下原敏彦の著作
収録:下原敏彦『ドストエフスキーを読みながら』鳥影社 2006
初出:清水正編著『ドストエフスキー&宮沢賢治』D文学研究会 2001
『仮面の告白』の謎 ドストエフスキーで読む三島
二十世紀最後の年、2000年をふりかえると、30年という歳月がやたら目についたように思う。たとえば「よど号」ハイジャック事件の歳月。日大闘争と東大安田講堂の攻防からの歳月。作家の三島由紀夫自殺からの歳月。日本で逮捕された赤軍派幹部の重信房子のテロ活動の歳月。浅間山荘事件・連合赤軍リンチ事件からの歳月などがある。他に、事件ではないが、NHKテレビで「ブラジル移民三十年」というドキュメンタリー番組もあった。なぜ30年なのか。おそらくこれら大きな事件・出来事が30年という歳月を経て終結、あるいは風化しようとしているからだろう。それだけにマスメディアは、一種ノスタリジチックな感慨でもってことさら30年という数字を大きく添えて報じていた。
だがこのなかにあって、いまだ終結も風化もされない事件・出来事がある。そればかりかますます神格化されようとしている。三島と三島が起こした事件がそれである。いまから30年前、つまり1970年11月25日、作家・三島由紀夫が楯の会会員4名を引き連れ東京・市ヶ谷にある自衛隊に日本刀を持って乱入、自衛隊員にクーデター扇動の演説をしたあと割腹自殺した、この事件である。2000年11月25日の新聞にも片隅ではあるが 「没後三十年の憂国忌」と題されてこんな記事が掲載されていた。作家の三島由紀夫をしのぶ憂国忌が25日、東京都千代田区の九段会館で開かれた。今年は没後30年にあたり、会場には例年を上回る約1200人の聴衆が集まった。独文学者の西尾幹二さんが「大学紛争から三島事件へ」と題して基調講演を行い、共産主義国の崩壊やオウム事件など三島の死後に起きた出来事について、「三島さんの考えを聞いてみたかった」と語った(読売新聞)。またこの25日に先立って「没後30年 三島由紀夫の世界」という特集が同新聞に3日連続(上・中・下)で組まれていた。記事には次のような大見出しがついていた。「浮かび上がる精神の暗部 虚と実相反する評価」「自決は自らの魂守る道戦後の偽善憎みつつも利得」「思想・感覚 今も刺激的 なお語り切れない文学空間」そして、記事の文末は、いずれもこのような文でしめくくられていた。「三島文学の評価は、今なお揺れている。」「バブルだった経済は崩壊し、政治は混迷し、魂の危機と叫ばれる宗教的事件や少年事件が相次いでいる。」「鋭敏な自意識と芸術への深い造詣で、絢爛たる文学空間をつくった三島。その文学の奥底には、なお語り切れていないものがある。三島を今後、どう乗り越えていくか。文学と思想の強度が問われている」
これらの記事からわかることは、はじめにも言ったが三島も三島事件もこの30年のあいだに風化もされずにますます肥大化し伝説化しているということである。ここで私事をいえば、この30年は、私がはじめてドストエフスキーを読んでからの歳月でもある。事件の直後だったために、ドストエフスキーを読むことは、そのままその後の三島事件の考察につながった。また、偶然にも前年発足した″ドストエーフスキイの会″もその会報(No.12)で事件についてこのように述べている。「三島ショックともいうべき混沌たる精神状況の中で1970年も過ぎていきます。ドストエフスキー文学を手がかりに問いつめようとしている私達の問題意識の中で、あのようなロマン主義的な政治行動についての評価はどのような形をとってくるのでしょうか。」その答えは、いまだ出ていないようである。だが、ドストエフスキーを読むことによって私のなかでは、はなはだ独善的ではあるが、あの謎と衝撃に満ちた出来事も30年の歳月を経てこのように想像するようになった。
三島事件が起きたとき、私はまだドストエフスキーを知らなかった。だから事件は(一人の若者の尊い命が犠牲になったことは気にかかったが)当時の大半のマスメディアが喧伝したように、何か歴史的意義のある重大な出来事のようにみえた。たとえば2・26事件のような。それだけに事件を起こした三島由紀夫については、北一輝の存在にも似た政論家・思想家。日本のために我が身を犠牲にした才能のある高名な作家、そんな印象さえもてた。だが、ドストエフスキーを体験したことによって、三島と三島事件は懐疑と謎に満ちたものになった。そして、それは30年の歳月のなかでますます深化していった。
