ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.91  発行:2005.8.1


盛夏の候、読書会の皆様には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。

第210回8月暑気払い読書会大会のお知らせ

8月読書会祭は午前9時30分開催となります。ご注意ください!

月 日 : 2005年8月13日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 催 : 午前9時30分〜12時00分(詩朗読・時間延長有り)
題 目  : 小山田二郎 とドストエフスキー        
報告者 : 福井勝也氏

☆「小山田二郎とドストエフスキー」報告+詩の朗読も予定しています。
朗 読・ドストエーフスキイのプーシキン講演 (10分〜15分)
レールモントフ(私は一人道に出る・・・)他
朗読者・小林銀河氏
 
会  費 : 1000円(学生500円)

※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

◎ 午後から同会場でド会の『広場No.14』の合評会です。

※ 論文と論評者は、7頁の第170回例会の案内にあります。
時 間 : 午後2時00分〜5時00分
二次会 : 5時30分頃から 会費3〜4千円




小山田二郎とドストエフスキー
     

 福井勝也
                              

 小山田二郎の絵画には、見る者を震撼とさせ、その世界に誘い込む魔力が潜んでいる。今回の東京駅ステーションギャラリーの回顧展(5/28〜7/3)で初めて小山田絵画に触れた人々の間にも「小山田ワールド」に魅了されたとする声があがっている。(ちなみに、現在インターネットで<小山田二郎>と入力してみるとかなりのヒット数があり、若い世代を含む多くの人々への小山田芸術の浸透が実感できてうれしい。)

 自分がはじめて小山田二郎の絵画に触れたのは、今からほぼ26年前の秋のことだった。大作「ピエタ」(1955)とのいきなりの遭遇であった。「ピエタ」は、会で知り合って間もない小山田チカエさんご自宅の二階寝室小部屋の壁面いっぱいに架けられていて、その圧倒的な存在感に仰天させられた感覚を今でも思い出すことができる。その時、それまで抱いていた「絵画」というもののイメージが変質させられてゆく予感とともに小山田二郎の芸術世界が僕の前に開かれたのだった。すぐその後、油絵の大作とは異質な独特の透明感が漂う多くの水彩画の世界に魅せられて、芸術家としての小山田個人への関心をさらに膨らませながら、いつかその絵画世界の特別な意味について語ってみたいと思ってきた。実は、この小山田二郎の絵画に初めて触れた時期こそ、自分がドストエフスキーの文学の世界に傾倒していった時期とも丁度重なっている。いわば僕は、ドストエフスキーに導かれて「小山田ワールド」に入り込むことになったとも言えるし、逆に小山田の絵画に刺激されてドストエフスキーの小説を味読してきたとも言えるのだ。

 今、自分が関心を持っている言葉に「ドストエフスキー体験」というタームがある。このことは昨年例会で「日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー」という主題で触れたことでもある。僕が拘りを持ったのは、日本近代文学におけるドストエフスキー受容のその独自な偏差の在り方の問題であった。そしてこの「偏差」が、「ドストエフスキー体験」という言葉を生み出してきたのだと思う。果たして、外国文学を受容する影響関係の中で特定の作家の固有名に「体験」という言葉を接続させる語彙の使い方が諸外国にあったろうか。これについては大正期から昭和の戦前・戦後を含めて、色濃くこの時代の情況が反映されている。例えばこの言葉は、日本文学がこの時期に生み出した独自な文学形式としての「私小説」的な、「文学」を特権化する土壌から派生して来ていないか。元来、個別的でしかあり得ない文学的な感動を「体験」と形容し、さらに狭い文学ギルド内で権威的に通用させてゆく語彙として成立してきた。このことは、おそらく戦後も70年代半ば頃まで続いた。そしてこの言葉が消えた頃、日本近代文学も<終焉>したのだと思う。

