下原敏彦の著作
収録:下原敏彦・下原康子 ドストエフスキーを読みつづけて D文学研究会 2011
初出:ドストエーフキイ広場 No.16 ドストエーフスキイの会 2007


団塊世代とドストエフスキー なぜ、柳の下にドジョウは何匹もいるのか


21世紀になってもドストエフスキーは読まれている。書籍も、毎年、新刊本が相次いで出版されている。なぜドストエフスキーの読者は後を絶たないのか。トルストイもゲーテも、バルザックも年々、読まれなくなっているという。にもかかわらず一人ドストエフスキーだけは、脈々と読みつづけられているのである。研究においても「柳の下にいつも泥鰌は居らぬ」はずなのに、ドストエフスキーに限って二匹目どころか何匹でも、出てくる。この作家に関する出版物をネットで検索すると、確かにその多さがわかるというもの。2006年だけでも数冊はくだらない。なぜドストエフスキーだけがこのように読まれ研究されるのか。「人間は神秘です。それは解き当てなければならないものです。(米川正夫訳)」と書いたのはこの作家である。さすれば、この現象も神秘といえる。と、いうことで第一七七回例会報告は、この疑問をテーマにして関係出版物の検証と「団塊世代」を考察した。本論は、その報告を再考したものである。謎を少しでも明らかにすることができれば幸いである。なお、2006年に出版された主なものは次の通りである。

加賀乙彦著『小説家が読むドストエフスキー』(集英社 2006・1)
清水正著『ウラ読みドストエフスキー』(清流出版 2006・5)
セルゲイ・フー[k1]デリ著『ドストエフスキイの遺産』(2006・8)
池田和彦訳リチャード・ピース著『「地下室の手記」を読む』(のべる出版 2006・4)
下原敏彦著『ドストエフスキーを読みながら』(鳥影社 2006・3)など

第一部 ドストエフスキーの謎

一 なぜロシア文学か

なぜドストエフスキーは、読み継がれるのか。研究されつづけられるのか。この謎解きの前段階として、まず、なぜロシア文学は日本人に受け容れられたのか、からはじめたい。シア文学が日本にとってきたのは、1868年の明治維新以後である。そのへんの経路は「ドストエーフスキイの会」創設者の一人である故新谷敬三郎先生の著書『ドストエフスキイと日本文学』(海燕書房1976)に詳しく書かれている。抜粋してみた。
日本にロシア文学が継続的、多少とも組織的に入ってきて、何らかの役割を果たすようになるのは明治以後、ほぼ1880年からである。ロシア文学移入の経路は、明治、大正期においては、大別して三つ考えられる。(一)東京外国語学校、(二)ニコライ神学校、(三)丸善、である。(「日本におけるロシア文学」)明治維新後、文明開化した日本に西洋文化が濁流のようにどっと流れ込んできた。文学作品においても例外ではなかった。舶来ものがあふれるなかで、出版物はおよそ右記の三つの経路から入ってきたという。そこにはロシア文学に限らずドイツ文学やフランス文学もあったに違いない。実際、森鴎外はドイツ(1884年)に夏目漱石はイギリス(1900年)に、また大正に入ってから河盛好蔵や芹沢光次良らもフランスに学んでいる。新しい国づくりとして法律も医学も西欧を手本とした。しかし、こと文学に限って日本の読者や文学者が真に興味を示したのはロシア文学だけだった。何故にゾラ、モーパッサン、ゲーテ、ディッケンズといった並み居る文豪たちではなかったのか。本書は、それについて、このように説明している。
日本の文学がロシア文学を知り、それを受け容れ始めたのは、ヨーロッパで近代が終わり現代が始まろうとする変化のときで、そのヨーロッパの諸文学にロシア文学が意味を持ちはじめ、ロシア文学もまた生まれ変わろうとしていたときであった。そのとき、日本では、ロシア文学を受け容れるのに、大別して二つの態度が生まれた。それはひと口でいえば、(一)19世紀的ロシア、とくにナロードニキ的心情を指向する態度、(二)象徴主義の胎から生まれた20世紀的ヨーロッパの知性を指向する態度、である。この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。

ロシア文学は、真綿に浸み込む水のように明治の日本の文学者に浸透した。その要因は、当時のロシアと日本が似通った国情にあったと、著者は指摘する。「ナロードニキ的心情とヨーロッパの知性を指向する態度」である。この二つの要素は、かつてドストエフスキーが『時代』で発表した土壌主義や幕末の儒学者・洋学者の佐久間象山(1811〜1864)が唱えた「東洋の道徳、西洋の芸術」に通じるものがある。また「この二つの指向性は、ほとんど今日に至るまでのロシア文学自体にも見られ、その創作の原動力となっている。」(『ドストエフスキーと日本人』)とする見方は、本論の副テーマ「柳の下になぜ二匹目のドジョウがでるのか」の謎を考える上で興味深いものがある。時代を経ても消えぬ二つの指向性は、一貫して日本文学に影響を与えつづけてきた。そのことが研究者にとっても尽きぬテーマとなっているといえる。こうした事情からロシア文学は、明治の日本に受け容れられた。が、当時のロシアと日本は、決して友好国ではなかった。むしろ樺太や朝鮮半島の領土問題から険悪な関係にあった。対立する両国であったが、西欧への劣等意識と文明への憧憬はともに同じだった。それ故に日本人にとってロシア文学は、よりシンパシィのあるものに感じられたのかも知れない。そして、もう一つ受け容れ易い心情として、反帝政意識というものがあったといわれる。1904年にはじまった日露戦争で日本は樺太の南半分を得た。このときの関係者の喜びを長瀬隆著『日露領土紛争の根源』(草思社)には、こう書かれている。
シーボルトも、チェーホフも、生きていたならば、その地がたとえ南半分にせよ日本に返還されたことを、己の見解と主張が生かされたこととして喜び歓迎したであろう。二葉亭四迷はもちろんまだ存命であったが、若き日の志が実現されたわけであり、微笑んだであろう。彼はロシア文学を愛好したが、そのロシア文学は全体として帝政への反対を特徴としていた。その一人としてチェーホフもまた在ったのである。(ツァーリズムの降伏、革命の序曲)
「ロシア文学は全体として帝政への反対を特徴としていた」を読み解くと当時ロシア文学は、物語だけの読みではなく政治的、思想的読みとしての比重も大きかったようだ。明治維新以後、強引に産業革命をはじめ富国強兵策を推し進める帝国日本への反発。ロシア文学が容易に受け容れられたのは、そうした隠れた深層心理も作用したのかも知れない。

二 なぜドストエフスキーか

次にロシア文学のなかでも、特にドストエフスキーが受け容れられたのはなぜか。小説の面白さからいえば、プーシキンやゴーゴリといった他の大作家たちの方が、一般的には読みやすいし入り易い。にもかかわらず、ドストエフスキーは、より深く読まれた。唐突だが夏目漱石の『三四郎』の中にこんな会話がある。東京に向かう列車で同席した男が、これからの日本は「亡びるね」と言うところだ。当時の日本は西欧化一辺倒だった。が、こうした批判的な目もあったのだ。この頃、横浜で発行されていた英字新聞には、在日の外国人から急激な文明開化を危惧する記事が多数寄せられていたという。明治16年に来日したフランスの風刺画家ビゴー(1860−1904)は西欧まねする奇異な日本人を多く描いた。やみくもな近代化、西欧化への懐疑と警鐘。それは、一貫してドストエフスキー作品のテーマだった。『夏象冬記』や『鰐』などにも直截に描かれている。最近の世界の異常気象の原因の一端は、科学文明にあるかも知れないとする見方がある。明治の読者が、よりドストエフスキーに執心したのは作品に潜む予見と警鐘を読み取ったからと想像する。

