ドストエーフスキイ全作品読む会
下原敏彦の著作


小説 ドストエフスキイの人々

庵 敦吾
 
第一部

第二部  
一、早朝の訪問者

二、最初のもめごと
三、集金作戦計画
四、不安な開始
五、集金の難しさ
六、駅地下街で
七、最初の集金
八、案ずるより産むがやすし
九、珍妙なる作品
十、普通で風変わりの人たち
十一、問題多き人
十二、駅裏奇譚
十三、私は、なぜドストエフスキイ読むのか
十四、外見とは違う元会員 
十五、ドストエフスキイの底力


一、早朝の訪問者

 さっきから玄関のチャイムが鳴り続けている。知らんぷりしていたがいい加減うるさい。キン子は、手探りでベットの横にある化粧台から目覚まし時計をとる。6時を少し過ぎたばかりだ。
 こんな朝早くに誰かしら。はじめママかと思った。昨夜、電話しなかったから、それで外泊を疑って探りにきたかも。しかし、ママなら、もっと大騒ぎする。ドンドンドワを叩いてわめきたてるはず。
 ママでないなら誰だろう・・・。キン子渋々、布団をはねのけガウンを引っ掛け出て行った。そうだ、カオリかも知れない。きっと彼女だ、と思った。高校時代の友人だが、いつだったか、朝っぱら同棲男とケンカしたといってきたことがある。
 早く別れればいいのに。キン子は、腹立たしく思いながら覗き穴から覗いてみた。若い男が立っていた。髪をボサボサにした見覚えのない顔だ。
 イヤダ、何 ! ? だれ ? キン子は寝ぼけ眼をこすってもう一度、覗こうとしたが、突然、電話のベルが鳴った。急いで受話器をとった。
「キン子ちゃん、沢井のおばちゃまよ」キンキン声は、隣の奥さんだ。いつもは大声なのに押し殺した声で言った。「いま、外にいる若い人、キン子ちゃんのお友だち? さっきからドワの前に立っているわよ」
 いきなり、そう言われても返事に窮した。デスコで2、3度会った男の子の顔は、ほとんどおぼえていない。大学でしょっちゅう声をかけてくるナンパ男でもない。考えあぐねていると沢井夫人は含みのある声で「ゆうべ遅くに空き部屋の303号室に止めてあげた彼氏じゃないの。大丈夫、秘密にしておいてあげるから」言って夫人は、意味深にフフフと笑う。
 あっそうだ!! キン子は、突然思いだした。そういえば昨夜「ドジョウの会」の会員をキ
ん子の父親名義のこのマンションの空き部屋に泊めてあげたのだ。そう、そう、会議のあと名曲喫茶から居酒屋に行って、かなり飲んで一緒に帰ってきたがすっかり忘れていた。
「おばちゃま、ありがとう、残念でした。そんなんじゃありませんよーだ。大学のゼミの先生のサークル仲間よ。公認よ」
キン子は、受話器を置くと、鏡をちらっと覗いて髪をすくうと玄関に戻った。またチャイムが遠慮がちに鳴った。
「ハアーイ、起きてるわよ」キン子はドワを開けた。
 革靴にジーパン、上着は鼠色のタートルネックのセーターと紺のブレザー。観るからにちぐはぐな服装をしたボサボサ頭の青年がぼんやり立っていた。
 うっ、ダサイ。キン子思わず口を押さえた。自分の周りにはこんな若者はいない。次の瞬間、ゆうべの彼だと思いだした。夢井なんとかといったドジョウの会の会員。そうだ、空き部屋に泊めてあげたのだ。キン子は、昨夜のことを思いだした。
「なんなの、こんな早くに?!」
「あのう、そろそろ出かけませんか」
夢井信吉は、恐る恐る、それでいて有無を言わさぬ口調で言った。
「えっ!?でかけるって? 」
「忘れてるんですか!? 集金ですよ。年会費の集金、二人でやることに決まったじゃないですか」
「ああ、集金のこと!? 覚えているわよ、覚えている」
キン子は、わざと大声で言った。実のところすっかり忘れていた。何か面倒な会議だったが、居酒屋のビールが議題となったことをみんな流してしまった。
 いま、はじめて集金のことを思いだした。そういえば年会費の集金を手伝う約束をした。会員ではなかったのに、白川教授のゼミ単位が欲しいばかりにわざわざ会員になって、後悔するが、もう遅い。まったく物好きなんだから。キン子は、自分にあきれながらも、満更でもなかった。隣の沢井夫人がゴミ出しをするふりをしてドワの隙間から、こちらの様子を窺っている。キン子は、わざと声を大きくして言った。
「わかってるわ、集金でしょ。一緒にやるんでしょ」
「だったら早く出かけましょう」
信吉は、急かす。
「えっ!? ウソでしょ。昼からでいいんじゃないんですか」キン子は、あくびをかみ殺して言った。
「何言ってるんです」信吉は驚いて声を張り上げた。「昼なんか、とんでもないです。昨夜、数えたら払ってない人、都内でも30人以上いるんです。のんびりしてたら回れませんよ」
「ああ、そうか、えーと」
「夢井信吉です」
「そうそう夢井さん、夢井さんだった。地方からきたんですよね」
「そうです。だから、こちらに泊めていただいたんじゃないですか」
「そうか、そうだったわ」キン子は、感心して頷く。彼を泊めた理由をすっかり忘れていた。
「二人で集金に行く約束したんだよね。ちょっと待ってて支度してくるから」
 ようやく事態を把握したキン子は、ドワを閉めて部屋に戻った。
 集金かあ・・・。どんなだろう。鏡の前に座って自分の顔に自問する。これまでアルバイトしたことがないので、集金に歩くということがよくわからない。何やら怖いような愉しいような妙な気持だ。
さてさて、珍妙なる二人の集金人。彼らの前に現れる「ドジョウの会」の会員諸氏とは、いったい、いかなる人たちであろうか。素直にすぐに滞納した年会費、払ってくれるだろうか。都会とはいえ早春の朝はまだまだ寒い。

二、最初のもめごと

 三月はじめの爽やかな朝である。まだビル街を吹く風は冷たいが、どこかに春の息吹を感じる。ねばっこいねこやなぎのつぼみを思い起こさせる。
 「ドジョウの会」を命運を担った、われらが女子大生のキン子嬢と、突然、ムイシュキン侯爵のごとく現れた謎の若者、夢井信吉。二人はさっそうと意気揚々と朝の街に繰りだした。
 しかし車道を埋め尽くす車の流れ、職場に向かう勤め人の洪水。昨夜、甲府からきたばかりの夢井信吉は、さすがに驚いて、都会の朝の喧騒にたたずむばかりであった。が、それでも暫し佇んだ後、勇敢にも、雑踏の流れ中に入って行こうと歩き出す。キン子嬢、寝ぼけ眼を見開いて叫ぶ。
「ちょつと待って、まずは朝食でしょ」
「朝食ですか・・・」
「そうよ。まだ、なにも食べてないのよ。私たち」
「ああ、それならホームでたべましょう。立ち喰いそば」
「立ち喰い?!」キン子は、素っ頓狂な声をあげてから、にらんで叫ぶ。「何、考えてるの。立ち喰いなんて、わたし嫌よ」
「時間の節約です」
「キン子、朝はコーヒーと、カリカリに焼いたトースト。それに決めてるの」
 キン子は、ぷーと頬をふくらます。フグが怒って膨らんだようだ。信吉、困った顔で、申し訳なさそうにぼそっと言った。
「実は、お金、あまり持っていないのです。まさか、こんなことになるとは、思ってもみなかったので――それで、なるべく使わないようにしょうと」
「え、何?!お金、持ってないの」キン子は、驚いた。お金がない。大手企業大野建設の末娘。貧乏は小説や映画で知ってはいるが、現実にお金がない人をみるのは、はじめて。めずらしくてしげしげながめる。
「ええ、そうなんです。まさか、こんな事態になるなんて考えてもみませんでしたから」信吉は、繰り返して言った。そのあと、ため息まじりにつぶやいた。「お金のこと、皆さんに、話せばよかったんですが、あのときは会再建のことで頭がいっぱいで――」
「あきれた。でも、やっぱり無理だったかも。あの人たちじゃあ」
言ってキン子はおかしそうに笑いだした。
「だから、そういうことなんですよ」信吉は、渋り顔で言った。「帰りの切符、買ったらスカンピンです。立ち喰いだったらなんとか、それに時間も有効に使えます」
「お金を持ってないのに集金なんて・・・」キン子は、呆れながらも、そこは成り金の娘。この窮地に策はないかと考えていたが、突然、声をあげた。「なんだ、こんなこと思いつかないなんて。わたし、やっぱりおバカさん」
「なんです?」
「お金ならあるわよ、集金のお金を前借すればいいのよ。日当の代わりにもらえばいいのよ」
「しかし、それは・・・」
「なに言ってるの。ドジョウの会っていうヘンな会を救うんでしょ。そのことを考えれば、前借なんて大事の前の小事じゃない」
「大事の前の小事ですか。非凡人思想のようですね」信吉は苦笑する。
「なんなの?非凡人思想って。わたし何かいいこと言ったの」
「キン子さん、ドストエフスキイを読まなくたって、立派にドストエフスキイしてます」
「なんなの、へんな人・・・」
キン子は、わけのわからないことに感心する信吉を訝しげに見た。そして、思った。この人、やっぱりヘン、変ってる。そう思うとちょっぴり不安になる。
「でも、やっぱり集金のお金、使うとまずいです」
「まだ集金もしないうちに、あきれた」キン子は、言ってから、突然、声をはりあげた。
「そうだ、現金、持ってなくてもカードは持ってるでしょ。カードでお金おろせば」
「カードですか―――」信吉は、困ったようにキン子をみる。
「そうよ、カードよ。キャッシュカード。地方だって同じでしょ」
「持ってませんよ。そんなもの」
「持ってない?!」キン子は驚いて聞く。「ウソでしょ。一枚ぐらいあるでしょ」
「本当に持ってないんです。一枚も」
「ウソ・・・」
「ぼくは、そういうもの持たないことにしているんです」
「ウソ――」キン子は、珍しいものを見るようにシゲシゲ信吉を眺めて言った。「カード、持ってないなんていまどき、そんな人いるの?」
「そんなに驚くことですか」
信吉は、さかんに不思議がるキン子を尻目に、いささか不機嫌そうに歩きだした。たかがカード一枚で、大騒ぎするキン子の考えが分からなかった。
「いいわ。お金のこと心配しなくたって、わたしのカード使って、ごちそうするわ」
「泊めてもらったうえに、それは・・・」
「あー、もう面倒!とにかく立ち食いはイヤよ。わたしのお金つかうから、付き合ってよ。わたしお金に困ってないから」
 キン子は、すっかり姉さん気どりだ。なにしろ、この集金行脚、退屈しのぎプラス、レポート免除に4単位のおまけ。「ドジョウの会」へんな会、へんな人たちの集まりだが、うまくゆけば、集金行脚が成功すれば、あの役員たちからは感謝され、大学での授業欠席も甘くみてもらえるはず。まさに一石三鳥のうまい話。相棒となった青年は、天然ボケのようで、どこの誰ともわからぬが、悪い人間ではなさそうだ。勤勉実直でどこか抜けている。この分なら自分が完全に主導権をとれそう。みんなわたしの才覚にかかっているのだ。そう思うと、うれしくなってくる。これまでの人生、幼稚園から大学までママまかせだった。
 キン子は、信吉を従え、長い黒髪をさっそうと駅近くにある小さな喫茶店に入って行った。フランスふうの瀟洒な店。信吉は、戸惑いながらも渋々、あとにつづいた。
 集金前、大野キン子と夢井信吉は、キン子常連のしゃれた喫茶店に入る。
「あら、早いわねえ」前髪を金色に染めた五十がらみの女主人がカウンターの中から驚いたように声をかけてきた。「どうしたのよ。キン子ちゃん、こんなに朝早く」
「ヒドイ、わたしだって起きるときは起きます」
「何かあって?」言って女主人は、信吉をちらっと見て意味深に微笑む。
「お仕事、お仕事」キン子は、自慢そうに胸を張る。
「あら、感心じゃない」女主人は、目を丸くしながらも怪訝そうに聞いた。「こちらの、お兄さんと一緒に?」
「そうよボランティアだけどね」キン子はうれしそうに答えてから客が立った隅のテーブルを指さして信吉に言った。「あの席がいいわ」
 二人はレジに回った女主人を横目に隅のガラステーブルを陣取る。磨かれたガラス窓越しに駅に急ぐ人たちが見える。
「もう少し時間ずらさないと。土曜だって電車、混んでるわ」キン子は場慣れた口ぶりで言って手鏡をだして化粧をはじめる。
「そうですね・・・」信吉は、あきらめ顔で頷いた。
「今だって、無駄じゃないわ。作戦たてましょう、ここで」キン子は、手早く化粧をすますと、言った。「浜島さんだっけ、会計の人。あの人、いってたでしょ、会の集金は、楽そうで意外と難しいって」
「キン子ちゃん、何しますか」向こうから女主人が、大声で聞いた。
「わたしピザトースト。夢井さんは」
「ぼくはトーストで」
「ホット、ブレンドね」キン子はお冷を運んできたウエイトレスに注文すると、バックから、昨夜、名曲喫茶で浜島会計委員から預かった名簿を取り出してひろげた。すっかりビジネス女子になりきっている。
「あの人、連絡しない方がいいっていってた。アポなしで。なぜ?」
「話きいてなかったんですか」
「忘れたわ」キン子は、あっけらかんと言って笑う。「どうして、どうして連絡しないで行く方がいいの」
「経験からでしょう。電話すると、たいてい断られるらしいです」
「それで、いきなり?」
「そうです。サークル活動の集金は、突然の方が効果ありとのことです」
「そんなノウハウあるんなら、自分がすればいいのに・・・」キン子は、意地悪っぽく言ってボールペンに長い黒髪を巻きつける。集金モードでいっぱい、そんな表情だ。

