ドストエーフスキイ全作品を読む会


NHK文化センター柏教室
下原敏彦 ドストエフスキー『罪と罰』を読む(全5回) 
(2019年8月〜12月)
 

ドストエフスキー『罪と罰』模擬法廷
金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 
―ナポレオンになりたかった青年の犯罪―


脚本 下原敏彦
監修 下原康子
典拠:ドストエフスキー『罪と罰』江川卓訳

目 次
T.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第一回公判 (8月29日)
U.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第二回公判 (9月29日)
V.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第三回公判 (10月17日)


事件概要 (新聞記事より)
 
およそ事件はこのようであった。
一八六五年七月十日午後七時半頃、金貸し業アリョーナ・イワーノヴィナ(60)は店舗兼自宅(エカテリーナ運河104ゴローホヴァヤ通りと運河の角)において同居人で義理の妹リザヴェータ・イワーノヴィナ(35)と共に殺害された。二人とも斧のような凶器にて一撃され即死した模様。はじめに金貸し業アリョーナ・イワーノヴィナが襲われ、つぎに遅れて帰宅したリザヴェータが殺された。金貸し老婆は峰のようなところで脳天を一撃されて落命。妹は刃の部分で額をぶち割られるという凄惨な殺し方で死亡した。犯人の目的は金貸し業老婆の金品とみられる。妹はこの日用事で遅くなる予定だったことから、犯人は金貸し老婆が一人のときを狙ったとみられる。しかし、妹は予定より早く帰宅したため、不運にも巻きこまれてしまったようだ。室内は物色され老婆の財布が盗まれている他に、首飾りなど質草の装飾品が無くなっていた。事件は金品目的の強盗殺人で単独犯とみられる。部屋に入れたことから顔見知りの線が強い。

二日後、塗装工ミコールカが逮捕される。無くなっていた質草を換金しようとした。当初は拾ったものと無実を叫んでいたが、九日目に自白した。しかし、十日後の七月二十日、近所に住む元大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(23)が自首し、真犯人と判明、緊急逮捕となった。才能ある若者がなぜ冷酷な殺人者になったのか。たんに金に困った末の犯行だったのか。それとも質草を軽く見られたことへの恨みからか ――

現在のところ、容疑者は自身の不遇を社会のせいにする輩か、精神を病んだ誇大妄想癖の持ち主か、狂信的な社会主義者ではないかとみられている。ほかに、殺人依存という分析もある。つまり動機なき殺人である。いずれにせよ単純なようで謎多い事件。一刻も早い解明を望む。



T.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第一回公判 

《第一審に出廷する人物》

・裁判長 
・被告人 
・検察官 
・弁護人 
・証人1:被告の下宿の女中 ナスターシャ 
・証人2:被告の下宿の主婦 プラスコーヴィヤ 
・証人3:被告の大学の友人 ラズミーヒン 
・証人4:酒場の主人


裁判長  それでは、これより金貸し老婆とその妹強盗殺人事件第一審裁判を開廷します。はじめに検察は、起訴状を述べてください。

検察官  
【起訴状】 元大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、母親からの仕送りが途絶えたことで極貧状態に陥り、この窮状を脱するために金貸し老婆強盗殺人を計画し、ことし七月八日から下見をつづけ、老婆が一人になる機会をうかがっていたが、三日目の七月十日、ついにその機会を得て実行した。事件当日、同日午後七時半頃、客を装い金品を奪う目的で金貸し老婆宅を訪れ、質草のシガレットケースを見せ、隙をみて用意した斧で老婆(60)の脳天を一撃、殺害した。そのとき用事で留守のはずの義理の妹(35)が運悪く帰宅、被告は顔を見られたとの理由から、この妹も斧で撲殺した。金貸し老婆は吝嗇で、利子のとりたても厳しかったとはいえ、業務の範疇であり、殺されるほど恨まれてはいなかった。夫を亡くしてから、女一人で法を犯すこともなく立派に生計をたててきた。巻き添えの妹は、知能にやや劣るところがあったが、信心深く、だれからも好かれる天使のような性格だった。酷く殺された彼女の死を嘆く人は多い。被告はこの罪のない二人を、冷酷非情にも、斧という凶器で撲殺し、犯行後は金品を奪い、隠蔽し、自宅で何食わぬ顔で日常生活を送っていた。上京してきた母親と妹にも素知らぬ顔で接していた。犯行の十日後、犯した罪の重さに耐えきれず七月二十日に自首した。とはいえ、二人の尊い命を奪った罪は重い。なお、妹リザベェータは妊娠三カ月であった。被告人は三人の命を奪ったのである。この事件は、完全犯罪を狙った極めて悪質な犯罪といえる。重刑を望む。

裁判長  被告人は、この起訴状に相違ないか。

被告人  はい、大筋において間違いありません。

裁判長  では、裁判に入ります。被告は、住所、氏名、職業、年齢を言ってください。

被告人  ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ 二十三歳、元大学生です。住所は中メシチャンスカヤ通り19、またはストリャルヌィ横町9です

裁判長  在籍していた大学名と学部は。

被告人  ペテルブルグ大学法学部です。

裁判長  大学によると被告は成績優秀で将来を嘱望された学生だったとの評価だが、なぜ大学をやめたのか。

被告人  学費が払えなくなったからです。

裁判長  どうして払えなくなったのか。

被告人  母親からの送金が途絶えたからです。

裁判長  途絶えた、とは?

弁護人  裁判長、その点についてご説明いたします。

裁判長  発言を許可します。

弁護人  被告は幼い頃父親を亡くしております。つまり母子家庭であります。二つ違いの妹もいます。母親は女手一つで二人の子どもを育てました。被告人が学業優秀なことから、将来に期待をかけペテルブルグ大学に入学させました。学費は年金を削って捻出したお金と妹の家庭教師の給料からでしたが、滞ることはありませんでした。ところが、昨年、ちょっとしたトラブルがありました。母親は、被告人にこんな手紙を送っています。被告人の犯行の動機にも関わる重大事なので一部を紹介したいのですが。

裁判長  音読を許可します。

弁護人  ありがとうございます。
「なつかしい私のロージャ、おまえと手紙で話をしなくなってから、もう二カ月の余になります。おまえはうちのひとり息子、私とドーニャにとってのすべて、私たちの希望の星なのですから、おまえが生活費にも事欠いて、もう数カ月も大学へ行かれず、家庭教師やそのほかの口もなくなってしまったと知ったとき、私の驚きはいかほどだったでしょう!でも、年に百二十ルーブルの年金をいただいている身で、どうして私におまえの援助ができましょう!四ヵ月前にお送りした十五ルーブリも、ご存じのとおり、この年金を抵当に、当地で商売をされているAさんからお借りしたものでした。あの方はいい方で。

裁判長  あの方とは? Aさんという。

弁護人  父親の友人です。

裁判長  わかりました、つづけてください。

弁護人  つづけます。「Aさんはお父様のお友達でもあった方です。けれど、年金受領の権利をあの方にお譲りしてしまったので、借金の返済がすむまで待たねばなりませんでした。それが今度やっとすんだようなわけで、その間ずっとおまえに何も送れなかったのです。けれど今度は、おかげさまで、おまえにも送金できそうです。おまえとはもうすぐ会えるわけですが、それでも二、三日うちにできるだけのお金を送ります。二十五ルーブリ、ことによると三十ルーブリは送れます。思い出します。お父さまがご存命だった時分よくおまえは私の膝に抱かれて、まわらない舌でお祈りを捧げたことを。そしてあのころ、私たちみんながどんなにしあわせだったかを。では、さようなら、いえ、再会の日までと書きましょう!固く固くおまえを抱きしめ、数え切れぬくらい接吻します。」以上であります。

弁護人  要するに、ちょっとした手違いから送金が遅れたわけです。しかし、その後妹アヴドーチャさんが弁護士のルージン氏と婚約を決めたことで、一家の経済状態は好転に向かっています。

裁判長  とすると、起訴状にある極貧故の犯行ではなかった、というのだな。

弁護人  はい。たとえ送金はなくても、家庭教師の口や翻訳のバイトもあったときいています。それに家賃は家主の娘さんとの婚約で、支払う必要はなくなっていました。ところが、不幸にも娘さんがチフスで亡くなったことでその話はご破算になりました。

裁判長  というと、被告は家賃免除が目的で婚約したというのか。

弁護人  いえ、そうではありません。愛し合ってのことだと思います。

裁判長  被告人はそれに相違ないか?

被告人  婚約のことですか。

裁判長  そうだ。

被告人  そのへんは、まあ、ぼくにも説明させてください。ぼくはあの下宿にはもう三年も住んでいるんです。田舎から出てきてすぐから。で、以前は・・・以前はですね・・・いや、ぼくもやはりすっかりうちあけるべきなんだな。つまり、ぼくはいちばん最初から、おかみさんの娘と結婚するって約束していたんです。もちろん、口約束で、まったく自由な約束でしたがね・・・で、その娘は・・・ぼくも、惚れるというほどじゃあなかったけど、けっこう気に入っていましてね・・・つまり、若かったわけですよ。いや、こんなことを話すのは、ぼくには不利になるかもしれませんが・・・おかみさんがそのころぼくにだいぶ金を貸してくれて、ぼくもまあ、いい気な暮らしをしていたんですね・・・まったく軽薄でしたよ・・・。返してくれといわれても仕方がないです。しかし、警察署に返済請求の取り立て書類を提出するなんて。しかも、ぼくが家庭教師の口もなくして、食うや食わずの状態でいるときに・・・ひどい話です。

裁判長  と、いうことは被告は結婚すれば家賃は免除される、そんな計算があって婚約したとみていいのですね。純粋な恋愛ではなく財産を目的とした魂胆ある婚約。しかし、娘の死で家賃の支払いは元通りになり、金欠に拍車をかけた。この理解でよいか。

弁護人  裁判長!被告人は、愛する者の死と長い金欠の生活で精神膠弱状態にあります。それで、自暴自棄になっています。本来は正義感が強い賢い青年で、母親思い、妹思いの愛すべき人間です。決して下心あって婚約したのではないと信じています。

裁判長  しかし、そうした正しい愛すべき性格とこんどの犯罪との間にはかなり乖離がある。被告は長期間にわたり、この残忍な犯行計画を練りに練り、友人知人がその健康を心配するなか、二年間も会っていない母親と妹が上京してくることを知りながら、冷酷にも強盗殺人を計画通り実行した。金貸し老婆をシラミ同然の虫けらと決めつけ惨殺したのである。そればかりか、運悪く帰宅した善人このうえもない妹を躊躇なく斧の刃で頭をぶち割ったのだ。鑑識によれば「斧の刃はまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。」とある。この情けを知らぬ凶行のどこに良心があるというのか。欠片ほどの良心も感じられないが・・・。

弁護人  しかし、被告は日常、被告人に接する人たちから愛されていたというのも事実です。動かし難い真実です。証言をお聞きください。

裁判長  証言を許可します。

進行係  最初の証言者、証人席へ。

裁判長  名前を述べてください。

証人1  ナスターシャと言います。まだ、信じられません。

裁判長  証人は質問だけに答えてください。証人と被告との関係は。

証人1  ロージャ、いえ、ラスコーリニコフさんの下宿の女中です。

裁判長  主にどんな仕事をしているのか。

証人1  下宿の掃除と、下宿人の料理を作っています。

裁判長  つまり、被告人の身の回りの世話をしているということだな。

証人1  そうです。だから、ロージャ、いえラスコーリニコフさんのことは、わたしが一番よく知っております。

裁判長  そうか、それでは尋ねるぞ。被告が生活している部屋はどんな部屋か。

証人1  はい、天井裏のようなみすぼらしい部屋です。奥行きが六歩ほどの。部屋というより狭苦しい檻のようなところです。埃をかぶった黄色っぽい壁紙はあちこちがはがれ、いかにもみすぼらしい感じです。天井がやけに低く、ロージャは背が高いので、いつ天井に頭をぶっつけるか心配です。家具はだいぶがたのきた古ぼけた椅子が三脚あります。それに隅っこに色塗りのテーブル。そのうえには埃をかぶったノートと本が何冊かです。それから、もうひとつ大物が。ほとんど壁の前をそっくり、部屋の間口の半分を占領している不格好なばかでかいソファーがあります。以前は更紗張りだったのが、いまはもう見るかげもないです。とにかくひどい部屋です。まるで棺桶です。

