下原敏彦著作




計根別(けねべつ)まで


下原 敏彦



一 2015年7月 
 

梅雨明けの焼けつくような日差しの下、大学の学バスから降りた学生たちが、それぞれの学科棟に向かって歩いていく。繁れる青葉の下を行く女子学生のカラフルな服装が、余計にざわめきを感じさせる。夏休み前の大学は、なんとなく落ち着かない。

「ことしの夏は、どうするんですか」
授業前、学生たちに尋ねてみた。
「海外旅行の予定です」
「自転車で四国一周します」
「ボランティア活動しようと思います」
「ほぼバイトです」
「帰省して田舎でのんびり過ごします」
「ゲームで終わっちゃうかも」
学生たちの夏休みは様々だ。
「いろんな計画があっていいですね」

私は、微笑んで授業に入った。この日は、志賀直哉の短編『網走まで』をテキストとした。
全文を学生に黙読させたあと、と謎かけるように言って学生たちをみた。
「この作品はエッセイのようにも思えますね…」
私のゼミに出席した十数人の学生は押し黙っていた。短い沈黙のあと、前列の女子学生が、恐る恐る質問した。
「―― そうでは、ないのですか」
「作者は、小説として書いたようです」
私は、そう明かしたあと言い添えた。
「書かれている母と子を見たのは事実らしいですが、あとはまったくの創作だそうです。題も草稿では『小説網走まで』となっています」
そのあと、私は全集にあった草稿『網走まで』の創作余談を読み上げた。

〈或時東北線を一人で帰って来る列車の中で前に乗り合わしていた女とその子ども等から、勝手に想像して書いたものである〉

「このように書いてあります。列車も実際は、下りではなく上りでした」
私は、そう言ってからこう説明した。

「作者は、この作品を帝國大学の『帝國文学』に投稿しました。だが、結果は不採用でした。なぜ不採用になったのか。その原因について作者は、原稿の字がきたない為であった、と考えたようです。しかし、字がきたない、そんな表層的な理由で帝國文学の編集者は、没にしたのでしょうか。作家の悪筆は、珍しいことではありません」
 
学生たちは、困惑気味に私を見た。私は、構わずつづけた。
「では、なぜ、題名を網走にしたのか。そこから考えてみましょう。作者がこの作品を書いた明治四一年、西暦一九〇八年ですが、網走までは、まだ鉄道は通っていません。北見が終点でした。―だと、すれば『北見まで』としてもよかったはず。作者は、どんな意図があって『網走まで』と、したのでしょうか。題だけみれば、列車は網走まで開通している。そのように思うところです」

学生たちは沈黙したままだった。私は、ゆっくり見回してから、もう一度たずねた。
「なぜ、題名を網走にしたのでしょうか」
先ほどの女子学生が、ふたたび恐る恐る小手をあげて自信なさそうに質問した。
「志賀直哉は、網走に何か特別な思いがあったのでしょうか」
「さあ、それは、わかりません」
私は、首をふって答えてから言った。
「年譜をみると作者は、この作品から四三年後になりますが、六八歳のとき、一人でリック一つ背負って北海道に行っています。しかし、網走には行かなかったようです。その後の作品にも網走に言及したものはありません――」
「そうですか…わかりました」
彼女は、不満そうな顔で一礼した。
私は。苦笑して小さく頷くと言った。
「では、そこらへんを今日の課題とします。なぜ題名を網走にしたのか。帝國文学の編集者は、この作品をなぜ没にしたのか。この二つの謎を考えてください。理由はいくつでもかまいません。書き終えた人は、提出して、帰ってください」
私は、そう告げてレポート用紙を配った。学生たちは一斉に書き始めた。

私は、窓際の空いた席に座って窓外を仰ぎ見た。繁れる銀杏の青葉の葉々の間に青空がまるでサファイアを散りばめたように、きらきら輝いていた。私は、見るともなしにぼんやりながめながら、『網走まで』を書いた小説家のことを思った。

