ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.99 発行:2006.12.1




第218回12月読書会のお知らせ

12月読書会は、下記の要領で開きます。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

月  日 : 2006年12月9日(土)
場  所 : 東京芸術劇場小7会議室(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開  場 : 午後1時30分
開  始 : 午後2時00分 〜 4時50分
作  品 : 『賭博者』
報 告 者 :  近藤 靖宏氏
会  費 : 1000円(学生500円)

◎ 終了後は、近くのお店で二次会を開きます。
会 場 : 「さくら水産池袋西口店」JR池袋駅西口徒歩3分
時 間 : 夕5時10分〜7時10分頃迄
会 費 : 3〜4千円




12・9読書会『賭博者』(『夏象冬記』をからめて)



 12月9日(土)の読書会・報告者は、近藤靖宏氏です。作品は『賭博者』です。氏は、読書会では常連参加者として活動する傍らドストエーフスキイの会においても、編集委員を務められ、先般は『広場』評者として発表するなど会活動に積極的に取り組んでいます。先の例会では、下原報告の引用朗読を行いました。何事にも真摯な人柄です。心の暗部ともいえる賭博を描いたこの作品をどう読み、どう評するのか楽しみです。
 なお、報告は賭博ということで『夏象冬記』をからめたものになるそうです。

1863年9月18日ドストエフスキーからN・N・ストラーホフ宛の書簡(中村健之介訳)

 『死の家の記録』は、あれがでるまでは誰一人まざまざと描いたことのなかった懲役囚を描いて、読者大衆の注目を浴びたわけですが、今度の物語は、ルーレット賭博をまざまざと、かつ詳細に描き出すもので、注目を浴びること必定です。・・・かなりいいものになりそうです。『死の家』は興味津々たるものだったのです。こんどの作品も、一種の地獄を描くものであり、それなりに、あの懲役囚の「風呂場」と並ぶものを描くものなのです。一幅の絵のように仕上げたいし、そうすべく力を注ぐ覚悟です。・・・物語の主題はこうです。国外にあるロシア人の一典型というものです。・・・これは生きた人物ですから(全身をあらわにして私の前に立っているように感じられます)書きあがってから全体を読み通してもらわねばなりません。眼目となるのは、この男の精気、活力、激情、恐れを知らぬ胆力、それらすべてがルーレットに注ぎ込まれているということです。この男は賭博師なのです。だが、プーシキンの『吝嗇なる騎士』がたんなるケチではないように、この男もたんなる賭け事好きではありません。(これは自分をプーシキンに比しているのではありません、ただわかりやすくするために言っているのです)この男はある意味では一個の詩人なのです。しかも重大なことは、この男がその自分の詩的傾向の下劣さを深く心に感じていて、それを恥じているということです。そうではあるのですが、この男のリスクを求める欲求こそがこの男を、彼自身の意識においても、高貴なものにしているのです。物語はすべて、この男がいろんな賭博場で、もう三年目になるのですが、ルーレットをやっていることをめぐって展開します。
 1866年10月 4日、アンナ・グリゴーリェヴナ・スニートキナがドストエフスキーを 訪問、『賭博者」の口述速記をはじめる。
     10月29日、『賭博者」脱稿
     11月 8日、ドストエフスキー、アンナに求婚。
1867年 2月15日、ドストエフスキーとアンナ結婚。





中編『賭博者』謎解き『賭博者』の為のノートより


人見敏雄

T.
                    
 ドストエフスキー中編『賭博者(Игрок)』(1866年)は短編『弱い心(Слабое серце)』(1848年)と同様、作者と語り手が区分けされている。(短編『弱い心』と中編『賭博者』とはフランスの或る小説に奇しくも同様に関わっているが後述する次第である。)今回は語り手が主人公(青年アレクセイ・イウ゛ァノウ゛ィチ)自身であり、主人公の手記(записок/notes)を読者が手にしている訳である。主人公が「謎」と言ったから「読者にも訳が分からない」と評す(中村健之介)ことはなく、主人公が「確信」したから既成事実ということでもないのである。単なる「思い込み(先入観と偏見)/憶測(ドクサ)/過信/慢心」を読者は一々鵜呑みにしてはならない。ドストエフスキーには手記或は記録(записки)と題された作品は幾つかあるが語り手と作者をしっかり識別しなければならない作品として殊に『弱い心』に言及する次第である。
 『弱い心』の時には、作者/全能なる(完全なる)語り手/不完全な語り手/(不完全な語り手の目を通した)登場人物であった。全能なる(完全なる)語り手は「序」だけで退場しており、途中や文末にもその姿を一度として登場することはなかった。作者の絶妙な筆致に惑わされて「全能なる(完全なる)語り手」と「不完全な語り手」を混同すると物語の読みを踏み外してしまうので細心の注意が必要である。謙虚にテキストと対峙したい。生来体躯に障害をもつ(ので障害にめげずに力強く気丈夫に生きていって欲しいという願いが込められた名前を授かっている)が筆耕に秀でていることで日頃ひたむきな努力を積んできた。目前の結婚への(薔薇色の)夢心地と膨大な量の内職仕事との軋轢が破滅を齎せるのは時間の問題であった。他者(新婚で若妻に浮かれている腹黒い上司)の書類清書には筆が走っていたのとは対照的に、いざ己自身の美しき人生設計には手が震え浮足立つばかりで破綻はすぐ目前という訳であった。彼には経済上の理由から共同生活する友人がいた。体格が良くて気立てはいいが頭の回転が不完全な(所謂頭の弱い!)余り相手の気持ちを鑑みず浅はかな思い込みから徒らなそして愚かな奔走(過度のお節介)を起こしてしまう。空想的な理想共同社会における自由な男女関係と実際の一夫一婦制における婚姻生活との乖離も読者に突き付けているのである。友人の過度のお節介に翻弄されたことも相まって期限までに清書を終了できないことで結婚話が煙のように消滅したと思い込んだ男は狂人とな(ったように装う[後の所謂テンカン擬装問題をほうふつさせる...]ことで辺境シベリアへ兵士として配属されることを回避する目論見を持っ)て病院送りとなる。友人は西の冬空に赤々と輝く夕日に個々の家庭の台所の煙突から立ち上る煙りを眺めながら、理想的な共同社会の建設が幻想であったことを(弱い頭ながら)漠然とであるが思い知る。愚かな奔走という過度のお節介が「弱い心」を急激に追い込んでしまったことを、「弱い頭」は最後まで省みられることがなかった...。数年後当時の婚約者が別の金持ちと結婚し子供とお供を連れている処に出逢い小説は終わる。不完全な語り手は殆ど「頭の弱い(回転の鈍い)男」の視点から物語っていたと言える。 婚約者へのプレゼントを帽子店で購入する。店の女主人から薦められた商品はまるで『マノン・レスコー』にでてくるような淫売婦好みの帽子である。女主人の慇懃な態度は恰も淫売婦の甘い言葉に騙されのぼせ上がった哀れな男を遇(あしら)う姿であった。男の贈る帽子と女の贈る財布には性的象徴としての意味合いがあるが省略する。

U.

