下原敏彦の著作
『○型ロボット漫画』 清水正 監修 日本大学芸術学部図書館 2014



ドラえもんとSF作品 ―未来からの救済―

1.マンガの領域を超えたマンガの謎

『ドラえもん』は、息子や娘が小学生の頃よく目にした。もう四半世紀も前になる。マンガ本を買ったり、夏休み、春休みにはドラえもん祭のアニメ映画を家族で見に行った。が、子供の成長とともに疎遠になった。そして、いまはただ懐かしいだけのものになってしまった。それ故、私のなかで『ドラえもん』は、完全に昔のマンガとなっていた。ところが、まったく違っていた。「ドラえもん」人気は、いまだ健在で、ますます活発化している。本論を書くため再び目を向けてみると、その人気の高さに驚くばかりだ。テレビアニメもつづいているし、映画も上映されている。マンガ本も何カ国語にも訳され全世界の子どもたちに愛読されているという。研究書・解説本(※)も多数ある。その出版はいまもつづいている。こうした普遍現象に、『ドラえもん』は単なるマンガではない。ちょうどドストエフスキー文学が文学の域を超越した作品だったように、『ドラえもん』もマンガの領域をはるかに超えたマンガである。そのように認識を新たにしたのである。現にドストエフスキー研究者の清水正教授は、想像・創造批評を駆使してのび太やドラえもんの深層心理に迫っている。ドストエフスキー、宮沢賢治、『オイディプス王』などを土台にした著書『世界文学の中のドラえもん』(D文学研究会2012)もある。なぜ「ドラえもん」は、いつまでも人気があるのか。ドストエフスキー論のように、その評論が尽きないのか。マンガの領域を超えたマンガとは何か。筆者の好きなSF作品と比較検証することで、この謎に挑戦してみた。
※心理学者南博著『ドラえもん研究』(プレーン出版1981)以来、『野比家の真実』(ワニブックス1993)、『ドラえもんの秘密』(データハウス1993)、『ドラえもん研究完全辞典』(世田谷ドラえもん研究会1994)、『ドラえもん完全大百科』(小学館1996)等など。

2.「ドラえもん」と古典SF作品

なぜ、「ドラえもん」は、いつまでも大人気なのか。どこがマンガの領域を超えたマンガなのか。内容は、現代の子どもの日常生活を描いたマンガだが、ときに時間や次元を超えた物語になる。つまりSF作品でもあるわけだ。HPの紹介にもSFギャグマンガとある。そこで、探究の手はじめに『ドラえもん』とSFの関連性を探ることにした。SFといえば、「未来」が思い浮かぶ。どんな未来か。楽しく明るい未来。暗く恐ろしい未来。未来は、現在の状況によって変わる。現在からみる日本の未来は、どんなだろう。おそらく2011年3・11以前だったら、科学文明が進んだすばらしい世界。たとえば、手塚治虫の『鉄腕アトム』が活躍する原子力エネルギー万能の世界だ。だが、福島原発事故以後は、まるで違ったものになる。放射能汚染、二酸化炭素(CO2)の地球温暖化、有害物質による大気汚染、異常気象、民族・宗教対立、格差社会などなど、悲惨な光景ばかり思い浮かぶ。残念ながら、いま現在思う日本の未来は、夢あふれる世界ではなさそうだ。

『ドラえもん』の主人公野比のび太の未来は、どうだろうか。子孫たちは、どんな生活をしているだろうか。ぜひ知りたいものである。その前にSFといえば、ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)である。小学生の頃、夢中で読んだ。『気球に乗って五週間』『地底探検』『月世界旅行』『十五少年漂流記』『海底二万里』などどれも懐かしい。これらの作品は、もしかして『ドラえもん』大長編のヒントになっているのでは、そう思うところだ。『のび太の恐竜』、『のび太の宇宙開拓史』、『のび太の創世日記』『のび太の小宇宙戦争』などの題名をみていると、もしかして作者藤子不二雄は、ヴェルヌ作品の愛読者だったのではないか。そんな気がする。ヴェルヌの他に、『タイム・マシン』、『塀についた扉』などの作者H・G・ウェルズ(1866-1946)も愛読していたかも。他にエドモンド・ハミルト(1904-1977)も読んでいたに違いない。SFのエッセンスを凝縮したといわれる作品『フェッセンデンの宇宙』(河出書房新社)はじめ『時果てつるところ』『眠れる人の島』など奇想天外の作品からも『ドラえもん』を感じる。こうしてSF古典をあげてみると、『ドラえもん』マンガの源泉は、これら古典SFの作品群にある。そのように想像できるところだ。

