと見晴らしがよかった」
「そうだな。まっすぐだったな」
二人は、大木に押し倒されそうになっているなつかしそうに石柱を仰いだ。遺跡の前の大きな池は雨季の豪雨によって水があふれ、水路はあるのに、低くなっているところから滝のように流れ落ちていた。のぼってくるとき、渓流から溢れた水が山道を小川のようにしていた。ここがその原泉のようだった。この池とも沼ともつかぬ大きな水溜りは、その昔、遺跡の住人が水遊びのために作った大きなため池のようにも思えた。それとも神なる湖トンレサップを、この山頂に再現しようとしたのか。
しかし、登山もどきの行軍にヤマ族の男も女もへたりこんで休んでいた。山岳民族とはいえ、山歩きになれていない彼らは、もう限界に近かった。誰も彼もが疲れきった表情だった。子どもたちはぐったりして黙り込んでいた。赤ん坊は泣く気力さえ失せていた。
「まずいな」
泰造は、一行を見渡してつぶやいた。
「やつらか」
「そうだ、もう知ってるだろ」
「うん、たぶん … 」
高木は、あいまいに頷いたが、すぐ確信ある顔で言った。
「いや、そうだろう。連中だ。さっき確認したよ」
泰造と高木は、のぼりの途中、何度か双眼鏡で、遠くの密林をながめた。何か動くものがあった。赤い悪魔のようだ。アメリカ軍機の攻撃で、痛手を負っても執念深く追跡してきたのだ。もしかして中止したのでは、そんな一縷の望みがあっただけに、彼らのしつこさに鳥肌がたった。
このまま国境まで、あらわれないでくれ、そう祈ってきた。しかし、その祈りも、雲が割れ一時的に日差しが射した瞬間、ふきとんだ。はるか向こうの密林のなかにキラリと光るものを見た。つづいて黒く動くものも。もはや疑う余地はなかった。
赤い悪魔たちは、ふたたび追跡を開始したのだ。落胆と恐怖で背筋が、一瞬凍りついた。そして、お互い顔を見合わせた。が、言葉はかわさなかった。ヤマ族の一行に知らせなかった。なまじ知らせば、かえって混乱を引き起こすだけ。国境が近い。いまは、このまま進んでいってほしかった。
「あそこから、ここまでどのくらいでだろうか」
「奴らの足なら・・・夕方には …」
「じゃあ、いくら進んでも国境の手前で追いつかれてしまうか」
「そうだな・・・」
泰造は、消え入りそうな声で言った。日本の山と密林では比較にはならないが、ダムつくりで山を歩き回った泰造の勘は、赤い悪魔がここに着くのは、早くても半日はかかるとみた。その間、いくら早く進んでも、国境まではいかない。追いつかれて皆殺しにされる。こんどは斥候の単発攻撃ではなく、全部隊で総攻撃してくるはず。連中にも時間がないのだ。
「―― と、すると」
高木は、わざと冗談ぽく言った。「もはや、これまでか」
国境は目の前なのに。高木は、絶望を通り越して笑うしかなかった。
「いや、明るいうちは襲ってこないだろう」
「どうしてだ」
「向こうだって、これまでかなり犠牲を払っているし、こちらに銃や矢があることを知っている。用心深くなってる。わざわざ的になるようなことはせんよ」
「それもそうだな」
高木は、頷いて言った。
「じゃあ、今晩か」
「そうだ、夜になってゲリラ全員が一気によじ登ってくる。そんな気がするな。おれならそうする。奴らだって、もうこのへんでかたをつけたいはずだ。そう思わんか」
「たしかに」
高木は、つぶやいて聞いた。
「それなら、どうする」
「こっちも、ここを最後の決戦の場とするしかない。国境は目の前だが、ここで食い止めるしかないだろう。戦うにはいい場所だ」
そう言って泰造は、再び雨がふりはじめた遺跡を感慨深げにながめた。
泰造の頭の中を、中島教一郎や、一ノ瀬幸基、ドクター柳沢のことが思いめぐった。こんなに犠牲を払うとは考えてもみなかった。が、まだ終わりではない。アジケン隊は、負けたわけではない。ここを最後の戦の場として、彼らの仇を討つのだ。隊長としての責任を果たすために。
「しかし、どうやって戦うのだ」
高木は、眉をひそめて聞いた。
「武器は、奪ったカラシニコフ銃が五丁ある。しかし、弾はわずかだ。撃ち尽くせば終わり、あとは弓と山刀。これで、どうやって戦うのだ。まさか戦国時代のように石を落としてなんて原始的作戦じゃないだろうな」
「いや、そうだ。そのまさかだ。山には自然の武器がいっぱいある」
「冗談いうなよ。石と鉄砲じゃ相手にならん」
「ソクヘンが、なぜ雨季にこだわったか、そのことを思い出してみろ。それに、これまでの、ヤマ族の戦い方を聞いたろ」
「山の水か」
「そうだ。彼らは鉄砲水や土石流を起こして生きのびてきたのだ。ゲリラも退散させていた。赤い悪魔はそれを恐れて雨季の攻撃を敬遠していたのだ。自然の力はすごいぜ。銃なんて目じゃない。この地形を見ろ、棚田式に水たまりをつくれそうじやないか」
そう言って泰造は、まだ尾根につづくゆるやかな斜面を指した。数年前、北アルプスにダム建設下見に訪れたときのことを思い出していた。あのときは、いかにして雪崩や土石流を防ぐかだったが、いまは、その反対を考えればいい。