三、集金作戦計画

「だけど・・・連絡しなかったら無駄足になるかも知れないかも。土曜日だからって、必ず家にいるとは限らないし。今朝だって通勤客が、いっぱいいる」
「そうね――」つぶやきながらキン子は、てんで意に介さない。会費納入名簿に夢中になっている。「多い人で10年近く払ってないわ。3万円の滞納。たいていの人は、4、5年だから、平均1万円前後。1万円だったら、すぐに払ってくれるわよ」と高をくくっている。
「とりあえず、在宅だけは確かめよう」信吉は不安そうに言った。
「いいわ」キン子は上の空で頷くと名簿を読み上げながら自分のノートに書き込んだ。「赤○がついているのは、必ず払ってくれそうな会員だったわね。ホントかしら。足川、新屋、池山、岩佐・・・こんなにいるの、へんねえ!?」
「なにがです」
「どうして、この人たち自分から振り込まないの。会計の浜島さんが太鼓判おすくらい優秀な会員なんでしょ。ヘンよ」
「そうですねえ」信吉はうなずいたが、それほど不思議がってはいない。ローンだったらともかく自主的に払う人などいるとは思えなかった。
「ま、いいか」キン子はあきらめて、再び名簿の点検をはじめた。創刊号が赤字だったからといってあの体たらく、責任逃れの醜態。役員にしてあの様だから、会員は推して知るべしかも。もっとシビアでケチケチかも・・・。そう思うと不安になってきた。緊急会議には出席しない、年会費は払わない。それでいて脱会届もださない。煮ても焼いても食えない人たち。そんな人たちから集金しようというのである。考えると、不可能に思えてくる。
「みなさん、みんな払ってくれますよ」信吉は相変わらず楽天的。「住所を整理して、近場からはじめましょう」
「本当に信じてるの」コーヒーを飲んで、頭が冴えてくるとキン子は、現実的になる。ボールペンを指先でくるくるまわしながらあれこれ思いをめぐらす。
 どう考えても信じがたい。19世紀のロシアの小説家のファン。ただそれだけの理由で――ほかに何かあるのかもしれないが、キン子には、それだけしか思えない。会員になっている人たち。長期の会員といっても、実態は幽霊会員に違いない。ギャルはギャルでも、立志伝人物大野建設社長大野拓次郎の娘である。損得にかけては頭の回転は速い。
 この滞納金集め、安請け合いしたが自分が考えるほど簡単ではない気がしてきた。キン子は頭の中でそろばんをはじく。1万円以上の滞納者は10人以上もいる。3万円の大口も5名。ここ2、3年の滞納者は十数人。全額で100万近い大金だ。よくもまあ、放置してきたものだ。このうち住所から集金可能な人は30人近く。
 ホントに集まるかしら・・・。キン子は、だんだん心細くなってきた。しかし、目の前で、黙々トーストパンを頬張っている夢井信吉青年は、心配などどこ吹く風の様子。
 バカみたい。何でわたしが、お金のこと、心配しなくちゃいけないのよ。これは、ただのゼミの延長。滞納金、集まっても、集まらなくても、わたしには関係ない。わたしはレポート免除で、単位ももらえる。一石二鳥のバイトなのだ。キン子は、そう自分をいいくるめると、運ばれてきたピザトーストを手にとった。そして、指先についたチーズをなめながら胸の内で何度も自分に言い聞かせた。
 ・・・退屈しのぎよ、退屈しのぎ・・・なんでも、すぐに夢中になるのが自分の短所。わかっているのに、ついはまってしまう。もっと気楽に、やらなくちゃあ。彼女は、そう思いながら、
新宿区西大久保、二番手はメジロ。ここからは近距離だ。近いけどバスに乗った方がいいかも。
 それにしても、突然、見ず知らずの、それも役員でもない、二人が集金にきたらどんな顔するだろう。想像すると、面白い気もしてきた。

四、不安な開始

 新宿駅は、土曜日だからか、土曜日にもかかわらずか。人、人、人でいっぱい。二人は、洪水のような人波に押されて地上に。階段を上がっていくビルの谷の間に青空が見えた。
「うわー、こんなになって」
信吉は外に出ると嘆息して、東口周辺を見まわした。ひどくなつかしそうだ。
「あれ、来たことあるんですか、新宿?」
「はい、ええ、少し」信吉は、一瞬、こわばらせながらも、青白い頬をぽっと赤く染めて言った。「昔、ちょっとだけいたことがあるんです」
「ああ、そう」キン子はうなずいたが、ちょっぴり落胆した。まるっきり田舎物でもなさそうだ。そういえば昨夜、甲府からでてきたと自己紹介したが、それ以外、夢井青年のことは何も知らないのだ。「いたことがあるって、住んでいたんですか」
「はい、そうです・・・」
「もともと。東京の人?」
「違います。生れは、もっと北です」信吉は、言葉、少なに言った。なぜか困惑げだ。話したくないようである。
「じゃあ東京には、働きに?」
「ええ、そんなところです」信吉は上の空で頷いて、その話題から逃れるように言った。
「えーと、どのへんでしたか、地図みましょう」
 キン子は、不満だった。今日明日、一緒に仕事する相手、もっと知りたいという気持ちはあった。だが、信吉は、もう、そんな会話に乗らない腹だ。地図を片手に番地捜しに没頭している。足早に、大通りを横切っていく。
 大通りを逸れて路地に入ると、モルタル造りの安アパートや民家がひしめく昔ながらの街並みだが、路上に策やの酔っ払いの残滓が目立つ。小便くさい。怪しげなホテルも軒を連ねている。
「何か、嫌な感じだわ。会員の人、ホントこんなところに住んでるの」
キン子は、テレビのニュースか何かで見た外国人娼婦が立つ街のことを思いだした。街並みが似ている気がした。「ここが、そうかしら・・・」キン子は、見回す。午前中だ。それとわかる女性などいるはずもない。それどころか、所々に虫歯のように朽ちた民家もあり、この一角、荒廃感ただよう無人の町のようだ。
「変だわ、3-4だから、この辺りでは」信吉は立ち止まって電柱に巻かれた番地を確かめる。「ここですよ。やっぱりここの番地」
「ウソー」
キン子が驚くのも無理なかった。
 二人の目の前にあるのは、明らかに空き家とわかるモルタル造りのオンボロアパート。玄関、窓にベニヤ板が釘で打ちつけられていてらくがきしたように赤ペンキ、白ペンキで「立ち入り禁止」だの「私有地」だの文字が書きなぐられていた。二階の屋根は半分解体されていて、彼方に林立する西新宿の高層ビル群がよく見えた。未来都市を思わせる光景に比べ、ここの街並みのなんとみすぼらしいことか。あまりの落差に唖然とするしかない。
「うわー、なあに、これ!!」さすがのキン子も、大げさに悲鳴をあげた。 

五、集金の難しさ

 二人の目の前にあるのは、明らかに空き家とわかるモルタル造りのオンボロアパート。玄関、窓にベニヤ板が釘で打ちつけられていて落書きしたように赤ペンキ、白ペンキで「立ち入り禁止」だの「私有地」だのの文字が書きなぐられていた。二階の屋根は半分解体されていて、彼方に林立する西新宿の高層ビル群がよく見えた。未来都市を思わせる光景に比べ、ここの街並みのなんとみすぼらしいことか。あまりの落差に唖然とするしかない。
「うわー、なあに、これ!!」さすがのキン子も、大げさに悲鳴をあげた。
 「あけぼの荘って書いてありますから、ここですよ。解体するみたいですね」信吉は、近づいて隙間から覗き見しながら間のびした声でつぶやいた。「転移先はどこだろう・・・」
「転移先?――そんなとこありっこないわ」
「どうしてですか ? 」
「どうしてって」キン子はあきれ顔で信吉を見た。
「追いだされたのよ。ここの住人、みんな」
「えっ、だれにですか」
「地上げ屋に決まってるじゃない」キン子は、言ってから苦笑。「地上げ屋は全国的よ」
「地上げ屋ですか・・・」信吉は、頷きながらも浮かぬ顔で聞いた。「じゃあ、ここはバブルのときからこんな状態なんですか」
「そうみたいね。追いだしたはいいが、はじけちゃったんで、ビルつくれないのよ」キン子は得意になって説明した。バブルがはじけた頃、父親の金次郎が、さんざん口にしていた話である。
「大変だったんですね。その頃は」信吉は、他人事のよう言って頷く。
 その顔にキン子は、一瞬、怪訝に思った。一時、社会問題にまでなった地上げ屋のことなど、だれでも知っていることではないか。しかし、彼は、まったく知らないようだ。初めて聞くことのようことのような反応だ。へんだわ。キン子は、信吉の無知ぶりにちらっと疑問をいだいたが、、すぐに、甲府の山奥にいたせいかしらと納得した。
「新しい住所、どこだろう」
「もう、相当前よ、わかりっこないわ」キン子は、皮肉っぽく言った。「それに――」
「それに、なんですか ? 」
「会費未納者よ。これ幸いと住所をくらませたかも」
「?」信吉は意味わからず首をひねっていたが、突然、声をあげる。
「そうだ、区役所に行けば教えてくれますよ」
「時間の無駄だわ。遠くだったら。それに、近頃、教えてくれないらしいわ」
「そうですか・・・」
信吉は、がっかりする。
「あきらめましょう、この会員」キン子、あっさり言った。「引っ越しても新住所、知らせてこない人でしょ。近くだったとしても、払ってくれない確率大だわ」
「がっかりですね・・・集金第一号になると思ったのですが」信吉は、残念そうにつぶやくと紙袋からノートを出して渋々、書き込む。
①小谷真一 移転(新住所不明) 集金なし
「ついてないわね。最初の人がこれじゃあ」キン子は小首をすくめて苦笑した。その後、冗談ともつかぬ顔で眉をひそめて言った。「ほとんどの人、こんな調子かもしれないわね」
「そんなことないと思います」信吉は、大きく頭を振った。どこまでも信じているようだ。
 キン子は、からかいたくなった。
「だって、住所変わっても何も連絡してこない人たちでしょ」
「えーと、つぎの会員は・・・」信吉は、無視して名簿を覗き込む。
 信吉は、固く信じているようだ。最初の会員は、例外で、ほとんどの会員は、必ず払ってくれるということを未だ、頑迷に信じている。――どうして、とキン子は不思議に思う。ドストエフスキイの作品を読んでいるというだけで、そんな連帯感が生まれるのか。わからないだけに皮肉の一つもぶっけたくなる。
「会員の人って、皆さん、こういう人たちじゃないですか。昨夜、皆さんのお話し聞いてて、何かそんな気がしたの。ドストエフスキイが世界で一番偉い作家だっていってるけど、どうみても、読者の人たちはみみっちい感じがするの。どうよく考えても、すばらしい会だなんて思えない。それに会費の滞納者がこんなにもいる会なんてある ? 」
 スイッチの入ったラジオのように「ドジョウの会」の悪口と集金の不可能をまくしたてるキン子だが、夢井信吉は、馬耳東風。名簿から移したノートと都内地図をみくらべていたが、不意に顔をあげて聞いた。
「豊島区の方が近いですよね」
「え、どこと ? 」
「渋谷とです」
「そうねえ、豊島区も広いから」
「雑司ヶ谷です」
「それなら、近いわ」
「じゃあ、次はこの会員にしましょう」
 相手がいなければ、どうにもならない。集金作戦、第一号は、早くもとん挫。信吉は、めげずにきりかえる。
「いいですけど」
「行きましょう」信吉は、性急に言って歩きだしたが、はたと足を止めて聞いた。「そこって、どうやって行きます」
「ここから、タクシーなら近いわ」
「えっ! とんでもない。ダメですよ」信吉は、慌てて首を振った。「戻りましょう、駅まで」
「えっ、面倒だわ、池袋まで行くことになるのよ」
「タクシーなんて、まだ一人も集金もしてないのに、たとえお金あってもダメですよ」
信吉は言い捨てて歩き出した。
「待って、キン子は痕を追いながら聞いた・「でも、どうするの。今、みたいだったら。折角いってみても、まったくの無駄になるわよ
「あ、そうか」信吉は、叫んで頭を抱え込む。「そうですねえ」
 早くも二人は集金の難しさに直面した。払ってもらえるか、もらえないかの前に在宅有無の問題があることを知らなかった。肝心要なことではあるが、集金初歩中の初歩だけにさすがの浜島会計係も、伝授し忘れたようだ。
「どうしょうか」困窮顔で、頭のぐしゃぐしゃ髪の毛をかき回す信吉だが、キン子は、そこはさすがに都会っ子、機転が早い。
「電話よ。電話してみればわかるわ、在宅かどうか。浜島さん、集金は、直接とかなんとかいってたけど、いなければダメだし、電話で断られたら、わざわざ行っても払う? 参加もしてない会の会費なんか」
「そうですね・・・」信吉は、まくしたてられて自信なくなったのか、小声で頷く。
「いいわ、とにかく、わたしかけてみるわ。当たるも八卦だったかしら」キン子は言って信吉を見て笑う。「電話番号わかります」
「この会員は・・・」信吉は名簿をひろげて言った。「えーと、番号、ばんごう、あった、書いてあります」
「そう、言ってみて」キン子は自分のポケット手帳に写し取ると周りを見回した。角のコンビニストアーの前にグリーンの電話機があった。キン子は、小走りに向かう。
「もしもし――あ、米村さんのお宅ですか。」キン子は、猫なで声で訪ねた。声には自信があった。「失礼ですが、征二郎さん、いらっしゃいますでしょうか。あ、ご在宅でしたか、ありがとうございます。わたしですか、えーと」キン子は、返事に窮してか、受話機口を手でふさいで信吉に聞いた。「何の会でしたっけ? 」
「ドジョウの会です」
「あっそうだったドジョウの会、へんな名前、わかるかしら」キン子は、疑り深そうにつぶやいて受話器に話しかけた。「失礼しました。ドジョウ、ドジョウの会といいます。いえ、田んぼとは関係ありません。鍋料理とも違います。ドストエフスキイという――、ご本人様ですか。ご在宅と、お伺いしましたが、これからおうかがいしてもよろしいでしょうか。ありがとうございます。よろしくお願いします」キン子は、ペコペコ頭を下げて、ようやく受話器を置いた。
「なんだって」
「家にきてくれって、払う気あるみたい。へんね、ご本人、すごく悪がっていた」キン子は、腑に落ちなさそうに首をひねって叫ぶ。「それより、あ――イヤになっちゃうわ、先にでた人、奥さんみたいだったけど、ぜんぜん通じないの。ドジョウの会のこと、まるでしらないのよ。柳川に旅行に行くんですか、まで聞くんだから」
「その人、米村さん、いくら滞納ですか」
「うわー、3年分よ」
「いくらです」
「三年分の滞納だから1万2千円」
「そんなに! 」信吉は、驚く。
「払わない方にかけるわ。さっきの奥さん、しっかりしてたから」
「ぼくは、信じます。払ってくれると」信吉は、確信しているように大きく頷いて言った。本人に会えば大丈夫ですよ。早く行きましょう。
 二人は元きた道を引き返し、新宿駅の方に向かって歩いていった。まだ、更地になった一戸目をまわっただけなのに、ずいぶん歩きまわったような疲労感があった。
 雑司ヶ谷の会員。昨夜の役員以来、はじめてあうドジョウの会の会員。さてさて、いかなる人か。滞納金は、耳を揃えて払ってくれるのか。