3.「ドラえもん」と『2001年宇宙の旅』

『ドラえもん』の源泉は、SF古典かも知れない。そのように想像すると、『ドラえもん』が世界文学線上にもあるのも納得できる。『ドラえもん』は、ヴェルヌの『タイム・マシン』のように時間旅行家が描いた未来が詰まったマンガ世界なのだ。それ故に人気がある。未来は、誰もが知りたい、気になる世界である。野比のび太の子孫は、未来でどんな暮らしをしているのか。興味あるところだ。ところで、のび太といえば、清水教授の『世界文学の中のドラえもん』論のなかに、こんな考察がある。ここから、『ドラえもん』に潜むSF古典をあぶりだせそうな気がする。その考察は、こんな一文である。
「のび太は死んでいる、そしてすぐに復活している ドラえもんは神をも超えた神的存在である」
のび太の再生と、神を超えた存在になった猫型ロボット「ドラえもん」。この考察から脳裏によみがえるのは、いまや古典となったSF名画『2001年宇宙の旅』(アーサー・クラーク『前哨』原作、スタンリー・キューブリック監督)である。この映画は、年配者ならファンも多いと思うが、若い人はどうだろうか。おそらく観きれない人続出かと思う。なにしろ2時間19分の上映時間のあいだに会話は、僅か40分足らずしかない。孤独に耐えぬくことが宇宙飛行士になれる必修条件といわれるが、まさにこの映画はそれだ。リヒャルト・シュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」の音楽とまるで宇宙旅行を体験するような単調な時間の流れ。睡魔と想像力との闘い。最近は再上映もなく、記憶も薄れたがまったく知らない人もいるかと思うので、あらすじを少しばかり紹介したい。

物語は、百万年前のヒトが類人猿だった時代からはじまる。群れになって暮らす類人猿は、まだ獣だ。イノシシを狩って食べている。が、(異星人、或いは神のような存在からの贈り物)モノリスに触れたことで、知を得て火を使い道具を使いはじめるようになる。類人猿はヒトとなった。進化の過程を一瞬の映像にしてみせたキューブリック監督の手腕は見事だ――空中に投げあげた骨は宇宙船に。ヒトは、月に人間を乗せたロケットを飛ばすことができるようになっていた。月面に降り立った人類。そこで発見したものは、類人猿をヒトに導いたモノリスだった。(遠い昔、地球を訪れた異星人が建設していったものとの設定…)何故に、モノリスは科学文明を発達させた人類の前に再び現れたのか。人類は、更なる(軍事)戦略欲から土星に宇宙船ディスカバリー号を飛ばす。秘密裏に巨大なモノリスが存在する情報を得ての極秘任務だった。しかし乗組員には、真の目的を明かしていなかった。知っているのはコンビュターのハルのみ。真実の隠蔽と歪曲にハルは狂いはじめる。が、それもまた、モノリスを送った主、神のような存在が計算したことだったのか…。モノリスとは、何か。勝手に解釈すれば核開発競争する人類に警鐘を鳴らすため神のような存在が、人類救済のために過去、もしくは未来、または外宇宙から送ったものだった。そのように想像すると、この映画は、その目的においてどこか「ドラえもん」マンガと重なってくる。では「ドラえもん」という猫型ロボットは、どんな理由で、どんな目的をもって20世紀後半の世界に送られてきたのか。