 『賭博者』の登場人物侯爵デ・グリュー(Де-Грие)がアベ・プレウ゛ォー(Abbe Prevost:本名Antonie Francois Prevost)『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』に登場する騎士(シュウ゛ァリエchevalierデ・グリューDes Grieux)の名前をほうふつすることは既に指摘された処(原卓也)である。『マノン・レスコー』はデ・グリューの視点から語られている。作者自身の自叙伝的な要素が盛り込まれている。ドストエフスキー『賭博者』の場合は、速記者アンナ・スニートキナと結婚する以前、病床の妻マリヤ・イサーエウ゛ァを置き去りにしてアポリナリア・スースロウ゛ァとヨーロッパ旅行にでかけた時のエピソードが織り込まれている。それがルーレット賭博なのである。速記者アンナと結婚後に旅先でルーレット賭博に興じるドストエフスキーの姿を、アンナ自身が日記に書き留めている。(木下豊房訳『アンナ夫人の日記』)スースロウ゛ァ同伴の時と夫人となったアンナ同伴の時とでは、ルーレット賭博に対するドストエフスキーの精神状態や取り巻く環境が明らかに異なるので、妻であり目撃者・証言者であるアンナ自身の主観性や知識を介して綴られた『アンナ夫人の日記』の取り扱いは慎重でなければならないことは謂うまでもない。単にドストエフスキーがルーレット賭博に興じていたのか、速記者アンナが『賭博者』の最良の読者なのかの検証実験を行なっていたのかは疑問の余地がある。速記者や翻訳者、批評家や語学教員が優れた読者であるとは一概に言うことは出来ない。常に驕らず惑わされずに謙虚にテキストと向かい合いたいものである。アンナ夫人の日記も青年アレクセイの手記と同次元かもしれないという可能性を捨て去ることはできないのである。アレクセイを再演するかのごときドストエフスキーが大勝ちしていたらどのように展開したのか、自分一人の為か家族の為か、アンナの温かく見守る優しい眼差しを求め ていたのか等々には一層の分析が必要であろう。
 繰り返しになるが、『賭博者』は主人公の視点で書かれた主人公の手記である。デ・グリューは今回主人公ではないが重要な役回りを演じている。ドストエフスキーは類音類綴で「Де-Грие」を用いている。英訳(CJ Hogarth)のテキストでは、De Griersとなっている。『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』はファム・ファタール(femme fatale:男を破滅させる女)を描いた作品として有名であり、『弱い心』では「弱い心の男」と「弱い頭の男」が破滅したように、この作品では主人公(家庭教師:25才)と将軍(依頼人:55才)がルーレット賭博を通じて破滅してしまう。或る時はマドマアゼル・ブランシュ、バルベリーニ侯爵夫人、マドマアゼル・ゼルマと名前を巧みに使い分ける女(25才)に破滅してしまうのである。 逆にルーレット賭博を通じて破滅した女たち二人、将軍の伯母(75才)アントニーダ・ウ゛ァシリエウ゛ナ・タラセーウ゛ィチェウ゛ァ(経済的破滅)と将軍の義娘ポリーナ・アレクサンドロウ゛ナ(精神的破滅)がいる。伯母はゼロに賭け、義娘はゼロ的な存在!であるアレクセイに「女の一生」を賭けた訳であるが後段で詳述する次第である。その他に英国人アストレーといった登場人物を中心に物語が展開する。義娘ポーリナ以外に将軍には二人の子供があり、その家庭教師を担当するために主人公アレクセイが雇われている訳である。姉のナージャ、弟のミーシャ、それぞれ略称しか判らず役割もさほど重要ではないと思われる。しかしこの略称の付け方がドストエフスキーらしい。ナージャ(надя)は希望(надежка)であり、アポリナリア・スースロウ゛ァの実妹の名前であるのは興味深い。ミーシャ(мишя)はミハイル(михаил)の略称であり1863年当時重病で床に臥せていた兄ミハイルを思い起こす。(兄ミハイルの嫡子もミハイル・ミハイロウ゛ィチと同名である。)将軍の妹マリヤ・フィリポウ゛ナ(Марья Филиповна)は置き去りにされた妻マリヤを聯想させる。ポリーナ・アレクサンドロウ゛ナの「アレクサンドロウ゛ナ」が彼女の姓名(家名)でなく父称であれば、将軍の名前はアレクサンドル(Александр)となる。当時の解放皇帝!アレクサンドル2世を諷刺する意味合いが多少なりとも込められている。更に主人公アレクセイ(Алексей)と将軍アレクサンドルが同じ「護る」を意味するギリシア語から派生したことから、主人公も将軍も恰も分身(或るは同じ穴のムジナ!)のようであり、二人とも妖女!マドマアゼル・ゼルマ(M-lle Зельма)の毒牙にかかり「護衛」を務める召使いであり愛くるしい番犬と化してしまうのである。ゼルマはドイツ語の動詞「zermahlen(粉砕する/身も心も粉々に打ち砕く)」や 「zermartern(苦しめる)」という意味合いが作者によって仕掛けられているのである。妖艶なマドマアゼル・ブランシュ(M-lle Blanche)の「ブランシュ」は、フランス語で「純白無垢/清廉潔白/白人種等」を意味する。名前と対照的に実際の肌が褐色であることは物語の意想外な展開の布石となって予感される。将軍の伯母の「アントニーダ」は『マノン・レスコー』の作者の本名(Antonie)に敬意を表していると思われる。また姓名(家名)タラセーウ゛ィチェウ゛ァはギリシア語の動詞「ταρεσ(騒動を引き起こす)」から派生させて用いている。停車場で展開される大騒ぎがしっかりその名前に仕掛けられている訳である。因みにフランス語でルーレット(roullet)には「車椅子」の意味もある。ルーレットに乗ってルーレット場に乗り込む!ドストエフスキー恐るべし!!(しかしこれはほんの序曲でしかない...)