作者、志賀直哉は、後年、なぜ突然に北海道に行ったのか。年譜には各地を二週間ほど旅したとある。ただ漠然と旅しただけなのか。それとも、どうしても行ってみたいところがあったのか。彼一人だけしかわからない思い出の場所が…。

私は、北海道にそんな場所がある。それ故、毎年、夏がくるたび、落ち着かない気持になる。今年こそ北海道に旅して、その地に行ってみよう。そんな衝動にかられる。

しかし、結局、叶うことなく、いつのまにか五十年の歳月が流れてしまった。私の人生も古希を過ぎてしまった。いまや北海道行は、夢の、また夢となった。

静まりかえった教室に、微かに鉛筆が走る音と、時おり消しゴムを擦る音が聞こえていた。私は、聞くともなく耳を傾けていたが、いつのまにか時を超えてうつらうつらしていた。


二 計根別へ

私は突然、北海道根釧原野の計根別駅に立っていた。小さな駅舎をでて、しっかり根釧原野の大地を踏みしめていた。目の前にひろがる草原の海。頭上ににひろがる大空。吹き抜ける爽快な風。ここはまぎれもなく北海道だ。なぜ私は、ここにいるのか。
 
1965年7月 中野区下落合 学生援護会館
 
十日前、あの日がすべてのはじまりだった。あの日、私は、夏休みのバイト探しに、下落合にある学生援護センターに行った。センター内は、多勢の学生たちで混雑していた。誰もが、掲示板に貼られた求人ビラとにらめっこをしていた。配達、製本、皿洗い、清掃、引っ越しなどなど。条件はたいてい一日八時~五時で八百円前後だった。求人が少なければ、選んでいる余裕などないが、まだ夏休み前ということで、求人ビラは多かった。学生は、苦学生六割、旅行資金づくりのお気楽学生四割といったところか。私は、むろん苦学生だが、海外無銭旅行の資金作り計画もあった。十円でも高い求人広告を探した。

しかし数が多くて迷ってしまい、なかなか決められなかった。疲れてきたので、掲示板ビラから目を離して回りを眺めた。一番奥まったところに数人の学生が集まって熱心に貼り紙をながめていた。そこは短期の求人広告板ではなく、長期の求人ビラが貼ってある場所だった。長期間か。何のバイトだろう…私は好奇心から見にいった。

広告版には、一枚の求人広告しかなかった。所定の求人票ではなく、ワラ半紙に手書きで書かれたものだった。そこには、こんな求人募集文句が書かれていた。


この夏北海道の牧場で働いてみませんか。

仕事 酪農家の手伝い。乳牛の世話 
期間四十日
三食宿泊付きで五百円。
交通費往復全額負担

北海道酪農農業協同組合


中部地方の山村に生まれ育った私には、北海道は憧れの地だった。写真で見る広い草原。果てしない大空。突然、行ってみたくなった。募集ビラは、私のためにあったように思えた。往復の切符代もでて三食宿泊付きで一日五百円。つまり四十日間で手づかずで二万円がもらえる計算になる。今日きたのは運がよかった。私は、躊躇なく決めた。

さっそく受付に行って、申し出た。
ところが中年の男性職員は、疑り深い顔でつぶやいた。
「北海道ですか」
何か気のない返事だ。
「募集、おわったんですか」
私は、たずねた。
「いや、まだやってますよ。募集してます」職員は、早口で言ったあと、言い訳をした。「ほかのアルバイトと、少し事情がちがいますので…」
「なにか資格がいるんですか」
「いやいや、なにもいらないです。応募は大歓迎、大歓迎です。ぜひ、行ってください」
そう言いながら中年の男性職員は、書類箱に何かを探しはじめた。
奥歯にものがはさまったような言い方に私は、ちょつぴり不安を感じた。聞くんではなかった。応募したことを後悔しはじめた。
「ああ、これだこれだ」
職員は、ひとりごちながらプリント紙をとりだすと、私に見せながら言った。
「説明会があるんですよ。このバイトは。明後日なんですが――それをきいてから申し込んでください」
「説明会?!」
「そうなんですよ。現地、遠いですから。しっかり聞いてから決めてもらうんです」
職員の言い方は、なぜか曖昧だった。ぜひとすすめながらも、積極的ではない。
「はあ、では説明会を聴いてからにします」
私は、狐につままれたような気持ちで援護会を後にした。

