ドストエーフスキイ全作品読む会

下原敏彦の著作


小説 ドストエフスキイの人々

下原敏彦
 


ドストエフスキ―は1821年11月11日に生まれました。2021年はドストエフスキー生誕200周年にあたります。私たちの「ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会」はこの記念すべき年に、発足50周年を迎えました。

このふたつの記念すべき節目を祝って、2021年12月読書会では、脚本化した「フョードル・カラマーゾフ殺害事件裁判」の口演を行うことにしました。

また、30年前に書き始めて、手直しながら『読書会通信』に連載していた「小説ドストエフスキイの人々」が完結しました。この作品はドストエフスキーを愛する市井の読者たちの群像です。すべて架空の人々です。もし、この中に真実があるとすれば、それはドストエフスキーへの尽きない情熱でしょう。

ドストエフスキ―さん、生誕200年おめでとう! はるか日本から、この物語を捧げます。
 


小説 ドストエフスキイの人々

第一部

一、今日的名曲喫茶
二、ドジョウの会
三、そして誰もこなかった
四、それぞれの夢
五、会誌『ドジョウ時代』
六、女子大生大野キン子
七、遅れてきた青年

八、ドジョウの会再建案
九、難問解決
十、宿なし、金なしの集金人

第二部に続く   



主な登場人物
□夢井信吉 ドジョウの会の地方会員   □大野キン子 女子大生 主人公
□渋川哲春 ドジョウの会顧問      □丸山茂喜 ドジョウの会事務局長
□浜島 敬 ドジョウの会の会計係    □小堀清人 ドジョウの会の会誌編集長
□石部健三 ドジョウの会の会計監査役   時代は平成元年の春




第一部


一、今日的名曲喫茶

 ときは平成、春弥生、ここは東京池袋、天にそびゆるサンシャイン睥睨足下の巷にはネオンの海が広がれど、かって、青江三奈嬢が妖しく媚態に歌いたる、かのため息の街ならず。時の移りにドヤ街も今は変わりてモダン都市。若人集う街角にマルメラードフ今いずこ。旧きをたずね彷徨えば、未だありなん昭和の遺跡。レンガ造りの外壁に蔦のからまる北欧古城。これぞなつかし名曲喫茶、しばし憩わん春の宵。
 ――と、いうわけで平成はじめのある春の夕、私は所用で池袋に行った折り、JR池袋駅から人ごみをかきわけ、久しぶりに昔馴染みのその珈琲館に入った。店内は夕刻どきの混雑に呼応するかのようにビゼーのカルメンが高らかに鳴り響いていた。しかし、名曲喫茶も今は昔。近頃はたんに若者たちの待ち合わせ場所になってしまっていた。見る限り、うっとり名曲に聴きいる客も、酔狂に一人愁いて孤独にひたる客もいない。ロココ風の店内は一階、二階とも若いカップルや学生グループの笑い声、叫び声が洪水のように溢れていた。加えてこれに負けじとボリュームいっぱいにあげた音楽。店内はまさに闘牛場さながらの騒々しさであった。が、これもご時世とあきらめて一杯のコーヒーをすするほかなかった。
 ところが、店内を見まわすと三階だけが、ちと様子が違う。一階二階の喧騒をよそにひっそり閑と静まり返っている。上がって行く客もいない。そのわけは階段口に貼られた一枚のはり紙にあるようだ。「三階は “ドジョウの会”様貸し切り」と書かれている。はてさてドジョウの会とはこれ如何に。私ならずとも興味を引こうというもの。ドジョウといえば安来節。その集りでもあるのだろうか。しかし、和風の料理店ならいざ知らず、民謡とはほど遠いこんな店で・・・。首を傾げながらも思わず失笑がでる。同じことを思い浮かべる客もいるようだ。上がろうとして立ち止まり、はり紙をながめていた若者二人、どっと笑うとドジョウすくいの恰好をしながらもどってきた。それにしても、全フロアー貸し切っての集りとはよほどの人数のはず。だがしかし、三階は明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしである。
 ドジョウとは、いったい何の会であろうか。暇人というほど暇ではないが、所用も済んだし、気になって仕方がない。いらぬ節介、野次馬根性だが、ちょいと観察してみることにした。そんな酔狂が、この物語のはじまりである。

二、ドジョウの会

 明かりはあるが人けなし。深山幽谷のごとしとはよくいった。それもそのはずであった。三階の店内にはたった五人の男性客が、中央にテーブルを寄せ集めてつくった会場で人待ち顔でだんまり座っているのみ。彼らの年齢は白髪の一人を除いて中年から初老にかけてといったところ。服装は背広姿の御仁もいれば、ブレザーあり、ジャンパーありのそれぞれである。が、皆一様に黙して語らずで、沈みきった雰囲気。間違っても安来節ではなさそうだ。
 普通、集った顔ぶれをみれば、かのシャーロック・ホームズやポリフィーリー判事でなくとも凡そのところ見当がつくというものだが。この御仁たち、如何なる集まりか、推測しがたいことこのうえもない。例えば年齢から想像つくのは会社の同僚、同級生、はたまたゴルフ仲間に町内会といった感じである。全フロアー貸し切りでテーブルに二十近い椅子が用意されているのをみると、政治団体とも宗教団体とも思えるのだが、その手の会合にみられる覇気がない。考えれば考えるほどわからない。そもそも「ドジョウ」とは何か、まさか一歩譲って柳川鍋をつつく会かも。が、土鍋もコンロも用意されてない。さすがにそれはないようだ。     
 この閑古鳥鳴く会場に、さっきから長髪をポマードで固めた背の高いボーイ君が、調理場のある階下から再三再四あがってきては一つ覚えの九官鳥よろしく「お飲み物はどういたしましょうか」と繰り返していた。
 その都度、石地蔵のように黙りこくっていた彼らは尻をつつかれた昆虫のように緩慢に顔を見合した。この度も、一斉に互いの顔を見合わせていたが、そのうち階段口に座っていた体の大きな背広姿の御仁、つまりこの会の事務局長で、今夜の幹事でもある、丸山茂喜という霞ヶ関のさる省庁に勤めるお役人だが、おもむろに腕時計を見つめたあと、少し裏返った声で困惑げに「どうします、みなさん」とたずねた。
 しかし、皆の反応といっても四人だが、彼らの反応はいたって鈍い。名ばかりではあるが、会の会計担当をしている実直そうな御仁の浜島敬と、年のころ三十五、六と一番若そうな御仁で、編集委員の肩書きをもつ小堀清人、この二人は同時にふっと情けないため息をもらすばかりだ。一人、落ち着かない御仁がいる。こちらは監査役で、会きってのうるさ型、石部健三であるが、さすがいまは返答には窮して苦虫を潰し貧乏揺すりするのが精一杯といったところだ。こんな気詰まりのなか、一人のんきに構えているのはこの会の顧問を引きうけている白髪の紳士。都の東北X大の渋川哲春教授。槍が降ろうと白川夜船。席に着いたときから頬杖枕である。
 しかし、今度ばかりはおめおめと引き下がれるものかと、ノッポのボーイ君、直立不動でよき返事を待っているのである。そんな決意もなんのその、相変わらずの五人衆である。なんというルーズさ、煮えきれなさ。もうとっくにこのパーティの開催時間は過ぎているのだ。ラストオーダーの時間というものがある。なんとしても、もうはじめてもらわなくては困るのだ。ボーイ君、とうとう痺れをきらして申し出た。
「あのう、何時ごろからはじめられるでしょうか。お時間はとっくに過ぎておりますが」無理につくった笑顔が引きつっている。
 だが、皆からは相変わらず返事なし。曖昧模糊としてのだんまり戦術。幹事の丸山一人が弱りきって、額の汗を拭うばかりだ。気まずい沈黙だけが卓上のすっかり冷えてしまったフライトポテトやから揚げの上を漂うばかりである。
「そろそろお飲み物、お持ちしてもいいでしょうか」ボーイ君、慇懃無礼に事を運ぼうとするつもりらしい。が、このときさすがの昼行灯、渋川教授、いきなりひょいと顔をあげると、その仙人のようにのびた白髪をかきあげてのたまった。
「もう少し、待ってもらいましょう。もう少し」と問答無用の寝ぼけ声。それだけ告げると元の狸か狐の眠り。
 納得いかないのはノッポのボーイ君だ。このあと、本当に誰かくるんですか、と言いたげにピクリと頬を引きつらせた。だが、店のオーナーが教授の教え子と聞いているだけに露骨に嫌な顔もできず、ここは微笑して「それではもう少し皆様がそろいましたら」と馬鹿丁寧に頭を下げてそそくさと引き上げていった。
 ボーイ君の姿が階段の下に消え去ると、一同ほっとして安堵のため息。店内はふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくるだけ。そんななかで皆の胸内に一つの疑問。いまの渋川教授の言葉である。もう少し待つとはあてでもあるのか。もしかして約束でもあるのかも。だが、再びの頬杖枕の教授に確かめるわけにもいかず、てんでに思いをめぐらせていた。
「来ませんねえ、ほんとうに・・・」小堀は考えの重さに耐えきれなくなってつぶやいた。もう何度目の嘆息か。
「来ませんねえ・・・」 ボーイ君が姿を消すと、三階はふたたび洞窟のように森閑として、階下のにぎわいだけがやけに大きく響いてくる。一体だれを待つのか五人衆。