裁判長  被告は、どこで寝るのだ。

証人1  そのソファーですよ。ソファーはロージャのベット代わりになっています。ロージャ、いえ、ラスコーリニコフさんは、よくその上に着替えもせず、シーツも敷かず、おんぼろの古びた学生マントにくるまってごろりと横になっていました。頭にあてがった小さな枕の下には、洗濯したもの、汚れたままのもの、それにありったけの下着を押し込んで枕を高くして眠ってました。わたしらから見れば無精でだらしなく見えますが、ラスコーリニコフさんにはそれが居心地がいいようでした。

裁判長  住居のことはわかった。つぎに被告人の生活のことを聞くぞ。この数カ月で被告の生活に何か変わったことはあったか。

証人1  大ありです。学校に行かなくなり、毎日寝てばかりいるようになったんです。それで家主のおかみさんは食事を出さなくなったんです。たしか事件前・・・二週間前からでした。しかし、ロージャは、おかみさんに掛け合うこともなしに、食うものなしでやっていました。ときどき、ポケットから銅貨を出して、かた焼きパンやソーセージを買ってきてくれと頼まれました。貧乏生活でしたが、そういえば、お金には困らなかった。手品のようにポケットから銅貨がでてくるんです。お金にも頓着しない。あれが大学生というものですか。

裁判長  朝は、どうしていた。

証人1  十時に、掃除のため行くのですが、決まって寝てるか、そうでなければただ横になっているだけなんです。それで、あるとき、業を煮やして言ってやった。「そりゃあ、あたしは馬鹿だよ。だけど、あんたはどうなのよ?いつも、だん袋みたいに寝そべっててさ。何かをしているところなんか見たことがない。それでもお利口さんかい? 以前は、子どもを教えに行くって出かけたけどさ。このごろじゃどうしてなにもしないんだい?」と。そしたら、なんと言ったと思います? 裁判長さま。

裁判長  なんと言ったのだ。

証人1  「おれはしてるよ・・・」と、言うんです。で、「何を?」と、聞くと「仕事だ・・・」と答えるんです。そこで「どんな仕事?」ときくと「考えてるんだ」というじゃあないですか。考える仕事をしてるっていうんですよ。傑作じゃないですか。腹の皮がよじれるまで笑わされましたよ。

裁判長  最後の質問だが、おまえはどう思う。

証人1  事件のことですか。まだ信じられません。ロージャが、ラスコーリニコフさんが強盗殺人事件の犯人だったなんて、何かの間違いです。人違いです。だって、あんなものぐさな坊やが、イケメンさんが、頭のいいおぼっちゃまが、それにお母様や妹さんが上京してくるというのに、お友達だって心配してくれていたのに。わざわざ強盗をしに行くなんて。

裁判長  よろしい、ごくろうであった。では、次の証人を。

進行係  二人目の証人。証言席へ

証人2  ブラスコーヴィヤ・パーブロヴナと言います。被告の下宿の主婦です。

裁判長  被告と最初に会ったのは?

証人2  三年前です。大学に入ったときです。

裁判長  会ったときの印象はどうだったか。

証人2  礼儀正しい好青年でした。地方の名家のご子息、そんなふうに見えましたし、感じました。

裁判長  娘さんが婚約されたとか。

証人2  はい、年頃だったので恋の燃え方も早くて・・・。

裁判長  さきほどの被告の証言では、惚れたというほどではなかった、若さ故の婚約、そんなふうに証言しましたが、それに間違いありませんか。

証人2  恋愛ではなかった、とおっしゃるんですね。そうかもしれません。が、一人娘が惚れてしまった相手、それも学力優秀な地方の名家のご子息。止められるわけが、反対できるわけがございません。

裁判長  被告が金に困っていると知ったのはいつごろですか。

証人2  婚約して間もなくでした。地方の名家どころか母子家庭で、学費は年金を削ってのやっとこどっこいの状態とわかったんです。それに家庭教師をしているという妹さんにも悪いうわさが立っていました。

裁判長  婚約すれば家賃を払う必要がなくなる。加えて、やがては下宿家も自分のものになる。そんな下心は感じませんでしたか。

証人2  娘の恋を計りにはかけられません。なんといってもペテル大学法学部の学生さんです。たとえお家はどうでも、これに勝るものはございません。末は弁護士先生か法務大臣。下心など帳消しにできます。お金だってときどき貸してました。投資のつもりで。

裁判長  しかし、娘さんは亡くなってしまった。

被告2  不幸のはじまりです。家の大黒柱がいきなりなくなってしまった。悲しみよりそんな喪失感が大きかったです。
裁判長  娘がいなければ将来の希望もない。被告を援助する理由もない。区警察署に提出された借用書にもとづいた借金の支払い請求はそんなことからですね。

証人2  そりゃあ、はじめのうちは気の毒に思ってました。ホントの恋かどうかはしりませんが、たとえ口約束でも結婚を誓った相手が突然亡くなったのです。とても学校に行かれる心境ではない。そう思っていました。ところが、いつまでたっても学校にはいかない。家庭教師の口もやめてしまい、病気でもないのに寝てばかりいる。家賃は四カ月も不払いをきめこんでいる。わたしは頭にきて、これまで貸した分、だいたい百十五ルーブリはありましたから、借用書を書いてもらったのです。親しき仲にも礼儀あり、ですからね。はじめは一札書いてくれれば、お金を貸すのは厭わなかったのですがね。なんといっても、娘の元婚約者ですからね。

裁判長  被告人は、債権取り立ての請求書が出されて驚いているようです。なぜ、被告が苦しい時期に債券とりたての請求を出したのですか。

証人2  さきほども話しましたが、一向に立ち直ろうとしないからです。はじめは、辛いのかと同情していたのですが、そのうち、ヘンなことを言うようになったものですから。

裁判長  ヘンなこととは?

証人2  ナポレオンになりたいだの、英雄になるんだなどです。えらくなりたければ、大学で一生懸命勉強して役所に勤めて、真面目にこつこつ働けば、もともと頭がいいのだからすぐに出世できる。将来は万々歳だ。そう忠告しても馬鹿にしたように笑って、それは凡人が考えることだ、というんです。そんなわけで、現実を少しでも感じるように請求書を提出したのです。決して意地悪からではありません。ナポレオンになりたいという話は、判事さんには話しているようですが、わたしらにはさっぱりです。もしかしたらあたまがおかしくなってしまったのかもしれません。この裁判であきらかになることを願ってやみません。

裁判長  これは最後の質問だが、被告の事件をどう思うか。

証人2  いまだに信じられません。あんなにも聡明で賢く、正義感にあふれていたロジオンさんが、何故に、金貸しのアリョーナ婆さんを、だれからも愛されていたリザヴェータを情け容赦なく斧で殴り殺してしまったのか。謎です。

裁判長
  左様、人間は謎だ。是が非でも解かねばならぬ。つぎの証人、前へ

進行係  3人目の証人ラズミーヒン、席に着く。

裁判長  証人3は、姓名と職業を。

証人3  ドミトリー・プロコーフィチ・ラズミーヒン。大学生です。二十三歳です。

裁判長  被告人との関係は?

証人3  大学の友人です。おそらく大学中で友人はぼく一人だけだと思います。

裁判長  友人が少ない理由はなぜか。

証人3  もって生れての性格でしょう。正義感が強く、損得勘定が下手で、秀才特有の固執癖と人間嫌いがあります。なぜか人とうまくやれないネガティブ人間ですが、、根はいい奴です。愛すべき人間です。大家の娘さんとの婚約だって、強引に惚れられたからです。断りきれず、そんなに惚れているんなら、ま、いいか・・・彼女に同情してオーケーしたんです。口約束だから、彼女の恋もそのうち冷めるだろうと思っていたんです。こんな表現もへんですが、あの婚約は思いやり婚約だったんです。家賃免除をねらった下心婚約なんて、そんなみみっちいことを考える奴じゃありません。なんせペテル大学きっての秀才でイケメン。女の子にもてないはずがない。が、奴はそんなことは一切鼻にもかけない。眼中にもないんです。いつも一人で六法全書を読んでいました。

裁判長  友人関係になったのは。どんなきっかけか。

証人3  被告、いやロージャを見直す出来事があったからです。相手が立派な人間なら、嫌われても、たとえそいつが変人でも、友人になれ!それが我が家の家訓です。大学ではじめて見かけたときは、いけすかない野郎と思いました。いつも人を食ったような薄笑い。教室ではいつも最前列に席をとりノートをとっていました。その態度には講義する教授もなにするものぞ、といった威厳がありました。それが高慢にみえ、人を食ったような話し方にも腹が立つので、話しかけたことはなかった。とにかくだれからも嫌われていましたよ。それが、あのことで、ロージャに対する見方が、まるっきり変わった。是か非でも奴と友だちにならねばならない。そんな思いを強くしたんです。むろん、ロージャは迷惑がりましたよ。嫌がりました。力づくで追い返そうとしましたよ。しかし、水ある井戸は、簡単には手放しません。ロージャに家庭教師のアルバイトを紹介することで友人になったんです。彼はバイトをさがしていたから、背に腹は代えられず、ぼくの軍門に下ったわけです。といっても、常に我が道を行くやつでしたが・・・。

裁判長  友人関係は、どんな出来事からか。

証人3  あるときK並木道を歩いていたんです。家庭教師のアルバイトからの帰りでした。三十歩ほど前に、ロージャを見かけた。その頃は嫌ってましたから、脇道にそれようとしたんです。が、そのとき彼の態度が気になったんです。前を行くだれかをつけている。そんな怪しい歩き方でした。彼の二十歩ほど前を一人の若い女の子が歩いていました。まだほんの若い娘で、炎天下、帽子もかぶらず、傘も持たず、手袋もなしで、なんだかへんてこなぐあいに手を振りながら歩いていました。薄い絹もののワンピースのボタンはいまにもはずれそうだし、ウエストのあたりが大きく破れている。髪もがっくりとくずれてる。おまけに娘は、つまずいたり、あちこちへよろけたりしながらおぼつかない足取りで歩いていました。みたところ、彼女は、まだ十五、六のようでしたが、ひどく酒に酔っているようでもありました。

狙ってやがる、好色漢め。怒りがこみあげてきました。大学では、秀才ぶって聖人君主面をしているが、一歩、裏通りにくればこれだ。このざまだ。正体見たり、色事師。ぼくは、ロージャが娘に声をかけたら、飛んでいって怒鳴りつけてやろうと思っていました。ところが、そのとき、いつの間にか、がっしりした紳士が、女の子に近よってきたんです。その瞬間「おい、きみ」突然ロージャが怒鳴った。「さっきから見ていたが、きみの魂胆はわかっているぞ。その子にからむのはやめたまえ!」彼は、その紳士をにらみつけました。「なにを生意気な、小僧めが!」ニセ紳士は、怒ってステッキをふりあげました。痩せガエルのロージャとがっしり紳士。どうみても勝ち目はない。が、ロージャは勇敢にも飛びかかっていきました。そのとき、ちょうど巡査がきて、二人を引き離しました。ロージャが巡査に説明しているのを聞くと、好色漢の紳士は、娘が酔っぱらって正体をなくしているのに目をつけなんとかものにしてやろうとずっと後をつけてきた。ロージャは心配になり、帰り道とは反対だったが、ずっと好色漢の出方をうかがってついてきたというんです。この警官は顔みしりだったので、あとできいたところによると、ロージャは、二十カペイカもあげて娘を馬車で送るように頼んだそうです。人間嫌いな彼には似合わない人助け。この出来事を知ってから、ロージャと話すようになりました。そしたら、不思議と馬が合うことがわかったんです。ロージャは迷惑がるが、ほくは彼をみれば磁石のようにとんでゆく。とにかく、けんかをしてもなにしても離れることはないんです。