                                (V.W.に続く)




ドストエフスキーとアンナの出会い 
(編集室)


 1866年10月3日、この日が全てのはじまりだった。夕方7時ごろ21歳のアンナ・グリゴーリェヴナは第6男子中学校に行った。オリヒン先生の速記の講義をうけていた彼女は、いつものように出席した。遅れてくる生徒を待っていると、先生が来てこう聞かれた。
「アンナさん、仕事をするつもりはありませんか。速記記者を頼まれているのですが」
「ぜひさせてください」彼女は、即答した。速記記者になるのが彼女の夢だった。彼女は、自分の速記能力が不安だったが、好奇心からたずねた。
「どなたの仕事でしょうか」
「作家のドストエフスキーです」先生は、答えられた。「仕事全体で50ルーブル払うということですが」
「やらせてください!」彼女は、即、承諾した。
 文学好きの若い女性が、ある日、いきなり当時の大流行作家で、自分でも作品ファンである、そんな雲の上の人の仕事を頼まれたら・・・
 アンナは、回想記のなかで、そのときの感動をこう書いている。

・・・・ドストエフスキーの名は、わたしには子どものころから親しいものだった。彼はわたしの父の好きな作家だった。わたし自身もその作品に夢中になって、『死の家の記録』に涙を流したものだ。すぐれた作家と知合いになれるばかりか、その仕事まで手伝うことになると思うと、わたしはすっかり興奮して、うれしくてならなかった。・・・

 1866年10月4日、午前11時30分。ストリャールヌイ横丁、マーラヤ・メシチャンスカヤ通りの角、アローキンの家、13号。この住所にある家を一人の娘が訪ねた。この時代のロシアで女性の職業は、どんなものがあったか。売春、女中、愛人など、作品に登場する職業は、決してめぐまれたものとはいえない。そんな時代にあって自立した職業婦人を目指すアンナは、進んだ考えの持ち主だったといえる。その点では、ロシアではじめて職業作家を目指したドストエフスキーと共通するところがある。(似たもの夫婦だったのだ。)
 前夜、アンナは大作家の仕事を手伝う、という興奮と不安から、ドストエフスキーのことをあれこれ想像した。「ふとって頭のはげた老人・・・背が高く痩せた・・・きびしく陰気な人・・・とても教養のある賢明な人・・・」どんなふうに話したらいいのか。はじめてドストエフスキーの家に入ったアンナは、女中に案内された食堂のようすをこう書いている。

 部屋のようすはかなり質素で、ちいさなじゅうたんをかけた大きなトランクが二つか壁にそって置いてあった。窓ぎわには白い編んだ覆いのかかった整理だんすがあった、もう一方の壁にはソファが寄せかけてあり、その上のほうには掛時計がかかっていた。

 二分もすると、突然、ドストエフスキーが現れて、「書斎に通るように」と言って、すぐに出ていった。はじてドストエフスキーに会ったアンナの印象は・・・・・・・



プレイバック読書会


 あの時代、『賭博者』は、どう読まれたか。31年前の1975年、22年前の1984年の読書会から。一サイクル目と二サイクル目の読書会を振り返ってみた。

☆31年前の読書会 No.36「ドストエーフスキイの会 会報」1975.3.24
          
『賭博者』〜あのとき、もし・・・〜

谷山啓子

 池袋の「コンサートホール」という喫茶店の三階を使っての二度目の読書会で、9名くらい集った。「賭博」については、あまり関わりのない人ばかりだったせいか、ドストエフスキイとだぶったこの作中の「私」の賭博熱には、「気ちがいめいている」等と、ごく客観的な皆の言葉だった。賭博をするものの態度として「ここでは勝負が二種類に分かれていて、一は紳士風とされ、他は平民風、すなわち物欲を主とした一般有象無象のやり口である。紳士は〜断じて儲けそのものに興味をもってはならない。〜本当の紳士というものは、たとえ自分の全財産を賭博で負けてしまっても興奮などすべきではない。〜有象無象は、事実まったく穢い勝負の仕方をする」という二つがあって、この主人公はもちろん「平民風」に、身も心も打ち震えながら一か八かと、一喜一憂、必死の思いで賭ける。私は「タロット占い」でカードをくって、たまに「物質にこだわる」とでていくるとギョッとする。感情を大切にして、純なる精神葛藤の状態でいたいのに、者にこだわっているため澄んだ心で自然に行動できないのじゃあないかと、不安に落ち込むからだ。「〜ドイツの家で代々遺産を守り、ふやしていくことを目標に家族全体が生きていった結果は、ロスチャイルド男爵など〜が出現する。」と主人公がいっているが、これは、日本の家父長制で家を守っていく感覚にぴったしである。このドイツ式の正直な労働による貯蓄の方法に対する、ロシア人の富の獲得への無能力と、無暗やたらに不体裁なくらい金を浪費するという話を続ける。問題の70歳の祖母のルーレットにおける熱狂ぶりは、、まさにそのロシア人気質のエキスである。フランス貴族の小説のように、遺産が転がり込んできて、それが恋愛続行の資本になり、めでたく美しく話が流れていくのではなく、死ぬ寸前のはずの老女がひっこり、親戚の前に姿をあらわし、皆が指をくわえて当てにしている金を、目の前でじゃんじゃん賭博でなくしてしまうのだ。連中、青色吐息、顔色を変えて止めようとするのに、「ええじれったい、どんどんお賭け、うるさいね、私のお金だよ。」と熱狂しているエネルギッシュな彼女は、「自分が死ぬと思っていたのだろう、残念だったね。」といいながらも、全くその俗意を憎んだりするようなことのないスケールの大きさが、我々読者をカタールシスへさそうのだ。主人公が賭博を始めるきっかけはポリーナの命令だし、恋の奴隷なのだが、彼女を自分の部屋に残して賭博場で奮戦し、大金をわしづかみにしてもどってきた彼を見てポリーナはがっかりしただろう。彼の顔は、賭けそのものに熱中し陶酔していて、彼女に対する熱情がまるで分裂してしまっていたからだ。彼女があざけりながら、彼に金をたたきつけるのもむりはない。主人公はこれがきっかけで、生粋の賭博者となるからだ。血の気も失せながら、くちびるを震わせ、目をギラギラさせながら、ルーレットをみつめる彼は、彼女から受けていた自虐的な自尊心屈辱の快楽を、ルーレットにおける一瞬一瞬の、「元も子も無くす」というスリルと興奮の快楽に置きかえてしまったのだ。「賭け事」にもいろいろある。パチンコ、マージャン、競輪、競馬などと。私の少ないパチンコ経験では、玉の入るのは、その台の決まったチューリップであるような気がする。この物語でも、同じ「0」や「赤」が続けて何回も出ることに賭けて、勝ったりしている。つい最近、場外馬券を人に頼んで千円だけ買ってもらったら、それが3600円になって戻ってきた。ロングホークとカブラャオーという馬だった。これは堅実な走りをすることで人気があり、多くの人が賭けるので、配当金は少ないうちだということだった。でも、百万円賭けていたら、360万円はいったし、1千万円賭けていたら、三千六百万円戻ってきたのにと勘定してみる危険な私。