では、三島と三島事件の懐疑と謎とは何か。いささか想像的ではあるがいくつかあげてみたい。が、その前に、三島事件のあった年、ドストエフスキーを読みはじめた年。つまり1970年前後の主な出来事や私自身のことについて、少しばかり話しておきたい。そうすることで私が、なぜ三島や三島事件に拘泥するのか、わかっていただけると思う。はじめに1970年前後の主な出来事。
1969年 アメリカではニクソン大統領が就任。アポロ11号が月面着陸した。日本人は、エコノミック・アニマルと呼ばれた。
1970年 「ハイジャク」「歩行者天国」「ウーマン・リブ」などが流行語。大阪で万国博が開かれた。
1971年 ワシントンでベトナム反戦大集会・20万人が結集。ドルショック(1ドル360円が、200円前後になる)
つづいて私自身のこと。何かの用事で高田の馬場で地下鉄に乗ることがある。その折りホームに立つたびに一つの忘れられない風景がよみがえる。それは、およそ30年余り前のこと、正確には1968年の夏のはじめだった。あの日、偶然にホームで友人のMと出会って別れた。そのときの光景である。Mとは半年ほど前バイトで一緒だった。大学は違ったが、私は柔道部で、彼は空手部にいるということから、同じ体育会系ということで、すぐに親しくなった。私の郷里も名古屋に近く、彼の郷里も名古屋に近かったので話があった。それになんとなく気もあった。それで休み時間にはよく話をしたものだ。ある新聞社の地下で数か月一緒に寝起きして働いた。その彼とホームで出会ったのだ。地下鉄を下りて、高田の馬場口に歩きだしたとき彼が前方からやってきた。彼はこの駅に近い大学だったので、それほど驚きはしなかったが、バイト以来だったのでなつかしかった。互いに「おう」と声をかけあって少しばかり立ち話をした。そのとき何を話したかはまったく覚えてはいない。が、別れぎわの会話だけが脳裏に残っている。「これから集まりがあるんだ。日大の連中も大勢きてる。どうだ、釆ないか」彼はそう言って誘った。何の集まりか。口にしたかも知れないが、そのときは聞く耳をもたなかった。私は首をふって断った。半月後、私は横浜から友人とフランスの定期客船「ラオス号」に乗船することになっていた。アジアからヨーロッパまでの無銭旅行を計画していた。電車が入ってきた。「そうか、じやあ元気で」彼は童額に笑みを浮かべて軽く手を振って電車に乗り込んでいった。私はホームに佇んで電車を見送った。当時、社会は燃え広がる学園紛争で騒然となっていた。私の学校もそうだったが、彼の大学も真っ只中のはずだった。が、物静かで人なつっこい彼と学生運動は結びつかなかった。私は出口に向かって歩きだした。そのときには彼のことはきれいさっぱり忘れていた。私の頭は、もうすぐ始まるあてのない無銭旅行のことでいっぱいだった。それから1970年11月25日まで、彼のことは微塵たりと思い出したこともなかった。
高田の馬場で別れてから二年余り過ぎていた。この間、いろんなことがあった。マルセーユまで行くはずの私は、気がつくとプノンペンで柔道に明け暮れながら、このままカンボジアに住み続けることを考えていた。当時、鎖国状態にあったカンボジアは、隣国ベトナムの激化する戦争がうそのように静かで平和な国だった。シアヌークが完全独裁者として君臨していた。が、強大国アメリカと同等に渡り合っているということで国際的にはそれなりに評価されていた。遠く離れた山岳地帯にときおり出没するクメール・ルージュ(赤色クメール後のポルポト兵)も笑い話としてあがる程度だった。当てのない旅の途中だったが、政府高官の避暑地がある高原で高原野菜を栽培しようかなどと半分夢のような半分実現しそうな農場建設計画を話し合っていた。穏やかにふけゆくプノンペンの夜は永遠につづきそうだった。朝まだ暗いうちにバスの屋根に荷物を満載して地方から集まってくる農民たち。市場は早朝から大勢の人たちでごった返していた。モニボン通りのにぎわい。そして、メコンの河岸で過ごすけだるい午睡のひととき。この国の平和の揺らぎをだれが疑っただろうか。だがしかし、悲劇へのシナリオは確実に歩を進めていたのだ。
