ドストエーフスキイ全作品を読む会
ぱんどら 2号 1973
星は流れなかつた − 私の「地下室の手記」−
下原 康子
不要なまえおき
読者諸君は、たぶんこのように考えておられることと思う。「小説というものは経験がなくては書けるものではない」と。ぼくも長年そう思い続けてきた。だから書きたいことが胸にいっぱいたまっているような気がする時でも、なんとなく後めたい気がして書かずにいたのだ。
だがいつも思っていた。いつかは書ける時がくる。ぼくだって相応の年令に達すれば相応の経験を積んで小説の材料の一つや二つ困らないようになるに違いない。そして後めたさなしにまじめな小説が書けるようになるだろう。ところがこのぼくの希望はなかなか実現しそうにない。以然として経験が未熟なためもあるが、それよりもぼくにはまじめな小説なるものが書けないのである。つまりまじめな小説というのははったりをきかせなければ書けないということがわかったのだ。ぼくはそもそも小説なんか書くのは恥ずかしいことだと思っている。どうして世間の作家たちがあのように堂々としていられるのか不思議である。
よほど自分のはったりに自信があるのだろう。ぼくは気が小さいくせに小説を書きたいなどと思っている自分がわれながら恥ずかしくてたまらない。
ぼくにはおもしろい筋書きはつくれない。一人の女を争う二人の男、このざらにある話でさえぼくの手には余る。そのくらいの経験ならぼくにもあるが、それを書いてみたところで、おもしろくもなんともないだろう。ぼくの経験はみすぼらしくて小説向きではないのである。しかしぼくの経験は貧弱でお粗末でスリルやバラエティに乏しいとはいえ、
深刻さにかけては立派なものだと思う。その点についてはぼくにも自信がある。 しかしこの実世界での深刻さは小説の世界のものではない。それは小説にするとふざけた調子にならざるを得ない性質のもので、これを書くのはぼくには無理だ。
そういったわけで、早く言えばぼくには書くことが何もないのである。しかしそれにもかかわらず書きたい気持はどうしようもない。このような不要なまえおきをしゃべっているのもこうしていれば何かのついでに小説らしいものが書き始められるのではないかとそんな期待をいだいているからである。
ぼくは調子にのりやすい人間だから、ひょんなときに思いきりのいい気の利いた作品ができ上るかもしれないではないか。うまく調子にのるためには自分自身の話をするのがいちばんいい。
ぼくは二十五才。大学図書館に勤めている。僕の一日は本とのつきあいが七割、 あとの三割が人間とのつきあいだ。もっともこのほかに自分自身とのつきあいというのがあり、
これが本当はぼくの生活の主流なのだが、これは例の深刻なる部分で書くとなるといささか手こずるのだ。 もっともいちいちこんな言いわけの必要もないのだが...。
何を書いても、あるいは書かなくてもぼくの勝手なのだから。ぼくは読者なんか気にしない。理解されようと誤解されようといっこうにかまわない。それなのに言いわけがやめられないところをみるとこうすることがよほど気が利いたことだと思っているのだろう。ぼくは本当は「彼女は美しい。ぼくは彼女を愛する」
と断言したい。たとえでっちあげにしろ、ぼくはそうしたことばに弱くてわけもなく感動してしまう。小説という ものはでっちあげには違いないが、それが呼び起す感動の中には真に美しいなにかがある。とするとこのでっちあげの効果は大いにあるわけで、少々のはったりなど気にすることはないのかもしれない。どっちに転んだところで真実はある。まったくこの世には真実しか存在しないのではないかという気さえする。だからぼくはこの小説をどのように書いてもいいわけである。
ぼくについての解説はもう必要ないだろう。あなた方はぼくという人間がだいたいおわかりになったと思う。ぼくより数倍もものわかりのいいあなた方のことであるから(ぼくは本当にそう思っている)きっとぼくについて上出来の理解をしていただけるに違いない。ぼくのことばの中にぼく自身うまく言い表せなかったより深い意味とより深い深刻さを汲み取っていただけるに違いない。そう確信している。本当のところ、ぼくはあなた方の理解と思いやりなしには何も書けやしないのだ。あなた方がぼくに期待している以上にぼくははあなた方を頼りに