三、そして誰もこなかった

「これは由々しき問題ですぞ!」突如、浜島が吐き出すように言った。「もしだれもこないとすると、これだけの場所を借りきっているんですからねえ」
 名ばかりとはいえ、さすがに会計係である。はじめのうちは冗談ぽかった彼の声もいまではすっかり深刻味をおびて裏返っている。
「うーむ、こんなことだったら料理の方は頼まなくてもよかったですねえ」丸山は背広のボタンがちぎれ飛ばんばかりに太ったからだを傾げて後悔しきり。
「しかし、誰も来ないということはないでしよう。いくらなんでも、地方の会員は仕方ないとしても東京近辺の人はその気があれば来れる登録会員は百人はいるんだ。それに、今日のはただの総会じゃあない、緊急の特別会議なんだ。会の存亡がかかった」
 石部は吐き出すように言って乱暴に席を立つと、落ち着きなくテーブルの周りを歩き始めた。性格が直情径行の石部はもうこれ以上イライラを押さえきれないといった様子だ。ひとりごとをぶつぶつ繰り返している。
「しかし、誰も来ないなんて・・・しかし」
「いやあ、この分じゃあ、ありえるかも知れませんよ。むしろその方が確率的に高くなっているでしょう。いつものことですが」丸山はお役人らしい見通しで諦め口調で言った。
「あり、ありえるだなんて、事務局長!」石部は目を剥いて声を荒げた。
「冗談じゃあないですよ。出席者がゼロだなんて、縁起でもない。もし、そんなことになったら、私んとこの印刷代はどうなるんです。会はなくなったって、またつくればできますがね。借金は残りますからね。役員以外の会員が一人も来ないとなると、これは大ごとですよ。まったく」
「石部さん、またまたそんなことを言い出して。仕方ないじゃありませんか」浜島は手持ち無沙汰に電卓をたたきながらたしなめるように言った。
「こればっかりはどうしょうもないんじゃないですか。天災とおなじで仕方ないですよ」
「仕方ない!君い!仕方ないで済まされる問題じゃないよ。のんきなことを言ってちゃ困るよ。会計係が。だからお役人は困る」
「じゃあ、どう言えばいいんですか」浜島は気色ばんで言った。市の相談室職員だが、お役人と呼ばれることを異常に嫌っている。そのくせ、ゴリャードキン氏論は熱心に論じる方だ。
「・・・だからって、仕方ないはないだろう。仕方ないじゃあすまされませんよ」石部はちょっと返事に窮したが、少し語気を和らげ、禿げ上がった額を真っ赤にさせてつづけた。
「だいたい私は反対だったんだ。いまどき、この手の雑誌を創刊したって成功するはずがないってこと、とりわけこの手の論文ものは売れるはずがないってことは分かりすぎるくらいわかっていた。全学連はなやかなりし頃のふた昔前だったらいざ知らず、いまじゃ時代錯誤もはなはだしいもほどがある。それで、私ははなっから乗り気ではなかったんだ。ある程度、予想がついてたね、こうなるんじゃないかと」
「えっ!本当ですか!」浜島は素っ頓狂な声をあげた。
「わたしは初耳ですよ。社長さんが今回の出版に関して、そんな見識というか見通しをもっていたなんて。事務局長、そんな意見ありました?あのとき」
「あの編集会議でしょ。一切ありませんよ。そんな話は」丸山はきっぱり否定した。
「あるもないも、雑誌の発行は全員が賛成でしたよ。慎重論さえでませんでした。それに、わたしの記憶するところでは、石部さん、だいたいあなたが一番に乗り気だったですよ。ドストエフスキイは今日、この過渡期の時代にこそ必要だとか、広く社会に宣伝して現代文明警鐘の書としなければならないとかなんとか一席ぶったじゃないですか。なかなか名演説でしたよ」
「そうそう、ビデオやマンガに溺れる飽食日本の若者の目を覚ましてやるのだと意気込んでた、よっくおぼえていますよ」と浜島が言った。
「ほお、そんなこと言いましたっけ」石部は他人事のように驚いたふうをみせて言った。
「あのときは世評を言ったまでですよ。別に雑誌の件で言ったわけじゃない。もしかして、ドストエフスキイは現代に必要、とは言ったかも知れませんが、それは雑誌を刊行するしないで言ったことじゃあないですよ。とにかく、わたしは創刊号をだすことについては最初から慎重論でしたよ。危惧してましたよ。結局のところ、しまいにはこうなるんじゃないかと、みえてましたてよ。そりゃあ、わたしはしがない印刷屋のおやじですがね。それでも一応、経営者だ。だいたいのところは予測できますよ。まあなんというか、事業家のカンというか・・・それがありますから」
「しかし、あのとき一万部以上のベストセラーにするなんて、大風呂敷をひろげた人はどなたでしたっけ。おまけに、後から足りなくなると困るとかで百部も追加印刷したのはいったいどこのどなたでしたか。おまけに、自分とこの工場をビルに改築するなんて、ちゃっかり胸算用までしてたじゃないですか」と浜島がからかい気味に言った。

四、それぞれの夢

「ほう、たいした記憶ですな。そんなこと言いましたか。しかし、百歩ゆずってそう言ったとしても、たいして驚きませんよ。たとえ、そんな大法螺吹いたとしても当然じゃないですか。会の存亡をかけてなにかやろうとしてたときですからね。一か八か、望みはでっかくですよ。大ボラ結構じゃないですか。ハハハ」
 石部は指摘された自分の発言を吹き飛ばすかのように声高かに笑って、禿あがった広い額を平手で軽く打ってから、人差し指を浜島に向けて逆襲をつづけた。
「そういう話ならわたしだって覚えていますよ。浜さん、あなただって、あのときは随分はしゃいでいましたよ。『白痴』を撮った黒澤明監督に掛け合ってドストエフスキイの伝記映画を作るんだって相当の熱の入れようだったじゃないですか。われわれ、「ドジョウの会」が制作に加われば日本アカデミー賞だって夢じゃない、そんな途方もない妄想にとりつかれていたじゃないですか。そこにいくとわたしの工場のビル建設計画なんか可愛いいもんです。浜さんのに比べたらささやかな夢ですよ。極めて、現実的な」
「なにが現実的ですか」浜島は顔を真っ赤にして言った。
「妄想じゃありませんよ。ボクは今でも思っていますよ。石部さん、あなたのように何部売れて儲かったらビルをつくろうなんて、そんな卑しい気持ちじやないんです。今回の創刊号で一段落ついたらドストエフスキイの愛読者を増やすために黒澤監督だけじゃあなしに、世界中のドストエフスキイ監督に手紙を書いて協力を要請する計画だって小堀君とたてていたんだ。現に実行しようとしていたんだ。なあ、小堀君」
「え、ええ、まあ、茶飲み話ですけど」小堀は照れくさそうに小声で言って頷いた。顔が赤くなった。
「ほう、そりゃあまた結構なことだ。そんな壮大な、そんな遠大な計画をお二人でたてていたというわけですか。まことにすばらしい。わたしのビル建設計画なんか、みみっちいもんですな。吹けば飛ぶような夢だった。こりゃまた失礼しやした」
「まあ、いいじゃあないですか。どんな非現実的な夢だって。あのときは誰もが夢をもっていたわけです。だからこそ創刊号を刊行できたんです。」丸山は幹事らしく割って入る。
「本当にたいした計画だと感心したまでですよ」石部は鼻をならしてどっかと椅子に腰を下ろした。そして、腕組みをしてふんぞり返ると貧乏揺すりをはじめながら言った。
「そういえば、丸山さん、事務局長だって、相当に張り切っていたじゃないですか。成功したあかつきには二十五周年記念を兼ねて、新宿西口の高層ホテルで大々的に出版パーティを打ち上げるなんてほざいてたんだから。忘れたなんていわせませんよ」
 丸山はダンゴ鼻を膨らませ、いささか興奮気味に応じた。
「ああ、石部さん、よく覚えていらっしゃる。はいはい、否定しませんよ。確か、そのようなことを言ったように記憶しています。なにしろあのときは出航前ですからねえ。みなさんすっかり舞いあがっていたし。もしかして、これを契機に会の運命が明るい方に拓けていくんじゃないか。そんな希望というか期待がありました。“世界ドストエフスキイ友好協会”設立へ向けて一歩前進。そんな思いがありましたからね。だから、事務局を預かるものとして盛大に記念行事をやりたいぐらいの挨拶はやりますよ。私としても、本当にそれが夢ですからねえ」
「ほんとあのときは皆さん張り切っていましたよね。聴衆こそいませんでしたが、ぼくなんか、あのプーシキン記念式典のドストエフスキイの講演を思い浮かべました」小堀は懐かしげに、しかし感傷を含んだ声で言った。
「ああ、それなのに、それなのに、か」突然、浜島は口ずさんでからつづけた。
「そして、悲しき、祭かな、か。ベストセラーどころか、このていたらく。しかし、何の批評もないとはねえ。まさか新聞にも批評家連にもまったく無視されるとは思ってもみなかったですよ」

「近ごろは見る目のあるやつがいないんだ」石部は憤然として言った。
「まあ、売れる、売れないは仕方ないとしても、せめて記念行事だけでも敢行したかったですね。我々一人一人に違った夢があって、その夢でせっかくちゃんとした本をだしたのだから、お祝いぐらいはしたかったね」浜島は残念そうにため息をつくと愚痴った。
「そもそも、その資金ぐりを創刊雑誌の売上から得た収入で、なんて考えたのが甘かった」
と石部。
「わたしんとこのビル建設計画に、浜さんの伝記映画製作、それに丸山事務局長の出版記念パーティ計画・・・おっ、小堀君のを忘れてたよ。浜さんと映画協力の他にあっただろう、えーと、なんだっけ」
「いいですよ。ぼくのは」と小堀。
「それはないだろ、われわれのホラをさんざっぱら披瀝させておいて。自分ばかり恰好つけようと思っても、そりゃだめだ」
「あっ、おもいだした」浜島が叫ぶ。
「ビルですよ。ビル」

「ビル?」
「ビル建設ですよ、でも、石部社長のビル建設計画とは違って、コボちゃんのは日本ドストエフスキイ会館の建設計画」
「おお、そうだった。何、わたしだって、自分の工場のことばっかり考えていったんじゃあない。当然、ビル家屋の中に、ドジョウの会事務局の部屋をつくることにしていた」
「ふん、ほんまですか。社長はすぐこれだ。調子いいんだから」と浜島。
 丸山が華やかなりし当時を思い出して感慨深そうに口を挟んだ。
「まあ、皆さんの夢はさておき、もしこの本がベストセラーにでもなっていたら今ごろはすごいことになっていたでしょう。たぶん、ホテルの大広間は全会員の出席や各界のドストエフスキイ関係者で大盛況間違いなしだったでしょう。なにせ二十五年前このドジョウの会を発足させたときはすごかったですからねえ」
「栄枯盛衰とはよくいったもの、いまでは未だ来ぬ会員を待ってボーイの注文とりに冷や冷やする始末。まさにこれを喜劇といわずして何という、ですな。ついこのあいだまではまだ何人か参加者があったのに・・・」浜島、店内を見回してつぶやく。
「国敗れて山河あり、はたまた、つわものどもが夢のあとか・・・」

 石部は落ち着きなく貧乏揺すりをはじめると、断固たる態度で言い放った。
「ふん、浜さん、夢の跡でも、山河でもあればいいですよ。あれば。何か残っていればいいですよ。それを元手に何かできるから。夢の跡なら、思い出話になるし、山河なら観光地にもなるし、百姓だってできる。しかし、我々の場合、何も残っちやいない。何もない。いや違う。我々の場合、残っているのは借金の山だ。ゼロどころか大マイナスときている。これじゃあ、なにかはじめようにもどうにもならん。おまけに頼みの綱の会員も目下のところ一人も出席せずだ。この調子じゃあ本当に誰も来ませんよ。これ以上いくら待ったってしょうがない。そろそろ、今後を含め、どうするか話し合った方がいいんじゃあないですか。もうこれ以上タラネバの話をして悔やんだってしょうがない。いったいどうするんです。いくらなんでも私んとこだけが尻拭いするのはごめんですからねえ。このままでいくと・・・」
「ええ、わかってますよ。そんなことがないようにと、こうして臨時会議を開いたんじゃないですか」浜島は苦虫をつぶして言うと丸山を見て苦笑いする。二人とも石部にその話しを持ち出されるのはうんざりといった顔だ。

五、会誌『ドジョウ時代』

 つまるところ話は責任転嫁の堂々巡り、会話のいきつく先はいつもここ、積もり積もった借金の山。一同、ふっと思い出すと、これまでの好き放題の会話はどこへやら、気がついた現実の重さに口をつぐんだ。石部は口をへの字にへし曲げ、再びがたがたと貧乏揺すりをはじめれば、浜島は何度計算し直しても同じ数字しかでない電卓をたたいては恨めしげに見つめるばかり。幹事の丸山は階段口を睨んだまま時折長いため息をもらすだけ。本当に眠ってしまったのか渋川教授は化石のように動かない。またしてもテーブル上は重苦しい空気がよどんだ。階下の賑やかさが余計にその静けさを際立たせた。
「す、すみません!」突然、小堀が叫んで立ちあがった。一同、ぎょっとして見つめるなか彼は頭をテーブルに打ちつけんばかりに下げて詫びた。
「すみません。みんな僕が悪いんです。僕が間違ってました。この一億総白痴時代にドストエフスキイをひろめようと思ったのが間違いの元でした。いまこそ人類にとってドストエフスキイが必要だなんて、そんなことを一人よがりに信じきっていた僕が浅はかでした。僕が、最初に本を出版すべきだなんて言い出さなければ、皆さんに迷惑かけることなかったんです。会をこんな状態にすることはなかったんです。本当に、なんて謝ったらいいのか」
「いやあ、困るよ、小堀君、そんなこと言い出しちやあ」丸山は苦りきった顔でなだめる。
「誰もあなたの責任だなんて思ってやしないですよ。ドストエフスキイを読もう会、通称ドジョウの会は発足以来二十五年、当初の華々しさはありませんが、今日までなんとかつづけてこれた。その記念碑として、これまでの同人誌的なものではなく、ちゃんとした本を出版したい、そうした気概というか、意欲は我々の誰にもあったのです」
「そう、その通り、事務局長の言う通りだ。何も小堀君一人が責任を感じることないよ。」と浜島も口添えして言った。
「ちゃんとした本を出版するというのは夢でしたからね。我々の、このドジョウの会発足時からの念願だった。まだ盛会だった十周年のときも出版の話はでた。しかし、ここにいらっしゃる渋川先生が一番ご存知だと思うのですが、あの頃は船頭多くして船うごかず。いろんな案がだされたが結局はまとまらなかった。個人的に出版された方もいましたが、会では刊行できなかった。いつかそのうちにと思っている間に年月だけがたってしまって。会員も当初は三百人近くいたのに、回を重ねるごとに一人減り、二人減りで、いまでは結局、きちんと年会費を納める会員は五十名をきってしまった。が、それでも我々はあきらめなかった。だから、今回の創刊号だって積極的だったのは会の創設に関わった我々だった。でも、先細る一方の会の実態についてはっきり言い出せなかった。誰かが言い出すのを待っていたんだ。だから、ちょうどよかったんです。小堀君に正直に言ってもらって」