4.「ドラえもん」の任務と目的

「ドラえもん」は、何故、現れたのか。この猫型ロボットは、のび太の玄孫(やしゃご)の時代からきたことになっている。いったいどんな目的で、どんな理由からそんな遠い未来から送られてきたのか。「ドラえもん」HPに、こんな説明があった。
何をやらせてもまるで冴えない小学生「野比のび太」。お正月をのんびりと過ごしていると、机の引出しが開いて中からネコ型ロボット「ドラえもん」と、のび太の孫の孫であるセワシが現れた。セワシの話によると、のび太は成人後も数々の不運に見舞われ、起こした事業の倒産により莫大な借金を残し、子孫達を困らせているという。玄孫はそんな悲惨な未来を変えるために、ドラえもんをのび太の世話役として連れてきたのだった。この説明からわかることは、のび太のDNAはずっとダメ人間でありつづけ、未来では親戚の人たちに迷惑をかけ「子孫たちを困らせて」いるという。のび太の玄孫セワシは、そんな子孫たちの悲惨な状況を変えるためにタイムマシンで「ドラえもん」を送り込んできたのだ。
野比のび太を、真っ当な人間に育てるために…。つまり、のび太の子孫救済のためにである。のび太子孫一族と人類全体では、規模も比重も違うが、救済という点では同じである。それに大局的に考えれば、のび太一族を日本人、ひいては世界人類全体とみてとることもできる。つまり「ドラえもん」は、未来の全人類を救うために未来から送られてきたとも仮定できる。そう考えると「ドラえもん」の使命は、極めて重要といえる。
「悲惨な未来を変えるために」「ドラえもん」の目的―どこかハリウッド映画の「ターミネーター」を思いだす。

映画のストーリーはこうだ。未来では、人類は生き残りを賭けてロボット軍と戦っていた。ロボット軍は、人間のゲリラに手を焼き、戦士のリーダーの祖先を暗殺するため殺人ロボットを現代に送った。人類は、それを阻止するために、リーダーを生む女性を守るためにボデイガードロボットを送り込む。ストーリーは両ロボットの戦い。銀幕はアクションの連続だが、この映画も人類救済のテーマにおいて「ドラえもん」や『2001年宇宙の旅』同じといえる。ドラえもんは、のび太の子孫を救うために送られてきた。過去を変えようとするくらいだから、よほどひどい生活状態といえる。社会も芳しいものではなさそうだ。「2001年宇宙の旅」のモノリスは、核汚染で滅びる人類を救うために現れた。ドラえもん、モノリスとも過去と未来を繋ぐ救済のための創造物とみることができる。『ドラえもん』に希望を感じるのは、まさにそこのところかも。では、マンガの主人公野比のび太と宇宙船のボーマン船長の役割は何か。

5.「ボーマン船長」と「ハル」

何をやらせてもまるで冴えない小学生「野比のび太」と、厳しい訓練を耐え抜いてきた優秀な宇宙飛行士ボーマン。月とスッポンほどの違いはあるが、二人の役割は、まったく同じといえる。前述したが、のび太は、典型的な日本人、ボーマン船長は、人類の代表者。そのように例えることができる。つまり人間ということで同一人とみることもできる。たとえば二人は、清水教授著『ドラえもん』論の、この考察と符合する。
「のび太は死んでいる。そしてすぐに復活している」(『世界の中のドラえもん』)暗殺コンピューター・ハルによって船内に一人となったボーマン船長は、存在宇宙から姿を消す。が、すぐに復活する。人類を救うために宇宙創造主のしもべという存在になって帰ってくるのだ。(『2010年宇宙の旅』で)のび太は、どうなったのか。清水教授の考察によれば、こうである。

のび太は現実の世界ではのびてしまったが、あの世に逝ってしまったのではない。まさに〈ゴト ガタ ゴト〉で、… のび太は復活したのである。(『世界の中のドラえもん』)「ゴト ガタ ゴト」は、意訳すると「神がやってくるよ 神が」ということになる。(『世界の中のドラえもん』)一方、「なんでもポケット」から何でも出すドラえもんは、文字通り神をも超えたロボットである。なにしろポケットから天国でも地獄でも、神様だって取りだすことができるし、宇宙の果てにだって、ビッグバン以前にだって行くことができるのだ。まさに神をも超えた存在なのだ。宇宙船ディスカバリー号のコンピューター「ハル」も、船内では、人間をも超え、神に近い存在である。物語では、その機能をこのように紹介している。
ハルは、第三次コンピューター革命の生みだした傑作といえた。仕組みがどうあろうと、最終的な産物は、人脳の活動の大部分を、人脳よりはるかに優れた速度と確実さで再生する。ハルが船の支配権を握るかも知れない。(キューブリック『2001年宇宙の旅』)のび太と猫型ロボットの師従関係は、何事が起きても変わることがない。ボーマン船長とハルの関係も、その使命から互いの命を奪い合う結果とはなるが、彼が存在のない存在となって現れる『2010年宇宙の旅』では、再会の懐かしさが伝わってくる。野比のび太とドラえもん、ボーマン船長とハル。どちらも人間と機械だが、両者には、ある種の友情が流れている。それが、未来に希望をもたせている。