もしかしたらああしたことも、その兆しだったのかも知れない。簡単に拾得できるはずの長期滞在ビザの更新許可が、なぜかなかなかおりなかった。新顔の役人にワイロをつかませなかった。いつもジャボン(ビーチサンダル)をはいていることで反政府ではと疑われた。真相はわからなかったが、とにかく私たちは一旦、帰国せざるを得なくなったのだ。一人帰らず高原の農場で待つことになった農大生のY君は、再び日本に帰ることはなかった。アメリカは焦っていた。激戦地の丘で多くの若い兵隊が死んだ。「ハンバガーヒル」彼らはその地をそう呼んだ。ベトコンに勝つには、カンボジア内の補給路を断つこと。アメリカは必死でシアヌーク追放計画を練っていたのだ。そして、1970年4月無血(実際にはゴム園で働く大勢のベトナム人、華僑の広東人が殺されたのだが)クーデターが成功した。ロン・ノル政権と手を結んだアメリカはさっそく「つりばり作戦」を開始した。つまりカンボジア奥深くにつづく補給路の無制限爆撃である。戦争の火の手はいっきにインドシナ全域に燃えひろがった。中東もキナ臭くなった。日本から若者たちがコマンドとして次々と旅立っていった。(このころ外国に行く若者はパレスチナ難民キャンプには絶対に行かないように。同情してゲリラになってしまうからだという。またバイト募集と称しての書類は外人部隊の勧誘だから、これも絶対にサインしないことと口うるさく注意されたものだ。)おそらく「よど号」ハイジャック犯たちも重信房子もそうした血気盛んな若者だったのだろう。そして、三島と一緒に死んだ若者にも理想があったに違いない。自分たちの行動で何かが変る。どんな理念も現実化への実感があった。1970年前後、それは若者たちが熱く燃えた時代だった。信じる理念に向かって...。
1970年、前年の東大安田講堂陥落を最後に学生運動は沈静化しっつあった。世の中は、高度成長の真っ只中だった。大阪で世界万博博が開かれ、政局も佐藤総理が4選と安定していた。だが、それとは裏腹に世界ではテロ活動が活発化しはじめていた。日本からも多くの若者が革命の名のもとにパレスチナを目指していた。その日、私は早めに役所での取材を終えて、社に戻る途中だった。ある建設関係の業界紙に臨時の職を得ていた。快晴の小春日和の空にヘリコプターの音がうるさかった。新宿駅のホームから、なんだろうとしばらく見上げていたことを覚えている。社に戻って三島由紀夫という右翼作家が市ヶ谷にある陸上自衛隊に乱入して切腹して果てたと知った。時代錯誤の死に方に驚きはしたが、ただそれだけだった。三島の作品は知らなかったし、三島本人にも興味を抱いたことがなかった。この作家のことで知っていることといえば剣道部の連中がどこで仕入れたのか「恰好ばっかりで、剣道はてんでらしい」と話しているのを聞いた程度である。もっとも、この話は、本当だったらしい。三島の友人である現都知事・石原慎太郎はその著書『三島由紀夫の日蝕』のなかで、彼の剣道の素振りについてこう証している。三島の竹刀での素振りは「ちょうど子どもが緊張したりすると歩く時の手と足が揃ってしまって、いわゆる南蛮歩きになるのによく似ていて滑稽だが当人は一生懸命だし笑う訳にはいかない。」五段だという三島の腕前についても剣道家とのこんな会話も書いている。「実のところは二級、それとも三級くらいですか」「いや三級は気の毒でしょう。一級はいっているのではないでしょうか」また、剣道が得意の橋本龍太郎元総理も立ち合った感想をこう述懐している。審判がなかなかこちらの決めをとってくれない。それで「えらい長い試合になって、その内ああこれは花試合なんだなと気づいてわざと一本とられたらそれで終わりになったな」
これだけの証言がある。三島の剣道は推して知るべしである。が、このことは別段、三島の評価を下げるものではない。武道は上手・下手の問題ではないからだ。作品については、前述したようにまったく恥ずかしい話だが、ただの一冊も読んだことがなかった。当時、雑誌でみかける裸の三島由紀夫は、たくましいというよりグロテスクで滑稽だった。が、報じられた事件からは悲劇の英雄を思わせた。いま想像するにあの麻原某がオウムの若者たちを唆し決起するのと大差ないような気がする。だが、翌日の新聞を見て驚いた。一緒に死んだ若者がM君と同姓同名で顔写真もどこか似ていたからだ。かってのバイト仲間に連絡してみると、彼に違いないということだ。どうして森田君が、あのとき「集まりがある」と言ったのは楯の会のことだったのか。太りでぽっちゃりした童顔だが、しっかりした信念をもっていそうな彼と三島はどうしても結びつかなかった。そのとき真っ先に思ったのは、三重だか和歌山だかあちらの方にいる彼の両親や兄弟のことだった (幼くして両親と死別したことは後で知った)。大学にはたしか二浪して入ったという。それだけに家族のものはなんて思うだろう。どんなに嘆くだろう、とやるせない気持ちになった。が、その思いは事件が歴史的重大な政治行動、限りない美学の追求とたたえるメディアのなかで消えていった。森田君の死は決して無駄ではない。そう信じる他なかった。三島や事件についてかなりの出版物が刊行された。だが、そのなかに森田君について書かれてあった本はどれだけあったろうか。詳細だったのは、知っている限りヘンリー・スコット=ストークスの著書『三島由紀夫 死と真実』だけだった。伝説化する三島由紀夫と三島事件。しかし、その陰にかくれて森田君のことは、しだいに忘れ去られていった。私は、残念で悔しい思いはあったが、疑問を抱くこともなかった。事件から一年ほどして私は、はじめて三島由紀夫の作品を読んだ。動機は二つあった。一つは、森田君がついて行った人間はどんな人間だったのか。そのことをぜひ知りたかった。二つ目は、最初に『仮面の告白』をひろげたからである。