それにしても日本人は、なぜ、これほどにドストエフスキーが好きか。研究者にしても、なぜ次々と現れるのか。この現象の謎についてドストエーフスキイの会代表・木下豊房先生は著書『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社1993)のあとがきで、このように検証されている。ロシアの…評論家のカリャーキンを、1985年にモスクワの自宅に訪ねた時には、彼はトルストイの戦争と平和を比較して、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に見られる「突然(ヴドゥルク)」という言葉の頁毎の頻出度を赤の棒グラフで視覚的に示す図表を見せてくれた。そして日本人がドストエフスキーをよく理解する理由として、自分の推定を次のように語った。日本人はドストエフスキーの小説に頻発する「突然(ヴドゥルク)」の危機に、歴史的に絶えず脅かされてきたのではないだろうか。例えば地震、原爆、第二次大戦後の価値転換など。19世紀には、ドストエフスキーが「プーシキン演説」でのべているように、ロシアが全世界的なものを理解する受容能力を持っていたが、現在では日本がそうではないのか、と。…このカリャーキンの推測について著者はこうした説明に私達が納得させられるかどうかはともかくとして…と、断りながらもつづいてこのように解説されている。
日本人とドストエフスキーというテーマは、私達自身の自己認識の切り口として、無視できない価値を持っているように思われる。むろん私達が自分の内部の目で見つめたドストエフスキーとの出会いは、カリャーキンの指摘よりもはるかに複雑で屈折した様相を呈しているにちがいない。なぜ日本人がドストエフスキーを愛読するかという問いに、一義的な解答をあたえることはおそらく困難であろう。しかしドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっていることを指摘することは出来るかもしれない。私のドストエフスキーとの出会いもまた、この世代的な特徴を帯びているように思われる。…として著者自身の、ロシア文学やドストエフスキーへのきっかけをこのように述べられている。私が昭和30年代の大学時代、ドストエフスキーのとりこになったのも、スターリン批判、ハンガリー事件などの後の学生運動の状況と無縁ではなかった。「なぜドストエフスキーか」の要因として、日本人は明治維新以降「歴史的に絶えず脅かされてきた」とする評論家カリャーキンの見方は、大いに頷けるところもある。後で団塊世代の時代的背景をみることで、この推測を照合してみたい。また、ここで注目されるのは「ドストエフスキーの読者には世代間の共有体験があって、それが出発点になっている」という見方である。団塊世代とドストエフスキーの関係を考える上で、重要な見方といえる。著者である木下先生がドスト体験したのは60年安保闘争の時代だという。団塊世代と比較すると、政治的には安保世代は国政問題、団塊世代は学園自治問題ということで似て非なるものがある。しかし、組織や主義が吹き荒れた時代からの出発という点では、共通している。

ここまでの検証で「なぜドストエフスキーか」は、時代背景が大きな要素となっていることがわかった。が、他に精神的なこととして心理作用もあげられる。例えば、かつて「ドストエフスキーを読み進めると、やがては自分に突き当たる」と評した作家がいた。明治の読者は、この「私」を知る深層心理体験があったのではないだろうか。それまでの日本はまず「お上」があった。明治になって、「現人神」に代わったが、私を知る機会も得た。ドストエフスキー文学による「私」の発見、というか認識。これは、それまで階級や連帯社会で生きてきた読者にとって衝撃だったに違いない。

余談だが、この発見は日本人の心に知性の喜びを与えた。(文明に取り残されていたということで)一種トラウマともなった。昨秋観た映画『三丁目の夕陽』のなかで文学青年が自転車修理店の親父と喧嘩する場面がある。文学青年は、汗して働いた「こともないくせに!」と生活態度を罵られ悔し紛れに「ロシア文学も読んでないくせに」と罵り返す場面がある。ロシア文学を読んでいない。いまではどうか知らないが、かつては文学を志す者にとって、この罵声はかなりインパクトを持つものだったかも知れない。1800年代のロシアでは、「フランス文学もしらないくせに」が同義語だった。兄ミハイルへの手紙に、よく「あなたはラシーヌを読みましたか」とか「お読みなさい、哀れな人、読んでコルネーユの足下に跪きなさい」などといった文面を見かける。おそらく日本におけるロシア文学観は、こうした現象と同じだったのではと推測する。文学=ロシア文学の印象である。この「私」の存在は他のロシア文学でも知ることができる。が、深化度においてドストエフスキーと違うものがある。例えば自分の愛読書を紹介するのに「ロシア文学が好きです」「トルストイやチェーホフを読んでいます」とは言えるが、「ドストエフスキーが好きです」とはなかなか言えない。これはドストエフスキーが既に「私」をも突きぬけ「人間」、そして、そのさきにある「生命」に至っているという証拠でもある。今日、ロシア文学を読む人は稀となった。が、ドストエフスキーは時代に関係なく読まれている。「ドストエーフスキイの会」「全作品を読む会」は35年つづいている。これもドストエフスキーと他のロシア文学との違いを証明している。

三 ドストエフスキーの読まれ方

前項では、「私」の発見と反文明開化から「なぜドストエフスキーか」の謎解きを推測した。ここでは、どのように、どんなふうに読まれたかをみてみたい。新谷敬三郎著『ドストエフスキイと日本文学』によると、日本に最初に紹介されたロシア文学は、トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品であった。が、このなかからドストエフスキーは特に読まれたようである。本書のなかで、ロシア文学でいえば、もっぱらドストエフスキイであった。と述べている。ドストエフスキー読者としては歓迎すべきことではあるが、著者は、その受け容れ様には、不満を持っていて、つづけてこのように皮肉っている。しかもそれは現代ヨーロッパの知性に照射されたドストエフスキイであった。この二つの課題は戦後にまで持ちこされたので、というのも、昭和の初年に青春をすごした世代、例えば「近代文学」の人たち、が戦後文学の最初の担い手となったからだが、そこでドストエフスキイの思想と表現は、彼らの激変に耐えて屈折した意識のなかで、さらにそれに感染した次の世代のなかで、もっぱら信念更生(転向)の物語が強調されて、折角昭和10年前後に提出された伝統や文明の問題は後景に押しやられ、むしろタブー視され、民衆文化や国民文化の問題、ロシアでいえばナロードの問題にすりかえられてしまった。実をいうと、ヨーロッパの近代の理念に対して伝統や文明の問題を提起したことこそ19世紀ロシアの思想と文学の独創であったのに。

ドストエフスキーの作品は、全人類一人ひとりの自由と幸せ、世界の調和を目指して書かれたものである。それなのに、日本では後々までも「転向」物語として強調されてきたことに、著者は地団駄する思いをみせている。だが、こうした作品解釈の誤解というか相違はドストエフスキー作品の運命ともいえる。あるときは犯罪を憎む書となり、またあるときは犯罪を正当化する書ともなる。例えば『罪と罰』を犯罪抑止小説として読む人もいれば、作家井上ひさしの『合牢者』の主人公のように犯罪者が経典とすることもある。昔になるが元警官の殺人者の手記に、そんなのがあった。最近では、イラクの独裁者フセィンの隠れ家にもあったという。独裁者にとってもバイブルともなりえか・・・?明治から今日まで、ドストエフスキー読者の目的は雑多だ。例えば読書会の参加者をみても、十人十色それぞれである。単純に小説好きな人もいれば、研究の為の人、進歩主義者、保守主義者、自由主義者、共産主義者、キリスト教徒、仏教徒、無神論者などなどである。よくドストエフスキーは百人が読めば百人の違った感想がある、と云われる。しかし、最初に受けた衝撃や感動は、同じようである。

四 ドストエフスキーの衝撃と感動

ドストエフスキーの読者は様々だが、はじめて読んだときに受ける衝撃は今も昔も変わらないようだ。日本でドストエフスキーの作品が最初に読まれたのは、明治25年(1882)『罪と罰』が英語訳から重訳されたときからである。最初に読んだのは訳者の内田魯庵といわれている。初版は、明治25年11月4日、出版11月10となっている。この名作の余りに有名な出だしを少し紹介すると、記念すべき第一作のはじまりはこのようである。
七月上旬或る蒸暑き晩方の事、S……「ぺレウーロク」(横町)の五階造りの家の道具附の小坐敷から一少年が突進して狐疑逡巡の体でK……橋の方へのツそり出掛けた。(小説 罪と罰 上篇 第一回)
一番先に読んだのは訳者の感想は、このようであった。
恰(あたか)も曠野に落雷に会ふて眼眩(くらめ)き耳聾(ろう)ひたる如き、今までに曽(かっ)てない甚深の感動を与えられた。(「二葉亭余談」)
この衝撃と感動は、これ以降、訳者が変わっても明治、大正、昭和の時代を文学者から文学者にと受け継がれていく。例えば昭和41年初版発行の江川卓訳は
「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日ぐれどき、ひとりの青年が、S横丁のせまくるしい間借り部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした。」と訳されている。が、その衝撃度は変わらなかった。内田魯庵の感動から戦後の「族」、そして現在の「好き」とつづく体験者の存在が証明している。いま、この瞬間でも、どこかで誰かが、あらゆる観念が崩壊する深甚の衝撃と感動を受けているに違いない。

ドストエフスキーが読者に与えた衝撃と感動。そこには、危険なものもある。例えば『罪と罰』この作品は、文字通り犯罪行為の罪と罰を問うたものだが、もう一つ別のテーマも掲げている。それは非凡人と凡人思想だ。一人を救うために後の99人を犠牲にできるのか。99人を救うために一人を犠牲にできるのか。人類に提起された永遠の問題である。富国強兵策で新しい国づくりを急ぐ明治政府は、次第に国民に犠牲を強いるようになっていった。『罪と罰』は、戦後は国家の英雄主義から個人の英雄主義に転じた。40年に渋谷で起きた猟銃乱射事件以降その傾向が多くみられた。そして、その個人の英雄主義は、より先鋭化して平成の今日までつづいている。他者を省みない怪物は国家から社会に、社会から家庭に入り込み夫婦、両親、兄弟内での殺人事件を起こしている。