している。
さてぼくはいよいよ書きはじめることにした。
今夜半、流星雨が日本で見られると新聞は書きたてていた。ぼくも人並の興味は感じてはいたが、彼女からわざわざ千葉の海まで見に行こうとさそわれた時はいささかおどろいた。彼女は言った。
「雨みたいに空いっぱいに星が降るんですって。夜中すぎから見えるんだけど東京の空は汚れてるし、ネオンで明るいでしょ。海がいちばんいいの。わたしだけじゃないのよ。もう一人友だちが行くし、あなたもだれかさそってかまわないわ。一人くらいならね」
彼女はぼくの勤めている大学の学生で、時々図書館で話したりするくらいで、一度雨の降っている日ぼくの車で送ったことがあるが、それ以上に親しいわけではない。しかし、ぼくには彼女の腹が読めた。中古にしろぼくは車を持っている。なるほど。
「車で行くんだろ?ぼくのはオンボロだよ」
「いいのよ。走りさえすれば。五人は乗れるでしょ」
「四人以上は無理」
「四人?いいわよ。あなたとわたしとノナちやん。あなた誰かさそう?」
「友部ノナ?」
「そう」 ぼくは友部ノナという学生を知らなかったが、おかしな名前なので学生名簿を見たとき記憶に残っていたのである。
「だれか一人さそっててね。男の子がいいわ」 ぼくは思案した。
「あいつ、行くかな?」
「だれ?」
「光田トオル」
「あの、図書館の人? おとなしい人ね?」
「うん」
「行くかどうか知らないけど、あの人ならわたしかまわないわよ」
ぼくは光田に話してみた。彼は黙ったままちょっと微笑んでうなづいた。 ぼくは大学の山岳クラブから、寝袋と懐中電灯を借り出し、車にガソリンを入れ、ひととおりの点検もすませた。彼女たちは食料の用意をした。ぼくたちは、夜九時に大学の正門に集合することになった。彼女がぼくの運転の腕を信じてくれたことは、ぼくの人間性を信頼してくれたからだと思ってちょっといい気持だった。もっともちゃっかりた彼女のことだから、たまたまぼくを利用しただけなのかもしれないが。
九時少し前には全員そろった。彼女は青いジーンズに赤いセーター姿で、まっすぐの髪の毛を肩までたらしていた。ぼくは彼女のそんなスタイルが好きだ。服装が無造作であればあるほど、いっそう少女っぽく見えるのである。彼女は隣に座った友部ノナに言った。「ノナちやん、あなた寒くないの」
友部ノナという女学生は一見したところ美人ではない。しかしそう言って片づられないようなところがある。なるほど夜の海へでかけるにはスラックスの方が適当かもしれないが、彼女の着ているワインレッドのワンピースはとても似合っていて個性的だし利巧そうに見える。それに気持のいい女の子だということも彼女のひかえ目な態度でわかった。ぼくは友部ノナもなかなか気に入ったのだが軍配は赤いセーターの彼女に上げた。なんといっても彼女の方がずっと美人だからである。彼女をそばに座らせたいものだとぼくは思った。
光田はあいかわらずダンマリである。しかしいつも着ている地味なスーツのかわりに気の利いたチェックの上着を着ていた。そのせいか、のびのびとして楽し気で自信のようなものさえちらつかせているように見えた。その時、ぼくの脳裏に一瞬奇妙な感覚がよぎった。この四人の中で、ぼく一人だけが仲間はずれにされている、という気がしたのだ。もしかしたらこの三人は以前からの知り合いで、今夜のこともあらかじめ三人で計画していたのではないだろうか。そしてこの計画の中には、ぼくだけには知らされていない特別の目的があるのではないだろうか。ぼくは車の運転のためにただ利用されただけなのではないだろうか。
だが落ちついて考えれば、これにはまったく根拠がないということはすぐわかるはずだった。彼女と友部ノナは友だちだが、光田が二人と親しいなどということはあるはずがなかった。これは単なる印象にすぎないのだ。彼女の少女っぽい新鮮さ、友部ノナのやや意識的なまなざし、光田のきざな上着、そういったものがぼくをちょっと
