下原敏彦の著作
全作品を読む会読書会通信101〜128(2007.4〜2011.10)にて連載


嘉納治五郎とドストエフスキー
 (未完)

下原敏彦(土壌館道場主)


通信101

嘉納治五郎とドストエフスキー (1)     

(本論は、2006年11月18日に開催された第177回例会で報告した「団塊世代とドストエフスキー」の最後に少し触れた話に加筆し改題したものです)


一、なぜ嘉納治五郎か
 
 嘉納治五郎といえば、世界的には柔道の創始者として知られている。が、教育者としての功績も計り知れない。近代国家建設を目指す明治初期にあって、封建社会から解き放たれた多くの日本の若者を近代人に育てた実績。加えて、野球、庭球など国際スポーツの普及や国民体育の向上に尽力された。武道においても空手道、合気道の擁護者でもある。国際オリンピック委員としても活躍した真の国際人でもあった。
 明治維新から、百三十余年、日本はめざましい発展を遂げた。敗戦という国家存亡の危機からも復活できた。すべては国民一人ひとりの力である。が、この日本人の精神と肉体をつくりあげたのは、ひとえに嘉納治五郎の教えがあったからといっても過言ではない。
 しかし、残念ながら嘉納治五郎の名は埋もれていくばかりである。大げさにいうなれば今日の日本の教育の荒廃―それは世界の荒廃に繋がるのだが、嘉納の教育理念の喪失に要因があるかも。そんな危機意識から、嘉納治五郎をとりあげた。しかし、なぜドストエフスキーの俎上にあがるのか。恐らく多くのドストエフスキーの読者にとっては、大きな謎といえる。日本の偉大な教育者と、世界の大文豪。共通項を探すのは難しい。嘉納には、数々の教育論の他、柔道や人生論など多くの著書がある。が、この中でドストエフスキーに触れたものはただの一冊もない。筆者の知っている限りだがドストエフスキーの名さえ一度も登場しない。例えば、嘉納が書いた書物のなかに「第十五 精読と多読」という項目がある。ここに嘉納の読書や作家についての考えが述べられている。少し紹介する。

・・・古来名を青史に留めたところの文武の偉人は多くは読書を好み、それぞれの愛読書を有しておったのである。試しにその二、三の例をあげれば、徳川家康は常に東鑑等を愛読し、頼山陽は史記を友とし、近くは伊藤博文は繁劇な公務の間にいても読書を廃さなかった。またカーライルは一年に一回ホーマーを読み、シルレルはシェークスピアを読んだ。ナポレオンは常にゲーテの詩集を手にし、ウエリントンはバットラーの著書やアダムスミスの富国論に目を曝しておったということである。なすことあらんとする青年が、学生時代において読書を怠らないようにし、これを確乎とした一の習慣として、中年老年まで続けるようにすることの必要なるは多言を俟たないのである。(『嘉納治五郎著作集 第一巻「教育篇」』さつき書房1992・7・28)


 明治維新後、文明開化の日本には西洋の科学や文化がどっと流れ込んできた。文学においても例外ではなかった。そして、その文学は、当時、国情が日本と似ていたロシアの文学が日本の文学者の間に浸透していった。二葉亭四迷も夏目漱石も森鴎外も皆、ロシア文学を読み、ドストエフスキーを知った。ロシア文学を読まずに文明開化ができるか。まさにそんな時代状況だったのである。が、嘉納はなぜかロシア文学もドストエフスキーも口にしていない。かなりの読書家であったはずの嘉納治五郎はいったい「読書」というものをどのように考えていたのか。そのあたりをもう少し紹介する。

 読書はこのように必要であるけれども、もしその読む書物が適当でないか、その読書の方法がよろしきを得なければ、ただに益を受けることが出来ないのみならず、かえって害を受けるのである。・・・すべて新刊な書ならば先輩識者が認めて価値があるというものを選ぶか、また古人のいったように世に出てから一年もたたないようなものは、必要がない以上はこれを後廻しとするがよい、また昔より名著として世人に尊重せられているものは、その中から若干を選んで常にこれを繙き見るようにするがよいのである。どんな本を読んだらよいのか。まことに適切な助言といえる。また、読書の仕方についても、このように論じている。

・・・読書の方法とは、とりもなおさず精読多読などの事を意味するのである。精読とは読んで字の如くくわしく丁寧に読むこと、多読とは多く広く読むというのである。真正に完全に読書をするには、この二つが備わらねばならぬ。・・・

 まさに、この通りといえる。それ故に当然のことだが、ドストエフスキーの名もあげてしかるべきである。世界の賢者たちは、すでにその名を口にしてはばからなかった。
 例えばM・ゴーリキーは「トルストイとドストエフスキーの二人は、最大級の天才である。彼らはその才能の力によって全世界を揺り動かした。彼らは全ヨーロッパの感嘆のまなざしをロシアへ惹きつけた。両者とも、シェークスピア、ダンテ、セルバンテス、ルソー、ゲーテという偉大な人物たちの列へ、対等な者として加わった。(1905年『ドストエフスキー写真と記録』V・ネチャーエフ)」と述べているし、F・ニーチェも「ドストエフスキーは…私に心理研究の領域で何事かを教えてくれた唯ひとりの人である。彼を発見したことは私にとって、スタンダールを発見したことよりもつと重要であつた。」と語っている。また、アンドレ・ジイドは「書簡集によって見たドストエフスキー(1908年)」の冒頭で「トルストイの巨大な山塊がいまなお地平を塞いでいる。けれども―山国に行くと、遠ざかるにつれて、一番手前の山の頂のうえに、近くの峯にかくされていたもつと高い峯の姿が再三再四現れるのを思いがけず見ることがあるものだが、それと同じように―恐らく、先駆者的精神の持ち主のうちの何人かはすでに巨人とルストイの背後に、ドストエフスキーがふたたび姿を現し、大きくなって行くことを眼にとめているであろう。」と、その偉大さを世界に向かって論じた。こうした例をあげただけでも、当時、二十世紀初頭にあってドストエフスキーの名は日の出のように上りつつあるのがわかる。それ故に読書家の、―外国語に通じる嘉納治五郎がドストエフスキーの名を知らぬはずはないと推測する。
 ドストエフスキーの名が世界に知れわたるまで、どれだけの年月が必要であったか、よくは知らない。日本には、比較的早い時期に伝わっているようだ。ロシア文学者の新谷敬三郎著『ドストエフスキイと日本文学』によると、ロシア文学が日本に入ってきたのは、通称ニコライ神学校(いまも神田駿河台にあるニコライ堂)である。1872年、のちのニコライ大主教(1836−1912)が函館からきて伝道学校を設立した。ここで、入学した生徒にロシア文学を教えたようである。「ニコライ大主教自身、文学の愛好家で、とくにゴーゴリ、ドストエフスキイを読むことをすすめた。」とある。ドストエフスキーが死んだのは1881年であるから、10年も前から宣伝されていたことになる。もっとも、この頃、嘉納治五郎は十二、三歳の少年である。まだ廃藩置県が発令されたばかりの混濁の維新直後にあって、南下の野心を露骨にみせる帝政ロシアの文学などに何の興味も同調もなかったかも知れない。
 それから十年の後、1892年(明治25年)『罪と罰』が初めて出版された。一番最初に読んだ訳者内田魯庵の感想は、およそこのようであった。

恰(あたかも)も廣野に落雷に会ふて眼くらめき耳聾(ろう)ひたるが如き、今までに曽(かっ)てない甚深の感動を与えられた。(二葉亭余談)

 前年、三十二歳の嘉納治五郎は欧州より帰国。第五高等中学校から熊本の五高へ赴任している。そして、五月には、あの大津事件(ロシア皇太子襲われる)が起きている。当時、ロシア問題は好むと好まざるとに関わらず、社会的関心度は高かったはずである。
 にもかかわらず、である。嘉納はロシア文学に触れようともしない。むろんドストエフスキーの名もあげていない。それは意識してのことか、それともただたんに全く興味も関心もなかっただけなのか。知る由もない。故に、なぜ嘉納治五郎か、と問われても窮すばかりである。が、理由については、明確に答えることができる。
 なぜ嘉納治五郎をドストエフスキーの俎上にあげるのか。それは「柔道の創始者」だからに他ならない。これまでドストエフスキーを読み、柔道をつづけてきた筆者は両者に通底するものを感じるのである。本論のなかでその関係性が立証できれば幸いである。

二、柔道とは何か ― 誕生まで ―

 「嘉納治五郎とドストエフスキー」の疑問。この謎を解く鍵は柔道にある。とすれば、次にこの柔道について論じる必要がある。つまり「柔道とは何か」である。
 柔道は、嘉納治五郎が考えた近代日本の武道だが、いまや世界のJUDOになっている。一人の人間の考案から、短期間でこれほど普及したスポーツは他にない。教育の一環として公立の中学、高校では、正規の体育の授業として取り入れられるまでになっている。姿三四郎は架空の国民的ヒーローであるし、多くの日本人は山下や「ヤワラちゃん」こと谷(田村)亮子の名を知っている。レコード大賞をとった美空ひばりの「柔」は柔道を歌ったものだ。
 しかし、これほどまでに知られている柔道だが、ドストエフスキー読者のあいだでは、有名無実といえる。柔道のことを知る人はあまりいない。現に、筆者は四十年近くドストエフスキーの例会や読書会に参加しているが、ただの一度も柔道経験者に会ったことがない。これは柔道の場でもいえる。私は、同じ歳月、柔道を続けているが、道場でドストエフスキーを読んだという人に出会ったことがない。こうした現実がある。が、本論はドストエフスキー読者に向けてのものであるから、ここでは「柔道とは何か」のみ紹介する。
 柔道の誕生は、明治15年(1882年)2月である。23歳で学習院講師をしていた嘉納治五郎(1860〜1936)が上野の永昌寺に「日本伝講道館柔道」として創立した。余談になるが、筆者は、以前、偶然にこの跡地を知り境内に入ったことがある。
      
 1996年の夏だった。私は家族と浅草の浅草寺を詣でたあと,上野に向かって歩いていて偶然に「講道館発祥の地」の石碑を見つけた。柔道を愛する者ならそうだが、いつか訪ねてみたいと思っていただけに予期せぬ出会いに感激した。石碑の背後に小さな寺があった。埃のついた木の表札に永昌寺と記されていた。この寺のことは、いろんな読み物で知っていた。
 ここがそうか・・・。私は感嘆して覗きこんだ。狭い境内は閑散としていた。本堂らしき建物は古ぼけ朽ちていた。どうみても荒れ寺の雰囲気である。冨田常雄の小説『姿三四郎』や黒澤明監督の映画から思い描いていたお寺とは随分、印象が違った。小説や映画にでてくるお寺は、もっと広壮というか威風堂々たる建物であった。
 それだけに私は、ここがあの矢野正五郎(『姿三四郎』の登場人物)、いや嘉納治五郎が柔道を誕生させたところかと、感慨にかられながらも、あまりに小いさな古ぼけたお寺に些か落胆した。それでも「ここから柔道が・・・」と思うと胸高鳴るものがあった。私は急に懐かしさを感じ、勝手知ったる家のように門の中に足を踏み入れて行った。右脇に住職の家か木造の古い平屋があって、庫裏らしきところでお年寄りの婦人が一人立ち働いているのが見えた。私は、思わず
「道場はどのあたりにあったのでしょうか」と、尋ねようとして声を呑んだ。
 嘉納治五郎が,この地に講道館を設立したのは明治十五年、百十余年も前のことである。いくらお年寄りといえ、知るはずがない。私はひとり苦笑して立ち止まった。
 とはいえ百十余年前、若き日の治五郎がここで柔道を教えはじめたのは事実なのだろう。嘉納は、そのときのことをこう書いている。

 下谷稲荷町の永昌寺という寺の書院と付属屋をかりてそれへ移った。付属屋には書生を、書院二間を自分の書斎とした。そのうちの一間は相当に畳数も敷けるから、これを道場にすれば自宅で稽古が出来るというわけで…ここで形、乱取の稽古をした。…こうして書院で稽古する故、ときにねだがぬける。そうなると富田(一番弟子)が縁の下へもぐり込む、自分がこれに蝋燭を見せて修繕をするという始末であった。そこで住職はしきりと心配をする、…そこでやむなくこの座敷の稽古をやめて、新しく12畳の道場を付属屋の続きに建てて、坊さんの抗議にこたえることにした。(嘉納治五郎著作集 第三巻「講道館の創設」)道場の苦労ぶり、それを思うと、なにか親しさがこみあげてきた。
 私は、この十年間、息子が通う町道場で高齢な道場主に代わって地域の青少年に柔道を教えてきた。が、二ヶ月ほど前にその道場を引き受けることになった。道場は、トタン屋根の木造平屋建てである。が、道場とは名ばかりの廃屋同然の建物だった。二十三歳の学習院講師・嘉納治五郎と、五十歳を目前にした私とでは雲泥の差はある。が、こと道場で苦労しているという点では、同じかも知れない。いや、もしかして私の方が幾分ましといえる。嘉納治五郎の道場は12畳だが、私の町道場は、ひどく老朽化してはいるが、35畳もある。
 しかし、どんな道場でも、開くということ、つづけるということは、年齢、時代に関係なく辛くもあり喜びでもある。私は、何か立ち去りがたい思いに駆られてしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。この年の秋、私はわたしの道場のことを、新聞の投書欄に書いた。

地域に必要な子供たちの場
 いま町道場で子供たちに柔道を教えている。半年前高齢の道場主から都合で続けられなくなったと相談された。築三十年近く、根太は腐り、雨漏りはするオンボロ道場で、けいこにくる子供もわずかだった。が、私は息子が十年以上も通った道場だけに愛着があった。一人でも子供がいる限り町道場の灯を消したくない。そんな思いもあって引き受けた。町道場をやってみてわかったことがある。柔道場に限らず子供たちが運動する場所が、地域にはあまりにも少ないということだ。最近の子供は体力が下がってきているという調査がある。が、子供たちはランドセルを置いてもどこにも行く場所がないのである。テニスコート、ゴルフ練習場、ダンス教室と、大人が運動する場所はたくさんある。それに比べ、子供が思い切り体を動かせる場所は、皆無に等しい。スポーツ都市宣言などで、公共施設は立派なものが完備されている。が、地域においては空地すらない。町道場も激減している。子供たちの体力づくりを真剣に考えるなら、地域施設の整備が先決だろう。柔道大会に向けて、子供たちは床の抜けそうな道場で一生懸命、けいこしている。(1996年11月5日朝日新聞「声」欄


 「柔道とは何か」―、道場のことに話が逸れてしまったので話を戻そう。何事にもはじまりはある。「柔道」は、明治15年に嘉納治五郎が創設した武術の新興流派だが、歴史は古い。柔道のように手に武器を持たない格闘技は、世界各地に昔からある。はじめはたんなる力比べだったが、発達してヨーロッパではレスリングやボクシングに、中国では、拳法に、日本では相撲や柔術になった。記録としては、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)のなかに「ちからくらべ」の記述がある。建御雷神(たけみかずちのかみ)の力を表現して、若葦をかるがごとく、つかみ、ひしげて投げ給う、と書いてある。その後、力くらべは洗練されいくつもの技ができその過程で柔術が生まれたといわれる。
 柔術、すなわち柔。この起源は諸説ある。が、一つに関口柔心説がある。根拠は、倭訓栞(やまとおしえのしおり)の、やわらの条に、柔術などいえり、紀州の関口柔心を祖とする。
 小さい者が大男を投げる。この技を習得すれば、武器を持たずして簡単に勝てる。ということで、江戸時代(1603〜1867年)には、さかんになって体系的にも組織され名人も大勢あらわれ、流派もたくさんできた。関口流はじめ起倒流、天神真楊流、良移心当流、心明活殺流などなどである。ところが、明治維新になり、サムライの世が終わると、野蛮なものとして衰退の一途をたどった。明治8年、遠く鹿児島で武士たちが反乱を起こそうとしていた。しかし、東京は何もかも文明開化に向かって流れていた。この騒然とする街中を一人の学生が柔術の道場を探して歩き回っていた。この年のはじめ、ドストエフスキーは『未成年』の連載を開始した。 




通信102

嘉納治五郎とドストエフスキー (2)  

(本論は、2006年11月18日に開催された第177回例会で報告した「団塊世代とドストエフスキー」の最後に少し触れた話に加筆し改題したものです。加筆したため、前半に前回と重複個所があります。
参考資料: 『嘉納治五郎著作集』(さつき書房1992・7・28)他

 なぜ嘉納治五郎をドストエフスキーの俎上にあげるのか。結論的に言えば、それは両者の、理想が同じであるからに他ならない。筆者は、これまでスポーツとして柔道をつづけてきたが、創始者嘉納治五郎が唱える理念のなかにドストエフスキーとの一致を感じたのである。
 理想到達への手段として、ドストエフスキーが作品や講演などで訴えたように、嘉納治五郎も、教育と柔道をひろめることによって目的に近づこうとした。まったくの想像だが、そのように解釈したのである。その理想とは何か。ドストエフスキーの場合、すでに多くの研究者や読者が、金鉱掘りのように挑戦している。その成果は、これまでに出版されたドストエフスキー関連の書物の多さが証明している。司書・佐藤徹夫氏が出版した『日本におけるドストエフスキー書誌』(私家版)をみればその実態がわかるというもの。
 が、嘉納治五郎の場合はどうだろうか。教育に尽力した実績同様、柔道に秘めた理念も、殆ど知られていない。そこで本論では、嘉納治五郎が発信しつづけた教育・柔道理念の考察と検証をすすめて行くことにする。それによって、ドストエフスキーとの関係性が立証できれば幸いである。

二、柔道とは何か 

 なぜ「嘉納治五郎とドストエフスキー」か。この謎を解く前段階として、まず「柔道とは何か」を知る必要がある。簡単に説明したい。
 柔道は、嘉納治五郎が考えた近代日本の武道だが、いまや世界のJUDOになっている。一人の人間が考案したスポーツが、短期間でこれほど広く世界に普及した例は他にない。相撲は、日本の国技として、誰もが知っている。柔道も、ほとんど国技といっても過言ではない。日本においてどれほど柔道が知られているか。公立の中学、高校では、教育の一環として正規の体育の授業に取り入れられているところが多い。おそらくその認知度は、相撲同様100lに限りなく近いといえる。早い話、日本人なら誰でも知っているスポーツといえよう。
 アメリカ人のヒーローはポパイやスーパーマン、最近ではスパイダーマンといったところだ。日本人のヒーローは、古くは鞍馬天狗、猿飛佐助、明智小五郎など様々なヒーローが生まれ出た。が、ほとんどのヒーローは時代の流れのなかに消えていった。そんななかで、依然として現役ヒーローであり続けている人間が二人いる。一人は映画『男はつらいよ』の車寅次郎、もう一人は小説『姿三四郎』の姿三四郎である。
 姿三四郎は架空の柔道家だが、国民的ヒーローである。三四郎の名は、日本では、柔道の代名詞になっている。強い選手に、マスメディアは、こぞって「昭和の三四郎」、「平成の三四郎」、「女三四郎」といったように見出しをつけた。世界のクロサワの第一作二作映画『姿三四郎』も有名である。姿三四郎でなくて、実際の柔道家でも、山下泰裕は『山下少年物語』という映画になったし、国民栄誉賞を受賞した「ヤワラちゃん」こと谷(田村)亮子も、多くの人がその名を知っている。レコード大賞をとった美空ひばりの「柔」は柔道を歌ったものだ。このように柔道は、日本人中の人々に親しまれひろく深く根づいている。
 しかし、これほどまでに知られている柔道だが、ドストエフスキー読者のあいだでは、有名無実といえる。柔道のことを知る人はあまりいない。現に、筆者は四十年近くドストエフスキーの例会や読書会に参加しているが、ただの一度も柔道経験者に会ったことがない。このことは柔道の場でもいえる。私は、五十年近く、柔道を続けているが、道場でドストエフスキーを読んだという人に出会ったことがない。両者には、こうした現実がある。故に、両者の詳しい紹介は必要である。が、本論はドストエフスキー読者に向けてのものであるから、ここでは「嘉納治五郎と柔道とは何か」に焦点を絞って進めることにする。
 柔道の誕生は、明治15年(1882年)2月である。23歳で学習院講師をしていた嘉納治五郎(1860〜1936)が上野の永昌寺に「日本伝講道館柔道」として創立した。余談になるが、筆者は、以前、偶然にこの跡地を知り境内に入ったことがある。

 1996年の夏だった。私は家族と浅草の浅草寺を詣でたあと,上野に向かって歩いていて偶然に「講道館発祥の地」の石碑を見つけた。柔道を愛する者ならそうだが、いつか訪ねてみたいと思っていただけに予期せぬ出会いに感激した。石碑の背後に小さな寺があった。埃のついた木の表札に永昌寺と記されていた。この寺のことは、いろんな読み物で知っていた。
 ここがそうか・・・。私は感嘆して覗きこんだ。狭い境内は閑散としていた。本堂らしき建物は古ぼけ朽ちていた。どうみても荒れ寺の雰囲気である。冨田常雄の小説『姿三四郎』や黒澤明監督の映画から思い描いていたお寺とは随分、印象が違った。小説や映画にでてくるお寺は、もっと広壮というか威風堂々たる建物であった。それだけに私は、ここがあの矢野正五郎(『姿三四郎』の登場人物)、いや嘉納治五郎が柔道を誕生させたところかと、感慨にかられながらも、あまりに小いさな古ぼけたお寺に些か落胆した。それでも「ここから柔道が・・・」と思うと胸高鳴るものがあった。私は急に懐かしさを感じ、勝手知ったる家のように門の中に足を踏み入れて行った。右脇に住職の家か木造の古い平屋があって、庫裏らしきところでお年寄りの婦人が一人立ち働いているのが見えた。私は、思わず「道場はどのあたりにあったのでしょうか」と、尋ねようとして声を呑んだ。嘉納治五郎が,この地に講道館を設立したのは明治十五年、百十余年も前のことである。いくらお年寄りといえ、知るはずがない。私はひとり苦笑して立ち止まった。
 とはいえ百十余年前、若き日の嘉納治五郎がここで柔道を教えはじめたのは事実なのだろう。嘉納は、そのときのことをこう書いている。
 
下谷稲荷町の永昌寺という寺の書院と付属屋をかりてそれへ移った。付属屋には書生を、書院二間を自分の書斎とした。そのうちの一間は相当に畳数も敷けるから、これを道場にすれば自宅で稽古が出来るというわけで…ここで形、乱取の稽古をした。…こうして書院で稽古する故、ときにねだがぬける。そうなると富田(一番弟子)が縁の下へもぐり込む、自分がこれに蝋燭を見せて修繕をするという始末であった。そこで住職はしきりと心配をする、…そこでやむなくこの座敷の稽古をやめて、新しく12畳の道場を付属屋の続きに建てて、坊さんの抗議にこたえることにした。(嘉納治五郎著作集 第三巻「講道館の創設」)