「そうか、鉄砲水か」
「いいか、この遺跡の上にも傾斜がつづいている。上にいくつかため池をつくってこの雨水を溜めるんだ。一番上を決壊させるだけでいい。あとは雪だるま式に、鉄砲水が鉄砲水を呼んで雪崩落ちていく。そしたら、この池の堤なんて、あっという間に崩壊だ。下はナイヤガラだ。ここにくるには、あの崖しかない。やつらは一網打尽に土石流にのまれ谷底に」
「そんなにうまくゆくか」
「ゆかせるさ」
「しかし、やつら全員、上ってくるだろうか」
「うん、全滅させるには、総攻撃をさせないと、な」
泰造は、腕組みをして考える。体験から作戦は思いついたが、策略は苦手だった。「総攻撃か」とため息ついて猪首を傾げる。
「飛んで火にいる夏の虫作戦がいい」
高木は、即、返答した。謀略、姦計は、商社マンの常だ。
「なんだ、それ? 」
「ここで、キャンプ張るんだ。にぎやかにして。やつらは虫さ。我々が油断してるとみて全員で忍びあがってくる」
「バカな、戦うのか。勝てるはずがない」
「そうじゃない、キャンプを張って休んでいるふうをみせるのさ」
高木は、言った。
「つまりおびき寄せるんだ」
「へんだと思われないか。これまでは隠れるようにして逃げてきたんだ。それなのに、ここにきて急に、大っぴらに、にぎやかにしたら」
「そこさ、やつらは、こちらのこと、、ヤマ族のことを、きっとこう考えるはず。アメリカ戦闘機の銃撃で、ゲリラは、全滅した。そうでなくても相当な被害をうけて追撃をあきらめた。もう急ぐことはない。国境は目の前だし、城壁のような崖を登ったあとだ。今夜は、ここでゆっくり休んで明日、明るくなってから国境を目指そう。そう考えて、ここに最後のキャンプをはることにする。実際、ヤマ族の連中は、いまそう思って坐り込んでいる」
「と、すると、出発させるのか」
「そうだ、本隊をいますぐ国境に向かって進ませる。夜を徹して歩くのた。さっき遠くに、幾すじの煙をみた。もしかしたら、国境の町、アランヤプラテートかも知れん。何人か残ったものは、ここでキャンプするふりをして鉄砲水づくりだ。にぎやかにして」
「おとり作戦か。戦国時代の軍師のようだな」
泰造は、感心したようにつぶやいたあと、すぐに心配顔になって聞いた。「しかし、やつらが騙されなかったら、どうするんだ」
「策略にはリスクがある。やつらが、われわれを皆殺しにしょうと全員で総力をあげて襲ってくる。そっちにかけるしかない。それに、もし、不審に思って攻撃を用心したとしても、その分、時間は過ぎる。本隊が国境に到達できる方に賭けたいね」
「どちらに転んでも負けはない、か」
泰造は、雨が強く降り出した空を見上げうれしそうに言った。
「この雨だ、作戦名はナイアガラ作戦に決定だ」
「滝、見にいったことあるんですか」
「いや、ない。勇壮ときいた」
「ぼくは見に行きましたよ。アメリカにいるときに。ほんと勇壮そのものだった」
高木はうれしそうに言った。
「なにか勝てる気がしてきた」
「だといいが」
泰造は、ちらっと弱音を吐いた。ダム建設工事のことなら、たいていのことはわかっている。変わりやすい山の天気だけに、建設工事の妨げになる鉄砲水についても、知識はある。雪解けや梅雨の時期は、そのことで精神と体力をすり減らす。しかし、そうした苦労は、鉄砲水をあくまでもいかに早く、起きる前に発見するか、被害を最小限にするかであった。だが、この作戦は正反対なものだ。いかにしてちいさな鉄砲水を大きなものにして、最後にミニトンレサップ湖を決壊させ、大土石流を起こして、よじ登ってくる赤い悪魔を全滅させようというもの。はじめてのことだけに自信はなかった。が、なぜか胸がわくわくする思いだった。人間は、多くの人の命を奪うことに興奮するようだ。
「鉄砲水の威力は、どれほどか」
「まあ、心配いらんだろう。これだけ降るんだ」
泰造は、満々と水をたたえるミニトンレサップに目をやってからふたたび空を仰いだ。雨が、またはげしく降り出した。
「どうする」
「ソクヘンを、呼んでくれ」
「OK」高木は、座り込んでいるヤマ族の人たちを見回した。
ソクヘンは、石柱の下で圭介と休んでいた。高木と顔が会うと、頷いて、雨の中を走ってきた。
「なんでしょう」
「ボトに皆を連れて出発しろ、と伝えろ。いますぐ」
泰造は、言ったあと告げる。
「それから十人くらいの男たちに残ってもらいたい。水溜めをつくるのに人数がいる」
「わかりました」
ソクヘンは、大きく頷いて走り去った。プノンペン大学では首席だったこともあるというだけに理解は早かった。彼はボトに告げ、ボトは家長たちに告げた。
「なぜ」
「赤い悪魔は、あきらめたんじゃあないのか」
皆、不審がった。てっきり今夜は、この遺跡でゆっくり休めると思っていたので不満そうだった。が、
「やつらは、まだ生きているんだ」
新しく長老となったボトの言葉に、急いで立ち上がった。やつらがヘビのように執念深いのは、身をもって知っている。
「赤い悪魔たちを、この水でやっつけてから、追いつく、それまでには国境を越えているようにしてくれ」