北海道――その地名の響きは、私の心を弾ませた。北海道には、都会の雑踏、四畳半の下宿。中部山岳地方にある郷里への帰省。そうした細々した日常からの解放。そんな喜びのような興奮があった。援護会の小さな窓口は、冒険がはじまる別世界への窓口に思えた。明後日が待ち遠しかった。

午後三時、説明会が援護会の小会議室ではじまった。十六名の男子大学生が集まった。坊主頭の体育系もいればモシャモシャ頭にヒゲ面もいる。が、さすがに酪農農家手伝いということで流行のアイビー族はいなかった。

説明は、懇切丁寧だった。が、バイト仕事の内容は厳しいものがあった。一戸一戸の家にひとりずつ入って家族のひとたちと同じように働く。その家のひとたちが朝五時に起きれば五時から、六時なら六時、夕がたも同じ。朝起きて、夜寝る迄、要するにその家の人たちと生活を共にする。もちろん泊るのは、その農家。つまり労働時間は、決まりがない。そこまで聞いて三人の学生が、手をあげすごすごと出て行った。

「いいんです、いいんです。勇気がありますよ。いま決断されるということは。北海道、すばらしいところです。広い大地、広がる青空。だれだって行ってみたいと思います。ですが、酪農の仕事はきついんです。こんなはずじゃなかった。みんな思うんです。しかし、向うに行ってから途中で帰ってしまうと、農家の人たち困るんです。農作業が予定通りすすまないと死活問題ですからね。それだけ当てにしているんです。だから、いまの時点で判断してもらうと助かるんです。去年は、三人いました。一人の学生さんは着いた翌朝、五時に起きられなくて、トラックターのエンジンをかけたら、嫌がらせされたと訴えて、そのまま荷物まとめて帰ってしまったんです。あとの二人は、牛舎の掃除に耐えきれなくて、泣く泣く帰った。牧場の仕事というと、なにか爽やかなかっこいいようにおもわれるんですが、大変な重労働です。家畜の糞尿にまみれる仕事です。しっかり覚悟していかないともちません」

言葉はやわらかだが、そのあとも職員は、さんざん脅した。だが、席を立つ学生はいなかった。バイト先は、稚内、釧路があげられた。稚内は遠いという印象だが、三名の希望があった。あとの十名は釧路になった。その場で往復の切符をわたされた。行き先の駅名は「計根別」とあった。はじめて知る駅名だった。地図で見ると根釧原野のど真ん中にあった。夢がひろがった。実家には帰省できないことを伝え、大学にも届けた。戦前は拓務省にいて満蒙開拓事業に携わっていたという主任教授は、大いに喜んでくれ実習授業の四単位を約束してくれた。個人的バイトで、単位がとれる。いま思えばいきな計らいをしてくれた。北海道見物ができ、単位がもらえる私には一石三鳥の好バイトだった。このときは、酪農作業の厳しさを知る由もなかった。


三 1965年7月末 夜行寝台列車

一週間後、夏休みがはじまったと同時に私たちは北海道へ出発した。上野から夜行列車、総勢十一人、いろんな大学の学生がいたが目的が一つということで、すぐに打ち解けた。現地に着く迄の同行の旅。ほとんどがモサ連中で気がよかった。三人ばかり学ランに高下駄という威勢のよいのもいた。駅弁を食べ終わると宴会になった。「北帰行」や「さすらい」「東京流れ者」「蒙古放浪歌」など、モサ連中は、自分のおはこを披露した。皆、なかなかのノド達者、藝達者だった。寝台列車の窓から見える東北の夜は、ほとんど真っ暗闇の世界だった。列車は若者たちの一期一会を乗せて一路、青森に向かった。朝、青森駅に着くと、休む間もなく連絡船に乗り函館に向かった。函館に着くと、五稜郭も見物せず、こんどは札幌行きの列車に乗車した。列車は、密林のような林のなかを走っていく。車窓に大きなふきの葉っぱがこすれた。なにか未開の土地に入り込んで行くような気がした。