22年前の読書会  No.87「ドストエーフスキイの会 会報」1984.8.4
          
『賭博者』ポリーナは亡きマリアか

奥野武久

 『地下室の手記』の後『罪と罰』を連載中の1866年に書かれた『賭博者』は作品の位置から見て賭博をめぐってヨーロッパとロシアの問題と西欧近代批判を浮かび上がらせた小説とも読めるが、(実際それは見事に描けている)僕には地下室での恋愛を描いた作品に思える。恋愛小説と読むと全体の雰囲気がジッドが『背徳者』の後に書いた『狭き門』と似てなくもない。渦の中と外、前と後、地下室も恋愛もルーレットも同じ様なものだろう。中に居れば全てが不明確で予想もつかない。ルーレットに熱中すれば勝負に負け、恋に恋するものはその相手を失う。互いに近づこうとするする努力と熱意がお互いを遠ざける。アレクセイにとってアレクセイがそう思い込んでいる主人であるポリーナの秘密(実際そんなものは無いのだが)を知る事は自分の置かれた運命(地下室)の謎を解く鍵でもある。ルーレットに勝つ方法を発見すれば楽に勝負に勝てるという訳だ。アレクセイにとってのポリーナのわからなさはポリーナにとってのアレクセイのわからなさでもありそしてその間にはデ・グリューとブランシュが居て互いを見えなくしている。もしこのわからなさに違いがあるとしたら地下室と地上との違いだろう。それはアレクセイがライバルだと思っているポリーナの使いのミスター・アストリーとの最後の対面で彼がロシア人に関して辛辣で性急な為アレクセイをとらえそこなっている様に。だがアレクセイも又自分自身を誤解している。これはある程度当時のドストエフスキーの精神的位置と置かれていたジレンマを現しているかもしれない。地下室の渦は全てを巻き込むだろう。ちょうどロシアの祖母さんの賭博への情熱が将軍とブランシュの結婚をぶち壊してしまう様に。又アレクセイのポリーナへの不可解な情熱はポリーナを不可解な行動に駆り立てる。何故ならそれがポリーナにとってはアレクセイとの関係を持続させる手段であるからだ。だがこのかけ引きもアレクセイがポリーナの為に賭博で金を儲けて帰ってきた場面、その渦の極北で破局を迎える。アレクセイは何もわかっていなかった。そしてひとつの渦が終わる。この情熱的な女ポリーナにとって誤解しながら近づくことが互いを遠ざけるならば立ち去るのが共に在ることの方を選ぶだろう。これが地下室の払う代価だ。アレクセイの地下室の渦の中からもう一度地上にもどる試みは失敗に終わる。だが13章以降のアレクセイの渦への印象の変化と賭博に熱中していながらそうでない自分を見る事は別な何かを語っている。アレクセイはミスター・アストリーとの最後の出逢いでポリーナが自分を愛していた(いる)のを知らされ又新しい旋風の渦中に在るのを知らされる。だがポリーナの愛の告白で渦の支配者はポリーナではなくなる。アレクセイには初めと違ってポリーナの秘密が謎なのではもうなく彼女の運命なのだ。アレクセイの流す涙はそれを語っている。地下室から地上に戻るのではなく地下室の意味が変わるのだ。そこはもう地下室ではない。最後のアレクセイの行動やミスター・アストリーの予言に反してアレクセイが賭博に熱中する事はもうないだろう。
 『賭博者』の謎解きが『罪と罰』等の重層的作品への転機と後に描かれる作品の女性像の変化に繋がっているのかもしれない。そして『白痴』のナスターシャで視点を変えてもう一度描かれている様に思う。おそらくドストエフスキーにはソーニャの様な女性とそうではない女性といった像があるのではあるまい。このポリーナという女性にモデルがあるとしたら死んだ初めの妻のマリヤでアポリナーリャ・ススロワはブラッシュのモデルの様な気がする。ドストエフスキーは『賭博者』を執筆していた頃兄ミハイルの死や兄の負債の整理等相変わらず渦の中にあった訳だがこの作品を口述で後の妻になるアンナと共に仕上げその仕事をすすめるうちにアンナを愛するようになったという。部屋の中をぐるぐる歩きながらドストエフスキーはどんな気持だったのだろう。もしかしたらドストエフスキーは約束の期限ともうひとつの危機を脱したのかもしれない。それでいいのだ。渦の中と外、いや内と外。





10・14読書会報告


『罪と罰』3回目読書会

 10月14日(土)に開かれた読書会は、18名の参加者がありました


『オイディプス王』と『罪と罰』の類似性についてを報告

 岡野秀彦さんは、『オイディプス王』と『罪と罰』の類似性はストーリーよりむしろプロットにみられるとし、その「罪」と「罰」の相互関係について言及された。
 これまで『罪と罰』報告は、より現代性に引き寄せての検証が多かった。それだけに、ギリシャ悲劇に着目しての読みは、ある意味で斬新な見方・分析ともいえた。
 ラスコーリニコフは、マルメラードフ一家によって活性化されている。こうした捉え方はこれまでになかった読みとして興味深いものがあった。
 質疑応答では、カチェリーナ、マルメラードフの「罪と罰」についても活発な議論がありました。二次会、三次会も大いに盛り上がりました。

以下は報告資料の紹介です。(題字、項目のみ)

ギリシャ悲劇について
・ギリシャ的世界観 ・コロス主体の「悲劇」以前―文学の起源 ・エウリビデスと「悲劇」以後―文学の現在 ・アイスキュロスが訳者を2名にし、「悲劇」を創始する。・ソポクレスが訳者を3名にし、コロスを12名から15名に増やす。
『オイディプス王』あらすじ
 テバイ王ライオスは人倫にも悖る行為を犯し、「その子によって殺される」と呪いを受けた。にもかかわらず妻イオカステとの間に男子をもうけたライオスは、赤子の踝を留金で貫き山奥に捨てよと牧人に託した。十数年後、旅先でライオスが殺害された直後から、テバイはスフィンクスに襲われた。「二本足であり、三本足であり、四本足である者。それは人間である」とスフィンクスの問いに答えた青年が、新たな王として迎えられた。青年の名は「オイディプス(腫れた足)」といった。『オイディプス王』は、それからさらに十数年後の物語である。
『コロノスのオイディプス』あらすじ
『オイディプス王』の事件から、おそらく二十年ほど後、娘アンティゴネーと共に諸国を流浪するオイディプスはアテナイ郊外コロノスの地に辿り着く。二人が足をとめた森は、復讐の女神の神域であった。オイディプスは、この地こそ神により定められた落ち着く場所であるという。神に呪われた者は神域に立ち入ってはならない、と土地の老人たちに追い払われそうになるが、オイディプスは従わない。同情的なコロスに、本当に自分の「罪」は罪といえるのかと問う。この地の領主がアテナイの王テセウスであることを知ったオイディプスは王に伝えることがあると言う。
 そこへもう一人の娘イスメネがやって来る。オイディプスの二人の息子が相争そい、テバイが存亡の危機にあることを告げにきたのだ。…最期の時が来た。徐々に人間離れしてゆくオイディプスを呼ぶ神の声がする。オイディプスは昇天し、以後アテナイの守護者となる。