 道場の苦労ぶり、それを思うと、なにか親しさがこみあげてきた。
私は、この十年間、息子が通う町道場で高齢な道場主に代わって地域の青少年に柔道を教えてきた。が、ある事情から二ヶ月ほど前にその道場を引き受けることになった。道場は、トタン屋根の木造平屋建てである。が、道場とは名ばかりの廃屋同然の建物だった。二十三歳の学習院講師・嘉納治五郎と、五十歳を目前にした私とでは能力体力共に雲泥の差はある。が、こと道場で苦労しているという点では、同じかも知れない。いや、もしかして私の方が幾分ましといえる。嘉納治五郎の道場は12畳だが、私の町道場は、ひどく老朽化してはいるが、ちゃんとした一戸建てで35畳もあるのだ。もっとも根だの心配は同じである。
 しかし、どんな道場でも、開くことができ、つづけられるということは、年齢、時代に関係なく辛くもあり喜びでもある。私は、何か立ち去りがたい思いに駆られてしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。熱いシンパシィが胸の底からわきあがった。ちなみに五十年後、永昌寺を訪れた作家の戸川幸夫の印象は、嘉納治五郎が書いた寺風景と少しばかり違っている。作家は、当時の様子をこのように思い描いている。

 ・・・永昌寺の門を入ると正面に破風造りの堂々たる玄関があった。玄関から右折すること五、六間、そこにまた小さな冠木門がある。その突き当りに格子戸造りの平民的な玄関があった。この構えは一見寺の内部とは連絡なき一廊とも見えた。・・・差し当たりこの一廊の六間を賃貸して寓居とせられた。お寺はどこでも概して閑静で脱俗的で、しかも建物が広壮であるから住居としても、道場としても、普通の民家よりは感じが良かった。
 ・・・書院の前には池があった。池の向こう側は昔風の土塀で囲まれ、その土塀の内側には樫が並び植えられて、こんもりと生い茂っていた。その外側は往来で、人呼んでこの辺りを下谷のうめ堀と称していたから多分昔埋め立てた処であろう。そして永昌寺の門前は即ち上野浅草方面に通ずる稲荷町通りで現今は電車が走っている。以上は私の頭に浮かぶ五十年前の昔となった講道館発祥の地、下谷永昌寺のスケッチである。 (戸川幸夫著『小説嘉納治五郎』読売新聞社) 


この年の秋、私はわたしが引き受けることになった道場のことを、新聞の投書欄に書いた。 

地域に必要な子供たちの場
 いま町道場で子供たちに柔道を教えている。半年前高齢の道場主から都合で続けられなくなったと相談された。築三十年近く、根太は腐り、雨漏りはするオンボロ道場で、けいこにくる子供もわずかだった。が、私は息子が十年以上も通った道場だけに愛着があった。一人でも子供がいる限り町道場の灯を消したくない。そんな思いもあって引き受けた。町道場をやってみてわかったことがある。柔道場に限らず子供たちが運動する場所が、地域にはあまりにも少ないということだ。最近の子供は体力が下がってきているという調査がある。が、子供たちはランドセルを置いてもどこにも行く場所がないのである。テニスコート、ゴルフ練習場、ダンス教室と、大人が運動する場所はたくさんある。それに比べ、子供が思い切り体を動かせる場所は、皆無に等しい。スポーツ都市宣言などで、公共施設は立派なものが完備されている。が、地域においては空地すらない。町道場も激減している。子供たちの体力づくりを真剣に考えるなら、地域施設の整備が先決だろう。柔道大会に向けて、子供たちは床の抜けそうな道場で一生懸命、けいこしている。1996年・平成8年)11月5日火曜日朝日新聞「声」欄

 
 「柔道とは何か」―、私の道場のことに話が逸れてしまったので話を戻そう。何事にもはじまりはある。「柔道」は、明治15年に嘉納治五郎が創設した武術の新興流派だが、元となる柔術の歴史は古い。柔術のように手に武器を持たない格闘技は、世界各地に昔からある。はじめはたんなる力比べだったが、発達してヨーロッパではレスリングやボクシングに、中国では、拳法に、日本では相撲や柔術になった。記録としては、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)のなかに「ちからくらべ」の記述がある。建御雷神(たけみかずちのかみ)の力を表現して、若葦をかるがごとく、つかみ、ひしげて投げ給う、と書いてある。その後、力くらべは洗練されいくつもの技ができその過程で柔術が生まれたといわれる。
 柔術、すなわち柔。この起源は諸説ある。が、一つに関口柔心説がある。根拠は、倭訓栞(やまとおしえのしおり)の、やわらの条に、柔術などいえり、紀州の関口柔心を祖とする。
 小さい者が大男を投げる。この技を習得すれば、武器を持たずして簡単に勝てる。ということで、江戸時代(1603〜1867年)には、さかんになって体系的にも組織され名人も大勢あらわれ、流派もたくさんできた。関口流はじめ起倒流、天神真楊流、良移心当流、心明活殺流などなどである。ところが、明治維新になり、サムライの世が終わると、野蛮なものとして衰退の一途をたどった。明治8年、遠く鹿児島で武士たちが反乱を起こそうとしていた。
 しかし、東京は何もかも文明開化に向かって流れていた。この騒然とする街中を一人の学生が柔術の道場を探して歩き回っていた。この年のはじめ、ドストエフスキーは『未成年』の連載を開始した。

三、嘉納治五郎と柔道

 1875年、明治八年のことである。八年前、江戸改め東京となった日本の首都は、文明開化の国策のもと日毎に西欧化がすすんでいた。大火に見舞われた銀座、京橋、築地には、ガス灯、アーク灯などが設置され、赤煉瓦の建物が並ぶ西洋風の街並みに一変していた。が、下町は相変わらずの江戸の風情だった。この新旧ごった返す街を、袴姿の若者が、神田神保町界隈を歩き回っていた。古本屋に入っては、すぐに出てきた。よほど貴重な書物を探しているのだろうか。尋ねられた店主は、首をふるばかりだった。
 彼は、一体何を探しているのか。暫く後を追ってみよう。若者は、何軒目かの古本屋に入った。古本屋は慣れているようだった。若者は、積み上げてある新書、古書には目もくれず、どんどんと店の奥に入っていくと、そろばんをはじいている店主に声をかけた。店主と若者は、想像するにこんなやりとりをしていた。「このあたりに柔術の道場はないですか」
 「柔術ですか?」店主は、眉をひそめると怪訝そうに聞いた。「ケガでもされたのですか」
接骨師を探していると思ったようだ。維新以来、武道家は、零落した。剣術家は、見せ物小屋で、柔術家は、接骨師として糊口をしのぐ他なかった。
「いえ、柔術を教えてくれるところです」
「どなたがが習うんです?」
「わたしです」
「え!学生さんが?」
 店主は、不思議そうに若者をみた。店主の驚きも無理なかった。四年前に廃藩置県があり、だれもかれもが文明開化に向かって熱中しているご時勢である。そんなときに柔術を習う。また、元のサムライの時代に戻ろうというのか。みれば洋書を手にした学生のようだ。なぜ、どうして、という疑問も当然である。
 この年、明治八年(1875)いえば五月に福沢諭吉が三田演説館を開館した年である。勉学の志ある若者は西洋の知識と学問を学ぼうとしていた。そんな学問事始ともいえる時代である。にもかかわらず、その若者は、柔術を習おうと柔術を教えてくれる道場を探し歩いているのだ。体つきも小柄で、とても武道をやるといった体格ではなかった。
 若者の名は嘉納治五郎。このとき嘉納は(東京外国語学校)英語学校を卒業し、開成学校(二年後の明治十年に東京大学と改称)に入学したばかりの学生であった。なぜ、治五郎は柔術を習おうとしたのか。その前に、どんな将来の夢があって開成学校に入学したのか。自伝によると嘉納は、そのことについてこう述べている。
 開成学校に入った頃から将来どういった方向に進むべきかとまじめに考えるようになった。元来自分は数学が好きだったから数学を多く使う天文学をやってみたいと最初は考えていた。だがまた一方から考えて人事上の事で尽くした方がいいかなとも思い、大学に入るまでははっきりした決断はつかず、そんな状態で文学部に入った。(当時の法学部は法律学だけで政治経済などは文学部に属した)。
 早い話、はっきりした目標はなかったようだ。ただ根っからの勉強好きで、とくに語学には秀でていたという。性格は、負けず嫌いで「なにくそ!」が口癖だった。その嘉納が、なぜ柔術に興味をもったのか。「柔道とは何か」その将来について後年、嘉納はこんな理想を持って事あるごとに口にしていた。
 柔道による人間完成と、ひいては柔道による世界人類共存共栄・・・
 つまり「精力善用」「自他共栄」に表現される。が、これはあくまでも後年になって意味づけたもので、柔道をはじめた真の動機は、まったく違うらしい。そこのところは、『嘉納治五郎全集』「なぜ柔道をはじめたか」でこのように吐露している。
・・・柔術を学びはじめた動機は今日自分が柔道について説いていることとはまったく異なったものであった。

 嘉納治五郎の生家は裕福な造り酒屋である。灘の銘酒『菊正宗』本舗の一族。三男坊。父親は明治政府に起用され官界に入り通商、土木、造船、皇居の造営に関係した。十歳のとき母親を亡くすが、いわゆるお坊ちゃん育ち。
 家が裕福で勉強ができる。そのうえ負けん気が強い。まさに鬼に金棒、子供のころはさぞ我が世の春であったろう。だが、青春期に集団のなかに入って、はじめ知る屈辱。明治六年(1873)、治五郎は英語・読後・普通学を学ぶため英語学校の育英義塾に入学した。そして、塾の寄宿舎での生活。ここで治五郎は、勉強や負けん気だけではどうにもならないことがある現実をはじめて知った。正しい意見ではなく、力の強い者の意見が通る世界。このころのことを嘉納は、後にこのように述懐している。

・・・自分は今でこそ普通以上の強健な身体を持ってはいるが、、その当時は病身というのではなかったがきわめて虚弱なからだであって、肉体的にはたいていの人に劣っていた。それゆえ往々他から軽んぜられた。学問上ではたいていのものに負けないとの自信がありながら、往々にして人の下風に立たされた自分は、幼少の時から日本に柔術というものがあり、それはたとえ非力なものでも大力に勝てる方法があるときいていたので、ぜひこの柔術を学ぼうと考えた。・・・(『嘉納治五郎全集 第三巻』)
 今日、イジメは社会問題になっているが、イジメは、いつの時代にもあった。理不尽な仕打ち。力の弱いものは、ただ服従するしかなかった。正義を押し通すことのできない悔しさ。昔の剣豪のように強くなりたい。たいていの少年が持つ夢を嘉納治五郎も持ったようだ。
 しかし、どうすれば強くなれるのか。既に刀は禁じられている。とすれば後は柔術しかない。体の小さかった治五郎が、柔術に憧れるのはごく自然のことである。治五郎は、あちこち人を介して柔術の道場を探した。が、なかなか見つからなかった。やっとさがしても、・・・今時そんな必要はないといって顧みてくれなかった。
 だが、もはや憧れだけではいられない事態となった。翌八年、治五郎は開成学校に入学した。十六歳の治五郎を襲ったイジメは、英語学校の育英塾の比ではなかった。いくら「なにくそ!」と叫んでも非力な治五郎には、どうすることもできなかった。こんなこともあったと同級生(加藤仁平)が記している。
 学生の中には旧藩そのまま腕力をほこるのがある。特に高知県から出た・・(誰々)が主導者の形をなして、事があれば人を殴った。千頭は構内一の元気者で、ある日、嘉納治五郎が気に食わぬと、ひどく殴りつけたが、嘉納は手向かいできなかった。・・・・・・・(戸川幸夫『嘉納治五郎』)
 治五郎の悔しさは、いかばかりであったろうか。「柔術修行の希望はますます深くなった」しかし、父親は「そんな必要がないと同意してくれなかった」。たいていの子は、ここで不登校になってしまうが、治五郎は違った。もう人を当てにしてはいられない。なにがなんでも柔術を修行するのだ。そんな決心をして、自分の足で探し始めたのである。明治十年に創立したばかりの東京大学文学部の学生が、強くなりたくて柔術の師を求め歩いている。かなりの変わり者に思われたに違いない。
 ちなみに「明治十四年の東京大学卒業の学位授与者が法、文、理、医科を合わせて六十六人というから」嘉納治五郎の存在は東京では珍しかったといえる。




通信103

嘉納治五郎とドストエフスキー (3)

前回まで、一、なぜ嘉納治五郎か。二、柔道とは何か。三、嘉納治五郎と柔道。

四、文明開化と柔術

 1879年(明治12年)は、日本にとって重要な年だった。前々年西南の役で西郷隆盛が死に、前年大久保利通が暗殺された。当時、日本にいた外国特派員は、明治政府というより日本を代表する二人の巨人の死を世界にこう伝えた。
「西郷は、もっとも優れた、勇敢な、そして信頼された陸軍大将の一人であった。彼の死は、反乱軍(Rebel)の指導者であったにもかかわらず、すべての地方の人々によって悔やまれた。(1877年11月28日付け『ザ・タイムズ』)
「日本の内務卿大久保利通は、1878年5月14日に馬車で首都のミカドの宮廷へ向かう途中で暗殺された。わずか42歳(実際は49歳)という年齢にもかかわらず、この著名な政治家は、自国に対して多くの偉大な功績を残した。彼は1868年のタイクンすなわち将軍がにぎっていた支配権を奪い返してミカドの帝國政府を復活させたあの運動の、もっとも活動的な指導者の一人であった(1878年8月3日付け『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ』)

 相次ぐ明治の立役者の非業の死。明治維新から12年、世界から見て「日本人とは何か」は、まだ混沌としていた。崩壊していくサムライ社会にあって、その先に見えるものは近代国家の幻影でしかなかった。この時代、西欧かぶれの愚行、それ以外、たしかなものは何もなかった。鹿鳴館時代がはじまろうとしていたのである。幕末の儒学者であり洋学者の佐久間象山が理想とする新しい日本人「東洋の道徳、西洋の芸術」は、ほど遠かった。夏目漱石の『三四郎』が朝日新聞に連載されたのは、明治41年(1908)だから、1879年からは既に29年が過ぎている。にもかかわらず小説の中では、こんな会話がなされている。
「… いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、―― あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものだからしかたがない。われわれがこしらえたものじゃない」
「しかしこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男はすましたもので「亡びるね」と、言った。(夏目漱石の『三四郎』)

 漱石は、この作品発表の前年、一切の教職を辞して朝日新聞に入社。新聞小説家になった。そうして、読者が好みそうな不倫小説を書き続けていくことになる。漱石は、いったい日本と日本人にどんなふうになつてもらいたかったのか。主人公の小川三四郎は、23歳の若者らしく日本の未来に希望を持っている。いつの日か西洋人と肩を並べられる日本である。が、「亡びるね」と言った男、広田先生の頭の中には、「ひいきの引き倒しになるばかりだ」の日本の姿がある。もしかしたら男は、ヒロシマ、ナガサキに向かってゆっくり走り出してしまったあぶない日本が見えていたのかも知れない。しかし、当時の知識人は福沢諭吉をはじめ日本に急速の西欧化を望んでいた。なりふりかまわず、とにもかくにも「西洋に追いつけ」である。漱石は1867年生まれだから、ほとんど明治とともに育ってきた。この作品を書くまでの40年という長い歳月、ひたすら文明開化と富国強兵にばく進する日本を見てきたわけである。が、さすがの漱石も、日本のあるべき姿を、捉えることができなかったようだ。作品では男に「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と、述べさせている。しかし、そこに確固たる日本社会と日本人像は、まだ見えていない。広田先生も、また『悪霊』のステパン先生のように理念理想の権化となるしかなかった。西洋文化文明が濁流のように流れ込んでくる中で、明治の人たちは表層だけに目を奪われてただただ洋ものを真似ることしか頭になかった。そうして階級社会をつくり弱いものにたいしては、カラ威張する歪んだ「迷える子」に育っていた。多くの明治の人たちは、人類の目的も、人間とは何かも、考えることすらしなかった。
 冒頭に、この年、明治12年(1879)は、日本にとって重要な年と書いた。それはこの年の7月にアメリカ第18代大統領だったグラント将軍が、世界旅行の途中で日本に立ち寄ったことにある。思えば僅か25年前、1854年、再来日した米国ペルー艦隊は、武力交渉で日米和親条約を締結させた。あれから25年、日本を開国させた国の元大統領が旅の途中とはいえ来日したのである。グラントは、ただの大統領ではない。あの南北戦争で勇名を馳せた将軍として知られていた。彼の目に日本は、どう映ったのか。最も優れた、勇敢な、人望厚い軍人を内戦で失い、最も重要な地位にあった政治家を暗殺で失った国。足並みの乱れは、すでに世界に打電されている。いまさらつけ刃の文明開化をみせたところで軽蔑され、物笑いの種にされるのがオチである。小泉八雲もそうだが、このころ日本にきた外国人の多くは、日本の近代化に尽力したが、彼らが真に愛し尊敬したのは、日本古来の伝統文化だった。
 そのことを敏感に察していた日本人もいた。人間の自由のために同胞と戦った将軍が満足するもの。それは、日本古来の武術より他にない。さすが財界の大御所渋沢栄一といえる。渋沢も、この時代にあって、かって勝海舟が幕臣という枠を超えて日本人であったように、彼もまた日本人という枠を超えた国際人だったに違いない。8月5日、渋沢は、グラント将軍一行を、飛鳥山にある別荘に招待した。将軍に日本古来の武術をみせるのが目的だった。『三四郎』の広田先生は、富士山を見て「あれよりほかに自慢するものは何もない」と、言った。が、まだまだ見せるものはあったのだ。柔術と剣術である。幕末以来、凋落の一途をたどる武道家に、一瞬ではあるが光が差した出来事だった。
 グラント将軍は、辟易していた。案内されてみせられるもの、すべてヨーロッパ文明の物真似である。ちょんまげを切り、刀を捨て、ドイツ、英国を一等国だと敬っている。アメリカには、伝統文化はない。それだけに、二百年も鎖国をしていたこの国にみるなにもかもが珍しく貴重だった。だが、この黄色なチビザルたちは、いとも簡単に、それらを捨て、ヨーロッパ貴族のマネをはじめている。夜会を開くために、その建物を作るつもりだ、と聞いたときは、椅子から転げ落ちるほどにズッコケけ笑った。そして、不気味に思った。このサルたちは、白人のようにやがてはアジアに乗り出していく。そんな予感がした。自分たちが六十万同胞の血を流して戦った人間の自由と尊厳。そんなものを水泡に帰すほどの野心をこのサルたちに感じた。いっそうのこと、ヨーロッパの連中と手を組んで、この混乱期にこの国を分割した方がいいのでは。もしかしてそんな考えが、頭をかすめたかもしれない。
 グラント将軍は、柔術と剣術の演武に目を見張った。アメリカでも西洋でも闘いは、相手を打ち負かす手段でしかなかった。力によってたたき殺せばそれでよかった。だが、彼らが目にしたのは、歴史の中で磨かれた礼と技である。華麗な体裁きによって、人が飛び、人が転ぶ。柔術の、演武の中で一人、衆目を集めた武術家がいた。細く小柄な若者だった。ほとんどが中年以上の柔術家のなかにあって、彼一人が目立った。熱心にみていた将軍たちの周辺でこんな会話があった。
「あの若者は、だれか」グラント将軍は、同行のアメリカ人記者ジュリアン・ストリートに聞いた。
「学生と聞いています」
「東京大学の文学部の学生です。外国語、とくに英語を得意としています」渋沢は、つけ加えた。将軍が興味をもってくれたことがうれしかった。
「若者は、とくに才能ある若者は、サムライ文化には興味を示さないと聞いたぞ。そうだな」
「はい、将軍!」記者は、元気に答えた。日本のことなら、なんでも調べ上げているぞ、そんな口ぶりだった。「タイクンからミカドになってから、サムライ文化は、滅びに向かっています。われわれのシャイアンと同じです。若者は、みな西洋文化に魅せられています」
「あの若者は、なぜサムライ文化を学ぶのか」
「たぶん、今日のために」記者は言葉を濁した。彼は、出演者の人選の過程を知らなかった。
 この日、柔術部門の人選を任せられたのは、天神真楊流の磯正智だった。磯は、ご維新以来すたれていく柔術に胸を痛めていた。柔術家は、生活に困り、接骨師か、ゴロつきの片棒を担いでいる。早い話、ろくな柔術家がいなかったのである。そんな中で、同門の福田八之助道場に、熱心な学生が通っている話は有名だった。ということで白羽の矢が立ったのである。このときのことを嘉納治五郎は、「柔道家としての私の生涯」のなかで、このように話している。
 
福田の道場へ通った時代の一つの記憶として残っているのは、米国のグラント将軍の来朝のときのことだ。渋沢が日本の柔術を将軍に示したいというので磯正智に依頼し、同氏の手で同流の柔術家を多くかりあつめて飛鳥山に行ったことがある。そのとき五代と自分とが乱取りをしてグラントに見せた。この時のことを米国のジュリアン・ストリートという有名な記者が書き記している。(『嘉納治五郎著作集 第三巻』)
 「きみは、東京大学の学生だそうだが、なぜ、サムライ文化を学ぶのか」
グラント将軍は、若者を呼ぶとたずねた。
 将軍が疑問に思うのももつともなことであった。当時、一般の日本人にとって・・・柔術とは過去における、極言すれば日本が文明国に仲間入りする前の野蛮な風俗の遺風で、これを世界に知らすことさへ文明に対して恥辱と考えていた時代・・・(富田常雄)
 それなのに、この小柄な、あきらかに拳闘士には向きそうにない若者が「野蛮きわまりない手を出しているだけで軽蔑される」ものを学んでいる。
「自分を鍛えるためです」
若者は、英語で快活に答えた。流暢な英語だった。あまりの流暢さに将軍は、思わず聞いた。
「英語は、どこで覚えたか」
「自分で学びました」
独学で覚えたことに感心した。が、辞書を全部写して覚えたということまでは知らない。
「この国の若者は優秀なのです」記者ジュリアンは、苦笑して耳打ちした。彼は、取材から、この国の若者が、アジアのどの国の若者より向学心があることを理解していた。
「ほうそんな優秀な若者でも腕力で強くなりたいのか」グラント将軍は、訝しんで聞き直した。「そうか」
「はい、それもあります」若者は、頷いきながらも答えた。「それだけではありません」
「それだけではない。それは何か」
若者は、困ったように微笑んだあと、しっかりした口調で言った。「日本の武道は、勝敗だけではないからです」
「勝ち負けがすべてではない、というのか」将軍は、微笑んだ。「負ければ、なにも残らん。闘いとは、そういうものではないか」
ゲティスバーグに並ぶヴィクスバーグなど幾多の激戦地を勝利してきた将軍の言葉だった。
「はい、そうです。しかし、全てを失っても、精神が残れば、いつの日か、勝利をおさめることができます。武道には、それがあるのです」
 南北戦争の英雄。そしてアメリカ合衆国の大統領を務めた男。この歴史的人物に、臆することなく堂々と柔術の何たるかを説く若者。こんな若者がいるのか。この国を分割するのは難しいかも・・・若き日の嘉納治五郎との対話に将軍の野望は潰えた。
以上は架空対談だが、記者ジュリアン・ストリートは、この日の武道家たちの練習の様子を書き残しているという。
 しかし、当時二十歳の治五郎は、武道に対してまだ確たる理念を持っていたわけではない。文明開化の嵐の中、野蛮なものとして軽蔑されていた武道を身につけたいと思ったのは、やはり当初の動機と、そう進歩はない。また、その頃の柔術家の考えはこのようでもあった。
 ・・・自分が柔術を習い始めたのは維新後であったが、当時教えてくれた先生方の考えは、それまでの武術家と同様に攻撃防御の術を練習するにあった。もとより練習の結果として身体も丈夫になり、精神の修養も出来たには相違ないが、眼目とするところはそこにはなく、ただ強くなることだった。自分も最初習いに行くようになったときはやはり攻撃防御の術を体得したいというのであった・・・(『嘉納治五郎集』)