五 日本におけるドストエフスキーのススメ

ドストエフスキーの衝撃と感動は、ドストエフスキーのススメにも繋がった。作品を読んで感銘を受けた作家や研究者が周囲や次世代に熱心にススメはじめたからである。なぜ、作家や研究者はススメようとしたのか。想像するに、ドストエフスキーの作品世界は個人の思考について、人間社会のあり方についての物語だったからといえる。それらは維新までの日本には、なかったもの、語ってはいけないものだった。衝撃を受け感動した人たちは、作品の中に、新しい人間の姿を発見した。それ故、熱心にススメはじめたともいえる。なにしろドストエフスキーほど他者にススメられた作家は他にいない。明治に入って外国文学がどっと入ってきた。それらの中で最初にススメがあったのは、ドストエフスキーである。名前は出てこないが、東京外国語学校の授業である。ここでロシア文学をススメていたというこんな記述が残っている。(明治42年6月「新小説」、岩波版『二葉亭四迷全集』第九巻所収、同級生大田黒五郎「種々なる思ひ出」から)
上級になると、ロシアの有名な小説家を教えられる。ロシア人が二人いて、一人はコレンコ、もう一人はアメリカへ亡命したグレー、このグレーが大変朗読が上手でテキストがたくさんないから先生が読んできかす。トルストイ、カラムジン、プーシキンなどの作品を生徒は黙ってきいていて、読み終わると、その小説に現れた主人公の性格を批評したリポートを提出する。先生がそれを見て直してくれる。(『ドストエフスキイと日本文学』)

当時このように授業で、ロシア人教師から積極的にロシア文学をススメられていたようだ。当然、ドストエフスキーをススメる人もいたはずである。1861年に函館に派遣されてきたイワン・ドミトリエヴィチ・カサトキン(のちのニコライ大主教・1836-1912)は明治五年(1872)に東京へきて、神田駿河台に居を定め伝道学校を設立するが、このニコライ大主教自身、文学の愛好者で、とくにゴーゴリ、ドストエフスキイを読むことをすすめた。(『ドストエフスキイと日本文学』)とある。このことから、日本でのドストエフスキーのススメは、この伝道学校が発信地ということになる。明治29年にニコライの正教神学校に入学した昇曙夢(1878ー1959)も『虐げられし人びと』(大正三年 新潮社)を訳したりしてドストエフスキーのススメに尽力した。このように、最初、伝道・神学校の生徒からはじまったドストエフスキーのススメは、その後、神学校から離れ、文学を志す者たちの間に広まっていった、とみる。

「ドストエフスキーを読みなさい」戦前の作家たちは、よくこんな言葉を口にした。多くの文学者はドストエフスキーについての記述を残している。なかでも川端康成は、訪ねてくる文学青年たちに誰彼となくドストエフスキーをススメていたという。例えば『いのちの初夜』の北條民雄には、繰り返しこのようにススメていた。新本の紹介までしている。
川端康成から北條民雄への書簡 (『北條民雄全集』)
先づドストエフスキイ、トルストイ、ゲェテなど読み、文壇小説は読まぬこと。…(S10・11・17)。三笠書房のドストエフスキイ全集新版(46版)には、特製本がありますか、あなたの特製本といふのは旧菊版のことぢゃないでせうか。新版は旧版の改訳訂正版ゆえ、本は粗末でも、新版の方がよいのです。新旧版とも訳のよいのもありませうが、新版の方が大分よくなっているのです。新版に特製本あるか否か調べ、あれば買ひ送ります。…(S11・10・31)。三笠のド全集、小生旅中おくれましたが、まだそちらでお買ひにならぬなら、手配します。…(S11・11・30)
ハンセン病のため東村山の病院にいた北條は川端の、このススメによって励まされた。これを受けて北條も、次のような手紙を出している。
村山でみつちりトルストイとドストエフスキーを研究するつもりです。(6・23)ドストエフスキーとトルストイに没頭しやうと思ってをります。(6・26)北條は川端のススメを真摯に受けとめ、熱心にドストエフスキーを読みつづけた。白樺派の作家たちもそうであったが、尾崎士郎、宇野千代、室生犀星ら馬込村の作家たちはドストエフスキーをよく読みよくススメた人たちだった。が、この時代のススメは、多分に文学を志すものにのみに向かってのススメだったように思われる。「文学をやるのなら、ドストエフスキーを読みなさい」。戦前戦後を通じ、当時のドストエフスキーのススメは、こんな文壇の仲間意識からのススメであったように思われる。もっともドストエフスキーのススメは、文学者だけでなく、心理学者、哲学者、犯罪学者、そして科学者といった異なった専門分野内においてもススメられていた。例えばアインシュタインの「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」といった言葉や「結局、本棚に最後に残った本はドストエフスキーだった」という湯川秀樹の述懐は、科学を目指す若者たちへのススメになったに違いない。

六 市民へのススメ

このように明治から各専門分野でススメられていたドストエフスキーだが、そのススメは戦前戦後まで、繰り返しになるがあくまでも文学仲間だけの内輪のススメであった。一般読者は、自力で発見し孤独に読むしかなかった。シベリア抑留体験をドストエフスキーの『死の家の記録』になぞらえて書いた『死の家の記録シベリア捕虜収容所・四年間の断想』(西田書店1989)の作者蝦名熊夫もそうした名もなき一市民であった。昭和27年自宅で「もうすこし生きていたかった。もうすこし…ドストエフスキー…」と絶叫して36歳の短い生涯を終えた。兄のドストエフスキー熱を惜しんで大学教授だった弟の蝦名賢造氏は熊夫が書き残した原稿を編纂し35年後に本書を出版した。戦前戦後を通し一般読者が、なんのススメも受けずに出した最初のドストエフスキー関連本といえる。

ドストエフスキー作品を、もっと広く多くの人々に読んでもらいたい。そんな目的で発足したのが「ドストエーフスキイの会」である。発起人の故新谷敬三郎先生と現・会代表の木下豊房先生が創案された「発足のことば」というのが1969年3月25日に発行された会報1号に載っている。読まれていない方も多いと思う。「初心忘るべからず」ということで、全文そんなに長いものではないので、ここで紹介したい。
明治以後のわが国知識人の精神史に、ドストエーフスキイ文学のあたえた影響は、今日にいたるもその持続度と深さにおいて、他に類をみないものがある。それだけわたしたちの精神とこの19世紀ロシアの作家との対話の歴史は古い。いわばそこには一つの精神の潮流のごときものが形成され、そこにかもされる渦や流れの形は時代とともに変わってきた。しかしその変化をつくりだしてきたものは歴史のまにまに漂う精神の惰性ではなかった。それは常に源流に向かって遡ろうとする精神の姿勢であり、時代の変転の中で人間の根源的なものへ問いかけようとするまなざしであった。今わたしたちが共有している精神史のなかに、わたしたちは故米川正夫氏のドストエーフスキイ全集の訳業をはじめとして、数々の人たちによる作品や研究の翻訳、あるいは数多くのすぐれたドストエーフスキイ論、あるいは「私のドストエーフスキイ」を持っているであろう。こうしたわたしたち一人一人のドストエーフスキイとの長い対話の歴史のなかで、今日その広場をさらにひろげ、その質を高めるために、この作家を愛好する人々相互の、生き生きとした自由の結びつきを必要としないであろうか。この作家へのおのおのの問いかけを提示しあうことによって、現代に生きるわたしたち自身の精神の相貌を明らかにするために、ドストエーフスキイをあいだにはさんだ対話を必要としないであろうか。 「ドストエーフスキイの会」は以上のような欲求を持って自発的に寄りつどった人びとの自由な集まりである。(ドストエーフスキイの会
市井のすべての人たちに呼びかけたこの「発足のことば」は感動的だ。このススメによって一つの場に研究者や読者が集うようになった。相対するものの融和と協調。これこそドストエフスキーが真に求めた理念である。これによってドストエフスキーのススメは、小道から大道へと踏み出した。その意味で「ドストエーフスキイの会」発足は、世界に例をみない画期的出来事といえる。日本でドストエフスキーと市民との真の対話は、このときから始まったといっても過言ではない。会から派生した「全作品を読む会」読書会も、同様である。

