ドストエーフスキイ全作品読む会
下原敏彦の著作


小説 ドストエフスキイの人々

下原 敏彦
 

第一部 よりつづく

第二部  

一、早朝の訪問者

二、最初のもめごと
三、集金作戦計画
四、不安な開始
五、集金の難しさ
六、駅地下街で
七、最初の集金
八、案ずるより産むがやすし
九、珍妙なる作品
十、普通で風変わりの人たち
十一、問題多き人
十二、駅裏奇譚
十三、わたしは、なぜドストエフスキイ読むのか
十四、外見とは違う元会員 
十五、ドストエフスキイの底力
十六、場違いなドジョウ会議
十七、元の木阿彌
十八、元の木阿彌 その後
十九、富士には似合う花は
二十、ドジョウの会、万歳 


主な登場人物
□夢井信吉 ドジョウの会の地方会員   □大野キン子 女子大生 主人公
□渋川哲春 ドジョウの会顧問      □丸山茂喜 ドジョウの会事務局長
□浜島 敬 ドジョウの会の会計係    □小堀清人 ドジョウの会の会誌編集長
□石部健三 ドジョウの会の会計監査役   時代は平成元年の春


一、早朝の訪問者

 さっきから玄関のチャイムが鳴り続けている。知らんぷりしていたがいい加減うるさい。キン子は手探りでベットの横にある化粧台から目覚まし時計をとる。六時を少し過ぎたばかりだ。
 こんな朝早くに誰かしら。はじめママかと思った。昨夜、電話しなかったから、それで外泊を疑って探りにきたかも。しかし、ママならもっと大騒ぎする。ドンドンとドアを叩いてわめきたてるはず。
 ママでないなら誰だろう・・・。キン子、渋々、布団をはねのけ、ガウンを引っ掛け出て行った。そうだ、カオリかも知れない。きっと彼女だ、と思った。高校時代の友人だが、いつだったか、朝っぱらから同棲男とケンカしたといってきたことがある。早く別れればいいのに。キン子は腹立たしく思いながら覗き穴から覗いてみた。若い男が立っていた。髪をボサボサにした見覚えのない顔だ。
 イヤダ、何 !? だれ ? キン子は寝ぼけ眼をこすってもう一度、覗こうとしたが、突然、電話のベルが鳴った。急いで受話器をとった。
「キン子ちゃん、沢井のおばちゃまよ」キンキン声は隣の奥さんだ。いつもは大声なのに、押し殺した声で言った。
「いま、外にいる若い人、キン子ちゃんのお友だち ? さっきからドアの前に立っているわよ」
 いきなり、そう言われても返事に窮した。ディスコで会った男の子の顔などいちいちおぼえていない。大学でしょっちゅう声をかけてくるナンパ男でもないだろうし、考えあぐねていると、沢井夫人が含みのある声で言った。
「ゆうべ遅くに空き部屋の303号室に止めてあげた彼氏じゃないの。大丈夫、秘密にしておいてあげるから」そう言って、夫人は意味深にフフフと笑った。
 あっ、そうだ!! キン子は突然思いだした。そういえば昨夜「ドジョウの会」の会員をキン子の父親名義のこのマンションの空き部屋に泊めてあげたのだ。そうそう、会議のあと、名曲喫茶から居酒屋に行って、かなり飲んで一緒に帰ってきたが、すっかり忘れていた。
「おばちゃま、ありがとう、残念でした。そんなんじゃありませんよーだ。大学のゼミの先生のサークル仲間よ。公認よ」
キン子は受話器を置くと、鏡をちらっと覗いて髪をすくと玄関に戻った。またチャイムが遠慮がちに鳴った。
「ハアーイ、起きてるわよ」キン子はドアを開けた。
 革靴にジーパン、鼠色のタートルネックのセーターと紺のブレザー。さえない服装をしたボサボサ頭の青年がぼんやり立っていた。
 うっ、ダサイ。キン子思わず口を押さえた。自分の周りにはこんな若者はいない。次の瞬間、ゆうべの彼だと思いだした。ユメイなんとか、といったドジョウの会の会員。そうだ、空き部屋に泊めてあげたのだ。キン子は昨夜のことを思いだした。
「なんなの、こんな早くに?!」
「あのう、そろそろ出かけませんか」夢井信吉は恐る恐る、それでいて有無を言わさぬ口調で言った。
「えっ!? でかけるって? 」
「忘れてるんですか!? 集金ですよ。年会費の集金、ふたりでやることに決まったじゃないですか」
「ああ、集金のこと!? 覚えているわよ、覚えている」
 キン子はわざと大声で言った。実のところすっかり忘れていた。何か面倒な会議だったが、居酒屋のビールでみんな流れてしまっていた。いま、はじめて集金のことを思いだした。そういえば年会費の集金を手伝う約束をした。会員ではないのに、渋川教授のゼミ単位が欲しいばかりにそんな約束をして、と後悔したがもう遅い。まったく物好きなんだから。キン子は自分にあきれながらも、満更でもない気もした。隣の沢井夫人がゴミ出しをするふりをしてドアの隙間からこちらの様子を窺っている。キン子はわざと声を大きくして言った。
「わかってるわ、集金でしょ。一緒にやるんでしょ」
「だったら早く出かけましょう」と信吉は急かす。
「えっ!?  ウソでしょ。昼からでいいんじゃないんですか」キン子はあくびをかみ殺して言った。
「何言ってるんです」信吉は驚いて声を張り上げた。
「昼からなんか、とんでもないです。昨夜、数えたら払ってない人、都内でも三十人以上いるんです。のんびりしてたら回れませんよ」
「ああ、そうか、えーと」
「夢井信吉です」
「そうそう、夢井さん、夢井さんだった。地方からきたんですよね」
「そうです。だから、こちらに泊めていただいたんじゃないですか」
「そうね、そうだったわ」キン子は感心して頷く。彼を泊めた理由をすっかり忘れていた。
「ふたりで集金に行く約束したんだよね。ちょっと待ってて、支度してくるから」ようやく事態を把握したキン子はドアを閉めて部屋に戻った。
 集金かあ・・・。鏡の前に座って自分の顔に自問する。これまでアルバイトさえしたことがないので、集金に歩くということがよくわからない。何やら怖いような愉しいような妙な気持だ。
 さてさて、珍妙なるふたりのコンビ。彼らの前に現れる「ドジョウの会」の会員諸氏とは、いったいいかなる人たちであろうか。滞納した年会費をスムーズに払ってくれるだろうか。都会とはいえ早春の朝はまだまだ寒い。

二、最初のもめごと

 三月はじめの爽やかな朝である。まだビル街を吹く風は冷たいが、どこかに春の息吹を感じる。ねばっこいねこやなぎのつぼみを思い起こさせる。「ドジョウの会」を命運を担ったわれらが女子大生のキン子嬢と、突然、ムイシュキ公爵のごとく現れた謎の若者、夢井信吉。ふたりはさっそうと意気揚々と朝の街に繰りだした。
 しかし車道を埋め尽くす車の流れ、職場に向かう勤め人の洪水。昨夜、甲府からきたばかりの夢井信吉はさすがに驚いて、都会の朝の喧騒にたたずむばかりであった。が、それでも暫し佇んだ後、勇敢にも雑踏の流れの中に入って行こうと歩き出す。キン子嬢、寝ぼけ眼を見開いて叫ぶ。
「ちょつと待って、まずは朝食でしょ」
「朝食ですか・・・」
「そうよ。まだなにも食べてないのよ。わたしたち」
「ああ、それならホームで食べましょう。立ち喰いそば」
「立ち喰い?!」キン子は素っ頓狂な声をあげてから、相手を睨んで叫ぶ。
「何、考えてるの。立ち喰いなんて、わたし嫌よ」
「時間の節約です」
「朝はコーヒーとトースト。そう決めてるの」そう言って、キン子はぷーと怒ったフグのように頬をふくらます。信吉、困った顔で、申し訳なさそうにぼそっと言った。
「実は、お金あまり持っていないのです。まさかこんなことになるとは思っていなかったので」
「え、何?お金、持ってないの!」キン子は驚いた。お金がないなんて。大手企業大野建設の末娘。貧乏は小説や映画で知ってはいるが、現実にお金がない人をみるのは初めて。めずらしいので、しげしげと信吉をながめやる。
「ええ、そうなんです。まさか、こんな事態になるなんて考えてもみませんでしたから」信吉は繰り返して言った。そのあと、ため息まじりにつぶやいた。
「帰りの切符、買ったらスカンピンです。立ち喰いだったらなんとか、それに時間も有効に使えます」
「お金を持ってないのに集金なんて・・・」キン子は呆れながらも、そこは成り金の娘。この窮地に策はないかと考えていたが、突然、声をあげた。
「なんだ、こんなこと思いつかないなんて。わたし、やっぱりおバカさん」
「なんです?」
「お金ならあるわよ、集金のお金を前借すればいいのよ。日当の代わりにもらえばいいのよ」
「しかし、それは・・・」
「なに言ってるの。ドジョウの会っていうヘンな会を救うんでしょ。そのことを考えれば、前借なんて大事の前の小事じゃない」
「大事の前の小事ですか。非凡人思想のようですね」信吉は苦笑する。
「なんなの?非凡人思想って。わたし何かいいこと言ったの」
「キン子さん、ドストエフスキイを読まなくたって、立派にドストエフスキイしてます」
「なんなの、へんな人・・・」
 キン子はわけのわからないことに感心する信吉を訝しげに見た。そして、思った。この人、やっぱりヘン、変ってる。そう思うとちょっぴり不安になる。
「でも、やっぱり集金のお金、使うのはまずいです」
「そうだ、現金、持ってなくても、カードは持ってるでしょ。カードでお金おろせば」
「カードですか―――」信吉は困ったようにキン子をみる。
「そうよ、カードよ。キャッシュカード。地方だって同じでしょ」
「持ってません。そんなもの」
「持ってない?!」キン子は驚く。
「ウソでしょ。一枚ぐらいあるでしょ」
「本当に持ってないんです。一枚も」
「ウソ・・・」
「ぼく、そういうもの持たないことにしているんです」
「ウソ――」キン子は珍しいものを見るようにいげしげと信吉を眺めて言った。
「カード、持ってないなんて、いまどき、そんな人いるの?」
「そんなに驚くことですか」
 信吉はさかんに不思議がるキン子を尻目に、いささか不機嫌そうに歩きだした。たかがカード一枚で、大騒ぎするキン子の考えが分からなかった。
「いいわ。お金のこと心配しなくたって、わたしのカード使ってごちそうするわ」
「泊めてもらったうえに、それは・・・」
「あー、もう面倒!とにかく立ち食いはイヤよ。わたしのお金つかうから付き合ってよ。わたしお金に困ってないから」
 キン子はすっかり姉さん気どりだ。なにしろ、この集金行脚、退屈しのぎプラス、レポート免除に四単位のおまけ。「ドジョウの会」なんて、へんな会、へんな人たちの集まりだが、もし集金行脚が成功すれば、あの役員たちからは感謝され大学での授業欠席も甘くみてもらえるはず。まさに一石三鳥のうまい話。相棒となった青年は天然ボケのようで、どこの誰ともわからぬが悪い人間ではなさそうだ。この分なら自分が完全に主導権をとれそう。みんなわたしの才覚にかかっているのだ。そう思うとうれしくなってくる。これまでの人生、幼稚園から大学までママまかせだった。
 キン子は信吉を従え、長い黒髪をさっそうとなびかせ、駅近くにある小さな喫茶店に入って行った。フランス風の瀟洒な店。信吉は戸惑いながらも渋々あとにつづいた。
「あら、早いわねえ」前髪を金色に染めた五十がらみの女主人がカウンターの中から驚いたように声をかけてきた。
「どうしたのよ。キン子ちゃん、こんなに朝早く」
「ヒドイ、わたしだって起きるときは起きます」
「何かあって?」そう言って、女主人は信吉をちらっと見て意味深に微笑む。
「お仕事、お仕事」キン子は自慢そうに胸を張る。
「あら、感心じゃない」女主人は目を丸くしながらも怪訝そうに聞いた。
「こちらの、お兄さんと一緒に?」
「そうよ。ボランティアだけどね」キン子はうれしそうに答えてから、客が立った隅のテーブルを指さした。
 ふたりはレジに回った女主人を横目に隅のガラステーブルを陣取る。磨かれたガラス窓越しに駅に急ぐ人たちが見える。
「もう少し時間ずらさないと。土曜だって電車、混んでるわ」キン子は場慣れた口ぶりで言って手鏡をだして化粧をはじめる。
「そうですね・・・」信吉はあきらめ顔で頷いた。
「今だって、無駄じゃないわ。作戦たてましょう、ここで」キン子は手早く化粧をすますと言った。
「浜島さんだっけ、会計の人。あの人、いってたでしょ、会の集金は意外と難しいって」
「キン子ちゃん、何にする?」向こうから女主人が、大声で聞いた。
「わたしピザトースト。夢井さんは」
「ぼくはトーストで」
「ホット、ブレンドね」キン子はお冷を運んできたウエイトレスに注文すると、バックから、昨夜、名曲喫茶で浜島会計委員から預かった名簿を取り出してひろげた。すっかりビジネス女子になりきっている。
「あの人、連絡しない方がいいっていってたわね。アポなしがいいって。でも、なぜ?」
「話きいてなかったんですか」
「忘れたわ」キン子はあっけらかんと言って笑う。
「どうして、どうして連絡しないで行く方がいいの」
「電話すると、たいてい断られるらしいです」
「それで、いきなり?」
「そうです。サークル活動の集金は突然の方が効率がいいそうです」
「そんなノウハウあるんなら、自分がすればいいのに・・・」キン子は意地悪っぽく言ってボールペンに長い黒髪を巻きつける。集金モードいっぱい、そんな表情だ。

三、集金作戦計画

「だけど・・・連絡しなかったら無駄足になるかも知れませんね。土曜日だからって、必ず家にいるとは限らないし」
「そうね――」とつぶやきながらも、キン子はてんで意に介さない。会費納入名簿に夢中になっている。
「多い人で十年近く払ってないわ。六万円の滞納ね。たいていの人は四、五年だから、二万四千~三万円。そのくらいなら行けば払ってくれるわよ」と高をくくっている。
「とりあえず、在宅だけは確かめましょう」信吉は不安そうに言った。
「いいわ」キン子は上の空で頷くと名簿を読み上げながら自分のノートに書き込んだ。
「赤丸がついているのは必ず払ってくれそうな会員だったわね。ホントかしら。足川、新屋、池山、岩佐・・・こんなにいるの、へんねえ?」
「なにがです」
「どうして、この人たち自分から振り込まないの。会計の浜島さんが太鼓判おすくらい優秀な会員なんでしょ。ヘンよ」
「そうですねえ」信吉はうなずいたが、それほど不思議がってはいない。ローンだったらともかく自主的に払う人などいるとは思えなかった。
「ま、いいか」キン子はあきらめて、再び名簿の点検をはじめた。
 創刊号が赤字だったからといってあの体たらく、責任逃れの醜態。役員にしてあの様だから、会員は推して知るべしかも。もっとシビアでケチケチかも・・・。そう思うと不安になってきた。緊急会議には出席しない、年会費は払わない。それでいて脱会届もださない。そんな人たちから集金しようというのである。考えると不可能に思えてくる。
「みなさん、払ってくれますよ」信吉は相変わらず楽天的。
「住所を整理して、近場からはじめましょう」
「本当に信じてるの」コーヒーを飲んで、頭が冴えてくるとキン子は現実的になる。
 ボールペンを指先でくるくるまわしながらあれこれ思いをめぐらす。どう考えても信じがたい。十九世紀のロシアの小説家のファン。ただそれだけの理由で――ほかに何かあるのかもしれないが、キン子にはそれだけしかわからない。長期の会員といっても、実態は幽霊会員に違いない。ギャルはギャルでも、立志伝人物大野建設社長大野拓次郎の娘である。損得にかけては頭の回転は速い。
 この滞納金集め、安請け合いしたが自分が考えるほど簡単ではない気がしてきた。キン子は頭の中でそろばんをはじく。一万八千円以上の滞納者は二十人以上もいる。六万円の大口も五名。七十万円近い額になる。よくもまあ、放置してきたものだ。このうち住所から集金可能な人は十五人近くいる。
 ホントに集まるかしら・・・。キン子はだんだん心細くなってきた。しかし、目の前で黙々とトーストを頬張っている夢井信吉青年は心配などどこ吹く風の様子。バカみたい。何でわたしが、お金のこと心配しなくちゃいけないのよ。これはただのゼミの延長。滞納金が集まっても、集まらなくても、わたしには関係ない。わたしにとってはレポート免除で単位ももらえる一石二鳥のバイトなのだ。キン子はそう自分をいいくるめると、運ばれてきたピザトーストをつまんだ。指先についたチーズをなめながら、胸の内で何度も自分に言い聞かせた。
 退屈しのぎよ、退屈しのぎ・・・なんでも、すぐに夢中になるのが自分の短所。わかっているのに、ついはまってしまう。もっと気楽にやらなくちゃあ。キン子はそう思いながら、集金先の住所を確かめる。新宿区西大久保、二番手は目白。ここからは近距離だ。近いけどバスに乗った方がいいかも。それにしても、突然見ず知らずの、それも役員でもないふたりが集金にきたらどんな顔されるだろう。想像すると面白い気もしてきた。

四、不安な開始

 新宿駅は土曜日だからか、土曜日にもかかわらずか、人、人、人でいっぱい。ふたりは洪水のような人波に押されて地上に。階段を上がっていくビルの谷の間に青空が見えた。
「うわー、こんなになってる」信吉は外に出ると嘆息して東口周辺を見まわした。ひどくなつかしそうだ。
「あれ、来たことあるんですか、新宿?」
「はい、ええ、少し」信吉は一瞬、青白い頬をぽっと赤く染めて言った。
「昔、ちょっとだけいたことがあるんです」
「ああ、そう」キン子はうなずいたが、ちょっぴり落胆した。まるっきり田舎者でもなさそうだ。そういえば、昨夜、甲府からでてきたと自己紹介したが、それ以外夢井青年のことは何も知らないのだ。
「いたことがあるって、住んでいたんですか」
「はい、そうです・・・」
「もともと東京の人?」
「違います。生れはもっと北です」信吉は言葉少なに言った。なぜか困惑げだ。話したくないようである。
「じゃあ東京には働きに?」
「ええ、そんなところです」信吉は上の空で頷いて、その話題から逃れるように言った。
「えーと、どのへんでしたか、地図みましょう」
 キン子は不満だった。今日と明日一緒に仕事する相手、もっと知りたいという気持ちはあった。だが、信吉はもうそんな会話に乗らない腹だ。地図を片手に番地捜しに没頭している。足早に大通りを横切っていく。
 大通りを逸れて路地に入ると、モルタル造りの安アパートや民家がひしめく昔ながらの街並みだが、路上に昨夜の酔っ払いの残滓が目立つ。小便くさい。怪しげなホテルも軒を連ねている。
「何か、嫌な感じだわ。その会員の人、ホントこんなところに住んでるの」
 キン子はテレビのニュースか何かで見た外国人娼婦が立つ街のことを思いだした。街並みが似ている気がした。
「ここが、そうかしら・・・」キン子は見回す。午前中だ。それとわかる女性などいるはずもない。それどころか所々に虫歯のように朽ちた民家もあり、この一角、荒廃感ただよう無人の町のようだ。
「変だわ、でも3-4だから、やっぱりこの辺りよ。」
 信吉は立ち止まって電柱に巻かれた番地を確かめる。
「ここですよ。やっぱりここの番地」
「ウソー」キン子が驚くのも無理なかった。