泰造は、ソクヘンに言った。ソクヘンは、先発隊と一緒に行く男たちに告げた。それから泰造は圭介をみると、大声で怒鳴った。
「ケイスケ、お前は、子供や女たちと一緒に行くんだ!」
「えっ、ぼくにも手伝わせてくださいよ」
圭介は、驚いて口をとがらせた。
「子どもたちの面倒みろ」
「なんだ、幼稚園の先生じゃあるまいし」
「とにかく国境まで行け、山を降りれば道がある」
「その道までですね。わかりました」圭介は、渋り顔でうなずいた。
「早く行け、暗くなるぞ!」
泰造は、委細構わず、追いたてた。
一行は、疲れ切った体に鞭打ってふたたび出発した。
「道にでたら、また戻ってきますからね」
圭介は、振り向いて叫んだ。が、誰も聞いていなかった。一行が雨に煙る密林に消えると泰造、高木、ソクヘン、それに十人のヤマ族の男たちは、堰きをつくる準備にかかった。
まず、森から朽木を引き出し火を焚いた。濡れた木は、黒い煙を立ちのぼらせた。遠くからみれば、大勢の人間が休んでいる。そんなように見えるかも知れない。男たちは、山頂から、つる草や朽木で棚田をつくりはじめた。手馴れたもので、つぎつぎと水たまりができた。下にいくにしたがって貯水量が多い池をつくった。草木の束で水路をふさげば、もう立派な武器となる。途中の巨石を抱えた大木には、幹に三分の一ノコギリをいれた。この大木が巨石を抱えたまま、倒れこめば、強固な寺院は、粉々に破壊され、強力な土石流となって真下の人口池ミニトンレサップ湖になだれ込む。そのエネルギーは、小湖を決壊させる。鉄砲水は、土石流に、土石流は、巨大な地滑りをおこして城壁のような崖下になだれ落ちていく。泰造と高木が描いたナイヤガラ作戦だった。
最後に、大木の朽木とつる草の束を堤防の上に積み上げた。あふれる水を止められたミニトンレサップ湖の水面は、遺跡の方にひろがって大きな池となっていった。ふたたび激しい雨が、水量をいっそう多くさせた。低い遺跡がとんどん沈んでいった。人口池はたちまちに大きな沼と化した。排水口から、いきおいよく水流が崖から宙に飛び出ていた。
「むい、ピー、ばい、ブーン、プラン、プランムイ」
泰造は、覚えたクマイ語で、斜面にできた棚田を数えながら雨降る空を見上げた。重く垂れ下がった暗雲が昼と夜の境をなくしていた。あたりはしだいに闇を濃くしていったが、それが夜のとばりかどうかも判然としなかった。
「まずいな」泰造は、舌打ちした。
これ以上、降ると棚田の堰は、もちこたえられない。そんな不安がでてきた。それは、誰の目にもわかった。皆は、作業を止め、座り込んで、恨めしげに空を見上げた。
「やんでくれ」
高木も、ソクヘンも手を合わすしかなかった。
祈りが通じたのか、時が経つと雨は、すこしづつ小降りになっていった。
3
夕暮れの遺跡を静寂が押し包んでいた。しじまの中に堤防の樹木が水の圧力できしむ音だけが不気味に響いた。高木は、夕闇漂う密林から、人影が出てきたのを見た。遺跡をのぼってこちらに近づいてくる。人間だ。咄嗟に高木は、銃をかまえて誰何した。「だれだ」
「ぼ、ぼくです」
圭介の声がして近づいてきた。カメラを持った圭介だった。
「なんだ、ケイスケ、なにかあったのか !? 」
高木は、怪訝そうに聞いた。
「いえ、順調です。迷ってません」
「なんで、戻ってきた」
「山道に出たんです」
圭介は、恐る恐る言った。
「それで向こうにいても、用事がないんで、やっぱりこっちを手伝おうと思って」
「バカヤロー、選んでるときか」
いきなり高木は、怒鳴った。「帰れんかもしれんぞ !」
「えっ!?それってここで死ぬってことですか」
圭介は、気色ばんで言った。
「それならぼくだけ、とり残されるのいやですよ」
「そういうことじゃないだろ、そういうことじゃあ」
「高木、もういい」
遠くから泰造の声がした。
「もう夜だ。戻れともいえんだろ。水ためるのに人手があった方がいい。それににぎやかにみせるのにも」
「ぼうや、よかったな」
高木は、笑い声を残して、上の遺跡に飛び移っていった。夜のとばりが完全に彼の姿を消し去っていた。
「ぼうやと呼ぶの、やめてください」
圭介は、闇に向かって怒鳴った。
「OK、OK。じゃあ沢田カメラマン」
「からかわないでください」
「悪い悪い、そこの石の上に寝転んでみろよ。星が出ているぞ」
「星が・・・」
圭介は、苔むした巨石の上に立って空を仰いだ。雨は、すっかりあがっていて、暗雲のひび割れから、星屑が見えていた。
「へーえ、星か、明るいんですね」
「雨のあとの星は、きれいです」
向こうからソクヘンの声がした。一緒にいるヤマ族の若者たちの忍び笑いが聞こえた。
しかし、星の光りは、地上には、まだ届いていなかった。焚火はくすぶって、夜のとばりにのまれてれていた。あたりは、墨を流したように暗かった。声が途絶えると、深い沈黙が押し包んだ。誰もいない、そんな錯覚を覚えた。
「静かですね」
圭介は、確かめるように声を発した。
「そうだな」