「ドストエーフスキイの会」情報


第177回例会・ 26名参加
 
 2006年11月18日(土)午後6時〜9時00分 原宿・千駄ヶ谷区民会館で第177回例会が開かれ、下原が「団塊世代とドストエフスキー」を報告した。司会は福井勝也氏。参加者は26名と盛況でした。二次会も、16名参加で賑やかでした。会場は居酒屋「さくら水産」。

団塊世代とドストエフスキー
なぜ柳の下にドジョウは何匹もいるか
「なぜ、柳の下にドジョウは何匹もいるのか」は、二次会あとのドストエフスキー談議で耳にしたことをヒントにした副題。〈柳の下にいつも泥鰌は居らぬ〉のはず。が、ドストエフスキーに限って、二匹どころか何匹でもいる。それは、なぜか?ということである。
ドストエフスキーの出版物を検索すると、確かにその多さがわかる。この作家の本だけが突出している。暗い、長い、くどいといわれて敬遠されているのに、何故にこんなに多くの出版物があるのか。改めて考えれば大いに不思議に思うところである。今回の報告は、その疑問を団塊世代の立場から考察してみたもの。

世代間の協力を得た画期的な報告

 ドストエフスキーという柳の下にドジョウは尽きない。この現象をどう捉えるか。
 報告は以下の項目に沿って発表された。なお、引用部分は、会員の近藤靖宏さんの協力を得た。これまでになかった報告形式だった。「近藤さんには、この場をお借りして厚くお礼もうしあげます」下原。

1.「団塊世代とドストエフスキー」&副題について
 団塊世代のドストエフスキー好き(あるいは派)たちは、どのような時代と思考に影響されたのか。800万人いるといわれる団塊世代、一括りにするのは難しい。47年1月3日生まれの私の場合は70年前後に集約される。まだ、ドストエフスキーを知らなかったが、あの時代はドストエフスキーに憑かれる土壌となりえた。
2.ドストエフスキーのススメ、「ドストエーフスキイの会」発足
3.団塊世代とは何か 1965年〜1975年 団塊世代の青春=ドストエフスキー
 あの時代、65年にベトナム戦争勃発、67年に革命の英雄ゲバラが死す、68年に学園紛争の火の手や三億円事件、70年3月に「よど号」事件、11月に三島事件。72年浅間山荘事件で陰惨な仲間同士リンチ事件発覚。団塊世代の青春は、過激と衝撃、そして懐疑に満ちた時代だった。理想と現実の混濁。若者は翻弄され諦めと悲劇の道を辿った。この波瀾の時代にドストエフスキーは多く読まれた。ちなみに会が発足したのは、この頃1969年のことである。はじめて参加した例会は、立ち見ができるほど熱気があった。水晶宮への憧れ。革命の嵐、非凡人や英雄主義の台頭、金権が支配する社会。世界はドストエフスキーが予見し警鐘した現実にあった。1922年革命最中のモスクワで開かれたドストエフスキー生誕百年祭でペレヴェルゼフは「現下においてこそ、ドストエフスキーを想起し」(『ドストエフスキーと革命』長瀬隆訳)再読しなければならないと訴えた。
4.精神=ドストエフスキーと柔道
  団塊世代の青春はドストエフスキーを示唆する出来事で溢れていた。私の場合、体験に後押ししたのは精神としての柔道である。報告では、「柔道」と柔道のーロー「姿三四郎とドストエフスキー」の関係も明らかにしたい。
4.まとめ なぜ団塊世代はドストエフスキーを読んだか。ポリフォニック
団塊世代の青春=現代の青春=世界情勢