裁判長  よき友だったというのだな。

証人3  そうです。

裁判長  事件前までの証言はあと一人になります。証人のみなにきいているのだが、君も法学部の学生だ。こんどの事件をどう思う。

証人3  貧困からくる強盗事件殺人。検察はそのようにまとめたいようですが、疑問があります。

裁判長  金品奪取を目的とした強盗殺人事件。それも完全犯罪を目的とした計画的犯罪だ。自分でも認めている。他にどんな理由があるのか。

証人3  殺人は突発的なものです。それに精神疾患もあります。つまり正気の状態ではなかった。この一カ月間は・・・。

裁判長  精神疾患は考えられなくもないが、突発的犯行であったとは認めがたい。被告は、およそ一カ月前からこんどの犯罪を思いつき、七百三十歩という歩数まで計算した念入りな下見と予行、加えて凶器の斧を早くから物色していたという事実がある。妹の殺害は偶然かもしれないが、金貸し老婆殺しは何から何まで計算されつくした完全犯罪といえる。情状の余地は見あたらない。

証人3  しかし、それでもぼくは納得できません。彼は、ロージャは、強盗殺人なんかできる人間ではないんです。人を殺せる人間ではないんです。

裁判長  しかし、君がどんなに否定しようとも、友情の絆の強さを語ろうとも、被告は人を殺した。人殺しだ。自白もしていて、証拠もある。この現実は否めない。いまのままなら極刑は間違いない。どうしても減刑を望むなら、第二審において、事件後の被告の様子を詳しく証言してください。自首に至るまでの良心の呵責、罪に対する反省、犯行動機の変化。それによっては情状酌量の余地も出てくるかもしれません。罪を憎んで人を憎まず。その気持ちを大切に。

証人3  ありがとうございます。

進行係  これより休廷します。再開は15分後です。

     ―― 休廷 ――

進行係  第一審を再開します。証人4は証言席に着席を。

裁判長  それでは第一審を再開します。最後の証人です。姓名、職業を。

証人4  エカチェリーナ運河横町の居酒屋「こまどり」の店主です。

裁判長  被告は犯行の前々日、七月八日夕刻、店に客として入ったか。

証人4  入りました。

裁判長  常連客か。

証人4  いえ、はじめてのお客さんでございます。

裁判長  そのときの被告は、どんな様子だったか。

証人4
  どんな様子といわれても、うちに来る客は、たいていどこかで一杯ひっかけてきてるんで足元はフラフラです。あきらかに酔っぱらっている様子です。が、そのとき被告の若者は、アルコールのせいというより、昼間の暑さとひどい疲れからくたびれはてているように見えました。よっぽど咽が乾いていたんでしょう。注文した最初のビールをむさぼるように飲み干しました。そしたら急に元気になりました。水をやった花がピンシャンするようにです。背筋までぴんとなって酒場の中を物珍しげに見回していました。酒場はちょうど音楽をやるグループ客がでていったあとで空いていました。店には被告に勝るとも劣らないボロ服の、五十の坂を越したぐらいのがっしりとした体つきの中背の客が一人いました。この客はなんどか見かけていました。が、他の客に対して、身分も教養も低くて話し相手にはならん、そんな傲慢さを感じさせるので、いつも一人でした。若者と中年男。年齢はちがうが着ている服のボロさ加減は同じ。お似合いの二人と思っていたら、なんと、この二人、磁石みたいに近寄ったんです。そして、どっちが声をかけたか知りませんが、大声で話しだしたんです。といっても中年男が一方的でしたが。講談に「世のなかには、まるで一面識もない相手なのに、人目みるなり、まだ言葉もかわさぬ先からなにか関心をそそられしまう人間がいる」。こんな話がありますが、二人は、まさにそれですよ。すぐに旧知の友か知り合いのようになりました。

裁判長  以前からの知り合いではなかったのか。

証人4
  いえ、そんなふうには見えませんでした。店ではじめて会った、それは確かです。

裁判長  二人は内緒話のようなことはしていなかったか。たとえば事件の共犯者を探しているような・・・いま思えばでいいのだが、そんな怪しげな様子はなかったか。ひそひそ話とか・・・。

証人4  ひそひそ話ですか。わざとのように大声で話してましたよ。

裁判長  そうか。被告は金貸し老婆宅を下見したあとだ、共犯者を探していたふしがある。ほかに不審な点は見られなかったか。

証人4  なんも感じなかったです。二人ともボロ服を着た、乞食同然のひどい身なりでしたが、うちの店にはもっとひどいやからもくるんで・・・若者はひどくくたびれた様子でしたが、ものおじしない態度で、とても強盗を計画して共犯者をさがしている、そんな様子は、これっぽっちもなかったです。若者は二杯目のビールを注文して熱心にきいていました。

裁判長  なぜ、二人の客のことをそんなにもよく覚えているのか。

証人4  そりゃあ、忘れられるもんですか。へ、へ、へ。ほとんど、元官吏のようなおっさんがしゃべくりまくっていましたが、その話がいけません。面白すぎて聞くも涙、語るも涙の浪花節なんです。はじめのうち、あっしらも笑ってみていましたが、そのうち話にひきこまれちまいました。

裁判長  どんな話か。

証人4  近ごろ、運河の界隈に、若くて美人の娼婦がでてると評判だった。この界隈じゃあババアばかりなんで、デマと思ってたが、なんと、そのボロ着のおっさんがその若い娼婦の父親だったんです。ボロ着のアル中元官吏のわずか十八の娘が、娼婦に身を落とさなければならなくなったその日の修羅場ときたら、まさしく浪花節です。酒場中のものが、客も店員の小僧たちも、みんな耳を揃えてききましたよ。家には肺病やみの後妻と三人の幼子がいるというのに、アル中元官吏は仕事を放っぽり投げて酒びたり。子どもたちは、腹がすいたとぴぃぴぃ泣く。後妻はついにヒステリーを起して先妻の娘に怒鳴る。「このごくつぶし、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」「なにを大事にしてるのさ!たいしたお宝でもあるまいに!」とっとと娼婦になって稼いでこい、というわけです。その修羅場をアル中元官吏のおっさんは寝たふりして聞いていたというんです。娘が娼婦になって稼いだら自分もおこぼれにあずかれる。そんな魂胆で。げんに、そのとき飲んでるビールは、昨晩娘が稼いだ金だといってましたよ。幼子たちもパンにありつけたというから、家族してたいした井戸を掘りあてたというもんです。どうです、聞くも涙、語るもの浪花節じゃあございませんか。うちの小僧たちもさすがに神妙でした。が、悲惨は、あんまり悲惨をすぎると滑稽になるものです。だれかがこそっと笑ったら、大爆笑です。そしたら、アル親父、怒りましてね。大演説をぶちましたよ。

裁判長  どんな演説か。

証人4  「哀れむ!なんでおれを哀れむことがあるのだ!おい亭主、きさまはこのウオッカの小瓶がおれに楽しみを与えてくれたとでも思っているのか。おれはな、この瓶の底に悲しみを探したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい見出すことができたんだ」ときたもんでがんす。

裁判長  もうよい、共犯者の話をもちかけている様子はなかったのだな。それが知りたかったのだ。さがってよいぞ。(裁判長、証人4が下がるのを待って)
これで、事件前までの被告の日常を知る証言はすべて得た。被告の評判はおおむねよかった。事件に繋がるものはまったくなかった。証人たちの証言からはそのように思われたが、検察官はどのように感じたか。

検察官  まさに、そこのところが、被告が周囲の人たちからよく思われていた、ということが、この事件の重要なところです。被告はなぜ事件を起こしたか。一口でいうなら「甘え」です。下宿の娘の死と家賃の滞納は別なことです。真に愛するものの死への悲しみがあったにせよ、アルバイトの家庭教師もやめ、すべての関係を絶って、女中にいわせれば寝てばかりいる生活は異常です。自分に少しでもやる気があれば、問題はいくらでも打破できたはずです。母親からの仕送りだけに頼らず、生活を立て直すことはいくらでもできたはず。現に、アルバイトをさがしてくれる友人もいた。きけば優秀な学生ということだが、その才能を自分の危機において少しも活かしていない。そればかりか、ナポレオンのような英雄になって世界人類を救いたい。そんな誇大妄想に取りつかれ、なんの落ち度もない女性を二人も殺害した。とくに金貸し老婆殺しは確固たる意志をもって実行した。その考えはいまも変わらずもちつづけている。故に、これまでの証言からは、被告への同情は微塵もうまれず、「なぜ」「どうして」の疑問が大きくなるばかりだ。犯行を防ぐ手だてはいくらでもあったのに実行してしまったのははなはだ遺憾。罪に似合った罰を要求したい。

裁判長  弁護人の方からは何か。

弁護人  あります!検察の見方はすべて否定的です。公平ではありません。口約束とはいえ、突然、婚約者を亡くした悲しみ。その悲しみは推し量ることはできません。すべての関係を絶ちたい気持ちは理解できます。心の痛みにくわえて送金のストップという物質的打撃。そして、娘を亡くしたとたん手の平を返したような大家の主婦による食事ストップ。行き場のなくなった被告ですが、下宿の女中も、大学の友人も、みんな被告にやさしいです。被告の健康を心配しています。これも、ひとえに被告の性格のよさからくるものです。ナポレオンのようになりたい、なって世の中をよくしたい。これは、みな被告の正義感の強さからくるものです。金貸し老婆殺しは高利息を厳しく取り立てることへの怒りが激しすぎたのです。いろいろな事情が重なり魔が差したのです。神経がまいり過ぎて、よからぬ思想がはびこっただけなんです。決して金欲しさからの犯行ではないのです。それが証拠に、老婆から奪った財布のお金にはびた一文手をつけてありません。質草も換金していません。才能ある青年です。社会にでればいくつもの成功を重ね、被告が言うように社会のためになるでしょう。多くの善行が成されるでしょう。大勢の不幸な人たちを救えるかもしれません。是非とも寛大の処置をお願いしたい。

裁判長  弁護するのは、これでよいか。

弁護人  はい、以上です。

裁判長  第一審閉廷です。第二審は、九月十九日に開廷します。二審は、犯行後、自首するまでの被告の様子をみます。



U.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第二回公判 


進 行  これより「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判」第二回公判を開きます。着席してください。はじめに検察官は、事件概要を述べてください。

検察官  9/19現在 これまでに判明した事件概要を報告します。
【事件概要】
七月十日、午後七時頃、金貸し老婆(60)とその義妹(35)の二人がエカテリーナ運河104番地にある店舗兼自宅で死亡しているのが発見された。金貸し老婆は斧と思われる凶器の峰で数回殴打、妹は同凶器の刃の部分で額を一撃。何れも即死。部屋は一面血の海だった。第一発見者は、階下に仕事で来ていたペンキ職人。室内に物色のあと。老婆の財布と質草何点が紛失。強盗殺人とみられる。警察は怨恨と流しの物とりの両面で捜査を開始した。近頃、ロシアでは若者による窃盗、強盗事件が多発している。事件から六日目、ペンキ職人が嫌疑で連行され自白した。が、七月二十日、近所に住む元大学生ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(23)が、罪の重さに耐えかねて愛人の娼婦に付き添われて自首。金貸し老婆とその妹強盗殺人を全面自供した。八月二十九日。第一回公判で証人訊問がおこなわれた。判決は二審以降。証人訊問の証言は被告に対するよい印象の証言が多かった。