七 最初のドストエフスキーのススメ
       
もっとも正確には市民に向けてのドストエフスキーのススメは、既に、ロシアにおいて実行されていた。「いまこそドストエフスキーを読まなければならない」と聴衆に訴えた人がいた。いまから69年前、1938年「ソヴェト文学の敵」と断罪されて共産主義アカデミーから追放されたロシアの文芸批評家、文学史家ヴァレリャン・フョードロヴィチ・ペレヴェルゼフ(1882-1968)である。1917年にロシアに革命が起きた。ゴーリキー(1868-1936)はむろんチェーホフ(1841-1904)も密かに待望していた革命である。すべての人びとが平等で幸せになる。そんな楽園社会をつくるという人類の大実験。世界は固唾を呑んで見守った。好奇と期待と不安をもって注目した。資本家や王様は恐れ、労働者や知識層は歓迎した。ペレヴェルゼフ自身、ハリコフ大学在学中に革命運動に参加、1905年に逮捕されシベリヤ流刑になった経験を持つ。それだけに革命の成就は感無量なものがあったに違いない。

しかし革命から五年が過ぎた。ロシアは、まだ革命の完成を見ず、混沌のなかにあった。その頃、ペレヴェルゼフの心の隅に芽生えたのは何か。おそらく社会主義国家への懐疑ではなかったか。何か変だ・・・本当に、すべての人が平等で幸福になれる社会がくるのか。もしかして、この革命はドストエフスキーが予見した『悪霊』に向かっているのではないか。そんな不吉な予感を抱きはじめたかも・・・。そのへんはロシア史の研究者でないのでわからない。が、作家・長瀬隆訳のペレヴェルゼフ著『ドストエフスキーの創造』(「わが結語」「ドストエフスキーと革命」)を読むとそんな危機感が伝わってくる。ペレヴェルゼフの心にわいた疑惑。彼は、人びとにドストエフスキーをススメることによって、その不安を広く知らそうとした。やがてくる『悪霊』の悪夢を防ごうとペレヴェルゼフは、1922年の講演で人々に呼びかけた。「それはドストエフスキーの生誕100年にあたる年であった。革命後、社会主義アカデミー(後の共産主義アカデミー)の会員に選ばれていたペレヴェルゼフは、その記念集会で基調報告ともいうべき「ドストエフスキーと革命」という講演を行った。(訳者・長瀬隆)」
ドストエフスキーは依然として現代の作家であり、この作家の創作のなかで展開されている諸問題は今日まだ解決を見ておらず、したがって、ドストエフスキーについて語るということは依然として、今日の生活のもっとも痛切にして深刻な諸問題について語るということになるのだ。偉大な革命の竜巻にわしづかみにされ、それによって提起された諸課題の渦中で奔走し、情熱的かつ痛切に革命の悲劇の全変転に対処しつつ、私たちはドストエフスキーのうちに自分自身を見いだすのであり、彼のうちに、あたかも作家が私たちとともに革命の雷鳴を聞いているかのように、革命の峻烈な問題の提起を認めるのである。…予言者であろうがなかろうが、ドストエフスキーが革命の心理的世界を深く知っていたこと、彼が生きていた当時はもちろん、いな、革命の日々においても多くの者が予想だにしなかったことを、革命に先立って彼がそのうちに鮮明に見ていたことを――これは議論の余地のない事実である。…革命の日々にドストエフスキーを想起しなければならないのは、ただたんに生誕百年歳にあたるからではない。革命そのもののため、革命の自己認識のためなのだ。ドストエフスキーの革命への態度は、指を口にくわえてぽかんと傍観しているのではなく、積極的に革命を意味づけようと努めつつ、現下の諸問題に対処しているすべての人々の深く研究しなければならぬものなのである。
ペレヴェルゼフは、革命政府のドストエフスキー非難を精一杯、擁護しながらも、講演最後に、なぜドストエフスキーを読まなければならないかを、こう締めくくった。自身の危険を顧みずに。
息づまる革命の広範な心服に酔いしれることなく、そのめくるめく失敗によって恐慌におちいることなく、革命の雷雨にあって思考の明晰と平静な確信を保持し、革命のありとあらゆる変転に正しく対処しようとする私たちを、ドストエフスキーは援けてくれるのである。小市民的革命性の心理のもっとも秘められた隅々を私たちに知らしめることによって、ドストエフスキーはその狡猾な力にたやすく騙されない心がまえを培い、現下の革命の過程におけるもっとも急激な変転に対処しうる者たらしむるのだ。小市民的勢力の圧力がとくに強く、プロレタリアートの波濤がこの勢力に強く呑みこまれた現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し、革命ロシアの心理分析に捧げられた彼の洞察に満ちた深刻なページを再読することは、まことに適切にして時宜に適ったことといえよう。1922年 モスクワ

八 ススメの復活

しかし、このペレヴェルゼフの深刻な訴えは聴衆に届かなかった。その警鐘は、革命の嵐にかき消された。そうしてロシアは『悪霊』への道をひた走ることになる。だが、当初@企業は国家のもの、A計画経済、B競争生産はしない、の絵に描いたソビエト社会主義国の理想は、世界の多くの人たちから歓迎されていた。ペレヴェルゼフは、そんな世界をどんな思いで眺め過しただろう。47年後の1968年に没した。その死から23年後、ソ連邦はようやく崩壊することになる。が、当時世界は、依然として社会主義への願望は高かった。日本の知識層は、社会主義思想に染まっていた。中国の文化大革命を支持し、金日成を英雄と仰いでいた。革命の嵐は、世界のいたるところでくすぶりつづけていた。2006年末、南米チリの独裁者ピノチェトが寿命を全うした。が、当時は、チリの社会党党首が大統領に当選する勢いにあった。米国に勝ったベトナム戦争を社会主義革命の一端として捉えることもできた。自国民を二百万人も虐殺したといわれるポル・ポトの台頭も歓迎していた。そして、あの拉致国家すらまだ見ぬ楽園とみていた。こうした世界情勢の中で「ドストエーフスキイの会」は発足した。ススメの復活である。ちなみに今日までの読み継がれを振り返ってみると、大正期、昭和10年前後、戦後、そして昭和40〜50年代と、幾度もススメの成果ともいえる隆盛期があった。平成18年の現在も、例会、読書会の出席者をバロメーターとしてみれば戦後第三回目の隆盛期といえる。このようにドストエフスキーは、あるときには熱く、またあるときには密かに読み継がれてきた。これまでの検証から、ドストエフスキーはススメの復活で読み継がれてきたともいえる。しかし、依然として「なぜ読まれるか」は不明である。そこで先に注目した「世代間の共有体験」という見方を糸口に、探ってみたい。ここでは、団塊世代を考察することにする。それによって謎解きに近づければ幸いである。

第二部 団塊世代とドストエフスキー

一 団塊世代とは何か

はじめに団塊世代とは何か。1945年8月15日、日本は戦争に敗れた。その結果、戦地からいちどきに兵隊が引き上げてきた。そして1847年から49年の二年間に大勢の子供が誕生した。700〜800万人といわれる。いわゆる戦争の落とし子である。終戦まで日本は、大東亜共栄圏、八紘一宇という全体主義社会だった。が、彼らが生まれたときは連合軍によって占領されていた。そうして占領軍は、開闢以来日本人が経験したことのない国家づくりを計画していた。日本人が誰も泳いだことのない民主主義という名のプールがそれである。団塊世代は、いきなり投げこまれた。そこには指導する人も手本となる人もいなかった。団塊世代の彼らは気ままに泳ぐしかなかった。団塊世代の成長期は価値観が大きく変わっていった時代だった。団塊世代は子供時代、よく神社の境内で遊んだ。草むらに大きな石碑が倒されていた。「忠魂碑」と掘られてあった。が、土足で踏みつけるのになんの躊躇もなかった。校舎の隣に小さな城壁があった。天守閣があるべき頂上は破壊されていた。そこにかつて何が祀られていたのか、知ったのはずっと後だった。今日、式典での国家斉唱や教育現場での愛国心教育が話題になっている。が、団塊世代が生まれた時代はすべての価値観が逆転か破壊されていた時代だった。日本がはじめて民主主義国家を目指した時代でもある。その意味では、ペレヴェルゼフが講演したあの時代と重なるものがある。ツアー時代に終わりを告げ、人類初の社会主義という実験国家ユートピア建設を目指はじめたあの時代である。団塊世代とは何か、全体主義という瓦礫の中から生まれ出た自由の子供たちである。

二 団塊世代のドストエフスキー体験

ペレヴェルゼフが講演した時代同様、団塊世代が誕生した時代も、先の見えない時代だった。この時代にドストエフスキー族が出現したのは、新しい時代への不安からか。しかし、ペレヴェルゼフやドストエフスキー族の懸念は杞憂だった。人類初の実験国家ソヴェト連邦は人類初の有人ロケットを飛ばすほどに成長した。1967年頃ロシアの革命は、五十周年を迎え成功したかのように見えていた。自由のなかで育った団塊世代も順調だった。日本初の民主主義も二十周年を迎え、団塊世代は「昭和元禄」で青春を謳歌していた。世界は冷戦の最中だったが、代理戦争では、ベトナム戦争にみるように社会主義優勢にあった。が、なぜかこの時代、ドストエフスキーは、戦後第二回目の隆盛期にあった。世界的に革命運動は頂点に達していたが、ドストエフスキーの懐疑は払拭できなかった。平成の今を第三回隆盛期とするなら団塊世代は、自分たちの誕生、青春、還暦と人生の節目節目にドストエフスキーの隆盛期とかち合ったことになる。不思議な因縁である。が、その六十年の人生において、ドストエフスキーとの関係はどのようであったか。