突然視界がひらけ町に入った。札幌についたのだ。皆で時計台まで歩いていってラーメンを食べた。そのあと、別れを惜しんでそれぞれの目的地に散って行った。計根別までは、五名となった。もう一夜、普通列車に揺られるのだ。深夜、倶知安という駅でうどんを食べた。七月末なのに、ひどく寒かった。そのぶん熱いうどんがおいしかった。

オンボロ列車の旅は、釧路、中標津を経て、ようやく目的地、計根別駅に着いた。昼過ぎだった。上野をでてまる二日だった。駅舎をでると、一面の青空が広がっていた。十一人いた学生は、私を入れて五人に減っていた。短い旅だったが気の合った彼らとは、東京で再会を誓って別れた。だが、彼らとはあの日以来会っていない。五十年の歳月があっという間に過ぎてしまった。
「迎えのない学生さんたちは、順番に各農家まで送ります。タクシーでなくてすまんですが」人のよさそうな中年の農協の職員は、そう言って農協の小型トラックで一人一人を送った。迎えにきた農家は一軒だけだった。私は三番目で一時間、待ったあとだった。

「なにしろ、あっちこっちに点在しているもので、申し訳ない」農協の職員は、わびながらトラックを走らせた。国道は穴だらけで、揺れがひどかった。

このときになって、私は、手伝うことになる酪農農家のことが気になった。どんな家族だろう。子どもはいるだろうか。草原の一本道をトラックはひたすら走る。

「原沢さんとこは、五人家族だっぺ。お姉ちゃんは中学生、小学生の妹と弟がいる」
運転の農協職員は、説明しながら、なんども大変な仕事ですからを繰り返した。

それらの話をまとめると私が入ることになった酪農農家は、開拓十三年目の農家で、四十歳代夫婦と子供三人の家庭だった。計根別駅から二十分ばかりか。原沢家は大草原のなかにポッンとあった。丸太小屋づくりの西部開拓史の映画を彷彿させるような家だった。このへんの農家はみなそんな作りだった。

母親のトキさんと子どもたちが出迎えてくれた。子どもたちは、長女 道子中学二年生、次女咲子小学五年生、健一小学三年生。主人の英四郎さんは、午前中、牛乳集めの仕事をしていたが、この日は夜になって帰ってきた。真っ黒に日焼けした、たくましいお父さんだった。私にエビをご馳走するため、町まで行ってきたらしい。まだ生きていて飛び跳ねるエビを歓迎にストーブの上で焼いてくれた。八月でも朝晩はストーブを焚かないと寒かった。

原沢家は、ストーブがある食堂兼台所の他に、六畳間ばかりの部屋が三つあった。原沢夫婦の寝室と、子どもたちの寝室兼勉強部屋。私には八畳間ほどの客間が用意されていた。その晩は長旅の疲れで九時には寝てしまった。普段は長女の道子が使っていた。

「きついから、のんびりやるべえさ」
寝る前にトキさんと英四郎さんが挨拶がわりにそう言ってくれたのでほっとした。

原沢家には6頭のホルスタインと1頭の馬、それと十数羽のニワトリがいた。5頭が搾乳可能で、朝は、牛たちの世話に追われた。搾乳は、ちょうどミルカーという自動搾乳機がはいったばかりで、手で搾る必要がなくなって大いに助かった。食事でき驚いたのは、ごはんの上に大量のバターを乗せて食べることだった。うどんがご馳走だった。