進 行  検察は、被告が出頭した際、取り調べ室で署員が記録した調書を全文報告してください。

警察署書記  はい、以下、事情聴取の全文を報告します。   

【容疑者ラスコーリニコフの事情調書】

〈私の頭に棲みついた新しい思想〉
金貸し老婆とその妹殺人事件の犯人は私です。私が一人で二人を殺害した。私こと、ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは、一カ月前、母からの送金が途絶えたことで生活に困るようになった。それで父の形見の銀時計など質草を持って金貸し老婆のところに通うようになった。そのうち、老婆を殺して金を奪おう、そんなことを考えるようになった。ケチで欲深で、頭の足りない義理の妹をこきつかっている鬼ババア。社会のためにならないシラミのような人間。その老婆を殺したとしても罪にはならないだろう。そう思った。奪った金を将来、人々のために役立てる。起業して困っている多くの人たちを救う。それなら、老婆殺しは許されるし、それは英雄に許される権利だ。飛躍した論理だが、近頃、流行りの新思想だ。私はこの思想を信じていた。私は家庭教師や翻訳のアルバイトをやめ、大学もやめて、下宿のベットの上で一日中この英雄主義の思想にひたっていた。活動家が共産主義や新宗教に憑かれるように、私は英雄思想にどっぷりつかっていた。その考えの行きつくところはいつも同じだ。つまり「おまえは、凡人か非凡人か、どちら側の人間か」の問いだ。あの金貸し老婆は、その実験材料として現れたのだ。あの老婆を殺すことができれば、私は非凡人の資格あり。できなければただの凡人。いつか実行して、予見の確かさを確認したい。いったい自分は、どちらの側の人間か。その考えがいつも振り子のように心の中にあった。

しかし、この考えを実現させようなどとは、実践しようなどとは、これっぽっちも、思っていなかった。夢にもみなかった。この考えはあくまでも絵空事、空想の世界。そう思っていた。しかし、その一方で、私は選ばれた人間。将来、人類のためになる人間だ。だから私にはなんでも許される。どうしてもその考えから抜け出すことができなかった。げんにナポレオンは何万という人間を殺したのに英雄として称えられている。銅像までたてられている。一人殺せは殺人犯だが、百人殺せば英雄というわけだ。歴史が証明している。こんな考えがずっと私の頭に棲みついていた。

〈空想が現実になるまで〉
決して実践することのない思想、計画だった。しかし、私は苦しかった。私の頭に棲みついた英雄主義は、日ごとに成長し、私をせきたてる。私は心のなかで叫んだ。「おれは本当に、本当に斧を手にして、頭をぶち割る気なんだろうか・・・」そんなことが本当にできるのか。なんども自問した。そして、ぜったいにできゃしない、と思った。そのくせ前日には、ちゃっかり下ざらえまでしたのだ。一カ月間、心のなかで神と悪魔が闘っていた。「できる、できない」「だめだ、おれにはもちこたえられない!耐えられない。たとえ、たとえあの計画に一点の狂いがないとしても──」私は、迷い、苦しみ、悩んだ。

しかし、たとえ、私が、どうもがこうと、あがこうとあの計画は実現に向けて、着々と歩をすすめていた。凶器の準備から、運搬方法、シガレット・ケースにみせかけた木片の質草づくりまで、綿密に練って用意していた。

そうして、ついにあの日がきた。とくに七月十日と決めたわけではない。強いて説明すれば、まる一カ月も考えに考えた思想が熟しきった、というべきか。女中のナスターシャは「考える仕事をしている」といったら笑いころげたが、所詮、凡人たちにはわからないことだ。

あの日の夕方、私は何かに導かれるように棺おけ同然の下宿屋をでた。だれとも会わなかった。外は蒸し暑かった。空想を現実に代える要素をたっぷり含んでいた。英雄を孵化させる最適温度だった。六時を過ぎていた。太陽は沈んでいたが、蒸し暑さは変わらなかった。太陽が熱かったから――それで殺人を犯した。そんな男の話を読んだことがある。私の場合、蒸し暑かったからになるが、それだけではなかった。まるで神が行く道を指し示すように、私の行く道を示したのだ。汝、この道を進むなり。いくつもの偶然が必然となって道を開いた。知った人間に誰一人会わなかった。

私は英雄になれる人間。だから神がこの状況を用意したのだ。犯行前日は、気持ちが高ぶり過ぎた。その症状から逃れるために居酒屋でウオッカを一杯ひっかけたら、眠くなって荒れ野をさまよって、藪の中で眠りこんだ。そしたら恐ろしい夢を見た。やせ馬が酔っ払いの百姓たちに殴り殺される夢だった。あれは決行には、まだ早いという知らせだったのかも――今はそう思う。

〈神にも誤りはある〉
その時はついにきた。神は指し示した。七月十日午後七時半、金貸し老婆は、たった一人で家にいる。千載一遇のチャンス。何年好機を待ちつづけたところで巡ってくるかどうかはわからない。この機をのがしたら、永遠にチャンスはないだろう。このチャンスの時を知ったのは、決して偶然ではない。すべての道はローマに通ず。英雄への道はドアの向こうにある。すべては必然、計画通りだった。

ドアは開けられた。英雄への道の入り口に、金貸し老婆が立ちはだかっていた。私は言った。「シガレット・ケースを持って来ました」。老婆はけげんそうにに受けとると、紐をほどきはじめた。偽物であることがバレてしまう。もう一刻の猶予もなかった。私は外套から斧をとりだし、なかば無意識のうちに両手で、それを振りかぶると、ほとんど力をこめず、ほとんど機械的に、頭めがけて斧の峰をふりおろした。斧はちょうど脳天にあたった。彼女は、悲鳴をあげたが、ごくよわよわしい声だった。まだ死んではいなかった。私は、ふたたびもう一度、二度脳天をねらって斧をふりおろした。大量の血がほとばしり老婆は仰向けに倒れた。息の根をとめようとしたが、すでに息絶えていた。

計画は成功した。私は、難関の老婆殺害を難なく成し遂げたのだ。ナポレオンへの道、英雄への道がにわかに私の前にひらけた。

しかし、神は誤った。この時間にはいないはずのリザヴェータが突然にあらわれたのだ。これも英雄になるための試練か。彼女は、布切れのように青ざめ、私を穴のあくほど見つめていた。まきぞえになった彼女には気の毒だが、責められるは神だ。私の計画には、不幸な妹リザヴェータの殺害は、なかった。

私は斧をかざしてとびかかった。彼女は泣き出しそうな顔で、なんの防御もなく立っていた。斧の刃はまともに頭蓋骨にあたった。一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。即死だった。このとき外に人が来て、私はひどくあわててしまった。それで、このときのことは、ほとんど記憶にない。しかし、だれにも見つからず家に帰ることができた。このことはやはり偶然ではない、必然が私にあるように思った。しかし、リザヴェータを殺してしまったということは、罰として、私の心に残った。

進 行  前回第一審の報告を行います。
【第一回公判 証人訊問】
八月二十九日、ペテルブルグ裁判所で第一回公判が開かれた。第一回公判は、主に被告をよく知る人たちの証人訊問に終始した。
八月二十九日の初回法廷では被告の日常生活をよく知る人たちが証言した。主に下宿関係者や大学の友人の証言。そこからは強盗殺人の兆候はみられなかった。被告は寝てばかりいた。体がつらそうだった。アル中の元官吏を自宅まで送る、酔った少女を助けるなど、怠惰な生活とは別の、率先して親切と正義を働く日常が証言された。被告人は、大家とは婚約した娘の死で家賃をめぐる確執はあるが、多くの人たちからは愛されていた。孤独なひここもりではなかった。貧困の問題も、母親からの手紙で解決つく見通しがあった。それ故に、初回法廷では大きな謎が残った。即ち、才能ある正義感の強い、だれからも愛される青年がなぜ殺人者になったのか。第二回公判の被告人質問でその謎に迫りたい。

進 行 九月十九日、第二回公判を開始します。 

《第二審に出廷する人物》

・裁判長 
・被告人 
・検察官 
・弁護人     
・ポルフィーリイ・ペトローヴィチ 予審判事
・ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン 弁護士      
・書記

進 行  ただいまより103号議案に入ります。被告人は、前へ。

裁判長  それでは、被告人質問を行います。被告人は、氏名、年令、職業、住居、本籍を述べてください。

被告人  はい、ロジオン・ロマーヌィチ・ラスコーリニコフ、二十三歳。職業は無職。元大学生です。住所は中メシチャンスカヤ通り19、本籍はトゥーラ県です。

裁判長  検察は起訴内容を述べてください。

検察官 
【起訴内容】被告人は、一八六五年七月十日、午後七時半頃、金品を奪う目的でエカテリーナ運河104番地にある金貸し老婆宅に客を装って訪問。金貸し老婆アリョーナ・イワノヴィナ(60)と、同居する妹リザヴェータ(35)を斧で撲殺し、金品を奪い逃走した。周到に練られた犯罪で、誤認逮捕もあったが、被告人は、二人もの人間を殺したことへの罪の意識と、良心の呵責に耐えかねて、十日後の七月二十日、自ら警察署に出頭、自首に至った。

裁判長  被告人はこの起訴状に相違ないか。

被告人  はい、おおむね相違ありません――あくまでおおむね、ですが。

裁判長  では、これより被告人質問にはいる。被告人は自分に不利になることは言わなくてよろしい。

被告人  わかりました。

裁判長  それでは、はじめに、いまの起訴状に対する返事について訊ねる。被告人は、おおむね相違ないと答えたが、不満そうにも聞こえた。おおむねとは、だいたいとのことだが――すべてではないとの意味もある。何か足らないものがあっての答えか。

被告人  はい、動機の点について――。

裁判長  動機?・・・起訴状は、金品を奪う目的とあるが、犯行目的は金品を奪うことではなかったのか。

被告人  はい。金品が目的ではありませんでした。

進行係  法廷内、ざわつく

裁判長  静粛に!――では何か。

被告人  金品は第二の目的です。

裁判長  第二の目的? 第一目的は貧困ゆえの犯罪、つまり金品欲しさゆえの犯行ではないというのか。

被告人  はい。

裁判長  よくわからないが・・・現実は、被告人は金貸し老婆を殺害して、彼女の財布や首飾りなど質草の品物を盗み、街外れの石の下に隠蔽した。すべてが自白通りで、証拠もそろっている。明明白白ではないか。ただ財布の金は未使用で、質草の装飾品も換金していない――との報告がある。この現状から、すぐに金が必要だったわけではないと想像できるが――。

検察官  裁判長。よろしいでしょうか。

裁判長  検察官に発言を許可する。

検察官  被告人は、母親からの手紙で現金が送金されることを知っていました。友人からのアルバイトの紹介もありました。そんなことから、いますぐ金が必要ではなくなった。それゆえ、完全犯罪をより強固なものにするために、ほとぼりが冷めるまで、盗品には手をつけない。そんなプロ意識が働いたと推測します。完全犯罪を狙った犯罪だからです。しかし、根本はあくまでも金に窮した金銭目的の犯行です。典型的な物とり犯罪です。憎むべき犯行ですが動機は単純なものです。

裁判長  検察は犯行動機は、金欲しさ以外にあり得ようがないとするが。被告人、異論はあるか。

被告人  早急で稚拙な推理でお笑いだ。そんな動機など、ぺっ、ぺっだ。

裁判長  被告人、言動に注意してください。法廷を侮辱すると退場もあります。

弁護人  裁判長、被告が動機にこだわる点について説明できます。

裁判長  弁護人の発言を許可する。

弁護人  ありがとうございます。被告は犯行の前日、先ごろ不幸にも亡くなった被告の母親より手紙をうけとっています。第一回公判の証人訊問でも紹介しましたが、金に困った末の犯行ではなかったことの証明になるので今一度紹介します。
「おまえとはもうすぐ会えるわけですが、それでも、二、三日のうちに、できるだけのお金を送ります。ドゥーネチカがルージンさんといっしょになることが知れてからは私の信用も急に高まったようなわけで――いまなら年金を抵当に七十五ルーブリでも貸してくださいます。ですからおまえにも二十五ルーブリ、ことによると三十ルーブリは送れます」。
ことによると三十ルーブリも、と書いてありますが、被告は実際三十ルーブリ送ってもらったのです。妹さんの結婚話は、その後ご破算になりましたが、この時期、ラスコーリニコフ家は経済的には明るい方向に進んでいたのです。当然、被告はこの手紙を読んでいましたから、金に困った末に強盗殺人を実行するというような考えは起こりません。起こり得ようがありません。

検察官  異議あり!