ちなみに私は昭和22年1月3日生まれである。団塊世代の旗持ちといえる。そんなことから、私のドストエフスキー体験を団塊世代の一読者の体験として紹介したい。私の場合、35年前、二十五歳のときはじめてドストエフスキーを読んだ。きっかけは椎名麟三の『重き流れの中に』のあとがきだった。そこで紹介されていたのが処女作『貧しき人々』のデビュー秘話だった。たぶん『作家の日記』(米川正夫訳『作家の日記』1877年1月)のこの部分だったと思われる。(抜粋)
わたしが帰って来たのはもう午前四時ごろで、昼のように明るいペテルブルグの白夜であった。ちょうど素晴らしい気持のよい時候だったので、わたしは自分の部屋へ入っても、床につかず、窓を開けて、窓際に腰をおろした。とつぜんけたたましいベルの音がして、わたしをひと通りならず驚かした。やがてグリゴローヴィチとネクラーソフが、歓喜の絶頂といった様子で、わたしに飛びかかって抱擁をはじめる。二人ともほとんど泣かないばかりなのである。彼らは前の晩、早く家へ帰って来て、わたしの原稿を取り出し、試しに読みはじめた。「十ページも読んでみたら見当がつくだろう」というわけだったのである。けれども十ページ読んでしまうと、さらにもう十ページ読むことにした。それからはもう原稿から手を放すことができず、一人が疲れると、代わって朗読するというふうにしながら、とうとう朝まで座り通してしまったのであった。…読み終わったとき、さっそくわたしのところへ押しかけようと異口同音に決議した。「眠ってたってかまやしない。たたき起こしたらいいんだ。これは睡眠以上だからね!」
十ページ読んだらやめられなくなり、読み終わった途端、作者をたたき起こしてでも会いたくなる。そんな小説がこの世にあるのだろうか。まず、最初に思ったのは、この疑問だった。『少年探偵団』も『モンテクリスト伯』も『坊ちゃん』も面白かった。『竜馬がゆく』も夢中で読んだ。あげればきりがない。きっとそんな愉快痛快物語だろうと思った。が、処女作『貧しき人々』は、血沸き肉踊る冒険小説ではなかった。なんの変哲もない手紙小説だった。なぜこんな話に・・・最初の数行でつまずいた。くどい文章にうんざりした。百歩譲っても夢中で読みきってしまえる作品とは、思えなかった。投げ出そうと思った。が、まだネクラーソフを信じたい気持が、米粒ほどに残っていた。せめて十頁ぐらいは、そう気持に鞭打って読みすすめた。しかし、私はいつのまにか我を忘れて読みふけっていた。最後の方にくると頁をめくるのが惜しかった。こんな本が世にあるのか。街にでて誰彼にススメたい衝動にかられた。気がつくと世界がまるで変わってしまっていた。この作家を読まねばならぬ。このときから、私のドストエフスキーへの旅がはじまった。

余談になるが、アメリカで、同じような意識を持ち得た作家がいた。ヘンリー・ミラーは、そんな自身の体験を『南回帰線』大久保康雄訳で主人公にこう語らせている。(抜粋)
ある晩、私は、はじめてドストエフスキーを読んだ。その経験は、私の生涯で、もっとも重大なできごと、初恋よりも重大なできごとであった。それは私にとって意味のある最初の自発的、意識的な行為であった。それは世界の相貌を一変させた。私が最初に深い吐息をついて顔をあげた瞬間、実際に時計が止まっていたかどうかはー、それは知らない。だが、その一瞬、世界が停止したという事実だけは、はっきりと知っている。私は人間の魂の奥底を、はじめて瞥見したのだ。いや、もっと単純に、ドストエフスキーこそ自己の魂を切り開いて見せてくれた最初の人間であった。…いまとつぜん世界から完全に隔絶されて、私は、はっと目をさました。あまりにも衝撃が大きかったので、身動きひとつできなかった。いったん動いたなら、雄牛のように突進するか、ビルの壁をよじのぼるか、さもなければ奇声を発して踊り狂うという結果になりそうだったからだ。ふいに私はその理由についてさとった。それは私がドストエフスキーの兄弟であるからなのだ。…ドストエフスキー二世氏は…
日本でも「私の唯一の神であり」「恩人であり」「聖母である」と讃えた詩人もいた。ドストエフスキーの衝撃は洋の東西を問わず、非凡人、凡人を問わず同じようである。団塊世代とドストエフスキーの出会いは、様々である。ススメられた人もいれば、私のように興味から入った者もいる。なかにはこんな人もいる。成田闘争で反対運動に参加するため空港に入る作業員バスにもぐりこもうとした。が、売店のオバちゃんに見破らた。オバちゃんは「ドストエフスキーを読みなさい」と怒鳴ったという。それがきっかけで読み始めたと話した。このようにドストエフスキーの出会いは、様々である。

三 団塊世代と戦争

団塊世代とドストエフスキーの出会いは、様々である。が、戦後のドストエフスキイ族と宣言した作家たちとは、対照的である。
「戦後、何処からともなく現れたパルチザン達が次第に一ヶ所に集ってくると、同時代者である私達はまぎれもなく同一問題を負わざるえなくなったドストエフスキイ族であることが明らかになった…(『広場』15号「武田泰淳とドストエフスキー」)
武田泰淳をはじめ椎名麟三、埴谷雄高がドストエフスキイ族、あるいは派と宣言できたのは、彼らの根底に「戦争」という共通する体験があったからとみる。その中で木下先生がとくに武田泰淳をとりあげたのは、この作家により深刻な時代体験があったからである。椎名や埴谷は思想や哲学といった転向や脳内世界の問題だったが、武田泰淳には「深い殺人論の延長線上」という強烈な戦争体験があった。前記のヘンリーミラーはドストエフスキー体験することによつて、
「まるで私は、あまりにも長年月にわたって塹壕のなかにおり、あまりにも長年月ににわたって砲火の下をくぐってきた人間のようであった。」と戦争の擬似体験を経験する。が、武田泰淳は現実に双方を体験した。それによって武田文学は、「かつて日本文学になかった」「スケールの大きい文学空間が創造」された。…武田泰淳のドストエフスキー受容が、「私小説の克服」という昭和一○年代からの日本文学の本質的な課題を継承しながら、作家の「私」の問題についての洞察に、画期的な地平を開く契機となった…(『広場』15号)
ドストエフスキーの作品は、ある意味で人間の極限状態を描いた作品である。それだけに人間を極限にまで追いつめる実際の戦争体験は、よりリアルに、より深刻に精神に影響するようだ。戦争とは、どんなものか。団塊世代は、知識でしか知りようがない。その点、武田泰淳の殺人体験は、よきテキストともいえる。しかし、ドストエフスキーのすごさは、その知識や体験を超えてしまうところにある。

ここに戦場で武田泰淳がどんな体験をしたか想像できるルポがある。武田は召集され中国へ一兵卒として派遣された1937年10月。この兵士たちを見つめた目がある。従軍記者として12月に南京を目指した石川達三である。石川は、創作ルポ『生きている兵隊』を1938年3月『中央公論』に発表するが、本は即日発禁になる。どんなルポだったのか、武田泰淳の戦争を知るために少し紹介する。場面は、戦闘で民家にいた母親が死んだ。十七、八歳の娘が遺体にしがみついて泣いている。
彼等は真暗な家の中へふみこんで行った。砲弾に破られた窓から射しこむ星明りの底に泣き咽ぶ女の姿は夕方のままに蹲っていた。平尾は彼女の襟首を掴んで引きずった。女は母親の屍体を抱いて放さなかった。一人の兵が彼女の手を捻じあげて母親の屍体を引きはなし、そのままずるずると下半身を床に引きずりながら彼等は女を表の戸口の外まで持って来た。「えい、えい、えいツ!」まるで気が狂ったような甲高い叫びをあげながら平尾は銃剣をもって女の胸のあたりを三たび突き貫いた。他の兵も各々短剣をもって頭といわず腹といわず突きまくった。ほとんど十秒と女は生きて居なかった。
この小隊の指揮官で大学の研修医である倉田少尉は、兵隊たちの行為は「それは正当な理論でありやむを得ないことである」としながらも苦しんでいた。が、兵士の殺して[k2]「勿体ねえことをしやがるなあ・・・」の放言に救われる。戦争の個人的な意味の痛ましさは様々だ。最初に泣き声に耐え切れなくて娘を殺した兵士はどうであったか。いま、女は死に、泣き声は絶えた。そして戦場の夜は文字通りの死の沈黙であった。するとこの寂として音もなく冴えた夜の静けさが再び平尾にとって耐え難いものになりはじめた。彼はむらむらと腹の底から何か叫びたくなってきた。大言壮語すべきときであった。しかしこの場所でそれは出来ないことであった。彼は唇を尖らしてかすかに口笛を吹きはじめた。戦場の不条理を見事に描き出したルポである。日本人の多くが経験した悲惨な戦争。この時代、このルポは、まったく普通の一市民が人殺しや強姦もできる人間に変貌する光景を客観的に見せてた。そして、武田泰淳の作品は、一歩踏み込んで人間の心には神も悪魔もあることを知らしめている。戦争は、体験した世代にとって深刻で重要な出来事であったといえる。