あわてさせた、それだけのことだ。しかし、ぼくは印象に弱い人間だったから、我ながらまずいことになったと思った。ぼくは三人に対して、特に彼女に対しては常に主導権を握っていたかったし、そのためには気ままで男らしく見えることが必要だったのだ。ところがこのふいに浮かんだ印象のおかげでそうすることが難しくなってしまった。だが運転をしているうちにこの印象は次第に薄れてきた。三人の安全がぼくの手に握られているという意識がぼくに自信を取りもどさせてくれたのである。残念ながらぼくのそばには座らなかったので、後のシートからではあったが、彼女の気持のいい視線を感じることができた。彼女がぼくを利用したという考えはもはや浮ばなかった。ぼくは自分がたのもしい魅力的な男に思えてきて、利用されたどころかむしろ彼女はこのチャンスをぼくをつれだす口実に使ったのではないかなどと本気で考えはじめた。仲間はずれの印象はあとかたもなく消えた。
「おまえ、後とかわれよ」ぼくはとなりに座っている光田に言った。
「うん」と光田はおとなしく言って後の座席をふりむいた。
「いいのよ。このままで」と彼女が言った。
「いいからさ、光田、後へ行けよ」そう言ってぼくは車を道のはしに止めた。
「しっこいわねえ」と彼女は言った。「仕方ない、ノナちやん 前に移ってね」
ぼくの目当ては彼女だったので一瞬とまどったが、
友部ノナがやけにすなおに立ち上ったのでいさぎよくあきらめることにした。それに友部ノナと親
しくなるのも悪くない。彼女を嫉妬させる効果があるかもしれないから。
ノナはぼくから離れてシートのすみにちょこんと座った。ぼくは無言でハンドルをにぎりながら彼女に気をつけていた。
彼女の視線は時々ぼくの肩のあたりに注がれたが、ぼくの目まではやってこない。
「ノナちやん、もっとそばによらない?」
ぼくは微笑して言った。
彼女ははじめてぼくの目をみた。ぼくは彼女の一瞬のまなざしの中にぼくにとって親しく心よく思われるものだけを感じとった。ぼくは彼女を征服したと感じた。
「なにか食べたくなった」とぼくは言った。
「皮をむく?」ノナは、後の席からりんごを受け取るとぼくを見て言った。
「いや、いいよ。食べやすいように切るだけで」
ノナはりんごを四つに切るとその一つをぼくのハンドルをつかんでいる左手の方へさしだした。ぼくはりんごにチラッと目を走らせ微笑しながら言った。
「とどかないなあ。もっと近づかなきゃ」
彼女は言われるままに近づいた。ぼくは彼女にほほえみかけた。とてもいい気分だつた。ノナは熱心に外の景色に見入っていたが、外はまっくらでライト前方の白い道のほかは何も見えはしないのである。
「星は出てるの?」とぼくは聞いた。
「いったいどのへんに星が流れるの?」
「北の空よ」と後の座席の彼女が答えた。
「十時ごろから一時ごろにかけて、北の空に見えるの。うまくいけば空いっぱいに見えるかもしれないんだって。
十二時ごろが最高頂らしいわ」そう言って窓から外をのぞきこんだ。
「だけど、星みえないわ。くもってるのかしら」
「雲があるからよ」とノナが言った。
「もうすぐ十時だよ。ほんとに見えるのかなあ。なんだか心配になってきた」
「雲が切れればいいのよ。大丈夫。絶対見えるわ。だって日本中の人が見てるんだもの」
「へんな保証の仕方だね。まあいいさ」
やがて波の音が聞こえてきた。星も月もない空の下では海のみわけがつかなかった。
「さて、海だよ。どうする?」
「適当な海岸をみつけてとめてちょうだい」
「暗くて見えやしないよ」
「大丈夫よ。どこでも。下は砂ですもの」
「よさそうなところがあったら言ってくれ」とぼくは光田に言った。 彼は懐中電灯で走る車の外をてらした。
「ノナちやん、今夜はだめかもしれないね」とぼくは言った。
「まだ時間がはやいのよ」と後の座席の彼女が熱心に言った。
「最高は十二時だもの。それまでには空も晴 れるわ」それから光田の肩ごしに外を見て言った。
「もうこのへんでいいわ。どこまで行ったって同じこ
とよ。海岸はまっすぐなんだもの」
ぼくは車を道路のはしにとめた。
「だけど、星も見えないのに海辺でいったいどうするの。ただ待つのかい、寒くない?」
「車の中からじゃ空が見えないでしょ。それに寒くなんかないわよ。それにしてもノナちやん、スカートで来るなんてバカね」
「毛布を持ってきましたよ」と光田が言った。
「まあいいや。ともかく出てみよう」とぼくは言ってノナのためにドアを開けた。