 実は今回、小山田の絵画に何度目か巡り会って、改めてこの言葉の意味を考えながら小山田の芸術表現の特徴について論じたくなった。直感的に言えば、小山田はこの日本的受容の回路から、何故か巧みに逃れながらドストエフスキーを経験してきたのではないか。

 小山田の年譜を見ると、自由に絵が描けない戦時下の状況にあって、ドストエフスキーやロートレアモンの文学に深く沈潜することで時を稼いだらしい。この時期、他の多数の画家達は「戦争絵画」を描いた。小山田にはその形跡が見当たらない。別にそのこと自体を特別に評価するつもりはない。僕が問題にしたいのは、小山田二郎のドストエフスキー血肉化の内実である。勿論、そんなことは論じきれるものでない。結局は彼の絵について語るだけで良いはずある。それは僕の「小山田二郎体験」だと言ったら果たして背理か?(了)


紹介  異形の幻視力小山田二郎展

小山田二郎展は、2005年5月28日(土) 〜 7月3日(日)まで東京駅の東京ステ
ーションギャラリーで開催されました。以下は、パンフレッドの紹介文である。


 小山田二郎(1914-1991)は幼い頃に親戚の日本画家・小堀鞆音(ともと)に透明水彩を学び、父親の反対に合いながらも画家を志望、1934年、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)図案科に入学しました。途中から西洋画科へ転入するものの父親の仕送りを絶たれ中退。その後は流転の生活の中、独立美術協会展や美術文化協会展に出品。戦時体制下はシュルレアリスム弾圧があり一時絵画に絶望をしますが、戦後、再び画家として立つことを決意し自由美術展を中心に発表しました。1952年、瀧口修造の推薦によりタケミヤ画廊で個展を開催し高い評価を受けます。1959年に団体展に疑問を持ち、自由美術家協会を脱退。以後は画廊での個展を中心に作品を発表しました。
 1971年以降は友人にも居場所を知らせずそれまでの家族を残して失踪、社会との関係を画廊に送る作品のみに限るようになります。1991年7月の死も、多くの人は翌年の新聞記事「ひっそりと去った異才―小山田二郎という画家」(針生一郎)で知ることになります。
 小山田は自身の身体的特徴と失踪という事件により社会から隔絶することを余儀なくされ、関心は心の内側に向かい、記憶の中の幻想や内面の小宇宙を描きました。その独特の攻撃的・自虐的な造型感覚と表現力は観る人の心を鷲掴みにし、鮮烈で衝撃的な印象を与えます。本展は日本の戦後美術史の中で50―60代を代表する画家として、またそれを越える普遍性を持った画家として、本来与えられてしかるべき位置付けを再確認しようとする回顧展です。油彩画38点と水彩画77点、スケッチ資料を展示します。

確かではないが、小山田二郎氏がドストエーフスキイを愛読していたという話をどこかで聞いたことがある。もし事実なら、その感覚を画集『小山田二郎展』の文や絵のなかから感じとることができるだろうか。