 原田牧場の家族

最初の日、寝る前、目をこすりながら日記をつけた。
 
一日目、旅の疲れもあって朝、起きたのは六時。家の中は、しんとしていた。台所はストーブが焚かれていたが誰もいなかった。あわてて外に出ると、一家総出で牛舎にいた。道子はミルカ―で搾乳する前、牛の乳房をお湯に浸した布できれいに拭っていた。咲子は、干し草を牛たちに食べさせていた。主人の英四郎は、出荷する牛乳を入れる缶を揃えていた。トキさんは、ニワトリを小屋に追ってタマゴを集めていた。健一は、アオ号に水を飲ませていた。皆、それぞれに仕事があるようだった。朝食後、英四郎さんは、酪農家を回って牛乳集めに――ここまで書いて、猛烈な睡魔に襲われた。次の日は、2行しか書けなかった。出来事を全部書くのはあきらめた。以下は、後で書いた原沢家のだいたいの日課である。

・朝5時半起床。牛舎の掃除。6頭のホルスタインに牧草のえさやり。乳房を湯で洗いミルキーで搾乳。乳搾りが終わると、牛たちを牧場に放牧。
・7時、井戸の冷たい水で顔を洗う。ストーブの薪割り。朝食、バターのせご飯。
・8時半、牛糞山の移動。新しい牛フンを一輪車に乗せて堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、時間があるとき外の牛糞小屋に移動させる。単純作業なので、私の仕事になった。文字通り糞まみれになっての作業だが、すぐ慣れた。
・10時お茶の時間。(8月末から子供たち学校)トキさんと二人で農作業。
・11時、英四郎さん牛乳集配から帰宅。じゃがいもの収穫。一むね200㍍はある。
・正午、お昼、
・1時、午後からは、近くの酪農家たちと共同でサイロ詰め。農協のトラックターが集めてきた干し草を大きな煙突型のサイロに詰め込む作業。私の仕事は、他の大人たちと一緒にサイロの中に入って干し草を踏みしめる。頭の上から、機械で刻まれた干し草がバサバサと落ちてくる。サイロの中は発酵臭の草いきれと干し草の熱気でサウナのようだった。
・5時、原沢家に戻り、放牧の牛を子どもたちと牛舎にいれる。
・6時、二日か三日置きに風呂を焚いた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。馬のアオ号に荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運んだ。子どもたちの仕事で、私も手伝った。
・7時、夕食。二日置きに風呂。
・9時、就寝。

毎日が、ここの日課の繰り返し、雨の日は、近くの川に釣りに行った。  
原沢家には6頭のホルスタインと1頭の馬、それと十数羽のニワトリがいた。5頭が搾乳可能で、朝は、牛たちの世話に追われた。搾乳は、ちょうどミルカーという自動搾乳機がはいったばかりで、手で搾る必要がなくなって大いに助かった。食事でき驚いたのは、皆がごはんの上に大量のバターを乗せて食べることだった。うどんがご馳走だった。

毎日が、忙しくて一日が長かった。早くもバイトが終わる日が待ち遠しかった。それでも最初の日、寝る前、目をこすりながら日記をつけた。

一日目、旅の疲れもあって朝、起きたのは六時。家の中は、しんとしていた。台所はストーブが焚かれていたが誰もいなかった。あわてて外に出ると、一家総出で牛舎にいた。道子はミルカ―で搾乳する前、牛の乳房をお湯に浸した布できれいに拭っていた。咲子は、干し草を牛たちに食べさせていた。主人の英四郎は、出荷する牛乳を入れる缶を揃えていた。トキさんは、ニワトリを小屋に追ってタマゴを集めていた。健一は、馬小屋の掃除をしていた。皆、それぞれに仕事があるようだった。朝食後は、英四郎さんは、酪農家を回って牛乳集めに―ここまで書いて、猛烈な睡魔に襲われた。次の日は、2行しか書けなかった。出来事を全部書くのはあきらめた。以下は、後で書いた原沢家のだいたいの日課である。