ぼくたちはそれぞれ、毛布やらライトやらをかかえこんで外へでた。寒くはなかった。風もない。だが空には以然として雲がひろがり、星を閉じ込めていた。ライトに照らされる足元の砂は細かく軟らかだった。波が返すときぬれた砂がかすかに光った。ぼくらは水べりまでくるとそこでしばらく立ち止まって波の音に耳をかたむけた。
「なかなかいいわ」と彼女が言った。
「ロマンチックな気分になるだろう?」とぼくは彼女のそばへ寄って言った。
「そうね」と彼女は言って砂の上に座った。ぼくも彼女とならんで座って懐中電灯を消した。彼女は空を見上げた。
「今、何時?」 ぼくは、懐中電灯をもう一度つけて時計をみた。
「十一時五分」
「北の空くらい晴れてくれないものかしら」
「どっちだい、北って」
「わからないわ、光田さん、わかる?」
「こっちでしょう」と光田さんは前方の海を指差して答えた。
「へえ、すてきだね。星が空から海に降り注ぐわけだね」
彼女がぼくの方を振り向いたのを機に、ぼくは彼女の方にいっそう近寄った。ぼくの肩が彼女の肩にふれた。ぼくは彼女の手をさがした。突然彼女が言った。
「ほらみて、星が見えるわ。雲が切れてきたのよ」 なるほど、海の上空に星が三つ四つ見えた。頭上にも雲の切れ間が広がってきている。
「十二時までに晴れてくれますように」
ぼくはちょっと離れて座っている光田と友部ノナの方を振り返った。暗がりの中で二人の影は寄り添っているように見えた。するとまたしてもあの仲間はずれの印象がよみがえってきた。ぼくはわざわざ懐中電灯をつけて二人を照らした。ノナはひとみをキラッと光らせてぼくを見た。一方、光田は両ひざをくんで座り、片手で砂をいじっていた。ぼくにはそれがひどくわざとらしく思えた。二人が一緒にいるのがどうにも気に入らない。わけもなく腹が立った。特にノナに対しては恩しらずな女だと思った。ぼくは気をとりなおしてふたたぴ、ほっそりした影のような彼女の方に寄り添ってその耳元にささやいた。
「ね、きみ、どうしてぼくをさそったの?車があるから?」
「そうよ」
「そうか」ぼくは砂の上にあおむけに寝ころんだ。
「アッ、星が流れたよ。ほらあそこ」
「流れ星の一つや二つはいつでもあるわよ」
あてがはずれてぼくは黙り込んだ。そのうち光田とノナが一言も言わずに座っているのがますます気がかりになってきた。寄り添ってこそいないが、お互に見えない糸で結ばれているように見える二人である。同じ星の下に生まれ、今またこうして同じ星の下にめぐりあったような二人である。ぼくが目を離せばこのまま二人ともやみの中に消えてしまうかもしれない。ぼくはしきりとそんな気がした。
「光田」とぼくは呼びかけた。「君、めがねがなかったら星もなにもかも見えないのか?」 光田はめがねをかけていたからである。
「小さい星は見えない」と彼は言った。
「めがねを落とさないようにしろよ」とぼくは言った。
「コンタクトレンズをなくしてあわてたヤツがいたものね。こんなに暗くちゃさがせないぜ。まあ、めがねなら大丈夫だが」 ぼくは自分がばかなことを言っているのはわかっていたが、友部ノナと光田を黙って座らせておくにしのびなかったのだ。
「みんな腹がへらないか。光田、車からなにか持ってこいよ。 なにかあるんだろ」そう言ってぼくは光田に車のキイをわたした。
「どこにあるんですか」と光田は彼女にたずねた。
「いいわ。私も行くから」
二人が一緒に立ち上がり歩き出すと同時にぼくはノナのそばに寄っていきなり彼女の手を握った。 彼女はわかるかわからないほどに身体を動かしただけで、そのままぼくの指に自分の指をからませた。彼女の手はぼくより冷たく、しめった砂がついていた。ぼくらは二人が帰ってくるまでじっと海をながめて黙りこくっていた。 ぼくはなんともいえずいい気持になった。暗い海と波の音、雲の切れ間から光る星、やわらかな砂、潮の匂い、そのどれもが故郷のように親しく優しくぼくを包みこんだ。ぼくはなぜか涙がでるほどうれしく感謝の思いでいっぱいになり握った手にいっそう力を込めた。 二人がなにやら大きな袋と魔法瓶をかかえて帰ってきた。ノナは立ち上がって袋を受け取った。
「夜ふけのコーヒーいかが?」と彼女が言った。
「そりゃあいい」
「おにぎりもあるの。お菓子も。パーティーができるわ」
「さすが気がきくよ。君たち」