六、駅地下街で

 新宿駅地下街の雑踏。絶えることのない人の流れ。買い物客、勤め人、遊び人、若者、学生。外国人、白人、黒人、アラビア人。それら老若男女がごちゃまぜとなって早足に歩いている。濁流となって流れている。楽しげな顔、切羽詰まった顔、怒り顔、虚勢顔、すまし顔、泣き顔、笑い顔、急ぎ顔、考え顔、流れの中に様々な顔がある。その顔の表情からその人の生活が人生が読みとれそうだ。我らがドストエフスキイの大先生なら何百、何千の主人公をひねり出すことができそうだ。どの顔も、文庫本一冊でも書き足らぬ表情がある。
 むろん我らが主人公「ドジョウの会」集金人のご両人も例外ではない。しかし、その顔色は対照的だ。キン子嬢は、早くも疲れと眠気で曇り顔。今朝の意気込みはどこへやら、ご機嫌ななめである。まだ一銭の収穫なしにテニス焼けした健康顔もさすがに不安と焦燥の色がジンワリにじみでていた。しかし一方の信吉は、まだ些かの焦りの影も疲れた様子もない。元気はつらつの進軍である。この人波に昂奮したのかほんのり頬をそめながらも、もの珍しげに洪水となって流れる人の流れをキョロキョロながめていた。が、しばらく行くと視線は、地下道の隅で寝ころぶホームレスたちに注がれた。
「夢井さん、そんなにじろじろみない方がいいわよ」キン子は、心配そうに信吉のコートの袖を引っぱった。「わたし逃げちゃうからね。因縁つけられたら」
「探してるんです」信吉は、苦笑いして言った。
「探してる ?!だれを?」
「いつだったか、テレビみてたら――インタビューしてたんです。このあたりで、そしたらあの人たちのなかに『カラマーゾフの兄弟』を読んでるっていってた人がいたんです。本を記者にみせました。でも、記者さんは、自分は、まだ読んでいないからと尻込みしちゃって、話はそれで終わっちゃったんです」
「それだけのお話し・・・」キン子は、興味なさそうにいささか気抜けした顔で言った。
「すごいじゃないですか。仕事もやめ、家庭も捨て、社会とのつながりも、一切合財無くした人が、ドストエフスキイの作品を持っているなんて。それも人間関係がいっぱい詰まった『カラマーゾフ』をもって読んでいたなんて、すごいですよ」
「たまたま、拾ったんじゃないの、それとも捨ててあったか」キン子は、笑って言った。
「捨てませんよ。ドストエフスキイの本は」とたん信吉は、乱暴に叫んだ。
「えっ!」キン子は驚いた。が、すぐにからかうように言った。「捨てたらだめですよね。ドジョウの会のみなさんにとっては聖書のようなものです」
「ぼくは、ドストエフスキイは捨てません。聖書はすてても、持っています。ノーベル賞をもらった科学者の偉い先生だって、自分の本棚に最後まで残った本はドストエフスキイだった、と日記にかいています。捨てるなんて信じられません」
「そうですか・・・」ドジョウの会の会員にドストエフスキイを茶化すのは禁句のようだ。キン子はあきれて言ってから、こんどは慰めるように聞いた。「それで、本を持ってた人わかるんですか」
「いえ、画面が暗くて、顔はよくみえませんでした」
「なんだ、それじゃあわかりっこないじゃないの」キン子は、大げさに叫ぶ。
「でも、なんだかわかる気がするんです」
「はい、はい、そうですか」ドストエフスキイ談議するのがばからしくなった。それで、一転からかい気味に言った。そうですか、で。どうするんですか。その人がいたら」
「話ししてみようと――」
「あきれた! 」キン子は、本当にあきれた。
 ドジョウの会の人たちってドストエフスキイを読んでいれば、持っていれば誰もかれも、みんなお友達とおもっちゃうんだから。顔も名前も知らないのに、相手がホームレスだってなんだってかまやしないんだから。やっぱり信者ね。ぜったいにそう思う。ドストエフスキイ教の狂信者。ここまで考えてふとわが身を思う。そういう私も、ほとんど知らない若者と、テニスサークルの男の子だって一度も二人きりでデートしたこともないのに。ドストエフスキイだって一冊どころか一ページも読んだことがないのに、地方からでてきたポットでの会員二人と、こうして集金をやっている。これって何?! 思いだしたらぞっくとしてきた。
「ああ、イヤだわ。いやね」キン子は思わず体を震わせた。
「何がです?何がいやなんですか」
「そういう考え」
「そういう――? 」信吉は困惑顔にたずねる。
「そういう考えよ。ドストさまさまの。「ああ、イヤだ。そういう考えよ。すぐお仲間だと思っちゃう」キン子は行って苦笑する。そのあと、弁護するように「まあ、いまどきドストエフスキイなんて読んでる人なんかめずらしいから」
キン子は、言ってからたずねる。
「それってなんていったかしら。パンダのような動物」
「絶滅稀少動物ですか」
「ああ、はいはい、それそれ」キン子は、大笑い。「ドストエフスキイなんか読んでる人、どうみたって絶滅稀少よね。ドジョウの会の人たちがいなくなったら、終わりになる運命だわ」
「ずいぶんですね」信吉は、いささかムッとして言った。
「でも、興味もってるんでしょ。話しかけたいんでしょ。お仲間かもしれないから」
「ぼくは、ただ、どんな人かと知りたいだけです」
「いいわよ。遠慮しなくたって」
「ドストエフスキイは愛読者にとって心の故郷のようなものですから、読んでる人は同郷人なんです。声かけてもおかしくありません、困ってれば相談にものってあげたい。」
「やっぱりじゃない。」キン子は勝ち誇って言った後、急にまじめ顔になって訝しげに言った。「そこんとこ、いくら考えてもわかんないの。同じ小説を読んだら同郷人だなんて。世の中、同じ小説読んでる人なんか、いっぱいいるわ。ベストセラーは、どうするの、みんなお仲間じゃない。ドジョウの会のひとたちもそうだけど、何かむずかしいわけのわからないこと言って、それって宗教ぽくて、気味が悪いわ」
「読んだらわかりますよ」信吉は、語気を強めた。
二人は駅に着いた。
「すぐそれね。読めばわかる。ずるいわ」
 「それは―――」
信吉は会話を中断して切符販売機にむかった。二人は、改札を抜け出ると階段をあがって山の手電車のホームにでた。
「でも、あの人たちって、何、考えてるのかしら。もちろん、ドストエフスキイを読んでる人たちのことよ」電車のドアが閉まると、キン子は話をホームレスに戻した。「ちょっとは聞いてみたい気もするわ。ドストエフスキイ役に立ってますかって。それにしても、よく平気でいられるわ。お風呂も入らないんでしょ。あんな生活から早く抜け出したいんでしょうね」
「思うでしょ」
「じゃあ、本人はやめたいと思ってるのね」
「だれだって同じですよ。人間なら。大野さんだってイヤでしょ。あんな生活」
「当然だわ」キン子は一緒にされてたまるものですかと、憤然。「わたしなら一秒だってあんなところにじっとしていられないわ」
「人間は一度、はまった境遇から抜け出すことはむずかしいんです。よほどのエネルギーがないと」キン子は信吉の抽象的な言葉に首をすくめると皮肉っぽく返した。
「よくわかってるのね」
「そうじゃないですか・・・」
「わかんないわ。どうしてそんなふうに他人のことがわかるんですか。経験があるみたいに」
「経験なんて、何です。そんなものなくたってわかります。人間、中味は、みんな同じです」
「ウソよ! そんなこと信じないわ。わたしとあの人たちが同じだなんて」
「人間は、どんなことにも慣れる、とドストエフスキイは言ってます」
「また、十八番のドストエフスキイ。聞きあきたわ」
「そうですか、やめましょう」
 信吉は。あきらめ顔で笑った。人間について論争したことを悔いた。自分は、ただ段ボール生活しながら『カラマーゾフの兄弟』を読む感想に興味あっただけ。ドストエフスキイの話をするつもりはなかった。信吉は、だまっていることにした。
「しかし、あの人たちの存在は政治家の責任ね。キン子は信吉が急にだまりこんだので気になって話題を変えた。「わたし、あの人たちを見るたびに思うんだけれど、どうして施設がないのかしらと疑問に思うの。だってそういう更生施設をもっとつくったら。ベトナムからの難民。みんなそういう所に入ってるんでしょ」
「いいこと、いいますね。大野さん」信吉は、急にうれしそうな顔をして言った。「そうですよ。あの人たちにだって、住むところが真っ先に提供されるべきです。その権利はあります。ホームレスになった人の中には、一生懸命働いてきた人だっています。不景気になって仕事がなくなったからといって知らんぷりは企業も政府も卑怯ですよ。自分たちが、つくれないなら、せめて場所と資材を与えて彼らに作らせばいいんです。あの人たちのなかにはビルや家をつくってきたひとだっています」
 ちょっと言ってみただけなのに。キン子は、信吉の社会正義の口ぶりに逡巡した。これもドストエフスキイの影響なのかしら。父親の大野金蔵の会社のことを思うと自分が非難されているようで嫌な気がした。
 折よく電車はホームにすべりこんだ。ふたりは出口に向かった。最初の集金、米村正二郎氏がその人だ。


七、最初の集金

 街の赤電話で在宅を確かめた米村正二郎の家は、すぐにわかった。目白駅近くの豪華マンション。地上げで空き家になっていた先ほどの大久保の会員の住まいとは雲泥の差。
「同じ会員なのに、ずいぶん違うのね」
キン子は見上げて思わず笑う。
「そうですけど…」夢井信吉は頷きながらも不安そうにつぶやく。「大丈夫かなあ。入るの」
 玄関がキン子の高級マンションより立派。威厳がある。ホテルのロビーのような雰囲気で、出入りは厳重な感じ。早くも管理人が訝しげに二人を見ている。信吉は、すっかり気おくれしたが、キン子は、まったく意に介さない。
「こんなところに住んでるのに、滞納だなんて」
あきれたように言ってガラスの回転ドアを押して中に入って行った。信吉は。あわてて、後につづいた。
 初老の管理人が管理人室から飛び出してきた。
「どちらさまに、御用で」訊問するように聞いた。
「すみませーん。702の米村さん、在宅ですか?」
キン子は委細構わず、大声で聞いた。
「いらっしゃいますが…、まだこの時間は…」訝しげだ。
「ああ、よかった」
キン子は、ほっとして胸をたたくとエレベーターにつづく中扉に向かおうとした。
「あ、ちょつと、勝手に入られては困ります」管理人は、あわてて立ちふさがった。「今、連絡しますから」
「電話で、つたえてありますけど」
「規則ですから」
管理人は、言ってメガネの奥から睨む。
 完全に、この二人怪しいといった顔だ。ブランド品を身につけているキン子は、ともかく信吉の風体に警戒心をみせている。愛想のない青白い顔、いつ床屋にいったのかもわからないもじゃもじゃ頭。よれよれのジーンズに古びた黒のコート。まさにボロで身をつつんでセンナヤ広場をうろつくロジオン・ロマーヌイチといったいで立ちなのだ。
 父親譲りの価値観と無頓着な性格のキン子だからこそ、一緒に同行できるが、ふつうの女の子だったら、とても並んで歩けない服装。おしゃれな女子大生と、ホームレス同然の冴えない青年のちぐはぐコンビ。どうみても702号室のお客とは思えない。親戚すじでもなさそうだ。年齢からいって友人、知人とも思えない。見る限り珍奇なアベック。
 管理人はなんとしても、マンション入りを阻止する構えだ。
「面倒ね」キン子は小声でいって舌をだす。
 この集金、当事者と会わない限り、第三者にいくら説明してもわかってもらえない。それがだんだんわかってきた。目ざとく郵便ポストにあった部屋に繋がるインターホンを見つけた。直接、話すしかない。急いで駆け寄ろうとした。管理人は、そうはさせまいと、先回りして自分からインターホンを押す。
「ハイ」返事があった。年配の女性のようだ。
「スミマセン、管理室のスガヤですが。今、お客様がお見えになっているんですけど」
「お客?」
「若い方、おふたりですが――」
「若い人?」
「電話でお知らせしてあるとか」
「電話、知らないわ」
「と、いってます」管理人は、勝ち誇ったようにふたりをにらむと語気を強めて言った。「うそついては困りますね」
「どなたか、お聞きして」インターホンは、まだ繋がっていた。
「わかりました」管理人は、インターホンにお辞儀すると振り返ってきいた。「あんたたち、だれ?」
「ドジョウの会のものですが!」信吉は大声で告げた。
「ドジョウの会ですって!?」声の主は、びっくり声で叫んでから言った。「そういえば。さっき若い女のこが、そんなようなことを言ってかけてきたけど、それ?」
「そうです。わたしです!」キン子は答えた。
「なんなんです。ドジョウとかなんとか言ってましたが。商品の売り込みなら。はっきりお断りします」
「正二郎さんは、いらっしゃいますでしょうか」
「し、しょうじろうさんって、主人ですか」
「そうです。正二郎さんに用事があって、うかがったんです」
「なんですの、主人は、これから出勤するところで、手が離せません。わたくしがおききします。何でしょう?」
「会費の集金なんです」
「会費の集金ですと!!」管理人のおっちゃんは、いきなり悲鳴をあげて騒ぎだす。「きみたち、困るじゃないか。そういう用件はだねえ、ちゃんと了解を得てないと犯罪だよ。やっぱりへんだとは思ったんだが、集金とは、いったい何の――」
 万事休すか。二人は、困り顔で、佇むほかなかった。ああ、集金ってむずかしい。さすがのキン子も打つ手なし。
「わかった!あんたたち宗教だろ、例の、そうだろう!きっとそうだ」管理人は速射砲のように、がなりたてはじめた。霊感商法の珍味が、つぼ売り、そのように思ったようだ。
「もしもし、もし、もーし」
インターホンから、さかんに声がきこえる。今度は男性のようだ。
「まったく、油断も隙も」管理人は今にも実力行使で追い出さんばかりの怒り顔で。だが、インターホンに向かっては、猫なぜ声で言った。「失礼しました。こちらでなんとかしますから。お断りしておきますから」
「いや、違うんだ。わたしの客だ。通してくれ」
「客?ドジョウの…」
「そうドジョウの会だ。通してくれ」
「え!?そうですか」管理人は、不思議そうに二人をみて渋々頷く。「わかりました」
「いや、なに、家内は知らなかったから」
「ああ、そうでしたか。わかりました」管理人は、一転、愛想良くなって、にこやか顔で言った。「よかったですね。お会いしてくれるそうです。こんなことめったにないことですが」
 管理人は、もったいをつけて、さも自分が口をきいてやったおかげといった顔で、揉み手をしながらエレベーターの前まで案内した。二人は振り切るように乗った。
「失礼しちゃうわよね、まったく」キン子は、7階のボタンを押すと、怒り声で言った。「会員本人さんに会うのに、こんなに大変だなんて」
「そうですね」さすがに信吉も頷く。
「わたし賭けてもいいわ。払ってくれないわ」
「でも、訪問を許可してくれたところをみると、気持ちは…」
「体裁よ。借金とりだか、なんだか知らない人が、朝っぱら玄関前で、いつまでも管理人とやりあっていたんじゃ格好わるいでしょ。うちのマンションでも同じことあるんでわかるわ」
「そうですか――」信吉は不可解げにつぶやいた。これまでの展開から、先は読みとれない、といった顔だ。
 エレベータが止まりドアが開くとふたりは緊張した足どりで降りた。最初、一人目の集金は、アパート取りの壊しの最中で、所在不明で空振りに終わったが、今度は、確実に会員はいるのだ。インターホンの応対から期待は薄かったが、二人は、はやる気持ちを抑えて『米村』表札のドアの前に立った。
「ここよ」
キン子は、ちょつぴり緊張した表情でちらっと信吉をみて軽く頷いてからブザーを押した。
 いきなりドアが開いた。待っていたようだ。金縁の三角メガネをかけた中年の女性がイラついた様子で立っていた。米村正二郎の細君のらしい。これから出掛けるところだったのか黄色いパンタロン姿の派手な服装。二人をきっと睨みつけるとごちゃごちゃ言い出した。
「あなたたち、こまるじゃないですか。主人に用事があるなら、はっきりおっしゃってください。下で面倒などおこさずに。まるでうちが集金とりに襲われている。そんなふうに思われてしまうじゃないの」
「はっきりいいました」キン子も負けてはいない。「あれは管理人さんが、勝手に気をきかせたんです」
「ああ、そうですか」細君は、小馬鹿にしたように薄笑いを浮かべて頷いた。が、訪問の目的をまだ知っていないらしく、二人を怪しげにじろじろ眺めまわしたあと、やっと聞いた。「それで、主人に何の用事ですの、みたところお若いひとが…」
「オイオイさっき話したじゃないか」
不意に奥の方で声がして背広姿の初老の男性があらわれた。二人を見ると、笑って「よねむらです」と挨拶して詫びた。「出勤前で書類さがしてたんで、失敬した」
 妙に親しげだ。いきなりのフレンドリーさに二人は、とまどった。
「ちょっとあなた、こんな若い人と、付き合ってるんですか」細君は、問いただす。
「付き合ってるって、おまえ」米村は、苦笑して言った。「会員の人だっていったろ」
米村は、二人をみて笑顔で聞いた。
「そうでしょ、ドジョウの会からきたんでしょ」
「はい、そうです。ドジョウの会です!」二人は大声で答えた。やっと話が通じる人に出会えた。地獄で仏。そんな気持ちだった。  