 ただ強くなればいい。その目的は、嘉納治五郎の信念のもと少しずつ変わっていった。しかし、近年になって日本柔道はお家芸、国技ということで、負けてはならないようなものに思われてきた。当時、勝敗にこだわっていた西洋人は、反対に柔道の意味を理解しはじめた。
 そのことの例として、カラー柔道着問題があった。いまでは、試合で珍しくないが、十余年前は、この問題で西洋と日本が対立していた。東京大会で敗れた日本は、こだわり続けていた。その一つに絶対譲れないものとして柔道着の「白」があった。

カラー柔道着いいじゃないか(下原敏彦)
 11日の本紙「主張・解説」欄の「カラー柔道着 問われる国際化」を読んで、東京五輪無差別級金メダリストのヘーシンク氏の言葉に納得した。
 私は、柔道を愛する者の一人として、これまで柔道着のカラー自由化には反対だった。この問題が話題になるたびに「やっぱり西欧人にはわからん」と聞くみみは持たなかった。柔道着は「白」以外にない。これが日本の「伝統文化」であり、「武道の魂」である。こんな固定観念に懲り固まっていた。これがどんなに傲慢で不遜な考えか分からなかった。だが本紙でカラー柔道着の発案者であるヘーシンク氏の「子供たちのため、、柔道の将来のためにいい、と思うことをやっているだけだ」という素直な信念を知って、はじめて目からウロコが落ちた。今日の柔道界に、この言葉に勝る言葉があるだろうか。今や試合で勝つ者だけを育てることにきゅうきゅうとする日本柔道。創始者嘉納治五郎の説く「融和強調・自他共栄」の精神からは程遠い感がある。思えば柔道こそ、、あらゆる伝統文化の殻を打ち破って生まれたスポーツではなかったのか。人類の向上と全世界の平和を目指す手段としての競技であったはずである。白の青のと外見の論争をする前に、柔道の根本精神とは何であったか、いま一度、初心に帰って考えてみてはどうだろうか。(朝日新聞 1994年5月17日 「声」欄下原敏彦) 


参考資料: 『嘉納治五郎著作集』(さつき書房1992・7・28)他
日本滞在中の記事はドナルド・キーン『明治天皇』(新潮社, 2001)によった





通信104

嘉納治五郎とドストエフスキー(4)

嘉納治五郎とは何か


 本論は、2006年11月18日に開催された第177回例会で報告した「団塊世代とドストエフスキー」の最後に少し触れた話に加筆し改題したものです。
参考資料: 『嘉納治五郎著作集』(さつき書房1〜3巻)『志賀直哉全集』(岩波)他
前回迄、第一部 一、なぜ嘉納治五郎か。二、柔道とは何か。三、嘉納治五郎と柔道。四、文明開化の嵐の中で。

 例えばドストエフスキー研究者高橋誠一郎著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社2007.7.19)の序章はこんな一文で締めくくられている。
 
私たちはこの考察をとおして、「祖国戦争」からクリミア戦争にいたるロシアの「暗黒の三○年」と呼ばれる時期が、日露戦争から「大東亜戦争」にいたる時期と極めて似ていることを明らかにできるだろう。すなわち、ドストエフスキーの変化をきちんと分析することは、「明治憲法」を勝ち取った日本の知識人が、なぜ「憲法」を持たなかったロシアの知識人と同じように破局的な戦争へと突き進むことを阻めなかったのかを考察するために必要な作業である。
 近代日本の歴史を振り返ったとき、どうしても解けぬ一つの謎がある。明治、大正、昭和(戦前)をみたとき立派な、といわれる人たちは数知れない。文人、政治家、科学者、思想家、教育者などなど、どの分野においても、秀でた人物が続出している。彼らは、いまもって一流の人材である。日本は、ばら色の国になるはずであった。人類の理想郷ユートピアにいち早く近づける。そんな可能性さえ秘めていた。だがしかし、日本が行ったのは、国民を戦争に駆り立て、他国を隷属化し、そしてヒロシマ、ナガサキに向かわせることだった。毎年のように教科書の歴史問題が話題になるが、これはまぎれのない事実である。この不幸は、単に時代の流れでは片付けられない。なぜなら、それら歴史的事実は、2×2が4ほどに、明確な未来であったからだ。この方程式、凡人には解けなくても、非凡人には解けたはずである。それなのに日本は、なんの躊躇もなく、まるで濁流に向かって行進する鼠のように行進した。あんなにも多くの知識人を擁した日本は、なぜ破局的な戦争に突き進んだのか。阻止し、方向を変えることができなかったのか。高橋氏が指摘するように大きな謎を感じる。
 維新前夜、新しい日本の姿を思って幕末の儒学者・佐久間象山(1811-1864)は、理想国家建設の理念として「東洋の道徳、西洋の芸術」を掲げ終生の信念とした。ここでいう「道徳」とは政治である。儒学者象山は「政治は道徳に従って行われねばならず、政治家は最高の道徳家でなければならない。/道徳イクオール政治だと表現しても、決してまちがいではない。」今日の金銭感覚が麻痺した政治家には耳に痛い言葉だが、象山の政治に託す信念はこのようであった。象山は、政治に関しては血生臭い争いを繰り返す西欧より、王様が治める東洋の政治の方が優れていると思ったのだ。これは同時代を生きたドストエフスキーの考えに近いものがある。新しい時代の国づくりは、この東洋の道徳政治に、「西洋の芸術」すなわち科学技術をあわせれば完璧なものになる。
 ”政治制度は、やはり東洋諸国で行われている儒学思想の教えに従うのがよい。だが、科学技術は、西洋諸国のものがすぐれているから、それを採用しよう”(『佐久間象山』清水書院)
 まさにドストエフスキーが掲げた土壌主義を彷彿させる手法である。「ロシア人の生まれつきの性格は、とりもなおさずヨーロッパ的であり、世界的であります。真のロシア人たる者は、どこまでもロシア的であり、それだけでなく、この国民だけはね全人類の兄弟といえる民族で、つまり汎人類とでも名づけられるべき民族なのであります」と世界人類の平和を願った土壌主義は、プーシキン講演(1880年6月8日)で人々から熱狂的に迎えられ賛美されたが、一瞬にして忘れ去られた。そればかりか、一斉に非難中傷の嵐が吹き荒れたのである。
 凡俗の者は、ドストエフスキー氏の教えの核心を捉えようと努力すればするほど、益々わけがわからなくなり途方にくれてしまう。・・・さまざまな党派の多種多様な見解や考え方を無理矢理結びつけたこの結合の要はどこにあるかといえば、我々の見るところ、それはドストエフスキー氏がその講演の中心に据えた一つの小さな言葉にある。「へりくだって、祖国の畑で汗を流して働け!」・・・素直に言って、この表現は何一つ本質的な、明確な意味を持っていないし、また持ち得ない。・・・そして、この畑でのへりくだった労働の周りに、苦しみに満ちたロシアの巨大な、全人類的意義というやつが、全世界を仲良しにするロシアの魂の意義というやつが、まつわりついているのである。(作家ウスペンスキー中村訳)
 ・・・彼は、この講演が空虚な、さほど利巧でもないたわごとであるということに気づいたのだった。(ミハイロフスキー『文学的随想』中村訳)などなど、である。
 では当時の日本では、象山の理想をどうみていたのだろう。『佐久間象山』(奈良本辰也・左方郁子共著)の「はじめに」によるとこのように評されていたらしい。
 象山のこの考え方は、幕末期の日本人や、また明治期の日本人に大きな影響を与えた。幕末期や明治期の知識人で、「東洋の道徳、西洋の芸術」という象山の言葉を知らなかった人はいない、といってもよいだろう。それほどの迫力をこの言葉は持っており、われわれの曽祖父の世代は、この言葉を頼りとして日本の近代化をなしとげたのだった。「東洋の道徳、西洋の芸術」という言葉は、近代日本建設の指針だったのである。(『佐久間象山』)
 しかし、その指針は藩閥政治のなかでどす黒く変質していった。
 新しい国づくりに奔走した象山であったが、彼の理念もまた土壌主義がそうであったように保守、革新どちらからも敵視された。象山は、1864年7月11日京都で自宅に帰る途中、暗殺された。54歳だった。暗殺者は、特定されないが長州の久坂玄瑞か肥後の河上彦斎に嫌疑がかかっている。このことは、「東洋の道徳 西洋の芸術」という理想国家づくりを目指すことがいかに難しか証明している。なぜなら久坂は、象山の弟子吉田松陰の愛弟子で超革新派であった。肥後の河上は保守派であった。象山は、右派、左派どちらからも狙われていたのである。
 革新と保守の戦いは革新が圧倒的強さで勝って明治維新がはじまった。象山の理念は新しい明治政府に引き継がれたかのようにみえた。しかし、それはもう象山が夢みた理想国家ではなかった。東洋の道徳は、軍国主義に、西洋の芸術は、侵略と搾取だった。あんなにも優れた偉人たちが生まれたにもかかわらず、日本は、西洋の闇の顔をそっくり真似た奇妙な全体主義国家に変貌していった。そうして、ひたすらヒロシマ、ナガサキへの道を歩んでいったのだ。この間、ただの一人も阻止する者はいなかったのか。否、すべては徒労に終わったが、なんとか方向を変えようと努力し奔走した人たちもいた。今日では、たんに柔道の創始者としての印象が強い嘉納治五郎も、その一人といえる。
 高橋誠一郎氏の論文に『幕末の国際情勢と吉田松陰―『世に棲む日々』をめぐって』(『異文化交流』第八号)がある。このなかで司馬遼太郎が、幕末の英雄吉田松陰を書く理由について
 これらのことを考えるならば、『世に棲む日々』における司馬の意図は、戦前、戦中に作られた松陰像の見直しにあったと言えるだろう。とみている。このことは嘉納治五郎にもいえる。明治、大正、昭和、平成とつづくなかで嘉納治五郎は、柔道の創始者の域をでることはなかった。松陰のように見直しが必要である。

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2007年、世界柔道大会に想う (編集室)
 
 先日、リオデジャネイロで行われた国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事選挙で、山下泰裕氏が落選した。翌日の夕刊各紙は、このニュースを大きく報じた。「山下氏、理事落選」(朝日)、「山下理事再選ならず」(読売)この大見出しに加え、副題では「加盟後初の日本人不在」「日本、執行部外れる」「欧州に主導権」などと危機感を煽っていた。(後日、議決権のない新設理事枠に上村氏が要請されたが、日本側のショックは計り知れないようだ)なぜ、理事の落選がこれほどまでに大きな話題となるのか。一般の人にはよくわからないところもある。新聞によると理事の中に日本人がいなくなると、競技のルール改正などで日本選手にとって、かなり不利になるという。(今回の世界選手権結果もその現れか)。また、ビゼール新会長が会見で「柔道はモダンにならないといけない。」と述べたように、いっそうのスポーツ化がすすみ武道の本質がゆがめられることにもあるようだ。
 が、こうした専門的弊害はさておき、柔道の母国を誇りとする日本人にとって、「本家」低落ともいえる今回の落選は、やはり寂しいものがある。なぜ、国際的にも知名度抜群の山下氏は、再選されなかったのか。それも、大差で敗れたのか。
 これについて山下氏本人は、05年の会長選挙で欧州連盟の対立候補を支持してしまったことを大きな理由としてあげている。政界に限らずどこの世界でも、権力闘争は、あるようだ。他に、「外交下手」をあげる声や「スポーツしか知らない人は通用しなくなった」と時代の流れを指摘する評者もいた。いずれも頷けなくはない見方である。
 だがしかし、「柔道とは何か」を改めて考えたとき、理事落選の真の原因は、もっと別なところにある。そんな気がしてならない。そして、そのことに気づかない限り日本柔道は、世界の中でますます孤立化して行くのではないか。そのように危惧するわけである。
 明治十五年に嘉納治五郎によって創始された柔道は、今日まで125年の間に、すばらしい発展を遂げてきた。「体育の方法として」、「防衛制御の術として」、「精神修養の手段として」、深く日本人に浸透し、世界へひろがった。しかし、その考え方は、世界と日本では、大いに異なってしまった。世界においての柔道は、常に進化・発展する国際競技であるのに対し、日本においては、一貫して伝統の域をでることのない日本武道であった。柔道以前の武士道精神に戻った感さえある。メディアにおいても「本家」「お家芸」「本当の武道」といった言葉がよく聞かれる。このことは実力も拮抗し、柔道人口も日本より多くなった世界柔道にとって大きなジレンマとなった。たしか十三年前、カラー柔道着をめぐって欧州柔道連盟と全日本柔道連盟が対立していた。そのとき、カラー柔道着の発案者で東京五輪無差別の金メダリストのヘーシンク氏は「伝統に固執してばかりいては、国際社会では通用しない(1994・5・11朝日)」と苦言を呈した。その後、カラー化は導入されたが、この対立は、融和されず、今回の落選劇に繋がったのかも知れない。
 伝統と改革は、いつの世でも相容れないものである。が、柔道こそ、その相反するものを折衷融和させ、全世界の人々誰もができる武術として創意工夫された競技ではなかったか。日本は世界と対峙するのではなく、今一度「柔道とは何か」「創始者嘉納治五郎の理念とは何か」についてじっくり考えて欲しい。
 偉大な国際人であり、教育者であった創始者嘉納治五郎が柔道に託したものは、「精力善用・自他共栄」の理念である。即ち全人類の幸福と平和を目指す手段としての競技である。戦前、嘉納は、戦争へ、ヒロシマ、ナガサキへとひた走る軍国日本を止めようと世界を奔走した。しかし軍部は、その理念を排除し伝統のみを国民に押し付けた。戦後六十年、その意識はいまだ消えることはない。選手にとっても、柔道が、旧態依然として狭い日本の武道にのみ留まっているのは不幸なことである。柔道には、守るべき伝統より、人類の向上のためさらなる成長と発展を目指すべきである。何年か前、訪日したロシアのプーチン大統領は、子供たちと柔道を楽しんだ。そのニュース映像に創始者が説く柔道理念の実践をみた。世界の誰もが、人種も身分も越えて柔道を楽しむ光景。そこに「柔道とは何か」の答がある。 





通信105

嘉納治五郎とドストエフスキー (5)


 お断り、前回まで嘉納治五郎と柔道の関係を述べてきました。が、今回からは嘉納治五郎とは、真に何をした人であったのか。その生涯及び思想などを紹介してゆくことにします。

はじめに
 
 本稿は、柔道家嘉納治五郎と文豪ドストエフスキーの理念の一致、すなわち「自他共栄」精神と「土壌主義」を検証し照合することを目的としているが、ドストエフスキーについては、その思想、作品とも既に広く知られていることから、本稿は主に嘉納治五郎のみを論じてゆくものである。これによって、これまできちんと評価されてこなかった、あるいは誤解されてきた嘉納治五郎が、正当に評価されることを願う。併せて、人間嘉納治五郎からドストエフスキーが全人類に示した理念・理想を感じとってもらえれば幸いである。
 
序章 見えざる山脈

乖離した理想 
 嘉納治五郎とドストエフスキーは、まずその知名度において共通するところがある。
 ドストエフスキー 2007年、今年はドストエフスキーブームで新訳『カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫訳の宣伝やら『21世紀、ドストエフスキーがやってくる』(集英社)などの新刊出版や雑誌の特集(『ユリイカ』11月号、『江古田文学』秋号)が相次いでいる。テレビでも首都圏版やETV特集番組で放映された。こうしたブーム現象からロシア文学やドストエフスキーを知らない人でも、読む読まないにかかわらずその名をどこかで目にしたり耳にしたりしているに違いない。数年前までは、ドストエフスキーの名を知る人は少なかった。ある有名大学の研究室で、大学院生が教授に「ドストエフスキーってだれですか」と質問して、教授を愕然とさせたという話が文芸雑誌に載ったほどである。なにしろ、その研究室の研究対象が『ドストエフスキイ論』のバフチンであったというから、教授の驚きもなお更だったようだ。トルストイやシェクスピアは、世界の万人が知るところであるが、なぜかドストエフスキーに限って先ごろまでは、そんなお寒い状態であった。
 嘉納治五郎 有名なはずがよく知られていない。こうした現象は、嘉納治五郎にもいえる。嘉納治五郎について、よほど知っている人でも、「柔道の創始者」の他は、まったく知らない。知られていない。おそらくほとんどの人がそうである。常に嘉納治五郎=柔道なのである。
 室生犀星の詩ではないが、故郷は、離れてみなければ、その良さはわからない。これと同じで人間の評価も時間と距離が必要である。
背後の山脈 たとえば、アンドレ・ジイドの『ドストエフスキイ』(新潮文庫)の冒頭にドストエフスキーについてこんな表現をしている。
 トルストイの巨大な山塊がいまなお地平を塞いでいる。けれども――山国に行くと、遠ざかるにつれて、一番手前の山の頂のうえに、近くの峯にかくされていたもつと高い峯の姿が再三再四現れるのを思いがけず見ることがあるものだが、それと同じように――恐らく、先駆者的精神の持ち主のうちの何人かはすでに巨人とルストイの背後に、ドストエフスキーがふたたび姿を現し、大きくなって行くことに眼をとめているであろう。まさに彼である、まだ半ばかくれている峯、山脈のからみあう神秘な個所の彼である。
 読んだ者にしか見えないが、ドストエフスキーの偉大さは、時間と距離を経るほど、くっきりとより高く見えてくる。嘉納治五郎の場合はどうだろうか。
2008年で没後70年 2008年は、嘉納治五郎の没後70年である。が、そこに見えるのは相変わらず「柔道の創始者」という連峰である。明治、大正、昭和、平成。時代は流れても、柔道という嘉納治五郎山脈は、毅然と聳えつづけている。背後には、もはや山脈は存在しない。
 
世界の柔道人口約900万人

 柔道という名の嘉納治五郎山脈の背後には、何もない。そう思えるのも当然である。1882年(明治15年)嘉納治五郎がたった一人の弟子とはじめた柔道は、瞬く間に普及し125年を経た2007年現在、全世界で900万人を超す競技人口を持つスポーツとなっている。1964年開催の第18回東京オリンピックの正式競技に採用されてから毎回、その盛大さを増している。この急激な進歩と発展で嘉納と柔道は、一つの巨大な山塊となった。
 柔道山脈の背後にある山 二十一世紀においても依然と聳えつづける巨大な柔道山脈。やはり、その背後には、何の山脈も存在しないのだろうか。否、いま少し、離れ目を凝らせばしだいに見えてくるはず。ジイドの言うドストエフスキーのように「もっと高い峯の姿が」いくつもの頂をもつ山脈が現れ出るのを見るのである。
国際人嘉納治五郎はなぜ見えないか
 コスモポリタン山脈 柔道山脈の背後に見えてきた山。その山こそ、真の嘉納治五郎その人である。偉大な教育者、真のコスモポリタンの姿である。
隠された国際人嘉納治五郎の謎 だが、その山頂は、いまだ見えざる山である。柔道という巨大な山塊に遮られたままである。なぜ、国際人嘉納治五郎は、見えないのか。
 大日本帝国の軍人育成武道 明治に嘉納治五郎の考案によって生まれた柔道は、大日本帝国の兵士を養成するための訓練武道に採用された。大東亜共栄圏の名のもとに武器なき武器として学校教育に取り入れられたのだ。しかし、大日本帝国の大陸進出国策は、嘉納治五郎の理念とは相容れないかけ離れたものだった。世界平和の手段としての柔道理念は封印された。
 封じられた自他共栄 柔道精神と反する国策をつづける軍部にとって、嘉納治五郎は、目の上のこぶ。軍部がとった手段は、嘉納治五郎の理念を封じ、嘉納をたんに柔道の創始者とひと括りすることだった。画策は功を奏した。国際人嘉納の理念を封じた日本は、ひたすら戦争への道をひた走り、やがてオキナワ、ヒロシマ、ナガサキにと突き進んだ。
 理念なき柔道の結果 敗戦で、日本は変わった。が、変わらないものがあった。軍部に利用された柔道である。柔道は、復活したが嘉納の理念と一体することなく今日まで歩んできた。それは、ふたたび世界との乖離を意味した。その現われとして2007年9月開催の国際柔道連盟の理事選挙で日本は大敗した。没後70年、治五郎の夢はるかである。

嘉納治五郎とドストエフスキーの挫折

 世界平和と健全体育のために考案した柔道。しかし、それは富国強兵政策のなかにとりこまれていった。この嘉納治五郎の理想の挫折は、ドストエフスキーの場合とよく似ている。19世紀末、ドストエフスキーは産業革命に警鐘を鳴らした。共産国家建設を急ぐロシア国民に、2×2が4の危険性を説いた。だが、誰も聞く耳をかさなかった。1922年の革命最中、ペレヴェルゼフは人生を賭けて「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」と呼びかけた。が、その声は時代の濁流のなかにかき消えた。その結果、ロシア国民は収容所群島70年という過酷な時代を味わうことになった。人類は、近年、環境異変による自然災害に曝され、いま地球温暖化の危機を迎えている。人類は、もはや引き返すことができない時代にいる。すべてはあのときだった。だが、まだ一縷の希望はある。二人の理念を真摯に受け止めることだ。作家と柔道家、道は違えど両者の理念のなかに人類の平和と幸福への強い意志がある。森羅万象を調和へと導くものがある。それを理解し、実践すること。それが、この惑星の生きとし生けるもの救済に繋がるのだ。まだ遅くはない。
 その意味において本論は、二人の理念一致を検証して世に広く知らしめるものである。が、ドストエフスキーに関しては、既に多数の書物が刊行されているところから、ここでは嘉納治五郎を主に紹介を進めていく。日本で始めてのコスモポリタンであった嘉納だが、その功績に反して書かれた書物はあまりに少ない。故に嘉納の生涯を検証する。