彼女とノナが手ばやく準備する間に、ぼくと光田はライトをうまく固定して食卓用の照明を作った。四人ともそんなことに夢中で空の星をながめることも忘れている。
ノナがコーヒーの入った紙コップをぼくにさし出した。ぼくはそれを受けとるとそのままノナをひきよせてそばに座らせた。全員しばし食べるのに熱中した。
「うん、おにぎりうまいよ。君が作ったの?」とぼくはノナにたづねた。
「ノナちゃんじゃなくてあたし」と彼女が言った。
「ノナちやんは買物係だったの」
「それはごくろうさま」とぼくが言うと友部ノナはおかしそうに声をたてて笑った。ぼくも笑いながら彼女の肩をだいてぴったり寄り添った。
「あなたたち、なにそんなにくっついているのよ?」と 彼女が言った。
「いいだろ、ペアで来たんだもの。君たちもそうすりゃいいじゃないか」
「あたしたち、星を見に来たのよ。光田さん、今何時?」
「もうすぐ十二時になります」
「星、降りそうなけはいもないな」とぼくは彼女をからかい気味に言った。
「ほんとに北なのかい?北の空は晴れてきたけど、星は流れないよ」
「新聞で何度も見たわ。うそじゃない。もしかしたら空いっぱいには見えないかもしれないけど見えるはづなのよ」
「今ごろ、日本中の人が馬鹿づらして空をみあげ不信がっていると思うとおかしくなっちゃうな。ぼくはもうあきらめた。観測は君たちにまかせるよ。ノナちやん、ちょっとそのへんまで歩いてみないか?」
「どこへ行くの、まっくらで何も見えやしないのに」
「いいんだよ。ぼくたち、ちょっと歩いてみたいんだ。 大丈夫、君たちの目がとどかないところへは行きはしないから」 ぼくはノナの手をひっぱって立ち上った。
「時々合図してね」そう言つて彼女はぼくに懐中電灯を手わたした。
ぼくとノナは波うちぎわを歩いた。海岸線はまっすぐにどこまでも続いている。空も海も水平線も同じ平面に広がっているようだ。五十メートルくらい行ってぼくらは腰をおろした。
「流星雨はだめらしいね」とぼくは言った。「残念だったね」
ノナは軽くうなづいた。ぼくは懐中電灯をぼくらの後につけたままでおいた。ノナが自をあげて海を見たとき瞳がキラッと光った。
「さっき君と話したいと言ったね。あれは本当にそう思ったんだよ」とぼくは海をみつめたままで言った。
「ぼくはいつもこう いうふうに話すのにあこがれていたような気がするよ。 君は黙ってはいるけど、ぼくの言うことをわかってくれる人なんだ。ぼくにはすぐピンときた。君はぼくと似たところがある。性格のことじゃない。なんと言ったらいいのかなあ、同じ世界に生きている
、という感じなんだ」 彼女は何も答えなかった。ぼくは続けた。
「ぼくは君を好きになってしまった。だって君はこうしてぼくのそばにいるだろ?そしてぼくと君の世界は同じだものね。君を好きになるってことは、 ぼく自身を好きになるということなんだ。そしてぼくらを包む世界、この空や海や砂を好きになるということと同じなんだ。ぼくはね、今とても幸せだ。だってこうやって生きていけるという実感があるから。これさえあればなにもかもオーケーなんだ。ぼくにとって、いや、だれにとっても悪いことなんか一つもないという気がするんだよ。ぼくはね、君があの空の星のように思えるよ。優しい君のような女の子はみんな空の星なんだ。ぼくは君たち一人一人に感謝の気持を伝えたいと思う。だって君たちはぼくを幸せにしてくれるんだもの。今こうして君と一緒にいて手を握ったりしているけど下心があるなんて思わないね?ぼくはむしろ君を妹のように思う。そして君にもぼくを兄のように思って欲しい。ぼくは君のことな
らなんでも理解できる。だって、ぼくらは同じふうに考えるに違いないもの。こうしているととてもいい気持だ。ずっとこのままでいられたらなあ。人生がいつもこういうふうならどんなにいいかしら。人がみんな君のようならぼくはどんなにかいい人間になれることだろう。ぼくは生活を愛する。そして自然も。ぼくにいい思い出を残してくれたこの空と海と砂を愛する。人にとっていい思い出ほど貴重なものはないんだよ。だっていい思い出が人生の栄養になるんだもの。夢だっていい思い出でふくらむもんだ。いい思い出に包まれていれば耐えられないことなんて何もない。思い出が世界を親しいものにするし、親しい世界に住んでいればいつも自由でいられるからね...