八、案ずるより産むがやすし 

 「米村です」白髪の紳士は丁寧に頭を下げて詫びた。「出勤前で、書類をさがしていたものですから、失敬しました」
「ちょっと、あなた、こんな若い人と付き合っているんですか」夫人は上目づかいにキン子を見て言った。「なんなんですかドジョウって」
「付き合ってるって?!」米村は苦笑いして言った。「会員だって話したろ」
「こんな若い人が会員だなんて、それもドジョウなんて妙な名前の」
「世の中には、いろんな名称があるんだ」米村は、夫人との会話を一方的に打ちきるとキン子を見て親しげに聞いた。「会の方、ずいぶん若い人、入ったんですね。ぼくはもう何年も出席していないから」
「あなた!」突然、夫人はヒステリックに叫んだ。無視されたのに腹をたてたようだ。「ドーなんとか?そんな会に入っていたなんて、聞いておりません」
「隔月にお知らせが、きていただろ」
「知りませんよ。通知なんか、いちいち調べてなんかいませんから」
 なにやら雲行きが怪しくなった。元官僚っぽい米村氏は、ドジョウの会のことを、夫人に、まったく説明していなかったようだ。夫人は、自分が知らないことがあったことに興奮を爆発させて治まらない。
「いったい、なんですの、ドジョウの会、って」
「ドストエフスキイの作品を読む会だよ」
「ド、ドストなんとかですって!小説家でしょ。それがどうしてドジョウなのよ」
「説明したって、どうせ君は聞いてはくれんだろう」
「どうせわからないですって!!」夫人は、キーンと目をつりあげて言った。「わたしだって四大の文学部をでてるんですからね、ドストエフスキイぐらいは知ってますよ」
 突如はじまった夫婦のもめごと。原因は、キン子と信吉の集金訪問が発端だ。
 二人は、あっけにとられてながめていたが、さすがにキン子は自分たちのせいでと思ってか、なんとかしなさいとばかりに信吉の背中を押した。信吉は、頷いて半歩前にでると恐る恐る分けてはいった。
「あのう、すみませんが」
「あ、申し訳ない」米村氏は、我に返ると照れ笑い浮かべて聞いた。「ドジョウの会のことででしたね」
「はい、会費の集金なんですが」キン子、素早く言った。
「ああ、そうだそんなようなこと言ってたね。そういえば。ずっと払ってなかったね。なにしろ仕事が忙しくて…で、いくらたまってます」
米村氏は、背広の内ポケットから黒皮の財布を取り出した。それを見て、仰天したのは夫米村夫人だ。血相変えて
「あなた ! 出席もしてないのに払うんですか ! 」
と、金縁メガネの奥の目を吊り上げた。
「三年分たまってますから、年間6000円会費ですから1万8千円です」キン子は、間髪をいれずに遮った。「創刊号の代金も入ってますから」
「えっ! 創刊号、でたんですか?!」米村氏は、眉をひそめた。
「あれ。しらないんですか?」キン子は、つけまつげの目を丸くして大げさに驚く。出版が大問題となって、会存続の危機をむかえているというのに、それで自分たちが集金に回ることになったというのに、この会員は、まったく知らなさそうだ。少し腹が立った。「会員のみなさんには、全員に送りました。私がおてつだいしたんですから」
「そうですか。へんだな」米村氏は、怪訝そうにつぶやいて夫人を見た。「キミ知らないかね」
「知りませんわよ。そんなもの」ザアマス夫人は、俄かにしどろもどろになった。「あなた、どうせ読みゃしないじゃあないですか。ダイレクトメールだかなんだか、いつも山になって積まれているじゃあございません」
「ということは、捨てたということだな」
「すてませんよ」夫人は、とぼけたが、あきらかに心当たりはあるようだ。
「そうかい」米村は、憮然と頷いて、キン子に言った「と、いうことだから、悪いけどもう一冊送ってください。注文します」
「じゃあ一冊分の本代金は、いただきます」
「じゃあ、お願いします」氏は、財布から2万円だすと、「おつりはいいから」と小手を振る。
「ありがとうございます」キン子は、電光石火すばやく受け取る。
「な、なんですの ! わたくしにわかるように説明してください」
「だから、ドジョウの会という文学の会に入っているんだよ」
「ドジョウだなんて」
「みなさんお元気ですか」米村は無視して、キン子にきいた。
「昨夜あったんです」
「あなた、はぐらかさないでください」
 またしても合戦がはじまりそうな雰囲気。二人は、大急ぎで外にでた。エレベーターに向かって駆けだした。管理人に会釈して道路に出るとやっと人心地ついた。
「なあに、あの夫婦。旦那さん、お偉いさんのようだけど、奥さんにやり込められていそう。なんだかドジョウの会の人たちって、似ている」
「いいじゃあないですか。あっさり払ってくれて。しかも余分に。幸先いいですよ」
「ホント、も意外とあっさりで、拍子抜けした感じもあるわ」
ふたりは、最初の管理人とのやり取りを思いだしておもいっきり笑った。
 昨夜の役員たちの会話から、ケチな人たちばかりと想像していたが、そうでもなさそうだ。キン子はほっとした。集金一号、18000円也、創刊号1冊1000円売上、1000円カンパ
 信吉はしっかりノートに記す。とにもかくにも、幸先良好、二人はにわかに元気百倍。次なる会員の住所めざして足取り軽く歩きだした。
 二人目の会員は雑司ヶ谷墓地近くに住む日野沢英明という人。名前から若者を想像していたが、ゆうに七十は越えていそうな白髪の老人だった。商店街の一角に日用雑貨の店を出していた。店は、古い木造二階家の一階にあって、五坪ばかりの店内にトイレットペーパー、ティシュの箱、洗剤などが天井近くまで積み上げてあった。老人は、店の奥にある三畳間で炬燵に入って新聞を読んでいた。信吉が要件を述べると、鷲鼻の頭にかけた丸眼鏡の奥から珍しげに二人を眺めまわした後、
「へえー、それで集金をねえ」他人事のようにつぶやいた。「バアさんが、あっちにいっちまってから会の方はご無沙汰してますよ。二人してはいっていたんだが。店を留守にするわけにはいかんですからな。ごらんの通りケチな店なんだが中国人がくるんでー」
「中国人ですか?」信吉は、物珍しげに聞いた。
「ほう、知らんですか、このあたりのアパートはみんな中国人が住んでおります。ほとんど福建省出身者ですな」白髪の老人、日野沢英明さんは得意げに話す。「「わしも戦争前、行っとって世話になったですから、回り回って、恩返しですわ。人生おもしろいもんだ」
 いつ果てるともない日野沢老人のおしゃべりにキン子は、イライラしてきた。のんびり相手をしている信吉の背中を押した。信吉は、頷くと話を切った
「あのう、すみません」
「なんだい」横やりを入れられて日野沢老人は、ジロリと睨む。
「会費、お願いしたいんです」キン子は、尽かさず言った。
「会費 ? 」
「二年分、滞納になっているんです」
「昔は二人分はらっていたが、定年になってから一本化したんだ。会の方にはわしの名を残し、払いの方はバアさんがやってたんだが、きゅうにおっちんじまったから、それでたまったんだな」
 支払ってくれる脈はありそうだが、老人はなおもはなしつづける。
「わしは借金はきらいだから、とりにくれば払うことにしている。自分から払いに行くなんぞ愚の骨頂だ」
 日野沢老人は、こんな調子でだらだら自分の持論をのべたあと、やっと滞納金を払ってくれた。が、ただではない。こんど出す号に自分の書いたものを載せろというのだ。
「きみら、これがどんな意味であるか知ってるだろ。〈わたしの胃の中で複雑化している固い要素の軟化に役立つところの湿潤作用の本質的根源を持って来い〉この文章の意味だ。知ってるかね」
「なんですか。知りません」キン子は、うんざりして答えた。
「なに!、知らん。不勉強だな。いまどきの若い会員はー」
「わたし、会員」じゃあ、ありません。キン子は言いかけてやめた。また、はなしが長くなったらたまらない。滞納金をもらったら、さっさと退散するに限る。
「もっと、しっかり読まなくちゃあいかん。読書会はやっとらんのかい」日野沢老人は、まるで旅人に謎書けるスフィンクスのように、ひきとめようとする。
「水の話なんだ。あれは」信吉は、苦笑してキン子に教える。
「水、みず1?」キン子は、素っ頓狂な声をあげる。「なんなんですか」
「水を持って来いを、学問的に言うとそうなるんだって、ドストエフスキーの論文にでてくるんだ。信吉は、二コリともせずに言った
「バカバカしい。ドジョウの会の人たち、やっぱりなにかへん」キン子は、あきれて言った。「そんなこと、謎かけにもクイズにも、なんにもなりゃしないわ。ただの遠回しだわ」
「その通りじゃ」日野沢老人、なぜか急に元気になって講釈はじめた。「どの論文も創作も、この轍をふんどる。まったくもってむずかしければよいというものではないのだ」声高に、ひたすら創刊号批判をやってから、最後に、自分が書いたという手書きの原稿を文机の引き出しからだしてきて「先が短いとこんな空想も浮かぶんだ。これはぎりぎりの想像、空想だからね。至って簡単、単純な寓話だ。役員諸君によろしく行ってくれたまえ」そう言って、強引に信吉に手渡した。
 次号どころか会解散の話もあるのに。キン子は、妻を亡くした偏屈一徹な老会員に内心、同情はしたが、もうこれ以上、わけのわからない話しに付き合うのはご免、集金さえ済めば。後は野となれ山となれである。2年分の会費を受けとると、「ありがとうございました」と、信吉の腕を引っ張って外にとびだした。
「急に、出てきたりしちゃあ悪いよ。話の途中に」
「あんな話、いつまでもきいていたらひがくれちゃうわ」
「そうだけど、一人でさびしいんだよ」
「さびしかったら、会に出席すればいいんじゃない。ドジョウの会あるんだから。お店、自分でやってるんだから、いくらでも都合つくわ。中国人がどうのとかわけのわからないこといって。人の面倒見てる身分ですかっての」キン子は、意地悪っぽく言って、信吉が預かった原稿をちらりとみてクスっと笑う。
「次号なんか、どうせでないんだから、オクラ入りね。これ、あのオジイちゃん可哀そう」
「そんなことないです。ぼくらの集金しだいです」
「あ、そう、たいした会だわ」
 キン子は皮肉っぽく言った。しかし、気持ちは軽かった。案ずるより産むがやすし。もっと困難かと思われた滞納者めぐりだが、案外簡単に支払ってくれる。まだふたり回っただけたが、拒んではいない。それになんとなく会員像がみえてきた、そんな気さえするのだ。金銭よりゴタクを得意とする、要するに一言居士、そんな人たちが多いようにみえる。皆これまで、どうしてドジョウの会の方に出席しなかったのか不思議である。
 キン子は思う。世の中、まだまだ自分のわからないことだらけだ。この人のこともまだ何も知らない。キン子は、黙然と肩をならべる夢井信吉をちらっとみて、わけもなくおかしくなった。
(通信178まで)

