下原敏彦の著作
ドストエーフスキイ広場 No.2 ドストエーフスキイの会 1992



リーザの魂 地下室男ははたしてAV嬢に勝てるか


下原敏彦


レンタルビデオ店に行くと必ずといってよいほど奥まった所にアダルトコーナーという一角がある。世の男性諸氏なら一度は覗いてみたい場所である。だが、入るとなると誰もが逡巡するらしい。昼間はほとんどといってよいほどそのコーナーには人影がない。では夜はというと、やはりまばらにしか入っていない。いつの時間帯も混雑している一般コーナーに比べ常に閑古鳥が鳴いているのだ。そうでなくとも狭いスペースの店内、全く無駄な空間のように思えるが、実際は店の経営にとってなくてはならないコーナーらしい。業界ではこの産業、あっと言う間に急成長を遂げ年間何億もの売上があるそうだ。伸び過ぎて近ごろ過当競走に入ったとはいえ、やはり大手なのである。ビデオを年間一千本以上制作し、出演するAV嬢も五百人は下らないという。そして、今現在も予備軍の若い女性が後を断たないということだ。実に不思議な商売というところが風俗産業の所以であろうか。

ところで何故にこんな話をはじめたかというとこのアダルトビデオに出演するAV嬢について二三、気になっていることがあるからだ。それは彼女たちの日常生活の中のある不可解な所為についてである。恐らく何だと思われるほどささいなつまらぬ疑問かも知れないが、なぜか解けぬ謎として未だ心に引っ掛かっているのである。

ドストエフスキーは作品に登場する多くの女性、ソーニャやブランシュやナスターシャ、ワルワーラたち、それに『作家の日記』で扱った「単純な、しかし厄介な事件」のコロニーロヴァや「私人からの手紙」のカイーロヴァ女史たちの深層心理を地下室男的手法で掘り起こし、探り当て、ときには事件の究明にも役立ててきた。彼の手法を借りれればAV嬢にみた疑問を明らかにすることができるだろうか。ここは是非、ペテルブルクの地下室男に登場を願って謎の解明をはかってみたい。

さて、その謎とは...いつだったか病院の待合い室で退屈しのぎにスポーツ新聞を見ていたら芸能紙面の隅にAVに関する小さな見出しをみつけた。ある硬派の男優(寺田某という名前だ)がアダルトビデオの監督をはじめたという記事だった。その男優の役歴の印象から意外に思った。もっともそれで記事になったのだろうが。十数行の内容は、元々この手のビデオファンだったこと。見るのに飽き足らず自分でも撮ってみたくなったなどの動機の他、実際に製作に携わってみた感想がのべられていた。そのコメントが興味を引いた。彼の印象はAV嬢の方が映画やテレビにでる女優より光り輝いているという。素人にはわからないところだが、想像するに多分、彼女らが持ち得るすべての心理、野心とか欲望とかいつた煩悩を何のオブラートもなしに直接だしてしまうからでは−と解釈した。

彼女らがAVに出演するきっかけを何かの雑誌で読んだことがある。それによるとAV嬢は街でキャッチされたり自分から飛び込んでくる娘が大半。理由はお金が欲しいから、退屈してたから、有名になりたいから、誰か芸能人と知り合いになれるかもしれないから。などとまちまちだ。つまるところ若い女性の持ち得る心理そのものがすべて有機体と化して集合したのがAV嬢たちなのである。

少し話がそれるが、こうした風俗的なものに群がる女性の心理状況はいかなる体制下で生じるかというと、どうやら二通りあるようだ。政治が混乱した時期と経済が繁栄の極に達した時期がそうだろう。現在崩壊した旧ソ連邦のモスクワにおいて女学生に希望する職業をたずねたら驚くことに夜の商売と答えた女学生が多数いたという。もっとも彼女たちの目的はただ一つドルである。故にその心理は複雑ではない。ソーニャのように神に祈れば済むことだ。これがAV嬢となると事情が違ってくる。彼女らが出演して得る金は古典的のそれではない。金、名声、好寄心など彼女らの動機は様々で複雑だ。時間と規律の中で生活していた男優監督は現場において奔放な彼女らの掌握に頭を悩ましたそうだ。その苦労を後日テレビの深夜番組でも語っていた。

「彼女たちはときどきふっといなくなるんですよ。どこに行ってきたのかと聞くと、夕日を眺めに行ってきたというんです。ぼんやり夕日を見ながらおいおい泣きじゃくってきたというんです。どうして泣きたくなるのか彼女たちもわからないらしいんです。ただ夕日を眺めていると無性に涙がでてくるというんです。別に悲しいとか辛いとか後悔するといった感情とは一切無関係らしいですよ。これはいったい何なんでしょうかねえ」男優監督はそう言って首をひねった。その疑問は新聞で感じた疑問を改めて思い起こさせた。夕日をぼんやり眺めて、おいおい泣く。短絡的、楽天的、虚無的かつ衝動的にみえる彼女たちの心の底にあるものはいったい何であるのか。彼女たちの何が夕日を見に誘わせ意識のない感慨を引き起こさせるのか...果たして彼女たちの「深層心理以前」にあるものは。 