では、団塊世代の戦争観はどうであったのか。「団塊世代」のHPでは 
「戦争についても両親や周りの人間から悲惨さを語られ、文字どおり戦後教育を受けた世代であり、戦争に関連することへ強烈な拒否反応を持つ傾向がある。」としながらも「その一方、団塊世代の属する50歳代の自民党支持率は40%を超え民主党とほぼ拮抗しているという調査結果があり、団塊世代が左翼であるという傾向が成り立つわけではない」と、肯定的にもとらえている。

人類にとって戦争は、いつの世代でも解決しなければならない深刻な課題である。そこには常に『罪と罰』の問題がある。戦争は、いつでも多数の国民を救うためにの名目ではじまる。いつの世でも、さらなる悲惨さで終わる。しかし、歴史は繰り返す。団塊世代は、戦争を体験者である親の世代から聞いた。また、実際の戦争をテレビでみた。いまでこそ、実際の戦争はニュースとして茶の間に流れているが、当時は衝撃的だった。1965年間からはじまったベトナム戦争がいきなりテレビの茶の間で放映されはじめた。この時代、世界のいたるところで(今もかわることはないが)戦争があった。革命も日替わりに起きていた。団塊世代は、戦争を目で見、耳で聞き、そして精神的には「戦争を知らない子供たち」を売りにしていた。反戦フォーク集会もあったし、強烈な拒否反応もあったが、憧れもしていた。戦争に対し、いまのようになにがなんでも悪だという評価はなかった。59年の『人間の条件』はじめ、67年の『日本のいちばん長い日』、70年の『戦争と人間』が上演されていたが、このころ青春期だった団塊世代の戦争観は、勝新と田村コンビの『兵隊ヤクザ』や、テレビドラマにもなった壇一雄の『夕日と拳銃』の方が強い印象だった。信じられないことだが、この頃、マスメディアの多くは戦争体験を悲惨なものより、一種冒険物語として語っていた。マンガもゼロ戦の活躍ものが流行っていた。

例えば、私の場合。以前、『読書会通信」にも書いたが、戦争については、いろんな悲惨な話は学校で教わったり本で読んだりした。しかし、そういった話はなぜか実感がわかなかった。私の村は、長野県の小さな山村だが、満州に開拓団を送ったのは日本でも指折りに入っている。多くの家で、一人や二人、次男坊や三男坊が満蒙義勇団として満州に行っている。私の家では、父が二度赤紙で召集され中国南京に行った。警察官の叔父は、戦争末期に南方トラック島付近で戦死、末の叔父は満蒙義勇団のあと、現地で召集され、そのままシベリア抑留で五年後帰ってきた。部落の大人は、ほとんど外地に送り出された。父のいとこはシンガポールを陥落させた部隊でジャングルを切り開いて行進した話をよくしていた。一昨年、来日したドストエフスキーの曾孫ドミトリィ氏は、お父さんが満州の方に行って土産に、日本の人形や、本をもって帰ったと言っていた。多分それらは日本人からの略奪品ではなかったか。私の父は、中国で敗戦になったが、荷物は持って帰れない。それで、よく使えてくれた茶くみの中国人の少年に全部やったという。少年は、大喜びで荷車いっぱいの荷物を運んでいった。が、しばらくして少年は泣きながら戻ってきた。家に着く前にみんなとられてしまったと泣いていた。父は残念そうに、ときどきこの話をした。

私が大人たちに聞いた戦争の話で忘れられない話がある。山の下刈りに行ったとき休憩時間に大人たちの会話から聞いた話である。そのころ私の田舎では、夏、植林した山の雑草を皆で刈ることになっていた。そういったとき大人たちは戦争体験の話をした。部落にいるときは家族がいるから、具体的な出来事は話さないが、山では男ばかりだから、何でも話した。その話をしたのは誰だったか忘れたが、こんな話だった。中国戦線であるとき若い男女のゲリラを捕まえた。休憩になったとき、隊長は、余興に二人にセックスをさせようとした。が、男の方がどうしてもできなかった、という。時間が来て、皆、腰をあげたが、そのとき、大人たちは「やっぱり、そういうときは男はだめだなあ」と、爆笑した。そのとき、私が思ったのは、そのあと二人の若いゲリラはどうなったのか、という疑問より、戦争に行ったらなんでもできるという憧憬と戦慄。「人間とは何でもできる。どんなことでも慣れてしまう」あとになってラスコーリニコフの独白を読んだとき、このときの話が思い出された。団塊世代は、戦争を知らない。が、戦争を聞き、映像で見、書物で読んだ世代である。戦争体験者たちは、戦争という人類の闇について多くの作品やルポを残した。しかし、そうした作品も時代とともに忘れ去られてゆく運命にある。しかし、人間の心の中を覗ききったドストエフスキー作品は、常に現代として君臨している。戦争という大波にも流されることなく。

四 ドストエフスキーと現代

ドストエフスキーは、もはや過去の遺跡に過ぎない、と言ったのはD・S・ミルスキーである。
「真の近代的思想というべきものは、ドストエフスキーの影響を受けておらず、今後も受けないであろう。(1931)」(E・H・カー『ドストエフスキー』松村達雄訳)しかし、ドストエフスキーは読みつづけられた。木下豊房著『ドストエフスキーその対話的世界』(生誕百五十周年に寄せて)のなかで、ドストエフスキーが過去の作家でないことをこう述べている。「19世紀の世界の作家のなかで、ドストエフスキーくらい現代的な作家はいないといっても、あながちいい過ぎではない。この作家の作品にふくまれる問題性、芸術方法は今世紀に入ってにわかにクローズアップされ、現代の世界の作家たちに、思想、方法の両面にわたって強い影響をあたえてきた。」ドストエフスキーの現代性については、昨春出版されたリチャード・ピース著池田和彦訳『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』の「後書きにかえて」で編者の高橋誠一郎氏も、このように述べている。「一方、21世紀は「平和と対話の世紀」となることが期待されたが、ニューヨークで同時多発テロが起きると、「報復の権利」の行使が主張され、…すなわち、現代は依然として19世紀にドストエフスキイが提起した問題をきちんと克服できていないのである。」ドストエフスキーの現代性は、むろん世代間によって違うが、2007年から還暦を迎える団塊世代にとっては、より強く感じるところである。もっとも大東亜共栄圏、一億総玉砕といった誇大妄想と軍国主義の呪縛から解かれた時代、少なからずドストエフスキーは過去の作家になった印象を受けた。戦後、日本はアメリカ合衆国という大審問官の前にひれ伏しながらも、密かに社会主義を熱望した時代がある。ドストエフスキイ族たちは一つところに集るしかなかった時代、ドストエフスキーは、ロシア文学という狭い世界に戻った感がある。小林秀雄や埴谷雄高らのススメはあったが、ミルスキーが言うように過去の遺跡でしかなかった。だが、二十余年後、団塊世代は、翻然、ドストエフスキーの現代性を体験するのである。