6.猫型ロボット「ドラえもん」と「ハル」の違い

『ドラえもん』の猫ロボットと『2001年宇宙の旅』のハルは、その使命においてほぼ同じといってもいい。が、ただ一つだけ決定的に違うところがある。ハルにインプットされたミッションである。猫型ロボットにインプットされた使命は、あくまでも野比のび太の再教育である。もし、ドラえもんの努力にもかかわらずのび太がダメ子どものままだったら。もし、未来の子孫一族の生活が、少しも良くならなかったら…失敗に終わったときの使命はインプットされていないようだ。「ドラえもん」の使命は、ただひたすら尽くすだけ、そのように感じる。ハルは、どうだろうか。命令が歪んだときコンピューターは狂いはじめる。軍事目的という秘密の使命にハルの回路は、人間と対峙し、コンピューター保守のために人類抹殺を開始する。まず一人を宇宙の木屑とし、次に冬眠中の隊員の生命維持装置を切っていく。そうして船内すべての隊員の命を奪う。まるで存在宇宙の外にいる神のような存在が人類に見切りをつけたように。ここでわかるように、ドラえもんとハルの違いは、状況によってハルは暗殺者にもなり得るということだ。それが全人類を救うことになる。反対に、なにがあってものび太に服従するドラえもんの行動は、子孫一族を、ひいては人類全体をますます窮地に陥れる。そんな気がする。ハルとドラえもん―両者は、状況判断での究極選択に大きな違いがある。ともあれ、両者はすぐれたコンピューターで、人類救済が目的という点は同じである。未来を悲観し、現在に警鐘を鳴らす。このテーマから思いだすのは、ドストエフスキーである。ドストエフスキー作品は、世界文学線上に燦然と輝く古典だが、SF作品としてもみることができる。清水正著『ドストエフスキーの暗号』(日本文芸社1994)のなかでも
ドストエフスキーはノストラダムスと並ぶ、それ以上の大予言者である。とSF性との関連を印象づけている。ドストエフスキーが読みつづけられるのは、作品に予言性、つまりSF性があるからともいえる。

7.ドストエフスキーとSF作品

なぜドストエフスキー論は、つづくのか。作品は、読み継がれるのか。本稿の冒頭にあげた疑問だが、ここまでの検証では、作品にSF的なものを感じるから―それを、一つの立証としたい。ではドストエフスキーにおけるSF性とは何か。この場合、人類救済のテーマである。その作品群は、人間の本質を曝すことで、人間の謎を探究することで、人類救済を訴えている。それ故、ドストエフスキーは、ニーチェ、トーマス・マン、フォークナーはじめ多くの文学者、科学者、哲学者、宗教家など世界の賢者から愛読される。たとえば相対性理論でタイム・マシンを理論上可能にしたアインシュタイン博士(1879-1955)は、こんな言葉を残している。
「彼(ドストエフスキー)は、どんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」(B・クズネツォフ著 小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社 1985)ガウス(ドイツの天才的数学者・物理学者1777-1855)よりも多くのものを得た。自分の師とも言うべきガウスより門外漢のドストエフスキーからの方が自分にとっては、得たものが多かったというのだ。博士のこの言葉をどう理解したらよいのか。科学者といえばあの湯川英樹博士も、自伝においてこのようなことを書いている。「結局、私の本棚に最後に残ったのはドストエフスキーだった」アインシュタインといい、湯川英樹(1907-1981)といい科学文明の旗手たる彼らは、いったい何をドストエフスキーから学んだというのか。