裁判長  異議を認めます。

検察官  ラスコーリニコフ家が、当時、どんなに金にこまっていたか、弁護士のルージン氏に証言をお願いします。

裁判長  ルージンさん、証言をお願いできますか。  

ルージン もちろんですとも!私めに証言の機会を与えていただきありがとうございます。弁護士のピョートル・ペトローヴィチ・ルージンです。私めはこの家族についてよく存じております。実際、金に困った貧乏家族です。私が婚約したおかげで、どれほど明るい未来が、どれほどの幸福がこの家族にさしこんだか。大学をやめた被告の身をどんなに心配してやったか。妹と結婚したあかつきには復学させ、将来は私の事務所で働いてもらう、それも共同経営者としてですよ。これほどの恩を被告とその妹は卑劣にも仇で返したのです。せっかく極貧にあえぐ母と娘を借金の泥沼から救いだそうとしたのにです。貧困と高慢ちきな性格で頭のおかしくなった兄と、家庭教師先で、その家の主人と不倫問題をおこしキズものになった妹、おまけに、お助けくださいと日参して頼みこんでくる無学の母親。家族ひっくるめて面倒をみてやろうと思っていたのにですよ。こんな寛容な私めが裏切られたのです。

裁判長  証人は、事件とは関係ない話をしないこと。

ルージン 大いに関係ありますとも。私の寛大なる親切と恩を受け入れていたら、こんどの事件は起こらなかったはずです。兄も妹も母親も、三人全員がハッピーになって、いまごろは郊外の別荘の庭で優雅にお茶をしていたはずです。それを、このきちがいの兄のために、人殺しのために、母親は泣き死んで、妹はといえば、追ってきた地主を、聞けば家庭教師時代にさんざん面倒をみてもらったという地主を袖にして、今では若い男に乗り換えるという節操のなさ。そのため、地主はピストル自殺をしたとのことです。兄が兄なら妹も妹、兄妹そろってろくでもない家族。貧乏人のくせに――。

被告人  このチキン野郎!犬にでも喰われろ!お前なんか、ごめんこうむりだ!色魔め、吝嗇野郎!

ルージン だまれ! 人殺し! 死刑になれ! メス犬家族!売春宿がお似合いだ!兄妹そろって地獄におちろ!

     法廷内、騒然

裁判長  静粛に!

裁判長  被告人は暴言を吐かないこと。証人は退席してください。

     法廷内 鎮まる。

裁判長  犯行は貧困からではない。では、何が目的で強盗殺人を働いたのか。貧困が第一の動機でないとすると、他に、どんな理由があるというのか?先に調書で述べたような思想問題からか。

弁護人  裁判長、そのへんのところは、現在、被告人は精神的に疲労しており、正常な判断や答えができにくくなっております。今は、その質問に答えるのを控えさせていただきたいのです。

被告人  精神は至って健康です!裁判長、いますぐ答えることができます。

弁護人  裁判長、重ねてお願いします。被告人はまだ混乱状態にあります。動機の解明については後日の法廷で質問していただきたく――。

裁判長  弁護人の発言を却下します。被告人、引きつづき質問に答えるように。このたびの事件の第一動機は何か?

被告人  金貸し老婆の殺害であります。金品の奪取はあくまでも二の次です。

裁判長  なぜ、老婆殺害を第一の目的としたのか?

被告人  ナポレオンになりたいからです。

裁判長  ナポレオン?!あのナポレオン・ボナパルトか。

被告人  はい、そうです。

裁判長  なぜナポレオンに。

被告人  英雄だからです。

裁判長  なぜ、英雄になりたいのか。

被告人  思ったことがすぐ実行できるからです。普通の人間は一つの善行でも難しいが、英雄なら百の善行でも一声で成し遂げられます。ぼくは世の中の大勢のひとたちを救いたいのです。いますぐに、世界人類の救済がしたいのです。

裁判長  金貸し業アリョーナ殺害とどう関係するのか。

被告人  彼女を殺すこと。そのことがぼくが英雄である証だからです。シラミ一匹を殺せる勇気と行動力。老婆殺しでぼくは生れついての英雄であったかどうか、それがわかるんです。金貸し老婆の殺害はその試金石なのです。

裁判長  二人の人間の命を奪うのが英雄の試金石だったというのか。

被告人
  リザヴェータは違います。

裁判長  違うというとどう違うのか。

被告人  リザヴェータは成り行きです。計画にはありません。運が悪かったのです。英雄に許されているのは、あくまでも役たたずの生きていても仕方ないゴミ同然の人間の殺害です。リザヴェータは違います。彼女は、皆から愛されていた・・・。

裁判長  では、なぜ彼女を、彼女まで殺してしまったのか。

被告人  なぜか、わかりません・・・。

裁判長  目撃されたからであろう。

被告人  そうだったと思います。が、そのときは何も考えませんでした。最初の殺人ですっかりまいあがっていたので、どのように殺したのかも記憶にありません。無意識に斧を振り下ろしていたのです。

裁判長  よろしい、そこは一歩ゆずってそうだとしよう。では、最初に殺した金貸し老婆は、確信をもって殺したのだな。

被告人  はい、そうであります。

弁護人  裁判長!異議あり!

裁判長  異議を認めます。

弁護人  被告は確かに強盗殺人を想像しました。しかし、現実に実行できるとは思っていませんでした。被告は、近頃流行りの人類二分法の思想に毒されていただけです。

裁判長  人類二分法とは何か。どんな思想か。

弁護人  フランスで刊行されたある本、かのジュリアス・シーザーを礼賛する伝記ですが、この本の序文に書かれた言葉が一人歩きをして、現代の若者たちを看過しているのです。

裁判長  どのような内容か。

弁護人  独善的な毒にも薬にもならない本です。一部をよ読みあげて紹介していいでしょうか。

裁判長  一部紹介を許可する。そのまえに休廷とする。

進 行  休廷します。再開は十五分後。

     ―― 休廷 ――

進 行  公判を開始します。

裁判長  新思想の一部紹介を許可します。

弁護人  ありがとうございます。

「並外れた功績によって崇高な天才の存在が証明されたとき、この天才に対して月並みな人間の情熱や目論みの基準を押し付けるほど非常識なことがあろうか。これら、特権的な人物の優越性を認めないのは大きな誤りであろう。彼らは時に歴史上に現れ、あたかも輝ける彗星のごとく、時代の闇を吹き払い、未来を照らし出す。本書の目的は以下の事を証明することだ。神がシーザーやカルル大帝のごとき人物を遣わす。それは諸国民にその従うべき道を指し示し、天才をもって新しい時代の到来を告げ、わずか数年のうちに数世紀にあたる事業を完遂させるためである。彼らを理解し、従う国民は幸せである。かれらを認めず、敵対する国民は不幸である。そうした国民はユダヤ人同様、みずからのメシアを十字架にかけようとする。」
この思想がロシアでも、繊毛虫のようにはびこりはじめているのです。

裁判長  稚拙だな、あまりにも稚拙だ。

弁護人  しかし、この思想が、昨今、街の居酒屋で議論されているのです。

裁判長  どのようにか。

弁護人  これは被告人が、居酒屋で直接耳にしたという将校と学生たちの会話です。記録されているので一部を紹介します。
「一方には、おろかで、無意味で、くだらなくて意地悪で、病身の婆さんがいる。だれにも必要のない、それどころかみなの害になる存在で、自分でも何のために生きているのかわかっていないし、ほっておいてもじきに死んでしまう婆さんだ。わかるかい。ところがその一方では、若くてぴちぴちした連中が、誰の援助もないために、みすみす身を滅ぼしている。それも何千人となく、いたるところでだ! 修道院へ寄付される婆さんの金があれば何百、何千というを立派な事業や計画をものにすることができる! 何百、何千という人たちを正業につかせ、何十という家族を貧困から、零楽、滅亡から、堕落から、性病院から救いだせる――これが、みんな彼女の金でできるんだ。じゃ、彼女を殺して、その金を奪ったらどうか。ひとつのちっぽけな犯罪は数千の善行によってつぐなえないものだろうか?ひとつの生命を代償に、数千の生命を腐敗と堕落から救うんだ。ひとつの生命と百の生命をとりかえる。─―これは算術じゃないか。」

裁判長  被告人はこの思想を知っているか。

被告人  もちろん、知っています。

裁判長  実践したいと思ったことはないのか。

被告人  ありません。頭のなかで考え愉しむだけです。

裁判長  しかし、今回は実行した。

被告人  偶然が、いくつもの偶然がかさなったのです。

検察官  異議あり!

裁判長  検察は何か?

検察官  被告はこの思想を実践に代えるべき努力していました。決して、偶然からの犯行ではありません。

裁判長  異議を認めます。して、その証拠はあるのか。現実化しようとしていたという。

検察官  被告人は何カ月も前から考えに考えていました。この計画を練りに練っていました。

裁判長  どのような方法でか?実証はできるのか・・・。

検察官  証人としてポルフイーリイ予審判事の証人訊問をお願いしたいのですが。

裁判長  許可します。

進 行  ポルフイーリイ予審判事、前へ。

裁判長  証人は氏名、職業を述べよ。

予審判事 職業はペテルブルグ警察署付きの予審判事です。

裁判長  検察はこの事件は、前もって計画され、練られていたと陳述したが。相違ないか。

予審判事 相違ありません。裁判長。

裁判長  証明できるのか。

予審判事 できますとも!おおいにできます。

裁判長  証人と被告との関係は。

予審判事 私の親戚のものが──大学生ですがね、第一回公判で証人として立ちました。彼は苦学生ですが、バイタリティある若者で、いい子なんですよ、友人思いの。まあ、そんなことはどうでもいいんですがね。早い話、彼は被告の友人なんです。いや、友人なんてものじゃない、なにやら尊敬までしてるんですよ。今度の事件で警察が質草の入質者を調べていると聞いて心配しましてね。実際、質草に被告の持ち物がありました。指輪と銀時計です。質草は金貸し老婆と関係する重大物件ですからね。動かぬ証拠ですから当然疑われます、それで、警察署より先に私のところへ行って説明しておけ、と先手を打ったわけですよ。彼、ラズミーヒンは親切心と友情から内々に済ませようと思ったんですな。涙の友情物語だが、コネはいけませんですね。

裁判長  被告は捜査対象になっていたのか。

予審判事 とんでもない、嫌疑どころか、署長も副署長も、あさっての方をむいていましたよ。被告はそのころ大家に家賃を滞納して訴えられていて、警察署で払えぬ理由を一席ぶったりしていて、とても強盗殺人事件との関連などつかみようがなかったです。それに、警察は誤認逮捕をしていたほどで、被告はまったくの蚊帳の外でしたよ。

裁判長  予審判事もそうであったか。

予審判事 もちろんですよ。会うまでは、可愛い甥っ子のために一肌ぬいでやろう、そんな気持ちでした。この世界、嫌疑をかけられると、面倒だし、嫌なことがありますからねえ。甥っこの友人がこんどの事件と繋がるなどこれっぽっちも考えてませんでしたよ。

裁判長  被告に嫌疑の眼をむけたのはいつからだ。

予審判事 ラズミーヒンが被告を紹介するためにうちに連れて来たときからですよ。驚きましたよ。話しているうちに、突然、先日、運河通り104番地で起きた質屋の老婆殺人事件のホシはこの男だ!と確信したんです。

裁判長  関連づけるものがあったのか?