自画像についてのノート(画集『小山田二郎展』より抜粋)  小山田二郎

 
  画家が時おり描く他人の肖像画や群像等の一部に、その描いた画家の風貌を髣髴とさせるような表情を見出すことがままある。例えばレオナルド・ダヴィンチの描いた「モナ・リザ」の肖像画には、どこか自画像におけるレオナルドの風貌を思わせる影が漂っているような気がするのである。/また、ピカソの描いた数々の婦人像や、サントール、道化等には、写真で見覚えのある彼の風貌を、女性に仕立てたり、道化やサントールに仕立てたとしか思えない程、よく似通った眼に出会うことがある。大きく見開かれた知的な眼、そしてどこか情恣的なものを感じさせる眼でもある。/。☆/ゴッホの描いた自画像のなかで、ひかれている一つのタッチは虚偽である。だがこの非現実の一つ一つのタッチが働き合い、混然とし、集約されて全体になる時、ゴッホの現実は心理のヒダで深い溝をつくって、真実そのものをつきつけるのである。☆現代における自画像は、かつての時代に試みられた鏡によって己の姿体を着実に似せることを目的としていたものから、徐々に形の解体を通して豹変してきたようである。それは社会変革と、戦争と、それに伴う時代意識の結合から生まれた精神のカタストローフとみることもできようが、一方、旧世代に対する果敢な抵抗と、それを乗り越えてさらに新たなる美意識を再創造することによって、虚無から真実を奪回しようとする野望のあらわれでもあった。/。☆このような奇妙な季節のある朝、ふと目を覚ましてみると、不安と恐怖に戦慄いたおかげで、己の姿が毒虫に変わっていて、獣のような怒号を発してのたうち廻っている人がいる。その人は健康で五年間一度も病気で勤務を怠ったことがない。ああ、その人の名はグレゴール・ザムザ氏というのである。
 今日、巷の中に、この人の自画像が、ポスターになって、電柱といわず、壁といわず、所かまわずはりめぐらされている。(『美術手帳』1958年4月号・第140号)




8・13暑気払い読書会祭・朗読

 2005年の、暑気払い読書会祭は福井勝也氏が「小山田二郎とドストエフスキー」を報告します。また、小林銀河氏が詩をロシア語朗読します。朗読は、ドストエーフスキイのプーシキン講演におけるものか、レールモントフ「私は一人旅にでる・・・」を予定。
 
ドキュメント「プーシキン祭」

1799年、プーシキン生まれる。
1820年、不穏な詩を書くということでシベリア送りが決まるが、才能をおしむ人たちのと
りなしで南ロシアに追放。4年間をキシニョーフ、オデッサなどで過す。
1825年、デカブリストの反乱。

1837年、ドストエーフスキイ(16)にとって悲しむべき年となった。
1836年秋から、わが家には深い悲しみの気配が立ちこめた。秋になって母が重い病の床についたのだ……2月末、医者たちはいろいろと手を尽くしたが効果がなかった。間もなく悲しい別れとなるだろう、と父に告げた。(弟アンドレーの『回想』)

1837年、 1月29日午後2時45分 プーシキンの訃報「ロシアの廃兵」紙
わが国の詩の太陽は没した。プーシキンが世を去った。人生の盛り、その偉大なる活躍の道半ばにして斃れた!…これ以上語る力はわれらにはない。いや語る要もない。すべてのロシア人の心は、この取り返しのつかぬ損失の大いなる値を知っている。そしてすべてのロシア人の胸は引き裂かれることであろう。プーシキン!われらが詩人!われらが喜び、わが国民の誉れ!…プーシキンがもはやこの世にいない。それは本当だろうか?…いつまでたってもそうは思えないのだ!
     
2月27日午前6時過ぎ
母マリヤ・フョードロヴナ死亡(37歳)
墓碑銘を何とするか、父は兄たちに任せた。二人は、名前と生没の日を彫るだけにして、碑の裏側にカラムジンから採った言葉を彫ることにした…「愛しきむくろよ、安らけくあれ、喜びの朝まで…」

プーシキンの死の知らせがわが家に届いたのは、母の葬儀が終わってからであった。覚えているが、兄たちはこの訃報と、死をめぐる詳報を耳にして、ほとんど気も狂わんばかりであった。次兄フョードルは長兄と話しながら、もし身内の喪ということがなかったら、プーシキンのために喪に服することをお父さんにお願いでるのだが、と何度も言っていた。(弟アンドレーの『回想』)

1880年
4月、ロシア文学愛好者協会から「プーシキン記念祭」招待と講演依頼。スラブ慈善協会代表としての列席が決まる。
5月23日、モスクワ着。
6月6日、プーシキン記念祭、晩餐会で「ボリス・ゴドゥノーフ」の一場面朗読。
6月8日、2回目の公開講演会で講演、聴衆を熱狂させる。文学と音楽の夕べ でプーシキンの詩を朗読。
       (米川正夫『ドストエーフスキイ研究』・中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』参照)