九、珍妙なる作品

 私鉄沿線に三名の会員の住所がつづく。少し遠いが、二人はデパートの一階にある駅から郊外に向かう電車に乗った。昼過ぎの車内は空いていた。春の日差しが眠気を誘う。
「このままハイキングに行こうかしら、」キン子は、恨めしそうにそとをみる。「こんなにいい天気なのに、集金だなんて」
 しかし。信吉には馬耳東風。
「ぼく、眠ります」と腕を組んで目をつぶる。 
「あ、そう」キン子は、手持ち無沙汰になって、信吉から日野沢会員の原稿が入った大判封筒を受け取った。万年筆で書いた文字が几帳面にならんでいる。ドジョウの会の創刊号『ドジョウ時代』に載せようとしたもの。難解なものに違いないと眉をしかめた。
 先ほどの老人のクイズのような言葉を思いだした。
「わたしの胃の中で複雑化している…あとなんていったかしら、水のことだってバカバカしい。自分も難解な文を書くのが好きなのに」
妻を亡くした孤独老人日野沢会員の作品。題は「穴の向こう側」。珍妙な題ではあるが、いったい、何が描かれているのやら――。
 どうせ難解な言葉ばかりならべた話。ギリギリの空想といったが、小説という老人の言葉を思いだし退屈しのぎにぱらぱらと飛び読みすることにした。20枚ぐらいだが、ちょっとでもむずかしそうだったら、すぐにやめよう。キン子は、ほとんどそんな半端な興味から恐いもの見たさ、難解ものみたさで読み始めた。
「『穴の向こう側』…へんな題」
 人間、老いてくると無性に穴を意識するものだ。障子の破れた穴、鍵穴、天井の節穴、道路の陥没の穴、臨死体験の穴、そして、宇宙のブラックホールなどなど。穴は日常生活の至る所にある。若いころは、そんなものを見かけたとて、何の興味もわかなかった。が、古希過ぎてからトミに気になってしかたがない。なぜだろう…考えるにこの現象は女性の穴に関心がなくなってから起こりはじめた。(なあに、あの会員ヒヒ爺だわ)自分の生物的能力が失せてから、しだいに穴への関心が強まってきたのだ。おそらく今の私にとって女性の穴は50円玉の穴ぐらいの価値しかない。(なんなの、このジイさん)かわりにわたしは物質や空想モノの穴にたいして以上な神秘と興奮をおぼえる。これは一体何なのだ?!
 よく臨死体験をした者がトンネルを見たという。あちらの世界とこちらの世界の境目にあるという穴。もしかして、わたしは無意識のうちに、そんなものをかんじているのたろうか。女性の穴が、この実存宇宙を創りつづける未来製造物なら生殖能力がゼロになってからわたしの意識にとりついた穴は、別世界、別宇宙に至る陥穽口か。魂の通路口。いつのころからか、わたしは穴に対し、こんな思想というか観念をもつようになった。そうして、穴に対して、こんな見解を持った。命あるもの全て死ねば、穴を通るとすれば、生あるときに、その穴を通ることができないものだろうか。穴の向こう側を覗くことができないものだろうか。「トンネルをぬけると雪国だった」という小説が、あったが、わたしが思う、トンネルの向こうには、いったい何があるのか。近似臨死体験ができないものだろうか。この思いが高じて穴とみれば、すぐに覗いてみたくなった。そんな衝動にかられた。おかげで、ずいぶんひどい目にもあった。道路工事の穴を覗こうとして転落した。客引きには、金をふんだくられ、民家の壁穴を覗いてパトカーに乗せられた。などなど、こんな災難あげたらきりがない。穴などにかかわったらろくなことがない。わかっているのに、やめられぬ、もしかしてわたしは余命いくばくもないのかもしれない。それで、こんな悪あがきを。そう考えるとなおのこと焦燥するのである。ところが、信じれば山をも動かす、ではないが、先日、ついに願い叶って穴の向こう側を知ることができた。いや、知るというより行くことができた。別に死にかけたのではない。夢の中のことだが、わたしは、死後の世界を垣間見たと信じている。夢ではあったが、現実のこととおもっている。むろん、こんなこと誰も信じまいが、わたしにはどうでもいいことだ。(なあに、これ前置き、そろそろあきてきたわ)
 …ある晩、わたしは夢を見た。なぜだかわからないが、わたしは東北地方の山村にいた。その村には「神と不死の穴」とか「極楽への入り口」呼ばれる洞窟があった。何の穴かはわからないが、昔からあって、村人は祠をつくり祭ってきた。伝説では、空から降りてきた神様が雨宿りした穴だそうだ。神様、寝心地がよかったのか、お礼にと病気や傷ついた生き物を助けた。そんなことで、その穴に入ったものはぜったいに死なない、そんな伝説が生まれた。真実はたんに狐か狸の棲みか。地形の変化で偶然にできた穴、そんなところだろう。もっとも、その穴が、「神と不死の穴」「極楽への入り口」と呼ばれるのは、それだけの謂れがあった。山の動物たちは死が迫ると、その穴を目指すというのである。これは猟師たちの話で、急所を撃ちそこねた瀕死の獣を追いつめると、決まって穴のあるこの方向に逃げる。穴に逃げ込まれたら神聖な場所でもあり、あきらめるほかないというのだ。山で動物の死骸をあまり見かけない理由もこんな言い伝えが起因しているかも。こんな話もある。昔、その穴神様を異常に信仰していた庄屋のジイ様が村人の婚礼の席で倒れた。婚儀は中断され、医者だ、薬だと大騒ぎになった。先んず、離れに担ぎこんで寝かしつけて一見落着と相成った。ところが翌朝、ふたたび大騒ぎになった。家のものが様子をみにいくと、寝ているはずのジイ様がいなくなっていたのである。村はまたもや大騒ぎになった。その最中、今度は、それどころではないことが起きたのだ。昨日婚礼を挙げた花嫁がにわかに産気づいたのである。妊娠を隠しての挙式だった。騒動と混乱のなかで花嫁は、無事、男の子を産み落とした。それからしばらくして山にキノコ狩りに入った村人が穴神様の近くで、ジイ様の着ていた羽織を拾った。しかし、村人は老い先短いジイ様のことはすっかり忘れて、妊娠を隠していた花嫁の話題にもちきりだった。羽織のことなど、どうでもよいことになっていた。ただ、奇妙な出来事として過去帳に記されたにすぎない。
 ここで思いだした。わたしが夢のなかで東北のある村に行ったのは、この穴神様が、テレビのオカルト番組で「ここで昔こんなことがあったそうです」と、とり上げられたからである。連日、いろんな趣味の会やサークルの見物客が押し寄せた。かく言うわたしも、その見物客の一人、「洞窟研究会」の一人である。あくまでも夢のなかのことではあるが…。長蛇の列、やっと順番がきた。目の前にあるのは、村役場が設置した巨大な賽銭箱。洞窟は、その賽銭箱に隠れるようにして、人が入れるだけの穴がぽっかりあいている。村おこしに建てた貧弱な鳥居。それさえなければ。ムジナかタヌキのねぐらのような穴。たぶんそれが真相だろう。それがわかっているから役場の職員も見物客を近くに寄らせない。マイクで「たたりがありますから」などと呼びかける厳重警戒。それでも見物客は、拝んで賽銭に、銭金を投げ入れて満足顔でかえっていく。
 伝説よりこちらの方が摩訶不思議といえる。――とはいえ夢のなかではあるが、わたしはなんとしても穴を覗きたかった。どうせ、タヌキか狐の糞がころがっているか、蜘蛛の巣だらけとわかっていたが、悲しき性で、ひと目、覗き見しないで帰ることはできなかった。見張りの職員と見物客の衆目のなかどうやって覗こうかと案じたが、生むがやすし、――夕方になると見物客は潮が引くように去ってゆき、役場の観光課も料理屋で宴会。穴神様周辺は、昼間の喧騒がウソのように静まり返った。墨を流したような暗がりに私の行動を阻むものは誰もいなかった。見知らぬ土地での闇夜。普通ならとても歩けたものではないが、そこは穴神様見たさ一念。わたしは月明かりを頼りに夢中で鳥居をくぐり(賽銭箱は、箱ごと運び去られていたのはさすがである。こんな山村でも用心はよい)穴神様の前に立った。はやる気持ちを抑え用意してきた懐中電灯のスイッチを入れた。変哲もないただの穴である。案の定、蜘蛛の巣があり、地面は、小さな黒い虫が大急ぎで逃げて行った。私は腹這いになったまま、しばらくのぞきこんでいた。無用にときが流れた。そろそろひきあげようとおもったが、穴の深さが気になった。
「奥行きはどうなっているんだろう…」わたしは頭を入れた。わりとすんなり入った。かび臭いにおいが鼻をついた。奥はありそうなので、匍匐前進で、進んでみた。落ち葉が、滑りやすくしていて、難なく体一つ入ってしまった。外とはちがった静寂に心落ち着くものがあった。どこか山奥の深い湖底にいる。そんな感じがした。懐中電灯の光の先は、まだ暗い闇だった。「案外、深そうだな」わたしはひとりごちて、匍匐前進をつづけた。穴は、しだいにせまくなっていったが、体は楽々入れた。わたしは嬉しくなった。この穴には何かある。なぜかはしらないが「神と不死」そんな言葉が浮かんだ。もはやいきつくところまで行くしかない。奥を見ずして戻れなかった。
 わたしは夢中で、訓練された兵士のように匍匐前進をつづけていった。穴は、動物の棲みかでも人がつくったものもない。あまりにも自然で心地よかった。まるでわたしの体を包み込むためにつくられたような広さと温かな温度を保って無限につづいているのである。いつのまにわたしは身につけているものを一枚また一枚と失っていた。いまは全裸となっていた。真っ暗な闇。生れたままの姿。だが、わたしは恐ろしくはなかった。反対になつかしさだけが体全体にあふれていた。いったいわたしはどこに向かっているのか。ちらと浮かんだそんな疑問もまたたくまに消えた。記憶が、一つ一つ、まるでコンピューターの回路を切るように消えていくのがわかった。80年の生涯のなかですっかり老いて汚れきったわたしの何億という脳細胞。その一つ一つにとりついた思い出が惜しげもなく消えていく。なんという心地よさだ。くすぐったさだ。いつしかわたしは無となった。
 長い長い時間が過ぎた。いや、それは時間というものではないかも知れない。過去も未来もない、生も死もない世界。そこに浮遊する形而上物。350億年の時を超えて、そのモノは確かな目的をもって前進をつづけてきた。そして、突如、光に晒された。
 穴の出口だ。旅の終わり。一瞬、はるか遠くでそんな意識がよぎった。つぎの瞬間、わたしの耳に聞こえたのは「オギャア―」と泣くわたし自身の鳴き声だった。
 ここで私は目が覚めた。娘が覗きこんでいた。
「ジィちゃん、生きてるの、死んでるかとおもった」めっきり白髪がふえた娘は叱るように言った。「やっぱり一人暮らしはダメね」
 ここまで読んでキン子は悲鳴をあげる。
 「な、なんなの、これがオチ!? ああ、バカバカしい」キンは、原稿をかばんにしまうと「あのジイちゃん、こんなこと考えてるわけ、あーつかれた」
おもいっきり両腕を伸ばして背をそらす。窓外をみると次が最寄駅。
「起きて、次の駅よ」キン子は、信吉の肩をゆする。
「はい、クスリください」
 唐突に信吉は、叫んで飛び起きた。が、一瞬、ここがどこかわからないのかキョトンとした顔で周りをながめた。
「イヤねえ、寝ぼけちゃって」キン子は、大げさに顔をしかめて言った。それから不思議そうに聞いた。「クスリってなあに」
「クスリ ? 」
「そう、いま、いったじゃない」
「わかんないな」
「夢、みてたんですか、クスリでものむ」
キン子は、頓着なく聞いた。
 その問いに信吉は、ほっとしたように言った。
「ああ、そうです。夢、みてたんです。夢を―」
「夢ならいいけど、まさかクスリやってないわよね」
キン子は、怪しむ顔で訊問するように聞いた。
「クスリって薬物のことですか。やってませんよ。そんなもの」
「それならいいけど」キン子は、不審そうにつぶやきながらも、それ以上、質問することなく、話を変えた。「夢っていえば、偶然ね、いままで、あのおジイさんの原稿、読んでたのよ。それが、へんな夢の話。あのおジイさん、ヒヒジイさんよ相当に」キン子は笑いながら言った。「そのヘンな夢の話を、おかたいドジョウの会の雑誌に載せてくれるよう頼むんだから。さすが自分からはいいずらいのね」
「そうですか…」信吉は、話しに乗らず立ちあがった。
 何かへん。ちらっとキン子は腑に落ちない、釈然としないものを感じた。これがドジョウの会に感じる不可解さと思った。電車が止まり、二人は降りた。春の陽光がいくぶん弱まって肌寒い。キン子は。両手をのばした。
さあ、今度はどんな会員かしら。キン子はちょつぴり楽しい気持ちにもなった。
集金戦線異状なし。次号につづく

十、普通で風変わりの人たち

 それにしてもと、キン子は思う。これまで会った会員は少々変わった人たちではあったが、皆、あっさり滞納金を支払った。ケチっぽい昨夜の役員たちをみていたので、もう少しゴネられる、と覚悟していた。ところが、この容易さ。にわかに信じ難かった。ドジョウの会といっただけで不審がりもせず、即、納得して払ってくれる。まるで、教祖様にお布施するように。信吉の妙な自信は、本当かもしれない。ドストエフスキイには、神通力がある。神秘めいたことは考えたくないが、そう思えてきた。こんどの会員は、どんな人だろう。そんな楽しみもわいてきた。
「これからいく人は、だれですか」
「吉沢京子という人です」信吉は名簿を見て言った。「えーと番地は ? 」
「女の人?! 」キン子は、女性の会員と知って興味をもった。「どんな人かしら」
「電話番号、かいてありますよ」
「いるかしら、かけてみるわ」キン子、勇んで電話ボックスにとびこんだ。
 在宅である。「歳わかんないけど、声はすてき」
 さっそく訪ねてみることにする。住まいは駅前のマンション。すぐにわかった。インターホンを押すと、先ほどの元気のよい声が返ってきた。
「あいてるわ、入っていいわよ。どうぞ」
 ふたりは、挨拶して室内に入った。キン子のマンションより手狭だが、事務所っぽい雰囲気で、紙とインクのにおいがした。
 吉沢京子は、ワンルームマンションの自室でせっせとワープロのキーボードをたたいていた。肩までの黒髪、白髪がなければ、40歳代にみえた。大きなぬいぐるみのような白いシャム猫が二匹、部屋のなかをのしのし歩きまわっていた。
「ちらかってるけど、座って」彼女は、姉ご然とした口調で言ってから聞いた。「コーヒー飲むでしょ」
「はい、ごちそうになります」キンは、間髪をいれずに言った。
「そう、若い人、はいったのね」吉沢京子は、初対面とは思えぬ気やすさだ。
 ふたりが小さなソファーに腰をおろすと、彼女は、ガラステーブルの上で珈琲豆を挽きながら続けざまに質問した。「みなさん、かわりないですか ? 」
「はい、いえ、わかりません」キン子は、頷きかけて首を横にふって言った。「会のひとたちって、よく知らないんです」
「あなた学生さん ? 」
「はい、渋川先生のゼミにはいっています」キン子は、言った。「ほんとはわたし会員じゃないんです」
「手伝わされたんでしょ、研究室で。わたしもそうだったわ。でも結局は会員になっちゃったけど」先刻承知といった顔で京子は、微笑む。
「えっ!先輩なんですか!」キン子は、びっくり顔で叫んだ。そのあと、大きく首をふって言った。「ちがうんです。わたしすすめられているけど、絶対に会員にはなりません。だいいち
ドストエフスキイだってぜんぜん興味ないんです。この集金手伝ったのは、ちょっと面白そうに思えたのと、――それと、渋川先生にレポート免除してもらえるから。単位も約束してもらったし、一番は、やっぱり単位だわ」
「あら、ちゃっかりしてるのね」京子はコーヒーを入れながら微笑むと冗談ぽく言った。会員になって手伝ってあげたら。渋川先生、喜ぶんじゃないの。会も助かるし、そうしなさいよ。若い女の子が入れば、皆さん大張りきりよ」
「せっかくですが、まったくその気はありません」キン子は、きっぱり言ってから、言い足した。「それに、入るも何も、この会、きっとつぶれるわ。わるいけど、そう思うの」
「そんなに悪いの、会計状態。私も、滞納しちゃって、偉そうなこといえないけど…」
京子は、二人にコーヒーをだすと、自分のマグカップを手にしてため息をつく。
 キン子は、頷いて言った。
「役員の皆さんの話きいただけなんですが、創刊号だしたのが、原因だってもめてました」
「印刷会社の石部社長さんでしょ。いつも独りで大声だしてたけど、まだそうなんだ」
「編集長の若い人が。半泣きで謝ってました、編集のせいだって」
「ああ、小堀さん、彼ね。私と入れちがいで入ってきた真面目な人。私も、編集手伝ったことあるけど、大変よ、ドストエフスキイの研究論文ってむずかしいから。あの内容で、一般的な収益をあげようなんて無謀よ」
「えっ、やっぱりですか。と、いうと集金は、どうなるんですか。この集金」
「どうにもなりはしないわ。焼け石に水でしょけど」
「わたしたち無駄なことをやってるんですか ! 」
「無駄ってことないけど」京子は、返答に詰まってつぶやいた。「でも、いくらなんでも、あなたたち集金頼むなんて…」
「この集金、ぼくがいいだしたんです。ぼくは地方にいてなにもできないんで、ちょっとでもドストエフスキイ先生のお役に立ちたかったんです」
「ずいぶんな、信者様だ、こと」京子は、クスッと笑う。
「夢井さん、ものすごく真面目な方なんです。わたし、はじめてこんな人みるの。頼まれたんでもないのに、いきなり集金やるなんていいだして」
「ドジョウの会、いろんな人がくるから」京子は、可笑しそうにひとりごちてから、ちらっと深刻そうな表情をうかべて聞いた。「集金の他に、再建のアイデアはなかったの。何か…臨時総会だったんでしょ」
「無理です。役員しか出席してなかったから」
「五人だけ」
「はい、そうです」
「そう、」京子は、大げさにため息ついたあと、なつかしそうに話しはじめた。
「私がいたころは、盛況だったわ、10年、20年前になるかしら。有名な著名人がいっぱいいたわよ。現在も活躍しているみなさんよ。作家、批評家、音楽家、画家さんもいたわ。映画監督や劇団のひとたちもいたわ。名前を聞けば、みんなわかるひとたちよ。ドストエフスキイで育ったといってたわ。多士済々っていうのかしら、ほんとうにいろんな人があつまってたわ。二カ月に一度、公会堂など大きなホールを借りて講演会や研究の発表会なんかやってた。会のあとは、新宿のゴールデン街なんかに繰り出して朝までのみあかしたこともあったわ」
「そんなに盛大だったんですか。うそみたい。いま有名人どころか、研究者だって、いないみたい」
「どうしてですか」信吉は、不思議そうに聞いた。
「えらい人たちは、最初はいいのよ。でも、すぐに自分の考えや主張を通そうとするから」「わかります。わかります」キン子は頷く。
「ぼくには、わかりません」信吉は、いきなり口をはさんだ。「みなさん、ドストエフスキイ先生が好きで集まってきてるんですよね。それなのに自分の考えを押し通うそうとするなんて。ドストエフスキイ先生の理念、ドジョウ主義からはずれてます」
「あなた純粋ね。その気持ち、いつまでももちつづけね」
「でも、なんかへんな気がする。宗教みたいで」キン子は、小首をかしげる。
「仕方ないわ、結局のところ、日本においては、宗教と同じよ。キリスト教と同じ」
「それで名簿に、著名人の名前がすくなかったんだ」キン子は、頷きながら住所録をひろげて確かめようとした。横から「あら、ちょっと見せて」と、京子が、うばいとる。
「お知りあいの方、いらっしゃるんですか」
「ここに、名前があるということは、まだ会員なのね」
「そうだとおもいますが・・・・」
 京子は、真剣な目つきで、名簿をざっととながめていたが、探す人物の名前がなかったのか、名簿を閉じてキン子にかえした。
「どなたです」
「やっぱり、やめたようね」
「どなたです ? 」
「東山秀二よ」
「えっ、東山秀二って、あの脚本家の東山秀二ですか ? 」
「そうよ」
「わーすごい、あんな有名人もいたの。テレビでよくみかけるわ」
「つまらないドラマばっかりだけど、売れっ子のようね」
「それでロシア通なんだ。最近ペレストロイカとか、グラスノなんとかの話ししてたわ。お金持ちなんだから、カンパしてくれないかしら」
「役員の人たち、なにか言ってなかった――」
京子は、コーヒーカップを持ったまま、たずねるように言った。
「東山さんのことですか」
「そう、だけど」
「なにも、みなさんよくご存じなんですか」
「そうね、よく参加していたから」京子は、奥歯にもののはさまったような言い方をしたあと、ちょっと躊躇して言った。「東山は、元カレよ」
「えっ ! お付き合いしてたんですか !」
「そうね、もう数年前になるけど」京子は、さすがに照れくさそうに言った。そのあと本棚から本を取り出してみせてた。黄色や赤の花が咲き乱れる花畑の表紙だ。『ナスターシャの家』とのタイトル。「これが彼との思い出」京子は、唐突に言った。
「えっ ! 本だされたんですか」
「そう、せっかくの恋だからね。べつに嫌いで別れたんじゃないから」
「わー、すごいです。ロマンチックですね」
「よかったら、お二人に」京子は、言って二冊を渡す。
「ありがとうございます」キン子と信吉は、お礼した。
「あなた、だれかいるんでしょ」京子は、からかうようにキン子に言った。
「いないです。そんなもの」
「あらあら、そんなものですって」京子は、信吉を見て可笑しそうに笑った。
「違いますよ。ぼくは」信吉は、あわてて大きく首を振った。
「これ、全部がノンフィクションですか」
「ホントのところもあるけど、創作よ。ずいぶんモデル探しされたけどね」
「でも、お二人の恋愛を元にしたんですよね。感激です」キン子は、東山秀二の名前にすっかり舞い上がった様子。恋愛談議をはじめそうになった。
 信吉は、心配になり、立ちあがると、別れを告げた。
「まだ、これからですから」
「待って、そうよね」キン子は、残念そうにあとにつづく。
「お二人さん、がんばってよ、会つづいていたら、ほんとに出席するから」
「会員の人に会うのが楽しくなってきたわ。いまは、変なおじさんばかりだけれど、むかしは、格好いい人もいたのね。会員同士の恋愛か。信じられないけど、あったんだわ」
キン子は、吉沢京子に本をもらって、エネルギーを得たようだ。
「次の人、住所しか書いてないけど、番地、この近くのようだから、行っちゃいましょうよ」
 二人は、地図を頼りにどんどん進んでいった。