連 載        

日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー(続編)
−「ドストエフスキー体験」をめぐる群像−
                   
(第7回)清水正氏の『ドストエフスキー体験』
                                
福井勝也                  

           
 先日、ある出版パーティーに呼んでいただいた。山下聖美著『ニチゲー力』(三修社)の出版記念のにぎやかな集いで、日大芸術学部という個性的で一味違う大学(学部)を軽妙にPRした新著を頂戴して帰ってきた。著者の指導教授が清水正氏で、パーティーへの招待も氏の配慮によるものであった。氏と私自身のお付き合いは「ドストエーフスキイの会」を通じてということになるが、何より私自身が「会」の例会に初めて参加した時(1978.1)の発表者が氏であって、その時の強烈な印象とともに「会」と自分との繋がりも開始されたと言える。その後折々にお会いし知己を得させて頂いているが、必ずしも氏の良き愛読者とは言えないので、ここに文章を寄せるには心苦しい思いがする。 
 清水正氏の処女出版は、椎名麟三氏の『私のドストエフスキー体験』(1967.教文館)と同様の著書名の『ドストエフスキ−体験』(1971.豊島書房)であったと記憶している。ただし椎名氏の著書がこの時期すでに名を成した作家の文学的出発とその遍歴を語る内容のものであったのに対して、清水氏のそれは、当時日芸の学部生であった氏が自費出版(限定500部)の形でドストエフスキーの四大長編を独白的に論及するもので、本来同列に評価すべきものでないだろう。しかし自分がこの二著書の比較に拘るのは、この時期同じタイトルが明示的に使用されていることの他に、そこに著者の立場の違いを別にしてのドストエフスキー受容の時代的変遷を感じるからである。それは、戦前から戦後のある時期まであった「転向」の問題の行方も気になるが、さらにこの時期の年代記的エポック(=「1968年」)の前後に両著が発行されていることでドストエフスキー文学受容のあり方の違いがそこに現出していると思うからである。そしてその差異を超えて、それが<ドストエフスキー体験>という同一の語彙で表現されなければならなかったことの符合もさらに気になるところだ。
 清水氏の「会」での発表は、先に触れた1978年1月以前では「会」の発足間もない70年6月の第9回例会が最初のものである。演題は「『罪と罰』と私」であって、その発表直後の当時の会報(No.8)で「ドストエフスキーに関する勝手気儘なる饒舌」として発表内容を記されている。この冒頭部分を引用してみる。(以後の引用は、「会報」を分冊化した『場』ドストエ-フスキイの会の記録T-1978.5による)
 「私が先月「罪と罰」と私≠ニいう題で報告したのは、つまり、私≠ニいう余計なものをつけ加えたのにはそれなりの理由があった。それは「罪と罰」という偉大な作品の内容について、分析し、研究者らしきことを述べたからとて、それは無意味であると、常々私は思っていたからである。分析とは徒労であり、愚劣である!と私の内部からの声はそう呟き続けていた。「罪と罰」の最良の研究書は「罪と罰」という小説に他ならない。読者は、納得のいくまで幾度も読んだらいいのである。読めば、何も語ることはないのである。偉大な作品は分析などという小賢しい作業を拒絶する力を持っている。所詮、語ることは愚かなことだ!沈黙し、感動し、そして、その立場にとどまり続けること、これが一番良いことなのである。さらにドストエフスキーの作品は理解されるのを頑強に拒んでいる。彼の作品世界の入場資格者は自己分裂と狂気を明晰に意識した<正常人>のみである。ドストエフスキー作品の持続せる読者とは地下の住人に他なるまい。」
 この後もビックリマークを要所に入れた、前衛詩的な地下室人的モノローグが終わりようのない言葉として<異臭紛々>に続く。そしてまた、清水氏の文章に劣らずに興味深いのは、当日に司会をされた近藤承神子さんという方の例会印象記と著書紹介文だ。途中からの文章を一部引用する。
 「理解するには先ず溺れろと言う言葉があるが、作品世界に埋没して客観を失い全身の力で共感また反撥せざるをえないというところに名作の魔力を知ることができる。ドストエフスキーはその作品の読み手に<体験>という傷跡を刻み込む偉大なる達人である。そこから滲み出る血の色を見て、読者は自分の生の痛みを知る。清水氏にも『ドストエフスキー体験』という著書があるが、これとて、ゲバルト模様に彩りしてあっても、その心は正統派。あたり前の真っ白けなのだ。」「『ドストエフスキー体験』という清水正氏の著書は、清水氏の毒酒痛飲酩酊の克明な記録である。氏は存分に毒酒を傾け<意識の徹底>という<病気>をひきうけている。氏の肉体は既に毒酒そのものを発酵させてもいる。ということは氏がドストエフスキーの作品を生きているということに外ならず、『ドストエフスキー体験』と銘されたこの酒もドストエフスキーの毒酒に劣らぬ絢爛たる猛毒の含有を保証している。」
 やや引用が長くなったが、山下氏が新著で紹介した現在の清水氏のルーツは此処にありということだろう。ここで、ドストエフスキーを論じるというスタイルが『ドストエフスキー体験』と言う言葉にならなければならなかった清水氏の必然性はいくつか考えられる。先ず第一に、氏自身が語っているように、それは従来の「文学研究・評論」というものが担わされてきたものへの反撥であり闘争であったということだ。それは、「文学的アカデミズム・教養主義」への地下室的アカンベー宣言ではなかったか。近藤氏の例会印象記・著書紹介が当時の雰囲気をも伝えていて大変興味深いが、果たして清水氏が当時の「日大闘争」とどう関わられたかは存じ上げないが、いずれにしても無手勝流に見える清水正氏の姿勢は文学的ゲバルト主義と呼べるものではなかったか。そしてその「場」を可能にしたのは、まさに<1968年>をエポックとした「大学解体」後の<市民的>文学サークルである「ドストエーフスキの会」(1969.2発足)であったということか。清水氏の例会への参加者には、氏の激烈な発表スタイルへの反撥があったように報告されているが、実はドストエフスキーの作品を『ドストエフスキー体験』的に語るスタイルは、この時期会に参加してきた人々の間ではそれを好ましいものとするコンセンサスが基本的に成立していたのではなかったか。少なくとも、私が清水氏の次の例会発表として参加した1978年1月の時点頃までは色濃くそんな雰囲気があったと記憶している。だれもが「私のドストエフスキー」を語ろうとしていた。おそらくこの感覚の前提としては、もう一人の『ドストエフスキー体験』者である作家椎名麟三氏を宗教的改心へと導いた実存主義哲学の影響も考えられる。それは、戦後派の「主体論」的論調とも軌を一にしている。さらに指摘可能なのは、例えば清水氏が語る「「罪と罰」の最良の研究書は「罪と罰」という小説に他ならない。読者は、納得のいくまで幾度も読んだらいいのである。読めば、何も語ることはないのである。偉大な作品は分析などという小賢しい作業を拒絶する力を持っている。」という語り口こそ、実はすでにこの時期、ドストエフスキーを語り終えて本居宣長へ評論の対象を移行させていた小林秀雄の戦前からの一貫したドストエフスキー批評の物言いであったということだ。この小林秀雄の語り口こそ、大正教養主義的なものへのアンチとして登場した昭和期のシェストフの哲学的読解を足がかりにして、それを批判する「読み」に徹した一読者としてのものであった。そしてさらにもう一つ触れておきたいのは、「ドストエーフスキの会」を創始した新谷敬三郎氏がミハイル・バフチンの画期的なドストエフスキー論を本邦で初訳したのが<1968年>であったという年代記だ。実は、この新谷氏のドストエフスキー研究者としてのスタイルは、このバフチンの紹介者として基本的に理解可能だが、実はそれ以前に小林秀雄あるいは河上徹太郎などの戦前の仏文学者系のドストエフスキー読みから学んできたことの影響が大きいと考えられる。この様な批評・研究の大きな流れと清水氏のそれとはどのように連続しているのか、いないのか。もう一度、清水正氏の『ドストエフスキー体験』に戻れば、おそらく清水氏のこのスタイルは、基本的に椎名麟三氏が「私の宗教的改心」を語ろうとする私小説的文学風土とも無縁ではないのだろう。それは、明治以降の日本近代文学の言うなれば、オーソドックス(正統派)の系譜にも連なっていよう。もしかしたら、清水氏にも時代に見合った何らかの「転向体験」があったのかもしれない。その意味では、清水氏の『ドストエフスキー体験』は一見、反文学主義・反教養主義に見えながらも実はこの国の文学的風土と伝統に連結していたのかもしれない。しかし同時に、そこには確実に連続してきた「文学」を根底から批判しようとする<1968年>以降のラディカリズムを含んでいたはずだ。それは、端的な言い方をすれば、椎名麟三などの戦後派の「転向」がいくら「転向」を繰り返しても帰るべき「自己」、「主体的な」「人格」を持っていたと考えられるのに対して、清水氏のそれはこの時期、帰るべき「自己」がすでに崩壊し雲散霧消してしまっていたということではないか。このことは、もう一人の文芸評論家の「まさし」、三浦雅士氏が『私という現象』(1981)という評論でその後明示的に語ったことかもしれない。そのタイトルは、清水正氏もドストエフスキーと並立して評論・研究の対象とした宮澤賢治の心象スケッチ『春と修羅』の序の始まりの言葉でもあるのだ。
 「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です。」
 実はこのような前提が<1968年>と言う時期に、ドストエフスキーの作品の「読み」を通して感知されつつ準備されていたのであって、そこに清水氏の『ドストエフスキー体験』が例えば、椎名麟三氏のそれとは本質的に異なる要素として孕まれていたものではなかったか。そこでは、『体験』を語る「私」(=読者)自身が、延々とモノローグする地下室人のように「主体」になることを拒否され、自らもそれを拒否しつづけている姿として浮かびあがっている。   (2006.11.27)   