この謎を解く手段としてまずは地下室男対AV嬢の問答を聞くことにしよう。その結果、地下室男は彼女に
子供が自分の大好きな人に、物をねだるような目つきをさせることができるだろうか。宝物のように、大事にしまっていた恋人の手紙をとりに駆けださせることができるだろうか。では、お願いするとしよう。


どのように切り出すか
 
(青字部分は米川正夫訳

(それは愛情もなく無恥粗暴な態度で、本当の愛の栄冠となるべき行為から、いきなりことを始めるのだ。 
彼女はわたしの視線を受けながら、顔を伏せようともしなければ、その限差しも変えもしなかった・・・)

「お前の名はなんというんだい?」


「まだ、決まってないのよ。何かないかしらいい名前。最初が肝心でしょ。姓名判断でみてもらおうかしら。女優の名前って難しいから」

(じ、女優だって! 何なんだこの明るさは)

「どこから来たの?」

「原宿からってことにしとくわ。都会の娘に見えるでしょ。フフフ、遊びに釆たら誘われたの。やってみないかって。ちょうどヒマしてたから、面白そうだし。それで冷やかしにちょっと来たのよ」

「えっ、それでいきなり撮ったのかい」

「そうよ。別に演技いらないっていうから」

(地下室男、口をあんぐり)

「前からここへ釆てるの?」

「今日からよ。この世界、新しい娘の方がもてるんだつてね。やたら褒められちゃったわよ。わたしそんなに魅力あるかしらハハハ」

(うっ、この明るさ、この陽気さは何なのだ...これでは
いっこうに無愛想な調子に、だんだんぶっきら棒になっていかないではないか。早くも地下室男に焦りの色があらわれた。)

「お父さんお母さんはいるかい?」

「いるわよ、二人とも元気よ。どうして、そんなこと聞くの。わかった!わたしがAV嬢だから、ちゃんとした両親がいないと思ったのね」

「どこにいるの?」

「東京よ。田舎かも知れないけどフフフ、訛りがないのね、あたしの言葉」

「いったいどういう人なんだい?」

「ちゃんとした人よ。地位があって教養があって、教育者とか聖職者みたい」

「そ、そんな家庭の娘さんがなぜなんだ?! 
親の家に暮らしていたら、どんなにいいかもしれないじゃないか!なぜきみは親もとを離れたんだい?」

「一人で住みたかったからよ。干渉なんかされたくないわ。もう大学生でしょ。だから自由に生活したいのよ。自由に」


ム、ム、ム、ム...自由とAV出演とどんな関係があるんだ。それに娘たちの中には、家で暮らすのが愉快でたまらないという娘がいるのに。この娘は一体何者だ。)

(地下室男、早くも形勢危うしである。こうなったら...そうだあの話をしてやれ、これなら少しはこたえるぞ。)

「きょうあるとこで棺を担ぎ出していたが、あやうく取り落とすところだったよ」

「棺って、葬式の?!エーッ見たかったわ。どこで?そのとき死体転がり出たの? そんなのめったに見られないんじゃない」

(めったに見られない、だって! どんな性格してるんだ!ここは堪えて)

「...いやな臭いがしてね。胸が悪くなるようだったよ」

「あら、いやだ。腐ってたの」

「そうさ、夜の商売で一人で暮らしていたからね。あの売春婦、もしかしたらエイズにかかっていたかも知れないな。頬が痩せこけていて顔じゅう班点だらけで、そりゃあひどいものだった」

「ふうん、物好きね。そんなに詳しく見るなんて。悪趣味ね」


「今日あたりの埋葬はいやだなあ!」

「あら、どうして」

「雪が降ってるだろ、こんな日に限って葬式が多いんだ。道路は渋滞するし火葬場は満杯だ。どうせ身元不明の遺体なんか一番最後に回されるから運搬していった市の職員たちなんか不満たらたらさ。そのうち遺体にだって当たりだすよ。帰りが遅くなるだの、パチンコする時間が減るとかいってね。それとも以前その女のビデオを見たことがあるとか、何とかいってみんなでげらげら笑っているかね」

「フン、死んでしまえば他人が何いおうが勝手よ」

「いったいきみはどうだってかまわないのかい。死ぬってことが?」

「そうよ。だって、なんのためにわたしが死ぬのよ。そんなこと考えなきゃいけないのよ」

「そりゃ、いつかは死ぬさ。ちょうどさっき話した死人のように、あれと同じ死に方をするのさ。あれもやはり...きみと同じような女だったんだ...」

「ちょっと! 違うわよ。あなたの見たのは商売女でしょ。わたしは女優よ。まあ、アダルトだけど、そのうち将来はちゃんとした映画に出るわ」

「現在、きみは若くて、奇麗でいきいきしているからうんと高く買ってもらえるけど、こんな生活をもう一年つづけていたら、きみもすっかり変わってしまって、しなびてくるに決まってる」