「そう言ってもらえれば・・・」小堀は消え入りそうな声で言って、腰をおろした。
 小堀はもとは地方都市に住んでいた。半年に一回東京都内の会場で開かれる例会に新幹線で上京して出席していた。その熱心さをかわれて会の会報の編集担当になり会報誌の編集を任せられた。すると彼は持ち前の責任感の強さから、都内に職をみつけ、引っ越してきた。華奢だったが、ことドストエフスキイにかけては誰にも負けないほどの心酔ぶりだった。かって詩人の萩原朔太郎は「ドストエフスキイこそ我が神」と叫んだが、彼も詩人に劣らず、ほとんど信仰のようにドストエフスキイを信じて、青春のすべてを会の活動に捧げていた。しかし、その苦労は報われなかった。今日のこの有様が、そのことをものがたっていた。彼が費やした時間と努力は水疱に帰した。会は衰退の一途をだどり、今宵、終着駅に着くかも知れないのだ。彼が会で得た唯一の収穫は以前打合せの会場にしていた新宿の談話喫茶で、その店の予約係だったウエイトレス嬢と付き合いはじめ、昨年秋になって遅い結婚をしたことだった。近々子供が生まれる予定もある。新しい生活と念願の出版。二つの喜びにつつまれていたのだ。そうした諸事情や意気込みを知っているだけに慰めようもない。皆は言葉を失って口をつぐんだ。テーブル上にはふたたび重く沈んだ空気がよどんだ。
「ああ、せっかくの記念碑が墓標になりゃあ世話ないや」突如、石部が半ば自棄っぱちのように声をあげた。
「起死回生のつもりが、アリ地獄とはねえ。いったい、何がまずかったのかねえ」浜島も首をひねってこぼす。
「題名だよ、『ドジョウ時代』という。誰が聞いても、ドングリコロコロか柳川鍋くらいしか連想しないよ」石部はそう言って丸山をみた。
「 “ドジョウ”が、西欧とロシアの融合ひいては世界人類の融和を目指したドストエフスキイの理念 “土壌主義”からとったなんて、よほど詳しい人にしかわからないでしょうな」ばつが悪そうに丸山が言った。
「今は読みませんからねえ、ドストエフスキイ」不意に渋川教授がむっくり顔をあげて言った。てっきり眠りこけているものと思いこんでいた一同、ぽかんとして見やった。教授、すまし顔で、テーブルの上にはずしておいていた眼鏡をとると、テーブルクロスの端でレンズをぬぐいながら言った。
「近ごろの学生はドストエフスキイどころか古典文学などほとんど読みませんよ。作家と作品は受験対策で覚えたんでしょう。誰が何を書いたか、それなりに知ってはいますが、いわゆるクイズの答えですよ。中身の方はさっぱりですね、たまに読んでいるかと思うと、これが解説書かあらすじをただ教養のために暗記したというだけでねえ。とてもドストエフスキイを読むなんてとこにはいきませんよ。まあ、日本の学生に限ったことじゃありませんがね。ドイツではゲーテを読む学生がいなくなったというし、イギリスではシェイクスピアも読まれなくなったといいますからね」

「我々の時代とどこが違うんでしょう」かっては学生運動の闘士だったという浜島はなっとくできない顔だ。
 丸山は渋川教授に頷いてみせてから口を挟んだ。
「ほかにすることが、といっても遊び事ですが、多くなったんですよ。それに当節は無理して考えなきゃあいけない政治問題も哲学的なこともありませんしね。世の中、軽いノリで流れてますから、ドストエフスキイのようなくどいものはちょっとね。それに今はなんでもマンガですよ。政治も経済も法律も。活字族にとっては嘆かわしいことかも知れませんが、若者にとってはわかりやすくていいんですよ」
「そういえば、うちの庁内でも見かけましたよ」
「えっ、法務省で、ですか?!」と浜島が驚く。
「新人の机の上に、見なれない本が置いてあるんで、ちょっとのぞいたら、これがマンガなんですよ。狭山事件っていうのがあったでしょ。作家の野間宏だかが協力して冤罪を訴えていた。これがマンガになっているんですよ
「どんな事件でした」
「ほら、狭山のお茶畑で警察が犯人を取り逃がして後で別件逮捕したという」
「ああ、」
「えーと、吉展ちゃん事件があった年に起きた事件。あの事件ですよ」さすが、本業とあって詳しい。
「へーえ、お役人も、マンガねえ」浜島は腕組みして感心する。
「文学書といっても、ばななか、春樹、でしょう。変わりましたよ、今の学生は。もっともあの東大紛争のころだってマンガは読んでいましたが・・・」
「それはマスコミのアレですよ。我々を揶揄せんとするプロパガンダ。そんなようなもんですよ」浜島は一笑に付しながら心外といわんばかりに言った。
「たしか、右手、左手だったか、忘れちゃつたけど『朝日ジャーナル』、左手に『少年マガジン』そんなふうに言われてた時代があったのは事実です。白土三平の『カムイ』がゲバ学生に人気あった。それに、あの「よど号ハイジャック事件」の田宮なんか、「我々は『明日のジョー』である、なんちゃって迷言を残していますしね。否定はしませんよ。いまの学生とたいした違いはないかも知れない。しかし、心意気というか熱意だけはあった。読まなくたってジャーナルを買うことが一種のステータスだった。だから、そのへんは今の学生とは全然違いますよ。ドストエフスキイが読まれなくなったのがいい証拠です」

「そうですね。時代のせいかもしれません。一昔、いや二昔前だったら、状況は違っていたでしょうね」と丸山は答えた。
「ち、ちょっと待ってください」石部が割って入った。
「事務局長、時代のせいばかりじゃありませんよ。さっきから黙って聞いてりやあ、本が読まれなくなったの、学生はマンガしか読まなくなったから、だのと勝手な詮索をしていますが、商売をお客様のせいにしたらおしまいですよ。創刊号を出したといったって、我々は趣味や道楽で出版したわけじゃないですからね。累積した赤字を解消しょうとして、一発逆転を狙って、極めてギャンブル的ではあったが、儲けることを目的ではじめたわけだから、責任はあくまでも我々にありますよ。もう少し、検討すればよかったんです」

「──と、いいますと?」と丸山が聞く。
「内容ですよ。内容」石部はテーブルのなかほどに山積みしてある創刊号『ドジョウ時代』を一冊手にとるとペラペラめくりながら言った。
「いまどき、こんなものは売れませんよ。時代の風潮ってものもありますが、それならそれで対策を考えればよかったんです。まあ、私は編集委員じゃあないので黙ってましたが、一般読者を対象とした読み物にしては難解過ぎますよ。これはどう見たってロシア文学専門家かドストエフスキイを研究している人を対象にしたものですよ。とても一般読者が手にとるような代物じゃあないですよ。小林秀雄や中村雄二郎、それに・・・誰だっけ・・・まあいいや。最近、評判のよかった江川卓の『謎解き「罪と罰」』や『謎解き「カラマーゾフの兄弟」』にしたって作者の知名度が売れ行きにかなりプラスに働いているのは否めないです。そりゃあ、まあ、これまでドストエフスキイものを出版している著者は研究者か作家ですから、そもそも比較になりませんが、もし我々が、作家先生たちと同じようなものを書いたとしても、だめでしょうね。私らみたいな、無名のドストエフスキイ愛読者が世間に勝負するんなら、もっとわかりやすいものにすべきだったんですよ。今度の創刊号はできたものに言っちゃあ悪いが、どうサバ読んだってドストエフスキイを読んでないものにとっちゃあ、ちょっと手のでないしろものでしょう。敬遠しますよ。題名だって『ドジョウ時代』でよかったかどうか」

「意外ですね。石部さん、会の名前を「ドジョウの会」に決めたとき、ドストエフスキイの“土壌主義”が由来ということで、大賛成だったじゃないですか。それに、機関誌に会の名前を入れて土壌主義の考え方を広めようと提案したのは、確か石部さん、あなたでしたよ」浜島は心外そうな面持ちで小堀をみやりながら言った。
「そうですか。まあ、題名はいいでしょう。芸名と同じで、売れればぴったりするし、売れなければ、しっくりしない。『ドジョウ時代』も売れればぱっとするのかも。それより本は中身ですよ。中身がよければ・・・もっともここが問題なんですよ。たんに見た目がいいだけじゃあだめなんです。本を出版する場合、いわゆる儲けを考える上での鉄則があるんですよ。たとえば科学書を一般向けで売ろうとしたら、科学記号を少しでも減らすことに努力するといいますから。元素記号とか、わけのわからん方程式とか、一般読者にはチンプンカンプンですからね。そういうものを一つ入れるたびに本の売れ行きは半減するっていわれている。この轍を踏むとゴリャートキンとかスヴィドリガイロフとかバフチンとかの名前も同じこと、店頭で本をひろげた途端、こりゃだめだってことになる。とても買ってまで読もうとしないね。だいたいドストエフスキイの作品の人物は小難しい人間など一人も登場しないんだ。下っ端役人か、酔っ払い、それにちょっと頭のおかしい人間、といった、社会じゃあどうにもうだつのあがらない連中ばっかしなんだから」石部は苦笑いしてつづけた。
 「まあ、我々も似たり寄ったりの人間です・・・それなのにドストエフスキイについて書くとなぜか難しいものになっちゃう。これは一体、どういうことなんでしょうなあ、前々から疑問に思っていたんだ。社会の落伍者をなぜこうも哲学的に心理学的に難解に論じなきゃあいけないのか。『貧しき人々』のジェーヴシキンなんか、よくいる寂しいおっさんだし、マルメラードフに至っては下の下の父親、いや人間ですよ。こんな人間のことを何だかんだと議論の対象にすること自体、私は本当いうと我慢ならんですよ。だいたいマルメラードフなんかあの保険金欲しさに娘を殺した木下伝司郎と五十歩百歩。たいして違いがないんです。だから奴の言い分や存在理由なんか分析する必要なんかないね。アル中男、ダメ人間、でいいじゃあないか。なにも難しくすることなんかないのだ。そこんとこをちゃんと解決してから発行すればよかったんだ」