書 評

昇への興味は尽きない
新聞・図書新聞2575号 2002年3月23日(土) 

和田芳英著『ロシア文学者昇曙夢&芥川龍之介論考』を読む 米田綱路
― 生涯をたどり、膨大な事績を明らかにするとともに、芥川へ及ぼした影響を考察 ―
和泉書院 2001年11月25日発行2500円

 「ロシア文学を日本に紹介した大先輩は二葉亭(四迷)であるが、それより新しいものを紹介した点で昇曙夢はロシア文学とは放すことの出来ない存在であった。ロシア文学が最も日本に影響を与へた時代の初期に於いて、昇曙夢の時代があったと言っていい位に昇曙夢は活躍した」。明治末から大正期にあらわれた「昇曙夢の時代」を、武者小路実篤は、こう述懐した。それはロシア文学、就中アンドレーエフやアルツィバーシェフ、ソログープ、ザイッエフなど、世紀末から1905年革命前後に開花した一群のモダニズム文学を一身で訳出紹介したロシア文学者の存在、その大きさを証す言葉であ。本書は昇曙夢(1878-1958)の80年におよぶ生涯をたどり、その膨大な事績を明らかにするとともに「昇曙夢の時代」が芥川龍之介に及ぼした影響を考察した一書である。
 奄美大島に生まれたの昇曙夢は、上京してニコライ正教神学校に入学、そこでロシア語を修得し、ロシア文学者への道を進むという移植の経歴をたどった。日露戦争と相前後する明治後期、盛んに翻訳され始めたロシア文学作品であったが、そのほとんどが英仏独語からの重訳であり、日本ロシア学の始祖・二葉亭四迷亡き後、その後を襲ってロシア文学の主たる紹介者となったのは昇に他ならなかった。とりわけ彼はこの時期、19世紀文学にとどまらず、20世紀初頭の革命期にいたるモダニズムやシンボリズム、そしてロシア・ルネッサンスと呼ばれる時代の文学作品を精力的に紹介したのであった。
 著者が述べるように「昇曙夢の時代」の背景を探れば、明治末期から大正期に至る文芸思潮の基底には、”もの憂い気分”が立ちこめていた。そこには秋田雨雀のいうロシア文学の「懐疑的低迷時代の影響」が深い影を落としていたのである。雨雀は1939年、当時を顧みてこう述べている。「殊にアンドレイエフ及びアルツイ・バーセフは当時の日本青年の二つの性格を形成させていたとまでいはれたものです」。昇のいうロシアの「都会文学」、すなわち革命の予兆と終末のなかで没落するインテリゲンツィアの孤独と頽廃、厭世とを描いたアンドレーエフらの文学作品は、こうして日本の青年たちを性格づけるほど深甚な影響を及ぼした。のみならず、当時日本に留学していた魯迅にも大きな影響を与え、それは『新青年』ほか中国の文学運動にも流れ込んでゆく。その影にはロシア文学者昇曙夢の存在があった。そして本書で解明されるように、「昇曙夢の時代」の洗礼を直ぐに受けた芥川は、昇訳アン
ドレーェフ作品の影響下に、代表作『羅生門』を生み出すことになるのである。次号へ
                                    情報提供:印鑑工房『愛幸堂」(豊島高士氏)





冊子・『ロシア文学者、昇曙夢のソ連観』―昭和4年の講演資料紹介―
      「最近ロシヤ事情」刊行にあたり   陸軍士官学校教授 昇 直隆 

 革命以後における露国の実情については何人も知らんと欲するところである。昇氏はつとに露国文学の権威として知られ、露国の実情に通じること何人もその右に出るものは無いと称せられる。ことに最近彼地へ赴き親しく精到なる視察を遂げて帰朝せらるるや財団法人皇民会においては本年4月9日同氏を招聘して一席の講話筆記をパンフレットにして公にせらるるを聞き、特に同会にこふて本会よりもこれを教科資料の一遍として刊行することとした。

最近ロシア事情 (ドイツ・ドキュメンタリー、BBCから)
 
 テレビニュースや新聞で知る最近のロシア事情は、芳しからぬ出来事が多い。先日「ロシア刑務所事情の罪と罰」こんなタイトルのドイツ製作ドキュメンタリーを見た。ロシアの刑務所には、本当のプロの犯罪者は一人もいない。彼らは逮捕されないし、されても賄賂を使って、すぐに自由になってしまうという。だから刑務所にいるのは、金も組織もない生活のために盗みをした微罪の犯罪者ばかりという。子豚を2匹盗んで4年の実刑。警察は、検挙率を上げるために、無実の人を罪人に仕立てている。裁判官も正しい判決をした裁判官は、辞めさせられる羽目になる。なんともひどい証言ばかりだ。
 他にロシアに関連した、こんな事件もあった。この11月23日、ロンドンで一人の亡命ロシア人が死亡した。死因について衝撃的なニュースが世界を駆けめぐった。新聞各紙・BBCニュースなどによれば亡くなった人はアレクサンドル・リトビネンコ氏43歳。この人物の死が大きく報じられたのは、謎の死因と身元紹介である。身元は、旧ソ連邦諜報機関「国家保安委員会(KGB)の後継機関である露連邦保安局(FGB)の元中佐。早い話、元スパイ。プーチン現大統領のかつての同僚である。死因は当初変死だったが、その後ポロニウム210と判明した。このポロニウムは放射性物質で高度の科学知識と設備ができなければ絶対にできない物質とのこと。(下記参照)22日死亡で、23日には尿から死因の物質を検出している。英政府は24日、ジョン・リード内相主催で国家緊急治安特別閣議を開催、事件への対応を協議した。同時に、英健康保険局(HPA)は、被害者故人の汗など分泌物に接した人は、同物質が体内に入り健康をそこねる恐れがあると判断し、病院の医師、看護婦など、十数人を対象に健康調査に乗り出した。今回、死因が放射性物質ということから英政府は、すばやい対応をみせた。駐英ロシア大使を呼び「深刻な事件」であるとの認識を伝え、露政府が捜査に必要な情報を提供するよう要請した。関係者は、ロシア国家の関与を疑っているようだ。社会主義体制が崩壊して十数年。なかなか体質は、かわらないようである。
 1989年のベルリンの壁撤去、1991年のソ連邦崩壊のとき囁かれたのは、これでスパイ小説は終わり、ということだった。1945年に第二次世界大戦が終わり、1961年に東側の手によりベルリンの壁が構築されてからスパイ小説や映画は、花形だった。『寒い国から来たスパイ』やイアン・フレミング『007シリーズ』など、沢山のスパイ小説や映画が流行った。ところが、ソ連邦解体により東西冷戦は終わった。それによりスパイ作品も終わったかのように思えた。しかし、スパイ合戦はまだつづいていたのだ。
 今回の暗殺の背景は、この秋、10月モスクワで一人の女性ジャーナリストが自宅エレベーターで射殺された。彼女はチェチェン紛争とマフィア問題を扱っていた。毒殺された元スパイ氏は、この射殺事件の真相を追っていたという。彼は、これまでに国家保安委員(FSB)や当時長官だったプーチン大統領の陰謀や犯罪などとを告白していて、自身も命を狙われる身だったらしい。とすると、これまでのスパイものとは違うようだ・・・。
ポロニウム:1898年にキューリー夫妻が発見した元素(放射性物質)。自然界に7種類の同位元素がありポロニウム210は最初に見つかった。当時、帝政ロシアの支配下にあった夫人の故郷ポーランドにちなんで命名された。原子番号は84、ウランとともに産出するが含有量はごくわずか。人体への毒性が非常に強く、放射能もウランの300倍。ポロニウム210は人工的に作り出して、放射能源として使われる。    
                                   