「おあいにくさま、わたしだってこの仕事、長くやるつもりないわ」

「そうかい、
いずれにしても一年たったら、きみの相場は下がってくるよ、次々と新しい女の子たちが入ってくる。きみのビデオはあきられ、きみはもっとハードなものを要求されるようになる。そして、結局のところ別の仕事にくらがえしなくちゃあいけないんだ。テレビや映画に出れる娘なんて、殆どいやしないさ。たいてい風俗営業の方に流れていくんだ。月百万、二百万とっていた娘が、元の十万、二十万の仕事なんかできっこないからね。ストリッパーになるかソープランドかSMクラブ。そんなような職場で働くしかなくなるね。そうやってだんだんと低みに落ちてゆく。七年ばかり経ったら、いよいよセンナヤ広場の穴蔵まで行きついてしまうわけさ。それだけならまだしもだけれど、そのほかに何か悪い病気でも背負いこむとか...こんな生活をしていると、病気はなかなか早く癒らないから、とっついたら最後、もう離れないかもしれないぜ。こうして、とどのつまりは死んでしまうのだ。きみは一年間に身元不明死体が何体でると思う。二万以上さ。そのうちの半分が女性だ。誰も知らず引き取り手もなく死体置き場のプールの中にぷかぷか浮かんでいるのだ」

「あ、そう。そうなったら、そうなったよ。心配なんかしてないわ。平気よ」

(まったくどんな神経をしてるんだ。あの女の場合、リーザのときなんかもっと深刻だった。沈黙、深い沈黙があったし。
彼女はもうすっかり毒々しい調子で答えていた。)

「だってかわいそうじゃないか」

「だれが?」

「命がかわいそうなのさ」

「命? なによ、それ?」

「魂さ、きみの。体とは別なものだからね」

「あ、そう。わたしそんなこと全然思わないわ」

なんということだ? 人がこんなに優しくしてやってるのに、この女は。

「いったいきみは、どんな
気でいるんだね? まっとうな道を踏んでるとでも思っているのかい、え?」

「どんな気って、関係ないでしょ。AVがなんで悪いのよ。じゃあ、ヌード写真集を出版したタレントはご立派というわけ。裸で勝負してるんじゃないの。おんなじよ。違うっていえる」

(地下室男、たじたじとなって額の汗を拭う。どうも、まっとうな道の定義が変わってきているようだ。ご時世の違いかも...)

「きみはまだ若くて、器量もいいんだから、恋をすることもできようし、結婚することもできる。幸福な身の上にもなれるというものだ...?」

「あきれた、まだそんなこといってるの。
お嫁にいったものが、みんな幸せだとも限らないわ、第一わたし女優になる夢があるんですからね」

(地下室男、思わずかっとなって怒鳴る。)

「きみは本気で思ってるのかい。女優になれるって。それを目指すんなら道が違うんじゃないのかい。まずはじめは演劇の練習からだろ」

「バカじゃない、知らないの、テレビに出ているたいていのタレントはいきなりスカウトされるのよ。それから女優になったり歌手になったりする勉強するんじゃない。あなた、時代遅れよ。頭が古いのよ」

「時代遅れだって!いいかい人間の心は文明のように進歩しないんだ」
「あっそう。もしかしてわたしのビデオファン?。それでごちゃごちゃ説教たれるのね。そうでしょ。まるで、
本でも読んでいるような話し方をするんですもの」

よしてくれ、本がどうのこうのと、いってる場合じやないよ。いったい、いったい、きみ自身こんな所にいるのが、いまわしくはないかい?」

「男なんかみんな同じね。
なんでもわかる一段えらい人間だと思われたくて偉そうなことを言うだけよ。ほんとは寝たいと思ってるだけでしょ。頭の中はそれで一杯なだけよ。図星でしょ、フフフ」

「きみ、そ、そんな...」

(地下室男、顔を真っ赤にして俯いた。)

「いいわよ。あなたにその気があれば、付き合ってあげてもいいわよ。たっぷりサービスするわ」

(AV嬢は勝ち誇ったように席を立って妖しく歩み寄る。)

「や、やめてくれ」

(地下室男、たじたじして後ろに下がる。AV嬢は、笑い声を残して去っていく。)

もはや現代において
ダイヤモンドにも等しい処女の宝ある愛は道化に過ぎないのか。彼女の魂に近づくことさえできなかった。負けたのである。なす術もなく佇む地下室男。その脳裏に再び夕日を眺めてわけもなく泣くAV嬢たちの姿が浮かんだ...。