五、集金の難しさ

 ふたりの目の前にあるのは、明らかに空き家とわかるモルタル造りのオンボロアパート。玄関、窓にベニヤ板が釘で打ちつけられていて、落書きしたように赤ペンキ、白ペンキで「立ち入り禁止」だの「わたし有地」だのの文字が書きなぐられていた。二階の屋根は半分解体されていて、彼方に林立する西新宿の高層ビル群がよく見えた。未来都市を思わせる光景に比べ、ここの街並みのなんとみすぼらしいことか。あまりの落差に唖然とするしかない。
「うわー、なあに、これ!!」さすがのキン子も、大げさに悲鳴をあげた。
「あけぼの荘って書いてありますから、ここですよ。解体するみたいですね」信吉は近づいて隙間から覗き見しながら、間のびした声でつぶやいた。
「転移先はどこだろう・・・」
「転移先?――そんなとこありっこないわ」
「どうしてですか? 」
「どうしてって」キン子はあきれ顔で信吉を見た。
「追いだされたのよ。ここの住人、みんな」
「えっ、だれにですか」
「地上げ屋に決まってるじゃない」キン子は言ってから苦笑。
「地上げ屋は全国的よ」
「地上げ屋ですか・・・」信吉は頷きながらも浮かぬ顔で聞いた。
「じゃあ、ここはバブルのときからこんな状態なんですか」
「そうみたいね。追いだしたはいいが、はじけちゃったんで、ビルつくれないのよ」キン子は得意になって説明した。バブルがはじけた頃、父親の金次郎がさんざん口にしていた話である。
「大変だったんですね。その頃は」信吉は他人事のよう言って頷く。
 キン子は一瞬怪訝に思った。一時、社会問題にまでなった地上げ屋のことはだれもが知っていることではないか。しかし、彼はまったく知らないようだ。初めて聞くような反応だ。へんだわ。キン子は信吉の無知ぶりにちらっと疑問をいだいたが、すぐに、甲府の山奥にいたせいかしらと納得した。
「新しい住所、どこだろう」
「もう、相当前よ、わかりっこないわ」キン子は皮肉っぽく言った。
「それに――」
「それに、なんですか ? 」
「会費未納者よ。これ幸いと住所をくらませたかも」
信吉は首をひねっていたが、突然、声をあげる。
「そうだ、区役所に行けば教えてくれますよ」
「時間の無駄だわ。遠くだったら。それに、近頃は教えてくれないらしいわ」
「そうですか・・・」信吉はがっかりする。
「あきらめましょう、この会員」キン子はあっさりと言った。
「引っ越しても新住所、知らせてこない人でしょ。近くだったとしても、払ってくれない確率大だわ」
「がっかりですね・・・集金第一号になると思ったのですが」
信吉は残念そうにつぶやくと、紙袋からノートを出して渋々書き込む。小谷真一 移転 (新住所不明) 集金なし
「ついてないわね。最初の人がこれじゃあ」キン子は小首をすくめて苦笑した。その後、冗談ともつかぬ顔で眉をひそめて言った。
「ほとんどの人、こんな調子かもしれないわね」
「そんなことないと思います」信吉は大きく頭を振った。どこまでも信じているようだ。
「だって、住所変わっても何も連絡してこない人たちでしょ」キン子はからかい気味にいった。
「えーと、つぎの会員は・・・」信吉は無視して名簿を覗き込む。
 信吉は固く信じているようだ。最初の会員は例外で、ほとんどの会員は必ず払ってくれるということを未だ頑迷に信じている。――どうして、とキン子は不思議に思う。ドストエフスキイの作品を読んでいるというだけでそういう連帯感が生まれるわけ? わからないだけに皮肉の一つもぶっつけたくなる。
「会員の人って、払わない人たちが多いんじゃない? 昨夜、役員の皆さんのお話し聞いてて、何かそんな気がしたの。ドストエフスキイが世界で一番偉い作家だっていってるけど、なんだかみみっちい感じがするの。どうよく考えてもすばらしい会だなんて思えない。それに会費の滞納者がこんなにもいる会なんてある? 」
 キン子はスイッチの入ったラジオのように「ドジョウの会」の悪口と集金の不可能をまくしたてる。しかし、夢井信吉は馬耳東風。名簿から移したノートと都内地図をみくらべていたが、不意に顔をあげて聞いた。
「豊島区の方が近いですよね」
「え、どこと? 」
「渋谷とです」
「そうねえ、豊島区も広いから」
「雑司ヶ谷です」
「それなら、近いわ」
「じゃあ、次はこの会員にしましょう」
 相手がいなければ、どうにもならない。集金作戦、第一号は早くもとん挫。信吉はめげずにきりかえる。
「いいですけど」
「行きましょう」信吉は性急に言って歩きだしたが、はたと足を止めて聞いた。
「そこって、どうやって行きます?」
「ここから、タクシーなら近いわ」
「えっ! とんでもない。ダメですよ」信吉は慌てて首を振った。
「戻りましょう、駅まで」
「えっ、面倒だわ、池袋まで行くことになるのよ」
「タクシーなんて、まだ一人も集金もしてないのに、たとえお金あってもダメですよ」信吉は言い捨てて歩き出した。
「待って!」キン子は痕を追いながら聞いた。
「でも、どうするの。今、みたいだったら。折角いってみても、まったくの無駄になるわよ」
「あ、そうか」信吉は叫んで頭を抱え込む。
 早くもふたりは集金の難しさに直面した。払ってもらえるか、もらえないかの前に在宅有無の問題があることを知らなかった。肝心要なことではあるが、集金初歩中の初歩だけにさすがの浜島会計係も、伝授し忘れたようだ。
「どうしょうか」困窮顔で、頭のぐしゃぐしゃ髪の毛をかき回す信吉だが、キン子はそこはさすがに都会っ子、機転が早い。
「電話よ。電話してみればわかるわ、在宅かどうか。浜島さん、集金は直接とかなんとかいってたけど、いなければダメだし、電話で断られたらわざわざ行っても払うと思う? 参加もしてない会の会費なんか」
「そうですね・・・」信吉はまくしたてられて自信なくなったのか、小声で頷く。
「いいわ、とにかく、わたしかけてみるわ。当たるも八卦よ」キン子は言って信吉を見て笑う。
 角のコンビニストアーの前にグリーンの電話機があった。キン子は小走りに向かう。
「もしもし――、あ、米村さんのお宅ですか」キン子は猫なで声で訪ねた。声には自信があった。
「失礼ですが、征二郎さん、いらっしゃいますでしょうか。あ、ご在宅でしたか、ありがとうございます。わたしですか、えーと」キン子は返事に窮してか、受話機口を手でふさいで信吉に聞いた。
「会の名前、何でしたっけ? 」
「ドジョウの会です」
「あっそう、ドジョウの会ね。へんな名前、わかるかしら」キン子は疑り深そうにつぶやいて受話器に話しかけた。
「失礼しました。ドジョウ、ドジョウの会といいます。いえ、田んぼとは関係ありません。鍋料理とも違います。ドストエフスキイという――。えーと、ご本人様がご在宅とお聞きしましたが・・・(本人にかわって)これからおうかがいしてもよろしいでしょうか。ありがとうございます。よろしくお願いします」
「なんだって?」
「家にきてくれって。払う気あるみたい。へんねえ、ご本人、すごく悪がっていた」キン子は腑に落ちなさそうに首をひねって叫ぶ。
「それより、あ――、イヤになっちゃうわ、先に電話にでた人、奥さんみたいだったけど、ぜんぜん通じないの。ドジョウの会のこと、まるでしらないのよ。柳川に旅行に行くんですか、なんて聞くんだから」
「その人、米村さん、いくら滞納ですか」
「うわー、三年分よ」
「いくらです」
「三年分の滞納だから一万八千円」
「そんなに ! 」信吉は驚く。
「払わない方にかけるわ。さっきの奥さん、しっかりしてたから」
「ぼくは払ってくれると信じます」信吉は確信しているように大きく頷いて言った。
「本人に会えば大丈夫ですよ。早く行きましょう」
 ふたりは来た道を引き返し、新宿駅の方に向かって歩いていった。まだ一戸目をまわっただけなのに、ずいぶん歩きまわったような疲労感があった。

六、駅地下街で

 新宿駅地下街の雑踏。絶えることのない人の流れ。買い物客、勤め人、遊び人、若者、学生。外国人、白人、黒人、アラブ人。それら老若男女がごちゃまぜとなって早足に歩いている。濁流となって流れている。楽しげな顔、切羽詰まった顔、怒り顔、虚勢顔、すまし顔、泣き顔、笑い顔、急ぎ顔、考え顔、流れの中に様々な顔がある。その顔の表情からその人の生活が人生が読みとれそうだ。我らがドストエフスキイの大先生なら、何百、何千の主人公をひねり出すことができそうだ。どの顔も、文庫本一冊でも書き足らぬ表情がある。
 むろん我らが主人公「ドジョウの会」集金人のご両人も例外ではない。しかし、その顔色は対照的だ。キン子嬢は早くも疲れと眠気で曇り顔。今朝の意気込みはどこへやら、ご機嫌ななめである。まだ一銭の収穫なしに、テニス焼けした健康顔もさすがに不安と焦燥の色がジンワリにじみでていた。しかし一方の信吉はまだ些かの焦りの影も疲れた様子もない。元気はつらつの進軍である。この人波に昂奮したのか、ほんのり頬をそめながらも、もの珍しげに洪水となって流れる人の流れをキョロキョロながめていた。が、しばらく行くと視線は地下道の隅で寝ころぶホームレスたちに注がれた。
「夢井さん、そんなにじろじろみない方がいいわよ」キン子は心配そうに信吉のコートの袖を引っぱった。
「わたし逃げちゃうからね。因縁つけられたら」
「探してるんです」信吉は苦笑して言った。
「探してる ?!だれを?」
「いつだったか、テレビみてたら――インタビューしてたんです。このあたりで。そしたらあの人たちのなかに『カラマーゾフの兄弟』を読んでるって言ってた人がいたんです。実際にその記者に本をみせていました。でも、記者さんは、自分はまだ読んでいないから、と尻込みしちゃって、話はそれで終わっちゃったんです」
「それだけの話?」キン子は興味なさそうにいささか気抜けした顔で言った。
「すごいじゃないですか。仕事もやめ、家庭も捨て、社会とのつながりも、一切合財無くした人が、ドストエフスキイの本だけは持っているなんて。それも人間関係がいっぱい詰まった『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたなんて、すごいですよ」
「たまたま、拾ったんじゃないの、それとも捨ててあったか」キン子は笑って言った。
「捨てませんよ。ドストエフスキイの本は」とたん信吉は乱暴に叫んだ。
「えっ!」キン子は驚いた。が、すぐにからかうように言った。
「捨てたらだめよね。ドジョウの会のみなさんにとっては聖書のように神聖な本ですもの」
「ぼくはドストエフスキイは捨てません。聖書は捨てても。ノーベル賞をもらった科学者の偉い先生だって、自分の本棚に最後まで残った本はドストエフスキイだった、と日記にかいています。捨てるなんて信じられません」
「はい、はい」ドジョウの会の会員にドストエフスキイを茶化すのは禁句のようだ。キン子はあきれながらも、慰めるように聞いた。
「それで、その本を持ってた人が、いまここにいたとしたら、見分けられるの?」
「いえ、画面が暗くて、顔はよくみえませんでしたから」
「なんだ、それじゃあ、わかりっこないじゃないの」キン子は大げさに叫ぶ。
「でも、なんだかわかる気がするんです」
「はい、はい、そうですか」ドストエフスキイ談議するのがばからしくなった。それで、一転、からかい気味に言った。
「で、どうするの?もしその人がいたら」
「話してみようと――」
「あきれた! 」キン子は本当にあきれた。
 ドジョウの会の人たちって、ドストエフスキイを読んでいれば、持っていれば誰もかれもがみんなお友達と思っちゃうんだから。顔も名前も知らないのに、相手がホームレスだってなんだってかまやしないんだから。やっぱり信者ね。ぜったいにそう思う。ドストエフスキイ教の狂信者。ここまで考えてふとわが身を思う。そういうわたしも、ほとんど知らない若者と、テニスサークルの男の子とだって一度も二人きりでデートしたこともないのに、ドストエフスキイだって一冊どころか一ページも読んだことがないのに、それなのに地方からポッと出の会員と、こうして集金をやっている。これって何? 考えたらぞくぞくしてきた。
「ああ、イヤだわ。いやね」キン子は思わず体を震わせた。
「何がです? 何がいやなんですか」
「そういう考え」
「そういう――? 」信吉は困惑顔にたずねる。
「ドストさまさまの、そういう考えよ。すぐお仲間だと思っちゃう」キン子は言ってから苦笑した。それから、弁護するようにつけ加えた。
「だって、いまどきドストエフスキイなんて読んでる人めずらしいでしょ。なんていったかしら。パンダのようなめずらしい動物みたいに」
「絶滅危惧種ですか」
「ああ、それそれ」とキン子は大笑い。
「ドストエフスキイなんか読んでる人、どうみたって絶滅危惧種よね。ドジョウの会の人たちがいなくなったら、終わりになる運命だわ」
「ずいぶんですね」信吉はいささかムッとして言った。
「でも、話しかけたいんでしょ。もしその人がいたら。お仲間かもしれないから」
「ぼくはただどんな人か知りたいだけです」
「いいわよ。遠慮しなくたって」
「ドストエフスキイは愛読者にとって心の故郷のようなものですから、読んでる人は同郷人なんです。声かけてもおかしくありません、困ってれば相談にものってあげたい」
「やっぱりじゃない」キン子は勝ち誇って言った後、急にまじめ顔になって訝しげに言った。
「そこんとこ、いくら考えてもわかんないの。同じ小説を読んだら同郷人だなんて。世の中、同じ小説読んでる人なんかいっぱいいるわ。ベストセラー読んでる人はどうなの、みんなお仲間なんじゃない。ドジョウの会のひとたちもそうだけど、何かむずかしいわけのわからないこと言って、それって宗教ぽくて気味が悪いわ」
「読んだらわかりますよ」信吉は語気を強めた。
「すぐそれね。読めばわかる。ずるいわ」
 信吉は会話を中断して、駅の切符販売機にむかった。ふたりは改札を抜け出ると階段をあがって山の手電車のホームにでた。
「でも、あの人たちって、何考えてるのかしら。もちろん、ドストエフスキイを読んでる人のことよ」電車のドアが閉まると、キン子は話をホームレスに戻した。
「ちょっとは聞いてみたい気もするわ。ドストエフスキイは役に立ってますかって。それにしても、よく平気でいられるわ。お風呂も入らないんでしょ。あんな生活から早く抜け出したいんでしょうね」
「そうですね・・・」
「じゃあ、本人はやめたいと思ってるのね」
「だれだって同じですよ。人間なら。大野さんだってイヤでしょ。あんな生活」
「当然だわ」キン子は一緒にされてたまるものですかと、憤然言った。
「わたしなら一秒だってあんなところにじっとしていられないわ」
「人間は一度はまった境遇から抜け出すことはむずかしいんです。よほどのエネルギーがないと」
キン子は信吉の抽象的な言葉に首をすくめると皮肉っぽく返した。
「よくわかってるみたいね」
「そうじゃないですか・・・」
「わかんないわ。どうしてそんなふうに他人のことがわかるんですか。経験があるみたいに」
「経験なんて、そんなものなくたってわかります。人間、中味はみんな同じです」
「ウソよ! そんなこと信じないわ。わたしとあの人たちが同じだなんて」
「人間はどんなことにも慣れる、とドストエフスキイは言ってます」
「また、十八番のドストエフスキイ。聞きあきたわ」
「そうですか、やめましょう」
 信吉はあきらめ顔で笑った。人間について論争したことを悔いた。自分は、ただ段ボール生活をしながら『カラマーゾフの兄弟』を読む人について、キン子がどう感じるかに興味があっただけだ。信吉はだまっていることにした。
「それにしても、あの人たちの存在は政治家の責任ね」キン子は信吉が急にだまりこんだので、気になって話題を変えた。
「わたし、あの人たちを見るたびに思うんだけれど、どうして住むところがないのかしらと疑問に思うの。そういう施設をもっとつくったらいいのに。ベトナムからの難民はそういう所に入ってるんでしょ」
「いいこと、いいますね。大野さん」信吉は急にうれしそうな顔をして言った。
「そうですよ。あの人たちにだって、住むところが真っ先に提供されるべきです。その権利はあります。ホームレスになった人の中には一生懸命働いてきた人だっています。不景気になって仕事がなくなったからといって、知らんぷりは企業も政府も卑怯ですよ。場所と資材を与えて彼らに作らせてもいいんです。あの人たちのなかにはビルや家をつくってきたひとだっています」
 ちょっと言ってみただけなのに。キン子は信吉の社会正義の口ぶりに逡巡した。これもドストエフスキイの影響なのかしら。父親の大野金蔵の会社のことを思うと、自分が非難されているようで嫌な気がした。
 折よく電車はホームにすべりこんだ。ふたりは出口に向かった。最初の集金の相手、米村正二郎氏がその人だ。


七、最初の集金

 街の赤電話で在宅を確かめた米村正二郎の家はすぐにわかった。目白駅近くの豪華マンション。地上げで空き家になっていた先ほどの大久保の会員の住まいとは雲泥の差。
「同じ会員なのに、ずいぶん違うのね」キン子は見上げて思わず笑う。
「そうですけど…」夢井信吉は頷きながらも不安そうにつぶやく。
「大丈夫かなあ。入るの」
 玄関はキン子の高級マンションより立派で威厳がある。ホテルのロビーのような雰囲気で、出入りは厳重な感じ。早くも管理人が訝しげにふたりを見ている。信吉はすっかり気おくれしたが、キン子はまったく意に介さない。
「こんなところに住んでるのに、滞納だなんて」あきれたように言ってガラスの回転ドアを押して中に入って行った。信吉はあわてて、後につづいた。
 初老の管理人が管理人室から飛び出してきた。
「どちらさまに、御用で」訊問するように聞いた。
「すみません。702の米村さん、在宅ですか?」キン子は委細構わず、大声で聞いた。
「いらっしゃいますが・・・、まだこの時間は・・・」と訝しげだ。
「ああ、よかった」キン子はほっとして胸をたたくとエレベーターにつづく中扉に向かおうとした。
「あ、ちょつと、勝手に入られては困ります」管理人はあわてて立ちふさがった。
「電話で、つたえてありますけど」
「規則ですから」管理人はメガネの奥から睨む。
 完全に、このふたりは怪しいといった顔だ。ブランド品を身につけているキン子はともかく、信吉の風体に警戒心をみせている。愛想のない青白い顔、いつ床屋にいったのかもわからないもじゃもじゃ頭。よれよれのジーンズに古びた黒のコート。まさにボロで身をつつんでセンナヤ広場をうろつくロジオン・ロマーヌイチといったいで立ちなのだ。
 父親譲りの価値観と無頓着な性格のキン子だからこそ、一緒に同行できるが、ふつうの女の子だったら、とても並んで歩けない服装。おしゃれな女子大生と、ホームレス同然の冴えない青年のちぐはぐコンビ。どうみても702号室のお客とは思えない。親戚すじでもなさそうだ。年齢からいって友人、知人とも思えない。見る限り珍奇なアベック。管理人はなんとしても、マンション入りを阻止する構えだ。
「面倒ね」キン子は小声でいって舌をだす。
 この集金、当事者と会わない限り、第三者にいくら説明してもわかってもらえない。それがだんだんわかってきた。目ざとく郵便ポストにあった部屋に繋がるインターホンを見つけた。直接、話すしかない。急いで駆け寄ろうとした。管理人はそうはさせまいと、先回りして自分からインターホンを押す。
「ハイ」返事があった。年配の女性のようだ。
「スミマセン、管理室のタナカですが。今、お客様がお見えになっているんですけど」
「お客?」
「若い方、おふたりですが――」
「若い人?」
「電話でお知らせしてあるとか」
「電話?、知らないわ」
「と、いってます」管理人は勝ち誇ったようにふたりをにらむと語気を強めて言った。
「うそついては困りますね」
「どなたかお聞きして」インターホンはまだ繋がっていた。
「わかりました」管理人はインターホンにお辞儀すると振り返ってきいた。
「あんたたち、だれ?」
「ドジョウの会のものですが!」信吉は大声で告げた。
「ドジョウの会ですって!?」声の主はびっくり声で叫んでから言った。
「そういえば。さっき若い女の子がそんなようなことを言って電話してきたけど、それ?」
「そうです。わたしです!」キン子は答えた。
「ドジョウってなんですか?商品の売り込みならお断りですよ」
「正二郎さんはいらっしゃいますでしょうか」
「し、しょうじろうさんって、主人ですか」
「そうです。正二郎さんに用事があってうかがったんです」
「なんですの、主人はこれから出勤するところで手が離せません。わたくしがおききします。何でしょう?」
「会費の集金なんです」
「会費の集金ですと!」管理人のおっちゃんはいきなり悲鳴をあげて騒ぎだす。
「きみたち、困るじゃないか。そういう用件はだねえ、ちゃんと了解を得てないと犯罪だよ。やっぱりへんだとは思ったんだが、集金って、いったい何の――」
 万事休すか。ふたりは困り顔で佇むほかなかった。ああ、集金ってむずかしい。さすがのキン子も打つ手なし。
「わかった!あんたたち宗教だろ、例の、そうだろう!きっとそうだ」管理人は速射砲のように、がなりたてはじめた。霊感商法の珍味かつぼ売り、そのように思ったようだ。
「もしもし、もし、もーし」インターホンから、さかんに声がきこえる。今度は男性のようだ。
「まったく、油断も隙も」管理人は今にも実力行使で追い出さんばかりの怒り顔だ。が、インターホンに向かっては猫なで声で言った。
「失礼しました。こちらでなんとかしますから。お断りしておきますから」
「いや、違うんだ。わたしの客だ。通してくれ」
「客?ドジョウの・・・」
「そうドジョウの会だ。通してくれ」
「え!?そうですか」管理人は不思議そうにふたりをみて渋々頷く。
「いや、なに、家内は知らなかったから」
「ああ、そうでしたか。わかりました」管理人は一転、愛想良くなって、にこやか顔で言った。
「よかったですね。お会いしてくれるそうです。こんなことめったにないことですが」
 管理人はもったいをつけて、さも自分が口をきいてやったおかげといった顔で、揉み手をしながらエレベーターの前まで案内した。ふたりは振り切るように乗った。
「失礼しちゃうわよね、まったく」キン子は七階のボタンを押すと、怒り声で言った。
「会員本人さんに会うのに、こんなに大変だなんて」
「そうですね」さすがに信吉も頷く。
「わたし賭けてもいいわ。払ってくれないわ」
「でも、訪問を許可してくれたところをみると、気持ちは・・・」
「体裁よ。借金とりだかなんだか知らない人が、朝っぱら玄関前で、いつまでも管理人とやりあっていたんじゃ格好わるいでしょ。うちのマンションでも同じことあるんでわかるわ」
「そうですか――」信吉は不可解げにつぶやいた。これまでの展開から、先は読みとれない、といった顔だ。
 エレベータが止まりドアが開くとふたりは緊張した足どりで降りた。最初、一人目の集金はアパート取りの壊しの最中で、所在不明で空振りに終わったが、今度は確実に会員はいるのだ。インターホンの応対から期待は薄かったが、ふたりははやる気持ちを抑えて「米村」表札のドアの前に立った。
「ここよ」キン子はちょつぴり緊張した表情でちらっと信吉をみて軽く頷いてからブザーを押した。
 いきなりドアが開いた。待っていたようだ。金縁の三角メガネをかけた中年の女性がイラついた様子で立っていた。米村正二郎の細君らしい。これから出掛けるところだったのか黄色いパンタロン姿の派手な服装。ふたりをきっと睨みつけるとごちゃごちゃ言い出した。
「あなたたち、こまるじゃないですか。主人に用事があるならはっきりおっしゃってください。下で面倒などおこさずに。まるでうちが集金とり追われている、そんなふうに思われてしまうじゃないの」
「はっきりいいました」キン子も負けてはいない。
「あれは管理人さんが、勝手に気をきかせたんです」
「ああ、そうですか」細君は小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべて頷いた。が、訪問の目的をまだ知っていないらしく、ふたりを怪しげにじろじろ眺めまわしたあとやっと聞いた。
「それで、主人に何の用事ですの」