「また、その話ですか」丸山は露骨に嫌な顔をして言った。
「もう、『ドジョウ時代』の話はやめましょう。石部さんの問題は結局、そこにいくんですから」

 渋川教授は居眠り顔で苦笑したが、浜島と小堀はあきれ顔。
「そうそう。なんら建設的なもんじゃあないですからね」浜島は相槌をうつ。
「私はただ真実をいってるだけですよ。真実を。過去を反省しないで、どうして前進できるんですか。難し過ぎたことを難し過ぎたと言ってなにが悪いんです。たんに覆水盆に帰らず式にかたづけては困りますよ」石部はかっとなって、頑迷にまくしたてた。
 皆は知らん顔だ。彼がごねるのは毎度のことである。それに、その立派な批評とは裏腹に難しすぎるとまくしたてるご当人からして「日本人の国民的根源とロシア主義」というたいそうな論文を載せているのだ。なおも挑発的な石部だが、皆はこれ以上、刺激を与えない方が得策とみてか、まったく無視した態度をとっていた。
「もっとも、いまさら、こんなことを言っても埒があきませんが・・・」石部は誰も聞いていないのに気がついて言葉をきった。そして、皆を見回しながら自嘲気味につぶやいた。
「書くってことはむずかしいことですわ。ほんと・・・」
 ふたたび重苦しい空気が漂った。

 待てど暮らせど来ぬ会員、待つは「ドジョウ」の役員衆。春はおぼろに暮れゆきて焦る心も失せにけり。絶えて久しい階段に人恋しきと思えども、ここは辛抱石の上。待てば海路の日より――。突然、階下に、「いらっしゃい!」のこだまあり。あとにつづくは靴の音。天井映るは人の影。一足ごとのブロッケン。やっと来ました会員一人。さてさて如何なる御仁でありますか。

六、女子大生 大野キン子

 大野キン子は軽快な足取りで階段を上ってきた。あっさりとしたジーンズにえんじのハーフコートのいでたち。肩までのばした黒髪。ちょつとばかりのしし鼻に大きな瞳。なかなかの美人である。すらりとした体躯に背も高い。テニスの帰りか、背負ったバックからラケットケースがのぞいている。どうみても「ドジョウの会」とは結びつかない。彼女は上りきると、三階の店内をぐるりと眺めまわして呆然とつっ立っていた。間違ったところにきてしまった。そんな感じだった。
「ここ、どじょうの会ですか」不審げにそう聞いた。

 全員が、頷く。すると、突然、彼女が叫んだのである。
「エー、ウソ―!」

 これには我らが五人衆、びっくり仰天。散々の待ちぼうけのあと、あらわれたのはとてもドジョウの会とは縁がなさそうな女の子。まさか、待ちに待つたる会員か。一同、唖然としたまま声をなくして見つめるばかり。が、キン子嬢、どこ吹く風、再び、甲高い声で叫んだ。
「ウソー、ウソでしょ、これって。まだ誰もきてないんですかア!?」
「あのー、あ、な、た、だれ」やっとのことで丸山はたずねた。
「えっ!?」キン子は吃驚、目を見開いたまま数秒間かたまっていた。が、そこは素早く居眠り中の渋川教授をちらっと見て言った。
「渋川ゼミのものですけど」

「あ、あ、あなたが・・・」丸山は不意に何事か思いだしたように頷いた。そして、急に恐縮しておじぎをしながら椅子をすすめた。
「さあ、どうぞ、どうぞ。このたびはありがとうございました」

 皆も思いだした。渋川教授から、今日の緊急会議のお知らせの発送をゼミの学生に頼んだと聞いていたことを。彼女が、頼んだその当人なのだ。
「これは、これは」皆は挨拶も忘れて失笑を浮かべるばかり。
「会の皆さんって、皆さんのことですか?」
「いや、われわれは役員で、会員はまだなんですよ」意味もなく騒々しい彼女に、丸山はうろたえ気味にやっと答えた。
「うそ!! それって出席者ゼロってこと?」キン子は訝しげに問いただしながら、後ろを振り返ったり、尚も店内を見回している。
「あのう、大野さん。ハガキだしておいてくれましたよねえ」丸山は恐る恐る聞いた。
「え、ハガキですか」キン子は黒髪をうしろに梳きながら不審そうに聞いた。
「そうです。今日の連絡の」
「ちゃんと出しました。急ぎだっていうから急いで」彼女は憮然として黄色い声をはりあげる。
「イヤダー、疑ってるんですかー、わたしのこと」

「いゃあ、そういうわけじゃないんだけど」丸山はうろたえて言った。
「こうみえたって、わたし、仕事きちんとやる性格なんです。引き受けたことをしないなんて、そんな無責任なことしません」
「ええ、ええ、それは十分わかっています。ただ念のためにお聞きしたまでで」
「先生からお預かりした住所録。あれに載っている人全員に出したんですよ。何人だったかしら、二百人分はあったわ。おかげで手にマメができちゃった」
「二百人!?てーと、え、全員ですか」
「そうですよ」
「地方の会員のところには×印をしておいたはずですが・・・」
「あら!?いけなかったんですか」
「いや、いけないということはないんですが・・・」丸山は歯切れが悪い。
「関東地区の会員だけでよかったんです。地方の方は出てくるのに大変ですから。切手代も・・・」

「いいんですよ。いいんですよ、全員にだしても」小堀は悪そうに助言する。
「全員でなくても、よかったんですか」キン子は口を尖らして大袈裟にため息をつく。
「ああ、損しちゃった」

 彼女はカチンときた。曖昧に仕事を頼んでおいて、誰も来ないからと疑ったりする。こんなことならテニス同好会のコンパにでればよかった。今ごろ渋谷のハチ公前に集っている阿部クンやカオルたちのことを思って後悔した。物珍しさできたものの、渋川教授は居眠りしているし、あとの四人も、さえないオジサンたち。礼を言われるどころか、ハガキ発送を疑われたりもした。キン子はだんだん腹が立ってきた。しかし、いくらなんでもこのまま引き返すわけにもいかず、キン子は渋々空席の並ぶ真ん中に腰を下ろす。
「どうしましょうか!」いつのまに上がってきたのか、またしてもノッポのボーイ君である。
 例によって皆は再びだんまりだ。それを見て、キン子おかしくなった。なんてさえない人たち。事務局長の丸山は困窮顔。貧乏ゆすりの石部、神経質そうな浜島、一番若そうな小堀は怯え顔でキン子を見ている。教室では偉そうに見える渋川教授はさっきからタバコ屋の年よりみたいに居眠りしたままである。なんなのこの人たち、あまりのおかしさにキン子の機嫌もだんだんなおってきた。
「そろそろ、お飲み物お持ちしましょうか」
「えっ、まだなんですか!?」
「一応、総会が終ってからと思いましてね」言って丸山はくたくたになったおしぼりで額の汗を拭う。
「お時間の都合がありますので」
「もしかして会員の人が来るのを待ってるんですかア」
「いえ、三分の一の委任が・・・」丸山事務局長は言いずらそうに答えた。
「ウソでしょ、だれも来ないなんて。そうなの?」
「そうですねえ、もうこれ以上待っても無駄かもしれませんねえ」不意に渋川教授はむっくり起きあがると、入れ歯をもぐもぐさせながらキン子を見て言った。
「あ、大野さん、きたんですか。ごくろうさん」

「先生、授業、出席にしてくれる約束ですよね」
「ああ、大丈夫、大丈夫」渋川教授は大きくうなずいたあと、テーブルをぐるっと見回して言った。「はじめましょうか。話ばっかりもなんだから、飲みながら待ちましょう」
「そうしますか。話し合いが終ってからというのも時間的になんですから」この後におよんでも、丸山はまだいいわけをしている。よほどの堅物なのだ。
「お飲み物はなにが」
「どうします、ビールでいいですよねえ」丸山は皆を見まわしてから指を三本立てて言った。
「じゃあ、とりあえず三本お願いします」

「えっ、三本だけ」キン子は訝しんだ。自分を入れて六人。この店ではどうせ小瓶だろうし、いくらなんでも足りない。それに、ひょっとしたら、まだ会員が来るかも知れないのに。
「三本ですか、他には」
「いや、それでいいです」
「はあ、わかりました。それではただいま」
 さんざん足を運ばせた結果がたったの三本。だが、ボーイ君、意味不明の薄笑いを浮かべ馬鹿丁寧にお辞儀をしてからなにやら晴れ晴れした表情で引き上げていった。
 キン子が不思議そうに小首を傾げていると、丸山はボーイ君の姿が階段に消え去るのを見届けてからにっと笑って言った。
「ま、我々だけでしたら、席をかえましょう。高いですからねえ、ここ。誰もこないんじゃあ、何のために席をとったのかわかりませんからね」

 なんだ、たんに、みみっちいだけじゃないの。キン子はあきれた。結局、いつものパターンじゃない。どうしても居酒屋で飲まなきゃいられない人たち。ほとんど全員の会員にお知らせしたから、すこしはどれだけ集るか興味あった。それにどんな会員がくるのか、見てみたかった。みんな、この役員のような堅物で優柔不断な人たちなのだろうか。もし女性の会員がきたら、何が面白くてこの会にはいったのか聞いてみたかった。キン子は二年間この会の役員と付き合っているが、まったくの趣味のことなのに、どうして彼らがこんなに入れ込んでいるのかさっぱりわからなかった。役員では話にならないので、会員にたずねてみようと思ってきたのだ。が、それも誰も来ないのでは話にならない。渋川教授の研究室で開かれたこの前の会議のときもそうだったが、また内輪のシケた話を聞いていなくてはならないのかと気が滅入った。ああ、もう、早く終ればいいのに。キン子は上目使いに五人の様子を伺った。そんな彼女の思惑を知ってか知らずか、彼らは元気なく乾杯すると、ちびちび飲みながら性懲りもなくまたしてもボヤきだしたのである。
「しかし、どうするんです。はじめるといったって役員だけじゃあ、仕方ないでしょう」石部はサラミを食いちぎると言った。
「まあ、そこらへんは臨機応変にやりましょう」と浜島。
「そうですね。役員という立場を離れて、一会員の立場に立って話し合いましょうよ」と丸山。
「それにしても、実に情けないもんだねえ。昔は五十、六十人そこらはすぐに集ったもんだが」と浜島がぐちった。
「そうですねえ、新聞の催し欄に載せただけで、会員以外の人もわんさか来たですからねえ。作家の六木浩、埴輪崇まで来たんですからね。第二回の総会なんか文化会館の大ホールがいっぱいになったんですからね。ああ、あの人たちみんなどこに行ってしまったんでしょうね」小堀はひとりごちた。
「あー、やめとき、聞きたくないね。振りかえってもどうしょうもない。昔は昔」石部は忌々しそうに貧乏揺すりをはじめる。
「昔の栄華いまいずこか。いまでは全会員に連絡してもこの有り様か。人の世の無常を感じるね。所詮、ドストエフスキイ読者も人の子というものさ」浜島は半ば自棄気味に言ってため息つく。
「でも、地方の会員はしょうがないとしても、せめて関東地区、東京都内に住む会員が誰か一人ぐらい出席してくれてもよかったですね」さすがの小堀も情けなさそうに肩を落とす。
「会員の出席者がいない。こういった事態になるとは予想もしてませんでしたから」丸山は困りきった顔で言うと渋川教授に聞いた。
「先生、どうします」

「そうですねえ、こうなればもう、ここにいる役員の皆さんで決めるほかないでしょう。いいんじゃないんですか、決めて。これも浜島さんじゃないけど、時代の流れでしょう」
「どんな名著も時代にゃ勝てぬ、ですか。これは再興を帰して玉と散るよりほかになさそうですなあ。ヒヒヒヒヒヒ」丸山は言って、突然気味の悪い笑い声をあげた。
 いつもは紳士然としている丸山の豹変ぶりに一同ギョッとする。もう完全に望みを捨てた笑いだ。切れてしまった。思えば、発足から二十五年、時代の荒海のなかでマストは折れ、へさきちぎれ、羅針盤さえ失った。航行不可能となった「ドジョウの会」はまさに荒海に漂う木の葉のごとく運命であった。いつ藻くずとなって消え去ろうとも不思議はなかった。だがしかし、事態は難破沈没も許さぬ過酷な状況にあったのである。
「ですが、事務局長。そうは問屋がおろしちゃくれませんよ。そう簡単に投げ出すことできませんよ。玉と散れません」会計を預かるだけに浜島は渋り顔で仰々しく「会計報告書」と、題された印刷物をひろげて言った。
「予算は完全に赤字状態ですからね。もう何年も。累積赤字は百万を越しているんです。百万も!これをどうにかしなければいけないんです」