第一章 嘉納治五郎の生涯

嘉納治五郎とは何か

 理想は永遠に 1938年(昭和13年)5月4日午前6時33分。太平洋上、アメリカ経由で一路日本を目指す客船氷川丸の船内で一人の老人が息を引き取った。彼の死は、世界の良心を絶望の淵に落とした。あの日、平和へのチャンスが消えた。日本は太平洋戦争に突入し、第12回東京オリンピックは夢と消えた。戦争は、いまもなくならない。利己主義が蔓延っている。しかし、世界がどんなに荒んでも私たち一人ひとりが、あの老人が目指した崇高な精神を思い出して実践しようとするなら、人類に希望はある。「自他共栄」「精力善用」精神、永遠なれ。
 薄れゆく巨星 2008年は嘉納治五郎没後70年である。しかし、今日、嘉納治五郎を知る人は少なくなった。柔道の創始者と答えられる人は、まだよい。その名をはじめて聞く人もいる。名は知っていても何を成したか皆目見当つかない人も多い。これは若い人に限ったことではない。柔道経験者や、現にいま柔道をやっている人たちでさえ、嘉納治五郎について、どれほど知っているか。私は、40年近く柔道をやっている。いろんな大会に参加したり、様々な柔道関連の集まりにも出席した。しかし、そうした場で嘉納治五郎の名を耳にしたことは、まったくといってよいほど記憶にない。まして、その理念を聞いたことなどただの一度もない。柔道の場でこうなのだから、後は推して知るべしである。2007年国際柔道連盟の理事選で日本は大敗した。そこで聞かれたのは伝統を死守できなかった悔やしさと嘆きである。が、嘉納の真の目的が伝統からの脱却であったことを考えれば、柔道が完全に日本人の手から離れて運営されるのも、嘉納理念の実現ともいえる。もっとも嘉納治五郎は、今後、日本においてますます忘れ去られていくであろう。明治の空に燦然と輝いた星は、その光明だけを残して静かに消えいく運命にある。しかし、他者が栄えれば自分は二の次と考える嘉納にとって、これもまた一つの理想達成のあらわれであったのかも知れないが・・・。
 嘉納治五郎の功績 嘉納治五郎は、何を成した人か。大きく分けると三つの功績をあげることができる。一つは教育者として、二つには体育家として、そして三つ目は柔道家として、それらの進歩・発展に大いに力を注ぎ、近代日本人育成に尽くした。後年は、国際人として人類の平和のために世界を東奔西走した。明治維新での混乱のなかだれもが無料で勉学できる義務教育制度を整備確立させたのは、嘉納である。野球、ボート、機械体操など西欧スポーツをいち早く取り入れ振興させたのも彼なら、空手や合気道など古来の武道を擁護し普及させたのも彼である。なかでも柔術を創意工夫で柔道とし、世界に広げた功績の大きさは計り知れない。黒帯や段位は、嘉納の考案である。また教育の場で、常に国民体育の奨励と書物の多読をすすめ、個人の自由、女性の解放、社会の調和を訴え続けたのも嘉納である。封建社会から脱却させ近代日本人を作ったのは嘉納といっても過言ではない。

怒涛の弱肉強食時代

 嘉納治五郎が生きた時代 治五郎が生きた79年間1860年〜1939年は、歴史の端境期だった。日本は封建社会から近代社会に、西欧は、植民地競争から世界の覇権争いの時代に入った。まさに波瀾に満ちた時代だった。治五郎が生まれた頃は、黒船の来航で封建制度が揺らぎはじめた時勢。幼年期は、幕末から明治維新へ。そして、少年から青年期にかけては文明開化から富国強兵と大陸進出。中高年期、日本は、日露戦争で勝利したことから、歯止めを無くし暴走列車のように戦争へ戦争へと突き進んでいった。士農工商という身分制度から解放された国民は、徴兵制度という法に縛られ、国家に操られるまま戦争へと駆り出されていった。

治五郎が生きた怒涛の年表。主な歴史的出来事

1860年(万延元年)1月咸臨丸アメリカへ出航、3月桜田門外の変。10月治五郎誕生。
1867年(慶応3年)7歳。坂本竜馬暗殺、大政奉還・王政復古。
1877年(明治10年)17歳。西南の役・西郷隆盛死す。
1884年(明治16年)24歳。鹿鳴館時代はじまる。
1889年(明治22年)30歳。大日本帝国憲法発布。
1891年(明治23年)32歳。大津事件、ロシア皇太子襲わる。
1894年(明治27年)35歳。日清戦争はじまる。
1904年(明治37年)46歳。日露戦争はじまる。
1909年(明治42年)50歳。伊藤博文ハルピン駅頭で暗殺される。国際オリンピック委員。
1912年(明治45年・大正元年)53歳。明治天皇崩御。第五回オリンピック大会へ。日本初。
1914年(大正3年)55歳。第一次世界大戦勃発、ドイツに宣戦布告。
1917年(大正6年)58歳。ロシア革命。
1921年(大正9年)61歳。第七回国際オリンピック大会に出発。
1923年(大正12年)64歳。関東大震災、死者91802人、行方不明者42257人
1927年(昭和2年)68歳。芥川龍之介自殺。
1928年(昭和3年)69歳。第九回国際オリンピック・アムステルダム大会出席。
1930年(昭和5年)71歳。浜口首相狙撃される。
1931年(昭和6年)72歳。満州事変起こる。
1932年(昭和7年)73歳。1月上海事変起こる。5月犬養毅首相射殺される。第10回出席。
1933年(昭和8年)74歳。日本国際連盟脱退。第12回オリンピック日本誘致活動開始。
1934年(昭和9年)75歳。満州国帝政実施。
1936年(昭和11年)77歳。1月ロンドン軍縮会議脱退。2・26事件。
1937年(昭和12年)78歳。7月盧溝橋事件。日独伊三国防共協定調印、日本軍南京占領。
1938年(昭和13年)79歳。第12回東京決定。5月4日治五郎逝去。国家総動員法成立。

 戦争と侵略の暗黒時代 まさに弱肉強食の波瀾の時代である。とくに晩年は風雲急を告げる世界である。満州国帝政実施、国際連盟脱退、ロンドン軍縮会議脱退、盧溝橋事件、日独伊三国防共協定調印、日本軍南京占領。日本は奈落の底に向かって、まっさかさまに落ちていく暗い時代でもある。この暗澹たる歴史の流れの中にあって世界の調和を目指した嘉納治五郎の活躍は目覚しい。老体に鞭打って世界を東奔西走している。暴走する日本を止められるのは、もはや嘉納しかいない。世界の良心は、嘉納治五郎に賭けた。第12回東京オリンピック決定。だが、国家総動員法成立の最中、嘉納治五郎は、氷川丸で帰国途中太平洋上で急逝した。星は落ちた。日本は暗黒の中、進軍ラッパ高らかに侵略戦争に突入していった。
 嘉納治五郎が生きた時代は、日本が近代国家に生まれ変わった時代である。嘉納は、教育において、体育において、柔道の考案と普及において甚大な力を発揮した。そして、近代日本人をつくった。嘉納の79年は、近代人となった日本人に、人類の理念を教えようとした時代であった。しかし、皮肉にも世界を知った日本人は、嘉納の理念を受け容れることなく人間の悪に染まっていった。

幸福な幼年期

誕生とその時代

 灘の銘酒「菊正宗」と嘉納家 治五郎(幼名伸之助)は、1860年(万延元年)10月28日に摂津国御影村(現神戸市東灘区)の造り酒屋に生まれた。兄二人、姉二人いたから五番目の子である。この家は灘の銘酒「菊正宗」の一族。酒造では、全国に名の知れた名家である。母定子は嘉納家の長女で、父次郎作は婿入りした。が、次郎作は、酒造業は継がず、幕府の廻船方御用達を勤めた。その功労によって後に名字帯刀を許された。祖父次作は、海に臨む広大な敷地に「千帆閣」と呼ばれた豪邸を築いた。廻船方という役職柄、「千帆閣」には、この時代の名士貴賓が多く訪れた。治五郎6歳のとき、幕府の閣僚小笠原壱岐守長行が沿岸防備視察に来て立ち寄った。そのとき、治五郎は僅か6歳ながら「両手を膝の上にそろえて乗せ、壱岐様のお尋ねにはきはきとお答えしていた」という姉の話が残っている。海軍奉行だった勝海舟は、父次郎作と親しく、しばしば訪れていた。安政三年(1856)、勝がはじめて訪れたとき、次姉が生まれた。記念して勝子と名付けた。治五郎は、10歳までこの家で育った。この家のことを、治五郎の死後、訪れた人がこのように書いている。
「本門から玄関にかけて堂々たるその構え、巍然たる邸宅の全景、庭園はさっぱりとして多くの技工を加えず、記念の松樹百年の翠をたたえている。」裕福な家に生まれ育った治五郎だが、そうした子にありがちな高慢な偏見をもった子供にはならなかった。人の為に尽くしたい。終生その心を持ち続けた。すべては母の教えがあったからである。
 万延元年(1860)の出来事 治五郎が生まれた1860年は、日本も世界も、動乱のはじまりを予感する年だった。新年早々、幕府は勝海舟指揮のもと軍艦咸臨丸を出航させた。アメリカとの条約批准交換のため約100名からなる使節団をアメリカ合衆国に派遣したのである。日本船による最初の太平洋横断の快挙となった。が、その一ヶ月余りの後の三月三日、雪の桜田門外で安政の大獄を断行した大老井伊直弼が18人の浪士に襲われ、暗殺された。世紀の政略結婚とされる朝廷、皇女和宮の降嫁が決定したのもこの年の夏である。また、中国では、北京に英仏連合軍が侵攻、離宮、円明園を炎上させた。円明園には、四庫全書など貴重な文化遺産があったとされるが、すべて灰になった。遠くアメリカでは第16代米大統領選でリンカーンが圧勝した。奴隷制度問題の火薬庫に火がつけられた。翌年、ついに南北戦争が勃発した。ロシアでは翌年の1861年、クリミア戦争で敗北したアレクサンドル二世が農奴解放を宣言した。日本では攘夷主義者による外国人を狙ったテロが横行。アメリカ公使館通訳ヒュースケン襲撃事件、イギリス公使館襲撃、横浜生麦村英国人殺傷事件とつづく。
 神戸海軍操練所 治五郎が生まれた年は、1860年10月28日であるが、この年のはじめ1月19日、勝海舟は、380トンの木造蒸気船「咸臨丸」を指揮して、浦賀港からアメリカに向けて出航した。遣米使節の一行は、ホワイトハウスでブキャナン米大統領に親書を手交するのが目的だった。使命を果たした勝は、ニューヨークを見学し喜望峰、インド洋経由で帰港した。勝が世界を見てわかったのは、海軍の重要性だった。勝は国防対策として「海国の兵備必ず海軍にあるべし」と主張し、受け容れられた。

三つ子の魂百までも

幼年時代

 嘉納家に来た人々 1863年(文久3)幕府は神戸村に海軍所と造艦所を建設することを決定した。神戸には海舟の考えに共鳴し弟子となった若者がぞくぞく集まってきた。そのなかには、土佐藩を脱藩した坂本竜馬の姿もあった。29歳の竜馬が姉の乙女にあてたこんな手紙が残っている。
「・・・近き内には、大阪より十里あまりの地にて兵庫という処にて、おおきに海軍を教え候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子共にも四五百人も諸方からあつまり候事」(1863・5・17付)
 竜馬は、海軍所の寄宿舎で塾頭にあげられたというから、海舟の信頼もあつかったのだろう。竜馬が、勝と一緒に嘉納家を頻繁に訪問したことは想像にかたくない。3歳の治五郎は二人のあいだを遊びまわったり、勝がアメリカで見てきた話を両親や皆にするのを聞いている光景が思い浮かぶ。後年、治五郎が世界人、国際人たる所以はここにあったといえる。
 偉大な母親 治五郎の母定子は、明治二年(1869)治五郎が十歳のときに病死する。僅か十歳で母親を亡くすのは、悲しく辛い出来事だ。が、この十年間の母の教育が、嘉納治五郎の人生理念「自他共栄」精神を生み出す源となったといえる。父親は幕府の廻船方の仕事ということでめったに家に帰らなかった家にあって、母は嘉納という名家を守り、酒造業を盛りたて、子供たちの教育に尽くした。まさに、立派な母、偉大な日本婦人であった。
「父親は多くその時の江戸におって・・・終始多忙の身であったから、家の事は殆ど顧みる暇がなく母や使用人に委ねてあったわけである。」として「それゆえ自分の幼少の教育は殆ど全く母の手一つによったのである。」と述懐している。
母の教育 治五郎の家は広大なお屋敷であった。近所の子供が大勢遊びにきていたという。貧乏の家の子も裕福な家の子もいた。が、定子は、貧富、身分、年齢で区別することがなかった。皆、平等に遊ばせた。しかし、お菓子を配るときは、治五郎がいつも一番後だった。このことに不満をもって治五郎は、あるとき母にこう尋ねた。
「よその家では、自分よりその家の子供の方がよく取り扱われるのに、わが家ではそうではない。なぜか」定子は、それには答えず、ただ「他所の子供はよくすべきものだ」と言っただけだった。晩年、治五郎は、そのときのことを思い出して、自分の子供たちにこう話した。
「これは人の上に立つものは人より先に苦しみ、人より後れて楽しみを受けるべきで、人間として生まれてきた以上は他の為に尽くすということを忘れてはならないという母の訓えだった。こういった無言の訓えは子供心にも強く深く染み込んだ」また、母の思い出として、その人となりをこのように書いている。
「私は十歳の時に母と死別したが、母はまことに慕わしい人であったが、また怖い人でもあった。普通はとても可愛がってくれたが、私が何か間違ったことをした時は何処までもとがめ、心から悪かったと反省し、詫びるまでは絶対に許してくれなかった。母は常にみんなの為にと言って、他人のことに自分を忘れて尽くしていた。誰にこうしてやろうとか、あの人が気の毒だからしてあげようなどとよく言っていたのを覚えている。私が人の為に尽くそうという精神になったのはこの母の感化だ」
 母定子は、幼いわが子の心に二つの種を蒔いて逝った。治五郎は、その種を芽吹かせ、育て、大樹にした。嘉納治五郎が唱えた世界人類の共存共栄への理念「精力善用」「自他共栄」精神は、まさに母定子の教育がもとになった。そう想像にかたくない。
 ドストエフスキーの母 ちなみにドストエフスキーの母マリヤは、ドストエフスキーが十六歳のときに亡くなった。商家の出で、にぎやかなことが好きな陽気な性質だった。ドストエフスキー作品が訴える人類救済の為の精神の一つ「善き思い出は人間を救う」は、母と過ごした少年時代の記憶である。 





通信106

嘉納治五郎とドストエフスキー(6)

はじめに

 本稿は、柔道家嘉納治五郎と文豪ドストエフスキーの理念の一致、すなわち「自他共栄」精神と「土壌主義」を検証し照合することを目的としているが、ドストエフスキーについては、その思想、作品とも既に広く知られていることから、本稿は主に嘉納治五郎のみを論じてゆくものである。これによって、これまできちんと評価されてこなかった、あるいは誤解されてきた嘉納治五郎が、真に正しく理解されることを願う。併せて、人間嘉納治五郎からドストエフスキーが全人類・全宇宙に示した理念・理想を感じとってもらえれば幸いである。(土壌館)

仮構成・第一章「なぜ嘉納治五郎とドか」、第二章「嘉納の生涯」第三章「自他共栄・精力善用」、第四章「柔道と土壌主義」、第五章「土壌館劇場・脚本『獅子と白菊』」

(お断り、第二章「嘉納の生涯」の後半は都合で省きます。追って掲載の場合あり)

嘉納治五郎三つの功績
 嘉納治五郎は、主に三つの事業に力を注いだ。一つは、教育。幕末から明治の混乱期、子供たち誰もが無料で読み書きのできる教育制度を確立し近代人に育てあげた。二つは、野球、ボートなど西洋スポーツを積極的に取り入れ普及させる一方、衰退する空手、合気道など日本古来の武道を擁護した。また、柔術を国民誰もができる柔道に改良、これを広く世界に普及させた。三つ目は、コスモポリタンとして世界平和のために尽くした。オリンピック委員として活躍した。これら三つの事業の原動力となったのが「自他共栄・精力善用」精神である。

第三章 「自他共栄」と「精力善用」精神

自他共栄・精力善用精神永遠なれ
 嘉納治五郎の精神の根幹をなすものは「自他共栄・精力善用」精神である。この精神思想を基礎として嘉納は、オリンピック委員として人類には世界平和を願い、日本人には教育と体育から近代人を育てた。ドストエフスキーがロシアの近代化への方向性を示唆するために土壌主義を掲げたように、嘉納もまた近代化を焦る日本のために自ら考案した精神思想を掲げたのであった。が、残念ながらその理念は、当時も今もあまり理解されているとは言いがたい。
 しかし、2007年12月20日朝日新聞、〈私の視点〉「競技化の時代に伝えたい心」(全日本柔道連盟理事の山下泰裕氏)にみるように、暗に自他共栄・精力善用を訴えつづけている人たちもいる。氏は、世界では、「柔道を教育面で生かそうとしている国が多い」と述べ、こう結んでいる。「嘉納師範の思いのわずかでも実現し、ほんのわずかでも世界平和に貢献できればと願っている」と。

自他共栄・精力善用に共産思想の嫌疑
 
・・・日支事変の始まる前に陸軍参謀本部の若手将校と一部の柔道家が講道館柔道の精力善用自他共栄は共産主義思想であるから嘉納師範は講道館長を辞職すべきであると講道館に申し入れをした。その時、嘉納師範は、他の人が種々考えたりする事は勝手であるが、私の考えは少しも悪いとは思わないので、何も言う事はない、と軽く受け流された。
(『嘉納治五郎著作集』栞・阿部信文)


当時、コスモポリタンとして世界を奔走する嘉納治五郎を軍部は苦々しく思っていた。

嘉納治五郎(論中創作)