・朝5時半起床。牛舎の掃除。6頭のホルスタインに牧草のえさやり。乳房を湯で洗いミルキーで搾乳。乳搾りが終わると、牛たちを牧場に放牧。
・7時、井戸の冷たい水で顔を洗う。ストーブの薪割り。朝食、バターのせご飯。
・8時半、牛糞山の移動。新しい牛フンを一輪車に乗せて堆肥置き場まで運ぶ。山となった牛糞は、時間があるとき外の牛糞小屋に移動させる。単純作業なので、私の仕事になった。文字通り糞まみれになっての作業だが、すぐ慣れた。
・10時お茶の時間。(8月中旬から子供たち学校)トキさんと二人で農作業。
・11時、英四郎さん牛乳集配から帰宅。じゃがいもの収穫。
・正午、お昼、
・1時、午後からは、近くの酪農家たちと共同でサイロ詰め。農協のトラックターが集めてきた干し草を大きな煙突型のサイロに詰め込む作業。私の仕事は、他の大人たちと一緒にサイロの中に入って干し草を踏みしめる。頭の上から、機械で刻まれた干し草がバサバサと落ちてくる。サイロの中は発酵臭の草いきれと干し草の熱気でサウナのようだった。
・5時、原沢家に戻り、放牧の牛を子どもたちと牛舎にいれる。
・6時、二日か三日置きに風呂を焚いた。風呂の水は、近くの川の水を使っていた。馬のアオ号に荷車を引かせ、牛乳カンに水をつめて運んだ。子どもたちの仕事で、私も手伝った。
・7時、夕食。二日置きに風呂。
・9時、就寝。

以上が、私が原沢家のだいたいの日課である。あまりに疲れ過ぎて、夜は、ただただやたら眠かった。とくに最初のころは、慣れない生活もあって、夕飯後は、すぐに部屋に入って寝てしまった。そんな私に子どもたちは不満だったようだ。なにしろ私は、東京からきた大学生のお兄ちゃんである。いろんな話をして欲しかったようだ。勉強もみてもらいたい。そんな期待もあったようだ。なのに私は、寝てばかり。とにかく眠い。眠かった。酪農仕事にくたびれ果てていた。どんなに眠く疲れていたか、日記のつもりで書いたノートをみればそれがわかる。支離滅裂な文字と内容だ。

八月×日 農協のコンバインが来て、牧草を刈っていった。この季節一番の大忙し。一家総出で、牧草をまとめてアオ号の荷馬車に乗せサイロまで運ぶ。サイロは二つ、一つはエントツ型、もう一つは地下型。
八月×日 眠い、疲れた、あと何日、干し草づくり、サイロ詰め
八月×日 東京の生活がなつかしい。
八月×日 ジャガイモの収穫、腰痛い、疲れた、あと何日


 道子の反発

こんな最悪の状態のとき、面倒なことがおきた。咲子と健一が、夏休みの宿題を手伝ってほしいといってきたのだ。二人は、内緒の話があるからと、こっそり入ってきた。私は、眠い目をこすりながらみてやった。当然だが。小学生の問題は、苦労なくできた。二日ほどして、こんどは道子が入ってきて言った。
「わたしの宿題もみて」
英語と数学を教えてくれというのだ。中学二年生の英語は、辞書を片手になんとかできたが、苦手の数学は、お手上げだった。自信なかった。道子は、勉強はできる方と聞いていた。
「眠くて限界、勘弁して」
そういって断った。そしたら突然、怒り出した。
「なんなの、わたしのはみてくんないの」
「みてるよ、ちゃんとこうして、これ」
私は、一問解いてみせた。
「違ってるわ」道子は憮然と言った。
「違ってるのがわかるの。それだったら聞きにこなくたっていいのに」
「なんだ、できないんだ。できないんならできないっていってよ。眠気のせいにして」
道子は腹をたてた。
「大学生のくせに」
捨て台詞を残して部屋を出ていった。
次の日から道子と顔をあわすのがなんとなく気まずかった。

八月×日 道子、まだ怒っていた。井戸で顔を会わせても挨拶しない。それまで用意してくれたタオルもわたしてくれない。代わりに咲子が持ってきてくれた。すれちがうとき小声で言うのだ。
「大学生のくせに、わからんなんてバカじゃないの」
「もっと頭のいい大学生がよかった」
聞こえぬふりをした。