「それって、こんどの印刷代金も入ってですか?」と石部が聞く。
「石部さんのとこは別なんですよ」丸山は申し訳なさそうに言った。
「べ、別って!そりゃあひどい話じゃないですか。聞いてませんよ。わたしは」
「えっ、ご存知ない。それは意外ですねえ。鑑査役でしょ。だからわたしはこの前、説明したとき、そこんところはてっきり融通きかせてくれると思いましたよ」
「そりゃ、きかせんわけはないでしょう。十万、二十万だったら。しかし、百万近くも返済枠からはずれているとなると黙っておれませんよ。従業員の家族の心配をしなきゃあならんのですからね。いくら会のためといったって、こちらは趣味。公私混同はできませんよ」石部はぐいとビールを飲み干すと口から泡を飛ばさんばかりに言った。
「会社の方も尻に火がついているんです。だから早いとこ、なんとかしてもらわなければ困るんだよ。これまでの会報だって打算なしで引き受けていたんだし。こんどの創刊号だって儲けなしの赤字覚悟で引き受けたんです。白状すれば、会社の経理には、まあ家内ですが、ぼくのポケットマネーを利益だといってわたしてるんです。これでも会のためには、結構尽くしているつもりなんです。今日だって、同業者の集りがあったが、そっちはおっぽってきたんだ。そこんとこを考えてもらわないと。そうそう犠牲を強いられても。なんせ、のんびり会計だけやってればすむご身分とは違うんです」
「な、何言うんです。失礼じゃないですか」浜島は憤慨した。ビールで勢いのついた大声で言った。
「のんびり会計だけ、とは何です。たしかにぼくは石部さんのような経営者じゃない。いっかいのしがないサラリーマンです。しかし、ぼくだって忙しい中、暇をさいてきてるんじゃないか。会社のつきあいだって断ってるし、家族サービスだって犠牲にしているんだ。おまけに会では報酬もないのに、会計係なんていう七面倒くさい役目を引きうけているんです。鑑査みたいにただ見てりゃあいいっていう役目じゃないんです」

「見てるよりほかにないでしょ。なにもないんだから。第一、収入のないのはあなたの責任ですよ。会費さえ、ちゃんと集めておれば焦げつくことなんかなかったんだ」
「な、なんだって!」浜島は卒倒しそうな勢いで石部を指差して怒鳴った。
「会費が集らなかつたのはぼくの責任だというんですか。取り消しなさいよ。暴論じゃないですか!」

 毎度のこととはいえ、熱くなった二人のやりとりに小堀はたまらず立ちあがって叫んだ。
「や、やめてください、二人とも!情けなさ過ぎます。そんな個人的なことで互いの悪口を言い合うなんて。石部さんも浜島さんも、本当に会のことを思うんなら前向きに考えてくださいよ。言い争うんじゃなくて。もともとドストエフスキイの愛読者が徒党を組むなんてことは無理だったんです。ですが、その無理を承知で会を発足させ、自発的に振りこまれた会費だけで二十五年もつづいてきた会じゃないですか。こんな会、日本中どこを探してもありません。それを二十五周年記念を目前に解散させてしまうなんてできません。途中で入ったぼくが偉そうなことを言ってすみませんが、せっかくここまでつづけてきたんです。それに少なくてもここにいるぼくはなんとかつづけたいと思ってるんです。解散した方がいいとは思っていないと思います。だったらなんかいい解決策を考えましょう。いがみあうんじやあなくて」
 突然、丸山はパチパチと手を叩く。石部も浜島もつられてたたいた。
「みんな同じ気持ちです。それは」言って丸山は小さく頷いた。
「それに、ぼくには会を解散させたくない理由が他にもあるんです」
 皆が訝しがる中、小堀は鞄のなかから何枚かのハガキをとりだした。
「これです」と言って皆にみせる。

「なんです、それ・・・」
「数は少ないんですけど、『ドジョウ時代』を読んだ読者からのお便りです。今日の総会で紹介しようと思っていたんですが。こんな有り様なんで、こんどまた何かの機会にと思っていたんですが、ちょっと読んでみます」と、言って小堀は読みはじめた。
「前略、先日、偶然に『ドジョウ時代』創刊号を読み、会の存在を知りました。唐突ですが、貴会への入会は可能でしょうか。何か制約があるのでしょうか。実を言いますと小生は前科のある身であります。昨年まで服役しておりましたが、所内ではずっとドストエフスキイを読んでおりました。いまドストエフスキイは小生の生きがいです。もし入会可能なら、是非とも入会したくお願い申し上げます。早々」
 小堀は言葉を切ってちらっと皆をみてから、もう一人と、言って読み始めた。
「拝啓、私はもう五年間、母以外の誰とも会っていません。高校を中退してからずっと閉じこもっています。この五年間一人で闇の中にいて何とかしなければともがいてきました。死ぬことも生きることもできない毎日でした。こんな私に一条の光をくださったのがドストエフスキイ様です。ぜひとも入会したいのですが、どうすれば会員になれるでしょうか」

 小堀は一同を見まわす。「などなど、他にも何通かあります。どうです。これでも解散することができますか。売れた売れないで言い争いをしていて恥ずかしくないですか。ぼくはこの人たちになんて返事をだせばいいんです」
 小堀の真摯な訴えに、一同沈思。少し間をおいて丸山は頭を下げた。
「まことにその通りです。運営と会とをごっちゃにしてました。もうしわけない」
「我々も大人げなかった・・・」石部と浜島も神妙に詫びを入れた。
「今現在もそうした人たちがいるということはうれしいことです。ドストエフスキイを必要とする人たちはまだまだいるんです。と、いうことは、この日本でもっとドストエフスキイを読むことを宣伝しょうという我々としては責任重大です。安易に安直に結論を出すのではなく、もっと慎重に熱く話し合い検討すべきです」事務局長の丸山はおもおもしく言った。
 浜島がつづけた。さすがに会計係だけあって、現実を直視している。
「しかし、現実はごらんの通りですからねえ。大野さんが全員に知らせてくれたにも関わらずこれなんです。せめて十人でも集ってくれたらと期待してたんですが、それも楽観的過ぎました。まあ、今回に限ったことじゃあありませんが、ここんところ例会もずっと役員だけでしたでしよ。話し合いはいいが、このままいくと負債ばかりがどんどん溜まって、そのうち、我々役員の個人負担だけでは手に負えなくなってしまう。ドストエフスキイどころではなくなってしまいます。まさにあぶハチ捕らずです。だから、会運営に関しては早急に結論を出さなくては」
「いったい、会員の連中は何を考えているんですかねえ。本当にドストエフスキイの愛読者か、疑うね」石部は忌々しそうに鼻を鳴らした。今度は会員に矛先を向けたようだ。
「所詮、ドストエフスキイの読者で会を運営していくということは無理、不可能なことだったんですかねえ」事務局長はそう言って首を傾げた。
「ふうむ、組織や団体、それに権力者にとってはドストエフスキイはいわゆる害虫のような存在ですからねえ」渋川教授は目をつむったまま他人事のようにつぶやく。
「組織をスプロール化する存在の会。まさにドストエフスキイが掲げた矛盾がこんなところにあるとはねえ・・・」丸山事務局長はふっとため息ついて腕組する。
 ああじれったい。何も考えることないんじやない。さっきから聞いてれば、ああでもないこうでもないの議論。おまけにウソかホントか知れないようなハガキまで読み上げたりして、この人たちっておバカさんじゃない。会員は誰も来ないんだし、雑誌発行もうまくいってないみたい。借金がかさむ、借金がかさむなんて大騒ぎしてる。だったらさっさと解散すればいいのよ。キン子はうんざりしていた。わけのわからない文学論や会の赤字話、それに内輪のごたごた話を聞かされて、もういい加減、嫌になってきていた。よくこのカビのはえそうな変わりばえしない会を手伝う気になったものだと我ながら感心する。大学生活も後一年しかないというのにこんなネクラなオジサンたちと一緒にいていいのかしら、そんな疑問もわいてくる。思えば、半年前、たまたま行った渋川教授の研究室で気軽に創刊号『ドジョウ時代』の校正の手伝いを申し出てしまったのが失敗のはじまりだった。最初のころは物珍しかったが、近ごろではうんざりしてきている。キン子は退け時を考えながら思った。まったく変な話だわ、だってわたしドストエフスキイを一度も読んだことがなんです。これまでに何度か読もうと挑戦してみたけれど、最初の一頁目で、もう降参。あんなもののどこが面白いのかしら。人生の生きがいだの、一条の光だなんていう人の気が知れない。だいたいロシアの作家で知っているのはトルストイぐらい。だってわたし、ゴーゴリとゴーリキーが違う作家だなんてこの会にきてはじめてわかったんです。こんなわたしが手伝う理由はただ一つゼミの渋川教授から単位をもらうこと。それももう大丈夫というの見通しがついた。早いとこ縁をきりたいのが本音。ドストエフスキイなんか絶対に面白くないと思う。このオジさんたちを見れば一目瞭然。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。なんだか眠くなってきた。
「やはりドストエフスキイの読者で一つの会をつくるということは無理なことだったんですかねえ」丸山は指を組んで天井を仰ぐ。
 ああ、この人たち何をいつまでもくどくど話し合っているのかしら、じれったくていらいらするわ。キン子は思った。もう何も考えることなんかないんじゃない。会員は誰も来なかったし、雑誌発行もうまくゆかなかったようだし、これ以上、話し合ったって無駄というもの。さっさと解散すればいいのに。借金があるみたいだけど、聞いてれば二百万ぽっちみたいだし。それを何千万もあるように大袈裟な言い方しちゃって。キン子はうんざりした。さっきからわけのわからない文学論や役員同士のごたごた、それに大袈裟な赤字話を聞かされて我慢も限界。このあと、居酒屋かどっかで飲みなおすようだけど、わたしは渋川先生への義理も果たしたしこれで帰ろっと。もうごめんだわ。彼女は退け時を考えながら思った。こんな会に入りたいなんて人の気が知れないわ。それにドストエフスキイだって、まだ一冊も読んだことはないけど、絶対に面白くないと思う。だって、この人たちみてればわかるわ。こんな会に関わって、ああ損した。キン子はあくびをかみ殺した。