架空秘話「暗号名・ホシハキエタ」

 
 昭和十三年、五月四日朝、時刻は、もうすぐ八時になろうとしていた。五月のきらめく陽光と爽やかな風が緑濃い皇居の森の葉々を輝かせていた。首都東京は、今日も喧騒に満ちた一日がはじまろうとしていた。ここ九段にある愛国婦人会本部別館隣りにある柔道場は、静まり返っていた。ちょうど陸海軍合同の朝稽古が終わったところだった。猛者たちが朝食に去った道場で二人の士官が汗を拭きながら談笑していた。陸軍士官の秋草俊一大尉と海軍の矢野敬太郎少尉は、学生時代は無二の親友で柔道においても共に講道館で修業を積んだライバルでもあった。卒業後二人は陸軍、海軍それぞれ別の道に進んだ。が、柔道は、いまも一緒に稽古していた。矢野は、陸にあがれば、秋草が稽古する道場にかけつけた。
「今日は、おれの勝ちだな。三本とったぞ」
「バカいえ、二本は技ありにもならん。それより、おれの背負いは二本分だ」
二人は稽古の後、学生時代に帰って他愛もない言い争いをするのを楽しみにしていた。
 この日も二人は、久しぶりの再会と稽古で話がはずんでいた。秋草は昨年暮れの陸軍の南京占領もあって意気軒昂であった。が、乱取り勝負の方は、なぜか稽古不足で劣勢だった。秋草は、柔道談話不利とみて話題を軍事情勢に切り替えた。
「まあ、今回の柔道勝負はさておき、我が陸軍の支那での活躍はめざましいだろ」
「馬鹿いえ、海軍だってやるときはやるさ」
「バルッチク艦隊壊滅せり、か。聞き飽きたね昔の自慢は、」秋草は、冗談ぽく笑って言った。「いま世界最強は米艦隊だが、海軍さんに度胸はあるのか」
「米艦隊と―それは無理だ。ロシアに勝てたのだって運が七分と思っている。山本元帥閣下も、そうおっしゃられている」
「たいした謙遜だな海軍は」秋草は、あきれて言った。「日本は神国、運も味方することを信じてないのか。蒙古来襲以来、証明されているぞ」
「海軍は、科学を信じる。度胸や運などで戦えるか」
「なにをそんなにビクついてる。太平洋で化け物でも見たのか」
「そうだ、見た」矢野少尉は、真面目な顔で頷いた。「シンガポールでな、とてつもない化け物を見た」
「なんだ、ヤマタノオロチでも出たのか」
「映画だ」
「ん、映画?」
「そうだ、映画だ。アメリカの『風と共に去りぬ』を見た。(実際は、翌年、1939年公開)これはすごいぞ、総天然色で、スケール迫力ともにすごい。日本の映画は子供だましだ」
「ばかいえ、日本だって面白い映画はあるぞ」
「あるかもしれん、が、制作技術においては月とスッポンだ。見た連中は、みな度肝を抜かれた。中佐クラスもいた。口にはださなかったが、もし、こんな国と戦争やったら一ころだと、正直思った。間違いなく」
「だから海軍は腰抜けなんだ、映画なんか作り物、どうだって細工はできる。アメリカは金持ちだ、なんだってごまかせる。が、中身がない。日本には精神がある、大和魂があるぞ」
「貴様、本気でそんなことを信じているのか」
「戦いは、柔道と同じだ、柔よく剛を制す。技を磨けばどんな大男にだって勝てる。毛唐がどんなにでかくたって、鬼畜米英恐るに足らずだ」
「子供がいくら達人になっても、大人には勝てない」
「国家は違う。それに日本は、大人の国だ。子供じゃない」
「悲しいな貴様は」
「なにがだ」
「嘉納先生がおっしゃる柔道の精神をなにもわかっておらん」
「ばかいえ、知ってるさ」秋草は憤然として言った。「しかし理想の前に、まず現実だ。日本は、強くならねばならない。強くなって西欧列強からアジアの民を解放するのだ。これが本道だ。わが神国日本に与えられた使命だ」
「嘉納先生は、自他共栄、精力善用の柔道精神でもって解決しようとしている。中国留学生のための宏文学院(魯迅らが学んだ)をつくられたのはそのためだ。いまもそのために世界を飛び回っておられるのだ。先日の朗報、第12回東京オリンピック開催決定は、その努力が実った証ではないか。先生の理想が実現されたのだ」
「それは、そうだが・・・」
秋草は、なぜか一瞬、言葉につまって畳に視線を落とした。
 そのとき足音がして通信兵が、小走りに廊下を駆けてきた。
「秋草大尉殿!電文3本入っております!」
通信兵は、道場入り口で直立不動で立ち止まって敬礼すると告げた。
「読み上げてみろ」
「はい!」
答えて通信兵は、チラリと矢野を見て躊躇した。
「かまわん!海軍さんには縁のない話だ」秋草は、失笑気味に言って、なおも逡巡している通信兵を促した。「暗号は、公にされても困らぬから暗号なんだ」
「わかりました」
通信兵は、直立し直すと、手にもっている紙切れを大声で読み上げた。
「サ ク ラ チ ラ ス ナ」「ホ シ ハ キ エ タ」「ナ ノ ハ ナ ミ タ カ」
「以上!三報であります!」
「了解した。ご苦労」
「失礼します」通信兵は敬礼すると、小走りに駆け去った。
「新しい戦争でもはじまったか」
「まあな・・・」頷いた秋草の声が、どことなく上ずっていた。
「大事らしいな、顔色が変わったぞ」
「そうか」秋草大尉は、自嘲気味に失笑してつぶやいた。「まだ未熟だな、おれも」
 秋草は、昨年あたりから陸軍内部で何事か画策しているようだった。髪をのばし、私服でいるときもある。まるで無政府主義者になったようで、一時は堕落したように見えた。が、その外見に反して階級は一気に二階級もあがって大尉に昇進した。むろん秋草は何も話さないし、陸軍のことは何もわからないが、何か重要な任務に着いたように認識した。たぶん間諜のような任務だろう。矢野は、秋草が所属する「後方勤務要因養成所」という部所名から、そう察していた。主に暗号文を扱っていると聞いたことがある。どうやら、本当らしい。
「当分、来れないが。こんどは白黒つけるぞ」
言って矢野は、敬礼して踵を返した。
「ということは、出航か、海軍の極秘は、すぐばれる」
秋草は、皮肉っぽく言ってゆっくり敬礼しながら送った。
 矢野は、九段から靖国神社に回った。盧溝橋以来、いまも進軍中の日支事変の戦死者の家族だろうか。老人と女、子どもの参拝者が多かった。
 自分も、いつかここに祀られるのだろうか。そんなことを思いながら矢野は、手を合わせた。そのとき、ふと頭によぎったのは、さきほどの秋草の顔色と敬礼だった。いつもと違うように感じた。頬が強張り指先が震えてみえた。暗号の電文が原因か・・・何だったのだろう。ちらっと興味がわいたが、大鳥居をくぐるときは、消え去った。どこからか「海ゆかば」の音楽が静かに流れていた。明日は、ふたたび大海原だ。
 この日、昼になって日本に大きなニュースが飛び込んできた。柔道の創始者嘉納治五郎が、日本に向かう氷川丸船上で肺炎のため急逝したというのだ。嘉納は、この2月、第12回オリンピック大会東京招致のため、79歳という高齢をおしてカイロ会議に出席、見事、開催国の権利を勝ち取った。2・26事件、盧溝橋事件、中国との戦争、そして国家総動員法成立と荒んだ出来事ばかりつづくなかで、久々に明るい、希望に満ちたニュースだった。それだけに、嘉納の死は国民を落胆させた。だれもが暗々裏に理解していた。1940年(昭和15年)の第12回オリンピック東京開催は、嘉納治五郎なしでは開くことができないことを。戦争へ、戦争へと暴走しはじめた大日本帝国。この暴走列車を止めるべく奔走していた嘉納個人の思いと努力を。だからこそクーベルタン男爵はじめ世界のオリンピック委員たちは、嘉納への友情からヘルシンキではなく、東京に一票を投じたのだ。しかし、もう嘉納はいない。
 5月9日、講道館大道場で神式をもって盛大に葬儀がおこなわれた。この五月、八紘一宇、大東亜共栄圏へ向かっての国家総動員法が成立した。
 この年の秋、さわやかな青空がひろがる朝、国鉄中野駅に一人の海軍士官が降りた。矢野啓太郎だった。昨日、横須賀に寄航した戦艦信濃から下船、半年ぶりの一日休暇、秋草に会いにやってきたのだ。矢野小尉は、中野駅前にある「東部第33部隊」の門をくぐった。
 この部隊にも立派な柔道場があった。柔道着姿の秋草中佐が一人で待っていた。
「奇妙な兵舎だな。兵隊がいない」矢野は、稽古着に着がえて入ってきた。
「あいかわらず丘にあがると、すぐ柔道か。のぞむところだが、あきれたね」
「今日は、白黒つけるぞ」矢野は、言って真顔で聞いた。「その前に確かめたいことがある」
「なんだ」
「このまえの電文の意味を知りたい」
 一瞬、秋草の顔が凍りついた。が、次の瞬間、彼は無理に笑顔をつくって言った。
「おいおい、なんなんだよ、いきなり」
「複数暗号のときは、本物以外はオトリだそうだな」矢野は、かまわず言った。「サクラとナノハナは花入りだ。とすると、本物は、ホシキエタしかない」
「電文は、極秘だ!」
「聞かんでもわかっている。だれも答えろなんて言っちゃあいない。おれの話を聞いて頷くだけでいい」
「海軍には、関係のないことだ」
「この東部第33部隊は、裏では陸軍中野学校と呼んでるそうじゃないか」
「それがわかっていりゃ、いちいち聞くな。さあ、いくぞ」
秋草は、両手をひろげてとびかかった。
「そういうことなら、勝負で答えてもらう」矢野は、がつしと相手の胸襟をつかむと聞いた。
「おまえたちがつくったのか」
「そうだ」
「スパイ学校だな。火付け、暗殺、盗聴、陰謀なんでも教えるのか」
「きれいごとだけじゃ、戦争には勝てん」
秋草は、怒鳴って得意の払い腰をかけてきた。
 矢野は、腰をそらして耐えると、裏投げを狙ったがもつれて、二人とも転がった。
「嘉納先生を暗殺したのか」
矢野は、いきなり聞いた。一瞬、秋草は凍りついた。が、すぐ
「知らん」と、怒鳴った。
「氷川丸で、先生に毒を盛ったろ」
「知るか!病死と発表されてるじゃないか!」
「先生が肺炎でなんかで簡単に死ぬはずがない!」
「ご高齢だ。人の寿命はわからん。先生とて人間だ」
「違うな!おれは、そう読んだ」矢野は、秋草の背後に抱きついて、首に腕を回してじわり締めながらなか詰問した。「海軍だって、情報通はいる」
「日本は、いま重大な局面にある。一等国になれるかどうかの瀬戸際にいるんだ」
「それが、どうした」
「オリンピックが東京で開かれたらどうなる」
「歓迎すべきことだ」
「外国人が、大勢やってくる」秋草は、苦しそうに言った。
「やってきたら困るのか。おい、陸軍はまた何か企んでいるのか」矢野の右腕がすっぽり秋草の喉に入った。矢野は、なおも締めつけながら問い詰めた。「何を隠したいんだ」
 不意に秋草の体から力が抜けた。柔道でいう落ちたのだ。矢野は、気を失った秋草からゆつくり離れた。道場は静まり返っていた。遠く窓の外から歓声が聞こえてきた。
「広東占領バンザイ」「バンザイ」つづいて勝ってくるぞと、勇ましく 誓って国を
の、にぎやかだが悲しい歌声。中野駅で出征兵士を見送る人々の壮行会がはじまったのだ。
 矢野は、両膝をがっくり畳に落とした。日本は、坂の下の地獄に向かって転がりはじめた。そんな予感がした。不意に学生時代に聴いた嘉納師範の講演を思い出し暗い気持になった。話は、先の大戦で敗戦したドイツを視察したときの感想だった。
「彼らが米国人を戦争に参加せしめたのは、明らかに彼らの愚からであった。一億以上の人口と、計るべからざる富源をもっている米国は、永く戦争を継続すれば、必ずドイツを破りベルリンを焼き払ったであろう。日本も、このたびの戦争の教訓として、米国に対してとうてい敵対することの不可能ということを悟ったであろうと思われる。」西欧諸国と同等になるには武器ではなく自他共栄の精神をもつこと。それこそが、この世界においても勝者となれるのだ。
 しかし日本人は、ついに心の星、自他共栄・精力善用の精神を持つことができなかった。そればかりか、こともあろうにその星さえ消してしまったのだ。後に柔道の孫弟子にあたる志賀直哉は、その怒りを「銅像」に書いた。日本を焦土にした軍部の責任は永遠に忘れるな、と。
 七年後、焼け野原となった東京のまちをさまよう一人の帰還兵の姿があった。彼はつぶやいた。「まずかんじんなのは、おのれみずからのごとく他を愛せよということ」それがなかったのだ日本人に。翻然、彼はつぶやいた。「自他共栄」永遠なれと。
 嘉納治五郎が考えた「自他共栄・精力善用」精神は、いったいどこから生まれたのか。次回は、母の愛から坂本竜馬、勝海舟。明治維新で日本にやってきたお雇い外国人たちの教え。そして、『自由論』のJ・S・ミルから空想的社会主義のフーリェに至る過程を探ります。




通信107     

嘉納治五郎とドストエフスキー (7)
   
第三章 「自他共栄」と「精力善用」
嘉納治五郎暗殺疑惑 はたして病死だったのか

 アジア初のオリンピック委員で柔道の創始者・嘉納治五郎は、昭和13年5月4日、太平洋上、バンクーバー発の客船「氷川丸」の船内で肺炎のため死去した。79歳だった。3月のカイロ会議で、第12回東京オリンピック招致を決めての凱旋帰国だった。
 5月9日、講道館大道場で神式をもって盛大に葬儀がおこなわれた。教育・体育など多方面の功績をたたえ旭日大綬章が授与された。が、東京オリンピックは霧散した。
 嘉納治五郎は、本当に肺炎で死んだのか。私にとって、この歴史的事実は、大きな謎になっている。治五郎の生涯及びその思想を知るほどに、その最期は納得できない。疑惑の霧は濃さを増す。前号の架空秘話「暗号名ホシハキエタ」に、晴れぬ思いを想像した。
 嘉納治五郎は、時の為政者、つまり東条英機率いる日本軍部に暗殺されたのではないか。それが土壌館の推理である。直接の下手人は、陸軍中野学校の前身「後方勤務員養成所」の関係者とみる。岩畔・秋草中佐らである。(『陸軍中野学校』は市川雷蔵主演映画で有名。ルパング島から28年ぶりに生還した小野田さんも、この学校の出身者である)
 前年、12年の暮れ、陸軍は戦争での謀略の重要性からスパイ養成学校創設を決定。東京・九段の愛国婦人会本部の別棟に「後方勤務員養成所」を設置した。目的は、1.国際情勢・機密情報の収集分析、2.宣伝工作、3.謀略活動(諜報・暗殺・かく乱など)がある。
 この組織の最初の仕事、というか実績が嘉納治五郎の暗殺だった。大日本帝国は、明治維新以来、大逆事件、浜口、犬養首相、2・26事件の青年将校、小林多喜二など軍部に反する人々を次々抹殺してきた。嘉納の病死は、その総仕上だったとみる。





通信108

嘉納治五郎とドストエフスキー (8)

 【本稿は、柔道家嘉納治五郎と文豪ドストエフスキーの理念の一致、すなわち「自他共栄」精神と「土壌主義」の整合性を立証することを目的としている。が、ドストエフスキーについては、その思想、作品とも既に広く知られていることから、本稿は主に嘉納治五郎のみを論じてゆくものである。これによって、これまできちんと評価されてこなかった、あるいは誤解されてきた嘉納治五郎が、真に正しく理解されることを願う。併せて、人間嘉納治五郎からドストエフスキーが全人類・全宇宙に示した理念・理想を感じとってもらえれば幸いである。】

架空秘話・坂本竜馬と嘉納治五郎

 1867年11月末の木枯らし吹くある夜、神戸の御影村にある酒造業の嘉納家に久しぶりに当主が帰ってきた。嘉納家に婿入りした次郎作は、家業は妻の定子に任せて、自分は廻船業を行って幕府の廻船方ご用達の勤めについていた。この時期、海軍奉行勝海舟の命を受け和田岬砲台の建造に関っていた。7歳の嘉納治五郎は4人の兄姉たちと玄関に出て迎えた。父次郎作は、いつものように子供たち長兄の寅太郎(久三郎)、次兄亀松(謙作)、長女柳子、次女勝子に「かわりはないか」「母の言う事はきいているか」など次々声をかけた。
 末っ子の治五郎にも「治五郎、お前も立派にあいさつできるようになったときいたぞ」と、にこやかに声をかけて片手を頭に乗せて撫ぜた。
 幕府のお殿様(閣老小笠原壱岐の守長行)が摂海防施設視察にきたときのことだとわかった。後日、姉の勝子はこのときのありさまを「治五郎は両手を膝の上にそろえて乗せ、壱岐の守様のお尋ねにはきはきお答えしていた」
と、会う人ごとに自慢していた。
 治五郎は、誉められたことはうれしかったが、何か気にかかった。たしかに、いつものように快活な父ではあったが、その実、何か違った。声が重い。その予感は当たった。父次郎作は、千帆閣の広いお座敷に定子と子供たちを並ばせると沈痛な面持ちで静かに言った。
「治五郎は、どうか知らないが、皆は、覚えていよう。神戸海軍操練所で塾頭をしていた坂本さまが亡くなられた。勝のお殿様からの話だ」
「えっ?!坂本さまといわれると、坂本竜馬さま?ここによく来られた」
定子は、驚いて聞いた。
「そうだ。あの坂本さまだ。土佐藩を脱藩して勝の殿様の一番弟子になられた」
「覚えております」兄の久三郎と亀松は、声を揃えて言った。「庭で剣術を教わりました。こんどは北辰一刀流をみせてくれるといっていたのに残念です」
「面白い、型破りのお方でした。治五郎は、よく遊んでもらいました。子供のように素直な本当にいい方で、こんどはいつ来られるのかと楽しみにしておりましたのに」定子は、言ってまだ信じがたい顔でたずねた。「それで、お若いのに、どうされたのですか」
「それが、・・・」次郎作は、言い淀んだ。子供たちに聞かせるべきか躊躇した。が、意を決してぼつりと言った。「お順さまの、婿殿と同じだ」
「まあ」定子は絶句した。
(三年前、勝海舟の義弟佐久間象山は、公務の帰路、京都三条付近で暗殺された。)
「いい眺めじゃけん、これはいかん。土佐の海を思い出すばい」
 勝に連れられてはじめて千帆閣にきたそのぼさぼさ頭の若者は、歓声をあげて庭に下りていった。千帆閣の広大な築山の向こうには神戸の海が広がっていた。彼は、なつかしそうに庭から一望できる海を眺めた。大きな背中に無邪気さが溢れていた。子供は、子供のような大人をすぐに見分けるようだ。三歳の治五郎は、背後から近づくと恐れも遠慮もなく若者の足にぶつかっていった。不意をつかれて若者はよろけた。
「これ治五郎。お客さまに」定子は、驚いて言った。
「かまわんです。これは油断しとりました。油断大敵火の車」
若者は、治五郎を軽々と抱き上げ、肩車すると目前の海を見渡して叫んだ。
「海は広いのう。ぼんは、この海の向こうにも人がいることは知ってるか」
「知ってらあ」治五郎は、バカにするなと若者のボサボサ頭をポカリなぐった。
「こら」若者は、笑って言った。「行ってみたいか」
「うん、父上の船で行くんだ」
「そうか、おじちゃんの船にも乗せてやるぞ」
「おじちゃん、船もってるの」
「うん、将来な。そのために勝先生に船の乗り方を学ぶのだ。面白いぞ」
「じゃあ、約束してくれる。おじちゃんの船に乗せてくれるって」
「おう、約束するぞ!二人で世界中をまわろう」
「セカイジュウをまわろう」
「そうだ、世界中だ。でっかいぞ。出発!」若者は、叫んで駆け出した。
 はじめての肩車に治五郎は、揺られながらキャッキャツと大はしゃぎだった。28歳の若者と3歳の幼児。仲の良い叔父と甥が遊んでいる。そんな微笑ましい光景に見えた。
「あの二人、よほど意気が合うとみえますな」
「そのように」
縁側から勝海舟、次郎作、定子の三人は、なかばあきれて眺めていた。
 庭から聞こえてくる、二人のはしゃぎ声。その声を海から吹き上げた荒い塩風がかき消した。しばしの沈黙のあと
「お順さまの婿殿も立派な人でした。坂本さまも・・・」定子は悲しそうにつぶやいた。「いい人ばかりがどうしてでしょう。それも、ご自分のためではなく、よい世の中をつくろうとと考え努力されている方ばかりが」
「わからん、勝のお殿様も落胆しておられた。もう、あんな男はいない、と。徳川様も大政を奉還されるそうだ。大変な世の中になるかも・・・」
次郎作は、肩を落として言った。
 治五郎は眠くなっていた。父と母が話している坂本さまのことは、ほとんどおぼえていない。ただ誰かの肩の上で揺られて、海を眺めた記憶だけがぼんやりとあるだけだ。治五郎は、睡魔で薄れゆく意識のなかで夢をみた。剣を持った大男が、海に向って立っていた。男は、剣の達人で、新しい平和な世の中をつくるために世界に行くという。自分は、その肩の上に立っている。どこまでもつづく青い大空と大海原。
 治五郎は一瞬の眠りから目覚めた。目の前に大海原がひろがっていた。五月晴れの太陽の光りが燦々とデッキの上に落ちていた。ここはどこか、自分は、セカイを救うためにあの大男と旅にでたのか。次の瞬間、治五郎は我に帰った。1938年5月3日、自分は、いまバンクーバー発の客船「氷川丸」に乗って日本に帰るところだ。あと3日で帰国できる。
 治五郎は、自分の年齢を思った。79歳になる。よく生きた。治五郎は、その後の皆の話で坂本竜馬の偉業と無念を知った。もうはるか昔になるが、勝の殿様は、会うたびに悔しがられた。「竜馬が生きていればな」と。戦争へ戦争へとひた走る日本。坂本竜馬がいればこうはならなかった、というのだ。そして、次に治五郎のことを心配した。「治五郎、おまえさんの柔道理念は、竜馬の言うとることとよう似ちよる。用心せい」まだ三十代と若いが、柔道の創始者、近代教育の実践者として名を馳せる嘉納治五郎を呼び捨てにできるのは、日本広しといえども、勝海舟ただ一人である。皆が幸せになることを考えすぎる自分の身を危うくさせるというのだ。いま日本もセカイも、のっぴきならぬ状態に陥っている。が、東京オリンピック招致決定で、あの大男との約束は、半分は果たした。そのように思った。そのときどこかで
「油断大敵、火の車」そんな声を聞いた気がした。ボサボサ頭の大男の声だ。   




通信109

嘉納治五郎とドストエフスキー (9) 
 
【本稿は、柔道家嘉納治五郎と文豪ドストエフスキーの理念の一致、すなわち「自他共栄」精神と「土壌主義」の整合性を立証することを目的としている。が、ドストエフスキーについては、その思想、作品とも既に広く知られていることから、本稿は主に嘉納治五郎のみを論じてゆくものである。これによって、これまできちんと評価されてこなかった、あるいは誤解されてきた嘉納治五郎が、真に正しく理解されることを願う。併せて、人間嘉納治五郎からドストエフスキーが全人類・全宇宙に示した理念・理想を感じとってもらえれば幸いである。】

嘉納治五郎と魯迅
 
 先の7月26日に開催された「ドストエーフスキイの会」第187回例会は、2008年に刊行された『広場17号』の合評会だった。最後の報告は訳者の木寺氏が、中国の方・張変革氏の論文「中国におけるドストエフスキーの受容」を評した。このなかでドストエフスキーと魯迅に触れた話があった。論文でいうと、この辺りである。
魯迅とドストエフスキー
 …比較文学の発展とともに中国ではドストエフスキー研究の新しい思潮であるドストエフスキーと中国の作家の比較が始まった。しかしドストエフスキーとさまざまな面において比較可能な作家は非常に少ない。この方面で優れた本は李春林の『魯迅とドストエフスキー』1985年で、魯迅は現代中国文学の創始者で深く哲学的な作家であり、ドストエフスキーを深く理解し高く評価していたとされている。魯迅は文の作品でもドストエフスキー同様に人間や人生の複雑な問題を提起している。…これは魯迅をドストエフスキーの人道主義に近づける。…ドストエフスキーは長い探究の末に神に向うのに対して魯迅は不公平な社会との戦いを訴える。例えば李春林は魯迅の中編小説『過去への悲哀』(『傷逝』)とドストエフスキーの短編小説『おとなしい女』の話の筋書きを対比し、ドストエフスキーの魯迅への影響を見出している。
 少し長くなったが、この論文個所からわかることは、ドストエフスキーの作品に留まらず作家自身の考え思想においてもいかに魯迅への影響が大きいか、なくてはならない存在か、ということがわかる。翻ってみれば魯迅は中国という国家にとっても、中国文学にとっても支柱か基礎となるべき人物といえる。だが、この偉大な魯迅も、嘉納治五郎と出会わなければ、医学に進むことも作家になることも叶わず、軍国日本の地で朽ち果てたかも知れないのだ。
 魯迅は、1881年に生まれた。1902年3月22歳のときに日本に留学した。4月、弘文館に留学生第一号として入学した。校長は、弘文館の創設者嘉納治五郎だった。(次号へ続く)

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通信110なし
通信111なし




通信112 2009.2

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海

 最近、書店に行って驚くのは、本紙前号でも書いたが、元自衛隊トップの太平洋戦争「日本は正しかった」論文に関係した出版物が勇ましく平積みされていることだ。論文を書いた本人の本だけではない、識者との対談あり応援あり、そのほとんどはよくぞ言ってくれたという賛同書物である。この元将軍閣下を一度テレビで見たことがある。退職してから、講演が引く手あまたらしい。クーデターを起こしてくださいよ、といわんばかりの司会者の励ましに、満面の笑みで「わたしはいい人ですよ」を連発していた。客席の方から「革命を!」の声がでると「ゴルフに行けなくなるようなことはしませんよ」と受け流していた。
 昨秋からはじまった金融不況。この暗雲に隠れて「日本は侵略国家ではなかった」論騒動は鳴りを潜めた。が、その実出版界では、活発のようである。巷でもこの論議をよく耳にする。居酒屋でだが、そのほとんどは驚いたことに「あの時代は、どこの先進諸国でもやっていたことだ」「日本の指導者は悪くなかった」といった肯定論、賛同意見である。靖国問題でもそうだが、「時の為政者に責任はない」この言葉を聞くたびに、終戦時に志賀直哉が怒りを持って書いた警鐘文や名作『灰色の月』を彷彿する。