予審判事 脈略なんかなにもありません。私はもう終わった人間ですからね、勘も鼻も効きませんよ。ただ、雑学が好きでいろんな本をかじっているわけです。クイズの応募に役立ちますからね。もっとも本は最初の三ページぐらいしか読みませんが。

裁判長  証人は、簡潔にお願いします。

予審判事 簡潔ですか――、捜査においてはよろしくないですな、簡潔は。でも、よろしい、ここは法廷ですからできるだけ簡潔にいきましょう。協力します。

裁判長  ぜひともお願いします。

予審判事 私は被告の名前を聞いて驚いたんですよ。というのも二カ月ほど前、ある月刊誌を読んで――この前、廃刊になった『月刊論壇』ですがね。あの月刊誌のなかに、ひどく気になる投稿論文がありましてね。ぜひ筆者に会って、直接、話を聞きたいと思っていた矢先ですよ。論文は匿名でしたが、編集者に知り合いがいましてね。サツ時代の習性で、本名を聞き出してあたまの隅に入れておいたんです。ところが、筆者と同姓同名の人間が、なんの予告もなく、突然目の前にあらわれたのですから、こりゃあビックリです。聞けば、論文の筆者本人というわけで。二度ビックリです。

裁判長  どのような内容か、概略を簡潔に述べることは可能か。

予審判事 可能ですとも! 論文は、犯罪の全過程における犯人の心理状態を考察したものですが――かいつまんで言えばこんな内容です。
「犯罪の実行行為はつねに病気にともなわれる」と主張しています。ひじょうに、ひじょうに独創的なんです。ただ・・・実をいうと、私がとくに興味を持ったのは、論文のその部分ではなくて、論文の最後にちらともらされたある考えなんですよ。つまり、「この世界には、あらゆる不法や犯罪を行いうる、いや、行いうるどころじゃなくて、完全な権利をもって行いうるある種の人物が存在する。そういう人物にとって法は無きにひとしい」。この論文によると、すべての人間が「凡人」と「非凡人」に分かれるという点にある。凡人は、つまり平凡な人間だから、服従を旨として生きなければならんし、法を踏み越える権利ももたない。ところが非凡人は、非凡人なるがゆえに、あらゆる犯罪を行い法を越える権利を持っている。

裁判長  そこまででよろしい。事件と関連あれば、また思いだしていただくとして、証人と被告のとの関係は、投稿論文によって、でよいのだな。

予審判事 はい。じつは、もうひとつ驚くことがあったんです。残された質草ですが、老婆はその一つ一つを紙にくるんで、ご丁寧に入質者の氏名、質入れ日を鉛筆ではっきり書いていたんです。そのなかに被告のものもありました。指輪と時計でしたか。それで名前をしっかり覚えていました。気になる投稿論文の筆者の名前も同じでしたからね。で、お会いしたとき、すぐにわかったんです。ああ、あの質草の持ち主かと。論文の筆者と同姓同名の人物だと。

裁判長  しかし、残された質草はたくさんあったと聞いている。被告は、第二の被害者とドァをたたく訪問者ですっかり動転し、質草のほとんどは手付かずで、たいていは盗まれなかったようだが。それなのに、入質者全員を覚えているとはたいした記憶力です。

予審判事 いえ、記憶どころか物忘ればかりしてますよ、近頃は。もう終わった人間ですから。なぜ、被告さんの名前をしっかり覚えていたかというとですね。手品のトランプ当てのようなものですな。ほとんどの入質者は、事件直後、大慌てでやってきました。被告だけが来なかった。身体のぐあいがあまりよくなかった。あとでそんな話をききましたが、目の前に名前が書かれた持ち主が来ない質草がぽつんとあれば、いやでも覚えてしまいますよ。この持ち主は、あの論文の筆者と同じ名前だ。もしかしたら同一人物ではないか。どうして来ないのか。事件と関係あるのか。そんな疑問が次々浮かぶ道理です。そこに被告がひょっくりあらわれた。もうビックリですよ。ピカッと雷が落ちた気分でした。論文と事件。二つの点が繋がった、そんな気がしたわけですよ。

裁判長
  で、あなたはどう思われるか。この事件は、たんに金に困っただけの、経済的に切羽詰まっただけの強盗事件か。それとも、被告がいうように、ほんとうにナポレオンになりたかった――そのために実行した犯行なのか。いま流行りと云う人類二分法にそそのかされての犯行だったのか。

予審判事  動機は何か、ということですか・・・むずかしいですな・・・いまどきの若者が何を考えているのかは。考えた末の犯行というが、何も考えない犯行かも知れません。だって、そうじゃありませんか。いくら世直しのためといえ、アルバイトは世話してもらえる。母親と妹は婚約のめでたい話をもって上京してくる。そんなときに、強盗殺人をしなければならないなんて誰が考えますかね・・・。私にはわかりません。

裁判長  金欲しさからでもない。革命思想からでもない。ナポレオンの亡霊にそそのかされたとしか思えないような、この強盗殺人の本当の動機はいったい何か。

弁護人  安易に人を殺したいという事件が頻発する昨今です。なぜ人は人を殺したいのか。被告の「ナポレオンになりたい」は、ほんとうの動機なのか。

裁判長  今回も判決はありません。次の公判は、被告自首におおきな役割をはたした証人の訊問を行います。これで、第二回公判を閉廷します。

進 行  第三回公判は、十月十七日木曜日です。

裁判長  最終判決は、第一回証人訊問、第二回被告人質問、第三回異人たちの証言が終了してからを予定している。その後、上告されなければ結審したいと思います。なお大量殺人の廉で二〇〇三年にアメリカ軍に拘束され死刑判決を実施されたイラクの元大統領の軍事裁判記録が入手できたことから、近く公表予定です。





V.金貸し老婆とその妹強盗殺人事件裁判 第三回公判 

 【これまでの公判記録】
第一回公判 8/29 証人訊問(被告の日常生活を知る人たちの証言)
第一回公判の証人訊問では、被告人の人物像を知るため被告の日常生活を知る人たちに証言してもらった。証言者は、下宿の女中、下宿の主婦、大学の友人、酒場の主人。引きこもり、偏屈な性格とみられていた被告だが、彼を知る周辺の人たちの印象は、わりとよかった。皆一様に残酷な被告の犯行に驚いていた。いまだ彼の犯行と信じる人は少ない。証言は裁判には有利であった。
第二回公判 9/19 被告人質問(強盗殺人事件の動機、人類2分法とは何か)
第二回公判の被告人質問では、犯行の動機を解明するため被告人質問をおこなった。人類を非凡人、凡人に分ける人類二分法とはなにか。あの強盗殺人は、金品目的ではなかったのか。被告人の犯罪哲学に注目。証言者は、予審判事ポルフィーリイとルージン。

《第三審に出廷する人物》

進 行
裁判長
検察官
弁護人
被告人 ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ 23才
証 人 ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ ソーニャ 18歳
証人(故人)セミョーン・ザハールイチ・マルメラードフ) 退職官吏 

進 行  ただ今から「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」第三回公判を行います。傍聴の皆さまには携帯の電源切りの確認、今一度お願いします。

裁判長  これより被告人ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ(23)が一八六五年七月十日午後七時半頃、金貸し老婆アリョーナとその義妹を殺害し、金品を強奪した強盗殺人事件に対し、本日は重要証人として、被告の知人元官吏マルメラードフの娘ソーニャを当法廷に召喚し、不可解な事件動機の解明をはかる。よって証人は、あくまでも法廷の神聖さをわきまえ偽りなきよう答弁すること。なお、証人の父親、元官吏マルメラードフ氏は、一八六五年七月十四日、路上事故により逝去しているため、当裁判には、故人の代理として証言をお願いした。
はじめに検察は、これまでに判明している事件概要を述べてください。

事件概要
検察官 本日十月十七日までの本事件概要は、およそこのようである。一八六五年七月十日午後七時半頃、金貸し業老婆アリョーナ・イワノヴナ(60)は店舗兼自宅(エカテリーナ運河104)において同居人で義理の妹(行商業)リザヴェータ・イワーノヴナ(35)と共に殺害された。凶器は、アパート庭番所有の薪割り斧。二人ともほぼ即死。犯人は、はじめに金貸し業老婆を襲い殺害。つぎに遅れて帰宅したリザヴェータを殺害した。老婆殺害は、斧の峰だったが、義妹は、刃の部分だったので、頭蓋骨が真っ二つに割れる悲惨なものだった。犯人は、二人を惨殺後、室内を物色。老婆の財布と首飾りなど質草の装飾品数点を盗み去った。手がかりはなく、目撃者もいなかった。初動捜査は行き詰まった。が、二日後第一発見者の塗装工に嫌疑がかかり連行、九日目に自白した。しかし事件から十日目となる七月二十日、近所の下宿に住む元大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが、愛人の説得で突然、自首した。被告は、一度は捜査線上に浮かんだ人物だったが、警察関係者に知り合いがいたことと本人がわざとのように犯人らしく振舞ったことでかえって嫌疑は薄れていた。盗品は自供通り市内V通り広場付近の大きな石の下に隠されていた。財布など全て盗品と一致したことから元大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフを本姉妹強盗殺人事件の真犯人と断定。逮捕に至った。本事件は、被告が一カ月前に計画。自宅の門口から現場まで730歩と練りに練ったもので、完全犯罪を狙った事件だった。
以上が本件の事件概要であります。

弁護人 異議あり!

裁判長 なにか。

弁護人 事件概要に事実でない点があります。訂正と削除を、願います。

裁判長 訂正と削除? どこか。

弁護人 愛人の説得で突然、自首したとありますが、「愛人」と「突然」この二点です。証人は、被告の愛人ではありません。被告の知人の娘です。つぎに、突然の自首と、ありますが、被告は、犯行直後から、常に自首を念頭においていたと言っております。その証拠に事件後、なんども警察署に出向いて自首の機会をうかがっていました。署長はじめ副署長、書記たちが目撃していますし、会話もかわしています。したがって、この二点、「愛人」を「友人」に訂正と、「突然」の削除をお願いします。

裁判長 被告人にきく、これに相違ないか。

被 告 相違ありません。彼女は、私の知人の娘さんです。いまは信頼している友人です。自首については、犯行後、いつでも、という気持ちでした。突然ではありません。

裁判長 証明できるのか。

弁護人 多方面の知人から証言を得ています。

裁判長 よろしい。異議を認めます。書記は、訂正し削除したものを記録してください。

【起訴内容】
検察官 元大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフは、兼ねてより金貸し老婆強盗殺人計画をたて、その時をうかがっていた。七月十日午後七時半頃、金貸し老婆が一人になることを知って、その日に決行した。老婆宅を客を装って訪れ、殺害した。同時に帰宅した義妹も撲殺した。犯行目的は、当初、母親からの送金が途絶えたための生活苦とみられていた。しかし、捜査の過程でその線は薄くなった。理由は、母親の手紙から二日待てば母親から30ルーブリ送金されることがわかったからである。他に大学の友人からアルバイトの紹介もされていた。被告は、学力優秀な大学生だったとの報告もある。自分で家庭教師の口を探しても良かった。自力で生活の糧を得るには容易だったはず――にもかかわらず被告は、家庭教師や翻訳のアルバイトを断り、ひたすら下宿の部屋にとじこもって寝ていた。これらのことを鑑みるに、この事件は、切羽詰まった末の、貧乏に追い詰められた末の犯行ではないと推測する。