プーシキン記念祭について(ドストエフスキー年代記12)


  ドストエフスキーは少年時代、両親から「火の玉フェーヂャ」と呼ばれていた。青年時代の友人セミョーノフは「ドストエフスキーは感情の人であったから、憤りに駆られれば赤旗を掲げて広場へ飛び出すこともありえた」と言っている。中年以降のドストエフスキーをよく知っているストラーホフは「彼は非常な興奮状態で一生を送った」「彼の内には若さがあり、常に熱気があり、教えを説く情熱があり、形式だとか様々な種類の規則正しさだとかいったものには無頓着だが、その代わり、生きた感情と思想がある」と書いている。
 ドストエフスキーの「常に熱気のある」生涯の最後を、青春時代の文壇デビューの時に劣らない華々しさで飾ったのが、1880年6月、モスクワで開かれたプーシキン記念祭であった。(V・ネチャーエワ代表編集訳中村健之介『ドストエフスキー写真と記録』から)

【記念講演プーシキン】(抜粋・全文は後日、希望者に配布します)
 
 プーシキンは、異例の現象である。いや、恐らくは他に例のないロシア精神の唯一の現象である、とゴーゴリは申しました。私はさらにこう付け加えたい。すなわち、予言的な現象でもある、と…/プーシキンこそは、全世界のあらゆる民族と共鳴する普遍精神の持ち主であり、そしてプーシキンこそロシア民族の典型なのである。全人類はロシア的兄弟愛を核として一体となるのだ。/「栄光と善き行いの望みに燃えて われは行く手を見やるなり、恐れげもなく」/もしもプーシキンがもっと長く生きていたなら、我々の間の誤解や言い争いは、現在あるよりも、もっと少なかったかもしれません。/プーシキンはその才能の盛りに死んでしまいました。疑いもなく、彼はある大きな秘密を抱いたままあの世へ去ってしまったのです。それで、我々はこうして、彼亡き後、その秘密を解こうとしているわけなのです。(中村健之介訳)




2005年6・11読書会報告


出席者20名で盛会

 6月11日読書会は、夕方からは例会ということで連荘。池袋―原宿という距離もあって出足が心配されましたが20名の参加者と盛会でした。
 参加者の中には、HPで知ってきた人、昨秋亡くなられた岡村圭太さんの奥様とお友達とはじめての人たちがいました。また、古い会員で例会で発表もしている芦川進一さんも出席され、梅雨を吹き飛ばすにぎやかな読書会となりました。
 
金村繁氏報告

 作品『夏象冬記』を金村繁さんが報告しました。文明論としての評価と全文読みでの検証でした。例会を控えての忙しい質疑応答となりました。が、「バール神」「影の部分に光を」「小林秀雄」などの感想がありました。

2005年169回例会報告(6月)

 こちらも心配していたが杞憂で終わった。28名の出席者があった。
近藤大介氏(一橋大学大学院)が『ドストエフスキー作品における「心」の問題』について詳細な配布資料にそって報告した。報告項目は次の通り。
○ ロシア啓蒙思想と教育―「理性」と「心」
○ ロシア・センチメンタリズムにおける「心の養育」
○ 『貧しき人々』:センチメンタリスト ジェーヴシキン
○ 罪の意識と人間の心 何が破滅をもたらすかのか?ジェーヴシキンの場合
○ 運命の転換と心の痛み 何が破滅をもたらすのか?オルドゥイノフの場合
○ 心はひとつ・・・?何が破滅をもたらすのか?アルカージイの場合
○ ロシアの宗教思想と聖書における
○ 心の内の闇または嫉妬の連鎖 長編『白痴』
引用文献は、木下豊房著『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、中村健之介著『ドストエフスキー・作家の誕生』みすず書房、アレクサンドル・ゲルツェン著『ロシアにおける革命思想の発達について』金子幸彦訳、岩波書店