ぼくは今君のためならなんでもしてあげたい気持だよ。このまま海に飛び込めというのならそうしてもいい。ぼくはちっとも恐くない。この暗やみも真っ黒な海も。それはぼくがこの世界を愛しているからなんだ。この世のものはすべてぼくと親しい。ほら、この砂をごらん、いかにもサラサラとかわいらしくぼくの手からこぼれ落ちる。波のしずくも冷たくない。ぼくは何もかも受け入れる。何もしめ出しはしない。悲しみも喜びも。それがぼくに与えられたものなら喜んでそれを受けとる。ぼくは悪いようにはしない。ぼくにはやり方がわかっているんだよ...」
ぼくはちょっと黙った。それから大急ぎでつけくわえた。 「だけどぼくは何か知らないことがあるような気がする。それを知らなきゃ完全じゃない。だれかそれを教えてくれないかしら。いったい何だろう。これを知らなきゃぼくは本当に心安らかになれない。気持がよくない」
ぼくはノナの横顔をチラッと見てから再び続けた。
「君はぼくを風変わりな人間だと思う?ぼくは以前はそう思われるのを喜んでいた。なぜなら個性的でありたいと思ったからね。個性的でなきゃ生きる価値はないと思った。個性的っていうことをとても上等なことだと思ったんだよ。世界中の人から個性的だと思われたかった。人からの評価をみのむしみたいに身体にくっつけていなければ落ち着けなかったんだ。でも今はそんな気持はさっぱりと捨てることができる。ぼくは第六感を得た。取りもどしたと言った方がいいかもしれない。だってこの六感は人間の祖先が持っていたものに違いないから。なにかのひょうしに取りあげられてしまったけど、その記憶のようなものがまだ人間の心のどこかに残っている。この第六感っていうのは本当の幸福を感じとることのできる力なんだ。力そのものが幸福ともいえるものなんだ...。
君はいい人間になりたいと思わない?ぼくはいつもそう熱望している。僕は特に何かになりたいという野望はないけど、とにかくいい人間にはなりたい。というのはそれがぼくにとってすべての問題を解くかぎになるからさ。ぼくはそう確信している。ぼくの幸福もそれにかかつている。いい人間になるために払うぼくの努力がぼくを幸福にしてくれることは確かだからね。なにも幸福になるのが目的というわけでもないけど、それ以外にも様々な言葉で言えないような微妙な効果があるんだよ。ぼくはさっき君を愛してると言ったね。ぼくは何度もくりかえしそう言いたくなる。だって君を愛すれば愛するほどぼく自身を愛することになるから。君とぼくとそしてこの海や空や星を愛することになるから。ぼくが人を愛するのは自分のためだと思ってはいけないよ。それはまったく逆なんだ。ぼくは人を愛したい。この世界を愛したい。そうできないのが苦しくてたまらないんだ。ぼくは実際恥ずかしいよ。だって人類を愛せないのに自分自身を愛したいというのは虫がよすぎるだろう?ぼくは冷静によく考えてみたけれど、やっぱりぼくだけを例外的な人間だと考えるわけにはいかなかった。ぼくもやっぱり砂粒のような人間の一人だし、それならぼく自身に対する心づかいも砂粒程度で結構なはずなんだよ。ぼくは公平を尊ぶんだ。心安らかでいたいからね。ぼくの話が不まじめに
聞こえないかと心配だな。もっともいいわけの必要はないし、しちゃいけないんだけどね。 だけどさっき言ったろ。あの第六感、あれがぼくの救いなんだ。はっきり感じられるものかどうか確信はないけど。でもいつかその確信がぼくのものになるという予感を信じているんだよ。それにしてもぼく自身の何に望みをかければそれが実現するのかしら。第六感がぼくの中にあるとしたら、ぼくはそれを呼びさますために何をしたらいいのかしら。いったいこうして待っているだけでいいのだろうか...」
ぼくはすっかりいい気持だった。もはや時間はなく、
かすかな風、うちよせる波も絵のように思われた。ぼくの左手の中の彼女の手も右手にふれる湿った砂の感覚もとても心地よかった。ぼくは彼女の肩に手をふれてたづねた。
「眠いの?眠かったらぼくの肩に寄りかかってお眠り」そう言って彼女の頭をぼくの肩にもたせかけた。どうやらノナは本当に眠いらしかった。ぼくはかまわずにしゃべり続けた。