高木の声が返ってきた。
「平和ですね」
圭介は、言った。
「もしかして、もう来ないのでは」
「そうならいいが」
すぐ下で泰造が怒鳴った。
「おーい、声をだせ、にぎやかにしろよ」
待ちぼうけ、待ちぼうけ ~
高木は、突然ふざけ声でうたいだした。
ある日、せっせと野良かせぎ ~
「よし、おれもうたうぞ」
泰造は、言っていきなり吟じはじめた。
春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして ~
千代の松が枝わけいでし ~
昔の光いまいずこ ~
バリトン声の歌声は、遺跡の巨石の上をゆったりと流れていった。泰造の歌がやむと再び静寂と漆黒の闇が辺りを包んだ。
「なんの歌ですか、これ」
不意にソクヘンが聞いた。
「荒れた古いお城と月の歌だ」
「ここに似合いますね」
ソクヘンは笑って言った。
「そうだな、この遺跡にぴったりだ」
「いつのまにか月もでています」
見上げると、いつのまにか雲が切れたらしい。はるか天空のなかに月がこうこうと輝いていた。しかし、光は、まだ地上まで届かなかった。周囲は相変わらず墨を流したような闇だった。
「ケンジさん、星影のワルツを歌ってくださいよ」
ソクヘンは、催促した。
「プノンペンに帰ったら、歌うんです。それまでに覚えなくては」
「アジアで、スキヤキソングよりヒットしているんだって。よし歌うか」
こんどは高木が、巨石の上に立つと星空を仰いで歌いだした。
別れることは つらいけど ~
しかたがないんだ 君のため ~
別れに 星影のワルツを踊ろ ~
何千キロとはなれた日本の歌謡曲が、なぜか夜の密林によく似合った
不意に高木の目に熱いものがあふれてきた。あの夜、亜希子と行ったクラブを思い出した。
「どうしても行かなきゃならない用事って、何 ? どんな約束 ?」
彼女は、踊っているあいだも何度もたずねた。
唐突にプライベートでインドシナに行くことになった。何の説明もなしに彼女に納得してもらうのは不可能だった。しかし、まさか学生のときヤマ族と交わした約束、キンチョウを果たすために行くとも言えず。ただ、のっぴきならぬ理由で、有休をとった。そう告げただけだった。まったく馬鹿げた非現実的なことかも知れない。十年前の約束のために会社の仕事を放り投げて行く。エコノミックアニマルの代名詞のような企業戦士の自分が、十日間といえ、ここにいる。そのことを高木は自分でさえ、信じられなかった。赤坂の料亭と本社ビルを駆けずりまわっていたことが別世界の出来事のように思えた。
彼女には、理解を超えた行動に違いなかった。明日はタイ国境にでられそうだ。真っ先に電話して、日本で結婚しょうと言うつもりだ。ニューヨークに行ってからと思っていたが、心配かけたお詫びのサプライズ。そう決めた。それにしても契約はまとまったとはいえ、十日間の空白は大きい。帰国したらお詫び行脚しなければ。そんなことが律儀に頭に浮かんだ。が、実感がなかった。
一銭にもならない十年前の約束を果たすためにインドシナの密林にきて悪戦苦闘している。仲間まで失って。こんな話、会社にも同僚にも話せない。正直に話したら亜希子は、どう思うだろう。呆れるだろうか。いや、そんな女じゃない。
「いいわ、なにも聞かない。でもきっと帰ってきてね」
微笑んで手を振っていた彼女の微笑が思い出された。キンチョウを果たすことを喜んでくれるはず。そう思うと。涙があふれてきた。
冷たい心じゃないんだよ ~
ソクヘンもへたくそな日本語で歌いだした
冷たい心じゃないんだよ ~
いまでも 好きだ ~
不意にソクヘンが黙った。下方で、何かが転げ落ちるような音が聞こえたのだ。圭介は、身を乗り出して下方をのぞき見た。さきほどまで暗黒だった下界は、星々と月の光に濡れた葉々が照らされ密林はまるで穏やかな大海原のように見えた。自然か織り成す壮大かつ厳粛な風景だった。このビロードを敷き広げたような密林のなかにいく千もの生き物が眠っている。蠢いている。
だが、見渡す、彼方の地平までの世界には、生命あるものはいない。ここは自分ひとりの世界。この神秘的な思い、何かの本で読んだ気がした。
圭介は、高校生のときに読んだサン・テグジュベリの『夜間飛行』を思い出し、ああ、あれだとおもった。嵐の恐怖に負けて雲の上に出てしまった飛行士が眼にした光景。そこは輝くばかりの星空と果てしない雲海、そして静寂が支配する死の世界だった。あの作家と、同じ体験をしているのかも、それを思うとうれしい気持になった。
圭介は、現実を確かめるように足元を見下ろした。何も見えなかった。谷間の底は墨を流したように真っ暗闇だった。静寂のなかに水の圧力をうけて堰が苦しげにうめく、木々のしなりが不気味に聞こえていた。下方の死の世界のような闇のなかからは、幾千もの生き物のうごめきが感じられた。じわじわと登ってくる。獣たちの足音。
圭介は、思わず小いさく叫んだ。
「きた!」
戦慄が体を走った。
死ぬほどに ~
高木は歌うのをやめて、漆黒の下方に目を凝らした。