八、案ずるより産むがやすし 

「オイオイ、さっき話したじゃないか」不意に奥の方で声がして背広姿の初老の男性があらわれた。いかにも元官僚らしい風貌の御仁だ。ふたりを見ると笑って挨拶して詫びた。
「米村です。出勤前で書類さがしてたんで、失敬しました」
 妙に親しげだ。いきなりのフレンドリーさにふたりはとまどった。米村はふたりをみて笑顔で聞いた。
「ドジョウの会からきたんでしょ」
「はい、そうです。ドジョウの会です!」ふたりは大声で答えた。
「ちょっと、あなた、こんな若い人とお付き合いがあるんですか」夫人は上目づかいにキン子を見て言った。
「それに、なんなんですか? ドジョウって」
「付き合ってるって?!」米村は苦笑いして言った。
「会員だって話したろ」
「こんな若い人が会員だなんて、それもドジョウなんて妙な名前の」
「世の中にはいろんな名称があるんだ」米村は夫人との会話を一方的に打ちきると、キン子を見て親しげに聞いた。
「会の方、ずいぶん若い人、入ったんですね。ぼくはもう何年も出席していないから」
「あなた!」突然、夫人はヒステリックに叫んだ。無視されたのに腹をたてたようだ。
「そんな会に入っていたなんて、聞いておりません」
「隔月にお知らせが、届いてただろ」
「知りませんよ。通知なんかいちいち調べてなんかいませんから」
 なにやら雲行きが怪しくなった。米村氏は、ドジョウの会のことを夫人にまったく説明していなかったらしい。夫人は自分が知らなかったのがくやしいようだ。
「いったい、なんですの、ドジョウの会、って」
「ドストエフスキイの作品を読む会だよ」
「ド、ドストなんとかですって! 小説家でしょ。それがどうしてドジョウなのよ」
「説明したって、どうせ君は聞いてはくれんだろう」
「どうせわからないですって!」夫人は目をつりあげて言った。
「わたしだって四大の文学部をでてるんですからね、ドストエフスキイぐらいは知ってますよ」
 突如はじまった夫婦のもめごと。原因はキン子と信吉の集金訪問が発端だ。ふたりはあっけにとられてながめていたが、さすがにキン子は自分たちのせいでと思ってか、なんとかしてよ、とばかりに信吉の背中を押した。信吉は頷いて半歩前にでると恐る恐る分けてはいった。
「あのう、すみませんが」
「あ、申し訳ない」米村氏は我に返ると照れ笑いを浮かべて聞いた。
「ドジョウの会のことででしたね」
「はい、会費の集金なんですが」キン子は素早く言った。
「ああ、そうだ、そんなようなこと言ってたね。そういえば。ずっと払ってなかったね。なにしろ仕事が忙しくて・・・で、いくらたまってます」
 米村氏は背広の内ポケットから黒皮の財布を取り出した。それを見て仰天したのは米村夫人だ。
「あなた! 出席もしてないのに払うんですか! 」と、金縁メガネの奥の目を吊り上げた。
「三年分たまってますから、年間六千円会費ですから一万八千円です」キン子は間髪をいれずに遮った。
「創刊号の代金も込みですから」
「えっ! 創刊号、でたんですか?!」米村氏は眉をひそめた。
「あれ。しらないんですか?」キン子は目を丸くして大げさに驚く。出版が大問題となって会存続の危機をむかえているというのに、それで自分たちが集金に回ることになったというのに、この会員はまったく知らなさそうだ。少し腹が立った。
「会員のみなさんには全員に送りました。わたしもお手伝いしたんですから」
「そうですか。へんだな」米村氏は怪訝そうにつぶやいて夫人を見た。
「キミ、知らないかね」
「知りませんわよ。そんなもの」夫人は俄かにしどろもどろになった。
「あなた、どうせ読みゃしないじゃあないですか。ダイレクトメールだかなんだか、いつも山になって積まれているじゃあございませんか」
「ということは、捨てたということだな」
「すてませんよ」夫人はとぼけたが、あきらかに心当たりはあるようだ。
「そうかい」米村は憮然と頷いて、キン子に言った。
「と、いうことだから、悪いけど、もう一冊送ってください。注文します」
「じゃあ、一冊分の本の代金もいただきます」
米村氏は財布から一万円だすと、おつりはいいからと小手を振った。
「ありがとうございます」キン子は電光石火すばやく受け取る。
「な、なんですの! わたくしにわかるように説明してください」
「だから、ドジョウの会という文学の会に入っているんだよ」
「ドジョウだなんて」
「みなさんお元気ですか」米村は無視して、キン子にきいた。
「あなた、はぐらかさないでください」
 またしても合戦がはじまりそうな雰囲気。ふたりは大急ぎで外にでた。エレベーターに向かって駆けだした。管理人に会釈して道路に出るとやっと人心地ついた。
「なあに、あの夫婦。旦那さんお偉いさんのようだけど、奥さんにやり込められていそう。なんだかドジョウの会の人たちって、みんな似てる」
「よかったじゃないですか。あっさり払ってくれて。しかも余分に。幸先いいですよ」
「ホント、意外とあっさりで、拍子抜けした感じもあるわ」ふたりは最初の管理人とのやり取りを思いだしておもいっきり笑った。
 昨夜の役員たちの会話から、ケチな人たちばかりと想像していたが、そうでもなさそうだ。キン子はほっとした。集金一号、一万八千円也、創刊号一冊二千円売上、八千円カンパ。信吉はしっかりノートに記す。とにもかくにも、幸先良好、ふたりはにわかに元気百倍。次なる会員の住所めざして足取り軽く歩きだした。
 二人目の会員は雑司ヶ谷墓地近くに住む日野沢英明という人。名前から若者を想像していたが、ゆうに七十は越えていそうな白髪の老人だった。商店街の一角に日用雑貨の店を出していた。店は古い木造二階家の一階にあって、五坪ばかりの店内にトイレットペーパー、ティシュの箱、洗剤などが天井近くまで積み上げてあった。老人は店の奥にある三畳間で炬燵に入って新聞を読んでいた。信吉が要件を述べると、鷲鼻の頭にかけた丸眼鏡の奥から珍しげふたりを眺めまわしてから言った。
「へえー、それで集金をねえ」他人事のようにつぶやいた。
「バアさんが、あっちにいっちまってから会の方はご無沙汰してますよ。ふたりして入会していたんだが。店を留守にするわけにはいかんですからな。ごらんの通りケチな店なんだが中国人がくるんで」
「中国人ですか?」信吉は物珍しげに聞いた。
「ほう、知らんですか、このあたりのアパートはみんな中国人が住んでおります。ほとんど福建省出身者ですな」
 白髪の老人、日野沢英明さんは得意げに話をつづける。
「わしも戦争前、行っとって世話になったですから、回り回って、恩返しですわ。人生おもしろいもんだ」
 いつ果てるともない日野沢老人のおしゃべりにキン子はイライラしてきた。のんびり相手をしている信吉の背中を押した。信吉は頷くと話を切った
「あのう、すみません」
「なんだい」横やりを入れられて、日野沢老人はジロリと睨む。
「会費、お願いしたいんです」キン子はすかさず言った。
「会費 ? 」
「二年分、滞納になっているんです」
「昔は二人分払っていたが、定年になってから一本化したんだ。会の方にはわしの名を残し、払いの方はバアさんがやってたんだが、急におっちんじまったから、それでたまったんだな」
 支払ってくれる脈はありそうだが、老人はなおも話しつづける。
「わしは借金はきらいだから、とりにくれば払うことにしている。自分から払いに行くなんぞ愚の骨頂だ」
 日野沢老人はこんな調子でだらだら自分の持論をのべたあと、やっと滞納金を払ってくれた。が、条件を出した。こんど出す号に自分の書いたものを載せろというのだ。
「きみら、これがどんな意味であるか知ってるだろ。〈わたしの胃の中で複雑化している固い要素の軟化に役立つところの湿潤作用の本質的根源を持って来い〉この文章の意味だ。知ってるかね」
「なんですか。知りません」キン子はうんざりして答えた。
「なに、知らん? 不勉強だな。いまどきの若い会員は」
「わたし、会員じゃあ、ありません。キン子は言いかけてやめた。また、はなしが長くなったらたまらない。滞納金をもらったらさっさと退散するに限る。
「もっと、しっかり読まなくちゃあいかん。読書会はやっとらんのかい」日野沢老人はまるで旅人に謎をかけるスフィンクスのように、ひきとめようとする。
「水のことですよ」信吉は苦笑してキン子に教える。
「水って 何のこと? 」キン子は素っ頓狂な声をあげる。
「その謎かけ、“水を持って来い” を、学問的に言うとそうなるんだって、ドストエフスキイの論文にでてくるんです」信吉は二コリともせずに言った
「バカバカしい。ドジョウの会の人たち、やっぱりなにかへん」キン子はあきれて言った。
「そんなこと、謎かけにもクイズにも、なんにもなりゃしないわ。ただの遠回しだわ」
「その通りじゃ」日野沢老人、なぜか急に元気になって講釈をはじめた。
「どの論文も創作も、この轍をふんどる。まったくもってむずかしければよいというものではないのだ」
 声高に、ひたすら創刊号批判をやってから、最後に、自分が書いたという手書きの原稿を、文机の引き出しからだしてきた。
「先が短いとこんな空想も浮かぶんだ。これはぎりぎりの想像、空想だからね。至って簡単、単純な寓話だ。役員諸君によろしくいってくれたまえ」そう言って、強引に信吉に手渡した。
 次号どころか会解散の話もあるのに。キン子は妻を亡くした偏屈一徹な老会員に内心、同情はしたが、もうこれ以上、わけのわからない話に付き合うのはご免、集金さえ済めば。後は野となれ山となれである。二年分の会費を受けとると、礼を言って信吉の腕を引っ張って外にとびだした。
「急に、出てきたりしちゃあ悪いよ。話の途中に」
「あんな話、いつまでも聞いてたら日がくれちゃうわ」
「そうだけど、一人でさびしいんだよ」
「さびしかったら、会に出席すればいいんじゃない。ドジョウの会、まだあるんだから。お店、自分でやってるんだから、いくらでも都合つくわ。中国人がどうのとかわけのわからないこといって。人の面倒見てる身分ですかっての」キン子は意地悪っぽく言って、信吉が預かった原稿をちらりとみてクスっと笑う。
「次号なんか、どうせでないんだから、オクラ入りね。これ、あのオジイちゃん可哀そう」
「そんなことないです。ぼくらの集金しだいです」
「あら、そう、たいし自信ね」
 キン子は皮肉っぽく言った。しかし、気持ちは軽かった。案ずるより産むがやすし。もっと困難かと思われた滞納者めぐりだが、案外簡単に支払ってくれる。まだ二人回っただけたが、拒んではいない。それになんとなく会員像がみえてきた、そんな気さえするのだ。金銭よりゴタクを得意とする、要するに一言居士、そんな人たちが多いようにみえる。皆これまで、どうしてドジョウの会の方に出席しなかったのか不思議である。
 キン子は思う。世の中、まだまだ自分のわからないことだらけだ。この人のことだってまだ何も知らない。キン子は黙然と肩をならべる夢井信吉をちらっとみて、わけもなくおかしくなった。

九、珍妙なる作品

 私鉄沿線に三名の会員の住所がつづく。少し遠いが、ふたりはデパートの一階にある駅から郊外に向かう電車に乗った。昼過ぎの車内は空いていた。早春の日差しが眠気を誘う。
「このままハイキングに行こうかしら、」キン子は恨めしそうに外をみる。
「こんなにいい天気なのに、集金だなんて」
 しかし、信吉には馬耳東風。腕を組んで目をつぶる。 
 キン子は手持ち無沙汰になって、信吉から日野沢会員の原稿が入った大判封筒を受け取った。万年筆で書いた文字が几帳面にならんでいる。ドジョウの会の創刊号『ドジョウ時代』に載せようとしたもの。難解なものに違いないと眉をしかめた。
 先ほどの老人の謎かけを思いだした。
「わたしの胃の中で複雑化している、とかなんとか・・・。水のことだって、バカバカしい。自分だって難解な文が好きなくせに」
 妻を亡くした孤独老人日野沢会員の作品。題は「穴の向こう側」。珍妙な題ではあるが、いったい、何が描かれているのやら――。
 どうせ難解な言葉ばかりならべた話だろう。ギリギリの空想といったが、小説という老人の言葉を思いだし退屈しのぎに、ぱらぱらと飛び読みすることにした。20枚ぐらいだが、ちょっとでもむずかしそうだったら、すぐにやめよう。キン子は、そんな半端な興味と恐いもの見たさから読み始めた。

穴の向こう側

日野沢英明


 
人間、老いてくると無性に穴を意識するものだ。障子の破れた穴、鍵穴、天井の節穴、道路の陥没の穴、臨死体験の穴、そして、宇宙のブラックホールなどなど。穴は日常生活の至る所にある。若いころは、そんなものを見かけたとて、何の興味もわかなかった。が、古希過ぎてからトミに気になってしかたがない。なぜだろう・・・考えるにこの現象は女性の穴に関心がなくなってから起こりはじめた。(なあに、あの会員ヒヒ爺だわ) 自分の生物的能力が失せてから、しだいに穴への関心が強まってきたのだ。おそらく今のわたしにとって女性の穴は五十円玉の穴ぐらいの価値しかない。(なんなの、このジイさん) かわりにわたしは物質や空想モノの穴にたいして異常な神秘と興奮をおぼえる。これは一体何なのだ?! 
 よく臨死体験をした者がトンネルを見たという。あちらの世界とこちらの世界の境目にあるという穴。もしかして、わたしは無意識のうちに、そんなものを感じているのだろうか。女性の穴が、この実存宇宙を創りつづける未来製造物なら、生殖能力がゼロになってからわたしの意識にとりついた穴は別世界、別宇宙に至る陥穽口か。魂の通路口。いつのころからか、わたしは穴に対し、こんな思想というか観念をもつようになった。そうして、穴に対して、こんな見解を持った。命あるもの全て死ねば、穴を通るとすれば、生あるときに、その穴を通ることができないものだろうか。穴の向こう側を覗くことができないものだろうか。
「トンネルをぬけると雪国だった」という小説があったが、わたしが考えるトンネルの向こうにはいったい何があるのか。近似臨死体験ができないものだろうか。この思いが高じて穴とみれば、すぐに覗いてみたくなった。そんな衝動にかられた。おかげで、ずいぶんひどい目にもあった。道路工事の穴を覗こうとして転落した。客引きには金をふんだくられ、民家の壁穴を覗いてパトカーに乗せられた。などなど、こんな災難あげたらきりがない。穴などにかかわったらろくなことがない。わかっているのに、やめられぬ、もしかしてわたしは余命いくばくもないのかもしれない。それで、こんな悪あがきを。そう考えるとなおのこと焦燥するのである。ところが、信じれば山をも動かす、ではないが、先日、ついに願い叶って穴の向こう側を知ることができた。いや、知るというより行くことができた。別に死にかけたのではない。夢の中のことだが、わたしは死後の世界を垣間見たと信じている。夢ではあったが、現実のことと思っている。むろん、こんなこと誰も信じまいが、わたしにはどうでもいいことだ。 (なあに、これまでは前置きなの?、そろそろあきてきたわ)
 …ある晩、わたしは夢を見た。なぜだかわからないが、わたしは東北地方の山村にいた。その村には「神と不死の穴」とか「極楽への入り口」呼ばれる洞窟があった。何の穴かはわからないが、昔からあって、村人は祠をつくり祭ってきた。伝説では空から降りてきた神様が雨宿りした穴だそうだ。神様は寝心地がよかったのか、お礼にと病気や傷ついた生き物を助けた。そんなことで、その穴に入ったものはぜったいに死なない、そんな伝説が生まれた。真実はたんに狐か狸の棲みか。地形の変化で偶然にできた穴、そんなところだろう。もっとも、その穴が、「神と不死の穴」「極楽への入り口」と呼ばれるのはそれだけの謂れがあった。山の動物たちは死が迫ると、その穴を目指すというのである。これは猟師たちの話で、急所を撃ちそこねた瀕死の獣を追いつめると、決まって穴のあるこの方向に逃げる。穴に逃げ込まれたら神聖な場所でもあり、あきらめるほかないというのだ。山で動物の死骸をあまり見かけない理由もこんな言い伝えが起因しているかも。
 こんな話もある。昔、その穴神様を異常に信仰していた庄屋のジイ様が村人の婚礼の席で倒れた。婚儀は中断され、医者だ、薬だと大騒ぎになった。先んず、離れに担ぎこんで寝かしつけて一見落着と相成った。ところが翌朝、ふたたび大騒ぎになった。家のものが様子をみにいくと、寝ているはずのジイ様がいなくなっていたのである。村はまたもや大騒ぎになった。その最中、今度はそれどころではないことが起きたのだ。昨日婚礼を挙げた花嫁がにわかに産気づいたのである。妊娠を隠しての挙式だった。騒動と混乱のなかで花嫁は無事男の子を産み落とした。それからしばらくして山にキノコ狩りに入った村人が穴神様の近くで、ジイ様の着ていた羽織を拾った。しかし、村人は老い先短いジイ様のことはすっかり忘れて、妊娠を隠していた花嫁の話題にもちきりだった。羽織のことなど、どうでもよいことになっていた。ただ、奇妙な出来事として過去帳に記されたにすぎない。
 ここで思いだした。わたしが夢のなかで東北のある村に行ったのは、この穴神様がテレビのオカルト番組で「ここで昔こんなことがあったそうです」と、とり上げられたからである。連日、いろんな趣味の会やサークルの見物客が押し寄せた。かく言うわたしも、その見物客の一人、「洞窟研究会」の一人である。あくまでも夢のなかのことではあるが・・・。長蛇の列、やっと順番がきた。目の前にあるのは村役場が設置した巨大な賽銭箱。洞窟はその賽銭箱に隠れるようにして、人が入れるだけの穴がぽっかりあいている。村おこしに建てた貧弱な鳥居。それさえなければ。ムジナかタヌキのねぐらのような穴。たぶんそれが真相だろう。それがわかっているから役場の職員も見物客を近くに寄らせない。マイクで「たたりがありますから」などと呼びかける厳重警戒。それでも見物客は拝んで賽銭に、銭金を投げ入れて満足顔でかえっていく。
 伝説よりこちらの方が摩訶不思議といえる。――とはいえ夢のなかではあるが、わたしはなんとしても穴を覗きたかった。どうせ、タヌキか狐の糞がころがっているか、蜘蛛の巣だらけとわかっていたが、悲しき性で、ひと目、覗き見しないで帰ることはできなかった。見張りの職員と見物客の衆目のなかどうやって覗こうかと案じたが、生むがやすし、――夕方になると見物客は潮が引くように去ってゆき、役場の観光課も料理屋で宴会。穴神様周辺は昼間の喧騒がウソのように静まり返った。墨を流したような暗がりにわたしの行動を阻むものは誰もいなかった。見知らぬ土地での闇夜。普通ならとても歩けたものではないが、そこは穴神様見たさ一念。わたしは月明かりを頼りに夢中で鳥居をくぐり(賽銭箱が箱ごと運び去られていたのはさすがである。こんな山村でも用心はよい)穴神様の前に立った。はやる気持ちを抑え用意してきた懐中電灯のスイッチを入れた。変哲もないただの穴である。案の定、蜘蛛の巣があり、地面は小さな黒い虫が大急ぎで逃げて行った。わたしは腹這いになったまま、しばらくのぞきこんでいた。無用にときが流れた。そろそろひきあげようとおもったが、穴の深さが気になった。
「奥行きはどうなっているんだろう…」わたしは頭を入れた。わりとすんなり入った。かび臭いにおいが鼻をついた。奥はありそうなので、匍匐前進で、進んでみた。落ち葉が、滑りやすくしていて、難なく体一つ入ってしまった。外とはちがった静寂に心落ち着くものがあった。どこか山奥の深い湖底にいる。そんな感じがした。懐中電灯の光の先はまだ暗い闇だった。「案外、深そうだな」わたしはひとりごちて、匍匐前進をつづけた。穴はしだいにせまくなっていったが、体は楽々入れた。わたしは嬉しくなった。この穴には何かある。なぜかはしらないが「神と不死」そんな言葉が浮かんだ。もはやいきつくところまで行くしかない。奥を見ずして戻れなかった。
 わたしは夢中で、訓練された兵士のように匍匐前進をつづけていった。穴は動物の棲みかでも人がつくったものもない。あまりにも自然で心地よかった。まるでわたしの体を包み込むためにつくられたような広さと温かな温度を保って無限につづいているのである。いつのまにわたしは身につけているものを一枚また一枚と失っていた。いまは全裸となっていた。真っ暗な闇。生れたままの姿。だが、わたしは恐ろしくはなかった。反対になつかしさだけが体全体にあふれていた。いったいわたしはどこに向かっているのか。ちらと浮かんだそんな疑問もまたたくまに消えた。記憶が、一つ一つ、まるでコンピューターの回路を切るように消えていくのがわかった。八十年の生涯のなかですっかり老いて汚れきったわたしの何億という脳細胞。その一つ一つにとりついた思い出が惜しげもなく消えていく。なんという心地よさだ。くすぐったさだ。いつしかわたしは無となった。
 長い長い時間が過ぎた。いや、それは時間というものではないかも知れない。過去も未来もない、生も死もない世界。そこに浮遊する形而上物。三百五十億年の時を超えて、そのモノは確かな目的をもって前進をつづけてきた。そして、突如、光に晒された。穴の出口だ。旅の終わり。一瞬、はるか遠くでそんな意識がよぎった。つぎの瞬間、わたしの耳に聞こえたのは「オギャア―」と泣くわたし自身の鳴き声だった。
 ここでわたしは目が覚めた。娘が覗きこんでいた。
「ジィちゃん、生きてるの、死んでるかとおもった」めっきり白髪がふえた娘は叱るように言った。「やっぱり一人暮らしはダメね」