1862年ロンドンでドストエフスキーは、産業革命を目の当たりにした。人類の発展にとっては喜ぶべき光景。だが、作家は、未来に希望ではなく不安を抱いた。その延長にある大気汚染と格差社会の世界を感じとった。もしかして、核戦争さえも…。未来は、ドストエフスキーが予見するより、もっと絶望的なものになってしまったのだ。原子爆弾という途方もない悪魔を生みだしてしまった科学者たちは、計算された未来にドストエフスキーの警鐘を見たのかも。宇宙の森羅万象は、寿命によって調和的に終わるのではなく、悪魔によって滅ぼされる。宇宙の法則を、すべて無視して。もし、それが2×2の4という現実としたら、この世界を救済する道はあるのか。宇宙の謎を解くことは即ち、人間の謎を解くこと――そこに道標があるとすれば、古今東西の賢者がドストエフスキーに注目するのも不思議はない。17歳のドストエフスキーは、人生の旅立ちに、こう誓ったのだ。
「人間は神秘です。その謎は、解き明かさなければなりません、それを解き明かすのに生涯かかったとしても、時間を空費したとは思いません。」(1839年8月16日 ドストエフスキーの手紙)ドストエフスキーは、未来について語るとき2×2が4にこだわった。それがまた科学者たちを悩ました。野比のび太の再教育は、はたして未来を変えられるのか。それについてSF作品にこんな話があると紹介していたので、少し長いが引用した。

レイ・ブラッドベリ(1898-1964)は、彼のSF小説の一つにおいて、過去への旅行者たちが第三紀怪獣をハントする有様を描いている。彼らの一人が、いくつかの小有機体の運命を偶然のことから変えてしまい、その結果、地球はちがった進展のしかたをするようになる。旅行者たちが(タイム・マシンで)現在に戻ってきてみると、世界は変わった姿になっていた。別の大統領候補が予想を裏切って選挙に勝ち、国はファシズムの脅威を受けている。実在の統計的概念にとってはとるにもたりない、巨視的には探知しえない、それゆえに物理的実在には明らかに欠けるたった一個の小さな事実が、全体の世界線を変えてしまうのである。それは修正によって限定可能となり、それゆえ、全体にとって現実的で本質的なものに見えるのである。(B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』)
「たった一個の小さな事実が、全体の世界線を変えてしまう」とすれば、のび太の再教育は、危険なものがある。たった一人の、ダメ少年を賢い子どもにする。その結果、未来はどうなるのか。すばらしい世界になるのか、それとも荒んだ世界になるのか。たぶん現代の人類がどんなに利口になっても、未来は神がふられたサイコロの目でしかありえない。アインシュタイン博士を悩ましたのは、常にそのドストエフスキーの理論だった。「
たった一個の生物学的ないし機械的な出来事が人類の運命を変えるということはありえないが、しかし、人類の運命は、たった一人の男の野望がもし巨視的「世界線」に従うことにでもなれば、それによって変えられることは、大なり小なり、あるかもしれないのである。」(B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』)

B・クズネツォフの予感は、2014年、不吉にも現実になろうとしている。23年前崩壊した理想社会ソ連邦の焦土に現れた一人の若者。彼は、スパイの実績から困迷のロシアを生き抜き政治家になった。そして、21世紀初頭のいま、世界の運命をにぎった。まるでラスコーリニコフの空想を実現させたような軌跡。彼は、かって権力を手中にした当初このようなようなことを口にしていた。「これからのロシア文化はドストエフスキーを支柱にしたい…」なぜ、彼はこんなことを思ったのか。革命社会の実現と崩壊を予見し、人間救済の道筋を示したドストエフスキー。少年時代、野比のび太とは違ったダメ子ども(不良少年)だったという彼は、『2001年宇宙の旅』で類人猿がモノリスに触れ知を得たように、突如変身した。(ほんとうにモノリスに触れて目覚めたのか)。筆者の想像だが、もしかして、それはドストエフスキー体験であったかも。彼は、自分のなかにラスコーリニコフ的英雄伝をみつけた。(犯罪者がよく、自分の罪を正当化するために『罪と罰』をバイブルとするように…)そうして、ロシア救済の新皇帝として現れた。いまクリミアのロシア編入を強引にすすめる彼に、(似て非なるものだが)ドストエフスキー的なものを感じるのは、そのせいか。アメリカ国務省も勘違いして、こんなコメントを発表した。
「ドストエフスキー以来と米国務長官。プーチン氏ついに文豪になる。クリミアを舞台に「10のつくり話」を創作。(2014・3・7朝日「素粒子」)