「おい、やめるな歌を、つづけろ」暗闇から泰造が、押し殺した声で叫んだ。
「OK」
冷たい心じゃないんだよ ~
冷たい心じゃないんだよ ~
二人は、再び声をそろえて歌いはじめた。
「いいぞ、いいぞ」
冷たい心じゃないんだよ ~
泰造は、口の中で歌いながら、ダイナマイトを入れた竹筒の埋め場所に目をやった。ダイナマイトは船を下りるとき、リーセン商会の若者が、「ボスから預かったものです。希望なら」と渡してくれたものだ。あのときはお守りのつもりで受け取った。まさか、こんなふうに必要になるとは思ってもみなかった。もしかして、リーセンは、こうなる場面を想定していたのかも知れない。鉄砲水を起こすには、爆破ほど手っ取り早いことはない。枝束を積み上げた一番上の棚田の堰を切れば、あとは単純だ。鉄砲水は、下の水溜りを壊すごとに、巨石をも転がす巨大なエネルギーを得て下方に突撃していくのだ。ダイナマイトは、最後の池、ミニトンレサップの堤防の要になっている巨大な石柱の下に仕掛けた。棚田の鉄砲水の威力をより強力にするためだった。巨大な石柱が破壊されれば、、このナイヤガラ作戦は完璧。成功間違いなし。ダイナマイトは、ミニトンレサップ湖を決壊させるには充分すぎた。しかし、気になることがあった。導火線が短いのだ。
点火してから三分。時間的には十分に余裕がある。しかし、三分の間隔は、はじめてだった。使うか、使わないか、迷った。が、後悔したくなかった。決壊の失敗を考えると、大きな作戦には危険はつきものを選択した。爆破はダム建設で経験している。大丈夫だ、大丈夫。泰造は、なんども自分に言い聞かせた。
いまでも好きさ、死ぬほどに ~
高木は、歌いながら小声で言った。
「ケイスケ、鉄砲水の道は予測がつかん。こっちに来るかもしれん。そこに回廊がある。そこなら安全かも」
「はい」
圭介は頷くと、歌いながら手探りで歩き出した。
遺跡の端にある回廊は、巨大な一枚石でつくられていた。遺跡のほとんどは崩壊していたが、その回廊だけは、風雨や樹木にも耐えて、栄華の名残りをみせていた。
別れに 星影のワルツを踊ろ ~
圭介は、倒れた石柱づたいにゆっくりと歩いていって、回廊の中にとびこんだ。右側の巨大な石壁は、相当な土石流でも、跳ね返しそうだった。ここなら安全に思えた。下方の闇のなかから小石が落ちる音が、はっきりと聞こえてくる。一人や二人ではない。大勢の生き物が這い上ってくる物音がする。その気配がわかった。せき止められたミニトンレサップの水面は、異常にふくれあがり、限界にきていた。いまにもはちきれそうだった。
「いいぞ、いいぞ あともうちょっとだ。崩れんでくれ」
泰造は、片手で、祈るながら皆に聞こえる声で言った。
「まだ、知らんふりしろ。明りは照らすな」
一番上の棚田では、ヤマ族の五人の若者が、朽木に結んだ蔓をにぎりしめた。一気に引けば、最初の鉄砲水が、下の棚田を襲う。が、巨木の力を借りることなく水は、限界点にきていた。水は、三段に積み上げられた枝束を乗り越えて滴り落ち始めていた。またしても下方でいくつもの石が転げ落ちていく音がした。もう、間違いなかった。大勢の生き物が崖をじわりじわり登ってくるのだ。
別れに星影の ~
高木は、口ずさみながら銃を構えた。岩場に何十人という赤い悪魔のゲリラがへばりついて、這い上がってくるのがわかった。
ワルツを 踊ろ ~
「まだか」高木は、小声で聞いた。
「もう、ちょっとだ」
闇の中で泰造の押し殺した声がした。
あんなに 愛した君なのに ~
高木は、再びうたいだした。が、もうなにを歌っているのかも分からなかった。神経を集中させて声だけを張りあげた。
あんなに 愛した君なのに ~
いきなり緊張に耐えられなくなった若者が、ソクヘンから懐中電灯を奪って下方を照らした。光りのなかに大勢のゲリラが、岩壁にへばりついて上ってくるのが見えた。まるでトカゲの大群のように。恐怖に怯えた若者は、突然、銃を乱射しはじめた。ゲリラたちは、岩場に隠れ明りめがけ一斉に応戦しはじめた。
「バカ !ライト消せ」
高木は、怒鳴った。が、その声も虚しく、懐中電灯を持った若者は、明りと共に谷底深く転げ落ちていった。
「戦闘開始だ」
高木は、叫んで巨石の上を走りながら下方に向かってカラシニコフを連射した。
「おい、堰を切れ」
泰造は、上に向かって怒鳴ると、導火線に火をつけようとした。焦っているせいかライターがなかなかつかない。「くそ」泰造は、投げ捨ててマッチを出した。油紙で包んであるのでなかなかでない。ほんの十数秒だったが、ゆとりを失った。慌てる気持ちがマッチを落とした。
「くそ!」
泰造は、怒鳴って拾い上げたが、マッチは水に濡れてしまった。不運が重なって事態は悪化した。ようやく導火線に火がついたときは、頭上に鉄砲水が迫っていた。泰造は、急いでて安全地帯に逃れようとした。が、ここでも足をすべらせた。
ほとんど同時、下方から打ち上げられた照明弾が、遺跡の真上で、炸裂した。遺跡の上に銃を構えた高木の姿がくっきり映し出された。とたん、下方の三方から銃弾が火花のごとく雨あられとなって降り注いだ。