「ぼくはね、自分が他の人たちと同じなのかそれとも違っているのか決めかねているんだ。そのことではずいぶんと頭を悩ました。どっちにしても居心地が悪い。結局、そもそもこんなことを考えるのがばかげているということがわかったね。だってぼくのことなんか他人は気にしちゃいないし、ぼくが個性的だからってだれが喜ぶわけでもない。むしろ人は自分以外の個性は認めたがらないくらいだもの。ぼくはうまく生活するためには個性なんか殺しちゃうほうが得策だと思うな。君は個性ある人間が勝利を得ると思う?ぼくはそう思わない。むしろ個性をかくし“わたくしもまったくあなた方と同様な
のです”という顔をしている人間の方が利功でものがわかっているんだ。結局、そのほうが本当に個性的と言えるのさ。だけど、ぼくは何が言いたいのだろうね。君はぼくの話を聞き流すだけでいい。思い返したり、意味を考えたりしない方がいいよ。ぼくの話はまともじゃないからね。ぼくの話よりぼく自身の方がずっとまともだよ。君はぼくにどんな印象を持ったか知らないが、まともな人間だということは確かだよ。それは保証してあげるよ。しかしもっと違うことを話そう。そうだなあ。恋愛のこと?君みたいな女の子の頭の中はいつもロマンスでいっぱいなんだろ?小説で起こるような恋愛に憧れて、もし本当に起こったらなんて想像してハラハラしているんだろう。正直なところ白状すれば、ぼくも始終そう思っているのさ。
ところがぼくは運命から見放された例外的な人間らしいんだよ。だって何も起こらないんだから。それはぼくだって恋愛もしたし失恋もした。だけど何か違うんだな。やっぱり、何も起こらなかった同じなんだよ。みんなぼくの空想だったと言ったって同じことだ。ぼくが星だとしたら、きっとあのあまり輝かないぼんやりとした星なんだよ。ぼくの理想は流れ星なんだけど。一瞬輝いて自分自身を燃やし尽くし消えてゆくあの美しい流れ星。人の心に強い印象を残す。だけどぼくの星はやっぱりあの憶病そうなちっぽけなヤツだな。近視眼じゃ見えないあんな星でも君は考えてくれるかしら。あの星だって内部はけっこう
う燃えたぎっているのかもしれないよ。ぼくは今、君が眠っていて話を聞いていなければいいと思う。 (ノナが眠ってていないことをぼくは承知していた)
だってやっぱりちょっと恥ずかしいみたいだ。 しかし、今のぼくは平気だな。何を言ったって結局同じことなんだよ。理解も誤解もありはしない。真実なんてほったらかしにしておいたって真実だものね。つまりあるがままってことさ。この空、海、波の音、星、これが真実だ。ぼくの手の中の君の手、これも真実だ。ぼくは君の心もこうしてつかまえておきたいけれどそれは無理だね。きみの心はあるがままにあればいい。ぼくの心もあるがままにあればいい。これですべていいわけだよ」
ぼくはふと思い出して光田たちの方を振りかえった。
ライトしかみえない。ぼくの心の中をなにか正体不明の影がよぎった。ぼくは懐中電灯を振って合図した。すると同様の合図が返っててきた。
「合図してるよ」とぼくは言った。ノナはピクッと身動きした。
「彼女、本当に眠っていたのかもしれない」という考えがぼくの頭をよぎった。
「いいんだよ。眠っていていいんだよ」とぼくは言って毛布で彼女を包んでやりながら彼女の様子を注意してみたが、実際に眠っていたのかどうかわからなかった。本当のところは彼女自身に聞けばいいのだろうが、聞いてみたところであてにはならない。眠ったふりをしようと思えば簡単にできたはずだから。
ぼくは少々しらけた気分になった。それに光田たちのことも気になってきた。
「ノナちやん」とぼくは彼女の頭に手をおいて言った。
「眠いの?眠ってもいいんだけどね。ここでは寒いだろ。 車に帰ろうか」
「そう?」とノナはつぶやいた。
「君、本当に眠いの?」
「少しね」
「さっき眠ってたの?」
「いいえ」
「ぼくの話きいてた?」
「ええ」
「全部?」
「ええ」
「そう、ぼくはまた眠っているのかと思ったよ。君も人が悪いね」
「なぜ?」
「いや、いいんだ。ところで君、ドストエフスキーなんか読む?」
「いいえ。でも、なぜ?」
「べつに何でもないよ。ただなんだか読んでるって気がしたものだから」
ノナは不思議そうにぼくを見た。ぼくは早口で言った。
「車に帰ろう。少し眠らなくちゃ。ぼくと光田は寝袋があるから外で寝るよ。少し眠って、それから明け方東京へ帰ろうね。君明日授業あるんだろ?」
「午後からなの」
「それはよかった。流れ星は見えなくて残念だったけど君と話せてなかなかおもしろかった。君はたぬき寝入りなんかしてたけど」