しかし、どう誤解されようが彼は、突き進むようだ。師と仰ぐ嘉納治五郎の「自他共栄」も「精力善用」精神もドストエフスキーの土壌主義理念も棚上げして、ひたすらナポレオンを夢みたラスコーリニコフの英雄主義でばく進するようだ。いま世界の近い未来は、新たな冷戦と戦争に至る不安だ。この未来を救う救済はあるのか。ドストエフスキーの予見は、二十世紀に終わらない。ドストエフスキーが残していった作品は普遍の救済書でもある。そこには常に新しい人類救済の使命がある。ちなみにドストエフスキーが二十世紀に送った救済の一つは、これである。1862年ドストエフスキーは、はじめての外国旅行でロンドンに行った。産業革命さなかの大都会。ドストエフスキーの目に映った街は、こんなだった。
昼も夜も忙しそうに働きつづけている、海のように果てもない街、機械の歯がみと咆哮、家々の上を走る鉄道(まもなく、街の下を走るだろう)あの大胆な企業心、実はブルジョア的に最高の秩序であるあの外見上の無秩序、あの毒にみちたテムース河、あの石炭の油煙のしみとおった空気、あの素晴らしいスクェアーや公園、半裸体の野蛮な飢えた住民の集まるホワイトチャペルのような、恐ろしい都会の片隅、数百万の富を有し、全世界の商業を支配するシテイ・・・・ (ドストエフスキー『夏象冬記』)

ロンドンの活気にあふれた街。だが、ドストエフスキーが、感じた西欧の未来は、
いまやヨーロッパ全体、西欧全体が進歩の果てに滅亡に瀕しているようにみえる。(アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー』村上香佳子訳 中公文庫1988)これを救済するのはロシア(自分=ドストエフスキー)だと思った。1860年代初頭。この時代、世界は科学文明を華々しくひらかせようとしていた。だが、ドストエフスキーは、暗く汚れた未来を予測し作品に黙示録的文面を織り込んで警鐘とした。その一つに『白痴』にでてくる「茵?星(いんちんせい)」がある。
この道化とも哲学者ともつかない中年男が人を煙に巻くのが「茵陳星(いんちんせい)」というものである。(森和朗『ドストエフスキー闇からの啓示』)
登場人物レーベジェフの台詞だ。
「松明のように真っ赤に燃えた星が地球におちてくる」(ヨハネ黙示録)「苦よもぎ」の毒で川と水源の三分の一を汚染した。この「茵?」つまり「苦よもぎ」のロシア語が「チェルノブイリ」だという。意識的か無意識か、それとも偶然か、ドストエフスキーは、核汚染をすでに作品のなかで予見していたのだ。だからこそ、19世紀という時代のなかで21世紀の救済を訴えることができた。その意味で救済は、いつのときもSFと連動しているといえる。