志賀直哉の謎

 「小説の神様」と云われる志賀直哉には、文学論以外にも多くの謎がある。そのなかの一つに戦後の日本に寄せたいくつかの提言がある。およそ神様らしくない、世の常識をわきまえない大人らしくない荒唐無稽な発言といわれ無視された。当然だが当時、多くの識者たちの顰蹙をかった。例えば評論家の中村光夫などは、後にその著書『志賀直哉論』(筑摩叢書1966)のなかでこのように書いてあきれ果てている。
「・・・彼(志賀直哉)自身としては相当に根拠のある誠實な発言であるようですが、いかにも幼稚な考えで、十八九の青年が云うならともかく、幾十年かにわたって一流の仕事をしてきた芸術家の口からでると、これまで小説を通して想像もできなかった作者の精神の未熟な側面を見せつけられた感じで、座っている間は堂々たる体躯と思われた男が、立ちあがると意外にも畸形な小人であったような滑稽な印象をあたえます。」などほとんど誹謗中傷の類である。この評論家、よほど憤慨したのか、その矛先は「しかしここに述べられたようなものが彼の気質の生地であるとすると、こういう彼がかつて小説家であったという事實そのものがかなり奇怪に見えてきます。」と留まるところを知らない。
 志賀直哉は、敗戦の日本社会に何を提言したのか。軍国主義の果てに起きた民族の悲劇。死屍累々の南方戦線、酷寒のシベリアの原野に積み上げられた抑留者の屍、火だるまの沖縄敗戦。そして、ヒロシマ、ナガサキ。この責任を時代のせいに、他国のせいにするは容易い。だが、日本人自身が反省しない限り、この悲劇を起こした指導者が責任をとらない限り、悲劇は再び繰り返される。それが明治、大正、昭和を冷徹に見つめてきた「小説の神様」の答えだった。が、その真理は深すぎた。この評論家を含め、当時批判した知識人・文学者たちが理解できなかったことも無理からぬことである。残念ながら当時、多くの識者の目は節穴だった。それはいまでも変わることがない。今日の政界の混乱、格差社会への不安がそれを教えている。志賀直哉は、敗戦後の日本社会にどんなことを提言したのか。主に三点ある。
 その一つに昭和20年11月に書いた『銅像』がある。この文はかのゴンチャロフが『日本渡航記』のなかで、作家が会話せずして敬服した幕府役人川路聖謨(ゴンチャロフは、会っただけで、この侍の人間性のすばらしさを見抜いた。才は才を知るというが、さすがである)の対外政策観を高く評価して書いたものである。「彼は極端に外国と事を構えるのを恐れ、それを避けようとした。」。川路は、佐久間象山や間宮林蔵と交わり外国侵略の無益さを知りすぎるほど知っていた。外国侵攻の愚行が理解できた人間だった。
 世に英雄と呼ばれる人たちの愚挙。遠くは豊臣秀吉、ナポレオンしかり、近くはヒットラーしかりである。彼らは理想を掲げて他国に攻め入った。そのため「何千、何万という人間が犠牲となり、死んで行く」志賀直哉は彼らの所業を「世界統一を理想というべきか我望というべきか、ヒットラーの場合も同様だが、我望が本態で理想はその衣に過ぎないと私は考える」と評し、「吾々はナポレオンでもヒットラーでもこの世に送られた大きな悪魔とし、人類にとり、決してそれ以外の者でないと考えるのが本当だと思う。少なくとも学校で歴史はそう教えるべきだ」と説いている。大東亜共栄圏、八紘一宇。日本のこの理想も、またしかりである。明治維新以降、名を成す偉人は数いる。が、実際に日本を動かして一億人民を扇動してきたのは、結局のところ我欲の人間だった。彼らは、自らの欲望を満たすため、いたずらに人間を神に仕立て、隣国を併合し、国民を煽りに煽って外国に攻め入って行った。我欲を阻むものへの仕打ちも容赦なかった。1910年天皇暗殺計画を企てたとして数百名を検挙、26名に死刑宣告し、翌年には実際に12名を処刑した。28歳の青年志賀直哉は「日本に起った出来事として歴史的に非情に珍しい出来事である」と、茫然自失するしかなかった。
 我欲の為政者たちの欲望は、とどまるところを知らなかった。大陸では、謀略に次ぐ謀略で大東亜共栄圏を広げつつあった。国内では、特高が、反抗分子の摘発に余念がなかった。密告と抑圧、そんななかで『蟹工船』の作者、小林多喜二は無残にも築地署内で特高によって殴り殺された。「小説を書いただけで殺された」母の嘆きに、小説の神様もなす術がなかった。前年に奈良の自宅に訪ねてくれた才能ある好青年。その非業の死を後々まで悔やんだ。「人柄については真面目で、立派な人だと思う。あんなふうに死んだのはそんなことがなければ今でも生きていて、自由に仕事ができたのに、と思うと非常に残念な気がする。」(「定本小林多喜二全集」推薦 昭和43年)
 明治、大正、昭和と我欲のために国民を虐げ隷属し、管理してきた為政者たち。同時代に生きた観察者志賀直哉は、しっかりと彼らの所業を見届けた。その意味で最後の我欲の指導者を東条英機と名指ししたのは、確信あってのことに違いない。その告発は、時代考証でも歴史検証でもない。実際に自分の目で見、耳で聞き、肌で察した真実である。だからこそ志賀直哉は、理不尽にも我欲に利用され蹂躙され葬られた多くの人々のために、そして、これからの若者を救うために誹謗を恐れず発言したのである。

 さて、わが国でも百年、二百年経ち国民が喉元の熱さを忘れた時、どんな歴史家が異をたてて、東條英機を不世出の英雄に祭上げないとは限らぬ。東條は首相のころ「自分のすることに非難のあることも承知している。然し、自分は後世史家の正しい批判を待つよりないと思っている」こう言っていたという。その後、新聞で、同じ事を言っているのを読んで、滑稽にも感じ、不愉快にも思った。吾々は秀吉の愚挙を漫然壮圖と考えたのだから、西は印度、南は豪州まで攻め寄せた戦争を、その結果を忘れて、自慢の種にする時が来ないとは言えないきがする。自慢の種にするだけなら差支えないが、第二の東條英機に出られるようなことは絶対に防がねばならぬ。
 この予防策として、東條英樹の大きな銅像、それも英雄東條英機ではなく、今、吾々が彼に感じている卑小なる東條英機を如実に表現した銅像を建てるがいいと思う。台座の浮き彫りには空襲、焼跡、餓死者、追剥、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現すべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東條英機の真實の姿を記憶すべきである。(『銅像』昭和21年)
 恐ろしいことだが、この予見は当ってしまった。百年、二百年どころか、たつたの六十余年過ぎただけなのに、である。それにしても、志賀直哉の我欲者への厳しい糾弾。それは、いったいどこから生じたものか。名作『灰色の月』に隠された謎は何か。




通信113

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海 

嘉納家、柔道界から勇退
 
 柔道といえば嘉納家。嘉納家といえば柔道だが、この嘉納家が今年、平成21年3月で柔道界から勇退した。勇退したのは講道館第4代嘉納行光館長。講道館館長として5期、29年目の途中であった。突然の退任理由は、自身の高齢に加え、家族の介護問題とあるが、もともと世襲意識はなかったという。柔道の創始者・嘉納治五郎にも館長を親族が継いでいくという考えはなかった。例えば原宿駅近<HR>
くに岸記念体育館という建物がある。これは、大日本体育協会第二代会長岸清一氏(1867-1933)の功績を記念して名付けたものだ。初代会長の嘉納治五郎が日本の教育と体育に残した功績は計り知れない。が、嘉納の名を冠とした箱ものは、まったく目にしない。僅かに柔道大会に「嘉納治五郎杯」があるのみである。
 私は、これまでの嘉納家の柔道界での尽力や功績を讃えるために以下の投稿を寄せた。

「嘉納」の理念 世界に発信を 下原敏彦  
 柔道の総本山である講道館第4代館長の嘉納行光氏が今月で勇退するという。127年間にわたり柔道の象徴として親しまれてきた「嘉納」の名が柔道界から消えることになる。時の流れとはいえ創始者嘉納治五郎を敬愛する者にとっては、一抹の寂しさがある。私は柔道を始めて44年、町道場で地域の子どもたちに柔道を教えて20年になる。経済的、時間的にも困難があるが、今も10人の子どもたちがいるから、と続けている。その理由は、ひとえに嘉納治五郎の理念「自他共栄」「精力善用」に魅せられたからだった。教育者として、コスモポリタンとして世界平和に奔走したことを尊敬するからである。現在、世界柔道人口は1千万人という。嘉納家は使命を立派に果たしたと思う。その功績をたたえたい。一方、嘉納治五郎が真に目指したのは人類の平和と幸福である。混迷する今日、その崇高な理念を改めて世界に発信したいと考える。 (朝日新聞 2009年3月10日 火曜日 「声」欄 )
 


志賀直哉と柔道

 〈奴(東條)を高く吊るせ〉。終戦直後、志賀直哉は、戦争犯罪人として東條英樹を名指した。およそ文人らしからぬ言に当時の識者は困惑し失笑し、そして嘲笑した。だが、志賀直哉の怒りは治まらなかった。「今度の戦争で天子様に責任があると思われない。然し天皇制には責任があると思う」と戦争責任の所在を明確に指摘した。国語問題では「この際、日本は思い切って」フランス語を国語に採用すべきだ、と提案した。乱暴というか荒唐無稽な発想ではあるが、英語力が金科玉条となっている今の日本をみれば頷けなくもない。金持ちも貧乏人も、政治家も識者も、こぞって娘や息子を留学させたがる。理由は一つ英語を話せるようにさせたい。だれもかれもが英語さえできれば出世できると思っている。こんなことなら62年前、神様マッカーサーに強権を発してもらって(昔、森有礼という人が英語を国語に採用しようとしたらしいが)英語を日本の国語にすればよかったのだ。そうしていたら、いまの日本人は全員英語が話せるようになっているし、日本語もこんなに乱れなかったかも。麻生首相も恥じをかくこともなかったかも知れない。もっとも志賀直哉は逆説的に言ったのだろうが、東條の処罰に対する提案は、心底本音からでた提案のような気がする。
 なぜ志賀直哉は、それほどまでに東條を糾弾したかったのか。「この戦争で日本が殺した青年の数は実に大変なものだ。中には他日立派な仕事をし、日本の誇りともなるような人々がいたに違いない。そういう卵を日本は虚しく失った」その責任追及もあるが、真の憎しみと怒りは、個人的理由からきているような気がする。すなわち、そこに嘉納治五郎が関係しているのではないか、と空想するわけである。昭和13年(1938)、第12回東京オリンピック開催決定を手土産に凱旋帰国の途にあった嘉納治五郎は、氷川丸船上で、急逝した。肺炎だった。が、その死因を疑うのである。治五郎は、何らかの手段で国家に葬られた。そして、その首謀者は東条英機ではないか。志賀直哉は、そう推理した。と思うからである。
 読者諸君は、ここでいきなり嘉納治五郎の名がでて戸惑っていると思う。本論の題名「嘉納治五郎とドストエフスキー」ほどではないだろうが小説の神様志賀直哉と柔道の創始者嘉納治五郎。二人は、いったいどこでどう結びつくのか。首を傾げる人は多いと思う。もっとも、この謎は千葉県我孫子にある白樺派文壇別荘跡を散策すればすぐに解けるはずである。が、そのことは後にして、いまここでは志賀直哉と柔道について話をすすめたい。「志賀直哉と柔道」は、なぜに関連するのか。まず、そこから始めるとする。
 志賀直哉は、13歳のとき母銀を亡くしている。明治28年のことである。これより後、17年後、明治45年志賀直哉は『母の死と新しい母』を発表している。この長き歳月が、いかに母の死が少年直哉にとって強い衝撃であり深い悲しみであったのかを証明している。
 少年の頃の母親の死。ドストエフスキーも、嘉納治五郎も、また同様であった。ドストエフスキーは16歳のとき母マリヤ・フョードロヴナを、嘉納治五郎は10歳のとき母定子を失った。ドストエフスキーは、悲しみを文学に、治五郎は東京に出て勉学に当てた。
 では、直哉少年の心を癒したものは何か。内村鑑三宅講談会出席や足尾銅山問題など社会面への興味もあるが、直哉の悲しみを一番に埋めたのはスポーツだった。年譜には機械体操、ボート、水泳、自転車などを得意とす、と書いてある。(これら西洋スポーツは、すべて嘉納治五郎が普及させた。がそのことは、あまり知られていない)。
 西洋スポーツの他に、直哉が最も夢中でやった運動がある。そのころ柔術を改良してめざましい発展をつづけていた柔道である。が、なぜかそのことに関しては年譜に詳しく記載されていない。辛うじて明治35年19歳のとき学習院柔道紅白勝負で三人抜きす、と記されているのみである。そのころ、柔道は、講道館創設10年目を迎えていた。老若男女、国民誰もができる武術として台頭しつつあった。(それまでの武術は、武道家のみのものだった)
 直哉は、学習院中等科に入学するとすぐ柔道をはじめた。師範は、(『姿三四郎』を書いた富田常雄の父)富田常次郎というから、嘉納治五郎の孫弟子にあたる。富田常次郎は、治五郎の一番弟子である。当時、学習院でも柔道はかなり盛んだったようで番付の対抗試合もあった。「それには後の廣田弘毅氏などが異なる名前で出ていた」という。
 柔道は勝負事であるから、直哉少年の強さが気になるところだ。三人抜きの記録はあるものの、実際にはどれほど強かったのか。それを知る例として「柔道の思い出」にこんな場面が出てくる。四年生か五年生のときだったと書いている。
 学習院の道場で直哉たちが柔道の稽古をしていると、師範代が近ごろ評判の柔道家をつれてきた。前田栄世(後の光世)だった。前田光世といっても、柔道や格闘技を知らない人には、まったく不明の人である。が、グレイシー柔術といえば、少しはわかるに違いない。総合格闘技の試合でテレビ放映され人気がでた。一族が皆柔術家ということでマスメディアにおいては、かなり知名度がある。三百戦三百勝という長男ヒクソンが有名だ。先日、彼らの父親グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシー氏がリオデジャネイロで死去したと新聞報道があった。95歳だった。この人は、プロレスの力道山と試合した柔道の鬼木村正彦と闘ったことで、その世界ではよく知られている。ちなみにその試合の様子は最近ベストセラーになっている夢枕獏著『東天の獅子 第一巻嘉納流柔術』(双葉社)に詳しく描かれている。
 この故グレイシー氏に柔道を教えたのがブラジルに帰化した前田光世(1878-1941)だった。1904年、講道館の柔道使節の一行は渡米した。親日家のルーズベルト大統領に招かれホワイトハウスで試合した。そのときの試合は、正確な記録はないが、ルールなどの違いで芳しいものではなかったようだ。一員として同行した前田は、そのあと柔道普及のため世界を回ってブラジルに落ちついた。ブラジルではコンデ・コマと呼ばれた。
 さて、直哉の柔道の強さの話に戻る。新しい柔道家が道場にきたとき、指導者はどうするか。相手の技量をみるのに、練習生のなかで一番上手な生徒を当てるのが常だ。私も道場に、はじめてきた有段者にはそうしている。実力のある中学生を試しに相手させてみる。投げても投げられても実力のある者は、無駄がなくきれいだ。前田光世に対してはどうだったのか。直哉は、この希代の柔道家とそのときのことをこのように書いている。
「―前田はおとなしそうな顔つきだが、いざ稽古となると実に強かった。僕がまっさきに呼び出されて相手になったが、いかにも軽くふあふあと動いて、ばっと足技にくる。全然よけることが出来ず、かけられる度に投げられた」とある。前田光世の強さが想像できるところだが、この前田も紅白戦では、負けていたというから、当時の柔道層の厚さがわかる。
 名のある柔道家の相手を最初にさせられた。このことから直哉の腕前もそれなりだったようだ。有島生馬とは、口から血がでているのにも気がつかずやっていたという。柔道など運動は、もともとそれほど熱心な性格ではなかったが柔道は「ある時には、かなりムキになったこともある」というから、直哉少年は母の死の悲しみを埋めるためにいかに無我夢中で柔道の稽古に打ち込んでいたかがわかる。柔道着についても、こんな言がある。
 
「昔は柔道着も今とは少し変わっていたね。袖は肱のところまで、ズボンも膝の上までしかなかった。ある時、僕は自転車から落ちて膝にひどい怪我をして、それがなおりきらないうちに柔道をしてはまたすりむくし、そうかといって稽古を休んでしまうのもくやしくて、僕は膝を痛めないため、ズボンのような長いのをはいて稽古をやったものだ。もちろんその頃、そんなのをはいているのは一人もありはしない。今ではズボンもみんな長くなっているが、それは僕の真似をしたというわけではなかろうけれど、とにかく実際にそんな長いのをはいて稽古をやったのは恐らく僕が一番最初だったと思う。」
 今日、試合において柔道着の規定は厳しい。特に裾や袖の短いものは、直ちに着替えるか不戦敗を言い渡される。志賀直哉の、この証言が間違いないとすれば、志賀直哉は柔道着においては、重要な貢献を残していることになる。
 このように志賀直哉には、柔道に明け暮れた少年時代があった。ここに嘉納治五郎との絆をみることができる。が、直哉と嘉納治五郎との結びは、たんに柔道だけではない。直哉が真に学んだのは、嘉納治五郎が唱える理念、即ち「自他共栄・精力善用」精神だった。
 青春時代、直哉はよく千葉県にある鹿野山に登った。山頂から一人、裾野に咲き乱れる菜の花をながめた。そこで『破戒』を読みながら人間の謎を思った。社会には、なぜ差別や偏見があるのか。『暗夜行路』の主人公のように肉体と精神の調和を求めて苦悶する。が、直哉の前にふたたび現れたのは柔道の師の師、嘉納治五郎だった。
 よく志賀文学は、健康な文学「人々の心に健康な息吹を通わせる」と評される。そこに「自他共栄・精力善用」の精神をみる。老体に鞭打って世界平和と人類幸福のために東奔西走している嘉納師範を直哉は、尊敬し敬服もしていたに違いない。
 だが、嘉納治五郎の努力は太平洋の船上で無念に散った。はたして師範の死は、病死だったのか。陰謀はなかったか。時代の観察者、志賀直哉は、そこに一点の疑問を感じた。かくて直哉は、怒りをもつて「銅像」を書いた。





通信114

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海  

ドストエフスキー的について

 よく聞かれる言葉で「ドストエフスキー的」という言葉がある。ドストエフスキーに似ているという意味だろうが、実際はとなると難しい。例えば、作家宇野千代は、常にドストエフスキーの名をあげ、どの別荘にも全集があると公言してはばからなかった。反対に林芙美子は、どの作品にもドスのドの字もでてこない。しかし、「地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ」の叫びを聞けば、よほどドストエフスキー的と思ってしまう。
 このように作家のドストエフスキー的度は、見えにくい。太宰治と石川達三は、そのよい例だ。太宰は生誕百年ということもあって昨年からマスメディアは明けても暮れても特集尽くしである。ひところはブームも過ぎたと思っていたが、まだまだ太宰は熱いようだ。6月16日もNHKテレビが夜10時から『歴史秘話ヒストリア』で「絶望するなダザイがいる」をやっていた。太宰の番組は、いつもそうだが製作者が狂信的な太宰信者のせいか、客観性と真実に欠けるところがある。この番組もそうだった。江ノ島心中で死なせた17歳の女給を「行きずりの女」と説明したり、志賀直哉の一部分の発言をとりあげ戦争賛美者と決めつけたりと稚拙さが目立った。毎年3万人以上の自殺者がつづく日本。病気や事故で亡くなる人たちへの哀悼。命の尊さを訴えるマスメディアだが、こと太宰の話題になると、ころっと変わって自殺賛美、心中賛美者に変身する。その矛盾は何なのか。まるで文学的才能がある人間、つまり非凡人は、どんな常識でも覆すことができる、そういわんばかりである。 
 石川達三をドストエフスキー的作家とみる人は、あまりいないようだ。しかし、第一回芥川賞に彼の作品を推した選者たちは、石川の作品にドストエフスキー的なものを感じた。勝手にそう推察している。昭和10年、亡き芥川竜之介を記念して芥川賞が設置された。すでに文壇にその名をしられていた26歳の太宰は、積極的に受賞運動をした。直接的に選考委員へ手紙を出し再三頼み込んでいた。しかし、その努力むなしく終わった。選ばれたのは、まったくの新人、ブラジル帰りの30歳の文学青年だった。作品は昭和5年3月8日氷雨の神戸港からブラジル目指して出航した移民船を徹底観察したもの。太宰の『逆行』と題された作品4編は落選した。落選の理由は不明だ。恐らく文学の世界においてのみならば、その普遍性、芸術性において太宰の作品が勝っていたに違いない。今現在、こうして太宰と、その作品が熱く語り継がれていることが証明している。引きかえ、受賞作『蒼氓』を知る人は少ない。選者たちは、なぜ石川の作品を選んだのか。「なんとなく不安」そうつぶやいて自殺した芥川竜之介。満州事変、犬養首相射殺、小林多喜二虐殺、国際連盟脱退などなど破滅の道をひた走る日本の現状。小説『蒼氓』は、それらの危機を訴えているのだ。それ故、選者たちは、文学を越えて日本の現実を国民に知らせようとしたのでは。
 不況のどん底の日本。一山あてようと能天気な青年。しかし、青年が氷雨の神戸で目にしたものは、・・・全国の農村から集まった1000人以上の農民家族は、みな家を捨て田畑を捨てて、起死回生の地を南米に求めようという必死の人たちだった。その貧しさ、そのみじめさ。日本の政治と日本の経済とのあらゆる〈不備・無策〉(手落ち)が、彼らをして郷土を捨てさせ異国へ流れて行くかせるのだ。移民とは口実で、本当は棄民だといわれていた。
 小雨の降る寒い日だった。バラックの待合室の中は人いきれとみじめさとで、居たたまらなかった。私は雨の中にひとり出て行き、赤土の影のふちにうずくまり、だれにも顔を見られないようにして、しばらく泣いていた。私は、これまでに、こんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かなければならないと思った。・・・
・・・そこにドストエフスキー的なものををみる。
 この時期、嘉納治五郎76歳。日本に平和を呼ぶため老体に鞭打って第12回国際オリンピック東京誘致目標に世界を奔走していた。 