「やられた」
高木は、一声、叫んで、銃を乱射しながら深い闇の中に転落していった。
「タカキ!」
ソクヘンが絶叫した。
「やられたか」
泰造は、起き上がって聞いた。すぐ上に鉄砲水が迫っていた。
「タイチョウサン、タカキさんが」
ソクヘンが、こちらに駆けてくる。
「バカ、くるんじゃない」
泰造は必死の形相で叫んだ。次の瞬間、大音響とともにダイナマイトは爆発した。とたん、巨大な石柱は四方に割れ散った。その池に棚田からいきおいをつけた鉄砲水が水柱をあげてなだれこんだ。ぐっとタイミングだった。ミニトンレサップの堤防は、とたん、ゆっくり崩壊した。ミニトンレサップは、鉄砲水の力を得て巨大な滝となって一気に岩壁の外に飛び出していった。。予想をはるかに超えた破戒力だった。決壊したミニトンレサップの水面は、ゆっくりとうごきだした。その動きに引きずられるように山肌は、地響きをたてて地滑りを起こしはじめた。恐ろしい光景だった。人間がいたずらに自然をいじったらどうなるのか。神の怒りを思わせた。
山全体が、天地創造のときのように動きはじめたのだ。空には雷雨がとどろいた。その壮大さ雄大さは、圧巻だった。草木をなぎ倒し、巨大な遺跡を小石のように転がしていく。鉄砲水や土石流をはるかに凌いでいた。遺跡は、むろん赤い悪魔たちが蟻のようによじ登ってくる岩壁も怒涛となってのみこんでいった。
半時後、すべての動きが止まったとき山は、深い静寂につつまれていた。が、遺跡の面影は、もはやなかった。破戒つくされ荒涼とした風景があるだけ。滅びのなかの滅びの土地。骸となった遺跡の上にただ煌々と雲間の月光が照らすばかりだった。
巨石のうえに人影が二つ。圭介とソクヘンだった。二人は巨石のかげで奇跡的に鉄砲水から逃れることができた。
「おい、だれだ」
泰造の声だ。
「たいちょうさん」
「ソクヘンか」
「ぼくもいます」
「圭介か。みんな無事か」
「たかぎさんが」
圭介は泣き崩れた。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。密林は静まり返っていた。いつのまに急速に雲が引いて、漆黒の大空に、大きな丸い月が浮かんで、こうこうと静寂の密林を照らしていた。
ふと地響きにも似た大きなもの音を聞いた。ユンは、思わず目を覚ました。いつのまに眠ってしまったようだ。傍らのニホンもぐっすり寝入っている。みんなも死んだようになって眠りこけていた。ユンは見回した。闇があるだけだった。はるか頭上の繁みのあいだに、星がまたたいている。一行は密林の大樹の下で夜を明かしていた。うつらうつらしているうちに雨はやんだようだ。葉から落ちる雨音があちこちから聞こえていた。すぐ近くで誰かが起きる気配がした。
「どうしたんだい」母親のキナの声だった。
「なにか、音がしたの」
「えっ ! 奴らがきたのかい」
キナは、あわてて起きようとした。
「しー、違うの、山の音よ」
「山の音 ?」
「うん、山崩れのような、あんな音」
「そうかい」
キナは、つぶやいて耳を澄ませた。
だが、漂うのはトンレサップの湖底を思わせる静寂だけ。密林の闇は、静まりかえっていた。
「何も聞こえないよ」
キナは、あくび声でつぶやいた。
「どこかで、溜まった雨水が、一時に流れだしたんだろ、よく降ったからね」
「明日も歩くんだろ、やれやれだ」と、愚痴ってふたたび眠りに入った。老婆の足は、もう限界かも知れなかった。
ユンは、眠られなかった。あのカオ・プレアの遺跡に残った男たちのことが頭に浮かんだ。もし、赤い悪魔たちに負けたら、こんなに静かなはずはない。今頃は、追いつかれて皆殺しにされている。
では、何だろう・・・。悪いことは考えないことにした。きっと、追い帰した。悪魔たちがあきらめたのを見届けて、明るくなってから出発してくる。後ろを確かめながら来るだろうから、私たちに追いつくのは、昼近くなるかも知れない。そのころは、タイの国境を越えているかも。きっと、そうだ。ソクヘンをはじめ十人のヤマ族の若者たちとニホンの父親の友人たちの笑顔を早くみたかった。彼らが無事でいることを祈った。彼女は、いまだ、日本人が何のために、来たのか完全に理解できていなかった。ハルユキがきたのはわかる。ニホンに会いにきたのだ。
しかし、あとの四人は何のために・・・。十年前に来たから、なつかしくてきたのかも知れない。が、自分と歳が近そうな若者のことはわからなかった。写真なら、プノンペンかアンコールワットを撮ればよい。いくらソクヘンと気があったからといっても、なにもこんな山奥にくるなんて。ヤマ族としては、ありがたかく心強いが、ユンにはなんとも不思議だった。長老となったボトの話では、すべては、キンチョウしたからだという。