8.時代と救済

例えば、偶然の必然という言葉がある。『ドラえもん』や『2001年宇宙の旅』、それにドストエフスキー読書会。これらは、同時代に発表された。マンガ、映画、読書会と三者三様であるが、三者は、まるで必然のように、同時代に生まれたのである。「ドラえもん」がはじめて登場したのは1969年である。小学館の学年誌(『よいこ』『小学一、二、三年生』)1970年に1月号として店頭に並ぶとある。スタンリー・キューブリック監督とアーサー・C・クラークが協力して作った『2001年宇宙の旅』は、1968年2月に完成した。そして、その年の春に公開された。
1969年、ドストエフスキーブームにより、ドストエーフスキイの会が創設、併せて全作品を読む会・読書会が発足した。このドストエーフスキイ全作品を読む会は、2014年の今日まで44年間、読みつづけられている。なぜ三者は、同時期に、発売されたり、上映されたり、発足したりしたのか。偶然か必然か、宇宙に摂理があるように、無意識のなかに人類救済の使命が潜まれていた。そのように解釈するほかない。この時代、世界は混沌としていた。1965年にはじまったベトナム戦争は泥沼のなかで激戦つづきで、中東ではイスラエルとアラブの戦争。世界は過激派によるハイジャック。そして日本では昭和元禄のなかに高まる学生運動。あの時代を、歴史のターニングポイントとみるマーク・カーランスキー(1948-)は著書『1968』でこう表現している。
「1968年――世界中の普通の人々が、時を同じくして体制に反対する行動を起こした年だった。ベトナム反戦運動、公民権運動の高まりとキング牧師の暗殺、パリの五月革命、プラハの春…などなど、世界は揺れ動いていた。」
こうした世界状況から、未来は、不確実だった。高度成長という時代にあって希望はあったにせよ、未来は、決して完全なパラダイスではなかった。それ故に、独善的だが明るい未来のために『ドラえもん』は描かれ、『2001年宇宙の旅』は上映された。そしてドストエフスキーの全作品が読まれはじめた。時代と救済は、常に連動する。偶然ではなく必然的に―。

9.『ドラえもん』と日本国憲法

時代と救済は無縁ではない。「ドラえもん」は、野比のび太の子孫救済のために未来からやってきた。未来を救うには、現代の、のび太をしっかり教育しなければならない。大袈裟にいえば、現代の時代を救済しなければならない。現代の時代を救済するとは、どんなことか。それは日本国憲法、第9条を守るということだと思う。9条は、日本国の憲法だが、その重要性においては、世界人類の憲法ともいえるからだ。マンガの主人公野比のび太は、どこか現代の日本人に似ている。ヤジ馬的で飽きっぽい。経済大国といっても、どこか頼りない。原発汚染、高齢化・少子化問題、領土問題、エネルギー問題。まさに内憂外患の状態にある。だが、その日常は能天気。テレビは、いつもお笑い、食べ物、観光、バラエティ、毎日が盆と正月の遊び三昧、極楽トンボの状態だ。いまのままの日本人で未来を想像してみた。のび太の玄孫たちの生活が、その実態を現している。のび太は成人後も数々の不運に見舞われ、起こした事業の倒産により莫大な借金を残し、子孫達を困らせているという。玄孫はそんな悲惨な未来を変えるために。
未来で困るのはのび太一族だけならいいが、日本全体となると一層深刻だ。未来の日本は、どうなっているか。荒廃した国土と荒んだ社会が予想される。この日本を救うためには、どんな救済措置が必要か。のび太の子孫は「ドラえもん」という究極の、猫型ロボットを過去に送って防ごうとした。では、未来の日本が、その時代の日本を救うためにいまの日本に送り込むものがあるとすれば、それは何か。第9条だと思う。第9条は、世界に燦然と輝く究極の、救済憲法なのだ。未来を救うために是非とも守らなければならないのだ。9条の内容は、このようである。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。― 2 前頂の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(『日本国憲法』施行昭和22年5月3日)
戦争を永久に放棄する。この誓いは、一人日本だけの使命ではない。世界全人類の、否、地球という惑星に棲む生きとし生けるものすべての生命の願いなのである。その意味で第9条こそ、未来の日本救済、地球救済の「ドラえもん」であるのだ。よく改憲論者は、武器をもたない日本が侵略されたらどうなる、と反撃するが、第9条は、国と国とのレベルではない。神と悪魔の戦いを想定したハルマゲドンの線上にある。未来で全面戦争が起こったらどうなるのか。核爆発によって、この惑星が消滅するのだ。文字通り宇宙の木屑となる。それとも一木一草の生命さえ許さぬ月面となる。日本が占領されるどころではない。この星がなくなるのだ。