 
 ここまで読んでキン子は悲鳴をあげた。
「な、なんなの、これがオチ!? ああ、バカバカしい」キン子は原稿をバッグにしまった。
「あのジイちゃん、こんなこと考えてるわけ、あー、つかれた」おもいっきり両腕を伸ばして背をそらす。窓外をみると次が最寄駅。
「起きて、次の駅よ」キン子は信吉の肩をゆする。
「はい、クスリください」唐突に信吉は叫んで飛び起きた。が、一瞬、ここがどこかわからないのかキョトンとした顔で周りをながめた。
「イヤねえ、寝ぼけちゃって」キン子は大げさに顔をしかめて言った。それから不思議そうに聞いた。
「クスリってなあに?」
「クスリ ? 」
「そう、いま、いったじゃない」
「わかんないな」
「夢、みてたんですか、クスリでものむ」キン子は頓着なく聞いた。
 その問いに信吉はほっとしたように言った。
「ああ、そうです。夢、みてたんです。夢を―」
「夢ならいいけど、まさかクスリやってないわよね」キン子は怪しむ顔で訊問するように聞いた。
「クスリって薬物のことですか。やってませんよ。そんなもの」
「それならいいけど」キン子は不審そうにつぶやきながらも、それ以上、質問することなく、話を変えた。
「夢っていえば、偶然ね、いままで、あのおジイさんの原稿、読んでたのよ。それが、へんな夢の話。あのおジイさん、ヒヒジイさんよ相当に」キン子は笑いながら言った。
「そのヘンな夢の話を、おかたいドジョウの会の雑誌に載せてくれるよう頼むんだから。さすが自分からはいいずらいのね」
「そうですか・・・」信吉は話に乗らず立ちあがった。
 何かへん、腑に落ちない。キン子は釈然としないものを感じた。これがドジョウの会に感じる不可解さかと思った。電車が止まり、ふたりは降りた。春の陽光がいくぶん弱まって肌寒い。さあ、今度はどんな会員かしら。キン子はちょつぴり楽しい気持ちになっていた。

十、普通で風変わりの人たち

 それにしてもと、キン子は思う。これまで会った会員は少々変わった人たちではあったが、皆、あっさり滞納金を支払った。ケチっぽい昨夜の役員たちをみていたので、もう少しゴネられる、と覚悟していた。ところが、この容易さ。にわかに信じ難かった。ドジョウの会といっただけで不審がりもせず、即、納得して払ってくれる。まるで、教祖様にお布施するように。信吉の妙な自信は本当かもしれない。ドストエフスキイには神通力がある。神秘めいたことは考えたくないが、そう思えてきた。こんどの会員はどんな人だろう。そんな楽しみもわいてきた。
「次にいく人はだれですか」
「前沢京子という人です」信吉は名簿を見て言った。
「女の人?! 」キン子は女性の会員と知ってうれしくなった。
 キン子、勇んで電話ボックスにとびこんだ。在宅である。
「歳わかんないけど、声はすてき」
 さっそく訪ねてみることにする。住まいは駅前のマンション。すぐにわかった。インターホンを押すと、先ほどの元気のよい声が返ってきた。
「あいてるわ、入っていいわよ。どうぞ」
 ふたりは挨拶して室内に入った。キン子のマンションより手狭だが、事務所っぽい雰囲気で、紙とインクのにおいがした。
 前沢京子はワンルームマンションの自室でせっせとワープロのキーボードをたたいていた。肩までの黒髪、白髪がなければ、40歳代にみえた。大きなぬいぐるみのような白いシャム猫が二匹、部屋のなかをのしのし歩きまわっていた。
「ちらかってるけど、座って」彼女は姉ご然とした口調で言ってから聞いた。
「コーヒー飲むでしょ」
「はい、ごちそうになります」キンは間髪をいれずに言った。
「そう、若い人、はいったのね」前沢京子は初対面とは思えぬ気やすさだ。
 ふたりは小さなソファーに腰をおろした。テーブルには滞納金を入れたらしい封筒があった。
「わざわざ集金に来てもらってごめんなさいね。会のみなさん、おかわりないですか? 」
「はい、いえ、わかりません」キン子は頷きかけて首を横にふって言った。
「会のひとたちって、よく知らないんです」
「あなた学生 ? 」
「はい、渋川先生のゼミにはいっています」とキン子は言った。
「ほんとはわたし会員じゃないんです」
「手伝わされたんでしょ、研究室で。わたしもそうだったわ。でも結局は会員になっちゃったけど」先刻承知といった顔で京子は微笑む。
「えっ!先輩なんですか!」キン子はびっくり顔で叫んだ。そのあと、大きく首をふって言った。
「ちがうんです。わたしすすめられているけど、絶対に会員にはなりません。だいいちドストエフスキイだってぜんぜん興味ないんです。この集金手伝ったのはちょっと面白そうに思えたのと、――それと、渋川先生にレポート免除してもらえるから。単位も約束してもらったし、一番はやっぱり単位です」
「あら、ちゃっかりしてるのね」京子はコーヒーを入れながら微笑むと冗談ぽく言った。
「会員になって手伝ってあげたら? 渋川先生、喜ぶんじゃないの。会も助かるし、そうしなさいよ。若い女の子が入れば、皆さん大張りきりよ」
「せっかくですが、まったくその気はありません」キン子はきっぱり言った。
「それに、入るも何も、この会、きっとつぶれるわ。わるいけど、そう思うの」
「そんなに悪いの、会計状態。わたしも、滞納しちゃって、偉そうなこといえないけど・・・」
 京子はふたりにコーヒーをだすと、自分のマグカップを手にしてため息をついた。
 キン子は頷いて言った。
「役員の皆さんの話きいただけなんですが、創刊号だしたのが、原因だってもめてました」
「印刷会社の石部社長さんでしょ。いつも独りで大声だしてたけど、今でもそうなんだ」
「編集長の若い人が半泣きで謝ってました、編集のせいだって」
「ああ、小堀さん、彼ね。わたしと入れちがいで入ってきた真面目な人。わたしも編集手伝ったことあるけど、大変よ、ドストエフスキイの研究論文ってむずかしいから。あの内容で一般的な収益をあげようなんて無謀よ」
「えっ、やっぱり。と、いうと、集金はどうなるんですか。この集金」
「どうにもなりはしないわ。焼け石に水でしょうけど」
「わたしたち無駄なことをやってるんですか!」
「無駄ってことはないけど」京子は返答に詰まってつぶやいた。
「でも、いくらなんでも、あなたたちに集金を頼むなんて・・・」
「この集金、ぼくがいいだしたんです。ぼくは地方にいてなにもできないんで、ちょっとでもドストエフスキイ先生のお役に立ちたかったんです」
「たいへんな信者様だこと」京子はクスッと笑う。
「夢井さん、ものすごく真面目な方なんです。わたし、はじめてです、こんな人みるの。頼まれたんでもないのに、いきなり集金やるなんていいだして」
「ドジョウの会、いろんな人がくるから」京子は可笑しそうにひとりごちてから、ちらっと深刻そうな表情をうかべて聞いた。
「集金の他に、再建のアイデアはなかったの。何か・・・臨時総会だったんでしょ」
「無理です。役員しか出席してなかったから」
「五人だけ」
「はい、そうです」
「そう」京子は大げさにため息ついたあと、なつかしそうに話しはじめた。
「わたしがいたころは盛況だったわ、十年、二十年前になるかしら。著名人がいっぱいいたわよ。現在も活躍している人たちよ。作家、批評家、音楽家、画家さんもいたわ。映画監督や劇団のひとたちもいたわ。名前を聞けば、みんな知ってる人たちよ。多士済々っていうのかしら、ほんとうにいろんな人が集まってたの。みんなドストエフスキイで育ったといってたわ。二カ月に一度、公会堂とか大きなホールとかを借りて講演会や研究発表会なんかもやってた。会のあとは新宿のゴールデン街なんかに繰り出して朝までに飲み明かしたこともあったわ」
「そんなに盛大だったんですか。うそみたい。いまは有名人どころか、えらい研究者だって、いないみたい」
「なぜでしょうか」信吉は不思議そうに聞いた。
「えらい人たちは最初はいいのよ。でも、すぐに自分の考えや主張を通そうとするから」
「わかります。わかります」キン子は頷く。
「ぼくにはわかりません」信吉はいきなり口をはさんだ。「みなさん、ドストエフスキイ先生が好きで集まってきてるんですよね。それなのに自分の考えを押し通うそうとするなんて。ドストエフスキイ先生の理念のドジョウ主義からはずれてます」
「あなた純粋ね。その気持ち、いつまでも持ちつづけてね」
「でも、なんかへんな気がする。宗教みたいで」キン子は小首をかしげる。
「仕方ないわ、結局のところ、日本においては宗教と同じよ」
 京子はキン子が持っていた会員名簿をみつけて、「あら、ちょっと見せて」とうばいとった。
「ここに名前があれば、まだ会員ということなのね」
「お知りあいの方、いらっしゃるんですか」
 京子は真剣な目つきで、名簿をざっととながめていたが、探す人物の名前がなかったのか、名簿を閉じてキン子にかえした。
「どなたです」
「やっぱり、やめたようね」
「どなたです ? 」
「東山秀二よ」
「えっ、東山秀二って、あの脚本家の東山秀二ですか ? 」
「そうよ」
「わー、すごい、あんな有名人もいたの。テレビでよくみかけるわ」
「つまらないドラマばっかりだけど、売れっ子のようね」
「それでロシア通なんだ。最近ペレストロイカとか、グラスノスチなんとかの話してたわ。お金持ちなんだから、カンパしてくれないかしら」
「役員の人たち、なにか言ってなかった?」
 京子はコーヒーカップを持ったまま、たずねるように言った。
「東山さんのことですか」
「そう、彼、よく参加していたから」京子は奥歯にもののはさまったような言い方をしたあと、ちょっと躊躇して言った。
「東山は、元カレよ」
「えっ! お付き合いしてたんですか!」
「そうねえ、もう数年前になるけど」京子はさすがに照れくさそうに言った。
 そのあと本棚から本を取り出してみせた。黄色や赤の花が咲き乱れる花畑の表紙だ。『ナスターシャの家』というタイトル。
「これが彼との思い出」京子は唐突に言った。
「えっ! 本だされたんですか」
「そう、せっかくの恋だもの。べつに嫌いで別れたんじゃないから」
「わー、すごいです。ロマンチックですね」
「よかったら、おふたりに」京子は二冊を差し出した。
「ありがとうございます」キン子と信吉は、とりわけキン子は大喜びで受け取った。
「あなた、だれかいるんでしょ」京子はからかうようにキン子に言った。
「いないです。そんなもの」
「あらあら、そんなものですって」京子は信吉をチラッと一瞥して可笑しそうに笑った。
「違いますよ。ぼくは」信吉はあわてて大きく首を振った。
「これ、全部がノンフィクションですか」
「ホントのところもあるけど、創作よ。ずいぶんモデル探しされたけどね」
「でも、おふたりの恋愛を元にしたんですよね。感激です」キン子は東山秀二の名前にすっかり舞い上がった様子。もっともっと聞き出したそうな勢いだ。
 信吉は心配になり、立ちあがると別れを告げた。キン子も残念そうにあとにつづいた。
「おふたりさん、がんばってよ。会つづいていたらほんとに出席するから」
「会員同士の恋愛か。信じられないけど、あったんだわ。変なおじさんばかりかと思ったけど、むかしは格好いい人もいたのね」
 キン子は前沢京子からエネルギーを得たようだ。案ずるより生むがやすし。三人目の会員、翻訳業の前沢京子からも滞納会費をゲットできた。キン子、会員にますます興味がわいてきた。

十一、問題多き人

 菅谷賢治という会員が、次の人だった。商店街を抜けて畑がひろがりだしたところに、彼の家はあった。大きな農家のつくりだった。立派な盆栽がある広い庭。旧家のようだ。
 インターホンを押すと、小柄な老婆がでてきた。信吉が要件をつげた。
「はあ、賢治ちゃんはそんな会に入っていたんですか」とにこにこ顔で平身低頭するばかりである。 息子に訪ねてくる知り合いがいたと云う事にいたく感激しているようだ。
「あのう、今日は集金にうかがったんですが」キン子はシビレを切らして要件を言った。
「ああ、そう、そうでしたか」彼女はいま気がついたといわんばかりにつぶやいて、誰かをさがすように後ろをゆっくりふりかえった。家の中は森閑としている。
「姉と妹は、学校に行っております」彼女は唐突に言った。
「がっこう? ですか」
「ええ、姉は中学の、妹は小学校の教師をしています」
「あのう、菅谷賢治さんはいらっしゃるんでしょうか」
「賢治ちゃん、いえ、賢治はまだ大学院に籍があります。父親は高校で数学を教えておりましたが、賢治が高校生のとき亡くなりました。賢治ちゃんは、賢治はそれがショックで引きこもりになって、いまは留年しております」
 キン子はじれったくなった。集金は期待できそうになく思えたが、在宅の有無だけはと食い下がった。
「在宅でしょうか? 」
「はあ、駅前に行ってます」
「駅前?」意外な返事に、聞きなおした。
「駅前ですか」
「パチンコ店です。駅前のパチンコ店に行っているんです」
「パチンコをしているんですね」
「はい、そうですが」彼女は戸惑い気味に言った。
「あの子は大きな賭け事はしませんが」そういってかばう。
 キン子と信吉は長居は無用と駅前に向かった。軍艦マーチが鳴り響くパチンコ店は混んでいた。通りはそれほどの人通りではないのに、店内は満席状態。ここが娯楽施設の不思議な所以。キン子は景品交換で呼び出してもらった。奥の方からのっそりでてきたのは背の低い太った丸顔の青年だ。かなり度の強い丸眼鏡をしている。
「ああ、ドジョウの会の人ですか。活動してるんですか、今でも」口は達者なようだ。
「ぼくが賭けごとをやるのはれっきとした研究なんです」菅谷は隣の休憩室に入って丸いガラスのテーブルに座ると、とたんスイッチをいれたように話し始めた。
「ぼくは『賭博者』から入ったんですよ。あの作品は賭けごとの極致です。世の中では、運がよいだの悪いだのとかいうでしょう? 女神がほほえむとかもいいますね。ぼくが思うに、ドストエフスキがあれを書いたのは賭け事の真髄を解明しようとしたからなんですよ。そもそもツキとはいったいなんぞや。偶然か、仕組まれたものか。ドストセンセイが、あんなに賭け事にはまったのはたんなるギャンブル好きではなく、いわゆる“ツキ”の正体をあばこうと考えたんですよ。無謀極まりない挑戦です。宇宙の謎を解くより難しい」
 ふたりともあぜんとして聞き入るばかりだ。
「ぼくが考える“ツキ”というやつは四次元に存在してるんだ。ぼくらが、いま現在、こうして存在していること自体、ツキであること以外のなにものでもない。そうでしょ、先祖が戦争や多くの災難から逃れてきた結果、我々がいまここに存在するのだ。もっと昔、恐竜時代にさかのぼっても、祖先はその頃、ちいちゃな哺乳類だったんだろうが、よく踏みつぶされずに、生き延びたと感心するね。もっとも原始時代だって、今のぼくにつながる生命体は海の中に浮遊していたはずだ。それが何者の餌食にもならず、今日まで継続してこれたというのは、まさにツキ以外のなにものでないね。そうでしょう。この地球だって、ツキの産物さ。考えてみたまえ、あと少しほんの僅か一センチか二センチかもしれないが、太陽に近かったら、人類は存在できなかったんだ。我々人類がいまこうしているのは、まさにツキなんだ。この宇宙だって、そうさ。ツキがあったればこそ、森羅万象、我々が存在できる。この宇宙があるのだ。ビックバンの爆発だってツキだね。ここにこんな銀河系をつくろうと思ったわけじゃあない。爆発で飛び散ったものが、偶然、寄せ集まって、このエリアができたんだ。つまりこの宇宙もツキに左右された結果の産物なんだ。ということはビックバン以前に、ツキという形而上のものが存在したことになる。つまり、はじめに闇ありきではなくツキありきなのだ。これがぼくの生涯の研究テーマなんだ」
「なにいってるか、わかんないわ。むずかしい研究なら、どうして大学に行ってやらないのですか。どうしてパチンコ店にいるんですか」キン子はたまらず菅谷の演説を遮ってきいた。
「おおいに関係あるんですよ」菅谷は我が意を得たりといったしたり顔で、ふたたび話し始めた。
「そのツキが三百数億年の時を経てパチンコ玉に宿っている。球として存在している、そこを証明したいのだ。ぼくの考えじゃ多分、同じものだと思うよ。そのツキがこの宇宙に存在するありとあらゆる万物に、ビックバン以前から営々と脈々とついて回っている。ツキについては、あのアインシュタイン大先生もずいぶん悩んだらしいが――サイコロの目が統計学的法則で解決つけば、科学者はみんな大金持ちさ。賭博場から締め出されるだろうよ。世界中のカジノはお手上げさ。ラスベガスも存在できない」
 菅谷はそう言って高笑いした。そして、またつづけた。
「もしもだよ、もしこの世の偶然がすべて必然だったら。科学でツキが解明できたとしたら・・・」
「もう、いいです」キン子はついにヒステリックに叫んだ。これ以上、わけのわからない話をきいても時間の無駄というもの。あきらめることにした。
「あのう、滞納金、払ってもらえるのでしょうか」信吉は最後のねばりをみせる。
「だからね、今日のきみらには運というかツキがなかったのさ。ぼくの今日のパチンコがツキに見放されたように。ぼくは払う気持ちはあるんだ。こうしてきみたちがきてくれたんだから。しかし、ない袖は振れぬ。これも現実さ、残念ながら」
「おうちでお借りすれば」キン子は皮肉っぽく言った。
「お母様、心配されてましたよ」
「お母さま?バアさまがきいたら腰を抜かすよ。そのお姫様ことば」
「パチンコなんて親不幸よ」
「関係ないね。しかし、きみらみたいな若い人がいるなら、これから出席してもいいかな」
「おあいにくさま。わたし会員じゃありません」
「会員じゃない?」
「そう、お手伝いしているだけ。渋川先生のゼミにいるから」
「ああ、そう。しかし、ロハということはないですよね。ロハということは」
「そんなことどっちだったいいじゃないですか」信吉は声を荒げて言った。
「ぼくはれっきとした会員です。彼女は好意から手伝ってるんです。あなたもドストエフスキイ先生が好きでドジョウの会にはいったんでしょ。御協力ください。会、あぶないんです」
「なんだ、こんどは浪花節かい。本当にいまは金がないんだ。先駆者は常にきびしいものさ。まあ、ツキの正体を捕えたときはいくらでも払いますよ。それまで待ってほしいな。なにしろ、我らがドストエフスキイ大先生にだって成しえなかった大発見をやろうとしているんだ。本来なら、会の方から援助願いたいくらいさ」
「もう、いいわ。やめましょうよ。夢井さん。この人、話すだけむだよ。もう行きましょう」キン子がそういって、ふたりは歩きだした。
「お疲れさん」菅谷は店の前に立って手をふっている。
 キン子はしゃくにさわって、歩きながら振り返った。菅谷が太ったからだをボールのようにまるめてパチンコ店に飛び込んでいくところだった。
「ずいぶんな会員もいるのね」キン子は口をとがらせて言った。
 しかし、キン子はそう腹は立たなかった。これまでの会員は真面目な人ばかりだったので、あんな無責任な会員もいるのかとおもうと、可笑しくもあり、ほっとするところもあった。キン子は愉快な気持ちだった。役員のひとたちは退屈だったが、巷の会員は三者三様でおもしろい。次の会員は女性だ。どんな人か楽しみだった。
 駅前でツキ研究家の母親が待っていた。
「足りるか、どうかはわかりませんが」と言って封筒を差し出した。
 封筒には五万円入っていた。恐るべきはドジョウの会。キン子、ドストエフスキイのすごさがわかりはじめてきた。 