この事件は、経済的動機ではなく、精神的、思想的要素が根強い。被告は、供述のなかで、このような疑問を口にしている。「人を殺してみたかった。何人殺したら有名になれるのか。ナポレオンのような英雄になるためには殺人は必要か。シラミのような人間を殺すのは罪にならないのか。いま、人を殺しても将来、多くの善いことをすれば、昔の殺人は帳消しになるのか。自分は、人よりすぐれている。つまり非凡人だから、すべてが許される」被告の頭にあった殺人動機は、こういった理由です。これは、現代の病です。恐ろしい思想です。しかし時代のせいにはできません。被告は、学力優秀でしたが、洗脳されやすい、新思想にかぶれやすい人間だったのです。性格は狡猾で独善的で利己主義者でもある。その証拠に、家賃不払いを条件に家主の娘と婚約しましたが、娘がチフスで亡くなったあとも、図々しく家賃を滞納していた。狡猾にして吝嗇、非道にして残酷。被告は、そんな人間です。

最近、若者による同様の事件が多発している。汗する努力を嫌い、楽して上に立ちたがる。ゲーム感覚で安易に犯罪に走る。こうした時流に釘刺すためにも本事件は厳罰罪をもって処すべきである。

弁護人 裁判長、弁護側からも陳述を。

裁判長 発言を認める。が、手短に申せ。

弁護人 ありがとうございます。ただいま検察は、被告人にとって不利な報告ばかりしましたが、被告人は、正義感が強い余り、誤解されることがしばしばです。たとえば家主の娘さんとの婚約ですが、家賃不払いが目的ではなく、あくまでも娘さんの気持ちを傷つけまいとした、思いやりからでした。そうでなければ、どうして才能ある天下のペテル大の秀才学生が、何を好んで、まだうら若い娘と結婚の約束なぞするでしょうか。被告は、決して孤独でも引きこもりでもありません。ゲームに溺れてもいません。被告の事をいまでも心配してくれる友人もいます。下宿の女中は、しょっちゅう世話をやきたがっています。被告は、皆に好かれており愛されています。こんどの事件は魔が差したとしか思えません。現に被告は事件を起こしたことを悔やみ、悩み、説得されたとはいえ、事件十日後には自首しているのです。たしかに二人の殺人は実行されました。しかし、これらの殺人は世の中を思うばかりに、犯してしまったのです。刑の軽減をお願いします。

進 行 それでは審理をはじめます。証人は、氏名、年齢、住所、職業を述べてください。
証 人 ソフイヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワです。ソーニャと呼ばれています。十八歳です。住所はエカテリーナ運河63。仕立屋カペルナウーモフの持ち家です。

裁判長 職業は。

証 人 ―― 元お針子です。

裁判長 現在は、何か。

弁護人 裁判長、そこは弁護人の方からお答えします。証人は、両親がつくった多額の借金とその家族を救うために現在、黄色い鑑札を受けていますが、近々、自由になる予定です。

裁判長 証人は、それに相違ないか。

証 人 ハイ…。

裁判長 黄色い鑑札を受けているものとなると――さきほどの訂正質問だが、愛人というのは本当に間違いか。

証 人 ハイ…。

裁判長 被告と同きんしたことはあるか。

証 人 ど、う、き、んといいますと。

裁判長 つまり商売がら被告と肉体関係があったのか、ということだ。

弁護人 異議あり、本件とは関係ない質問です。黄色の鑑札は、あくまでも仕事上です。たとえ肉体的に関係があったとしても、それを愛人関係とは言えません。

裁判長 よろしい、異議を認めます。証人は、答えなくてよろしい。それでは、質問をかえる。こんどの事件で、被告に自首をするよう説得したか。

証 人 ハイ … 説得かどうかはわかりませんが、すすめました。

裁判長 被告が「金貸し老婆とその妹強盗殺人事件」の犯人と知っていたのか。

証 人 ハイ… そうではないかと…。

裁判長 証人は、被告が金貸し老婆殺しの犯人ではないか思ったのは、いつか。そして、それはどんなふうに知ったのか。

証 人 それとなく感じたのは父の葬儀のあった翌日です、ラスコーリニコフさんが突然わたしの部屋に訪ねてきたのです。

裁判長 何時ころか。

証 人 午後十一時です。家主さんの時計の音、聞きましたから。

裁判長 ずいぶん遅い時間だな。

証 人 ハイ…。

裁判長 訪ねてきた用事はなにか。

証 人 わかりません。はっきり言わなかったので…。

裁判長 証人の体が目的だったのではないのか。

証 人 それは…、わかりません…。しかし、その部屋はカペルナウーモフさんのご好意でお借りしているのでそんな目的のためには使いません。それに、そんな遅い時間、仕事はしません。

裁判長 では、なんの用事できたのか。

証 人 いまならわかりますが、あのときは、なにがなんだかわかりませんでした。あのときのラスコーリニコフさんの様子、へんでした。

裁判長 へん、とは? どのようにへんであったのか。

証 人 はじめ無言でわたしの部屋をじろじろながめまわしていて、なんだか怖かったです。しばらくして、いきなり妙なことを言うんです。

裁判長 どんなことだ。

証 人 「ぼくがお宅へ来るのは、これが最後なんです」って。この日がはじめての訪問だというのにです。思いつめた顔で「たぶん、もう会えないでしょう…」とも言いました。

裁判長 それは懲役を覚悟しての言葉だったと思うか。

証 人 そうだったかもしれませんが、わたしには、わかりません。そのときは、旅行でどこか遠くに行くのかと思い「どちらへか、いらっしゃいますの?」と、おききしたほどです。いまになってみればすべては明白ですが、そのときは謎でした、なにもわかりませんでした。ラスコーリニコフさんも、「わからないんです。何もかも、明日の朝にならないと、わからないんです」と恐い顔で繰り返すばかりでした。ところが、急におだやかな口調になって、「でも、そんなことはどうでもいい。ぼくはひとつ言いたいことがあって来たんです」と言うのです。葬儀で会ったばかりで、たいして知りあってもいないのに、言いたいことがあるとは。ますますわかりませんでした。

裁判長 いいたいこと、とは、どんなことだったのか。

証 人 亡くなったわたしの父から、わたしのことを、すっかり聞いたというんです。酒場でたまたま知り合って意気投合して、父は我が家のことを、あることないことべらべらしゃべったそうです。はじめ、そのことだと思いました。継母のことを、かなり誤解しているようでしたから。

裁判長 被告人は、故人となったアル中の元官吏から、どんな話をきいたのか。

被告人 わたしと証人の実父マルメラードフとの会話は、こんなでした。

(マルメラードフに代わって語る)
学生さん、あなたにはできますかな…できますじゃなくて、勇気をお持ちですかな。私の顔を見ながら、おまえは豚じゃない、と断言なさる勇気を?私は生れながらの畜生なんだ。あなた、いいですか?私はあれの靴下まで飲んじまったんですよ。襟巻も、あれが人から送られたやつも、みんな飲んじまった。家内は、それこそ朝から夜更けまで働きづめですわ。胸が弱く、肺病の気があるのに。こんな家内の苦労をどうして感じないでいられます?。私は飲めば飲むほど、よけい感じるのです。だから、私が酒を飲むのは、この酒のなかに苦しみを、共感を見出そうとするためなんです。

被告人 たいした弁解でした。根っから堕落してるんです。

裁判長 どうしようもない人間だが、被告は、そんな人間と意気投合したというのか。

被告人 意気投合というよりこんな愚劣な人間がいることに、存在することに驚いたんです。それで好奇心から興味をもったんです。このアル中男が話してくれたのは、転落の人生と可愛い自分の娘が黄色い鑑札をもつことになった日のことです。実に傑作でした。酒場中の者が、客もボーイもみんながみんな聴き耳をたてて聞いていました。こんな話です。

(マルメラードフに代わって語る)
家内のカチェリーナは、手をもみしだかんばかりにしながら部屋のなかを歩きまわっていた。頬っぺたにはヒステリー症状の赤いしみが出ていました。私があれをもらったときは、後家さんで、小さいのばかり三人も抱えておりました。まえの主人は歩兵将校で、好きあって駆け落ちしたが、それでも幸福だった。ところがその主人が、カルタに手をだして裁判沙汰になって死んじまった。最後のころはずいぶん家内をぶったとのことです。ところがそれでいて、いまだにあれは前夫のことを思い出して涙ぐんで、前夫と比べて私を責めるんです。あの日もその最中でした。ワーワーギャアーギャー泣き叫びながら私をなじっておりました。そこに、お針子の仕事を探しに行ってきたソーニャが注文をとれずに手ぶらで帰ってきたんです。とたん家内は、娘に向かって怒鳴りはじめた。パンはどうした、金はどうしたと。まいどのことですが、この日は特別でした。なにしろ子どもたちは、もう三日もパンの皮さえ拝んでいなかったのです。それで攻撃は高じていって、ついに爆発しちまった。一線を越えちまったんです。家内はカリカリしてソーニャに「このごく潰し、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる!」大声で怒鳴りぶったりもしました。

裁判長 ぶったりもしたのか。まったくひどい話だ。いまなら継子イジメで訴えることもできたが…。

証 人 ぶったですって!ああ、ぶったなんて!たとえぶったとしても、それがなんですの、だからどうだというんです。あの人はふしあわせな人なんです。ええ、ほんとうにふしあわせな。おまけに病気で…。胸の病気と心の病気なんです。そのことを思えば、ぶたれたことなんて、なんとも思いません。

裁判長 証人は許可なく発言をしないように。継母の暴力の有無が証人へ与えた影響は大きいと思われるが、いまは、証人が黄色い鑑札を受けることになった直接の経緯を知りたい。本件と、関係がないともいえるが、証人が、被告に自首をすすめることになったことに関係するかもしれないからだ。被告は証言をつづけなさい。

被告人 はい、つづけます。修羅場の最中、一家の主、元官吏のマルメラードフ氏は、このアル中親父は、寝たふりをして聞いていたというんですよ。自分が誰よりも愛している実の娘が後妻に罵声をあびせられ、叩かれているというのに。こんばんの食べるものをなんとかしろと、責められているのに。体を売って金をかせいでこい、とおいつめられているのに。タヌキ眠入りをして逃げていたんです。救いのない父親です。彼は、その修羅場を、まるで芝居のせりふのようにこんなふうに話したんです。

(マルメラードフに代わって語る)
家内は怒鳴りつづけていました。ソーニャ!いますぐ金を稼いでおいで。割りのいい仕事ならいくらでもあるんだ。すすめている人もいるんだ。いますぐ行って頼んでおいで。頼んでくるんだよ!と。
私のソーニャ、あれは口答えしない子で、声も実にやさしいんです。ブロンド髪で、いつも青白い、やせこけた顔をしております。その娘に向かって、いますぐなんとかしろ、と怒鳴りつづけるんです。ソーニャは、さぞ、怖くて悲しかったろう。だまってじっとたえていました。しばらくして、罵声の嵐が、息切れで途絶えたとき、やっとおそるおそる口をひらきました。か細い声で、しぼりだすように言ったのです。
「カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことしなきゃいけないの?ほんとうに…」家内は、たちの悪い女から黄色い鑑札の話をすすめられていたんです。いつもなら、そんな話、鼻にもかけないが、この日は、限界を超えていたんです。それでより過激にヒステリックになっちまって「それがどうしたのさ!たいしたお宝でもないのに」「減るもんでもないのに!」「いますぐいってくるんだ、稼いでこい!」とやっちまったんです。娘は、ぷっつりだまりこんでしまったそうです。部屋のなかは、いきなり沼の底に沈んだように不気味に静まりかえっちまった。

被告人 酒場の連中は、皆、思わず息をとめて聞いていました。あとで元官吏のアル中親父が弁解するには腹のへった子どもたちが泣きわめくので、言葉通りの意味というより、当てつけに言ってしまったというんです…。