八月×日 道子、母親に叱られる。咲子が告げ口したようだ。
「道子、おまえの勉強のためにきたんじゃないからね。どうしてそんなこというのかい、一生懸命手伝ってくれてるのに」
「お金のためでしょ。バカなくせして」
「バカはおまえだよ。いい学生さんじゃないか。咲子も健一も、なついている。どうしておまえだけが、なれんことでくたびれてるんだよ」
ふすまの向こうからこんな会話が聞こえてきた。しかし、道子と私の溝は深くなるばかりだった。

八月×日 夜中、にわかにおなかが痛くなり、トイレに起きた。トイレは、庭の隅にあった。掘立小屋のなかに掘った穴に二本の板をかけた簡単なものだった。夢中でとびこんだ。バリバリと音がしてトイレの板が壊れて落ちた。私もいっしょに落ちて、腰まで糞尿のなかにすっぽりうまってしまった。物音を聞いてか母屋に明りがついて、皆ぞろぞろでてきた。道子もいた。懐中電灯に照らされた私は、動くこともままならずみじめな状態だった。英四郎さんにひっぱりだしてもらい、ようやく糞尿の中から脱出することができた。

「川に行って洗ってきます」私は、そう言って川に向かった。英四郎とトキは止めたが、井戸水はあまりに冷たかったし、井戸で洗うにはあまりに臭く不衛生に思えた。

夜道は、月の明りで歩きやすかった。夜の川は静かに流れていた。私は、首まで水につかった。水は、意外と暖かかった。私は水のなかで浴衣と下着を脱いで洗った。
「おにいちゃん」
だれか呼ぶ声がした。道子の声だった。
「ここだよ」
私は大声で答えた。彼女は、着替えをもってきてくれたのだ。私は急いで川からあがろうとしたが、丸裸なのに気がついた。私は洗った浴衣を岸辺に放り投げ、水にもぐった。水面に首をだして仰ぐと月がきれいだった。

「風邪ひくよ」
道子が心配そうに叫んだ。
 岸にあがって急いで浴衣をきた。体がぽかぽかしてきた。
「夜中にトイレに落ちたなんて笑い話にもならないね」
私は、冗談のつもりで言った。すると、突然、道子は真剣な声で叫んだ。
「お兄ちゃん、帰らないで、帰らないで」
「帰る!?」
「こんなことがあったんで、嫌になって帰っちゃうって母さんが」
「こんなことで、――あまくみられたね」
私は笑って言った。
「そんなことより、頭、わるいから嫌われちゃつてるほうがつらいよ」
「ごめん、ごめんなさい」
道子は、突然、泣きだした。
「いいんですか、中学二年生の数学もわからん大学生で」
「ちっとも、ちっとも、わたしがバカよ」
道子は叫んで、私の胸にとびこんできた。

私は、伝わってくる彼女の体温と、胸の柔らかさに、あわてて彼女を突き放した。
「ばか、お兄ちゃんのばか」
「いいの いいの、わかったから」
私は、笑って彼女と手を繋いだ。彼女はしっかりにぎりしめてきた。月の光が草原の夜露に反射しキラキラ輝き、神秘さをかもしだしていた。

光に満ちた草原の道を歩いて行く二人。このときのメルヘンチックな光景は、いまもくっきりと脳裏に焼き付いている。
「お母さん、むかし歌上手だったんだって」
いきなり道子は言った。
「ここにきて牛の世話に追われているうち声がつぶれちゃったって」
「道子さんは、上手…」
「すこしだけ」
「じゃあ、うたってみて」
空には月が煌々と輝いていた。
「なにか、ここ砂漠みたい。砂漠を歩いているみたい」
道子は、そう言って突然、歌いだした。きれいな声だった。