 菅谷賢治という会員が、次の人だった。商店街を抜けて畑がひろがりだしたところに、彼の家はあった。大きな農家のつくりだった。立派な盆栽がある広い庭。旧家のようだ。
 インターホンを押すと、小柄な老婆がでてきた。要件をつげると
「はあ、賢治ちゃんは、そんな会に入っていたんですか」
と、平身低頭するばかり。
「集金にうかがったんです」 
じ》 ドストエフスキイを愛する人たちの会「ドジョウの会」は、創刊号の失敗から風前の灯だった。再建を担ったのは、地方青年とちゃつかり娘の女子大生。珍奇なコンビの集金行脚。心配されたが、案ずるより生むがやすし。集金は順調。三人目の会員、翻訳業の吉沢京子からも滞納会費ゲット。キン子、会員に興味。こんどはどんな会員が。

十一、問題多き人

 菅谷賢治という会員が、次の人だった。商店街を抜けて畑がひろがりだしたところに、彼の家はあった。大きな農家のつくりだった。立派な盆栽がある広い庭。旧家のようだ。
 インターホンを押すと、小柄な老婆がでてきた。要件をつげると
「はあ、賢治ちゃんは、そんな会に入っていたんですか」
と、にこにこ顔で平身低頭するばかりである。息子に訪ねてくる知り合いがいたと云う事にいたく感激しているようだ。
「あのう、今日は、集金にうかがったんですが」
キン子は、シビレを切らして要件を言った。
「ああ、そう、そうでしたか」彼女は、いま気がついたといわんばかりにつぶやいて、誰かをさがすように後ろをゆっくりふりかえった。家の中は森閑としている。
「姉と妹は、学校に行っております」老婆は、唐突に言った。
「がっこう ? ですか」
「ええ、姉は中学で、妹は、小学校で教師をしています」
「あのう、菅谷賢治さんは、いらっしゃるんでしょうか」
「賢治ちゃん、いえ賢治は、まだ大学院に籍があります。父親は、高校で数学を教えておりましたが、賢治が高校生のとき亡くなりました。賢治ちゃんは、賢治は、それがショックで閉じこもりになっていまは、留年しております」
キン子は、じれったくなった。集金は、期待できそうになく思えたが、在宅の有無だけはと、食い下がった。。
「在宅でしょうか? 」
「はあ、駅前に行ってます」
「駅前 ? 」意外な返事に、聞きなおした。「駅前ですか」
「パチンコ店です。駅前のパチンコ店に行っているんです」
「パチンコをしているんですね」
「はい、そうですが」彼女は、戸惑い気味に言った。「あの子は、大きな賭け事はしませんが」
老婆は、そういってかばう。
 キン子と信吉は、長居は無用と駅前に向かった。軍艦マーチが鳴り響くパチンコ店は、混んでいた。通りは、それほどの人通りでないのに、店内は満席状態。ここが娯楽施設の不思議な所以。キン子は、景品交換で呼び出してもらった。奥の方から、のっそりでてきたのは、背の低い太った丸顔の青年だった。かなり度の強い丸眼鏡をしている。
「ああ、ドジョウの会の人ですか。活動してるんですか」口は達者なようだ。
「ぼくが賭けごとをやるのは、れっきとした研究なんです」菅谷は、隣の休憩室に入って丸いガラスのテーブルに座ると、とたんスイッチをいれたように話し始めた。
「ぼくは「『賭博者』から入ったんですよ。あの作品は、賭け毎の極致です。世の中には、運が悪いだの運がよいだのとかあるでしょう。女神がほほえむとかもいいますね。ぼくが想うにドストエフスキイセンセイが、あれを書いたのは、賭け事の真髄を解明しようとしたのだ。
 そもそもツキとは、いったいなんぞや。偶然か、仕組まれたものか。ドストセンセイが、あんなに賭け事にはまったのは、たんなるギャンブル好きではなく、いわゆる“ツキ”の正体をあばこうと考えたんですよ。無謀極まりない挑戦。宇宙の謎を解くより難しい」
 二人ともあぜんとして聞き入るばかりだ。
「ぼくが考える“ツキ”というやつは、四次元に存在してるんだ。ぼくらが、いま現在、こうして存在していること自体、ツキであること以外のなにものでもない。そうでしょ、先祖が戦争や多くの災難から逃れてきた結果、我々がいまここに存在するのだ。もっと昔、恐竜時代にさかのぼっても、祖先は、その頃、ちいちゃな哺乳類だったんだろうが、よく踏みつぶされずに、生き延びたと感心するね。もっとも原始時代だって、今のぼくにつながる生命体は海の中に浮遊していたはずだ。それが何者の餌食にもならず、今日まで継続してこれたというのは、まさに「ツキ」以外のなにものでないね。そうでしょう。この地球だって、ツキの産物さ。考えてみたまえ、あと少しほんの僅か一センチか二センチかもしれないが、太陽に近かったら、人類は存在できなかったんだ。我々人類が、いまこうしているのは、まさにツキなんだ。この宇宙だって、そうさ。ツキがあったればこそ、森羅万象、我々が存在できる。この宇宙があるのだ。ビックバンの爆発だってツキだね。ここにこんな銀河系をつくろうと思ったわけじゃあない。爆発で、飛び散ったものが、偶然、寄せ集まって、このエリアができたんだ。つまりこの宇宙もツキに左右された結果の産物なんだ。ということはビックバン以前に、ツキという形而上のものが存在したことになる。つまり、はじめに闇ありきではなくツキありきなのだ。それがぼくの生涯の研究テーマなんだ」
「なにいってるか、わかんないわ。むずかしい研究なら、どうして大学に行ってやらないのですか。どうしてパチンコ店にいるのですか」
キン子は、たまらず菅谷の演説を遮ってきいた。
「おおいに関係あるんですよ」菅谷は、我が意を得たりといったしたり顔で、ふたたび話し始めた。「そのツキが3百数億年の時を経てパチンコ玉に宿っている。球が球として存在できるにはそこを証明したいのだ。ぼくの考えじゃ多分、同じものだと思うよ。そのツキがこの宇宙に存在する、ありとあらゆる万物にビックバン以前から営々と脈々とついて回っているとつづいている。ツキについては、あのアインシュタイン大先生も、ずいぶん悩んだらしいが――サイコロの目が統計学的法則で解決つけば、科学者はみんな大金持ちさ。賭博場から締め出される。世界中のカジノはお手上げさ。ラスベガスも存在できない。面白い」
菅谷は、そう言って高笑いした。そして、またつづけた。「もしもだよ、もしこの世の偶然がすべて必然でながれているとしたら。科学でツキが解明できれば」
「もう、いいです」
キン子は、ついにヒステリックに叫んだ。これ以上、わけのわからない話をきいても時間の無駄というもの。あきらめることにした。
「あのう、滞納金、払ってもらえるのでしょうか」信吉は、最後のねばりをみせる。
「だからね、今日のきみらには運というかツキがなかったのさ。ぼくの今日のパチンコかツキに見放されたように。ぼくは、払う気持ちはあるんだ。こうしてきみたちがきてくれたんだから。しかし、ない袖は振れぬ。これも現実、残念ながら」
「おうちでお借りすれば」キン子は皮肉っぽく言った。「お母様、心配してましたよ」
「お母さま?バアさまきいたら腰を抜かすよ。それってお姫様ことばですね」
「パチンコなんか親不幸よ」
「関係ないね。しかし、きみらみたいな若い人がるなら、これから出席してもいいかな」
「おあいにくさま。わたし会員じゃありません」
「会員じゃない?!」
「そう、お手伝いしているだけ。渋川先生のゼミにいるから」
「ああ、そう。しかし、ロハということはないですよね。ロハということは」
「そんなことどっちだったいいじゃないですか」信吉は、声を荒げて言った。「ぼくは、れっきとした会員です。彼女は、好意からやってくれているんです。あなたもドストエフスキー先生が好きでドジョウの会にはいったんでしょ。御協力ください。会、あぶないんです」
「なんだ、こんどは浪花節かい。本当にいまは金がないんだ。先駆者は、常にきびしいものさ。まあ、ツキの正体を捕えたときは、いくらでも払いますよ。それまで待ってほしいです。なにせ、我らがドストエフスキー大先生にだって成しえなかった大発見をやろうとしているんだ。本来なら、会の方から援助願いたいものだが」
「ドストエフスキー先生は、ギャンブルはやめることで解決したんです」
「いいです、いいです、やめましょう。夢井さん。話すだけむだ。もう行きましょう。二人は歩きだした。
「お疲れさん」菅谷は、店の前に立って手をふっている。キン子は、しゃくにさわって途中、振り返った。菅谷が、太ったからだをボールのようにまるめてパチンコ店に飛び込んでいくところだった。
「ずいぶんな会員もいるのね」
キン子は、口をとがらせて言った。が、そう腹は立たなかった、
 これまで会員は、真面目な人ばかりだったので、あんな無責任の会員もいるのかとおもうと、可笑しくもあり、ほっとするところもあった。
「ドストエフスキーのせいかもしれないわね」
「すみません」信吉は、何度もわびた。
「いいわよ」キン子は愉快な気持ちだった。役員のひとたちは退屈だったが、巷の会員は三者三様、面白かった。次の会員は女性、どんな人か楽しみだった。
 駅前に、ツキ研究家の母親が待っていた。白い封筒をだし「足りるか、どうかはわかりませんが」とさしだした。5万円、入っていた。恐るべきはドジョウの会。キン子、ドストエフスキーのすごさがわかりはじめてきた。  (つづく)