キンチョウとは何か。命さえも賭けた神との契約なのか。ハルユキは、ニホンが生まれたことも知らなかった。十年間一度も会ったこともなかった。それなのに娘を守るために死んだ。キンチョウとは、もしかしたら、そんな親と子の切っても切れない絆のようなものかもしれない。一度結んだら、未来永劫切ることはできないものかも。そんなことを思い巡らせているうちに、睡魔が襲ってきた。ユンは、ふたたび気を失うように突然、眠りに入っていった。
第七章、虹の彼方に
雨期の終わりの空は気まぐれだ。朝、あんなに晴れわたっていたのに、長老のボトを先頭に一行が出発すると、空は一転、黒雲がおおって激しい雷雨となった。地上は昼も夜もわからぬほど暗かった。しかし、一行は休むことなく進んだ。獣道から人間の通る道にでてもう数時間。国境は、あとどれほとか。わからなかった。雨と闇が足跡を消し去ってくれる。降っているあいだに、夜が明けぬあいだに一歩でもタイ国境に近づくのだ。皆、疲れきっていたが、思いは一つだった。。乳飲み子は泣くのさえ忘れて、母親にしがみついていた。国境につづく広い山道にでたことで希望はひろがった。しんがりのビバットは、傷の痛みもあるが、不安もあった。何度も立ち止まって、後ろを振り返った。作戦が成功すれば、もう追いついてくるはず。しかし、誰の姿も見えなかった。密林は、相変わらず静まり返ったままだ。
遅い・・・ボトはむろん、男たちの胸に不吉な予感が黒雲のようにひろがっていた。だが、だれも口には出さなかった。たとえなにがあろうと進むのだ。それしかヤマ族の生きのびる道はない。昼を過ぎると雷雨はやみ、黒雲は四方に去っていった。一行は、峠道にさしかかっていた。二人のサムライとソクヘンが追いついた。ソクヘンはボトに代わって皆を引き連れた。
「おーい、ここで、休むぞー」
峠を一番に上りきるとソクヘンは、振り返って告げた。疲れ切った声だったが、表情は明るかった。西方の展望が一気に開けて見えたのだ。眼下には緑のじゅうたんがひろがっている。が、その果てに町らしきものが見える。色とりどりの建物。強い西日を受けてキラキラと反射する光。
「あれは」
あちこちで声があがった。振り返って若い族長を見ている。
ソクヘンに自信はなかった。が、ここは族長らしく答えなければ。
「ポイペットの町だ。いや、アランヤプラテートかも」
「じゃあ国境は越えたのか」
「そうなら。もう赤い悪魔は追ってこない。あとは、このまま西に向かってすすむだけだ」
ソクヘンは力強く頷いた。ここまでくればサムライたちのガイドはいらない。これからは自分が部族を導いていくのだ。その自覚がふつふつとわきあがっていた。
「やった!」
とたん、皆は口々に叫んで喜んだ。万歳する人々のあいだで、子どもたちはとまどいながらも笑顔をみせた。そうして、思いっきり、飛び跳ね、はしゃぎだした。
「助かったんだね」
キナは、へたりこんだ。
「助かったの、わたしたち」
ユンは、息を切らしたまま振り返ってきいた。
「ほんとなの、もう逃げなくてもいいの」
ニホンが、走ってきてきいた。
「うん、そうだ」
ビバットはうなずいてから首を振って言った。
「いや、まだ、安心できない。皆が、追いつかないということは、まだ戦っている証拠だ。防いでくれているんだ」
「それじゃあ、早くすすまないと」
「そうだ、ケンもタイゾーも言っていた。なにがあってもはすすめと」
ビバットは、自分に言い聞かすように言った。カオ・プレアの遺跡に残った彼らが、いまだ追いつかないということは、まだ戦っている。そうとしか思えなかった。もし、赤い悪魔たちに負けていたら、もうとっくに奴らが追いついているはずだ。
「たとえ、追いつかなくても待つな、生きていれば必ず追いつく」
別れるときにソクヘンに通訳してもらった高木の言葉が耳に残っている。
「あと、どのくらい、あのシャムの町に」
ニホンがきいた。
「下の密林しだいだ。迷わなければ、きっと夕方までにはつける」
ソクヘンは力強く頷いた。そうして天を仰いだ。いまの自分の使命は、ここにいる皆を守ることだ。ヤマ族を平和の土地にまで案内するため、はるばるやってきたサムライたち。すでに三人も亡くなっている。ケンも死んだ。残ったのはタイゾーとケイスケの二人だけ。だって、いまはどうなっているかわからない。彼らは、ただ約束を、サムライのキンチョウを守るためだけにやってきたのだ。たとえ、状況はどうだろうと、彼らの無償の行為に報いることは、目的を達成すること。彼はかたく心に言い聞かせた。
「出発するぞ」
ソクヘンは、大声で言った。
「さあ、最後の行進だ。元気をだせ」
みなを励ますと先頭に立って歩きはじめた。子どもたちがワーと後を追った。そのあとを各家族たちがぞろぞろとつづいた。大人の男たちは、けが人や老人に手をかした。
わずか五十数人となった民は、一列となってふたたび進みはじめた。大きな岩の門をくぐりでたとき前の方で子どもたちの歓声があがった。
「静かに、静かに」
大人たちは心配するが、小さな歓声は収まらない。
「なんなの」
ユンは不安そうに言った。
「おかあさん、ほら、あそこ」
先にかけて見に行ったニホンが戻ってきて指差したまま手を引いて案内した。