月の砂漠を はるばると ~
旅のらくだが 行きました ~

金と銀との 鞍置いて ~
二つならんで 行きました ~

夜のしじまに歌声がしみわたっていった。このとき、はじめて北海道にバイトにきてよかったと思った。

四十日目、とうとう最後の日になった。長かったようで終わってみれば短かった。ちょうど日曜日だったので、子どもたちは全員いた。原沢家の庭は別れの場となった。

農協の小型トラックが迎えにきた。
「兄ちゃん、来年、まってるぜ」
健一は生意気そうにいった。
「さんすうできなくたっていいんだって」
咲子が笑ってからかう。
「来年もぜったいきてくんろ」
トキさんは涙ぐむ。
「くるよ、ぜったい」
私は、大声で言った。本当に来るぞ、ぜったい来るんだ。そのときは本気でそう思った。
「やくそくだよ」
咲子は、言ってふりかえって姉と父親の姿を探す。
「おねえちゃんたち、まだもどってこんの」
「柵なおしに時間かかっとるか。べーこがまだにげとるかだべ」
トキさんが申し訳なさそうにいった。
牧場の柵がこわれて、一頭が、隣家の牧草に入っている。朝食の最中、隣の山田さんが知らせてきた。それでふたりして見にいったのだ。隣は二㌔離れている。
「とうちゃんと道子からも、よろしくって、わるいね、見送れなくて」
トキさんは、かすれた声で何度わびた。

私は、トラックに乗った。トラックは走りだした。
咲子は、万歳して手を振った。健一は、立ちつくしたまま叫んでいる。
草原のなかに立つ原沢家の丸木太小屋。辛い農作業や乳牛の世話からやっと開放されたという安堵感と、40日間寝食をともにした家族と別れるさびしさがあった。

トラックは、そんな感傷を跳ね飛ばすようにパウンドしながら国道に向かって走っていた。
「あれ、ミチ坊だ」
農協の運転手は、バックミラーをみると、声をあげた。
振り返ると、遠くの土手にそって草原の中を馬が一頭駆けてくる。アオ号だ。
道子が乗っていた。
「また、きてね―」
そう叫びながら手をふっている。
トラックは、国道にでると右折した。一本道が、ずっと地平までつづいている。アクセルを踏んだ。トラックはいきおいをました。青号は、国道の手前で止まった。遠くから見る道子は泣き顔だった。
私は、別れの寂しさもあったが、ほっとした感が強かった。
「ご苦労様、お疲れ様でした」
運転手の農協職員は微笑んで言った。その言葉に本当に終わったのだ。そんな実感が一気にわきあがった。とたん、目頭が熱くなった。
「なれたとこで、来年もおねがいますだ」
「はい、きっときます」
私は、大きく何度も頷いた。

後期がはじまった。道子とトキさんから何通も手紙が届いた。筆不精の私は、ときどき東京の絵ハガキに「来年も、おねがいします」とだけ書いてだした。来年が本当に楽しみだった。だが、翌年春、フランスで起きた学生運動は、またたくまに世界を席巻した。日本にも飛び火した。たちまちのうちにうちに日本中の大学は火の海となった。

私の大学も例外ではなかった。私は、学園紛争に身を投じた。デモ行進、機動隊との衝突。気がつくと季節は秋になっていた。寝袋一つで逃げ回るうちに道子やトキさんの手紙は、散逸してしまった。やがて学生運動は、セクト争いの内ゲバにかわっていった。私は嫌気がさして、外国放浪の旅にでた。横浜港からフランスの貨客船「ラオス」号で、マルセルユをめざした。一年の帰国後、学校には、席はなかった。原沢家のことも、子どもたちや道子との約束も、遠い昔に思えた。私が行かなくても、新しいバイト学生が行ったかも知れない。原沢家の人たち私のことなど忘れてしまったにちがいない。

そう思いながらも、なぜか私は、もう一度黄色の野の花が咲く、原野のただなかにあった、あの牧場に行ってみたい。そんな気持ちがわいてくるのだ。五十年という歳月が流れたが、いまも昨日のことのように鮮やかによみがえる。青い大空と緑の草原の波が…

「先生、先生」
不意の声に私ははっとした。いつのまにか眠っていたのだ。
「書き終えました」
「そうか」
学生たちは次々立ちあがって原稿用紙を提出するとでていった。私は、窓外にひろがる梅雨明けの青空をみあげて、そうだ今年こそ、計根別まで行ってみようと思った。