余談だが、私がドストエフスキーを読むことになったきっかけは椎名麟三の本のあとがきだった。ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』の紹介があった。何気なく読んでみたら興味を引かれた。その作品をネクラーソフという詩人が10ページ読んだらやめられなくなり、とうとう一晩かけて読んでしまった。それから明け方にもかかわらずドストエフスキーのところに押し掛けたというのだ。私は、その場面を何度も読みなおし、想像した。実際、そんな物語があるだろうか...。ほとんど信じられなかった。その頃、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を面白く読み終わったばかりだった。が、この解説は気になった。さっそく買い求めて読んでみた。実をいうといわゆる翻訳ものは推理かSFしか読んだことがなかった。なんの変哲もない書簡小説だった。なんだこんな本かと落胆した。2、3ページでやめようと思った。それでも、ネクラーソフと友人が夢中で読んだという話が頑を離れず、我慢してなんとか読みついでいった。そして、気がつくと私はいつのまにか我を忘れて読みすすめていた。頁を繰るのがもったいなかった。これまで読んだいかなる本より面白かった。どんな血わき肉踊冒険小説も、この物語に敵わないように思えた。読み終えたとき私は、街にでて誰かれにこの本のすばらしさを教えたい気持ちだった。その瞬間から、私はドストエフスキーを読みつづけることになった。
さて、このようにドスト子フスキイに夢中になりはじめた私が、三島をよく知ろうと『仮面の告白』をひろげてみた。そして、目を見張った。なんと、作品の冒頭に、これから読もうとしていた『カラマーゾフの兄弟』からの引用文があったからである。
「美−美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ! つまり杓定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしやるもんなあ。美の中では両方の岸が出会って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。俺は無教育だけれど、このことはずいぶん考えぬいたものだ。実に神秘は無限だなあ!この地球の上では、ずいぶんたくさんの謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ美か!その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母の理想を懐いて踏み出しながら結局悪行の理想をもって終わるという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。つまり悪行の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、しんそこから美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い。あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来ることなら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分りゃあしない。本当に!理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行の中に美があるのかしらん?...しかし、人間て奴は自分の悪いことばかり話したがるものだよ。」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」第三編の第三、熱烈なる心の儀悔−詩)