十二、駅裏奇譚

「あら、やだ、ここってなあに?!」
 キン子が驚いてたちすくんだのも無理はない。電話で友人という若い女性が「ユキちゃんなら店にでてるから、お店にいったら」というので、ちょうど近くだったし、教えてもらった駅裏通りにきてみたのだ。「バラの香り」という店名から、てっきりレストランかカフェのような店を想像していた。それが、なんとひと目でそれとわかる風俗店、ソープランドなのである。昼間から赤やピンクの怪しげなネオンがチカチカと点滅。さすがのキン子もヌードの大看板の前でびっくり。
「どうしましょう、こんなお店だとは思わなかったわ」キン子は苦笑する。
「ここ、ですか」信吉の方は反対に興味ぶかげだ。
「ソープランドって、むかしのトルコのことですよ。トルコ大使館の大使がタクシーにのって、トルコ大使館まで、と告げたら風俗店のトルコに連れて来られた。それで日本政府に抗議して、呼び名が変わったんですよ」
「知らないわ、そんな話。夢井さん、入ったことあるの?」
「な、ないですよ。ただ、どんな女のひとがいるのかと・・・」
「やっぱり興味あるんじゃない。でも、入りずらいわね」
「やめます、ここ?」
「でも、電話で話した友だち、連絡してくれるといったから、待ってるかも・・・」
「とにかく、せっかく来たんだから、声はかけていきましょう」信吉はこだわりなく言った。
 信吉は躊躇なく、ネオンで飾りたてたドアに突進した。キン子は逡巡しながらも、持ち前の好奇心であとにつづいた。男性だけが入る風俗店、どんなところかいちどは覗いてみたかった。それに風俗店で働く女性会員がどんな人なのかも、興味があった。
 しかし、いくら考えてもドジョウの会と風俗店は結び付かない。店内に入るとき、キン子の顔は恥ずかしさで真っ赤になった。大学では突っぱっているが、キン子とて、心根は純情可憐の乙女なのである。
「いらっーしゃい」の声より早く黒服のボーイがすっ飛んできて、機械じかけの人形のようにつくり笑顔でお辞儀しかけた。が、信吉の後ろのキン子をみると、真面目顔になって紋切口調で言った。
「応募の方ですね」
 外のピンクの建て看板に、でかでかと〈スタッフ求む 高収入〉なる文字が躍っていた。
「お、う、ぼ――?」信吉はきょとんとして立ち止った。
「お連れ様ですね」黒服は品定めするようにキン子をながめて言った。
「彼女ですか。一緒ですが・・・」信吉は戸惑い気味に頷いた。
「いいんです、いいんです。ご一緒にこられた方が、わたしどもも安心できますし、承知してくださっていた方がいいのです。ただ、これだけはしっかりと、未成年者ではないですよね」
「未成年・・・『未成年』のことですか」信吉は戸惑いながら答えた。
「え?未成年はお断りしますよ。お縄になりますから」黒服は姿勢をただして言った。
「お縄・・・?」
 双方、話がくいちがっているようだ。キン子はじれったくなって口をはさんだ。
「あのう、なにか誤解されていません?」
「ごかい?」黒服ボーイは苛立ち気味につぶやく。
「わたしたち、杉浦幸江さんという人に会いにきたんです」
「杉浦?」ボーイはちょっと考えて言った。
「ああ、さゆりちゃんのことね。はい、はい。だれか訪ねてくるといってたけど、おたくさんたちのこと?。ドジョウのなんとかさんというから、常連さんかと」
「そうです、そうなんです、ドジョウの会です」
「さゆりさん、ご指名」黒服は大声で奥に向かってさけぶ。そのあと、ボーイ君は信吉に向かって万面の笑みをみせると言った。
「どうです。面接していきませんか。スタッフいま募集中なんです。さゆりちゃんのお友達なんでしょ」
「スタッフ?」
「はやい話がソープ嬢なんですが、いい収入になりますよ。一週間で百万稼ぐ子もいます。どうです、彼女だったら面もスタイルも、抜群じゃないですか。彼氏、くどいてくださいよ」
「ち、ちがいます。ぼくはそんなんじゃ、ありません。用事すませたらかえりますから」
「ハーイ」奥から元気のよい声がして髪の長い、キン子と同年輩の娘がでてきた。短パンにはっぴのようなものをきている。
「杉浦さんですか」と信吉が聞いた。
「ええ」彼女は困惑げにふたりをみた。
「自宅に電話したら、お友達というひとが、こちらにいるからと」
「ああ、ケイちゃんから電話あった会の人」彼女はふっきれたように大きく頷いて言った。
「年配の人がくるのかとおもってたわ」
 ふたりは彼女に案内されて隣の純喫茶に入った。
「実家の借金返すにはこの商売しかないのよ」彼女はソファーに腰をおろすと、タバコの煙を吐き出しながら言った。父親が作った借金だというが、屈託がない。ドストエフスキイという作家の本を愛読している。そのことが、こんなにも強い気持ちにさせるのか。読んでないキン子にはわからなかった。親のためとはいえ、自分の身を犠牲にして風俗店ではたらく。そのことが理解できなかった。自分にはできないと思った。きっと強がっているのだ。だれだって、風俗でなんか働きたくはない。無理して明るくふるまっているのかも。そう思うと急に彼女がかわいそうになってきた。
「ねえ、そんな事情だったら、いいんじゃない」キン子は信吉に耳打ちした。
「そうですね・・・」信吉もそう思ったようだ。軽く頷くと、立ちあがる。
「ちょっと待って、なによ。どういうこと」
「あの、大丈夫ですから」
「払ってくれない人もいるし、余分に払ってくれる人もいるし、ようするに、なにがなんでもってわけじゃないので・・・」
「事情を汲んでくれるってわけ?そういうことしてほしくないんだけど」彼女は気色ばんだ。
「ごめんなさい、わたしたちそんなつもりじゃ」キン子はあわてて謝った。
「ぼくたち、全員をまわっているわけじゃないし。都内から廻れる会員だけ、電話番号わかってる人だけなんです。それに借金とりじゃないですし」
 杉浦幸江は古参の会員ぶりをみせて、きっぱり言った。
「借金とりでいいのよ。お金に関しては甘いこといってたらだれも払ってくれないわよ。いろんな人がいるわよ、お金があるのに払わない人、ないのに払いたい人。ドストエフスキイ読んでるとわかるでしょ、そういう人間がいること。わたしが借金のために働いていると知ってあきらめるなんて。わたしはそれを喜ぶような人間じゃないわ。わたしは払いたいの、払いたい側の人間よ」それからちょっと微笑んでつづけた。
「ごめんなさい、偉そうなこと言って。ドジョウの会には参加しないけど、ドジョウの会がわたしの人生の支えなのよ。だから、無くさないように頑張って。ドジョウの会に籍があるということが、わたしの生きる自信と勇気になっているの。会の方にはもう長いこと出席してなくて悪いけど、あそこはわたしの故郷のような場所よ。いつか、また出席できるようになったら、ドストエフスキイの話ができるようになれたら、きっと行くわ。行って話すの、ソーニャやリーザについて。それがわたしの毎日の夢なの。そう思って生きてるのよ」
 たそがれ近い街はにぎわっていた。店舗が並ぶ歩道に買い物客があふれ、長竿の旗が何本も夕風になびく駅前広場は、選挙演説する政治家のがなり声と運動員の連呼の叫びが騒々しくビルの谷間にこだましていた。駅周辺は喧騒のるつぼと化していた。
 信号が変わるたびに四方から津波のごとくどっと押し寄せてはひいていく人波。そんな雑踏の中をふたりはさっきからだまって歩いていた。信吉はどうかわからないけど、キン子は杉浦幸江の言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。何か打ちのめされた気持だった。ドストエフスキイの作品って、そんなにすばらしいのか。それを知らない自分が悔しくて残念だった。そして、また、それほどまでにドストエフスキイに思いをよせている彼女が羨ましくもあった。
「杉浦さん、ドジョウの会の実態を知ったらがっかりするでしょうね」キン子はため息混じりにぽつんと言った。
「頑張るしかありませんね。頑張って、ドジョウの会を存続させるんです。ああした人たちの為にも」信吉は力強くなんども頷いた。
「そうね、わたし手伝ったことちょっぴり後悔してたけど、彼女の言葉でふっきれたわ。ドジョウの会の会員ってどこかへんだけど、素晴らしい人たちがいるのねえ。この集金、けっして無駄ではなかったわ。会の人たちのためにがんばらなくちゃあ」そう言ってからキン子は小首をすくめて苦笑した。
「へんね、わたし会員でもないのに、ドストエフスキイの本だって一頁も読んだことがないのに。こんなこと思うなんて」
「キン子さん、あなた、もう立派な会員ですよ。ドストエフスキイを読まなくたって、もう立派なドストエフスキイ読者ですよ。ドストエフスキイをしっかり理解しています」
「悪い冗談いわないで」
「冗談なもんですか、キン子さんをそんな気持ちにさせたこと、それこそが、まさにドストエフスキイなんです。世界人類への愛、ドストエフスキイ大先生が目指す理念を、一冊の作品も読まないのにわかってしまうんですから、キン子さんはすごいです」
「ハイ、ハイ、世界人類への愛だなんて、よく恥ずかしくもなくそんな言葉がでるわね。役員で小堀さんっていう人もそんなこといってたんでおかしな人と思っていたけど、夢井さんはその上をいくんだから、もう完全に病気だわ」とキン子は笑いころげた。
 信吉は笑われたのが面白くなかったのか、そっぽを向いた。それが、またおかしいのかキン子はふたたび大笑いしながら詫びた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ドジョウの会の人ってドストエフスキイの話になると、みんな夢中になるので、それがおかしくて。だって渋川先生も、丸山さんも無理に苦虫つぶしたような顔してるけど、ドストエフスキイの話になると我を忘れてしまうんだから。なんいていうか宗教みたい、ドストエフスキイ教という」
「教祖はいません」
「でも会員の人はみんな信者みたい」
「ドストエフスキイの文学は宇宙のように広いのです。キリスト教もイスラム教も仏教も、みんな包み込むことができるんです」
「あらあら、そうですか。もう、すぐ夢中になるのだから」キン子はふたたびくっくと笑いだして、慌てて口をふさぐと真顔になって聞いた。
「でも、ドストエフスキイの何が、どこが、そんなに夢中にさせるの、小説をなら他にもあるでしょ。トルストイやゲーテの方が有名じゃない? ヘミングウェイやサガンだって知ってるけど、どこが違うの、そういう世界の大文豪たちと」
「違いですか?」と信吉は聞いた。
「ちょっとまって、今はそれよりおなかがペコペコなの」
 キン子はいきなり言って、交差点前にあったハンバーガー店に入って行った。信吉も黙って後につづく。彼も空腹だった。

十三、 わたしは、なぜドストエフスキイを読むのか

 空腹なふたりはハンバーガー店に入った。
「ねえ、どうしてドストエフスキイ読むんですか」キン子はハンバーガーを一口二口頬ばると、アイスコーヒーをぐいと飲んでから思い出したように聞いた。
「どうしてって、ただ面白かったからですよ」信吉は砂糖を入れたホットコーヒーをかきまぜながら言った。
「ただ、おもしろかった?それだけ?」キン子は大きな目をぱちくりして不思議そうに信吉を見た。
「ええ、それだけですよ」信吉はつづけた。
「それで十分でしょ。本当に心の底まで面白いと思える物語。それがドストエフスキイにはあるんです」
「アラ、ずいぶん明快と云うか、単純なのね」
「だって他に何があります?いくら善いことが書いてあっても面白くなかったら、読みたくないでしょ。読むにあたいしませんよ。でも、ドストエフスキイ先生の本はちがいます。ぼくがこれまで読んだ、どの小説より面白かったんです!」
「信じられないわ!」キン子は薄紅色の口紅を塗りたくった口をあんぐり開けて叫ぶ。
「どこが!わたし、これまでなんとか読もうとしたわ。でも、いつも最初の数ページで挫折よ。読めなくなってしまう。これって、わたしに読解力がないせいなの?」
「どの作品を読もうとしたのですか」
「カラマーゾフの兄弟、だけど」
「世界文学最高峰の小説です」
「そういうわね。でも、わたしは退屈なだけに思えたわ。名前も長ったらしいし」
「はじめて読む人にはハードルが高いかも知れませんね。でも、最初を我慢すれば、きっと夢中になるはずです。たとえば『貧しき人々』知ってますか」
「題名だけね」
「処女作なんです。先生の、出世作です」
「あら、そう。でも、その先生と呼ぶのはやめてくれない。むかしの人をそんな呼び方したら、こんがらって疲れるわ」
「でも、ぼくの先生ですから」信吉は頑なに言い張った。
「わかりました」キン子は失笑して簡単に引き下がった。バカバカしいことで言い合いはしたくなかった。彼女は話を戻そうと、からかい半分に聞いた。
「で、その小説がどうしたの。はじめて書いたという」
「世界中にある小説のなかで、最高に面白い小説なんです」
「世界中で一番?」キン子はまたしても素っ頓狂な声をあげて言った。
「初老の下っ端役人と、遠い親戚の若い娘の手紙のやりとりだけです。それなのにどんな冒険小説より、どんな推理小説より面白いんです。世界広しといえど、十ページ読んだらやめられなくなる本はそうざらにないです。あったとしても、それは文学的価値からではなく売上とか、世俗的好奇心からです。つまり、明日になれば消えてしまう、わすれられてしまう、ゴシップ記事の類いです。ところが『貧しき人々』は違います。永遠の名作です。どんな文学嫌いの人でも、この作品の朗読を聞けば、もう途中で席を立つことなんかできないんです。素晴らしい映画を観たあと、しばらく席を立てませんよね。あれと、いや、あれ以上の感動があるんです。この小説を、世界ではじめて読んだドストエフスイ先生の二人の友人は、あまりの感動に外に飛び出して有名な評論家のところに駆け付けたんです。わたしも、同じ気持ちになりました。それでドジョウの会に入ったんです」
「ホント?」彼女はキョトンとした顔で、困ったように苦笑した。
「キン子さん、ドストエフスキイがある事件で銃殺刑になりそうになった事件、知ってますよね」
「知ってます。わたしこれでも文学部ですからね。茶番だったんでしょ。皇帝の」キン子は憮然として答えた。
「茶番、一般的にはそういわれていますが・・・」信吉は奥歯にもののはさまったような言い方をした。
「違うの?」
「ええ、茶番なんかじゃないです。死刑実行は確実だったんです、茶番だなんて皇帝がそんな面倒なことするもんですか」
「じゃあ、なによ、実際にストップかけたんでしょ、直前に」
「皇帝は直前まで、迷っていたと思うんです」
「どうして」
「被告たちのなかに『貧しき人々』の作者がいたからですよ。皇帝は囚人のなかに有名な作家いることは知っていたはずです。どんな小説か興味あったでしょう。前の晩、側近に朗読させた。ぼくはそう信じているんです」
「それで、感動してやめる気になったって? ふーん、そこまで想像してるんならご立派。わたしなんかの出る幕はないわ」荒唐無稽な話に、キン子はひたすらポテトを口に運ぶしかなかった。
「あの小説は皇帝の心もうごかしたんです。だから、キン子さん、あなたもぜひ読んでみてください。そしたらわかります。ドストエフスキイがどんなにすばらしい作家かということが、だから、なんども言ってますが、最初の十ページなんです。そこさえ我慢して通過すれば、作品世界にどんどん入っていけるのです」
「はいはい、こんど退屈しのぎに、読んでみます」キン子は笑って頷いた。
 信吉はまだその小説について話しそうだったが、キン子は眠くなってきた。それを見て、信吉は突然、集金のことを思いだした。ふたりは店をでた。
 徒歩で板橋のアパートの中年男性訪ねた。問題なく集金できた。次の会員をすませた頃はもうすっかり夜のとばりがおりていた。キン子は打ち切りたかったのだが、信吉があと一人と粘るので、とうとうこの時間になってしまった。もっとも、夜の方が会員が家にいて集金率はよかった。
「もう八時近くよ」キン子はついに悲鳴をあげた。
「じゃあ、あと一人で最後にしましょう。ここから近そうだから」信吉は言って地図を示す。
 ドジョウの会のために一人でも多く回ろうと云う気真面目さだ。キン子は今夜は世田谷の実家に帰ることになっていた。いい加減、止めにしたかったが、信吉が憑かれたようにあと一人というので訪ねることにした。