十二、駅裏奇譚

 「あら、やだ、ここってなあに?!」
 キン子が驚いてたちすくんだのも無理はない。電話で友人という若い女性が「ユキちゃんなら店にでてるから、お店にいったら」というので、ちょうど近くだったし、教えてもらった駅裏通りにきてみたのだ。
「バラの香り」という店名から、てっきりレストランかカフェ―のような店を想像していた。それが、なんとひと目でそれとわかる風俗店、ソープランドなのである。昼間から赤やピンクの怪しげなネオンがチカチカと点滅。さすがのキン子もヌードの大看板の前でびっくり。
「どうしましょう、こんなお店だとは思わなかったわ」キン子は、苦笑する。
 それとは反対に信吉は、感激した口ぶり。リーザにでも会えると思っているのか、「ここがそうですか」と興味ぶかげだ。
 キン子が何もいわないので、説明する。
「ソープランドって、むかしのトルコですよ。つい最近までトルコと呼んでました。それがトルコ大使館の大使がタクシーにのって、トルコ大使館まで、と告げたら風俗店のトルコに連れて来られた。それで日本政府に抗議して、変わったんです。面白ニュースだったので覚えています」
「知らないわ、そんな話、入ったことあるの」
「な、ないですよ。ただ、どんな女のひとがいるのかと…」
「やっぱり興味あるんじゃない。でも、入りずらいわね」
「やめます、ここ?」
「でも、電話で話した友だち、連絡してくれるといったから、待ってるかも…」
「とにかく、せっかく来たんだから、声はかけていきましょう」信吉は、こだわりなく言った。
 彼は躊躇なく、造花で飾りたてたキンキラキンのドアに突進した。キン子は、逡巡しながらも、持ち前の好奇心であとにつづいた。男性だけが入る風俗店、どんなところかいちどは覗いてみたかった。それに風俗店で働く女性会員も、どんな人か、興味あった。
 しかし、いくら考えてもドジョウの会と風俗店は結び付かない。店内に入るとき心のなかは、恥ずかしさで真っ赤になった。大学では、突っぱっているが、キン子とて、心根は、純情可憐の乙女なのである。
「いらっーしゃい」の声より早く黒服のボーイがすっ飛んできて機械じかけの人形のようにつくり笑顔でお辞儀しかけた。が、信吉の後ろのキン子をみると、真面目顔になって紋切口調で言った。
「応募の方ですね」
 外のピンクの建て看板に、でかでかと〈スタッフ求む 高収入〉なる文字が躍っていた。
「お、う、ぼ――?」信吉は、きょとんとして立ち止った。
「お連れ様ですね」黒服は、品定めするようにキン子をながめて言った。
「彼女ですか。一緒ですが…」信吉は戸惑い気味に頷いた。
「いいんです、いいんです。ご一緒にこられた方が、私どもも安心できますし、承知してくださっていた方がいいのです。ただ、これだけはしっかりと、未成年者ではありませんね」
「未成年…『未成年』のことですか」信吉は、戸惑いながら答えた。「カラマの前ですが…」
「カラマ?未成年は、お断りしますよ。お縄になりますから」
黒服は、姿勢をただして言った。
「お縄…?」
双方、話がくいちがっているようだ。キン子は、じれったくなって口をはさんだ。
「あのう、なにか誤解されていません?」
「ごかい?」黒服ボーイは、苛立ち気味につぶやく。
「わたしたち、杉浦幸江さんという人に会いにきたんです」
「杉浦?」ボーイは、ちょっと考えて言った。「ああ、さゆりちゃんのことね。はい、はい。だれか尋ねてくるといってたけど、おたくさんたちのこと。ドジョウのなんとかさんというから、常連さんかと」
「そうです、そうなんです、ドジョウの会です」
「さゆりさんご指名」黒服は、大声で奥に向かってさけぶ。そのあと、ボーイ君は、信吉に向かって万面の笑みをみせると言った。「どうです。面接していきませんか。スタッフいま募集中なんです。さゆりちゃんのお友達なんでしょ」
「スタッフ?」
「はやい話がソープ嬢なんですが、いい収入になりますよ。一週間で百万稼ぐ子もいます。どうてす、彼女だったら面もスタイルも、抜群じゃないですか。彼氏、くどいてくださいよ」
「ち、ちがいます。ぼくはそんなんじゃ、ありません。用事すませたらかえりますから」
「ハーイ」奥から元気のよい声がして髪の長い、キン子と同年輩の娘がでてきた。短パンにはっぴのようなものをきている。
「こちらさまが、ご指名よ」
「杉浦さんですか」
「ええ」彼女は困惑げに二人をみた。
「自宅に電話したら、お友達というひとが、こちらにいるからと」
「ああ、ケイちゃんから電話あった会の人」彼女はふっきれたように大きく頷いて言った。
「年配の人がくるのかとおもってた」
 彼女も若い男女とは、思わなかったようだ。
「店長、ちょっとお隣りに」
 二人は、彼女に案内されて隣の純喫茶に入った。
「実家の借金返すには、この商売しかないのよ」彼女は、ソファーに腰をおろすと、タバコの煙を吐き出しながら言った。父親が作った借金だというが、屈託がない。ドストエフスキーという作家の本を愛読している。そのことが、こんなにも強い気持ちにさせるのか。
 読んでないキン子には、わからなかった。親のためとはいえ、自分の身を犠牲にして、風俗店ではたらく。そのことが理解できなかった。自分には、できないと思った。きっと強がっているのだ。だれだって、風俗で働きたくはない。無理して明るくふるまっているのかも。そう思うと急に彼女がかわいそうになってきた。
「ねえ、そんな事情だったら、いいんじゃない」キン子は信吉に耳打ちした。
「そうですね…」信吉も、そう思ったようだ。軽く頷くと、「じゃあ」と立ちあがる。
「ちょっと待って、なによ。どういうこと」
「あの、大丈夫ですから」
「払ってくれない人もいるし、余分に払ってくれる人もいるし、ようするになにがなんでもってわけじゃないから」
「事情を汲んでやってるってわけ。そういうことしてほしくないんだけど」彼女は、気色ばんだ。
「ごめんなさい、わたしたちそんなつもりじゃ」キン子はあわてて謝った。
「でも、そうなんです。ぼくたち全員をまわっているわけじゃないし。都内のいける会員だけ、電話わかってる人だけなんです。それに借金とりじゃないですし」
「借金とりでいいのよ。お金に関しては、甘いこといってたらだれも払ってくれないわよ。人間には、いろんな人がいるわ、お金があるのに払わない人、ないのに払いたい人。ドストエフスキー読んでるとわかるでしょ、そういう人間がいることを。わたしが借金のために働いていると知ってあきらめるなんて、わたしはそれを喜ぶような人間じゃないわ」
 杉浦幸江は、古参の会員ぶりをみせたあと、「わたしは払いたいの、払いたい側の人間よ」
そう言ったあとぺっと頭をさげて「ごめんなさい、偉そうなこと言って。ドジョウの会には参加しないけど、ドジョウの会が私の人生の支えなのよ。だから、無くさないように頑張って。ドジョウの会に籍があるということが、わたしの生きる自信と勇気になっているの。会の方には、もう長いこと出席してなくて悪いけど、あそこはわたしの故郷のような場所。いつか、また出席できるようになったら、ドストエフスキーのはなしができるようになれたら、きっといくわ、行って話すの、ソーニャやリーザについて。それがわたしの毎日の夢なの。そう思って生きてるのよ」
 たそがれ近い街はにぎわっていた。店舗が並ぶ歩道に買い物客があふれ、長竿の旗が何本も夕風になびく駅前広場は、選挙演説する政治家のがなり声と運動員の連呼の叫びが騒々しくビルの谷間にこだましていた。駅周辺は、喧騒のるつぼと化していた。
 信号が変わるたびに四方から津波のごとくどっと押し寄せてはひいていく人波。そんな雑踏の中を二人は、さっきからだまって歩いていた。信吉は、どうかしらないけれど、キン子は、杉浦幸江の言葉が、いつまでも耳に残って離れなかった。何か打ちのめされた気持ちがしてショックだった。
 ドストエフスキーの作品って、そんなにすばらしいのか。それを知らない自分が悔しくて残念だった。そして、また、それほどまでに思いをよせている彼女が羨ましくもあった。
「ドジョウの会の実態、知ったらがっかりするでしょうね」キン子は、ため息混じりにぽつんと言った。
「頑張るしかありませんね。頑張って、ドジョウの会を存続させるんです。ああした人たちの為にも」信吉は、珍しく、力づよくなんども頷いた。
「そうね、わたし手伝ったこと、ちょっぴり後悔してたけど、彼女の言葉でふっきれたわ。ドジョウの会の会員って、どこかへんだけど、みんな素晴らしい人たちばかり。この集金、けっして無駄ではなかった。会の人たちのためにがんばらなくちゃあ」そう言ってからキン子は小首をすくめて苦笑する。
「へんね、わたし会員でもないのに、ドストエフスキーの本だって一頁も読んだことがないのに。こんなこと思うなんて」
「キン子さん、あなた、もう立派な会員ですよ。ドストエフスキーを読まなくたって、もう立派なドストエフスキー読者ですよ。ドストエフスキーをしっかり理解しています」
「悪い冗談いわないで」
「冗談なもんですか、キン子さんをそんな気持ちにさせたこと、それこそが、まさにドストエフスキーなのです。世界人類への愛、ドストエフスキー大先生が目指す理念を、一冊の作品も読まないのにわかってしまうんですから、キン子さんはすごい人です」
「ハイ、ハイ、そこまで言われてはもう反対しません。世界人類への愛だなんて、よく恥ずかしくもなくそんな言葉がでるわね。役員で小堀さんっていう人、そんなこといってたんでおかしな人と思っていたけど、夢井さんは、その上をいくんだから、もう完全に病気だわ、ドジョウの会の人たち」キン子わらいころげる。
 信吉は、笑われたのが面白くなかったのか、そっぽを向いた。それが、またおかしいのかキン子は、ふたたび大笑いしながら詫びた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ドジョウの会の人ってドストエフスキーの話になると、みんな夢中になるので、おかしくて。だって渋川先生も、丸山さんも無理に苦虫つぶしている顔してるけど、ドストエフスキーのはなしになると、我を忘れてしまうんだから。なんいていうか宗教みたい、ドストエフスキー教という」
「教祖はいません」
「でも会員の人はみんな信者みたい」
「違います。宗教は愛と憎しみが表裏一体ですが、ドストエフスキーの文学に憎しみはありません。宇宙のように広いのです。キリスト教もイスラム教も仏教も、みんな包み込むことができるんです」
「あらあら、そうですか。もうすぐ夢中になるのだから」キン子はふたたびくっくと笑いだして、慌てて口をふさぐと真顔になって聞いた。
「でも、ドストエフスキーの何が、どこが、そんなに夢中にさせるの?ただ小説を書いた人でしょ。トルストイやゲーテの方が有名じゃない。ヘミングウェイやサガンだって知ってるけど、どこが違うの、世界の大文豪たちと」
「違いですか?」と信吉は聞いた。
「ちょっとまって、今は、それよりおなかがペコペコなの」
キン子はいきなり言って、交差点前にあったハンバーガー店に入って行った。信吉も黙って後につづく。彼も空腹だった。   

十三、 私は、なぜドストエフスキーを読むのか

 空腹の二人は、ハンバーガー店に入った。
「ねえ、どうしてドストエフスキー読むんですか」キン子はハンバーガーを一口二口頬ばると、アイスコーヒーをぐいと飲んでから思い出したように聞いた。
「どうしてって、ただ面白かったからですよ」
信吉は、砂糖を入れたホットコーヒーをかきまぜながら言った。
「ただ、おもしろかった?それだけ?」
キン子は、大きな目をぱちくりして不思議そうに信吉を見た。
「ええ、それだけですよ」言って信吉はつづけた。「それで十分でしょ。本当に心の底まで面白いと思える物語。それがドストエフスキーにあるんです」
「アラ、ずいぶん明快と云うか、単純なのね」
「だって他に何があります?!いくら善いことが書いてあっても面白くなかったら、読みたくないです。読むにあたいしません。でも、ドストエフスキー先生の本はちがいます。ぼくがこれまで読んだ、どの小説より面白かったんです!」
「信じられないわ!」キン子は、薄紅色の口紅を塗りたくった口をあんぐり開けて叫ぶ。「どこが!わたし、これまでなんとか読もうとしたわ。でも、いつも最初の数ページで挫折よ。読めなくなってしまう。これって、私に読解力がないせいなの?」
「どの作品を読もうとしたのですか」
「カラ、カラ兄弟、とか、なんていうのかしら」
「カラマーゾフの兄弟ですね」
「ああ、そうそう、たしか、そんな名前の本だったわ、ものすごく厚いのよ」
「世界文学最高峰の小説です」
「うそ!?あの本が?信じられない」
「でも、はじめて読む人にはハードルが高いかも知れません」
「そうよ、そう、わたしには、退屈なだけに思えた。名前も長いし」
「最初です。最初を我慢すれば、きっと夢中になるはずです。たとえば『貧しき人々』知ってますか」
「知らない」
「処女作なんです。先生の、出世作です」
「あら、そう。でも、その先生、と、呼ぶのはやめてくれない。むかしの人をそんな呼び方したら、こんがらって疲れるわ」
「でも、ぼくの先生ですから」
信吉は、頑なに言い張った。
「あら、そう」キン子は、失笑して簡単に引き下がった。バカバカしいことで言い合いはしたくなかった。彼女は、話を戻そうと、からかい半分に聞いた。
「で、その小説がどうしたの。はじめて書いたという小説」
「世界中にある小説のなかで、一番に面白い小説なんです」
「世界中で一番?!」キン子は、またしても素っ頓狂な声をあげて言った。「貧しき…なんていうの。そんな題名きいたことないわ。世界の10大小説にあげられているの?。読んでないけど題名くらいは知ってるけど。受験勉強で暗記したから」
「初老の下っ端役人と、遠い親戚の若い娘の手紙のやりとりだけです。それなのにどんな冒険小説より、どんな推理小説より面白いんです。世界ひろしといえど、10ページ読んだらやめられなくなる本は、そうざらにないです。あったとしても、それは文学的価値からではなく売上とか、世俗的好奇心からです。つまり、明日になれば消えてしまう、わすれられてしまう、ゴシップ記事の類いです。ところが『貧しき人々』は違います。永遠の名作です。どんな文学嫌いの人でも、この作品の朗読を聞けば、もう途中で席を立つことなんかできないんです。素晴らしい映画を観たあと、しばらく席を立てませんよね。あれと、いや、あれ以上の感動があるんです。この小説を、世界ではじめて読んだ二人の友人は、あまりの感動に、外に飛び出していったんです。私も、同じ気持ちになりました。それで土壌の会に入ったんです」
「ホント?」彼女は、キョトンとした顔で、困ったように苦笑した。
「キン子さん、ドストエフスキーがある事件で銃殺刑になりそうになった事件、知ってますよね」
「知ってます。わたしこれでも文学部ですからね。茶番だったんでしょ。皇帝の」キン子は憮然として答えた。
「茶番、一般的には、そういわれていますが…」信吉は、奥歯にもののはさまったような言い方をした。
「違うの?」
「ええ、茶番なんかじゃないです。死刑実行は確実だったんです、茶番だなんて皇帝がそんな面倒なことするもんですか」
「じゃあ、なによ、実際にストップかけたんでしょ、直前に」
「皇帝は直前まで、迷っていたと思うんです」
「どうして」
「被告たちのなかに『貧しき人々』の作者がいたからですよ。皇帝は、囚人のなかに有名な作家いることは知っていたはずです。どんな小説か興味あったでしょう。前の晩、側近に朗読させた。ぼくは、そう信じているんです」
「それで感動して、やめる気になった。ふーん、そこまで想像してるんならご立派。わたしなんかの出る幕はないわ」
 荒唐無稽な話に、キン子は、ひたすらポテトを口に運ぶしかなかった。
「あの小説は、皇帝の心もうごかしたんです。だから、キン子さん、あなたもぜひ読んでみてください。そしたらわかります。ドストエフスキーがどんなにすばらしい作家だということが、だから、なんども言ってますが、最初の10ページなんです。そこさえ我慢して通過すれば、作品世界にどんどん入っていけるのです」
「はいはい、こんど退屈しのぎに、読んでみます」
キン子は、笑って頷いた。
「二人の友だちは、その作品をロシア随一の評論家のところにもっていったんです」
 信吉は、まだその小説について話しそうだったが、キン子は、眠くなってきた。それを見て、信吉は、突然、集金のことを思いだした。
「夕方まで、まだいけます。とんだ道草でした」二人は店をでた。
 徒歩で板橋のアパートの中年男性。問題なく集金できた。次の会員をすませた頃は、もうすっかり夜のとばりがおりていた。キン子はこのへんで、打ち切りたかったが、信吉があと一人と粘るので、とうとうこの時間になってしまった。もっとも、夜の方が会員が家にいて集金率はよかった。「もう8時近くよ」キン子は、ついに悲鳴をあげた。
「じゃあ、あと一人で最後にしましょう。ここから近そうだから」信吉は、言って地図を示す。ドジョウの会のために一人でも多く回ろうと云う気真面目さだ。
 キン子は、今夜は世田谷の実家に帰ることになっていた。いい加減、止めにしたかったが、信吉が憑かれたようにあと一人というので集金することにした。