冒頭の飾りにしては、ずいぶんと長い引用文である。が、これを見た瞬間、三島もドストエフスキー読者だったのか、という思いがして、一種シンパシイを抱いた。そして次の瞬間、三島文学は事件同様に私にとって大きなものになった。しかし...ジイドは、『ドストエフスキー』その著書の冒頭にドストエフスキーは離れれば離れるほどにその偉大さがわかると書いている。「トルストイの巨大な山脈がいまなお地平を塞いでいる。けれども山奥に行くと、遠ざかるにつれて、一番手前の山の頂のうえに近くの峰にかくされていたもっと高い峰の姿が再三再四に現われるのを思いがけず見ることがあるものだが」このことと同じかどうかはわからないが、当初、大きな山に思えた三島だったが、ドストエフスキーを読むにつれ、しだいしだいに小さな山となっていくのがわかった。それと同時に、ある謎が拡大していった。それは、三島は、なぜここにこんなにも長い引用文を掲載したのか、という単純な疑問だった。
30年の歳月。この間、三島と事件の評価は、二つに別れた。文学作品について言えば(劇作だが)「二十世紀の世界劇文学を代表する」と非常に高くみる人もいれば、三島の作品は「本当の意味での芸術じゃないんだ。上手に書かれた書きものなんだよ」との辛辣なものまである。ドストエフスキーを読んで30年。わかったことは、私の中で三島は落ちた偶像だった。仮面の下はからっぽだった。もしドストエフスキーを読まなかったら三島の伝説化は、右肩あがりしていったかも知れないが。しかし昨今、三島の株は着実にあがっているようだ。没後30周年が盛大に行なわれていることをみれば領ける。これは三島事件の動機 @狂気説、A美学説、B作家としての絶望説、C同性愛心中説、D憂国説 のうち憂国説がひとり歩きしている結果だろう。おそらく、これは現在の日本の現状を三島が予見し警鐘したと錯覚したからに違いない。若い作家や文芸評論家はこんな見方をしている。「語るべき同時代の人が口をつぐんでしまったため、三島文学はきちんと読まれてこなかった」あるいは「三島は、日本の二十世紀の思想や文学の限界まで書いた作家」三島の考えは「昭和日本の矛盾を明確に象徴している」。自決したのは今日の日本の体たらくを嘆いてのこと。いずれも三島を伝説化する評価である。だが、ドストエフスキーの読者なら、このような予見と警鐘は常にドストエフスキーが繰り返し言っていたことだとわかる。1862年、ドストエフスキーは、はじめての西欧旅行先のロンドンで万国博覧会を見て未来への不安を大にした。出発前、革命分子による放火で燃え盛るペテルブルグの街をみてきた。こうした光景は、百年後の日本の姿でもあったのだ。大阪万博に、飛びかう火炎ビン。三島の懸念はそっくりドストエフスキーのものである。天皇主義についても三島はドストエフスキーの皇帝主義をマネたのかも知れないが、両者は似て非なるものである。なぜなら三島の天皇制はあくまでもブランド主義が下地になっているのだ。反対にドストエフスキーの皇帝制はあくまでも調和が基礎になっているからである。
とにかくドストエフスキーを30年読んできて、わかったことは三島はドストエフスキー的作家では少しもないということだ。時代を憂いた悲劇の英雄でもない。なぜと問われても答えることは難しい。が、想像でならいくつかあげることができる。その一番の理由は、ドストエフスキーは「楯の会」という集まりなど作ったりしないということだ。ドストエフスキーの思想は組織の破壊者としてのみ力を発揮する。それ故、権力の座にあるもの、一つの思想、一つの宗教、一つの観念に取りつかれた者は忌み嫌い恐れる。実際、共産主義者や独裁者、宗教団体や思想集団がドストエフスキーを敬遠し排除してきた。これに加え、たとえいかなる動機や理由があろうとも、他者を死に至らしめるような行為など、ドストエフスキーは断じてするようなことがない。非難こそすれ許すはずがないのである。ドストエフスキーの目指すもの、それはあくまでも強制や弾圧や弱者への軽蔑を許さない調和である。百歩ゆずって三島がドストエフスキー的作家だとしたら、三島という人間の人生そのものが成立しない。これは一見ドストエフスキー作家のようにも思われる太宰にも言えることだが。
それでは三島はなぜ『仮面の告白』の冒頭を長々とドミトリーの言葉で飾ったのか。大いなる謎である。まったく見当もつかない。が、ヒントは三島の剣道にあるような気がする。石原慎太郎は著書『三島由紀夫の日蝕』のなかで、三島の剣道は、とにかく並大抵の下手さ加減ではないと評している。しかし、実際には三島は剣道五段なのである。これについて石原はこう書いている。三島は「実力にそぐわない段位を持ち、それを強く意識するようになることで氏の行動も居住まいもいっそう奇矯なものになっていった。」段位を子供のように欲しがる。段位もまた強いブランド志向の三島にはぜひ必要な一つだったのである。このブランド志向は文学においてもそうだったのではないだろうか、と推理する。