広 場

読書

『死と生をめぐる思索』を読んで   (編集室)
香原志勢(こうはら・ゆきなり)著 清流出版 2006・2・26
 
 1960年代末、ベトナム戦争激戦の最中、東京の立川周辺では妙なアルバイトの噂がまことしやかに囁かれていた。ベトナムで戦死した米兵の遺体を洗うバイトで高額だという。多分にそのころ読まれた小説の影響かもしれないが、著者は、怒りをもって噂や小説が根も葉もないことだと断言する。アメリカ人にとって戦場で死んだ兵士の遺体は神聖なもの、日本人が差別を感じるほどに遺体との距離はあったと。それほどにアメリカ人は遺体を大切に扱うのだ。初めて知ったがエンバーマー(遺体整復師)という職業が存在するという。この仕事は、解剖学、人類学、薬学、プラスチック工学など高い知識と技量の専門教育を最低2年間は必要とされる。現在、米国各地に、このエンバーミング・スクール(葬儀科学大学)は5校あるという。映画『ゴットファーザー』の1場面で、葬儀屋に蹴られて破損した長男の射殺顔を元通りに直してくれと頼むシーンがある。なんとなく観流してしまうが、米国人には、かなり重要な場面であったのだ。
 本書は、大学院で人類学を学んでいた著者が、朝鮮戦争で死亡した兵士の修復の仕事を日本政府から依頼されるところからはじまる。それがきっかけで、著者は、多くの人間の死とめぐり合うことになる。人間は必ず死ぬ。いつ、どこで、どんなふうに――それはわからないが、必ず死ぬ。多くの他者の遺体を前に人類学者は哲学者になるしかなかった。だが、本書の根幹にあるのは、著者自身の運命の因縁に対する悲痛な叫びである。はじめて目にした遺体。それは防空壕のなかでまる焦げになった母親と妹だった。そして、人生のたそがれに目にしたのは、なんと交通事故死した息子の遺体だった。なんと残酷な、なんと皮肉な運命だろうか。大きな深い悲しみを抑えて、著者は、この不条理をまるでそれが自身に課せられた天命だったかのように、宇宙の法則であるかのように受けとめ静かに語る。それが救いとなっている。感銘の書である。(編集室)




映画

ルキノ・ビスコンティ監督『ルートヴィヒ』     
衛星第2 1980年イタリア・西ドイツ・フランス合作

 ビスコンテイ監督の映画が、先日連夜放映された。11月23日の長い夜、『ルードウィヒ、神々の黄昏』を観た。夜8時から零時まで4時間の大作である。この映画は、1972年公開当時、その長さのため1時間余りカットされたが、今回放映されたのは、監督死後にスタッ
フの手で復元した完全版もの。新聞には、こう紹介されていた。
 18歳でバイエルン国王として即位し、40歳で謎の死を遂げた「ババリアの狂王」ルードヴィヒ2世。その生涯を、いとこエリザベートへの実らぬ愛や、作曲家ワーグナーとの交流を通して描く。(読売)
 ビスコンティ監督の映画は、総じてドストエフスキー的であり、作中人物を彷彿させるものが多い。前々回の『夏の嵐』は、19世紀のベネチアを舞台に、オーストリア占領軍の青年将校と伯爵夫人の愛の顛末を描いた作品だが、観終わった印象は、まさにドストエフスキーである。しかし、前夜の『白夜』はドストエフスキーを想起しなかった。さすがのビスコンティも原作となると料理に苦心するらしい。『ルートヴィヒ』は、『白痴』や他作品を連想した。直接でない分、黒澤を超えるものがあると思った。(編集室)




新 刊

高橋誠一郎著『司馬遼太郎と時代小説』
乱世における「天下布武」と「テロリズム」の問題を考える
のべる出版 コスモヒルズ発売 2006・12・1 1900+税

 司馬遼太郎とドストエフスキーについて長年、その関係を考察・検証しつづけている高橋誠一郎氏が今回、新たに、本を出されました。司馬の時代小説のなかに何を読み解くか。いかに現代を見るか。

 忍者小説から『功名が辻』にいたる時代小説を「列伝」的な手法で読み、秦の始皇帝やナポレオンと比較しながら、日本の戦国時代の「英雄」を世界史的な広い視野で描いた司馬作品の魅力に迫る。さらに、単語の「二義性」に注目しながら読み解くことで、「英雄」による「鬼退治」という中世的な歴史認識への鋭い批判を秘めた「司馬史観」の現代性を明らかにする。
描く。


画・北岡淳也水墨で描くドストエフスキー

 いま定年後の人生が注目されています。俳諧を極めようとする人、ドストエフスキーに再度挑戦する人など皆さん様々です。読書会常連参加者の北岡淳也さんは、水墨画をはじめられました。これまでに日中友好会館美術館で開催された展覧会に出品するなど、活躍されています。新たな試みとして水墨で描くドストエフスキーに挑戦しているそうです。コピーですが作品を紹介します。上・ラスコーリニコフの斧(刃に赤い血)。下・富士山頂に浮かぶ十字架(ピンクの空と黄金の十字架)カラーでないのが残念。




掲示板

☆ 雑誌・『江古田文学62』特集「チェーホフの現在」
  星雲社 2006年7月31日発行 

☆ 雑誌・別冊國文学『ギャンブル』學燈社 2006年10月20日発行 定価1575円
   下原敏彦「ドストエフスキーとギャンブル」



編集室

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