1933年キュリー夫妻は、人工ラジウムという悪魔の種を作りだすことに成功した。が、SF作家ウェルズは、それより20年前に、悪魔の誕生を予見し、1913年『解放された世界』(岩波文庫 浜野輝訳1997)を書いた。悪魔から解放された世界こそ、人類が希求した真のパラダイス、ユートピアの世界だと。人類救済の願いを込めて・・・。だが、悪魔は成長しつづけた。戦争と希望(無限のエネルギー)という矛盾する栄養によって。そして1939年ついに悪魔は産声をあげた。アインシュタインは、物理学者で原爆の父レオ・シラード(1898-1964)の悪しき囁きに乗って悪魔のへその緒を共に切った。ルーズヴェルト大統領宛ての原子爆弾製造許可の署名である。この決断について『解放された世界』を訳した浜野氏は、解説のなかでこのように悔やんでいる。
シラードあるいはアインシュタインが、ルーズヴェルト大統領宛ての原子爆弾製造に関する手紙のことでウェルズに相談したとしたら、おそらく彼は同意を与えなかったであろう。本書に書かれてある通り、それは「実弾をこめた連発ピストルを箱に詰め込み、それを託児所にプレゼント」する馬鹿者と同じになるからである。だが、戦争前夜の異常なムードの中にあって、ユダヤ系亡命科学者であるシラードとアインシュタインの両人は「託児所」にプレゼントしてしまった。(浜野輝『H.G.ウェルズと日本国憲法』)

1945年8月6日、9日、悪魔は極東アジアの二都市の上で炸裂し多くの市民を一瞬のうちに焼き殺した。長らく苦しめた。残念ながらウェルズが送った救済の書『解放された世界』は、救いにはならなかった。が、本書は、更に未来を見据えて、最後の救済とした。こんど戦争したら世界はないと。その書が、第9条「戦争の放棄」なのだ。しかし、戦後の経済至上主義社会のなかで、日本人は、いつのまにかあの恐怖と惨劇の光景を忘れた。そして、あろうことかあの悪魔を檻に入れ飼いはじめた。人間の未来の生活をよりよくするために。悪魔は、その我欲を、ほくそ笑む。2011・3・11、悪魔は自然の手をかり、オリから脱走した。コントロールは可能という為政者。だが、日本の未来は予測つかない不安の霧のなかにある。悲惨な生活を送ることになるのは、一人「のびたの子孫」だけではない。核戦争・核汚染に怯える人類全体ともいえる。
宇宙における生命についての科学的なヴィジョンが宇宙に関する人間のヴィジョンであらねばならない。それ以外のいかなるものも否である。ほかのいかなるヴィジョン(未来像)も、最後には人間を破局に追いやる。(B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』)
人間だけならまだしも、他の生命もである。この悲劇を止める救済はあるか。SFなら神のようなロボット「ドラえもん」を想像すればよいが、現実世界では、何か。果たせるのは、人間の意志の強さしかない。戦争は、永遠に放棄するのだという強い決心だ。その意味で、第9条は、未来から送られた究極のモノリスであり、「ドラえもん」であるのだ。日本人は、否、人類は、そのことにいつ気がつくだろうか。

10.「ドラえもん」に希望を託して 

2014年、いま世界は危機的状況にある。新たな冷戦の火種クリミアのロシア編入。シリアの内乱、戦火やまぬアフガン、イラク、混沌のアラブ。そしてイスラムと西欧の対立。政治、宗教、民族紛争に加え核汚染、大気汚染。むかし銀幕スターの鶴田浩二がこんな歌をうたっていた。「西をむいても、東をみても どこをむいても真っ暗闇よ」今日の世界は、まさに、この歌詞のようだ。時代は流れても闇は濃さを増しただけ。だが、その闇の向こうから聞こえてくる歌がある。明るく楽しい「ドラえもん」音頭だ。その歌声は大人がだめなら、せめて子どもたちに―そのようにも思える。未来への救済。その目的は、いまやSFマンガを超えて現実世界にひろがっている。そこに衰えぬ『ドラえもん』人気の秘密をみた。そのように解釈して拙論の結びとする。

134年前、「大きな石のそば」に集まった子どもたちがいた。モノリスに触れようとする類人猿のように、ドラえもんに魅せられた子どもたちのように。子どもたちは、亡くなった少年を永久に記憶するために心を一つにして叫んだ。アリョーシャ万歳 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)その声は、永遠に人類の胸の奥に響いていくに違いない。人類救済の石板となって…。 (完)