十四、 外見とは違う元会員

 電話すると在宅である。二人は、さっそく向かった。駅からそう遠くない。会員名は、熊田淳之介。
「どこかで聞いたことがある名前だわ」キン子、首をかしげる。
 駅商店街を抜けた閑静な住宅街の一角にその家はあった。瀟洒な西洋館づくりの立派な家である。熊田と書かれた立派な門札横のブザーをおすと、中年の女性がでてきた。電話で「ドジョウの会」と名乗っていたので、何もたずねられることもなく応接間に案内された。
 広い応接間の壁は、すべて本棚になっていた。書籍がぎっしり詰め込まれている。
「あっ、わかった!」
キン子は、小さく叫んだ、「熊田って、評論家のひとじゃない」
「評論家ですか」
信吉は、まったく知らないようだ。
「よくテレビにでてくる人じゃない」
「そうですか」
「大丈夫かしら」キン子は有名人の家に来たことに、すっかり舞いあがった。急に心配になった。「払ってくれるかしら」
「お金持ちそうじゃないですか」
「やあやあ、お待たせ」
 いきなりドアがあいて恰幅の良い初老の男性が入ってきた。渋い茶の着物を着ている。「締切原稿があったものでね」そう言ってカッカと笑った。
熊田は、意味もなく豪傑笑いすると、ソファーにどっかと腰を下ろした。丸眼鏡の奥から二人をかわるがわる見て「ドジョウの会も、ずいぶん若返ったもんだね」と言った。「もう20年はいってないが、よく籍があったね」
「5年前に、ご返事いただいた方は、まだ会員の資格があるんです」
「ご返事ってねえ、ただ近況を知らせてくれっていうから、返事だしただけなんだけどね。ドジョウの会は、もう、とっくに卒業しているよ、たしか、丸山君だっけ事務局は――」
「はい。渋川先生は顧問です」
「渋川教授、まだいるの。物好きだね。若い君らに文句言うつもりはないが、ぼくとしては、もう10年前にやめたつもりでいるんだ。そこんとこ伝えてもらいたくて、君らと会うことにしたんだ。ちょうど電話してきたんでね」何やら外見と違って不平分子のようだ。 
「5年前にご返事いただいた方は、まだ会員の資格があるそうです」キン子は言った。
「ご返事ねえ、ただ近況を知らせてくれって言うからぼくは返事しただけなんだ」
 なにやら雲行きが悪くなった。評論家熊田先生は、弁舌、滑らかにゴネはじめる。滞納金は払いたくないようだ。ドストエフスキーで有名になったのに、名が知れたら用はないらしい。
「困るなあ、会員として名前を使われちゃあ。いや、なに、若い君らに文句いうつもりはないが、おれとしてはだね、ドジョウの会、もう10年も前にやめているんだ。それを、会運営の皆さんに、伝えてもらいたくてOKしたんだ,面会を。せっかく来てくれるというんでね。なんせ週刊誌3本、文芸雑誌2本、旅行雑誌1本と本業以外に原稿たのまれちゃっているから、忙しくてしょうがねえんだ」
 熊田は、ここでカカと笑ってつばきを呑むと、再び文句タラタラをはじめた。「いいかい、ぼくんとこには、毎日10冊は新刊本が送られてくるんだ。どの出版社も、おれに書評書いて欲しくて仕方ない。なかには、よく書いてもらおうと札束をはさんでくる出版社もいる。とにかく忙しいんだ。そんなわけでむかしのことにかかわってる暇はないよ。脱会すると伝えてくれ。口頭でいいんだろ。そんな形式ばった会じゃないから」熊田は、言い終わってから、ふと思いだしたように聞いた。
「ところで、何んの用事だい。おればかりしゃべっちまったが、まさか原稿の依頼じゃないだろうな。そうだったら、お断りだね。そんな暇はないしね」
「いえ、いいんです。まだ、先生が会員だと思ってきたものですから」キン子は、しどろもどろになって言った。集金は、あきらめた。
「なんだい、会員だと思って、というのは。と、いうと会員のところは、みんな回っているのかい」
「ええ、全員じゃないですけど」
「何のために」熊田は、不思議そうにみた。
「それは――」キン子は、言いかけた。
 そのとき、信吉がいきなり言った。「キン子さん、それは会のことだから、話しても、仕方ないんじゃあないですか。帰りましょう」信吉は踵を返した。
「なんだい君は、失礼じゃないか、いきなりきて、理由もいわず帰るなんて」熊田は、眼鏡の奥の目をギョロつかせた。喧嘩腰だ。
「だから会員と間違えましたと彼女が言ったじゃないですか」
「それは、わかった。しかし、答えたまえ。ぼくはドジョウの会発足者の一人だ。会の動向を知る権利はある」熊田は、なんとしても聞きたいようだ。
「会費滞納者を訪ねているんです」キン子は、小声で答えた。
「何、たいのうしゃ・・・会費のかい」熊田は、訝しげにつぶやいたあと、一瞬なにごとか巡らせていたが、はたと全てを見通したようだ。急に大声で言った。「すると、あんたたち会費滞納金を集金してまわっているのか」
「ええ、そうです」キン子は観念しては白状した。
「そういうことか――」
 熊田は、ため息をついて、ニヤついて二人をかわるがわるながめていたが、突然、ヒヒヒと下品な声で笑いだした。しまいには手足をバタバタさせて笑い転げた。信吉とキン子は、あっけにとられてながめるばかりだった。
「やっていけなくなったんだな、とうとう、やっぱりな――」さんざん笑ったあと、熊田は息を切らせて言った。「だいたい、おれは、あのやり方に反対だったんだ。渋川が知らん間に丸山君らを抱き込んで、会を乗っ取ったんだ」
「熊田さん」突然、信吉は怒鳴った。「ぼくは新人ですから、過去になにがあったか知りませんけど、会の人のことをそんなふうに言うなんてひどいじゃないですか。ぼくの目には、みなさん本当にドジョウの会をなんとか残そうと頑張っているように見えました。ぼくだって、会をなくしたくないから、こうしてお手伝いしているんです」
「集金なんか役員がやればいいじゃないか。自分の足で。それをきみらみたいの若いのに、しかも新人なんかに押しつけて。ますます独裁体制を固めるんじゃないのか。集金なんて仕事は、役員がやるべきだ。それに、会なんてものは、潰れるときにつぶれるんだ。ソ連邦しかり、東ドイツしかりだ。きみたちも時代の波にさからっちゃあいかんよ。
「では、あなたはドジョウの会がなくなってもいいんですか」
「もちろんだ。へん、なんだ、あんな会。所詮、吹けば飛ぶようなもんだったんだ」
「飛ぶようなものですって!」いくなり信吉は、食ってかかった。「あなたは、あなたは、元の役員だかなんだか知りませんが、本当にドストエフスキイ先生を愛したことがあるんですか。いや、あなたなんかにドストエフスキイはわかりっこない」
 つかみかからん勢いで、言い迫る信吉の目には涙さえ浮かんでいた。これには、さすがの熊田もたじたじとなった。キン子もびっくりして見守った。信吉は、言い続けた。
「これまで回ってきた会員のみなさんは、ドジョウの会が解散にならないことを願っていました。たとえ集金に協力的ではなくても、あなたみたいに情けないことを言う人は誰もいませんでした。みなさん本当に心の底からドジョウの会を残そうとしていました。あなたが、どんなに偉い評論家だか知りませんが、あなたなんかにドストエフスキイのことがわかってたまるもんでか。キン子さん行きましょう。こんな人にドストエフスキイ先生の話をいくらしたって無駄ですから」
 キン子は、思わぬ展開に仰天したまま困惑していた。なんせ『ドストエフスキイの暮らし』を書いて、一躍ときの人になった熊田淳之介にである。言いたい放題言ってしまったのだ。さすがの熊田大先生もカチンときたようだ。
「おい、待て、そうまで言われたんでは、このままじゃあ返さんぞ」熊田は、真っ赤な顔で立ちふさがった。「そこまで言われちゃあ、引き下がれん。なにドストエフスキイがわからんだと。おれの青春はドストエフスキイなくしてはありえんかった。おまえらみたいな若造にドストエフスキイの何がわかる。」
「行きましょう、キン子さん」信吉は、聞く耳もたんとばかりに帰ろうとする。
この騒動、さてさてどうなりますか・・・  

十五、ドストエフスキイの底力

 前号まで、発足時の役員で、いまは人気評論家となっている。熊田寅雄と信吉は言い争う羽目に。集金をあきらめ帰ろうとする二人を、なぜか熊田は玄関まで追いかけてくる。
「ちょっと待て」
「もう、いいんです。会員んじゃないとおっしゃるんなら」
「話は、まだすんじゃいないぞ」熊田は気色ばる。
「なんですか」
「理屈を通してから帰れ、失礼じゃないか」
「理屈ってなんですか」
「きみたちの目的のことだ」
「目的?」信吉は、歩を止めてふりかえる。
「そうだ、滞納金のことだ」
「それなら、さっきもご説明しましたが、会員じゃないんでいいんです」
「よかないね。名簿に俺の名前があったんだろ。脱会したのに抜いてなかったのは、そちらの怠慢だが、そんなこまいことはいわん」
「意味がわかりませんが」
「払うよ、きみらには、罪はないと思うから」
「はらうって、滞納金をですか」
「そうにきまってるじゃないか」
「脱会してるのに、どうしてです・・・・」
「どうしたも、こうしたもない。若造にドストエフスキイをわかってないなんていわれちゃ、こけんにかかわる」
「ほんとにいいです。会計の人に話ておきますから」
「よかあない、余計は浜島だろ、余計にわるい。ここはだんじてもって帰ってもらう」
 ドストエフスキイを理解していないといわれたことが、よほど癇にさわったようだ。
 信吉とキン子は顔を見合わせて、首をひねる。突然の豹変の意味がわからない。二人の困惑をよそに、熊田は、いきなり黒皮の財布を出すと、一万円札三枚を引きだして、ぐいと差し出して言った。
「これでおれはやめるぞ。帰ったら、しっかり籍を抜いておけ。これが最後だ。十年分だ」
 信吉は、逡巡するもくれるものはもらっておくことにした。
受け取ると二人は、急いで外に出た。
「ああ、驚いた」キン子は、胸をなぜおろす。
 なんだって、あんな争いになったのか。合点がいかなかった。原因は、ドストエフスキイのことらしかったが、キン子には、よくわからなかった。ドストエフスキイを分かっていようが、いまいが大騒ぎする問題か。あきれるばかりだ。その点について、熊田もドジョウの会の役員たちも皆、同じにみえて可笑しくなった。このこと、なんていったかしら、同じ穴のムジナっていうのかしら。意味はわからないが、キン子は思いだして独り笑いした。春の夜はおだやかで愉快だった。でもまだ明日がある。
「私、実家に寄るから、今日は解散、ゆっくりやすんで」
「じゃあ、ぼくは、明日行く滞納会員に出をしてから部屋に戻る」
「電話するなら」と、キン子は、バックからいろんな図柄のテレホンカードをだして「これでかけて。電話作戦効率よいから」と信吉に渡すと電車に飛び乗った。一人になると信吉は、電話ボックスに入って5人ほどにたてつづけに電話した。二人でなかったが、後は、いたので要件をつたえると、皆、明日の訪問OKだった。ドジョウの会というと、誰も疑わないのだ。これがドストエフスキイの底力というやつかもしれない。信吉は、楽しい気持ちになった。弁当を買うとマンションに戻った。早く眠りたかった。
 昨夜の電話作戦が功を奏したらしく翌日の集金は、順風満帆だった。無駄骨も余計な説明もいらなかった。山岡美登里は幼稚園の保母。北村進一は駅前のパン職人、恐縮して焼きたてのパンをくれた。公園で食べた。職場はさまざまだが、たずねると皆、快く払ってくれた。「こんなことなら督促状を出せばみなさん振込でくれたですね」
「もしかしてこれまで何もしなかったのでは」キン子は笑う。「請求しなくても払ってくれると思ってたのかしら」キン子は、いささか拍子抜けした。昨日のような山あり、谷ありが、なつかしく思えた。
「払ってくれるのは、当然ですよ。電話で今日、伺うこと承知してますから」
「でも、昨日みたいり方がスリルあるわ」
「まったくキン子さんは…遊びでやってるわけじゃないですからね、ぼくらは」信吉は苦笑しながら地図をひろげる。「この近くに、荒瀬という男の人で払うからといった人いるんです。荒瀬常次郎さん」
一軒家かしら」
「3の2の10だから一軒家?」キン子は見回してから、「あった、あそこじゃない」と、道向こうにある4階建てビルを指さす。二階の窓に大きく荒瀬興行の文字がでかでかとある。
「あのビルの社長さんかしら。だったらすぐ払ってくれそうね」
キン子は、そう言いながらも不安そうにビルを見上げた。というのもそのビルは、窓が少なく異様な感じがするのである。玄関らしい入口はガラス戸ではなく、分厚い鉄のドアだ。それに、この天気なのに全部の窓のファインダが降ろされている。
「なんか変なビルね」キン子は、嫌な予感がした。
 しかし、信吉は頓着なく玄関に近づいた。いきなり、鉄のドアが開いて、男が二人とびだしてきた。黒の背広姿にノーネクタイ、頭はいま流行りのパンチパーマの中年男。もう一人は、迷彩服の坊主頭の若者。二人は、怒り顔で怒鳴った。
「おい、ここでなにやってる。目ざわりだ」
 キン子は驚いて信吉の後ろに隠れた。なにか普通の人たちでない気がした。ところが信吉は、躊躇せず、たずねた。
「あのう、こちらに荒瀬常次郎さんと言う人、いらっしゃいますか」
「なんや、うちに、用事か?!」
パンチ頭は、不審げに二人をみた。
「いらっしゃいますか、荒瀬さん」信吉は、もう一度たずねた。
「な、なんだ、慣れ慣れしい。組長に用か?!」坊主頭が、目をむいて叫んだ。
「バカ野郎!社長だろ」
パンチ頭は、怒鳴って、いきなり坊主頭をなぐりつけた。
「あ、兄貴申し訳ありません」坊主頭は、直立不動になってわびた。
 思わぬ成り行きにキン子は、仰天した。なんなのこの人たち。組長って何?キン子は足をガクガクさせながら信吉のコートの裾をひっぱると、小声で言った。
「ここ、やめようよ。怖いわ」
「お身内さんですか、社長の」
パンチ頭は馬鹿丁寧にきいてきた。
「身内?いえ、親戚じゃあないです」信吉は、首を振った。
「ちがう…?!て、すると、なんだあ、おまえたち、いってえなんだ」
とたん態度がガラっと変わって声が大きくなった。
「だから荒瀬さんに」
「どんな用事だ」
「ちょっと個人的なことですから」
「おちょくっとるのか!にいちゃん!」
「かえりましょう。人、間違えよ、きっと」キン子は、震え声で、信吉に言った。
「おいおいおい、ちよっと、待ちいな。人違いだと。人様の玄関前を汚しておいて、かえりましょうはねえだろ。なにしにきたか話してもらうぜ」
パンチ頭の言葉は、やさしいが。目はすごんでいる。
 この常識外の応対に信吉は、漸くあきらめる気になった。
「キン子さん、帰りましょう。昨日、話した荒瀬さんがいなければ、話になりませんから」「冗談ぽいよ」迷彩服の坊主頭は、二人のまえに立ちはだかった。
「社長に会いたいってきたんだろ、だったら、その理由をいってみろ。お身内さんでもなさそうだし、どこの馬の骨ともしれんものに会うほど、うちの社長は、暇じゃあないんだ」
「じゃあ、ドジョウの会のものがきたと、取り次いでください。わかるはずです」
「何!?、ドジョウだと?!
「はい、ドジョウの会です」
「てめえ、ふざけてるのか」
「ドストエフスキイ読書会といってくれても――」
「な、なにい、ドスだと。おまえらアベックで、ヤッパの売り込みか」坊主頭は、顔を真っ赤にさせて怒鳴る。「いい度胸じゃないか」
「ドスの売り込みなら、はじめからそう言ってくれよ。いきなり社長に会わせろなんてなめたことしないで。うちの社長とは知りあいか ?」こんどはパンチ頭がきいた。
「荒瀬さんですか、いえ、会ったことありません」
「て、てめえ、ふざけてんのか。ヤキいれるぞ」
「この人たちと話したって駄目よ。行きましょう」キン子は、歩きだす。
「おいおい、お姉ちゃん、それはないぜ、社長に会いにきたんだろ」
坊主頭は、いきなりキン子の腕をつかんだ。
「なによ、離して、痛いじゃない」
「おっ、威勢のいいオネエちゃんだ。気にいったぜ」
「早く、離してよ、警察、呼ぶをわよ」
「そりゃあないぜ、お宅たちが、用事あるってきたじゃないか」 
 (つづく)

(通信185まで)