不思議な因縁だが、さきごろ偶然に神田の古本屋でみつけて買った『北條民雄全集上・下巻』を読んでいたら、そんな考えが頑にひらめいた。1937年24歳の若さで他界した北條民雄は川端康成にずいぶんと目をかけてもらった薄幸の作家である。名作となった『いのちの初夜』の題名は川端が改題したものだ。不治の病に犯された北條に川端は、その才能を惜しんで何度も手紙を書いて励ました。そのなかにひそかに文学への指導もしたこんな手紙もある。「先づドストエフスキイ、トルストイ、ゲェテなど読み、文壇小説は読まぬこと」返事として北條は、こう書いている。「ドストエフスキーは、もう以前から好きで、今『罪と罰』『悪霊』『書簡集』『未成年』などを持っております。十九の頃から、ドストエフスキーを読みつづけて居ます。」
北條は、川端康成の励ましによく応え、前から好きだったドストエフスキーをいっそう丁寧に読んだ。日記には、作品の書き込みをした。そのなかで、ひときわ長い書き込みがある。1936年6月29日の日記である。
この日はドストエフスキーのことばかりである。昼食後、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』を読み、夕食後『罪と罰』を引き出して、バラッと広げて開いたところから読みはじめる。そして「どうしてそんな汚らわしい賎しい事と、それと正反対な神聖な、感情が、ちゃんと両立していられるんだろう。」というラスコリニコフの疑問にぶつかつた時、ふと、ドミイトリイの言葉を思い出した。「美こいつは恐ろしい、おっかないものだぞ! はっきりときまっていないから怖いんだ。しかもはっきり定めることができないのだ。だって、神様は、謎より他に見せてくれないんだからなあ。美のなかでは南方の岸が一つに出会って、すべての矛盾がいっしょに住んでいるのだ。おれはね、ひどい無教育者だけれど、このことは随分と考えたものだよ。なんて神秘なことだらけだろう!この地上では人間を苦しめる謎が多すぎるよ。この謎が解けたら、それこそ、濡れずに水の中から出て来るやうなものだ。ああ美か!それにおれの我慢できないことは、心の気高い、しかも勝れた智能を持った人間が、ともすればマドンナの理想を抱いていて踏み出しながら、結局ソドムの理想に終わることなんだ。もっと恐ろしいのは、すでに姦淫者ソドムの理想を心に懐ける者が、しかも聖母の理想をも否定し得ないで、さながら純粋無垢な青春時代のように、ほんとうに、心から、その理想に胸を燃え立たせることだ。いや、人間の心は広大だ。あまりに広大すぎる。おれはそいつを縮めてみたいくらいだ。ええ畜生、何が何だかさっぱり判りゃあしない。ほんとうに!理性では汚辱としか見えないものが、感情ではしばしば美に見えるんだ。ソドムの中に美があるのかしら? ところが、お前、ほんとうのところ大多数の人間にとっては、このソドムの中に美があるんだよ − 略 −(昭和11年6月26日)
翌年十二月はじめのある早朝、北條は逝った。「川端さんにはお世話になりっぱなしで...」一瞬の後に死ぬとは思へないほどしっかりしていたという。享年二十四歳。このとき三島由紀夫十二歳。それから十一年の後、創作に専念するため大蔵省を辞職した三島は、文壇への道をひらこうと川端康成のもとに日参していた。どのようにしたら川端の心を動かせるのか。かって太宰が佐藤春夫にあの手この手と頼みこんだように、三島もまたあれこれと考え抜いたに違いない。そして、行き着いた秘策の答えはドストエフスキーだった。というのは、あまりにも荒唐無稽だろうか。川端は、作家志望の若者が訪ねてくると誰かれなしに「ドストエフスキーを読みなさい」とすすめていたという。だからドストエフスキーが落としどころと踏んだのだろう。
ちょっと横道にそれるが、黒沢明監督のもとにもよくドストエフスキーの作品人物を名乗る若者が押しかけたそうだ。彼らはラスコーリニコフだのムイシキンだのと書かれた名刺をちらつかせ強引に使ってくれと居座ったという。川端に取り入る手段として、どこかでドストエフスキーを使う。そんな考えが三島になかったろうか。三島が北條をどこまで知っていたかは知らないが、かって、川端が、励まし、その死を悼んだことは知っていたに違いない。とすれば日記もひそかに手に入れ読んでいたかも知れない。そして、思いついたのは、自分の作品の冒頭に、北條が病床で読み書き抜いていたドミトリーの言葉をそっくり掲載する。ずいぶんと見当はずれかも知れないが、三島が、『仮面の告白』の前に長々とドストエフスキー作品の一節を引用した謎をそう解くのは、あまりにもあまりにも空想的、想像的過ぎるだろうか。