七、遅れてきた青年

 階段の上がり口に黒の外套を着た青年が一人、戸惑い顔でボーと立っていた。年の頃、三十前後か、中肉中背で色白な丸顔、髪は天然パーマのかかったモシャモシャ頭である。退屈しきっていたキン子は目ざとく見つけると皆の会話を遮って言った。
「あれ、誰かしら」一同の視線が、青年に集った。
「あのう、すみませんが」話に水を差されて丸山は迷惑そうに言った。
「三階はいま貸し切りになっているんです。一般席は一、二階までなんですが」
「いえ、違うんです。そうじゃあないです」青年はおどおどした態度で言った。
「もしかして、会員の方?!」小堀が聞いた。
「は、はい。ぼくはドジョウの会の会員です」言って青年は外套のポケットからハガキをだした。
「会について何か緊急なお話があるというので」
「ああ、そうですか」丸山はじめ一同、浮かぬ顔だ。そろそろお開きにしょうと思っていたので今更といった感なのだろう。
「さあ、どうぞ」キン子は立ちあがって招き入れた。あきあきしていたので新しい人は誰だろうが大歓迎だ。青年はほっとしたように頷いて、外套を脱ぎながら歩いてきた。下は紺のブレザーにチェックのワイシャツといった、どこかちぐはぐな服装。手にボストンバックを持っている。
「どうぞ、どこでもいいんですよ」
「はい」青年は頷いてはみたものの、空いた椅子の多さに戸惑っている。
「まだ、誰も来ていないんですよ。会員の方は」丸山がそう言って席をすすめた。
 青年は一同の好奇な視線のなかで恐る恐る腰をおろすと、訝しげに見まわしてたずねた。
「だれも、ですか・・・?」
「ここにいるのは役員の人だけなんです」
「はあ・・・」
「まえに会に出席されたことは?」
「今日がはじめてです」
 一同、ため息。よりによってこんな状況のときに出席するなんて、という思いである。
「地方にいるんでなかなか出席できません」
「地方?!」
「どちらからです」
「甲府です」
「こうふ・・・?」
「山梨県でしょ」キン子が言った。青年は頷く。
「ああ、甲府ね。ブドウ狩りの」丸山も頷く。
「ウチは社員旅行で行ったことがあるよ。石和の温泉に泊まって信玄神社と昇仙狭を見てきたよ」石部はそう言って自慢そうに膝を打つ。
「いや、甲府ならやっぱり太宰でしょう」と浜島。
「ぼくなんかブドウより、月見草が咲く頃に行ってみたいですな。どうです、本当に似合うんですか」
 皆からあれこれ質問されて、青年はすっかり面食らっている様子。ただ困り顔で頷いているばかりだ。キン子は助け舟のつもりで聞いた。
「それで、お名前は」
「夢井信吉といいます」
「夢の、ゆめいさん?えーと、忘れちゃったわ。宛名いっぱい書いたから」
「すみません、地方の方は少ないからわりと覚えているのですが・・・」小堀も首を傾げる。
「えーと、ゆめいさん、ゆめいさんと」キン子は声にだして住所録を眺めていたが、急に叫んだ。
「あった、あったわ。ありました。最近、入会した方ですね」
「はい、『ドジョウ時代』を読んで」
「そうですか。結構、読まれていたんですねえ」浜島はうれしそうに言ってから、急に思い出したように聞いた。
「と、いうことはまだ入会金をいただいてませんよ、ね」
「さすが会計さんだね、すぐそこにいく」と石部。
「はい、会が開かれたとき、出席して直接お支払いしょうかと思っていましたから、それで」
「それはご丁寧に。でも地方の会員の方は委任状を送ってくれればいいんですよ。関東周辺の人ならともかく、地方から出てくるのは大変でしよう。こちらの彼も、以前新幹線で名古屋から出席してましたが、とうとう東京に職換えして引っ越してきたんです」丸山は小堀を指差してから申し訳なさそうに言った。
「それに、せっかくはるばる来ていただいても、それに報いるだけの活動が、できてないんですよ。なにせ欠席者が多くて」
「いえ、いいんです。ぼくは一度、出席してみたかったし、甲府はそう遠くありませんし・・・」
「そうですか、こちらとしては一人でも多い会員の方に出席していただければ助かるんです」
「会員の全員参加、それがこの会の望むところです」浜島は言って大きく頷く。
「まあ、それはそうですが、さあ、お気楽に」石部はにこやかに頷く。
「あのう、そのまえに」夢井信吉と名のった青年はためらいがちに言って、姿勢を正すといきなり大声で自己紹介した。
「ぼくはドストエフスキイ先生を誰よりも愛しています。ドストエフスキイ先生はぼくのすべてです。ぼくはドストエフスキイ先生の宇宙と人間愛を誰よりも信じています。先生の教えを伝導するのがぼくの使命だと思って今後いっそう努力するつもりです。どうかよろしくお願いします!」
 突然の突飛な挨拶にビールを運んできたボーイ君は驚いて危なくお盆をひっくり返そうになった。一同はもあっけにとられて口をあんぐりあけたままだった。忽然と現れたイノセントのごときこの青年、いったいいかなる人物か。いまや風前の灯火となって消えようとしている「ドジョウの会」復活の一滴になり得るでしょうか。はたまた夢も期待も無残に消えて今宵限りの出会いとなるのか。われらが役員諸氏、暫しの間、ただ呆然と漫然と遅れてきた新入会員をながめるのみであった。
「いやはや、頼りになります」丸山は苦笑して言った。
「心強いですな、こんなときに」渋川教授は眼鏡をとって眠そうに目頭をこすりながら、本音とも冗談ともつかぬ口ぶりで言った。しかし、丸山と浜島は今更新人の、それも地方の会員に登場されても仕方ないといった困惑顔は隠しきれないでいる。それでも、夢井青年のまだ相当にドストエーフスキイ熱に浮かされた様子は役員諸氏の胸中に、かって若かりし時分はじめてドストエフスキイを読んだ頃の自分の姿を思い起こさせた。ドストエフスキイに対する率直な想い。皆はなつかしさくも気恥ずかしくもあったが彼の純真な心は理解できた。それだけに、できれば会の現状を知ることなくこのままお引取り願いたかった。
 だかしかし、夢井青年は憧れた「ドジョウの会」への初めての出席に、青白い頬を上気させ、いまだ興奮覚めやらぬ様子で無邪気な笑顔をみせて座っていた。丸山はなんとなく話ずらそうにそわそわしていたが間をおいて言った。
「夢井さん、でしたよね。ハガキでは重要な議題としかお知らせしていませんが、実はですねえ、今日、臨時の会合を開いて、全会員を召集しようとしたのは、要するに会の今後の運営というか存続をどうするかってことなんです。会にとってこんな重要な案件をここにいる我々だけで勝手にどうこう決めるのは許されることじゃあないんですがね。しかしお恥ずかしいが、全員に呼びかけたにもかかわらず集ったのは役員の我々四名と、出欠ハガキの発送をお手伝いしていただいた大野さん、それに会の顧問やってくださっている渋川先生だけなんです。つまり、一般からの出席者はあなただけなんです。まあ今回に限ったことじゃありませんがね。正直いいますと、ここんところ会合をもってもずっとこんな状態なんです。会員の出席がないんです。まことに面目ない実態で――目下の「ドジョウの会」は」丸山はそれ以上ことばが見つからず話を切った。
「はあ――」信吉は戸惑って頷くばかりだ。初めて知る会の実態にどう返事してよいのか。
 もしかして、すごく張り切ってきたんじゃあないかしら、この人。キン子は信吉の挨拶にそんなことを思って少しばかりか気の毒に思った。わたしだって、張り切って行ったコンパ会場が、こんなだったらショックだもん。おまけに借金のもめごと。とっとと退散するわ。
 だが、夢井青年は相変わらずハトが豆鉄砲食らったようにつっ立っていた。丸山はふたたびぼそぼそ言いわけじみた説明をはじめた。
「せっかく出席していただいたのに、こんな状態でまったくもって申し訳ないんですが、とにかく、今はドストエフスキイの話どころではないのです。会の存在自体をどうするか決めなくちゃあいけないんです」
「はあ、・・・」夢井信吉はため息ついて頷く。
「まあ、そんなわけですから。なにかご意見ありましたら」
「地方から来た人に聞いてみたってしょうがないよ。まして、はじめてきた人に」石部は投げやりに言った。
「いや、この人だって意見は述べる権利はありますよ。入会金と会費を払ってもらうんだから」浜島はこの期に及んでもちゃっかりそろばんならぬ電卓を打っている。
 まあ、あきれた、解散するかどうかっていうのに、お金とるなんて。キン子はあきれた。信吉が可哀そうになった。が、浜島はさすが会計係、揉み手しながら言った。
「若くて、新しい会員の方がいい考えが浮かぶかも。会再生の妙案がだせるかも。どんどん意見だしちゃってくださいよ」
「つまり、早い話が、ですね。この『ドジョウの会』は解散するかどうかの瀬戸際にあるんです」丸山は汗をにじませながらまだ説明している。
「はあ」信吉は依然として要領を得ぬ顔で座っていたが、そのうちようやく事態がのみこめたのか何度か小さく頷いてから訝し気に聞いた。
「どうして解散しなくちゃあいけないんですか」
「どうして、ですか」石部はあきれたように超えを張り上げた。
「赤字なんですよ。消火不能の大火災」
「赤字、どうしてですか・・・?」信吉は不可解そうにたずねた。
「ごらんの通り、だれも出席しなくなっちゃったんですよ。当然、会費も集りませんよね。ま、何でもぽしゃるときはそうですが。会費未納者続出なんです」
「ぼ、ぼく払います」信吉は慌てて言って、ブレザーの内ポケットから財布を取り出した。
「そうですか、じゃあ、とあえず入会金と今年度分の年会費をいただきましょうか。本当は新年度からでもいいのですが、会計は例外があってはいけないですからねえ」
「あら、ひどいんじゃない」
「一応、決まりですから」浜島はわざと事務的な口調で言って素早く受け取ると、ニヤリとしながらこぼした。
「いやあ、君みたいにちゃんと払ってくれる会員ばかりならいいんだけどね。みんな年数がたつと払いが鈍くなってね。ふつうは金を出して口出さず、口出して金出さず、のどっちかだが、この会に限って口も金も出さなくなっちまうんだ。請求してもなしのつぶて。一時は四百人いた会員だが、現在はその半分以下ときている。おまけに、その半分は『死せる魂』じゃあないが大半が幽霊会員なんですから」
「なぜなんです!」突然、信吉は抗議するように叫んだ。
「どうしてなんです。ぼくにはわかりません。ドストエフスキイの読者なら、ドストエフスキイ先生を尊敬している人なら、その会の存続を危うくするようなことをするはずがありません!」
「そうです。“初心忘れべからず” 皆さんが常にその気持ちを維持していてくれたら、こんな状態にはならなかったんですがね」丸山は苦々しそうに言った。
「しかし、残念ながら、現実はこのドジョウの会も例外じゃあないんです。人は昔の人ならずでしてね。なにしろ、三十年近くもつづく会ですからこのまま消滅させたくはないんです。が・・・しかし、どうしたって協力を得られないことには」
「協力しないなんて、ぼくには信じられません」信吉はドスンと両拳でテーブルをたたいて立ち上がった。