十四、 外見とは違う元会員

 電話すると在宅である。ふたりはさっそく向かった。駅からそう遠くない。会員名は熊田淳之介。
「どこかで聞いたことがある名前だわ」キン子、首をかしげる。
 駅商店街を抜けた閑静な住宅街の一角にその家はあった。瀟洒な西洋館づくりの立派な家である。熊田と書かれた立派な門札横のブザーをおすと、中年の女性がでてきた。電話で「ドジョウの会」と名乗っていたので、何もたずねられることもなく応接間に案内された。広い応接間の壁はすべて本棚になっていた。書籍がぎっしり詰め込まれている。
「あっ、わかった!」キン子は小さく叫んだ。
「熊田って、評論家のひとじゃない」
「評論家ですか」信吉はまったく知らないようだ。
「よくテレビにでてくる人じゃない」
「そうですか」
「大丈夫かしら」キン子は有名人の家に来たことに、すっかり舞いあがった。急に心配になった。
「払ってくれるかしら」
「お金持ちそうじゃないですか」
 いきなりドアがあいて恰幅の良い初老の男性が入ってきた。渋い茶の着物を着ている。
「やあやあ、お待たせ。締切原稿があったものでね」そう言ってカッカと笑った。
 熊田はソファーにどっかと腰を下ろした。丸眼鏡の奥からふたりをかわるがわる見て言った。
「ドジョウの会も、ずいぶん若返ったもんだね。もう二十年は行ってないが、よく籍があったね」
「五年前にご返事いただいた方はまだ会員の資格があるんです」
「ご返事ってねえ、ただ近況を知らせてくれっていうから、返事だしただけなんだけどね。ドジョウの会はもうとっくに卒業しているよ、たしか丸山君だっけ、事務局は――」
「はい。渋川先生が顧問です」
「渋川教授、まだいるの。物好きだね。若い君らに文句言うつもりはないが、ぼくとしてはもう十年前にやめたつもりでいるんだ。そこんとこ伝えてもらいたくて君らと会うことにしたんだ。ちょうど電話してきたんでね」何やら外見と違って不平分子のようだ。 
「五年前にご返事いただいた方はまだ会員の資格があるそうです」とキン子がくり返した。
「ご返事ねえ、ただ近況を知らせてくれって言うからぼくは返事しただけなんだ」
 なにやら雲行きが悪くなった。評論家熊田先生は弁舌滑らかにゴネはじめる。滞納金は払いたくないようだ。ドストエフスキイで有名になったのに、名が知れたら用はないらしい。
「困るなあ、会員として名前を使われちゃあ。いや、なに、若い君らに文句いうつもりはないが、おれとしてはだね、ドジョウの会、もう十年も前にやめているんだ。それを会運営の皆さんに伝えてもらいたくて面会を承諾したんだよ。せっかく来てくれるというんでね。なんせ週刊誌三本、文芸雑誌二本、旅行雑誌一本と本業以外に原稿たのまれちゃっているから、忙しくてしょうがねえんだ」
 熊田はここでカカと笑ってつばきを呑むと、再び文句タラタラをはじめた。
「いいかい、ぼくんとこには毎月十冊は新刊本が送られてくるんだ。どの出版社もおれに書評書いて欲しくて仕方ない。なかにはよく書いてもらおうと札束をはさんでくる出版社もいる。とにかく忙しいんだ。そんなわけで昔のことにかかわってる暇はないよ。脱会すると伝えてくれ。口頭でいいんだろ。そんな形式ばった会じゃないから」熊田は言い終わってから、ふと思いだしたように聞いた。
「ところで、何んの用事だい。おればかりしゃべっちまったが、まさか原稿の依頼じゃないだろうな。そうだったら、お断りだね。そんな暇はないしね」
「いえ、いいんです。まだ、先生が会員だと思ってきたものですから」キン子はしどろもどろになって言った。集金はあきらめた。
「なんだい、会員だと思って、というのは。と、いうと会員のところにはみんな回っているのかい」
「ええ、全員じゃないですけど」
「何のために」熊田は不思議そうにみた。
「それは――」キン子は言いかけた。
 そのとき、信吉がいきなり言った。
「キン子さん、それは会のことだから、話しても、仕方ないんじゃあないですか。帰りましょう」信吉は踵を返した。
「なんだい君は。失礼じゃないか、いきなりきて、理由もいわず帰るなんて」熊田は眼鏡の奥の目をギョロつかせた。喧嘩腰だ。
「だから会員と間違えましたと彼女が言ったじゃないですか」
「それはわかった。しかし、ぼくはドジョウの会発足者の一人だ。会の動向を知る権利はある」熊田はなんとしても聞きたいようだ。
「会費滞納者を訪ねているんです」キン子は小声で答えた。
「何、たいのうしゃ・・・会費のかい」熊田は訝しげにつぶやいたあと、一瞬なにごとか巡らせていたが、はたと全てを見通したようだ。急に大声で言った。
「すると、あんたたち会費滞納金を集金してまわっているのか」
「ええ、そうです」キン子は観念しては白状した。
「そういうことか――」
 熊田はため息をつき、ニヤついてふたりをかわるがわるながめていたが、突然、ヒヒヒと下品な声で笑いだした。しまいには手足をバタバタさせて笑い転げた。信吉とキン子はあっけにとられてながめるばかりだった。
「やっていけなくなったんだな、とうとう、やっぱりな――」さんざん笑ったあと、熊田は息を切らせて言った。
「だいたい、おれはあのやり方に反対だったんだ。渋川が知らん間に丸山君らを抱き込んで、会を乗っ取ったんだ」
「熊田さん!」突然、信吉は怒鳴った。
「ぼくは新人ですから、過去になにがあったか知りませんけど、会の人のことをそんなふうに言うなんてひどいじゃないですか。ぼくの目にはみなさん本当にドジョウの会をなんとか残そうと頑張っているように見えました。ぼくだって、会をなくしたくないから、こうしてお手伝いしているんです」
「集金なんか役員がやればいいじゃないか。自分の足で。それをきみらみたいな若いのに、しかも新人なんかに押しつけて。ますます独裁体制を固めるんじゃないのか。集金なんて仕事は役員がやるべきだ。それに、会なんてものは潰れるときには潰れるんだ。ソ連邦しかり、東ドイツしかりだ。きみたちも時代の波にさからっちゃあいかんよ」
「では、あなたはドジョウの会がなくなってもいいんですか」
「もちろんだ。へん、なんだ、あんな会。所詮、吹けば飛ぶようなもんだったんだ」
「飛ぶようなものですって!」いきなり信吉は食ってかかった。
「あなたは、あなたは、元の役員だかなんだか知りませんが、本当にドストエフスキイ先生を愛したことがあるんですか。いや、あなたなんかにドストエフスキイはわかりっこない」
 つかみかからん勢いで、言い迫る信吉の目には涙さえ浮かんでいた。これにはさすがの熊田もたじたじとなった。キン子もびっくりして見守った。信吉は言い続けた。
「これまで回ってきた会員のみなさんはドジョウの会が解散にならないことを願っていました。たとえ集金に協力的ではなくても、あなたみたいに情けないことを言う人は誰もいませんでした。みなさん本当に心の底からドジョウの会を残そうとしていました。あなたが、どんなに偉い評論家だか知りませんが、あなたなんかにドストエフスキイのことがわかってたまるもんですか。キン子さん、行きましょう。こんな人にドストエフスキイ先生の話をいくらしたって無駄ですから」
 キン子は思わぬ展開に仰天したまま困惑していた。なにしろ『ドストエフスキイの暮らし』を書いて、一躍ときの人になった熊田淳之介にである。言いたい放題言ってしまったのだ。さすがの熊田大先生もカチンときたようだ。
「おい、待て、そうまで言われたんでは、このままじゃあ返さんぞ」熊田は真っ赤な顔で立ちふさがった。
「なに、ドストエフスキイがわからんだと。おれの青春はドストエフスキイなくしてはありえんかった。おまえらみたいな若造にドストエフスキイの何がわかる」
「行きましょう、キン子さん」信吉は聞く耳もたずとばかりに帰ろうとする。

十五、ドストエフスキイの底力

 集金をあきらめ帰ろうとするふたりを、なぜか熊田寅雄は玄関まで追いかけてきた。
「ちょっと待て」
「もう、いいんです。会員じゃあないとおっしゃるんなら」
「話はまだすんじゃいないぞ」熊田は気色ばる。
「なんですか」
「理屈を通してから帰れ、失礼じゃないか」
「理屈ってなんですか」
「きみたちの目的のことだ」
「目的?」信吉は歩みを止めてふりかえる。
「そうだ、滞納金のことだ」
「それなら、さっきもご説明しましたが、会員じゃないんでいいんです」
「よかないね。名簿に俺の名前があったんだろ。脱会したのに抜いてなかったのはそちらの怠慢だが、そんな細かいことはいわん」
「意味がわかりませんが」
「払うよ、きみらには罪はないと思うから」
「払うって、滞納金をですか」
「そうにきまってるじゃないか」
「脱会してるのに、どうしてです・・・・」
「どうしたも、こうしたもない。若造にドストエフスキイをわかってないなんていわれちゃ、こけんにかかわる」
「ほんとにいいです。会計の人に話しておきますから」
「よかあない、余計は浜島だろ、余計にわるい。ここはだんじて持って帰ってもらう」
 ドストエフスキイを理解していないといわれたことが、よほど癇にさわったようだ。信吉とキン子は顔を見合わせて、首をひねる。突然の豹変の意味がわからない。ふたりの困惑をよそに、熊田はいきなり黒皮の財布を出すと、一万円札五枚を引きだして、ぐいと差し出して言った。
「これでおれはやめるぞ。帰ったら、しっかり籍を抜いておけ。これが最後だ。十年分だ」
 信吉はちょっと逡巡したが受け取った。ふたりは急いで外に出た。
「ああ、驚いた」キン子は胸をなぜおろす。
 なんだって、あんな争いになったのか。合点がいかなかった。原因はドストエフスキイのことらしかったが、キン子にはよくわからなかった。ドストエフスキイを分かっていようがいまいが大騒ぎする問題か。あきれるばかりだ。その点については、熊田もドジョウの会の役員たちもみんな同じにみえて可笑しくなった。なんていったかしら、同じ穴のムジナっていうのかしら。キン子は思いだして独り笑いした。春の夜はおだやかで愉快だった。でもまだ明日がある。
「わたし、実家に寄るから、今日は解散。ゆっくりやすんで」
「じゃあ、ぼくは明日行く滞納会員に電話してから部屋に戻ります」
 電話するなら、と、キン子はバックからいろんな図柄のテレホンカードをだして渡した。
 信吉は一人になると、電話ボックスに入って五人ほどにたてつづけに電話した。二人は出なかった。あとの三人に要件をつたえると、皆、明日の訪問を了解した。ドジョウの会というと、誰も疑わないのだ。これがドストエフスキイの底力というやつかもしれない。信吉は楽しい気持ちになった。弁当を買うとマンションに戻った。早く眠りたかった。
 昨夜の電話作戦が功を奏したらしく、翌日の集金は順風満帆だった。無駄骨も余計な説明もいらなかった。山岡美登里は幼稚園の保母。北村進一は駅前のパン職人、恐縮して焼きたてのパンをくれた。公園で食べた。職場はさまざまだが、訪ねると、みんな快く払ってくれた。
「こんなことなら督促状を出せば、みなさん振込でくれましたね」
「もしかして、これまで何もしなかったのかしら」とキン子は笑った。
「請求しなくても払ってくれると思ってたのかしら」
「これから行く人も払ってくれますよ。電話で今日、伺うこと承知してますから」
「でも、昨日みたいな方がスリルがあるわ」
「まったくキン子さんは・・・遊びでやってるわけじゃないですからね、ぼくらは」信吉は苦笑しながら地図をひろげる。
「この近くに、荒瀬という男の人で払うからといった人いるんです。荒瀬常次郎さん」
「一軒家かしら」キン子は見回してから、道向こうにある4階建てビルを指さす。二階の窓に大きく荒瀬興業の文字がでかでかとある。
「あのビルの社長さんかしら。だったらすぐ払ってくれそうね」
 キン子はそう言いながらも不安そうにビルを見上げた。というのもそのビルは窓が少なく異様な感じがするのである。玄関らしい入口はガラス戸ではなく、分厚い鉄のドアだ。それに、この天気なのに全部の窓のファインダが降ろされている。
「なんか変なビルね」キン子は嫌な予感がした。
 しかし、信吉は頓着なく玄関に近づいた。いきなり、鉄のドアが開いて、男が二人とびだしてきた。黒の背広姿にノーネクタイ、頭はパンチパーマの中年男。もう一人は迷彩服の坊主頭の若者。二人そろって怒鳴った。
「おい、ここでなにやってる。目ざわりだ」
 キン子は驚いて信吉の後ろに隠れた。なにか普通の人たちでない気がした。ところが信吉は躊躇せず、たずねた。
「あのう、こちらに荒瀬常次郎さんと言う人、いらっしゃいますか」
「なんや、うちに、用事か?!」パンチ頭は不審げにふたりをみた。
「いらっしゃいますか、荒瀬さん」信吉はもう一度たずねた。
「な、なんだ、慣れ慣れしい。組長に用か?!」坊主頭が目をむいて叫んだ。
「バカ野郎!組長じゃない、社長だろ」パンチ頭は怒鳴って、いきなり坊主頭をなぐりつけた。
「あ、兄貴申し訳ありません」坊主頭は直立不動になってわびた。
 思わぬ成り行きにキン子は仰天した。なんなの、この人たち。組長って何?キン子は足をガクガクさせながら信吉のコートの裾をひっぱると、小声で言った。
「ここ、やめようよ。怖いわ」
「お身内さんですか、社長の」パンチ頭は馬鹿丁寧にきいてきた。
「身内?いえ、親戚じゃあないです」信吉は首を振った。
「ちがうって?なんだあ、おまえたち、いってえなんだ」とたん態度がガラっと変わって声が大きくなった。
「だから荒瀬さんに」
「どんな用事だ」
「ちょっと個人的なことですから」
「おちょくっとるのか!にいちゃん」
「かえりましょう。人、間違いよ、きっと」キン子は震え声で、信吉に言った。
「おいおいおい、ちよっと、待ちいな。人違いだと。人様の玄関前を汚しておいて、かえりましょうはねえだろ。なにしにきたか話してもらうぜ」パンチ頭の言葉はやさしいが、目はすごんでいる。
 この常識外の応対に信吉は漸くあきらめる気になった。
「キン子さん、帰りましょう。昨日、話した荒瀬さんがいなければ、話になりませんから」
「冗談じゃない」迷彩服の坊主頭はふたりのまえに立ちはだかった。
「社長に会いたいってきたんだろ、だったら、その理由をいってみろ。お身内さんでもなさそうだし、どこの馬の骨ともしれんものに会うほど、うちの社長は暇じゃあないんだ」
「じゃあ、ドジョウの会のものがきたと、取り次いでください。わかるはずです」
「何!?、ドジョウだと?!
「はい、ドジョウの会です」
「てめえ、ふざけてるのか」
「ドストエフスキイ読書会といってくれても――」
「な、なにい、ドスだと。おまえらアベックで、ヤッパの売り込みか」坊主頭は顔を真っ赤にさせて怒鳴る。
「いい度胸じゃないか」
「ドスの売り込みなら、はじめからそう言ってくれよ。いきなり社長に会わせろなんてなめたことしないで。うちの社長とは知りあいか?」と、こんどはパンチ頭がきいた。
「荒瀬さんですか、いえ、会ったことありません」
「て、てめえ、ふざけてんのか。ヤキいれるぞ」
「この人たちと話したって駄目よ。行きましょう」キン子は歩きだす。
「おいおい、お姉ちゃん、それはないぜ、社長に会いにきたんだろ」坊主頭はいきなりキン子の腕をつかんだ。
「なによ、離して、痛いじゃない」
「おっ、威勢のいいオネエちゃんだ。気にいったぜ」
「早く、離してよ、警察、呼ぶわよ」
「そりゃあないぜ、お宅たちが、用事あるってきたんじゃないか」 
「だから、荒瀬さんを、呼んでください」
「あきれた野郎だ、まだ、そんなこと言ってるのか」パンチ頭は信吉の胸倉をつかみかけた。
 そのとき突然、警笛が鳴って、黒のベンツが、滑り込んできた。慌てたのはパンチ頭だ。信吉を突き放して迷彩服の若者を怒鳴りつけた。
「おう、社長が戻ったと、皆にしらせろ」坊主頭の若者はビルのなかにとびこんでいった。
 数人の男たちがドヤドヤでてきた。皆、背広姿だ。男たちは歩道を占拠して一列に並んだ。迷彩服の若者はすっ飛んでいって、車のドアをあけた。小柄だが恰幅のよい男がゆっくり降りてきた。迎えに出た若い衆は一斉に頭をさげた。彼らの後ろにいた信吉とキン子は社長と呼ばれた初老の男と真正面に顔を合わした。彼はギョロ目でふたりをみた。一瞬、時がとまったようにしんとなった。
「逃げよう」キン子は言って信吉の腕をつかんだ。
 ところが、信吉は何をトチ狂ったか若い衆の頭ごしに、社長と呼ばれた男に声をかけた。
「あのう、荒瀬さんですか」
「て、てめえ、なんて野郎だ」パンチ頭は仰天して襲いかかってきた。
「キャー」キン子が悲鳴をあげて、歩道は騒然となった。
「おい、待て」恰幅のよい男はどなった。
「なんだ、だれだ、このふたりは」その声にたちまち騒ぎはおさまった。
「それが、よくわからんのです。社長にあわせろの一点張りのアベックでして」
「ドスがなんとかといってました」
「てへっ、アホか、いまの時代にドスもってどうする」だれかがヤジってどっと笑い声がおこった。
「違います、ドストエフスキイのことできたんです」信吉は委細構わず言った。
「てめえ、まだそんなわけのわからんことをぬかしてやがるのか」パンチ頭は怒り心頭で怒鳴った。
「オイ、ちょっと待て」荒瀬はなにかを思いだしたようだ。急に語気をやわらげて聞いた。
「昨夜の話できたのか」
「そうです」信吉は答えた。
「客だ、部屋に案内しろ」と荒瀬はパンチ頭に命じた。 
 パンチ頭と迷彩服の若い衆はあっけにとられながらも、一変、どうぞ、どうぞと、接待役に変身した。
 若い衆の後につづきながら、キン子はまだ生きた心地がしなかった。ビルの中に入ってしまった以上、もう自力で逃げ出すのは不可能だ。こんな状況で、ドストエフスキイが助けになるのか?驚くのは、信吉の態度である。なんの不審も不安もない顔で後についていく。なんだろう、この人。キン子はにくらしくなった。
 三階の社長室に入り、案内の若い衆がでていった。部屋の中は三人だけになった。荒瀬は急に笑顔になって言った。
「ドジョウの会だよな。忘れてた。堪忍や。それにしても若い衆ドストエフスキイをヤッパのドスと間違えたって? オモロイな」そう言って豪快に笑った。
 ドストエフスキイという言葉を聞いてキン子はやっと安堵した。緊張が解けたので、部屋の中を見回した。壁に競馬馬の写真がいくつも掛かっていた。「荒瀬」と書かれた提灯が、壁にずりとならんでいた。ドラマでみる暴力団の事務所に似ている。この荒瀬という人、社長とよばれているが、やっぱりやくざの親分ということか。「ドジョウの会」と、いったいどんな関係が・・・。
「それにしても、電話番号よくわかったな。脱会届けは出さんかったが。四十年もまえだ」
「名刺があったんです」
「名刺?」ちょっと考えて頷いた。
「そうか、いつだったか、有楽町駅で、事務局やってる丸山氏に偶然会った。法務省のお役人のを名刺もらって、こっちも名刺をわたした。それをかってに会員名簿に登録したんだろ」
「だと、思います。会員の人、減ってるみたいですから。ドジョウの会、きびしいんです」
 信吉は会の事情を説明したあと、おずおずときいた。
「あのう、滞納分、払ってもらえるのでしょうか」
「えっ、払うんかよ。ゆうべも言ってたな」荒瀬は大げさに驚いた顔をして言った。
「闇金よりあこぎじゃないか」
「だめでしょうか」
「勝手に滞納者にさせられ、勝手にとりたて、か。スジの通らん話だな」荒瀬は信吉を一瞬睨みつけた。が、次の瞬間、破顔一笑して言った。
「冗談だよ。冗談。思いちがいはあったが、そんなことはどうだっていい、ドストエフスキイにはずいぶん世話になった」
「世話、ですか?」
「そうだ、世話だ、この道で生きていくのに、ずいぶん役立った」
「えっ? そんなことってあるんですか?」キン子には驚きだった。
「ドジョウの会に出たこと、あるんですか」
「おお、あるよ、二回ほど出席した。なんせ、こっちはムショを出たり入ったりの生活だ。生きものが成長するには肥やしが必要だろ。ドストエフスキイ先生はオレの肥やしになったんだ。なにしろシベリアの監獄に悪党どもと四年間もくらしていたんだ。並みの人間なら腐るとこだが、先生は人生を無駄にはしちゃあいない。悪党どもをしっかり観察して、本にまで書いた。人間、至るところ青山ありではなく、至るところ学校ありと教えてくれた。小学校もろくすっぽ出てないおれだが、ドストエフスキイ先生のものを読んだら、自信がついた。人間というものがよくみえだしたんだ」
 荒瀬は高笑いして、恰幅のよい体を揺らした。そのあと、厚みがある封筒をよこした。あとで数えると一万円札が十枚はいっていた。ふたりは礼をいって部屋をでた。
「冗談きついんだから、おふたりとも」玄関まで送りにでたパンチ頭は恨めしそうに言った。
「社長と、昵懇なら昵懇と最初から言ってくださいよ」
 ふたりは逃げるように足早にビルから立ち去った。最寄駅に着くとキン子は重い荷物をおろすように、立ち止まって背伸びする。
「ああ、驚いた。どうなることかと。人はみかけによらないものね。寿命が五年ちぢまったわ。でもよく払ってくれたわ」
「これがドストエフスキイです。ドストエフスキイ先生の底力です。信吉はまるで自分の手柄のように誇らしげに言った。
 たしかに、底力だ。ドストエフスキイの本を一冊も読んでないキン子にはなんとも理解しがたいことだが、そう納得するより他なかった。