通信115

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海   

人間の謎

 例えばストックホルム症候群という精神病理がある。語源は、1973年8月23日から28日まで131時間にわたって銀行を占拠した銀行強盗と、人質になった女性職員の関係からきている。この事件の簡単な概要はこうだ。場所は、スウェーデンのストックホルムの銀行。男性の複数犯人が、金目当てで押し入ったが強奪に失敗。立てこもった。そのとき女性職員が人質となった。ふつうだったら、被害者となった彼女らは、犯人を憎むところである。が、この事件の場合、そうではなかった。事件の間、事件終結後。彼女らは、警察に対して、恐怖と敵意を抱いた。その反面、犯人に対しては、同情、愛情などの親和性を生じさせた。
 日本でも、似たような事件はある。最近、起きた事件も、はじめ、このケースかと思われた。千葉県で起きた、誘拐監禁事件である。新聞・テレビなどの報道によると逮捕までの事件の推移は、凡そこのようである。犯人の28歳の男は、復縁を目的に元交際相手の女性(22)の実家に押し入り彼女の母親(61)を殺害。元交際相手を拉致し車で逃走した。男の顔写真が一斉に全国ニュースに流れた。当初、すぐに解決するだろうと思われた。が、捕まったのは5日後だった。7月19日に事件発生、23日に逮捕となった。二人は、沖縄にいた。心配された女性は無事保護された。二人の逃走径路は、栃木県に車を乗り捨て、高速バスで羽田空港に向かい。国内便で沖縄入りした。沖縄での観光客を装った五日間の二人の足取りは、謎に満ちていた。二人はタクシーを借り切って海水浴、水族館見学、アパート探しをしていたのだ。運転手には、観光にきたカップルにしか見えなかったという。拉致監禁されているはずの女性は、無口なほかは楽しそうに見えたという。なぜ彼女は助けを求めなかったのか。逃げるチャンスはいくらでもあったはず。多くの謎を感じた。逮捕後、彼女は「恐かった。何も考えられなかった」と答えた。専門家の見方も、母親殺害を目撃したショックや、男への恐怖が、彼女に逃げる力、考える力を失わせた、であった。事件発生前、警察に男の暴力を相談していたらしい。が、男のストーカー行為をやめさせることはできなかったという。悪の前で、警察も当てにできない。そんなあきらめから悪に従順になったのか。そのへんが、犯人側にシンパシイを抱いたストックホルム症候群とは違うところのようだ。
 それにしても、分析された彼女の精神状態を理解したとしても、多くの人は、やはり「なぜ」という疑問を払拭できないだろう。が、彼女の心理は、人間誰の心にもある。自分は、絶対にそうはならない。そう言い張る人もいるだろうが、残念ながら人間の行為に例外はない。人は、大きな力。それが悪なら、いっそうである。権威・権力の前に屈服し従順になる生き物なのだ。積極的に考えることを忘れ、進んで従いもする。この事件の少し前に起きた北海道の遭難事件が証明している。15人ものツアー客。彼らのなかには、何度も参加した登山のベテランも多かった。にもかかわらず、3名のガイドの判断に従った。
 四年前の小泉元首相の衆院選。あれも似たような現象だった。国民もメディアも思考を停止させ、小泉節に酔った。独裁国家の構図もまたしかりである。国民は、拉致監禁状態にあるにもかかわらず、従順に、ときには熱狂して独裁者に従う。戦前の日本の国民は、まさにあの監禁被害者女性に他ならなかった。国民は監視され、侵略の手先にされながらも、為政者に「欲しがりません勝つまでは」と涙ぐましい奉仕をつづけてきたのだ。力の前では、精神の自由は常に封印されてしまうのか。その危惧をドストエフスキーは警鐘した。
 1878年(明治11年)、前年は西南の役。日本はまだ混乱の最中にあった。が、新しい柔術に燃える19歳の嘉納治五郎は、開成学校から東京大学と改称した同大文学部で勉学に励んでいた。その年の夏、治五郎の前にあらわれたお雇い外国人教師。モースに誘われて招聘に応じてきたという25歳のアメリカ人。何を教えるというのだ。訝かむ治五郎に、若い教師は、おずおずと言った。「私も一緒にミルの『自由論』を勉強します」。 





通信116

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海


千帆閣の三人

 【北西に表六甲の山を控える山腹に御影村(現在の神戸市東灘区)は、あった。この村の浜東の小高い丘に海を臨んで絢爛豪華な屋敷があった。「千帆一目」この屋敷の奥座敷にこんな学が掲げられていた。一目で千の帆船が見えるところ。この額が示すまでもなく、百年の翠をたたえる松樹の林をぬければ、すぐそこは美しき満地の白砂がひろがる波打つ海。築山からは神戸の海が一望に見渡せた。そうして、浜東の広い客間の青畳には、紀淡海峡を行く帆影が影を落とした。この屋敷を、皆は「千帆閣」と呼んだ。千帆閣を建てたのは、灘の銘酒「菊正宗」で知られる嘉納一族の分家・嘉納次作だった。酒造業を引き継いだのは娘の定子、嘉納治五郎の母である。孫の治五郎は、千帆閣で神戸の海をながめながら育った。婿養子の父次郎作は幕府の回船方として勤めていた。
 当時、神戸は幕府の海軍基地だった。海軍奉行となった勝海舟は、神戸に海軍操練所を計画し神戸に住むようになる。勝は回船方の次郎作と懇意になり、安政3年(1856)頃から千帆閣を訪れるようになった。勝の弟子となった坂本竜馬も、文久3年(1863年)に神戸にきて勝が進める神戸海軍操練所の設立に尽力する。翌年創設の操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめた。恐らく勝は竜馬を連れて千帆閣を訪れた違いない。目の前の太平洋をながめながら、咸臨丸やアメリカの話をする。二人の光景が想像できる。そして、その二人のまわりを駆け回る3歳の嘉納治五郎(その頃は伸之助といった)の姿も…】
 
嘉納治五郎の時代

 2009年9月30日の夜、NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」をみた。この新番組は、秘話のタイトルがあるので仕方ないが、最初の第一回を見たときあまりに考証・調査がずさんというか稚拙だったのでそれ以来見ることがなかった。しかし、今回は「炎の男・嘉納治五郎」ということで見ることにした。なぜ、いま嘉納治五郎かといえば、これがまた分かり易い。10月2日にコペンハーゲンで2016年の第31回夏季オリンピック開催都市を決める総会があるからである。(結果は、鳩山首相、石原東京都知事らが出席したが落選した)
 総会の前々日にあたるこの放映は、嘉納治五郎がアジア人初のオリンピック委員で、幻だったが第12回東京オリンピック招致を成功させた。そんな縁起をかついだのだろう。新聞テレビ欄での紹介では「▽ひ弱な東大生が柔道を学んだ。▽東京五輪招致に捧げた命」とあった。陳腐な見出しで予想はついたが、もしかして何か新しいことがと期待した。
 放映された内容は、ほぼ新聞テレビ欄の見出し通りのものであった。開成学校(のちの東大)に入学した治五郎は、小柄なことからいじめられ、強くなりたいと柔術をはじめた。そして、持ち前の勉学精神で、柔術を柔道として世界に普及させ、東京五輪開催招致を決定させた。45分番組のなかで、その人物が何者であったかを知らせるのは困難である。それは承知してはいるが、やはり期待はずれの感は否めなかった。あまりに陳腐で短絡過ぎた。
 いじめから柔術修業へ。図式的ではあるが、納得できなくもない。ボクシングの世界チャンピョン内藤選手も、動機はいじめからだったという。いつの時代も男は強くなりたい。そう願うものである。が、そのことと実際の人間形成とは別だ。どんな人生も、その人間の資質と、その人間が関係するあらゆる事柄からつくられるのだ。晩年を国際人として活躍した嘉納治五郎も、例外ではない。柔道だけが嘉納治五郎という人間をつくりあげたわけではない。治五郎は、なぜコスモポリタンになりえたか。なぜ「自他共栄」や「精力善用」という博愛の理念を持ちえるに至ったか。
 よく武道やスポーツは人間形成に役立つ、といわれる。確かに、そんなメンタリティの面もなくはない。が、武道やスポーツをやったからといって必ずしも立派な人間になるとは限らない。反対の場合も多い。嘉納治五郎の理念やその人間像は、柔術を学んだから、柔道を創設したから生まれたわけではないと思う。理想や理念は、いきなり天から降ってくるものでも地から湧いてくるものでもない。その人間の創意工夫に拠るところが大きいといえる。
 ドストエフスキーが作品やプーシキン講演で現した全人類への教示。「共感と調和」の理念・理想は、断じて文学をやったから持てたものではない。幼い頃の生活環境で培われたものである、と想像する。気難しい父ミハイル(陰気な生まじめさと強い猜疑心を持つ男)とやさしく賑やかなことが好きな陽気な母マリヤ。そうしてモスクワ旧市街北部の貧民街と、楽園のようなトウーラ県のダーロヴォエ村。常に相対した陰と陽の環境。それが人間ドストエフスキーの二重性、複雑性、多重性を生み融和強調の土壌思想を創りだし、人類救済の書『カラマーゾフの兄弟』を書くに至らせたのだ。では、嘉納治五郎を育てた時代背景は、いったいどんなものだったのか。

1860年(万延元年)という年、日本、世界、ペテルブルグ
 
 嘉納治五郎のコスモポリタン精神は、いつのころ、種まかれどんな土壌のなかで成長したのか。それを知るにはまず1860年という年に注目しなければならない。この年の10月28日、治五郎は誕生した。この年は、日本も世界も重大な出来事が起きた。治五郎が生を受けたこの年、日本では、正月早々、大きな出来事が続発した。

■1860年1月19日
 日本人初の太平洋横断する咸臨丸(380d)が日米修好条約の批准書交換のため、アメリカに向け浦賀港から出航した。遣米使節団代表・勝海舟(38)通訳は中浜万次郎。咸臨丸の航海日誌は、このようだった。
 3月18日 サンフランシスコ到着 パナマ運河経由で大西洋に
 5月14日 ワシントン到着 17日ブキャナン米大統領と会見。以降、ニューヨーク見物、喜望峰、インド洋経由で品川に帰港。
■1860年3月3日
 咸臨丸が嵐の中一路サンフランシスコ目指して航行しているとき、日本では大事件が起きていた。3月3日、この日、江戸は、時ならぬ春の大雪に見舞われていた。徳川幕府最高権力者・大老井伊直弼は、雪の中、行列を従えいつものように登城した。午前9時頃、一行は桜田門にさしかかった。そのとき銃声一発。ときの首相・大老を守る彦根藩一行は18人の刺客に襲われた。長い幕府安泰が臨戦の対応を鈍らせた。多くの藩士が刀を抜くことなく倒され、こともあろうに大老の首は落とされた。江戸のど真ん中、信じがたい出来事だったが、現実だった。以後、徳川幕府は、衰退の一途をたどる。
■1860年8月18日
 大老井伊直弼暗殺で、大揺れの幕府に最後の希望。幕府は、かねてより皇女和宮と14代将軍家茂との結婚を要請していたが、この日、朝廷は承諾の意向を幕府に伝えた。
■1860年10月18日
 中国で大きな歴史的損失。英仏連合軍のうち英国軍が北京西部にある離宮、円明園に侵入、火を放し全焼させる。貴重な文化遺産がすべて灰になった。 
■1860年11月6日
 アメリカで第16代あめりか大統領にリンカーンが。奴隷制問題浮上。翌年、南北戦争勃発。
■1859年12月末 ロシアでは、ある一人の元新進作家が、シベリアでの刑を終え、10年ぶりに懐かしのペテルブルグに帰ってきた。この作家にとって1860年は明るい未来だった。





通信117

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海


 本論の目的は、世界の文豪ドストエフスキーと柔道の創始者として知られる嘉納治五郎の理想理念の一致を考察し検証していくものであるが、本通信の読者は、120%ドストエフスキー読者であることから本稿は主に嘉納治五郎とその柔道に焦点をあてて論じていくことにしている。そこにドストエフスキーが唱えた土壌主義を想起いただければ幸いである。

土壌主義と自他共栄

 11月17日のNHKテレビ「爆問学問」で亀山郁夫氏は、爆笑問題相手にさかんに「大地」という言葉を発していた。大地に根ざせ、「大地という観念は心を開く」など。
 「大地」は、ドストエフスキーの作品にしばしば登場する。すぐ思いだすのは『罪と罰』の終盤だ。犯行を告白したラスコーリニコフはソーニャから、こう言われる。
「四つ辻へ行って、みんなにお辞儀をして、地面へ接吻しなさい。だってあなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの・・・」(米川正夫訳)この一文からも「大地」はドストエフスキーの根幹思想となっていることがわかる。大地とはロシアであり、存在するものすべてが立つ土壌である。土壌という大地がなければ、思想も、哲学も、宗教も生まれない。なによりも生命もない。人間の謎を解明したいと誓ったドストエフスキー。が、その道は困難の連続だった。嶮しく標もなかった。母の死、父の殺害、死刑宣告、シベリヤ流刑、病気、借金、わが子の死などなど次々押し寄せる災難の波。体験した多くの苦しみと悩みの人生の中で、はたして人間の謎は解けたのか。晩年を前にドストエフスキーが悟ったのは、大地がなければ、土壌がなければ何事もはじまらないだった。大地こそが、土壌こそが人類を救うのだ。そんな単純な理念だった。ドストエフスキーが到達した理念。
 プーチン首相は、ある会議上で「…ドストエフスキー、ロシア文化の柱として…」と述べたとか。剛腕と強権で鳴らすロシアの新ツアー、救済者、大審問官。なにやら未来が案じられる。が、ドストエフスキーを柱にしたい。その思いに土壌主義の新芽を感じる。そ
 このプーチン氏に土壌主義を感じる話は他にもある。氏が柔道愛好家というのは、来日した折りのニュース映像でよく知られている。子供たちと楽しそうに稽古していた。氏は、なぜ柔道に親しんだのか。元スパイKGB出身者だから当然、柔道を武器にするため修練した。そう言えばそれまでだが、こんな話を見たか聞いたかした。「不良だった自分を救ってくれたのは柔道だった」と。柔道には格別な思いがあるらしい。これだけ聞くと競技としての柔道、スポーツとして相性があったように感じられる。が、そうではないようだ。プーチン氏は、柔道のなかにある理念、「自他共栄・精力善用」精神に感化されてのことだった。こんな出来事があっという。国連関係勤めの友人から聞いた話である。
 ―― ロシアを訪問した知人がプーチン氏を訪ねたとき、氏の柔道の道場に案内された。(氏は、個人で道場をもっているらしい)知人は気楽な態度で道場に入っていった。するとプーチン氏は、うるさく注意した。武道は、礼にはじまり礼に終わる。それもあるだろうが、道場の正面に嘉納治五郎の大きな写真が飾ってあって、まずそれに礼をしろと云うのである。日本では、昨今、嘉納治五郎といっても、知らない人が多くなった。名前を聞いていても、何をした人か、答えられる人は少ないという。実際、テレビのクイズ番組で野球(不正解ではないが)と答えていた回答者がいた。笑えぬ話だが、柔道経験者でも知らない人がいる。その知人も、あまり知らなかったので、プーチン氏が大変尊敬しているのに驚いたという。





通信118

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海  

『坂の上の雲』と米軍基地問題

 昨年NHKは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』テレビ化に成功した。今年一年かけて放映するらしい。昔『明治天皇と日露戦争』という映画をみたが、日本人としては悪い気がしなかった。まさに軍神・東郷平八郎である。が、作家は生前、作品のテレビ化を嫌っていたという。軍人賛歌に?がるのでは、そんな懸念があったようだ。明治という時代を、日本人は妙に懐かしがる。外国との戦争で負けたことがない。常に坂の上に浮かぶ希望という白い雲を見上げながら登っていった時代。そんな感覚らしい。が、現実は、見上げながらも下りのエスカレーターに乗っていたのだ。降り着いた先は、雲ならぬ地獄だった。軍人、財閥が支配し、治安維持法・国家総動員法がはびこる恐怖社会だった。国民は、広がる貧富格差のなかで、子を売り、棄民され、戦争へと駆り立てられた。そして、東京大空襲、オキナワ、ヒロシマ・ナガサキの悲劇。明治の極楽トンボが日本を風前の灯にしたといえる。 
 日本人は、覚醒したか。否、アメリカに支配されて65年。日本人は、言葉だけは日本語だが、あとはすっかりアメリカ人になった。変わり身の早さは明治維新ゆずりか。が、民族の種というのはなくならない。イスラムの原理主義のように時を待って潜んでいる。『坂の上の雲』テレビ化に熱心な人たちは、作品にその源泉があるとみているのかも。民族の種が芽をだしたら、日本人はどちらに流れてゆくのか。普天間問題と軍人の美学『坂の上の雲』が道標のような気がしてならない。まったくの妄想だが最近の相撲界の喧騒。外国人力士の伝統文化継承不備騒動。もしかして、これは早くも『坂の上の雲』現象の表れかも知れない。
 かつて嘉納治五郎は、第一次大戦後のドイツを訪れたとき日本は「米国に対してとうてい敵対することの不可能ということを悟ったであろう」との感想を抱いた。が、民族主義の成長は、その思いを警鐘としなかった。『坂の上の雲』は、多くの為政者、財界人に好まれているという。作家の不安が杞憂であることを祈るばかりだ。




通信119

嘉納治五郎とドストエフスキー  千帆閣の海  
 
生誕150周年に想う(A・フェノロサと嘉納治五郎編)

 2010年は、柔道の創始者嘉納治五郎の生誕150周年に当たる。が、昨年春、127年間務めてきた柔道の総本山・講道館から退いたことや嘉納杯の大会名も変えたことで「嘉納」の名は柔道界から離れつつある。そこで、柔道という冠のとれた嘉納治五郎とは何か。柔道なくして語れるのか。150周年というこの節目に改めてその実像を探ってみた。
 1878年(明治11年)、文明開化で沸く横浜港に一人の白人青年が降り立った。米国から来日したのだ。当時、日本は近代国家建設に躍起になっていた。そのため欧化主義に毒されていた。西欧のものなら何でもいい、何でもありがたい。そんな日本人の無知につけ込んで有象無象の西欧人が、一攫千金でなだれ込んでいた。なかには立 派な学者もいたが、大半は山師だった。米国青年は25歳で名はアーネスト・フェノロサ。彼は何のために来日したのか。





通信120

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海   

生誕150周年に想う(A・フェノロサと嘉納治五郎編)

 2010年は、柔道の創始者嘉納治五郎の生誕150周年に当たる。が、昨年春、127年間務めてきた柔道の総本山・講道館から退いたことや嘉納杯の大会名も変えたことで「嘉納」の名は柔道界から離れつつある。そこで、柔道という冠のとれた嘉納治五郎とは何か。柔道なくして語れるのか。生誕150周年というこの節目に改めてその実像を探ってみた。

A・フェノロサとは何か
 
 柔道の創始者として知られる嘉納治五郎の実人生は、天文学者を夢みながら青春を柔道と学校教育に燃やし尽くした。後年はアジア初のオリンピック委員として世界平和のために奔走した。晩年になって、これが本来、自分がやりたかったことだ、と述懐している。そうした活動を鑑みるとその実像は、柔道家というより、真の国際人だったといえる。1860年に生まれた治五郎は、幼年期を動乱の幕末、多感な少年期を激動の明治維新という時代の中で育った。文明開化で、怒涛のように押し寄せてきた外国文化と外国人。日本人は、その濁流に洗われてしだいに生来日本人が持ちえていた謙虚さを失っていく。
 西欧の科学文明への驚き、興味。しかし、それはすぐに物真似に変わり、脱亜主義を掲げて、アジアを蔑視するようになっていく。そんな日本を、教師時代嘉納治五郎の部下だった夏目漱石は、作品のなかで皮肉っている。1908年9月から朝日新聞に連載した『三四郎』では前半の上京の個所で相席の客(広田先生)に、こんな日本は「滅びるね」と言わせたり、東京に住み始めた三四郎に「しばしば大学への失望感を口に」させている。また、これも柔道において嘉納の孫弟子にあたる志賀直哉は、同時期に発表した処女作三部作の一編、小説『網走まで』で、富国強兵の国策にまきこまれ地の果て蝦夷に行く母子に同情を寄せている。
 よく美しき明治というが、文明開化から30年、日本の現状は芳しからぬ方向にあるようだ。そのことをこの2作品が教えている。(本筋とは関係ないが、この年1908年9月21日にフェノロサは、ロンドンで客死している。55歳) 
日本が謙虚さとアジア人の心を失くした原因。それは治維新後、アリンコのように密を求めてやってきた「お雇い外国人」に媚び諂いながらも彼らの行為を真似することに専念したことが大きな要因といえる。お雇い外国人の大半は金につられた山師であり、母国にいられなくなった連中。なかには、日本文化を愛したまともな人たちもいた。が、人間の性で良い方には流れなかった。世の常である。
1877年(明治10年)開成学校は、東京大学と改称した。それに伴って大勢の外国人 を雇い入れた。日本人教師の10倍、20倍の厚遇だったときく。1878年(明治11年)、横浜港に降り立ったフェノロサもその一人だった。このとき25歳だった。彼は、どんな意思と夢を抱いて来日したのか。当初は他のお雇い外国人と大差なかったと推測する。
 彼は、1853年に米国マサチューセッツ州セーラムに生まれ、ハーバード大学を卒業した。大学ではスペンサーの著書に影響を受け、ヘーゲル哲学に興味を持つようになった。その後、ボストン美術館で製図と絵画を研究する。が、哲学をやったということが日本と彼を結びつける直接の要因となった。きっかけはモースだった。モースは、教科書で「大森貝塚の発掘者」として知られている。たしかJR大森駅ホームにいまも碑があると思う。彼は生物的科学のお雇い外国人として1877年に来日した。が、翌年、講演で一時帰国の際、大学から物理学者と哲学者の物色を依頼された。モースは宗教的信仰には無縁だった。(当時、耶蘇教は進化論に否定的だった)「宣教師でない哲学者」フェノロサは、モースの条件に適った。
極東の10年前までは鎖国をしていたちっぽけな島。ハリウッド制作の「ラストサムライ」に出てくる山の日本人集落は、どうみてもインディアン部族の集落だ。現代、知識としてアレなのだから当時は推して知るべしである。


121,122なし



通信123

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海

嘉納治五郎と坂本龍馬

 脚本家の三谷幸喜が新聞でボヤいていた。時代考証で『新撰組』は総スカン食ったのに、なぜ『龍馬伝』は何も言われないのか、かなりの矛盾はあったはずだがと。よくはわからないが、そのへんは坂本龍馬という人物と、主役の人気が、勝ったということか。
 何の効果か、トウモロコシの粉のホコリ、毎回大言壮語の絶叫には、まいったが、この幕末大河ドラマが、視聴率を集めたのは、やはり最後の暗殺の謎だろう。大政奉還で内戦を防ごうとした龍馬暗殺の下手人は誰か。脚本は、細心に犯人像を四散させていた。新撰組、見廻り組は当然だが、土佐の後藤象二郎、薩摩の大久保、西郷、はては一緒に死んだ中岡慎太郎にまでも嫌疑をひろげていた。世の中が戦争に戦争にと向かっているとき、その流れを阻止しようとする者は必ず抹殺される。それが世の習いだ。1867年に倒幕の嵐のなかで一人和平に走った龍馬は、殺される運命にあったといえる。
 71年の後、1938年5月4日、太平洋の船上で一人の老人が亡くなった。死因は肺炎。が、編集室は、前年、陸軍が九段の愛国婦人会本部別棟に創説した「後方勤務要員養成所」通称「陸軍中野学校」の仕業と推理している。時代は幕末と同じ、いや幕末は、幕府に向かっての戦争だったが、この時代は世界に向けての戦争機運だった。老人も、また龍馬と同じ戦争阻止を訴えて世界を奔走していたのだ。老人は、柔道の創始者嘉納治五郎である。
 前回、NHK放映の「坂の上の雲」は、ロシア文学にも造詣が深かったロシア武官広瀬武夫の悲恋場面だった。この広瀬も、講堂館柔道の愛弟子である。戦場で次々死んでいく弟子たちの悲報。自他共栄の理念を掲げる嘉納は、どのような気持ちで聞いたのだろう。戦争に戦争にとひた走る時代にあって嘉納は、その流れを止めかけた。第12回東京オリンピック招致決定。これで日本は救われた。安穏な気持ちで眺める太平洋の海。彼の脳裏によぎったものは何か。70余年まえ、神戸の千帆閣の築山で、ボサボサ頭の北辰一刀流、剣の達人の背にあってみた海だったかも知れない。龍馬暗殺で浮かんだ光景だった。(編集室)