「あそこに、あそこに」
展望のよい岩場で子どもも大人も立ち止まって、眺めていた。
「何でしょう」ユンは、子どもたちの後ろに立って見下ろした。眼下の密林の中から大きな七色の柱が、そそり出ていた。七色の柱は、雲のとれた青空の向こうに、みごとな放物線を描いて落ちていた。緑のじゅうたんの上にかかった大きな虹。自然が織り成す美しい光景だった。ヤマ族の一行は、虹に向かって元気に歩きはじめた。
その後、ヤマ族がどこに行ったか誰も知らない。タイ、ラオス国境の山岳地帯に日本人とよく似た顔立ちの部族が、幸せに暮らしている、という噂を聞くも定かではない。
エピローグ
一九九二年三月二十三日。米国国務省は、ある一つの協定事を発表した。二十二年前、インドシナ半島にあるカンボジア内戦で行方不明者の遺骨がカンボジア政府から米国に返還されるという内容だった。そのなかに三人の日本人も含まれていた。
だがしかし、あの日、激しい雷雨のなかカンボジアの密林で後のポルポト軍、赤い悪魔と勇敢に戦った六人の青年たちの名前はどこにもなかった。彼らのことを知っているのは、昼なお暗い密林の木々たちと静かに眠る遺跡、そして密林の奥に消えた山岳民族の民だけである。
一九九三年四月末。プノンペン。国連統治による総選挙前の市内は、喧騒としていた。各国の軍人、国連職員、民間ボランティアが忙しく走り回っていた。彼らを追う各国のマスコミ陣が市内のあちこちに出没していた。マスコミ陣のなかでは、とくに日本からきたマスコミ隊が、その賑やかさ騒々しさにおいてひときわ目立っていた。日本の軍隊、自衛隊と呼ぶそうだが、その後を追って大挙して押し寄せた彼らは、よほど物珍しいのか選挙そっちのけでプノンペン市内を撮りまくっていた。あきらかにバラエティ番組とみられるテレビチームが朝から市場の外にある青空市場を取材していた。
「魚,、肉、オレンジ、なんでもあります」
レポーター役の女性タレントは甲高い声をあげて露店のあいだを駆けずり回っていた。その後をカメラマン、プロデューサーら数人のスタッフか後を追う。台本通り彼女は骨董品売り場に来ると足を止め再び実況を開始した。
「アンコールワットの遺跡でしょうか。仏像の欠片らしきものも売っています。いや、遺跡は売買禁止されていますから、模造品でしょうね。それにしてもよくできています。ほらこの踊り子も兵士も」
彼女は声を張り上げながら、売り場の片隅に並べてあるものに目をやった。「あれは、」と手で示して、そのものを取ろうとしたとき、プロデューサーらしき男性が声をかけた。
「はい、終わりです、OK」
とたんカメラマンは撮影をやめた。女性タレントは、万歳して背筋をのばした。そのあと彼女は個人的興味からか、目に止まったものを指差して聞いた。
「そんなものも売り物なんですか」
通訳は「そうだ」とうなずいた。それは、すっかりさびついたカメラと腐敗したポケットノート。かすかに菊の紋章がわかる色あせ腐食したパスポート。通訳は説明した。
「日本人の持ち物のようです」
「日本人の?!」
「たぶん、落し物でしょう」通訳は苦笑して言った。
「かなり昔のようですが」
「なんでも売っちゃうのね」
彼女は、可笑しそうに笑った。
それ以上は、彼女もスタッフも関心を示さなかった。日本人の落し物など、いまのプノンペンでは珍しくもなんでもなかった。「よし、次は中を撮るぞ」プロデューサーの声に女性タレントは、手鏡をのぞいて化粧し直しながらかけだした。
後には売り子と、さびの塊となったカメラと色あせ崩れかけたパスポートが残された。遠い異国の密林の遺跡で白骨化していた日本人の持ち物。白骨の主は、発見されるのを何年も待っていたに違いない。長い歳月が流れた。そして、偶然の幸運で発見され、こうして市場の片隅で人目にさらされている。だが、その遺品は、結局、誰の手にもわたることはなかった。にぎわう市場のなかで、そこだけが見向きもされなかった。クメール人のにわか骨董屋は、退屈しのぎに腐食したポケットノートを手にとってひろげた。漢字まじりのわからない文字が殴り書いてあった。日記がわりにメモしていたものらしいが滲んでいてほとんど読めなかった。それでも切れ切れに字の形を見て取ることができた。しかし、クメール人のにわか骨董屋には、さっぱりだった。彼は、あくびしてノートを閉じると元の場所に投げ置いた。
昼近く、にわか骨董屋は、店をたたむと、並べてあったガラクタ一切を袋に詰め込み、どこかに行ってしまった。それっきり戻って来なかった。
最近、週刊誌に、こんな囲み記事があった。タイ、ラオス国境の山岳地帯で偶然、出会った部族は、約束するのに山刀で鍔音をたてるのだという。そのいわれをたずねると、村人たちは自分たちの守り神と手を合わせるだけだった。
しかし、この記事は、だれの興味も引くこともなく忘れ去られた。サムライの約束を守った若者たち。彼らのことを知っているのは、密林と密林に埋もれた遺跡だけかも知れない。今も、そして永遠に―
完