五 団塊世代について

最近この世代のことがよく話題になる。一般知識としてHPの「団塊世代」を検索しみるとこのように紹介してある。
団塊の世代(だんかいのせだい)は第二次世界大戦直後の日本において1947年から1949年(1951年、または1956年生まれまで含む場合もあり)にかけての第一次ベビーブームで生まれた世代である。作家の堺屋太一が1976年に発表した小説『団塊の世代』によって登場した言葉である。団塊世代とも言われる。また、その子の世代は団塊ジュニアと呼ばれる。なお、日本のみならず米国等でも同様の現象がみられ、ベビーブーマーと呼ばれる。 定義にはいくつかある。一番多いものは、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)の三年間に生まれた世代を指す。この場合、厚生労働省の統計では約八00万人(出生数)である。通常、この解釈が一番多い。堺屋太一の原著でも三年間としている。団塊の世代の特徴=団塊の世代は、人口ボリュームが大きいうえ、その直前の世代が太平洋戦争の影響で出生が極端に少なく、急激に出生が増えたことから、同世代の競争が激しく、青年期を迎える頃には、他の世代に比べてとりわけ自己主張が激しくなったとされる。その反面、「平等」に強いこだわりを持つともされる(競争への指向も強い一方、悪平等になりうる面もある)。
 また、団塊世代とは何かについて。森 毅著『団塊の主張』(1995・11・10AG出版)には、こんな評が書かれている。序文の司会者森氏「団塊の世代よ!」の紹介。
団塊の世代と言うと、進学・就職・結婚と、いつでも被害者のように語られてきた。しかし、戦後を支えたハタラキバチの上の世代を量と新しいスタイルによっておびやかし、団塊の世代そのものは、いろいろな新しい可能性を開いていたのに、その下の世代は彼らの残したものにとらわれた。学生運動にしても、いくらかええかげんで楽しかったはずの全共闘が神話になって、下の世代は「正義」の枠にしばられた。だから、上の世代をおびやかし、下の世代にツケを残した。加害者の世代だったのではないか。…戦後の日本は、彼らとともに進んだ。波がしらは、いろいろなものを飲みこみながら、どんどこ進んでいくものだ。…団塊世代にとっては、道は一つに決まっていたのではなく、ナンデモアリだったとぼくは思う。

年長者からみると、団塊世代はナンデモアリのわがまま世代だという。辛らつな評価だが、納得できるところもある。先日、国会で教育基本法改正法案が通過した。団塊世代は、この基本法ができた昭和22年に生まれ、昭和29年、自衛隊が発足して日本が独立国家として歩みだしたときから教育を受けている。日本始まって以来、初めての民主主義土壌に育った世代である。八紘一宇の世界に育った人たちからみれば羨ましい限りではなかったか。ゆえに批判的になりがちである。だが、後につづく世代からは、民主主義の先駆者としてそれなりの評価を得ている。ドストエーフスキイの会員で『村上春樹とドストエフスキー』の著者横尾和博さんもその一人だ。「団塊世代を見本としたい」とする文を本書に寄せている。ここまで団塊世代とドストエフスキーの関係、団塊世代とは何かについて検証してきた。両者の関係性を更に探るために、団塊世代がどんな時代に育ったか、彼らが最も多感な青春時代の年表を見ることにする。

六 団塊世代の青春時代

人生にもっとも影響を与える時代。それは青春時代である。団塊世代の青春時代1965年〜1975年の十年間がそれと推測して、この時代の主な出来事を追ってみた。
1965年(昭和40年)〜1975年(昭和50年)団塊世代18〜28歳。 

◇1965年(S40)
・2月 米軍機北爆開始。これ以後アメリカは本格的なベトナム戦争へ
・4月 べ平連主催初のデモ
・8月 佐藤首相、首相として沖縄初訪問
・11月 中国文化大革命はじまる。日本の知識人賛同者多数
世相:エレキギターブーム、ミニスカート流行、しごき、ドラフトはじまる、『ヴェトナム戦争従軍記』、東京に初のスモッグ警報発令
◇1966年(S41)
・3月 日本の人口1億人突破
・5月 米原子力潜水艦、横須賀に初入港
・6月 ザ・ビートルズ来日(ギャラ演奏時間各35分、6000万円)
・8月 中国紅衛兵、全土に波及
世相:交通戦争、新三種の神器カラーテレビ・カー・クーラー、ガソリン1?500円、映画館500円、私立大学平均8万円(年額)
◇1967年(S42)
・4月、美濃部都知事当選
・6月 第3次中東戦争 イスラエル圧勝
・7月 米デトロイトで史上最大の黒人暴動、全国に波及
・8月 新宿駅構内でアメリカ軍タンク車と貨物衝突炎上
・10月 第一次羽田事件 学生一人死亡。
・11月 第二次羽田事件  ミニスカートのツィギー来日
・12月 佐藤首相「非核3原則」を言明。
世相:ミニスカート大流行、フーテン族、アングラ ラーメン100円
◇1968年(S43)
・1月 エンタープライズ佐世保入港。
・1月 東大医学部学生自治会、登録医導入等の制度反対でスト。(東大紛争発端)
・3月 ベトナムのソンミ村でアメリカ兵による大虐殺。
・4月 キング牧師暗殺
・5月 パリで学生デモ。全世界へ燃え広がった学生運動の発端。
・8月 ソ連軍チェコ侵攻 
・12月 府中で3億円強奪事件。
世相:シンナー遊び ハレンチ、昭和元禄、川端康成ノーベル賞、映画『2001年宇宙の旅』
◇1969年(S44)
・1月 東大安田講堂の封鎖解除
・4月 連続ピストル射殺魔永山則夫逮捕
・6月 新宿駅西口地下広場で反戦フォークソング集会(7000人)
・10月 全米にベトナム反戦デモ
・11月 警視庁、山梨県大菩薩峠で武装訓練合宿中の赤軍派53人逮捕。
・11月 ドストエーフスキイの会発足
世相:反体制フォーク流行、オー、モーレツ!松竹『男はつらいよ』 豆腐30円、コーヒー100円
◇1970年(S45)
・3月 大阪で日本万国博覧会
・3月 よど号事件 赤軍派9人ハイジャック 北朝鮮へ。
・10月 チリで社会党党首アジェンデ大統領誕生
・11月 三島由紀夫、市ヶ谷自衛隊で学生と割腹自殺
・12月 京浜安保の3人板橋にある交番を襲撃。警官一人を射殺
世相:ハイジャック、ウーマンリブ、『日本人とユダヤ人』
◇1971年(S46)
・2月 成田空港着手
・3月 バングラデシュ独立
・5月 大久保清逮捕
世相:ボウリング人気、脱サラ、日活ロマンポルノ封切り
◇1972年(S47)
・1月 横井庄一元軍曹帰還
・2月 第11回冬季オリンピック札幌開催
・2月 浅間山荘事件
・2月 ニクソン米大統領訪中、米中共同声明
・3月 群馬県妙義山中でリンチ死体12遺体発見
・5月 イスラエルのテルアビブ空港で日本人ゲリラ小銃乱射26名死亡
・6月 田中角栄首相に
・6月 米ウォーターゲート事件発覚
・9月 ミュンヘンオリンピック村でパレスチナゲリラがイスラエル選手を殺害
・11月 女優岡田嘉子34年ぶりに帰国
世相:日本列島改造論、三角大福、木枯し紋次郎、映画『ゴットファーザー』
◇1973年(S48)
・9月 内ゲバ激化
・10月 第4次中東戦争
・10月 石油ショック
世相:パ・リーグ2シーズン制導入、省エネ、『刑事コロンボ』
◇1974年(S49)
・3月 小野田少尉ルパング島から帰還
・8月 ニクソン米大統領辞任ウォーターゲート事件 フォード大統領
・8月 田中首相の金権への批判広まる
・8月 連続企業爆破つづく
世相:狂乱物価、映画『エクソシスト』、長島引退
◇1975年(S50)
・4月 カンボジア、ポル・ポト派プノンペン制圧、
・4月 南ベトナムのサイゴン政府降伏、米軍敗走
・8月 三木首相始めて終戦記念日に靖国参拝
・8月 日本赤軍クアランプールの米・スウェーデン大使館占拠
世相:赤ヘル、乱塾、ビール180円、ガソリン112円、SLブーム

この年表からわかることは何か。世界は東西冷戦という二元世界にありながら実に雑多で多様な出来事や事件が起きている。戦前・戦中・[k3]戦後派は、戦争という一つのはっきりした時代だった。が、団塊世代は、よく言えば多様、悪く言えば雑多な時代に成長した。日本は昭和元禄と浮かれていた。が、ドストエフスキーが危惧し警鐘した社会主義革命は、まだ吹き荒れていたそんな時代である。[k4]マーク・カーランスキー著・訳来住道子『1968』によるとこの年代が最も「世界が揺れた年」という。

七 共同体幻想と非凡人思想の挫折

団塊世代の青春時代は、共同体幻想と非凡人思想の挫折を見た時代でもある。はじめに共同体幻想だが、この時代、干拓事業地や開墾が奨励されていた。いま思えばソ連のコルホーズやソホーズを真似たものだったのかも知れない。私もそうした集団農場で働いた経験がある。が、そうした共同体は早い時期にほとんど解体した。ドストエフスキーを読んで、水晶宮という言葉を知ったとき、解体は当然の帰結と理解した。もう一つこの時代、若者をひきつけたのは英雄主義、非凡人思想だった。渋谷での銃乱射犯、連続ピストル射殺魔、三億人犯人、赤軍派、三島事件。これらはみんなラスコーリニコフの非凡人思想にとりつかれた犯罪を彷彿した。自分に才能があるなら、世の中をよくするためなら、なんでもやってやる。そんな連中が多く生まれた。