「そんなことしてないわよ」とノナはぼくの目をまっすぐに見て言った。ぼくは笑った。
「そうかい?まあどっちだっていいさ」ぼくらが二人のところへ帰ってみると、そこには光田一人が寝袋で横たわっていた。
「彼女はどこ?」
「車だよ」光田は横になったまま答えた。
「キイをくれ」 ぼくはキイをうけとるとノナを車まで送っていった。後のシートで彼女はぐっすり眠っていた。ノナは毛布をかけなおし頬にかかる髪の毛をかきあげてやった。
「君は前のシートで眠るといい。ライトはつけておくからね」
「ありがと。何時ごろ出発するの?」
「ずっと眠っててかまわないさ」
「朝までには大学にもどっていなくちゃいけないでしょ?」
「心配いらないよ。おやすみ」
「おやすみなさい」 ぼくは車から持ってきた寝袋に入って光田のそばに横になった。
「おい、眠っちゃったのか?」
「いや、おきてる」
「さっきまで眠ってたの?」
「いや」
「彼女の方はすぐ眠った?」
「うん」
「それじや、おまえたち何も話さなかったの?」
「少し、しゃべったよ」
「何をしゃべったんだ?」
「星のことなんか。本のことも少し話した」
「本のことってどんなこと?彼女どんな本読むんだい ?」
「今一番読みたいのはドストエフスキーだそうだ」
「へえ。読みたいってことはまだ読んでないってことかしら」
「いや、いくらか読んでるんだろう」
「何か、言ったかい?」
「ドストエフスキーのこと?」
「うん」
「いや、だってぼくが読んでいないものね」
「そうか」
「君の方はなにしてたの?」とこんどは光田がぼくに聞いた。
「なにも。彼女も眠っちゃってたんだよ。それにしてもすっかりペテンにかかったみたいだね」
「なにが?」
「星が降るって話さ」
「そうだね」
「君、見たかったんだろ?」
「うん、まあそうだね。めったにないことだから」
「もう死ぬまで見られないの?」
「日本じゃだめらしいよ」
「残念だったなあ。楽しみにしてたのにな。それにしても、今思えば星が降るなんていう奇跡をよくも信じたものだって気がするよ。どうしたって起こりそうに思えないよ。君は信じてた?本当に星が雨のように降ると思ってたの?」
「マスコミの報道は信じてたけどね」
「実際にこうして空を見ていて信じられる?」
「わからないな。でも今となっては信じられない気がするね」
「ぼくもさ。なぜってぼくには今、期待する気持があるからね。これがよくないんだ。なんでも期待どおりのことがそのまま起こるなんてことはありえないよ。おまけに目の前でだよ。起こりっこないよ。少くともぼくに関するかぎり信じがたいね。ぼくが眠ったあとなら、あるいは起こるかもしれない。それならありえる。しかしぼくが目をあけてこうして空を睨んでいる間はダメだよ。それに考えてみたら、そんなこと起こってほしくないね。
もし起こったとしたらぼくはきっと耐えきれない。死んでしまいそうな気がすると思うよ」
ここまでしゃべってぼくは賢明にもロを閉じた。これ以上のおしゃべりはよくない。眠ったほうがいい。 「五時半に出発するよ。眠っていたら起こしてくれ」それっきりぼくも光田も黙りこんだ。光田がいつ眠ったのか知らない。ぼくの方はほんのちょつと星をながめていたがすぐに眠ってしまった。
これでこの物語は終わりだが、朝になってからのことを少しばかり付け加えておこう。 光田に起こされたぼくは、あまりはっきりしない頭で運転席に座った。ぼくのそばには彼女が座った。ぼくが居眠りをしないように見張りを買って出たわけだ。適当ないたわりをみせながらもドライにぼくを見張っていたが、その時のぼくにはまさにそれが必要だった。眠くて集中力が鈍っていたからだ。後の座席では光田とノナがお互いの肩を貸し合ってうとうとしている。ぼくの半分眠ったような頭は運転だけでせいいっぱいで何を考えるのもおっくうだ。まだ朝はやい道路には車も人どおりもほとんどなく、ぼくはともすればとなりにいる彼女のことさえ忘れうっとりなりそうだった。だから突発事件が起こったことはむしろよかったのかもしれない。道路の横あいからとび出したノラ犬をすんでのところではねそうになったのである。彼女が大きな叫び声をあげてぼくの方に身体をのめらせた瞬間、
ぼくは必死でブレーキを踏んでいた。なんとか間にあっていやな経験をせずにすんだ。車の陰から姿をあらわしたノラ犬はたいして篤いた様子もなく、のんびりと道路を横切っていった。
完