十六、場違いなドジョウ会議

 夕暮れの名曲喫茶の店内はまさに火事場そのものだった。ワーグナーが一階の奥のステレオ室から怒涛のごとく押し寄せ返し、壁や天井を震わせていた。この喧騒のなか、われらがドジョウの会の役員諸氏は三階で臨時の会合をひらいていた。が、三日前とは様子がちがう。例によって例のごとくの渋川教授をのぞけば、皆の表情は明るい。やっと重荷をおろした、そんな軽やかな雰囲気である。
「実際、いつきても騒々しいですなあ」鼓膜を破らんばかりのポリュ―ムの大きさに会話を中断されて丸山は顔をしかめた。
「静かなのはやらんのですか、田園でも流してほしいものですなあ」
「ぼくはここにきて一度もモーツアルトを聞いたことないです」小堀は不満そうに言った。
「順番でしょうな、順番」渋川教授が、寝言のようにつぶやいた。相変わらずの白河夜船だが、皆の話はちゃつかり聞いているようだ。
「それなら仕方ありませんね」潮が引くように騒音が遠ざかったのを機に小堀は議題の『ドジョウの時代』二号発行の件に話を戻した。
 役員諸氏、集金が順調にいっているとの報告を事務局から受けるや、驚くなかれ早くも次号について検討しはじめたのである。懲りない面々である。
「二号にとりかかるとしたら、テーマはどうします」小堀は皆をみる。
「花火を打ち上げましょうや。ドーンと、大きいの」石部は景気よく言った。
「新世紀のドストエフスキイとかなんとかで、特集組みましょうや」
「ちょっとまってください。特集に花火ですって!とんでもないですよ。われわれの罪はまだ消えちゃあいませんよ」
「罪?なんの罪です?」
「決まってるじゃないですか、借金ですよ。また借金ができたらどうするんです」会計の浜島はさすがに心配のようだ。
「そんなことを、罪のことを考えていたら、いいものは生まれませんよ」
「わからん人ですね。社長はあんなに騒いでいただじゃないですか、立て替えたお金のことで」
「あれはあれ、あれは創刊号の話ですよ。ぼくは二号発刊の話をしているんです。未来の話です」石部社長の頭には創刊号の失敗はないようだ。
「編集長はどんなお考えなんですか」浜島は埒があきそうにないので小堀に馬鹿丁寧にきいた。
「ぼくは、そうですねえ、ぼくは発刊がきまれば、さきほどお話したようにテーマをきめたいと思います」
「なんだかよくわからんですなあ、二号発刊に賛成なんですか、反対なんですか」
「だから、その・・・わからないんです。会誌は定期的に発行しなければ意味がありませんし、無理に発行すれば借金つくるだけになりますし・・・」
「事務局長はどうなんです」石部は貧乏ゆすりをはじめる。
「丸山さんはお立場から、イエス、ノ―は言えんでしょう」
「まあ、それもないとは言えませんが」丸山はいつもの癖で一つ咳払いしてから額の汗をハンカチで拭き取りながら言った。
「個人的には反対ですよ。創刊号の問題だって、すっきり解決したとはいえません。しかし、滞納金集金係の報告によると、多くの会員のみなさんは気持ちよく支払ってくれたといいます。多額のカンパまでしてくださった方もいたときいています。そうした話をききますと。『ドジョウ時代』を創刊号で終わらせていいのか。会員のみなさんは二号、三号とつづくことを期待していらっしゃるのではないか。そうした皆さんの気持ちをどうしたらいいのか。ドストエフスキイ作品愛読者を代表する事務局としては、そのように、思うわけであります」丸山は皆の様子を伺いながら話をつづけた。
「三日前、我々は窮地にありました。解散の崖っぷちにありました。それもかれも経済の問題からです」
「そのとおりです」いきなり渋川教授が頭をあげた。
 ここで丸山事務局長に一人しゃべらせておいたら、延々と終わらないとみての横やりだった。渋川教授は額に垂れ下がった白髪を手ぐしでかき上げながら言った。
「みなさんのご意見、ドジョウの会を思ってのご意見、すばらしいです。居眠り半分でしたが、心にしみました。しかし、今は議論より現実です。ここは集金係のふたりを待ちましょう。『カラマーゾフの兄弟』でも、現ナマの行方が焦点でした。残念ながらドジョウの会も現ナマ有りや無しやで運命が決まるのです。今晩、我々が現金を目にすることができるか否かです。議論はその後にしてましょう」
「そうですな、渋川先生のおっしゃるとおりですな。ここは待ちましょう」石部はまっさきに同意して、貧乏ゆすりをやめて言った。
「せめて五十万以上、期待したいですね」浜島は今年度の予算案と書かれたノートをながめながらうれしそうに言った。
「いくでしょう、五十万は、ことによると百万こすかもしれませんぞ。なんせ五万とか十万くれた会員もいたという話だから」
「石部社長、もしそうだとしても、あなたにそっくりそのまま返済するというわけにはいきませんよ。分割にしてください、立て替え金は」
「了解、了解。なに、かまわんよ。僕は見通しがつけばそれでいいんだ。僕だって痩せても枯れてもドジョウの会の会員だ。こうなったらケチなことはいいませんよ」石部は機嫌よくいってタバコに火をつけるとうまそうに吸い込んだ。
「ところで、大野キン子君と一緒に行った彼氏、名前、なんでしたっけ」浜島はノートにかきとめようとして、ハタと思いついたようにつぶやいた。
「えーと、なんでしたっけ。彼の名前?たしか、ユメイとかなんとか」
「おいおい、たしかはないだろ。ろくに名前をおぼえていない人間に集金を頼むんだから、たいした会だよ。履歴書も保証人もない人間に」と石部は大声で言った。
「そこがドジョウの会のすばらしいところなんです」小堀は記憶をたぐりながら言った。
「ゆめい、しんきちさんでした。たしか、でも漢字までは・・・」
「出身地はきいたよ」丸山は複雑な顔で言った。事務局として名前を書きとめてなかったことを悔いているようだ。あのときは借金騒動で、それどころではなかった。
「甲府です。山梨県の」小堀は思いだした。
「山梨なら近い。ときどきでいいから、出てきて会計の方を手伝ってもらってもいいじゃないですか」浜島は言った。
「ぽーっとしているように見えたが、こんどの集金計画のアイデアだって彼が考えたんだし、どうしてどうしてなかなかのやり手ですよ。どうです、事務局長」
「いいですねえ。皆さんに異存がなければ。わたしも個人的にはそう思います」丸山は言って、階段口を見てつぶやく。
「しかし、そろそろ来てもいいころですが」
「そうですねえ」一同も、目をやる。
「大野君、今日は抜けられん授業があると連絡がありました」渋川教授は言った。
「と、すると、今日は彼一人でまわっているということですか」
 丸山はちらっと腕時計を見た。何か不安がよぎった。一同も口にはださないが、なにかしら不吉な予感を感じた。
 階段をあがってくる足音がした。皆一斉に視線を注いだ。が、上がってきたのは若いアベックだった。つづいてポマードを長髪にべっとりぬった例のボーイ。会員諸氏を一瞥すると思わず首をかしげる。三日前は沈み込んでいた面々だったが、今日はばかに浮わついている。
「あっ、きました!」小堀がさけんだ。                

十七、元の木阿彌

 皆は一斉に階段口を見た。大野キン子が、駆けあがってきたところだった。あとに信吉の姿はない。キン子、一瞬立ち止まって店内をぐるっと見渡した。役員諸氏のテーブルを見つけると、ちょこっと頭をさげて、小走りにはしってきた。なにやら不安げで深刻な表情。いつもの笑顔がない。
「夢井さん、きてないですか?」彼女は息をきらせて聞いた。
「まだ、きてませんよ」
「待ち合わせて、一緒に来るんでは」
「そうだったんですけど」キン子は申し訳なさそうにつぶやいた。
「いったい、どうしたんです?」
「六時に、わたしのマンションで待ち合わせたんです。今日五時限目があったから。でも、いくら待ってもこないから、へんだとおもって郵便受けみたら、こんなものがはいってたんです」彼女はそう言って、ハンドバックから紙切れをとりだした。
「なんですか、それ」浜島は受け取ってひろげると読みあげた。
「すみません、わけあってお金は全額(総額百一万四千円)使ってしまいました。決して着服したのではありません。今日、集金に行った家に、スネギリョフ一家のような貧しい家があったんです。会員だった父親は病気で亡くなっていて、残されたのはイリューシャのような病気の子と母親と、それに病気のおばあさんまでいて、ぼくがいったとき、ちょうどアパートの家賃を大家さんがとりたてにきたところでした。もう三カ月もたまっていて、ガスも水道も、止められる寸前でした。それで、もっていたお金、みんなあげました。ドジョウの会のみなさんなら、ドストエフスキイを読むみなさんなら、きっとわかってくれると思いました。でも、勝手な事をして本当にすみません。みなさんに謝ります。追伸、ぼくとしたら、こうするよりほかありませんでした。みなさんにも、キン子さんにも、合わす顔がありませんので、このまま甲府にかえります。さようなら」
 一瞬の沈黙の後、まるで状況に併せたように、階下から皮肉にもベートーベンの「運命」が地鳴りのようにはいあがってきた。
「な、なんなんだこれ?!」浜島はいきなり悲鳴を上げた。
「使い込みの詫び状か」石部は精一杯冷静を装って言った。声がふるえている。
「なんです。どういうことです。それって」小堀は恐る恐るきいた。
「要するに書き置きでしょう」丸山は押し殺した声で言った。
「と、いうことは、持ち逃げですか」
「そういうことでしょう」丸山はあくまでも冷静を装って言った。
「まさか、かれが・・・」
 騒々しい店内で、三階の彼らのテーブルだけが、エアーポケットに落ち込んだように、静まり返っていた。役員諸氏は沈思したままだった。ショックが大き過ぎて言葉を失っていた。
「どうしましょう」しばらくたってから丸山はつぶやくように言った。
「警察にとどけましょうか」浜島は言った。
「丸山さん、その筋には顔きくんでしょ。早く、手を打ってください」
「いや、警察沙汰にしても誰の得にもなりません。お金を受け取った親子だって困ります」と渋川教授が言った。教授ひとりがのんびりかまえていた。
「しかし、このまま放置しておくわけにもいかないな。なんせ百万もの金がなくなったのだから」と丸山が言った。
「そうです。どうするんです」と浜島。
「ま、落ち着きましょう。まずは調べてみましょう」と丸山。
「調べるって、何をです。お金がなくなったことは明明白白です」と石部。
「まあまあ、石部さん、いまの段階は、渋川先生がおっしゃる通り、事実を確かめなくちゃあいけません」丸山は感情を押し殺した声で言った。
「まずは調書です」
「そうしてください」渋川教授は言ってまた目をつむった。
「大野さん」丸山は急にお役人言葉になって、紙切れを見ながら言った。
「状況を把握するために、ちょつと質問させてください。捜査の手順ですから」
「ハイ」キン子は緊張気味に答えた。
「最後に別れたのはいつです」
「おとといの夜です」
「そのとき、彼にかわったところはなかったですか」
「十万円もカンパしてくれた会員がいたので喜んでいました。ドストエフスキイの底力なんて、自慢してました」
「ここには百一万四千円とありますが、そうですか」
「わたしと計算したときは七十万に足りないくらいでした」
「すると、そのあとは彼が集金した分ですね」
「だ、と思います」
「彼はお金に執着する方ですか」
「わかりません」キン子は言った。
「お金集めにはものすごく熱心でした」
「熱心?」
「ドジョウの会を救うことに意欲を燃やしていました」
「お金、着服したと思いますか」
「いえ、夢井さん、ものすごくまじめで、百円だってくすねるとは思いません」
「本当だと思いますか?」
「何がです?」
「ここに書かれていることです」
「お金めぐんであげちゃったことですか」
「そうです」 
「本当だと思います」
「そうはいっても、やはり横領の線は消えませんなあ。人間、大金を前にすると人が変わるといいますが、そんなところは見えませんでしたか」
「わかりません。いえ、そんなところはありませんでした」キン子は大きく首をふって否定した。
「それにしても、おとといは七十万だったのに、今日、三十万も集金したのかしら! すごいわ」キン子は思わず拍手する。
「感心してる場合じゃないでしょう」浜島 はいまいましそうにたしなめる。
「みかけは一本抜けているようにみえたが、やっこさん、どうしてどうしてなかなかの役者だったんだ」
「しかし、まだ横領したかどうかは」丸山は法務省の官吏らしく、あくまで慎重だ。
「全部使いました、と書いてあるこの告白が本当かどうかだ」石部も珍しく冷静だ。
「悪い人にはみえなかったですが」小堀は声を震わせて言った。
「ドジョウの会の救世主にみえました」なにかの間違いであることを信じたいようだ。
「コボちゃん、人間は神秘です、といったのは、ドストエフスキイ先生ですぞ。みかけにダマされちゃあいけませんよ」石部はなぜか満足顔で頷いた。皆の落胆がうれしそうだった。
「でも、彼、ほんとにいい人にみえました。会のために、なにかやってくれそうな」小堀は懲りずに養護した。
「彼はプロの詐欺師ですよ」浜島は決めつけた口調で言った。
「悪党ですよ。しかし、住所はわかってるから。逃げおおせるもんじゃない」
 キン子は、住所、と聴いて、皆の会話にわりこんだ。
「あのう、その住所のことですが」
「なんですか」
「それが、へんなんです」キン子は恐る恐る言った。
「手紙みたあと、夢井さんが書いた住所の電話番号調べて電話してみたんです。そしたら、そこにいないんです。夢井信吉なんて名前の人はいないっていうんです。そこ病院なんですが」
「病院?!」皆、言葉をなくす。
 渋川教授だけが、皆の喧騒をよそにまだタヌキ寝入りしている。
「病院っていったい、どういうことです?」
「わかりません、そんな名前の人はいません。ガチャンでした」
「つまり偽名を使って病院の住所で会員になっていた、ということか」と石部。
「しかし、臨時総会のハガキはなぜ着いたのだろう」と浜島。
「ということは、そのときは入院してたのかも」と石部。
「夢井信吉、という名で?」と小堀。
「あり得る話だ。ぼくが扱った案件に、似たようなものがあった」丸山は大汗を拭って言った。
「典型的なサギ師の手口だね。病院を使うというのは」と石部。
「それにしても、ドジョウの会に名前を詐称してまでしてくるなんて」と浜島。
「考えてみりゃあ、どうも最初からヘンでしたよ。なんですか、ドストエフスキイ先生を愛してます宣言ですか。あんな台詞、芝居でもいえませんからね。こっ恥ずかしくて」と石部。
「いいカモだったわけですよ。われわれは。文字通り、ドジョウ鍋にされたわけですよ」浜島は自嘲気味に言った。だれも笑わなかった。白けた雰囲気が漂った。
「ところで、大野さん」しばらくの沈黙のあと、丸山はおもいだしたようにたずねた。
「さいごの文面、なんでしたけ。置き手紙の」
「さいご、の、ですか」キン子は躊躇する。
「そうです。意味不明な文だったように思えましたが」丸山は言って、手をのばす。
「もう一度拝見」と催促する。キン子は戸惑い気味にわたす。
「えーと、ここです。―― それと、どうか昨夜のことは許してください。とありますが、これはどういう意味なんです」
「許してください。フム、ただ事じゃない文面だな」石部は腕を組んで唸る。
「なにかあったんですか」
「何か、といっても…」キン子は言い淀む。
「関係あるんですか、今回の件と」
「いえ、ありません。個人的なことですから」
「個人的、ですか・・・」丸山は不審そうに言葉をきった。瞬時のあと、訊問するように言った。
「しかし、一応、何のことか、事情を説明する義務はあると思いますよ。現に百万という大金の行方がわからなくなっているんですから」
「そうですよ、キン子さん。秘密はいけません。いま、われわれは集金人のことを知る必要があるんです」浜島は無理に厳しい顔をつくって言った。
「秘密なんて、おおげさだわ」キン子は苦笑して言った。
「求婚されたのよ」
「キ、キュウーコン?」皆、訝しそうにキン子をみた。
「なんです、それ」
「だから、求婚よ。夢井さんから求婚されたの」
「えーっ!」一同、とびあがらんばかりに驚いた。
「きゅうこんって、まさか」
「決まってるじゃないですか、プロポーズよ。わたし、彼から結婚申し込まれたんです」キン子は顔を赤らめながらも平然と言った。
「なんたるナンパ師!」浜島はいきなりテーブルを両手で打って叫んだ。
 コップの水がとびちったが、誰も気にしなかった。びっくりしすぎて目に入らなかった。
「行きがけの駄賃にかどわかそうなんて図々しいにもほどがある。最初から、変な奴とはおもってたが、ナンパ師とまでは」浜島は歯ぎしりして悔しがる。
「で、大野さんは、何て?」丸山は冷静を装って質問した。
 皆、押し黙ってキン子をみつめる。
「えっ、ちょっと、本気で聞いてるんですか」キン子は呆れ声で言った。それから、いたずらっぽく笑うと言った。
「プロポーズされるって、やっぱりいいわねえ。たとえ前途がどんなに困難だって、頷かずにはいられないものがあるわ、あの言葉には。――女の幸せってやっぱりあそこにあるのね」キン子はわざと、うっとりする。
「ま、まさか、承知したのでは」
「だったら、夢井さん、いなくなったりはしないわ」
「なんですか、驚かさないでくださいよ」一同ほっとする。
「冗談いってる場合じゃないです」丸山は苦々しい顔で言った。
「あら、冗談って、わたし申し込みと同時に、キスまでされちゃったんですからね」
「キス?! キスされた」一同、またしても仰天、目をむく。
「そうですよ。いきなり、ここに」キン子は日焼けした左頬を指さす。
「なんて奴だ」浜島はうめく。
「色魔だったとはねえ、とても、そうは見えなかったが」石部は感心したようにつぶやいてから、ニヤリとして聞いた。
「キスの他は?」
「ほかって、なんですか」キン子はにらむ。
「なにもないわ。すぐにつきとばしてやったわ。わたし、“無理やり”と、“突然”は、いやですから」
「なるほど、なるほど。若いふたり、なにも起こらないのも不思議ですから」丸山は想定内といった顔で頷く。
「そこ、場所はどこなんです」石部は好奇心いっぱいの顔で聞いた。
「どこって、社長さん、へんな想像しないでください」キン子は口を尖らす。
「公園よ。どこだとおもったんですか」
「あ、そう。公園。古典的ですな。ということは、やっこさん、『白夜』を気どったのかな」
「びゃくや? なんですか、それ」
「いいです、いいです。悲恋のラブストーリー、男がフラれる話。ヒヒヒ」
「なあに、その笑い方。イヤだわ」
「で、何泊したんです。彼氏、あなたのところに」丸山の訊問はつづく。
「その聴き方もイヤだわ。わたしのとこっていっても、空き部屋を貸してあげただけ。わたしの部屋に泊めてあげたわけじゃあないわ」
「そうでしたね。会の活動だから、本来なら宿泊料払わなくてはいけないところだが」
「いいんです。最初からお金いただこうとはおもっていませんから。わたしは渋川先生から単位がもらえれば、それでいいんです」
「で、何泊したんです。あなたのマンションに」
「あの晩からだから、三日です」
「大丈夫だったのかい。そのときは」こんどは浜島が疑いの口をはさむ。
「なに考えてるんですか。夢井さん、ものすごく純情なんだから」
「てへっ、だから若い女の子は困るんだ。騙されたというのに、まだ、そんなことをいってるんだから」石部は冗談とも本音ともつかぬ顔で言った。
「金を持ち逃げされ、駄賃にキスまでされたというのに、まだそんな甘いこといってるんだ」
 キン子はみなの動揺をよそに落ち着いて言った。
「皆さんの怒る気持ちよくわかります。夢井さんを悪くいうのも、よくわかります。でも、集金してるとき、夢井さん本当に一生懸命でした。ドジョウの会を救いたい。その気持ちにウソはなかったように思います」
 キン子はまだ信じられなかった。いきなりの求婚とキスにはおどろいたが、なぜか、それほど腹が立たなかった。それより今こうして話ているとなつかしく思えてくる。ひょっこり階段をあがってくる。そんな気もするのだ。
「ふん、そりゃあ、熱心にもなるよ。みんな自分の懐に入るとおもえば」と浜島。
「だから、ちがうといってるじゃないですか。お金、困った家族にあげたんです」キン子はついカッとなって言った。
「まあ、しかし、それはこの紙切れに書いてあるだけでなんの証拠にもなりません」丸山はあくまでも冷静だ。
「たいしたイエス様だ」浜島はあれこれ罵ってみたが、腹の虫は収まらないようだ。なんといっても百万円である。「ドジョウの会」はじまって以来の大金収入なのだ。
「ほんとうに、そうだったら、その家族にあげたのなら、ぼく、すこしは許せますが」小堀はあきらめ顔でつぶやいた。
「コボちゃん、それじゃあこまるんだ。そんなお人よしじゃ」と石部。
「先生、どうしましょう」丸山は困り果てて渋川教授に声をかけた。
 教授は相変わらずの居眠りだったが、いきなり、頭をあげると白髪をかきあげて言った。
「そうですねえ、まずは事実確認でしょうね。話はそれからです。お金がなくなったといっても、わたしたち役員は現なまをみたわけではないし、キン子君が一昨日目にしたという七十万円ですか、その他には確たる情報はなにもありませんからね」それだけ言って、渋川教授は再びタヌキ寝入り。
「たしかに、渋川先生のおっしゃる通りです」丸山は省庁の官吏らしく、すぐにかじをきった。
「お金をあげた人も、貰った人も、ここにはいないのですからね。まずはそこからスタートしましょう。キン子さん、明日、その家族に当たってください。わたしは彼のことを調べてみます。事実なら、彼に弁償してもらうか、告訴するしかないでしょう。しかし、ここは穏便にやりたいと思います。なんといっても、いくら会員だからといっても、その日はじめてきた人間に集金を委託するなんて、常識では考えられませんからね。ドストエフスキイボケと笑わられても仕方のないところです」
 一同、その言に従うしかなかった。これ以上、腹をたてても悪口をいっても、当の本人不在ではどうすることもできない。三日前、希望に満ちてはじまったドジョウの会の再建計画は元の木阿彌、振り出しに。せっかく集めた百万余の大金を無くして。
 最初から、なにもなかったとおもえばいいのよ。キン子は皆の困り果てた様子を見ながら、のんきにそんなことを考えていた。が、集金で会った会員たちのことを思いだすと、ちょっぴり胸が痛んだ。評論家の熊田はそらみたことかと高笑いするかもしれない。「ドジョウの会」をあんなに懐かしがっていた組長の荒瀬は騙されたと怒りだすかも。
 ほとんどの会員は気持ちよく、滞納金を払ってくれた。彼らのことを思いだすと、申し訳ない気持ちになる。が、仕方ないと思う。第一、わたしは会員じゃないし、ドストエフスキイなんか好きでもなんでもない。親切心から手伝ってあげただけ。責任を感じる義理はない。所詮、わたしとは住む世界が違う人たち。そう思うとなにか解放された気持ちになった。不幸な家族に会って話を聞く。丸山の頼みを最後にしようと思った。