裁判長 当てつけにしては、度が過ぎているな。

被告人 母親とは思えません。

裁判長 それから、どうなったか。

被告人 それから娘がどうしたか。アル中親父は得意そうに話すんです。

(マルメラードフに代わって語る)
私はずっと寝たふりをして事の成り行きをみておりました。そしたらソーニャは五時をまわったころ、立ち上がって、ネッカチーフをかぶって、マントを羽織って、部屋から出ていきました。どこへ行くのかは、わかりました。が、どうすることもできませんでした。三人の幼子がピイピイ泣くのをやめて、家内の怒りが治まれば、なによりです。そっちの方が大事でした。私は、テーブルにはりついたように伏せって嵐が過ぎ去るのをじっと待ちました。ソーニャは、八時過ぎになって帰ってきたんです。帰ってくるなり、まっすぐに家内のところへ行って、その前のテーブルに三十ルーブリの銀貨を並べました。だれも一言も言葉を発しませんでした。家内は、一晩中、ソーニャの足元にひざまずきながらその足に接吻していました。

裁判長 実に気が滅入る話だが、被告は、その後、この継娘虐待家族と関係を深めていくが、なぜか。

被告人 別に理由はありません。強いて言えば、異常家族、狂人家族に興味を持ったんです。人間、これほどまでに転落できるものか、ダメになれるものかと。

裁判長 家族のために犠牲になった娘にたいしても、そう思ったのか。

被告人 思いました。なんのための自己犠牲かと。腹が立ちました。自分を殺して、家族を救う。たいしたうぬぼれです。知り合った元官吏にしても、安酒場で語る落ちぶれた人生、手放せないウオッカの小瓶。それでいて後妻と家族にたいする病的なまでの愛情。この落差に吐き気がしましたよ。この男に会わなければよかった。話にのらなければよかった。聞きながら後悔しました。

裁判長 しかし、調書によると、被告は、アル中の元官吏を送った夜も、事故にあってかつぎこんだ日も、なけなしの金をおいてきたというではないか。

被告人 興味からですよ。あくまでも好奇心からです。

裁判長 被告は殺人の動機を、将来、善いことをするためだと言った。人を救うためだと。理解はできないが、たしかそんな理由だったと記憶している。

被告人 はい、たしかに。ぼくの犯罪の動機はそれです。

裁判長 と、すると似てなくもないな。

被告人 なにがです?

裁判長 黄色い鑑札を受けた娘の動機と。

被告人 どこがです。

裁判長 家族を救うために自分を犠牲にするという行為です。人類を救うために殺人を犯すという被告の思想にどこか似ている。

被告人 まってください。ソーニャのやったことは、すこしも人類救済にも家族の救済にもなっていない。そればかりか、人間をさらに堕落させている。けなげにも彼女は、みんなを救おうとして継母に恫喝されてか、腹を空かしてピイピイ泣く幼い姉妹を不憫におもってか、処女を金に代えて娼婦に身を落とした。それで何が得られたのです?。救われた人はいるのですか。アル中の父親は、ますますアル中地獄にはまり、気ちがい継母は、ますます見栄っぱりとなり。おまけに継母は肺病やみときている。どうせ死ぬなら、人にうつす前いっそ早く亡くなったほうが、家族のためなんです。彼女が死ねば、三人の子どもたちは母なし子として孤児院にひきとられ、飢えて泣くこともないのです。姉が娼婦でかせいだ金で成長した幼女は、どうなります。結局は、妹も姉と同じ道を行くことになります。ソーニャの犠牲は、救済どころか、周囲の一切合財をみんなダメにしてしまうのです。

証 人 そうは思いません。神様は、お許しになりません。

被告人 また神様か、神様がなにをしてくれるのだ。

裁判長 証人、許可なく発言しないように。それに、ここは神の話をする場ではない。それより、被告は、証人をけなげに思わないのか。

被告人 思いません。それどころか腹が立ちました。なぜ彼女が、そうまでして家族のために犠牲になるのか。結局はなにもならないのに。

裁判長 考えてみたまえ。

被告人 想像はできます。おそらく彼女が、まだ少女になりたてのころ、まだ家庭にあって、不幸な父親と、悲しみのあまり気のふれた継母のもとで、飢えた幼い姉妹にかこまれ、聞くにたえない罵声や叱責をあびせられて暮らしてきた。そのせいですっかり怯えきって自分のなかの神様しか頼るものがなくなってしまい、犠牲的精神しか育たなかった。そのように思います。

裁判長 なかなかの心理分析だな。

被告人 アル中親父の、あの告白を聞けばだれだってそう思います。娼婦の心理分析などたやすいです。

裁判長 被告には、その心理分析を自分に向けてほしいものだが、本日は、証人との関係を、もう少し詳しく審理したい。証人にたずねる。被告との付き合いは長いのか。

証 人 付き合いはほとんどありません。あの人が自首する一週間ほど前、はじめて知り合いました。

裁判長 客としてか?

証 人 ちがいます。父が亡くなった日です。馬車に轢かれた父を家まで送ってくださったのです。

裁判長 被告は、それに相違ないか。

被告人 間違いありません。事件の三日前、酔っぱらいの元官吏と酒場で知り合い、意気投合し自宅まで送った。七日後には、その元官吏が馬車に轢かれたところに遭遇し、家まで送りました。自宅を知っていましたから。

裁判長 人助けをしたわけだが、それにしても、なぜ、そんなに肩入れをしたのか。葬儀代も置いていったというではないか。それほど深い付き合いでもないのに。

被告人 マルメラードフ家に興味ありました。亡くなったアル中親父が酒場で話してくれたものですから。肺病やみでヒスリックな後妻、いつも腹をすかせてピイピイ泣いている三人の幼い子どもたち。家賃の滞納を心配して口やかましく請求する家主。極貧の家族が、どんなか、この目で見てみたかったのです。それに、どうしても、見てみたい人物がいました。

裁判長 証人のソーニャのことか。

被告人 そうであります。

裁判長 なぜ、彼女に興味をもったのか

被告人 家族の救済のために自分を犠牲にしていると聞いたからです。証人をみてください。なんて痩せているでしょう。裁判長、その手をにぎってみてください。まるで透きとおって見え、指なんか死んだひとの手みたいでしょう。

証 人 誤解です。わたし、いつもこういうふうでしたの。継母も父もいい人です。

裁判長 証人、許可なく発言しないように。

被告人 人間、どんなことにも慣れるといいます。虐待も過ぎると感じないのです。

裁判長 被告は憶測でものを言わないように。

被告人 わかりました。継母カチェリーナは、一緒にくらしていたときは、彼女にずいぶん辛くあたったようです。ぶたれるところをみたという人もいます。

裁判長 虐待は本件に直接関係はないと判断します。話をもとにもどします。証人に聞きます。被告は、なぜ証人のところに深夜、たずねてきたのか。

証 人 はじめは継母の悪口を言いに来たのかと思いました。後で聞いたところによると肺病やみでやたらと壁に頭をぶちつけたがる女と軽蔑していたようですから。でも、話しているうちに、家族を救うために黄色い鑑札を受けたわたしを非難するためと思いました。

裁判長 証人を?どんなことでか…。

証 人 わたしが罪のある女だというんです。そのいちばんの理由は、わたしがむだに自分を殺し、自分を売ったことなんだというのです。あの人がいうには、わたしが貧困の泥沼から脱出しようとしても、だれの助けにもならない、だれも救えはしない。それがわかっているのに、その道に入り、無駄に犠牲者的生活をつづけている、というのです。そして、いまのわたしには、三つの道しかないというんです。

裁判長 三つの道とは?。

証 人 一つには、運河に身を投げて自殺するか、二つには、精神病院にはいるか、さもなければ、いっそ淫蕩に身をゆだねて、理性を麻痺させ心を石にかえてしまうことだ、というんです。

裁判長 証人は、そう思うのか。

証 人 思いません。

裁判長 他に道があるというのだな。

証 人 そうです。

裁判長 答えることができるのか。

証 人 はい、できます。

裁判長 それはなにか。

証 人 神様に祈ることです。

被告人 バカバカしい!宗教で頭が狂っている。神など、役に立つか!

裁判長 被告は、許可なく発言しないように。さきほどの質問をつづける。被告は、なにを話しに夜中、証人の部屋を訪問したのか。

証 人 わかりません。が、頼まれたことがあります。部屋にあったわたしの新約聖書をみて、いきなり読んでほしいといいました。殺されたリザヴェータがわたしにくれた聖書だと話すと、ものすごく驚きました。

裁判長 聖書か。それでどうした。

証 人 気まぐれだと思い、はじめ相手にしませんでした。

裁判長 被告は、どうした。

証 人 あきらめず、真剣な顔で読んでくれというのです。

裁判長 どこか指定したのか。

証 人 ラザロのところを読んでくれと。

裁判長 それで読んだのか。

証 人 神様を信じていない人だし、教会も行ったことがないといいました。それで、なんども断りました。そしたら彼は「読んでくれ!そうしてほしいのだ!」と、だだっこのように声をはりあげて後へ退かないのです。根負けしてわたしは本をひらき第四福音書をさがして読み始めました。でも、気が入らず二度読みかけて、二度とも最初の一句でつかえてしまいました。
「…さてラザロというひとりの病めるものがあった。べタニヤの人である」やっとのことでこれだけ読みました。が、なぜ、このところを読んでくれと強引なくらいに頼んだのかわかりませんでした。謎でした。ところが、帰りがけ突然、「リザヴェータを殺したのはだれか、明日、来れたら話す」といったのです。そのとき、瞬間、雷に打たれたようにわかったんです。聖書を読んで欲しいと頼んだことと、リザヴェータ殺しがつながったのです。でも、そのときは、それ以上考えるのが恐かったので、考えるのをやめました。翌日、ラスコーリニコフさんは、やってくるとわたしの顔をまっすぐみて、こう言ったのです。「昨夜、ぼくが帰りがけにきみに言ったね…。これっきり、きみとはもう永遠に会えないかもしれない。けれど、もしまた今日、来るようだったら、そのときはだれがリザヴェータを殺したかを言うと。…それでぼくは来たわけなんだ」

裁判長 ほんとうだったのだな。

証 人 はい。ほんとうと思いました。彼は、とまどい顔で、「つまり、ぼくはその男、犯人と親しい友だちというわけさ」といいました。そして、こうも言った。「そいつはリザヴェータを殺すつもりはなかった。彼女を殺したのは偶然だったんだ。そいつは婆さんだけを殺すつもりで婆さんが一人のとき出かけていった。ところが、そこへリザヴェータが入ってきた。それで、彼女も殺してしまった」そうして、じっとわたしを見つめました。

裁判長 そのとき被告は、なにか言ったか。

証 人 しばらくして「まだわからないのかい」と低い声でささやきました。わたしはもうびっくりして…左手を前に出して彼の胸を指さすばかりでした。彼は、子供っぽい笑みを浮かべてわたしをみていた。永遠につづきそうな恐ろしい瞬間でした。

裁判長 それからどうした。

証 人 もう疑いの余地はない。そう思いました。

裁判長 そのとき証人は、被告を抱きしめたというではないか。

証 人 ハイ、思わずだきしめました。

裁判長 なぜ、抱きしめたのか。

証 人 わかりません、被告が可哀そうに思えたのです。

裁判長 天使のようなリザヴェータを殺した男、ですよ。

証 人 それでも可哀そうに思えたのです。

裁判長 被告は、どう思った。

被告人 だきしめられてですか?

裁判長 そうだ。神を信じる娼婦に哀れまれているのだ。ナポレオンになりたかった青年が。英雄になるべく男がだ。

被告人 わかりません。いいや、ちがうんだ。ぼくはうぬぼれやで、そねみやで、意地悪で、卑劣で、執念深くて、…それに…たぶん、発狂の兆候がある男なんだ。ぼくは、母親と妹を助けたくて殺したんじゃない。英雄になって、人類の恩人となるために殺したんじゃない。ばかげている。ぼくは、ただ殺したかった。ぼくは、ほかの連中とそっくり同じしらみだった。そのことが、わかったんだ。

裁判長 単純そうに思えた事件だが、幾多の動機が絡んだ複雑な事件のようだ。ともあれ、一人の娼婦の信心が犯人を自首へと導いたものと推察する。

第三回公判を閉廷します。