ここで三島事件について1970年12月19日発行の『会報』12の「事務局だより」にこのように書かれている。
「三島ショックともいうべき混沌たる精神状況の中で1970年も過ぎていきます。ドストエーフスキイ文学を手がかりに問いつめようとしている私達の問題意識の中で、あのようなロマン主義的な政治行動についての評価はどのような形をとってくるのでしょうか」この事件は、あまりに有名で、書物も沢山でていることから、いまさらどんな事件だったか、説明する必要もないが、意外と知られていないこともある。三島という作家が若者四人を連れて、市ヶ谷自衛隊東部方面総監部の総監室を占拠し総監を人質にクーデターを要請。自衛隊に呼びかけるも失敗。若者と二人で腹を切って死んだ。これが一般的に知られていることだが、事件があった総監室での推移を知る人は少ない。と、いうことで、時間で事件の推移を追った。(『三島由紀夫死と真実』ストークス著抜粋)
1970年11月25日10時53,4分 市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部正門に三島と若者4人を乗せた車が到着する。車中に日本刀があったが警衛所の隊員、三島を見て咎めず。11時00分頃 三階建ての二階にある総監室に三佐の案内ではいる。益田総監(57)が迎える。総監室の広さは六b×七・五bと狭いが天井は高い。外部に通じる場所は、廊下にドア、バルコニーに窓、西側の副長室と幕僚長室にも通じるドア。この日、小春日和。晩秋の陽射しが窓から注いでいた。三島が日本刀を見せると総監は「立派な刀のようですが、そんなものを、吊って、警察に見咎とがめられませんでしたか。私は規則をよく知らんが、われわれも軍刀は携行しておらんのです」と言う。三島は、芸術品だとごまかす。11時05分頃 若者たち総監を襲いしばりあげる。バリケードをつくりはじめる。三佐、覗き窓から事件を知り仰天。上司の一等陸佐に報告。二人はドアを開けようとする。開かないので幕僚副長に報告。幹部たち覗いて事件を知る。11時20分 自衛隊員体当たりでドアを破り、数人の下士官が総監室になだれ込む。武器は木刀一本。陸佐、三島に背中と腕を斬られる。陸曹、右手首が落ちるほど斬られる。さらに一人が両腕と背に三太刀浴びる。あと一人は木刀で防ぐ。一同、総監室から逃げる。自衛隊の幹部たち、非常事態にただただ狼狽するのみ。陸将補は作戦のないまま六人の隊員を引き連れ再び、総監室に突入。武器は棒一本持たず。再び乱闘。自衛隊三人が負傷。森田の短刀を奪うも、またしても七人とも逃げ出す。(短刀を置いてか?)12時少し前頃 三島と森田、バルコニーに現れる。三島、檄をとばすが野次られ「天皇陛下万歳」を三唱して再び総監室へ戻る。三島、切腹の前に再び「天皇陛下万歳」を三唱。三島、切腹。森田、斬首される。12時23分 検死官、二人の死亡確認。

「ドストエフスキーを手がかりに」この事件を解く。はたしてそれはできただろうか。世間では三島事件は、いまもって論じられている。信奉者も増えていると聞く。しかし、団塊世代の若者が道連れにされた、この事件を思うと、痛ましい気持になる。あの時代、団塊世代の若者には崇高な希望があった。世界を日本をよくしたい。そのために活動したい。そんな意欲があった。べ平連参加も赤軍派もその現れであった。オウムに操られた若者たちをみると今もそれは同じかも知れない。死んだ若者は自衛隊員と乱闘の際、短刀を奪われたとある。が、もしかして彼は、奪われた瞬間、ほっとしたのではないだろうか。これで死ななくてもよい。――だが、なんと自衛隊員たちは逃げ出してしまった。「なぜ?!」若者の悲痛な叫びが想像できる。そのときの若者の心中は察するに余りある。若者は、絶望のなかで、まだ一縷の望みを託したに違いない。まだ、時間はある。バルコニーにいる間に、百戦錬磨の特殊部隊が総監室を必ずや奪取してくれると。だが、誰一人来なかった。彼らは、うろたえ小田原評議していただけだった。戦争経験者もいたというのにである。外は大勢の人間の右往左往する騒ぎ、ヘリコプター音やパトカーのサイレンの響き。その喧騒とは反対にあの部屋は湖底のように静まりかえっていたに違いない。もしかして若者は、最後の五分間を振り分けながら扉を蹴破ってくる自衛隊員に賭けたのかも知れない。あの朝、ドストエフスキーが体験した恐怖を感じながらすべてが茶番劇に終わってくれることを祈って・・・だが、結局はドアは蹴破られなかった。三島事件は、政治、芸術、性的などなど多面的だが、団塊世代にとっては、よど号犯人たち同様、非凡人思想の挫折を象徴する事件の印象が強い。

八 団塊世代とドストエフスキー

団塊世代にとって60年代後半から70年代前半は、ほろ苦くも懐かしい時代である。それはたんにその時代が青春期だったからだけではない。共同体幻想、非凡人思想の挫折、そして金権主義などドストエフスキーの警鐘を垣間見、体験したからでもある。この時代にドストエフスキー作品の多様性を立証した新谷敬三郎訳のバフチン著『ドストエフスキイ論』(1968・6・8発行)が刊行されたのは不思議な因縁である。
「それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに重みのある声の対立法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小説の基本的性格である。」(新谷敬三郎訳バフチン著『ドストエフスキイ論』)本書について木下先生は著書『ドストエフスキー対話的世界』の「精神共同体の思想と人間学」でこのように紹介している。「M・バフチンによれば、ドストエフスキーの小説は、作品中に作者の声を代弁する主人公を容易に読みとることのできるツルゲーネフやトルストイなどの小説とは異なって、各々の独立した声(人物)が対話するポリフォニック(多声楽的)な世界であり、作者の姿はその対話の場を活性化する機能そのものに他ならない。」多声楽的世界がドストエフスキー作品の真髄とするなら、団塊世代は、まさにそれを肌で感じてきた世代ともいえる。年表でみた雑多な事件出来事がそれを教えてくれている。

おわりに

なぜ、ドストエフスキーは読み続けられるのか。研究においても、なぜ柳の下に、二匹目のドジョウが出現しつづけるのか。この疑問を解く手段として団塊世代に着目し、考察してみた。結果、独善的ではあるが、このような推論を得た。2007年、団塊世代は今年から還暦を迎える。彼らの六十年間は、雑多で様々な出来事があった。とくに多感な青春時代は、『悪霊』『罪と罰』などドストエフスキー作品を彷彿させる事件・出来事が相次いだ。浅間山荘後に発覚したリンチ事件もその一つである。いずれも人間の謎である。「なぜ、あのような事件・出来事が起きたのか」その謎を解くため、団塊世代は、ススメもあってドストエフスキーを読みつづけた。そのように解釈した。もつともドストエフスキーを彷彿する「事件・出来事」はいつの時代にも起きている。何も団塊世代に限ったことではない。人間の神秘は世界人類が続く限りあるのだ。故に、その謎を解かんとするドストエフスキーは、世代を超えて読み継がれるのである。併せて、なぜドストエフスキーという柳の下にドジョウは出現しつづけるのか。この疑問もまた同様である。が、一つにはドストエフスキーから提起された問題がいまだに解かれていない、ということもある。

人間は、幸福になるために様々な研究を行ってきた。そのかいあって科学文明は進み、生活は便利になった。しかし、本当に幸せになったのだろうか。残念ながら否、である。人類の行末をみると、その未来は芳しからぬ気がする。地球環境も極めて悲観的である。ドストエフスキー作品の目指すもの、それは、人間の自由と幸福。森羅万象の調和である。それ故に文学者はむろん科学者はじめ世界の賢者は、ドストエフスキーを読み続けるのである。研究にも終わりはない。どんなに難解の数学の問題もいつかは解ける。しかし、人間の神秘は、かえって深まるばかりである。それがドジョウを増え続けさせる要因となっている。今日、世界は、いまだ混沌にある。日本においても、「美しい国」を目指しながらも、その理念の下は、ドストエフスキーが危惧した子供に関する不幸なニュースが連日報道されている。ドストエフスキーの警鐘は依然として鳴りつづけている。その現実がある限り、ドストエフスキーは常に現在の作家なのである。最後になるが、団塊世代の青春真っ只中の1968年にかつて「現下においてこそ、ドストエフスキーを」と叫んだペレヴェルゼフが亡くなり、ドストエフスキー文学の多様性が述べられたバフチンの『ドストエフスキイ論』が出版された。このことは、団塊世代とドストエフスキーの関係性をより強く印象づけるものである。(完)