十八、元の木阿彌 その後 

 連休明けのキャンパスは倦怠感がただよっていた。芝生に寝転ぶ学生たちのどの顔も睡眠不足の寝ぼけ顔。キン子は大学にできたものの、なんとなく授業に身が入らなかった。何を見ても何をきいても興味がわかなかった。五月のまぶし過ぎる太陽の下の憂鬱はこの季節特有かもしれない。しかし、キン子の憂鬱はいわゆる五月病のせいではなかった。彼女の憂鬱は二カ月前のあの日からつづいていた。地方会員の夢井信吉が、集金したお金を全額困っている家族にあげてしまった、そのことをひきずっていた。
 ドジョウの会で集金の報告をした翌日、住所録を頼りに、信吉がお金をあげたという家をたずねた。彼の書置きは事実だった。家族から泣きながらお礼をいわれた。集金した会費とカンパ、百万円もの大金である。が、目の前の家族の窮状をみれば、とてもドジョウの会でもめているなどと言いだせなかった。キン子はこの事態を目をつむってやり過ごしたかった。ドジョウの会の役員諸氏も、キン子の報告をきいて観念したように何も言わなかった。彼らにしても、自分たちにも責任があることを内心認めざるをえなかったのだ。
 あれ以来、彼らとは会っていない。渋川教授の講義も受けていない。これでドストエフスキイとも、ドジョウの会とも縁が切れたと喜んだが、なぜか引っかかるのである。
 ああ、嫌になっちゃう。ドジョウの会のことは早く忘れたいのに忘れられないのだ。ドストエフスキイの名前が頭から離れない。渋川教授は約束通り単位をくれた。それも長特大のSを。それなのに、なにか、もやもやした気持ちがつづいている。今晩あたり誘われている飲み会にでてパーッと騒ごうかしら。そんなことを考えていると、向こうの窓から友人のひとみが顔をだして叫んだ。
「キン子、渋川先生がさがしていたわよ」
「なんだろう」単位はもらったので、それからはもう会っていない。
「なにかヤバイことした?」ひとみはからかう。
 また、何か手伝ってくれというのでは。面倒な気がした。今度は就活を理由に断らなくちゃあ。決心は固い。だが、渋川教授の研究室に入ると、なつかしさで目元がゆるんだ。なんと丸山と小堀が来ていたのだ。
「やあ、こんにちは」二人とも相変わらずのバカ丁寧な挨拶だ。
「大野君、ひさしぶりだね」渋川教授は妙ににこにこして言った。
「単位とったら、とたんに僕の講義聴きにこなくなっちゃったねえ」
「すみません、就活で」
「ま、座んなさい」
 キン子が座ると、渋川教授は丸山をみやった。
「例の件がですが、一応、解決しました」丸山は大きく咳払いして言った。
「例の件って、あのことですか?」
「そうです。集金横領の件です」
「どんなふうに解決したのですか」キン子は安堵してきいた。
「お礼の手紙がきたんです。ドジョウの会あてに。いつの日か返済したいとのことだったので、無利子無担保で貸し付けることにししました。会員にも、その旨お知らせしていくつもりです。“自他共栄” はドジョウの会の理念ですからね」
「彼の現住所もわかりました」
「えっ、わかったんですか。夢井さんの住所が」
「ええ、なんとか」
「どこでした。どこにいたんですか」
「いや、こちらで探したというより、電話があったのですよ。向こうから」丸山は落ち着き払った声で言った。
「夢井さんからですか」
「いや、本人からじゃあない、病院のケースワーカーからです」
「病院の?」キン子はキョトンとした。
「じゃあ、あの電話番号あってたんですか、わたしがかけた」
「そういうことになりますね」
「わたし、あのとき何々病院っていったから、間違い電話とおもって。電話もすぐ切られてしまったし。でも、間違いではなかったんですね」
「そうですね。しかし、名前をきいてもわからなかったでしょう」
「どうしてですか」
「彼氏、偽名を使ってましたから」
「ぎめいを? どうして?」
「それはわかりません、どうしてだか」
「どんな病気だったんですか」
「それは・・・」丸山はちょっと躊躇して言った。
「精神科専門病院の患者です」
「精神科の!」
 キン子は思わず声をあげたが、なにかすっきりした。夢井信吉と名乗る謎の人物、なにか、どこか変だとおもったが、これではっきりした。もやもやが雲散霧消した気持ちだった。彼が詐欺師でなかったことにほっとした。
「まあ、あのときは突飛な自己紹介するので、ちょっとおかしいとはちらっとですけど、おもいました」
「ドジョウの会にはときどき変わった人かがきますから、彼を特別へんともおもいませんでした」渋川教授は言って可笑しそうに一人クックと笑った。
「しかし、ぼく、なんだかほっとしました」小堀は明るい声で言った。
「とにかく、彼は詐欺師ではなかった。横領犯でもなかった」
「夢井信吉という名前は病院のなかでも使っているらしいです。それで、ハガキや手紙も、その名前で届くらしい。でも、そのことは担当のスタッフでないとわからないとのことです」
「それじゃあ、やっぱり電話かけたときはわからなかったのね」
「そうだと思います。本名は高井信二という名前です」
「夢井信吉さんと、たいして変わりない」キン子はくすりと笑う。
「ムイシュキン公爵をまねたつもりだったのだろう」と丸山が言った。
「でも、どうして病院から?」
「記憶喪失のようになってしまい、荷物を調べたらドジョウの会の電話番号が、事務局つまり、わたしの家ですが、あったというわけです」
「じゃあ、わたし、これで」キン子は一礼して踵を返した。
「ちょっと待ってください」小堀は呼びとめた。
「キン子さん、ドジョウの会に入らないのですか」
「あら、解散するんでしょ」
「いえ、だれが、そんなことを。問題は解決しました」
「ごめんなさい。わたし、そんな気持ぜんぜんないですから」
 キン子は情け容赦なくはねのけて、渋川教授の研究室をでた。
 さようなら、ドジョウの会のみなさん、とうとう読むことがなかったドストエフスキイの小説。そして、もう会うことのない夢井信吉さん。キン子は研究棟をでて五月の陽光のなかに飛び出していった。 

十九、富士には似合う花は 

 四ヶ月後、九月も末のある日曜の昼過ぎ、中央本線「甲府駅」から車で三十分ほど離れた山の中腹。ドジョウの会の御一行は大菩薩峠行きのバスから降りた。渋川教授、丸山事務局長、石部社長、浜島会計係、小堀編集委員、それに大野キン子の総勢六人である。登山客が多いなか、六人は平素の服装である。停留所は崖にあって、眼下には収穫期のぶどう畑が、色あせた緑のじゅうたんを敷き詰めたように、はるか甲府盆地の底までつづいている。そして、視線を水平にすれば、目の前に初冠雪を頂いた富士山がぽっかり浮かんでいる。あまりにすばらしい風景。一行はしばし目的も忘れ眺めていた。
「じつにいい眺めですなあ、じつにすばらしい!」絵ごころがある浜島はなんども感嘆した。
「どうです。みなさん、来たかいあったでしょう」丸山は自慢げに言った。
「あれ、事務局長、一番難色示してたじゃなかったですか。くることに」
「そんなことないですよ。立場上、みなさんの総意を確かめただけです」
「まあまあ、みなさん」渋川教授は機嫌よく笑ってキン子に話しかけた。
「大野くん、どうだね。きてよかったでしょう」
「ハイ」キン子は大声で答えた。本当に来てよかったと思った。
 この見舞い行に誘われたとき、どうしょうか迷った。大学で会員になることを断ってから、ドジョウの会はもう自分とは縁がないと思っていた。それに、いまさら夢井信吉に会ったところで、何を話してよいかわからなかった。見舞いに行って彼が精神を病んだ病人という現実を知るより、一緒に集金して歩いたときの楽しい思い出をそのままにしておきたかった。しかし、この四カ月、キン子は自分がなにをして過したか思い出すことができなかった。旅したヨーロッパの街角も、高原の別荘も、南太平洋の砂浜も、これまでだったら楽しい思い出として記憶に残るのはずなのに、なんだかすべてが色あせてみえた。楽しい買い物、友だちとのおしゃべり、熱狂したライブコンサート。なぜか退屈に思えた。つまらない「ドジョウの会」のことばかりが頭から離れない。そうして、ドストエフスキイを読まなければ、という強迫観念に急き立てられるのだ。就職も大手に決まったが、なぜかすっきりしなかった。そんなとき渋川教授から、お見舞い行きを誘われたのだ。
「ハイ、いきます!」キン子は二つ返事でOKした。
 そして、今日、「ドジョウの会」役員一同と夢井信吉が入院しているという甲府の病院に朝一番の新宿発の列車に乗って見舞いに来たのである。
「ほんと、この季節に来られて、運がよかったです」小堀は富士山を写真に撮った。
「あれでしょう」丸山は丘の上にある学校の校舎のような建物を指さすとあるきだした。一行はぞろぞろとつづいた。道路わきに月見草が咲き乱れていた。
「太宰治も江戸時代だったら何ていうだろうね」浜島は黄色い花びらをちぎって放り投げると言った。
「どうしてですか」キン子はきいた。
「なかったからね、この花は。アメリカの外来種だから明治になってきたんだ」
「じゃあ、女郎花はよく似合うとでも言ったかな」石部社長は言った。
「女郎花ではしっくりしませんよ」浜島はからかうように言った。
「やはり月見草でなくてはね。まさに歴史が景観をつくるといいます」
「意味不明だ」石部は一蹴した。大の太宰嫌いなのだ。
「景色よし、空気うまし、ここなら患者には最高だね」渋川教授が割って入る。
「そうですねえ。ここなら一、二カ月の入院も悪くないです」
「お、それなら、社長、入院手続きとって残りますか」と浜島。
「うん、そうしてもいいが、許可してくれないだろう。病院が」
「とんでもない、大歓迎してくれますよ。石部社長だったら、即合格、診断の手間なんかいりませんよ」
「やや、なんだね、その言い方、まるでぼくが、どこかおかしい。そんな言い方じゃないか」
「あれ、いまわかったんですか」
「けしからん、きみの、その無神経さこそ病気だよ。きみこそ入院したまえ」
 二人のまいどの口論にどっと沸く。沿道の白樺林から吹き抜けてくる九月の午後の風が心地よかった。
 平和会大菩薩病院はねずみもちの垣根に囲まれたこざっぱりした病院だった。特別な柵もなく、それと知らせる表示もない。こんな山の上になければ、小学校の校舎を思わせた。門は開かれたままになっていて、そこここに、一見、患者と思われる男女がうろついていた。受付にいくと、昼食のさなか弁当を食べていた白衣姿の太った中年女性が不審そうにたずねた。
「見学ですか」なにかの団体と間違えたようだ。
「えーとですねえ、面会です」丸山は額の汗をぬぐいながら言った。
「先日、お電話したときに、今日なら結構ですとご了解いただいたんです」
「ああ、そうでした。でも、こんなに大勢さんでしたか」
「だめですか」
「いえ、大丈夫でしょう。それで、どなたでしたっけ」
「夢井さん」丸山は言いなおして言った。
「ああ、夢井ではなく高井さんです」
「田村センセーイ、高井さんの面会よろしいですか」彼女は振り返って大声で叫んだ。
「聞いてます」若い医者が顔をだした。
「えーと、ご家族の方?」

二十、 ドジョウの会、万歳 

「いえ、違います。ドジョウの会といいます」
「ドジョウの会?」医師は連絡帳をみてから大きく頷いて言った。
「ああ、そうでしたね。電話でそうおっしゃっていましたね」
「それってドジョウすくいかなんかの会ですか」中年の看護婦は好奇心を抑えきれずにきいた。
「いえ、違います。文学の会です」丸山は几帳面に答えた。
 すると横から石部がふざけて言った。
「ドジョウがでてくる物語の本を読む会です。あるでしょ、どんぐりころころどんぐりこ、ドジョウがでてきてこんにちは、の、あれですよ」
「わかった! 童話を読む会でしょう」
「当たり!」石部は笑って叫んだ。
「冗談です」丸山は割ってはいると石部に言った。
「石部さん、いいかげんにしてください。みなさん、本気にしてるじゃないですか」
「失敬、失敬、あやまります」石部は素直に頭をさげた。
「ぼくたちは、ロシアの・・・」小堀が言いかけたそのとき、がっしりした白衣の男性が二人がやってきた。看護人らしい。
「どなたか、お一人来ていただいて、あとのみなさんは面会室でお待ちください」と一人が言った。
「じゃあ、わたしが」丸山はそう言って病棟に向かった。
 キン子たちはもう一人の看護人に案内されて、受付の隣にある面会室に入った。そこは教室のような部屋で、大きなテーブルが場所をとっていた。入院患者が描いた絵か風景画が数点飾られていた。
「あのう、夢井、いいえ、高井さんはこちらでは夢井さんで通っているんですか」キン子は看護人に聞いた。
「夢井は病院の同人誌のペンネームです」看護人は言って本棚から冊子をとりだしてみせた。
「これ、そうなんです」
「同人誌ですか! どうりで、創刊号に興味もったんだ」浜島は大声でつぶやいた。
「『つきみそう』ですか、ここにぴったりですね」渋川教授は冊子を手にとるとしげしげとながめた。
「やっぱり、ムイシュキン公爵のつもりだったんだ」と石部がしんみりした口調で言った。
「すっかりなりきっていたね。われわれはすっかりだまされていた」浜島は感心する。
「このなりすましは罪になりますかね」
「私利私欲じゃないからね」と石部。
「彼こそ、ムイシュキンですよ」小堀は訴えるように言った。
「むいしゅきん、それ、なんですか」キン子は自分だけカヤの外なのがじれったい。
「さしずめ、キン子さんはナスターシャかアグラーヤですね」浜島はニヤリとする。
「なんですか、その人たち、誰のこと?」
「いいじゃあないですか、二人とも絶世の美女なんですから」石部はカラカラ笑う。
「いやな感じ」キン子は何のことかわからないので面白くない。
 丸山が一人で、戻ってきた。
「彼、わたしがまったくわからないのです」と言って振り返る。
 病棟から看護人と医師にはさまれて夢井信吉が歩いてきた。顔色が白っぽい他は健康そうに見える。しかし、皆の顔をみてもなんの反応もみせなかった。
「夢井さん、信吉さん」
 キン子は思わず呼びかけて、二歩、三歩と出迎えた。しかし、彼の表情は変わらなかった。
 突然、信吉は直立不動になって皆を見回すと大声で告げた。
「この星を汚してしまったのはぼくの責任です。罰してください」そう言って深々と頭をさげた。
 キン子とドジョウの会の面々はあっけにとられて彼をみつめた。
「宇宙防衛隊の仕事がありますから。皆さん、さようなら」
 信吉はそう言うとふたたび医師と看護人に腕をとられて去っていった。その間わずか二、三分の出来事だった。あまりにあっけなかった。がらんとした面会室で、皆はしばし呆然自失の体で佇んでいた。
「このへんでお別れしましょうか」
 渋川教授の言葉に皆は夢から覚めたようにはっとした。そして、言葉少なに病院を後にした。バス停についたとき、突然、渋川教授は言った。
「彼はわれわれを初心に連れもどすためにやってきてくれた、そんな気がしますね」
 皆は黙って頷いた。いつも騒々しい石部社長も皮肉屋の浜島も神妙だ。
 ドストエフスキイっていったいなんだろう。なぜか涙がでてきた。キン子は目頭をぬぐいながら思った。こんどこそ本当に読んでみよう。そう決心した。目の前に西日を浴びた富士山がくっきりとあった。
「ドジョウの会、万歳!」いきなり石部社長がバ ンザイした。つづいて皆、一斉に「ドストエフスキイ、万歳!」と叫んでバンザイした。キン子もつられてバンザイした。長い影ががけ下に落ちていた。富士は夕映えのなかにゆったりと悠久の美をみせていた。