八、ドジョウの会再建案

「どうしてですか。どうして皆さんは協力しないのですか!」
「なにせ誠意ある会員のカンパで成り立っている会ですからね。みなさんが協力してくれないことにはどうにもならないのです」と浜島がボヤく。
 キン子はわが意を得たりといったしたり顔で言った。
「わたし、今日、おはなし聞いて、よかったわ。渋川先生に頼まれて、あて名書きのお手伝いしたでしょ。そのときは会員になってもいいかなと思ったの。卒論のこともあるし。でも、今日、来て見てびっくり」キン子はわざとらしく肩をすくめる。
「あれ、大野さん、そんなことなら、ぜひ会員になってくださいよ。お手伝いも縁ですから。卒論にも役立ちますよ。きっと」小堀は真剣にすすめた。
「あら、そんなこと言ったってだめです。第一、ドストエフスキイの小説一冊も読んでない会員なんてへんだわ」
「変じゃあありませんよ。誰だってはじめはそうなんです。それにこれからは初心者向けの読書会を定期的に開いたらどうか、そんなことも考えてるんですから」
「えっ!?また読書会を?!無理、無理」キン子はあきれ顔で首を振った。
「いまあるこの会だって会費を払わない人が多いんでしよ。そういう人たちは結局のところ会をやめたいからじゃないんですか。これ以上、読書会なんて、絶対むり、むり」
「そんな結論は早急過ぎます。皆さんうっかり忘れているということだってありますし・・・」小堀はムッとした顔で反論した。
「少なくとも新しい住所録を作成したときに、現住所を知らせてきた会員にはその意思、つまり脱会の意思はないということです。それに現に現在だってさっきの手紙の人やこの夢井さんのように、遠くからでてきて、話を聞いて会費払う人だっているんですから」
「でも、どうするんです。出席しなければ催促できないでしょ。直接、顔合わせて説明しなければ会費払ってくれないんでしょ」キン子は勝ち誇ったように笑う。
 小堀は反論に窮してか、口をもぐもぐするだけで言葉にならない。間があいた。そのとき信吉が、いきなり立ち上がって進言した。
「あのう・・・それなら督促状をだしたらどうなんですか」
「あ、それ、だめ。切手代のぶん赤字が増えることになるだけです」浜島はあっさり斬り捨てた。
「それもありますが、基本的には、この会はそうした強制的方法ではなく、あくまでも自主的にというのをモットーにしていますから」と丸山は言って、分厚い明太子唇をなめた。
「いまどき、一日でも振り込みが遅れたらうるさいのに。この会は棚ボタでやってきたんですからね。オメデタイというかドン・キホーテですな」石部は自虐気味にケタケタと空笑いした。
 しかし、遅れてきた青年、夢井信吉はぐっとくちびるを引き締め、遠くを見つめていた。わざわざ遠方からでてきただけに会の実情を知って落胆も大きいのだろう。一同、苦虫を潰しながらも言葉がでない。結局のところ、いくら話し合っても行きつく先は愚痴と後悔ばかりのボヤキ節。「ドジョウの会」再建の見通しなど到底つくとは思われなかった。ところが、この重苦しい空気を、またしても夢井青年が破った。
「あ、ありますよ!いま思いついたんですが、名案がありますよ。会を救う名案が」
 皆はうんざり顔で彼を見た。
「また、名案か。いい加減にしてくれたまえ」石部は冷笑して釘を刺す。が、夢井青年、意に介さず進言した。
「集めればいいんですよ。集めれば」
「集める?!」
「そうです、集めるんです。待っていなくてこちらから直接に行くんです」
「それって、集金のこと」
「ええ、そうです。集金です。集金に回って集めればいいんですよ」
「はーん、NHKの受信料徴収みたいにかい」
「ハハハ、そりゃだめだ」石部は一笑に伏す。
「だいたい、この会の会員はシケた人間ばっかしだ。行ったって、払うもんか」
「あら、失礼ね。わたしだったら、集金に来れば払うわ」キン子が横から口を出した。
「そうです、一人一人に会って会の窮状を説明すれば、きっとわかってくれます。滞納している会費、払ってくれますよ。ぼくだって今日、お話きかなければ、会がこんなにピンチになっているなんて知らなかった分けですから」と信吉は大きく頷いて応えた。
「けっ!わかってもらえる。払ってくれる!これだから困るんだ、素人は」石部はあきれたように舌打ちする。
「いまどき、会の危機を訴えても、誰が、ハイそうですかと払ってくれるもんですか。門前払いがオチだ。集金はそんな甘いもんじゃない」
「そうでしょうか・・・」信吉は悲しげに小首をかしげた。
「それに、一度も会に顔をだしたことのない会員だっているんだ。本人だって会員ということを忘れているかもしれん。そんな連中のところに、突然、あらわれて滞納の会費を請求したら、怒鳴り帰されるか、悪くすりゃあ訴えらる」
「ほんとうに、そんなことになるでしょうか」
「そりゃあ、わからんが、歓待されないことだけはたしかだろう」
「しかし、いえ、ぼくは信じます。ドストエフスキイの読者なら必ずわかってくれると。決して知らんぷりなんかしないと」
「わかります。よくわかります!」突然、小堀が、身を乗り出して言った。
「ぼくも同感です。夢井君の考えに。本当にドストエフスキイの読者なら話せばきっとわかってくれるはずです。みなさんはルージンが好きですか」
「かっ!コボちゃんまでが。人間、金のこととなるとロマンチックにはいかないものですよ」石部は鼻毛を引きぬいてせせら笑う。
 会場はふたたび重苦しい沈黙。間を置いて、丸山がぽっりと言った。
「なるほど集金ですか。確かに、それも一つの案でしょう」
「そうですね。現実的な案ですな。しかし、ネコの鈴ですよ。それは」と浜島。
「そういうこと。集金、コボちゃんがやってみるっていうなら別に反対はしないよ」石部は笑って抜いた鼻毛を肩越しに後ろに投げ捨てた。
「それは・・・」小堀は悄然となる。小さな出版社に勤める身、とても集金に使う時間はない。他の役員諸氏とて同じこと。それぞれに家庭あり、仕事ありで、会に出席するのが精一杯。いくら熱く語っても、ドストエフスキイでご飯はたべられない。所詮はボランティア。皆はため息ついて沈黙した。
「ぼく、やってみます。やらせてください」突然、信吉が叫んだ。
 またしても突飛な発言に、皆はギョっとしたが、こんどは驚くだけでなく戸惑い気味に互いに顔を見合わせた。新入りにかき回されていることを快く思わない雰囲気だ。
「ぼくのような新参者が出すぎたことを言って失礼かもしれませんが、今みなさんからお聞きしたお話では、会を救うにはそうするより他ないとおもいます」
「うん、確かにあなたの言う通り、会を立てなおすにはその方法しかないかもしれません。が、しかし一口に集金すると言っても・・・」丸山は額の汗をハンカチで拭いながらうめくようにつぶやいた。いくらなんでも初顔の彼に・・・そんな顔色だ。
「アラ!いい考えかも」突如、キン子が声を張り上げた。
「ハガキの宛名を書いてわかったんだけど会員の人って都内の人が多いのよね。都内だけでも相当な額になるんじゃないですか」
「そうですか。それなら集金やりやすいじゃないですか」信吉も、勇んで言った。
「まあ、強いて反対はしませんが・・・」丸山は口ごもった。
「やらせてください、集金」
「きみに、か」
「そうです。ぼくも会のためになにかお手伝いしたいんです」
「いいんじゃあないんですか、やっていただけるんなら、ほかによい案もなさそうだし」浜島は皮肉っぽい口調で言った。
「しかし実際、集金するとなったら、大変ですよ。一日、二日じゃ回りきれませんよ。東京近辺の会員は結構いますから」
「それでしたら、ぼくは大丈夫です、四、五日は休めます」
「ほう、それは寛大な会社ですな」
「いえ、そのう・・・会社じゃないんです」信吉はなぜか狼狽した。
「いいよ、いいよ、プライベートなことは」浜島はニヤリとする。
「もし都合がつくんでしたら、この際、やってもらいましょうか」丸山は真剣な顔で渋川教授に相談する。
「どうします、先生」
「そうですねえ、他に策がありますかねえ。この窮地をしのげる・・・」渋川教授は寝ぼけ声ながらも賛成のようだ。
「どうです。皆さん」丸山は妙に張り切った声で皆を見まわして言った。
「まあ、古典的ですが、集金という手段に彼が協力を申し出てくれました。助け舟です。会としてはいくらかでもお金が集れば、それを機に再スタートできると思います。彼に委ねてみていいと思います」
「集金ねえ、この振り込みの時代に、と思うが、やってもらえるんならお願いしますよ」石部は自嘲気味に何度も頷いてつぶやく。
「小田原評議じゃ埒があきませんからなあ」
 石部の当てつけを待って、丸山はごそごそ立ちあがった。太ったからだを支えるように両手をテーブルにつけると、落ち着いた声でお役人らしいまとめの言葉を述べる。
「今日の議題ですが、皆さん賛成のようですから、会費滞納者について彼・・・えーと」
「夢井です。夢井信吉です」
「ああ、そうでした。夢井さんに集金してもらうことにします。いいですね」
 間髪をいれず皆は一斉に拍手。渋川教授まで起きあがって手をたたいている。キン子もあわてて手をたたく。何か妙な思いは否めないが、出口なしの問題は一件落の感あり。なんとなく和んだ雰囲気になった。つぎに丸山は姿勢を正して胸を張ると、咳払いしたあと、信吉の方を向いて、もったいぶった口ぶりで宣言した。

九、難問解決

 ドジョウの会事務局長の丸山は慣れた辞令口調で宣言した。
「それでは、本日づけで夢井信吉さんをドジョウの会、会計係補佐に任命します」
「辞令書はないのかね」石部は浜島に言った。
「口頭でいいでしょう。いまは」
「はい」信吉は神妙に頭を下げた。
「集金方法としては、会計係の浜島さん、彼ですが」と浜島を指差して丸山は言った。
「彼から滞納者のリストを受けとって、その中から距離的に廻れる会員をピックアップして当たってください。交通費代は会の方で持ちますが、目下のところ予算ゼロの状態なので、かかった経費は集金したなかから差っ引いてもらいます。ほかに食事などは自分もちでお願いします。なんせ金がないんで。それでよろしいでしょうか」
「はい。承知しました」夢井青年は一段と大きな声で答えた。
 一同再び拍手。現金なもので、役員たち、解決つけばさっきまでの重く沈んだ暗さはどこへやら、ぽしゃりかけた宴を復活させようとばかり、ボーイ君を呼んで、なんとボトル一本注文したのである。
「我々に欠けていたものは強引さですよ。ぜがひでも運営していこうという貪欲さ。それがなかったんです」と石部が言った。
「やはり自主的にというのはだめなんですなあ。組織は多少なりと、強制的、管理的でなくちゃあ」と浜島。
「ドストエフスキイだからここまで来れたんですよ。そんじょそこらの文学の会じやあもうとっくの昔に潰れてますよ。なにしろ会費を請求なしで、続いて来れたというのはたいしたもんですよ」丸山はその功績は自分の技量といわんばかりに胸を張る。
 一同、思わぬ解決でご機嫌の体となった。水割りをちびちびやりながら、てんでに勝手なことを言い合っていた。が、ほどなくして、会の再建というこんな重大なことを、はじめて出席した、しかも地方の新米会員に任せてよいものかどうか心配になってきた。考えてみたらもっともなことではあるが。
「せっかく、話がまとまったところ、水差すようで申し訳ないが、ほんとうに夢井君一人に頼んじゃっていいのかなあ」浜島が会計らしく切り出した。
「それって・・・」と小堀が聞いた。
「なに、まあ、どう考えても、一人では大変だろう・・・」
「と、いうことは、われわれも少しは手伝うわなくては、ということですか」と小堀が小声で聞いた。
「おいおい、妙なこと言い出さないでくれ。そんな暇はないよ」と石部。
「大丈夫です。ぼく一人で平気です」夢井青年は。青白い頬を紅潮させてきっぱり言った。
「そうですか、しかし・・・」浜島は奥歯にもののはさまったような顔で丸山を見た。
 キン子は黙って聞いていたが不意に体がむずむずしてきた。自分たちは何もしないくせに、そんな心配をするなんて、と腹の立つ一方で、一人で集金して歩くのも大変と思うのだった。『ドジョウ時代』の校正を手伝ったときもそうだったが、こんなときに放っておけない性格なのだ。
「わたしお手伝いしてもいいわよ、ちょうど学校もお休みだし」キン子は思わず言った。
「えっ!大野さんが?!」
「話をきいてたらなんとなく、いいかなって思ったの」
「それはまた、心強いね」石部は笑う。
「しかし、集金まで手伝ってもらっては」そう言いつつも、丸山は揉み手をしながら聞き返す。
「ほんとうにいいんですか」
「ええ。なんだか面白そうだから、わたしご一緒しちゃう」
 キン子には実際そう思えた。役員でない、一般の会員って、どんな人たちだろう。前々から興味あった。ここにいる役員の人たち、丸山や石部、浜島、小堀みたいの人たちばかりなのだろうか。会員名簿には女性の名前も多数あった。一体ドストエフスキイを読む女性ってどんな女性なんだろう。彼女たちにも会ってみたかった。
「そうですか。会員でもないあなたに、まことに厚かましいですが、そうしていただくとほんとうにたすかります」と丸山が丁寧な口調で言った。
「大野さん、どうせなら会員になったらどうですか」石部がからかい気味にすすめた。
「大いに歓迎しますよ」
「ありがとうございます。考えときます」キン子は愛想笑いを返してから、渋川教授に向って言った。
「センセ、わたし、お手伝いするから提出することになっているレポートを免除してくださいね」
「ちょつと、そりゃあまずいよ。先生に公私混同させては。会としてもそんなことで利用されては困ります」丸山はさすが法務省のお役人らしく渋り顔だ。
「アラ!先生はいつも生きた学問が大切だって講義されてるわよ。皆さんがおっしゃるようにドストエフスキイがそんなにすばらしいんなら、その作家を信じている会員の人たちはどんな人か知ることだって立派な勉強だと思うわ。そうじゃありません?」キン子は平然と言ってのけた。
「そう言われれば、そうですが・・・」丸山は煮え切らない顔で渋川教授を見る。
「いいでしょう。いいでしょう。大野さんはゼミ以上のことをやってますよ」意外にも渋川教授はあっさり承知した。
「さすが、渋川先生。人間至るところ青山あり、じゃあない。人間至るところ勉学の地あり、だ」石部は揶揄する口調で一席ぶつ。
「さあ、お墨付をもらったんだ。ついでに卒論も免除してもらうつもりで、しっかり集金してくださいよ」浜島は冷やかし口調で言ったあと、真顔になって聞いた。
「経験あるのですか、集金」
「いえ、ありません」夢井青年は元気よく答えた。
「えっ!それでよく」浜島はびっくりしながらも、さっそく説明をはじめた。
「いいって、いいって、だれだってはじめは経験なんてないんだから。それじゃあ、集金の方法を伝授するよ。いいかい。絶対に電話をかけて、“これから集金に行きます” なんて予告してはだめだよ。忙しいとか出かけるとか、断られるのが関の山だから。こういう集金にはいきなり行くのがいいね。どうせ一万円前後なんだから、そのくらいの手持ちはあるよ。奇襲作戦に限る。効率がいい。家にいなければ会社に押しかけて行けばいい。会費を払ってないなんて知られたら恰好わるいからね。借りてでも払ってくれるよ」
「いいね、いいねえ。君らの働きによって、会が救われるのだ」石部はすっかりご機嫌の様子だった。貸した金が戻ってくるような気になっていた。グラスをかかげて、乾杯の音頭をとる。
「さあ、わが会のジャンヌ・ダルクに乾杯!同じく、同じく、ええい、サンチョでいいや。サンチョに乾杯!」
「どうしてぼくがサンチョなんですか」夢井青年は抗議しながらも、満足そうだ。
「サンチョって、だれそれ」とキン子。
「おともですよ。おとも」丸山は冗談とも真面目ともつかぬ顔で言った。それから、若いふたりに丁寧に頭を下げ、お願いしますと言った。
「ドジョウの会の運命はいまや若い君たちの働きにかかっている。頑張ってくれたまえ」浜島は芝居かかったセリフでふたりに握手を求める。
「なあに、イヤダ!そんなに真剣に頼まれると、私、ホント軽い気持ちよ。なんかイヤダァ!」
 キン子は大袈裟に悲鳴をあげた。こんなに皆がマジになるとは思ってもみなかった。それだけに戸惑いはあるが悪い気はしない。当てにされるって気持ちいいものだ。レポートの提出もなくなったし、一石二鳥とはこのことだわ。もしかして、卒論だって、キン子は心の中でペロっと舌をだした。