通信124

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海 

架空対談・治五郎とフェノロサ@


 最近、人気の授業としてハーバード大学のマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義が評判を呼んでいる。「白熱教室」と題されて何度もテレビ放映されている。世界で起きている様々な問題を取り上げ学生たちと、対話形式ですすめていく講義手法が受けているようだ。「正義について」や「悪について」についての議論を得意としている。
 この授業風景、テレビで夜中に何度か見たことがある。教授が取り上げる人物のなかに、ジョン・スチアート・ミルの名がよく出てくる。J・S・ミルの「自由論」「代議政治」「功利主義」は、明治維新、日本が近代化を図る上で重要な役割を果たした。今日、日本ではあまり聞かなくなった。が、いまもミルの政治理念・思想は新世紀において健全らしい。
 1878年(明治11年)8月、一人の若いアメリカ青年が横浜の波止場に降り立った。25歳のアーネスト・フェノロサ(1853-1908)である。彼は、大森貝塚で知られているモース(1838-1925)の口利きで来日した。マサチューセッツ州セーラム生まれの彼が、何故に極東のちっぽけな島国、それも開国して10年余りの国に来る気になったのか。冒険心、一発屋、異文化への興味等など、当時のお雇い外国人の動機、理由は様々である。彼らは、日本の近代化に多大な功績を残したが、大半は山師もどきの男たちであったといわれている。が、フェノロサは、ボストン美術館で製図と絵画を研究していたというから、日本美術に関心があったかも知れない。実際、後に治五郎と3年遅れで入学した岡倉覚三(1863-1913)と日本美術の基盤を確立していくことになる。が、このとき若きフェノロサに求められたのは、美術ではなかった。前年(明治10年)に開成学校改称の東京大学から帰国するモースが頼まれたのは、「宣教師でない哲学者」だった。しかし、彼は、東京大学文学部で政治学・理財学を担当することになった。畑違いの学問だった。それ故、最初の受業生の1人は、このような感想を残している。
 「フェノロサは哲学にはやや造詣があったが、政治学の方には自信がなく、ポリチカルフィロソフィーを説いた。」(『お雇い外国人』講談社学術文庫)
 東洋の奇妙な国。しかし、未開ではない。西欧人に勝るとも劣らない知識欲旺盛な小人たち。フェノロサは、ハーバード大学で学んだヘーゲル哲学を講義することにした。これは評判よかった。
「かれはドイツ哲学が得意で、ヘーゲルやカントを説き、盛んにデュアリズム、アブソルート、コンクリートというような語を用いてドイツ哲学を論じた」とある。
 しかし、如何せん、まだ25歳の若造である。たいていの外人は「青年よ大志を抱け」だけで煙にまいていた。が、彼の真摯な性格は、知ったかぶりをせず自分も学びながら教えて行くことに決めた。テキストは何にするか。彼はJ・S・ミルを選んだ。その正直さも驕りのなさが、学生に多大な刺激を与えた。
「彼はなかなかの精神家で、溌剌たる元気をもって教鞭をとったので、その講義は如何にも興味をそそるようであった。」
 嘉納治五郎は、このとき19歳。3年前、開成学校に入学した彼は、語学に秀でていて既に独学で英語を流暢に話していた。ときは文明開化、西欧に西欧にとなびく時代にあったが、その視線と興味は、外ではなく、内なる日本に向いていた。
 フェノロサは、理財学の時間、足や手にあざをつくってくる不思議な学生をみることになる。小柄だが、その眼は自分を試している。ほんもののサムライ。そんな気がした。





通信125

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海

架空対談・治五郎とフェノロサA

 1878年(明治11年)8月、後年日本における哲学・美学の父といわれるアメリカ青年が来日した。25歳のアーネスト・フェノロサ(1853-1908)である。日本国内は、前年、最後のサムライたちの反乱「西南の役」が終焉し、総大将の西郷隆盛が死んだ。そして、フェノロサが横浜に着いた三か月前には明治政府の重鎮・大久保利通が暗殺された。日本は、まだ混迷と動乱の中にあった。が、文明開化の波は勢いを増して流れ込んでいた。
 フェノロサは、東京大学文学部で、「それまで空席であった政治学、理財学を担当するとともに、哲学、論理学などを教授した」。が、彼は来日早々から大いなるカルチャーショックを受けた。基督教を否定しつづけてきた未開国に西洋学問の光を。この国に降り立つまでそんな傲慢と偏見があった。しかし、その慢心と不遜は立ちどころに吹き飛んだのだ。彼が目にした日本人の生活は、彼が知りえる多くの民族、アメリカインデアンとも、アラブ人とも、中国人とも違った。ボストン美術館で製図と絵画を研究してきた彼には、この国の生活の場にあふれている日用品すべてが芸術作品のように思えたのだ。
 たいていの民族は、西洋文化に触れてもさほど変わらない。たとえ100年が過ぎようと染まることなくつづいている。インド人はインド人のまま。アフリカ人はアフリカ人のまま。ところが、日本人は、西欧文明を知ったとたん、それまでの文化・伝統・アイデンティまで捨てようとしている。まるで芋虫が蝶になろうとしているように。
 フェノロサが堂若したのは、西洋文明を取り入れるために打ち捨てられていく日本の美術品にあった。ゴミ屑同然に捨てられている絵画や工芸品。それらは、西欧の目から見ればみな立派な芸術作品なのだ。日本人は、他のどの民族とも違う。若きフェノロサは、この国に来たことを幸運に思った。彼らに芸術を教える楽しみを得た。そして、西洋のものをなんでも取り入れようとする学生たちに好意をもった。
 だが、しばらくして彼を失望させる出来事があった。というか目撃した。あるとき罵声を聞いて窓外を見た。庭で数人の学生が一人の学生を取り巻いて騒いでいた。体の大きな学生が、体の小さな学生をなぐりつけていた。土下座させようとしているようだ。小さな学生は抵抗していたが、まったく無駄だった。強い者の暴力。奴隷は解放されたが、いまもアメリカのいたるところで見かける光景だ。イジメはどこにもあるが、この国にもあるのか。ハイスクールやハーバードで体験した胸くそ悪い陰湿なイジメを思い出した。が、芸術を愛するフェノロサは正義漢でもあった。彼は、とっさに窓から身を乗り出して怒鳴りつけていた。突然の声に学生たちは、見あげた。その顔は、たとえ教師であっても、邪魔するなといわんばかりの不遜顔だった。が、声の主が外国人教師とわかると、渋々四散した。この国では知識層ほど西洋人に弱い。イジメを受けていた学生だけが残された。
「上がってきたまえ」フェノロサは、叱りつけるように言った。イジメられる側にも腹が立ったのだ。しかし、まずは公平に聞かなければなるまい。そう思った。
 部屋に入ってきた学生に見覚えがあった。自分の講義を受けている学生で、いつも顔や手にアザがあり不審に思っていた。イジメで、できたものか。そのくせ、いつも堂々と座っていた。無理していたのか。学生の胸中を察して、フェノロサは不憫に思った。それでなぜ騒いでいたのか、の詰問を忘れて、いきなり「彼らを罰しようか」と、言った。
「なぜ、です」小柄な学生は、不思議そうに聞いた。流暢な英語だった。
 フェノロサは、微笑んだ。屈辱を受けた者は、常にそのことを隠そうとする。誇りが高ければたかいほどだ。それはこの国でも同じらしい。が、学生の顔には、少しの悔しさもにじんでいない。
「いいんだ。相手は多勢だし、体格も君より大きくて強そうだ。だから、恥じなくても」
「ありがとうございます」若者は唇から流れる血を拭いながら一礼した。
学生の態度に負け犬の雰囲気がなかった。フェノロサは、訝しんで聞いた。
「イジメを受けていたのではないか」
「はい、違います」学生は、躊躇なく、はっきり答えた。影がない。
よほど鈍いのか、プライドの塊か。フェノロサは苛立って言った。
「いいんだ。相手は多勢だし、体格も君より大きくて勝っている。だから、恥じる必要などないんだ」
「ありがとうございます」若者は、落ち着いた口調でそう言って、唇から流れる血を拭いとると一礼した。負け犬の感じではなかった。フェノロサは、不思議に思って再び聞いた。
「イジメを受けていたのではないか」
「ええ、違います」学生は笑って否定した。
「しかし、わたしからはそう見えたぞ。多勢に囲まれ、一人の大きな学生になんどもなぐられていた」
「いえ、あれはあれでいいのです。ただなぐられていたわけではありませんから」
フェノロサは、苦笑した。どこまでもプライドの高い学生なんだ。これならイジメられるのも仕方ないと思いながら興味をもって尋ねた。
「ただなぐられていただけではないとすると、なにをしていたのかね。殴られ、倒されているあいだ」
「かれの攻撃方法を研究していたのです」
「攻撃方法だって!?」思わぬ答えにフェノロサは、叫んだ。ふざけて言っているのか。フェノロサは、話を元にもどした。「そもそも、きみらの争いの原因は何かね」
「原因ですか」学生は、ちょつと言い淀んでから言った。「かれを敬わないからです」
「敬う・・・」こんどはフェノロサが戸惑う番だ。「かれは、なにか君より年上か」
「いえ、同じ歳です。19歳です」
「では、何か」
「11年前まで、日本は封建国家だったことはご存じですね」
「もちろん、知ってるよ。インドのカースト制度のようなものがあったと聞いている」
「かれの家は大名の家系なんです」
「ヨーロッパなら貴族とか、つまり名家なんだね」
「そうです。それを学校でも見せつけようとしているのです。軽蔑すべきことですが」学生は、笑って言った。「わたしの家は母か酒造りで、父は役人です。かれからすれば、同じ教室で机を並べることだけでもがまんならんのでしょう」
「しかし、いまは、身分制度はなくなったのだろ」
「何百年もつづいたものは、10年やそこらではなくなりません。教師でも、いまだにかれに土下座する教師もいるのです」
「そうか、それできみに土下座させようと・・・」
「おろかな行為です」
「とすると、なんだな、きみは、おおいなる革命児というわけか」
「わたしは、それが嫌なだけです」
「しかし、きみが礼をつくさなければ、またなぐられるだろ」
「ええ」学生は、明るい顔でうなずくと言った。
「でも、それは、なんとも思っていません」「悔しくはないのか」
「いつでも、やめさせることができますから」
「わざと、イジメられているというのか」負け惜しみの強い若者と思った。
「しかし、いくら考えても無理がある。彼等は多数だし、大名の息子は、体格にもめぐまれている。どうみても君に勝ち目はない」
「そうとは、思いません」学生は、きっぱり言い放った。
「そうとは思わない」フェノロサは、苦笑して言った。
「仲間もいて、身分もあって、しかも体も大きい。そんな彼の暴力をどうやってやめさせられるというのかね」
「へんですね」学生は、まっすぐ見つめて言った。「小さい者が大きな者に勝方法。それを教えてくれたのは先生です」
「わたしが・・・」
「少数でも勝てるという、あの話です」
「ああ」フェノロサは、思い出した。日本にきて大学の教壇に立ってから、わかったことは、何を教えてもいいということだった。ボストン美術館で美術を学んだ彼が頼まれた条件は、「宣教師でない哲学者」だったが、鎖国時代が長かった国である。要するに西洋学問ならどんなものでもよかったのだ。しかし、フェノロサとて、まだ学問は途上にあった。ドイツ哲学をかじってはいたが教える自信はなかった。そのころ彼は、イギリスの哲学者・経済学者のジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)を学びはじめたときだった。知ったかぶりで、教えるお雇い外国人は多かったが、フェノロサは、教えながら学んでいくことにした。この学生は、そのミルのことを言っているようだ。が、イジメと繋がらない。
「『代議政体論』(1861)のことか」
「はい、そうです。政治学で教えていただいた」
「ミルの政治理念は、民主主義、つまり平等主義の弊害を無くすための論だが、それがどんな関係が」
「先生は、人間は平等にしようとしても、必ず多数派と少数派ができると話されました。民主主義の原則は多数決だが、すぐれた少数派を多数派が圧迫するという、そんな事態になったらどうするか、教えてくださいました」
「ミルが推奨した『代議士選挙論』(トーマス・ヘア 1859)の比例代表制のことだね」フェノロサは、学生が自分の講義をよく聴いていて理解しているのに気をよくした。「しかし、その政治学と、きみのイジメとの関係はなんだね」
「体の小さな者が、体の大きな者に勝てる、という理論です」
「これはあくまでも政治学の上でのこと。選挙のうえでの理論だ。直接的な暴力に効力を発揮するとは思えないが」
「いえ、発揮できるのです」学生は、自信ありげに言った。
「よくわからないが、暴力に政治学の少数派が勝てる理論が適応するというのだね」
「そうです」
「何だね、それは」
「柔術です」
「ジュウジュツ?」フェノロサは、眉をひそめた。「なんだね、それは」
「武器を持たない者の闘いです」
「素手の剣闘士か」
「そうです。先生の国にもあるはずです。手でなぐりあったり、投げ合ったりする闘いが」
「ボクサーやレスラーのことかな。しかし、彼らと君とどんな関係が」フェノロサは気の毒そうに言った。学生は、イジメ尽くされて、自分が剣闘士になった夢をみているのだと思った。「剣闘士になって仕返しをしたいと思う気持ちはわかるが」
「はじめは、それはありました。しかし、いまは、それはありません」学生は、笑って首を振った
フェノロサは、ばからしくなった。もうこれ以上、学生と話しても無駄と思った。 





通信126

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海

架空対談・治五郎とフェノロサB 


 25歳のアメリカ人青年アーネスト・フェノロサは、所謂お雇い外国人として来日、前年開成学校改め東京大学となった同大文学部で、教鞭をとることになった。大学ではドイツのヘーゲル哲学や英国のスペンサーの社会学などを教えていた。
開国11年を過ぎた極東のちっぽけな国。だが勉学の途上にある青年にとって、大いに興味溢れる国だった。米ボストン美術館で学んだ彼に日本の工芸品は、目もくらむ財宝に見えた。欧米なら、優れた芸術作品として認められる品々が、この国ではたんなる日用雑貨品として消耗されている。弊履のごとく棄てられている。大火では惜しげもなく灰塵と化している。かってジパングと呼ばれた国は、まさにその呼び名にふさわしい国だった。その伝統文化において、西欧に勝るとも劣らないものを持っている。
 だが、そのことを知っているのは、自分ただ一人。フェノロサは、ひそかにそんなことを思った。その自惚れは、この国を知れば知るほど確信的なものになっていた。
お雇い外国人のほとんどは物見遊山か一発屋の山師だった。「シンドバッドの大将」だった。この国は、この国で、西洋馬鹿一辺倒の政策をとっていた。そのせいか、社会は誰もかれもが文明開化に走り金権主義が蔓延していた。呆れたことに植民地主義まで台頭していた。
 この国の教育現場も、例外ではなかった。学識ある者は「脱東洋」を唱え、学識なきものは、無闇に西洋式軍隊導入と富国強兵を叫んでいた。無能な政治家は勲章だらけの西洋軍服服を真似、廃止した士農工商の身分制度の代わりに男爵子爵の称号を真似した。愚の極致は恥ずかしくもなく催すという夜会の計画だ。長い閉じこもりの時代のなかで、これほどの優れた文化、美術品を生みだした国民がなぜ。若きフェノロサは、戸惑うばかりだった。
 しかし、あの日から彼の日本人観が、少しだが変化していた。うまく表現できないが、イジメを受けていた、あの小柄な学生に、本来の日本人を見たような気がするのだ。
 庭で多勢の学生に囲まれ、大柄な同級生から土下座を強要されていた。フェノロサは生まれついての正義感から大声で怒鳴ってイジメをやめさせた。だが、その小柄の学生は、何事もなかったように、たいしたことではないという。なぐられていたことも、「攻撃方法を研究していた」と、屁理屈を言うのだ。
 相手が大名の子息ということで、あきらめているのか。その学生は酒屋の倅だという。それで、負け惜しみにそんなことを言っている。そのときは、そう思った。しかし、あとで、思い出すと、イジメを受けていた学生の顔に、すこしの屈辱感も、陰湿な暗さも悲想観も感じられなかった。なぐられていたと見たのに、顔に傷もなかった。そういえば、学生はイジメ対策にジュウジュツとかいうスポーツを習っていると言った。ミルが推奨する比例代表制から多数派に勝つ方法を学んだという。政治と暴力は相いれないものだ。話しているうちバカバカしくなったので、話を打ち切った。彼は、丁寧に頭を下げて出て行った。何かすっきりしないものが残った。反攻しない者へのはがゆさではなかった。
 何が気になるのか。考えてみた。要因の一つは他の学生は、なにからなにまで西洋のものを学び真似したがっているのに、あの学生は、文明開化で棄てたはずの日本古来のスポーツを学んでいると言った。イジメ対策なら法律学をすすめる。どう見てもあの体格では、勝てるとは思えなかった。彼は、授業には休まず出席していたが、話をする機会を得なかった。美術を愛する自分とは、まったく別の世界に生きる人間。そのように思った。
 しかし、フェノロサは、この不思議な学生と、思ってもみない場所で会うことになる。翌年明治12年、アメリカ合衆国のユリシーズ・S・グラント前大統領が来日した。渋沢栄一という日本随一の経済人の招待をうけてのことらしい。  



通信127

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海

架空対談・治五郎とフェノロサC

 明治12年(1879年)8月5日、この日の朝フェノロサ(26)は、一種、高揚感を抱いて本郷にある外国人専用の下宿屋をでた。行き先は西北に位置する王子の飛鳥山。彼の地は、なんでもヨーロッパの田園風景と似た風光明美な丘陵地帯と聞く。そこにこの国、随一の経済人の別荘があり、7月はじめに来日した我らがアメリカ合衆国第18代大統領ユリシーズ・S・グラント前大統領が今日、招待されることになっていた。将軍は、来日以来、公私にわたり、この新興国家「日本」を見て回っていた。たいていはこの国特有の仰々しい接待と空騒ぎだが、今日は、何か面白い興行が催されると知らされていた。興行は、この国古来の武人の格闘技のようなものとも聞いた。それ故わざわざ暑い中、出向いてみることにしたのだ。政治以外、特に芸術文化においては、悔しいが、独立(1776年)から100年余りしかない我が合衆国と比較にならないほど優れている。それ故、武人の格闘技のようなものといえども古来と聞けば見過ごすわけにはいかなかった。滞在丸1年、この国には、まだ自分が知らないことが多々あった。
 前年、モース教授の口ききで哲学学者として来日したフェノロサは、この国の美術工芸芸術の極めに瞠若した。ヨーロッパ芸術に勝るとも劣らない絵画や陶器の品々。それらが美術品としてではなく日常品として市井にあるのだ。恐らく長いこと鎖国をしていたことが、独自の伝統文化を育てるのに功を奏したのだろう。もしかして、今日の興行にも、そんなものが見られるのかも知れない。とにかく大財閥が催す興行である。西欧文明に媚び諂う大学や学生に、辟易しはじめていたフェノロサにとって大いに興味を引くものがあった。
 飛鳥山は、別荘地にふさわしい土地だった。雑木林、田や畑、はるか遠くにみえる山脈。この景色だけでも来てよかったと思った。別荘というには、広く立派すぎる屋敷だった。この別荘の主、渋沢栄一という人物の、この国における地位、財力を推量できた。とにかく大勢の人、洋服の婦人、紳士。着物の男性、婦人、それにどう表現していいのかわからない服装をした人々。じつに珍妙で、この国に来ている外国人。パーティの最中、目当ての興行ははじまった。広大な庭に紅白の幕が張られていた。そこが興行の会場のようだ。
「いったい何がはじまるです?」フェノロサは、グラント将軍一行に同行してきたアメリカ人記者ジュリアン・ストリートに聞いた。
「さあ、ニホン人のすることは、見当もつかんね」ストリートは肩をすくめて苦笑すると、反対に聞いてきた。「きみは、長いんだろ。この国に」
「ちょうど一年になります」
「なら、きみの方がくわしいだろう。ジュウジツ、なんとかというらしいが。知ってるかい」
「わかりません。なにしろ不思議な国ですから」フェノロサは、首をふった。どこかで聞いたことのある言葉でもあった。が、思い出せなかった。
「なにか武人のスポーツのようなものをみせてくれるといっていた」
「スポーツ?!」フェノロサは、眉をひそめた。この国にスポーツがあるとは思えなかった。大学でベースボールをはじめた学生をみかけたが、まだ理解しているとは思えなかった。
 観客は、200人余りだろうか。会場の真ん中に十数枚の畳が敷かれてあった。どうやら、そこが舞台というか、ボクシングやレスリングでいうリングらしい。
 興行がはじまった。演武――格闘技にそんなものがあるのだ。技の解説らしい。演武者がぞろぞろと舞台に出てきた。白っぽい行者のような服装、袴姿もいた。古来のものというように中高年や、あきらかに老人と見える人もいた。格闘とは程遠い服装だ。
 南北戦争の英雄、グラント将軍は、軍人らしく、興味深そうにながめていた。格闘技というが、あの褌一つの相撲より歌舞伎や能のようなものかも知れないと思った。それにしても、相撲力士やローマの剣闘士を思い描いていただけに、貧弱な身体
そのときフェノロサは、演武者のなかに知った顔を見つけて思わず声をあげた。なんと、先日、大学の庭でイジメをうけていた小柄な学生がいた。学生は、不敵な笑みを浮かべて遠くからフェノロサに一礼した。





通信128

嘉納治五郎とドストエフスキー 千帆閣の海 (番外)

現代の大審問官

 日本人から見ればロシアの大統領や首相の座は、誰であろうとすべてプーチン氏の傀儡と思うわけだが、現代ロシア事情に詳しい作家の佐藤優がみるとそうでもないらしい。先ごろのロシア与党「統一ロシア」の党大会でのメドベージェフの発言を敗北宣言と分析している。このことで来年2012年3月に行われる大統領選挙は、ほぼプーチン氏に決まりだという。プーチン氏の強権政治は、怖れられながらもロシア国民には、望まれるらしい。メディアも国民も自由よりパンというわけである。もっとも、日本にとってはよいことだという。佐藤優氏は、新聞でこのように述べている。「プーチン氏が大統領に返り咲けば、歯舞群島、色丹島の返還交渉が具体化する可能性がある。…北方領土、経済の両面で来年春以降、日ロ関係が急速に発展する可能性がある。」正しい分析なら期待はできる。が、過去の政治手法からロシア国民は不安はあるに違いない。しかし、プーチン氏がドストエフスキーをロシア文化の柱としたことや、いまも柔道の創始者嘉納治五郎を深く尊敬していることを思えば、現代の大審問官もやむなしといったところか。

(未完)