二次会の出席者は16名と盛会でした。


第170回例会案内

8月13日(土)『広場』14号合評会 午後2時〜5時迄

○「小説『弱い心』の秘密」(木下豊房)
  論評者:近藤大介氏
○「ドストエフスキーと『エミール』」(尾松亮)
  論評者:小林銀河氏
○「日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー(福井勝也)
  論評者:秋山伸介氏



ドストエーフスキイ情報


提供:ド翁文庫・佐藤徹夫様


○亀山郁夫著 『『悪霊』神になりたかった男』 
  みすず書房、2005年6月10日刊 ¥1300
  ISBN:4−622−08301−9
  ★みすず書房の新しいシリーズ<理想の教室>の一冊

○『作家と作品でつづる ロシア文学史』
  新読書社 2005年6月2日刊 ¥4000
  ISBN:4−7880−7107−X
  第7章 二人の世界的文豪 「世紀を病む文学」と「ロシア革命の鏡としての文学」ドストエフスキイ(P146-155)
  ★珍しいロシア文学通史。著者は、早稲田大学露文科出身の卞宰洙(ピョン・ジェス)。

○鎌田東二の新著。『霊性の文学誌』
  作品社、2005年3月20日刊 ¥2400
  *第九誌 ドストエフスキー 自由と聖性への「ふみ越え」 p133−146

○『DVDで愉しむロシアの映画』 佐藤千登勢著 
 東洋書店 <ユーラシア・ブックレット No.78> 2005.6.20刊 ¥600
 ISBN:4−88595−568−8
 8 罪と罰(レフ・クリジャーノフ監督(1970年) ソ連映画」 p25−27




掲示板

○特別対談・『坂の上の雲』から見えるもの 高橋誠一郎+伊東俊太郎:司馬遼太郎の「平和観」をめぐって
 『望星』8月号(ぼうせい) 東海教育研究所 580円
 
○『ドストエフスキーの小説『白夜』の構造とその意味』高橋誠一郎著 
 東海大学紀要外国語教育センター 第25号(2004)

 (同上の冊子ご希望の方はお申し出ください。後4冊ほどあります)

○『文学÷現代』横尾和博著 のべる出版 1400円
★川上弘美論や村上春樹論。110作品に及ぶ書評。10年間の文芸回顧。世紀末から21世紀にかけた現代文学の証言がここにある!時代と併走を続ける文学批評
「俺は、ドストエフスキーだ。無手勝流で今日まできた。
/押入れに、いままでこの10年間、書いた書評の現行や掲載紙が山になっていた。本書では時事通信(全国の地方新聞に配信)、北海道新聞を中心に書いたものをまとめた。その数は百編以上となっていた。事務所がもらい火で火災に遭い、消失した原稿や本もあり、本書にはすべて網羅できていない。文学と併走する時代の一証言、と思っていただければ幸いである。気がつけば、歳を重ねるばかりであり、俺のドストエフスキー的人生はまだ続く」(「あとがきにかえて」、から)


お詫び 前号「読書会通信90」でお詫び箇所がありました。神舘玲子さん追悼「神舘玲子さんを偲んで」は、執筆者のお名前が抜けていました。書かれた人は、長岡嘉子さんです。お詫び申し上げます。

募集  読書会報告者&「通信」原稿募集

○次回10月の読書会は、『地下生活者の手記』です。報告ご希望の方はご連絡ください。
  レジメは9月25日頃まで
・ 『地下生活者の手記』の感想をお送りください。(原稿を同封します)
○ ドストエーフスキイに関することなんでも結構です。お知らせください。




編集室便り
 
年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です)
7月31日までにお振込みくださった皆さんには、この場を借りてお礼申し上げます。
皆様からの原稿をお待ちしています。『夏象冬記』か『地下生活者の手記』の感想を同封の原稿用紙に書いて提出してください。

郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-12-816 下原方