十、宿なし、金なしの集金人

 ともかく見通しがついて一同、大いに安堵する。さっそくボトルの封を切り、氷を鳴らしながら、なんと次号の刊行をどうするか議論し始めたのである。一般会員は誰一人出席しない、会費も滞納者だらけ。会立て直しの集金をたった今、新入りの若者ふたりに任せたばかり有り様なのに、まったくもって懲りない面々。さすがのキン子もあきれるばかりだ。
 当然のことだが、どんなに話し合っても無駄なこと。次号は集金結果をみてということになった。そうと決まれば、この店にいても無用、腹も空いたというわけで、つづきはいつもの居酒屋でということになった。ところが、である。一難去って、また一難。一同、ホロ酔い機嫌で席を立ったのに、なぜかわれらが新入会員、夢井信吉青年だけが、気乗りせぬ顔で座っているのだ。
「あれ、どうしたんですか」小堀が怪訝そうに声をかけた。
「酔ったんですか」
「いえ、違います。ぼく飲めませんから。すみません、注いでもらっておいて」
「なんだ、それだったら、ウーロン茶でも頼めばいいんですよ。さ、行きましょう」
「ええ、でもどうしようかと・・・」夢井青年は歯切れ悪い。のろのろ立ちあがる。
「疲れたでしょう。はじめてのことばかりで」丸山は言ってから、ふと思いついて聞いた。
「そうだ、ところで、あなた、今晩どちらに」
「ええ、それで、どうしようかと・・・」夢井はふっとため息をつくとまたしても腰をおろした。
「どうしょうかと?こちらにお知り合いでも」
「いえ、いません」
「いません!?」石部は眉をひそめて振りかえる。間をおいて一同ギョッとした表情。
「ない、泊まるところがないって、それじゃあ君!集金は無理じゃあないのか」浜島は目を丸くして駆け戻ると、怒鳴るように言った。
「そういうことは最初に言ってくださいよ」
「すみません、ぼくもたったいま、そのことに気がついたんです。そうだ、集金するなら寝ぐらが必要だって」信吉青年は悪戯っ子のように笑ってモシャモシャ頭をかいた。
「じ、冗談じゃないですよ」丸山はあわてふためいて叫んだ。
「これじゃあ、元の木阿弥だ」浜島はガックリ肩を落とす。
「いいかげにしてくれよ。話がどうもうますぎると思ったら、案の定だ」石部は物凄い剣幕で言って、乱暴に椅子を引いてどっかと腰を据える。
「捕らぬ狸の皮算用とはこのことだ。いったい全体、今夜の会議はなんだったんだ」
 夢井青年は青白い顔を真っ赤にして立ちあがった。そうして、直立不動な姿勢をとると強い口調で言った。
「いえ、ぼくはやります。やらせてください!」
「いや、やっていただくことはありがたいんですがね」丸山は腹立ちを押さえ、押し殺した声で言った。
「しかし、泊まるところがなくてはどうしょうもないでしょう。まさかホテル代はだせませんからね」
「ホテル代をださせようなんて、はじめっから、そんな虫のよいことを考えていたんじゃあないでしょうね」浜島は尋問口調で聞いた。
「とんでもありません。誓って、そんなことありません」
「だいたい、今晩はどこに泊まるつもりで出てきたんですか。たしか甲府からでしたよね。会が終ってから帰るなんてできないでしょう」
「すみません、そこまでは考えてませんでした」夢井青年は悪びれる様子もなくペコリと頭をさげる。
「考えてない!?」丸山は細い目を丸くして愚痴る。
「いやはや、なんとも迷惑な話ですよ。あなたのおかげで今晩の会議はまったくの無駄になってしまったじゃないですか」
 もっとも彼が来なくても、無駄な会議に終ったことは明白だが、そこは期待した分だけ腹が立ったようだ。
「と、いうことは、また改めて開かなきゃあならんでしような」渋川教授も、さすがに渋い顔だ。
「まったく、この会に地方会員をお泊めする議員宿舎のようなものがあると思ってるんですかねえ」ストレートを三杯もあおって少々酩酊気味の石部が、皮肉たっぷりにつぶやく。
「これからでも帰れるでしょう。中央本線は夜行列車あるんじゃないですか」ちらと腕時計を見ながら言う、小堀の態度もどこか他人行儀だ。
 夢井青年に対する皆の態度は一変、よそよそしいものになった。集金の話など、もう完全に吹き飛んでいた。会場に漂うのはとんだ話に乗って重大な会議を無駄にしてしまったという後悔と腹立たしさ。張りつめてはいるが白けきった雰囲気。救世主転じて、ホラ男となりさがった夢井青年は、皆の剣幕にようやく事態を認識したのか、言葉もなくただうなだれるばかり。
「何よ!」それまで黙って聞いていたキン子がいきなり憤然と叫んだ。
「誰か泊めてあげればいいじゃないんですか。何も集金を断ってるわけじゃないでしょ。それよりなにより、会のために活動してくれるって言ってるんじゃない。だったら泊まるところだって考えてあげたっていいんじゃないですか。会員が協力的でないって言ってますけど、皆さんだって協力的じゃあないじゃないですか」
 まさに急所を突く一語。一同、返す言葉もなく狼狽の表情。
「それもそうですねえ・・・キン子さんに一本とられました」浜島はトーンを落とした声で頷きながらも、ちゃっかり先手を打つ。
「当然ですよ。せっかく遠くから来ていただいたうえに、会再生のために協力してくれるというのだから、ぼくらがそれに協力するのは。しかし、ぼくのところは団地の3DKに親子五人にバアさんまでのすし詰め状態ですからねえ」
「私んところは一戸建てだが、二人も受験生がいるんです。それも娘なんです」負けじと丸山が言う。
「僕んところも、赤ん坊が生まれたばかりで・・・」と小堀も小声で言う。
「うちはひい婆さんまでいるんだ。従業員も泊めてるしなあ」は石部の弁。
 なんともだらしのない有様である。キン子は両手を上下に振り下ろし地団駄踏む。
「何よ、何よ。勝手ねえ!」と叫んで非難する。が、なぜか余裕の笑顔。彼女はすっかり悄然としている一同を見回して、勝ち誇ったようにほほ笑んで言った。
「ま、いいわ。皆さん、それぞれご事情があるでしょうから。じゃ仕方ないわ。わたし協力ついでに、もう一つ協力しちゃう」
「もう一つ、協力ですか・・・」と丸山。
「わたしんとこのマンションに泊めてあげる」
「えっ!大野さんの部屋にですか!」と浜島がびっくりする。
「違います。空き部屋があるの。そこ、管理人さんに頼んで貸してもらうわ」
「え、そんなことできるんですか!?」
「できるわ。だってマンション、わたしの名義なんだもん」
「ああ、そういうこと・・・」
 一同、納得。大野建設はテレビのコマーシャルでもおなじみだ。キン子は社長令嬢というわけ。なんとなく知ってはいたが、これで判明。
「そうですか、そうしてもらえると、会としてもありがたいんですが」一転、丸山は頭を下げる。
「この会の人たち、ここにいる役員の方しか知らないけど、信用はしてますから」言ってキン子は意味深にケラケラ笑う。
「なにかあったんですか」と興味津々の浜島が聞く。
「この前、他の大学の子だけど、コンパのあと泊まるところないっていうから泊めてあげたの、そしたら夜中にわたしの部屋に押しかけてきたの」
「ぼ、ぼくはぜったいそんなことありませんから」と信吉。
 さすがに一同、確信をもっては頷きかねた。なにしろ、まだ会って二時間とたっていない。ドストエフスキイの熱烈な愛読者というだけで、後はどこの馬の骨ともわからない人物なのである。
「男はわかりませんからねえ」浜島は本気とも冗談ともとれぬ口調でつぶやいてヒヒヒと気味悪く笑う。
「ハマさん。やめなさいよ。その笑い」さすがに丸山は注意する。
「いいわよ。来てもドア開けないから。しつこかったら、防犯ベル鳴らしちゃうわ」
 キン子はアッケラカンと笑う。なんだか愉快で楽しい気分だった。ドジョウの会、つまらない会だけど、自分の働きでなんとかなるかも知れない。そう思うと、よくわからない青年を泊めることなど、いささかも不安ではなかった。
 平成三年春弥生、珍しくなまあたたかい夜風の中、新入会員と臨時会員、いささか心もとないこのふたりに一縷の望みが託された。

第二部に続く