ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.90   発行:2005.6.1


初夏の候、読書会の皆様には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。

第209回6月読書会のお知らせ

6月読書会は午後2時開催となります。ご注意ください!

月 日 : 2005年6月11日(土)
場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
開 場 : 午後1時〜
開 催 : 午後2時00分〜5時00分
作 品 : 『夏象冬記』
報告者 : 金村 繁氏
会 費 : 1000円(学生500円)

※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

◎ 終了後、ド会の総会&例会が原宿で開催されます。

会 場 : 千駄ヶ谷区民会館 夕6時00分〜9時00分
報告者 : 近藤大介氏(一ツ橋大学大学院博士課程在学)
二次会 : 9時15分頃から 会費3〜4千円





6月読書会の作品は『夏象冬記』

 6月11日(土)の読書会は、『夏象冬記』をとりあげます。この作品は、小説作品ではありませんが、ドストエーフスキイ自身の世界観、社会観を知るには重要な作品です。この作品は、ドストエーフスキイが、はじめてヨーロッパを旅した印象を書いたものですが、主点はロンドンで開かれていた第二回万国博覧会の感想です。折りしも愛知で愛地球博が開催中です。自然と科学との共存をうたった博覧会ですが、(昨今の自然の荒廃をみるとドストエーフスキイならずとも大いに欺瞞を感じるところですが)どうでしょうか。
『夏象冬記』を読み解くことによって見えてくるものがあるのではないでしょうか。大いに期待されるところです。


「夏象冬記」の旅行

1862年6月〜、ドストエーフスキイは、はじめて外国旅行しました。
「私が訪ねたのは、ベルリン、ドレスデン、ヴィスバーデン、バーデンバーデン、ケルン、パリ、ロンドン、リュッェルン、ジュネーヴ、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチア、ウィーン、そのうちいくつかは二度づつ行きました。これだけの町を、何と2カ月半で回ったのです!」(ドストーエフスキイ『夏象冬記』)
                                   



6月11日読書会では、下記の項目に沿って報告します。  

『夏象冬記』を読む    金村 繁

T 歴史と文学。

1. 歴史と歴史認識
・歴史とは何か  ・『夏象冬記』の歴史性

  2. 歴史認識の主観性、相対性
    ・歴史認識は国や民族により、時代によってそれぞれことなる。

  3. 文明論としての『夏象冬記』
    (1)時代と地域
    (2)東西軸と南北軸
    (3)政治犯だった19世紀ロシア人作家としてのドストエフスキー
    (4)題名の意味
  
U 『夏象冬記』を冒頭から読んでみる。




ドストエーフスキイのロンドン

(中村健之介訳『ドストエフスキー写真と記録』の「夏の印象をめぐる冬の随想」から)


自意識喪失の過程

外観からしてからが、パリとは大変な違いです。この昼も夜も小止みなく活動している果てのない、まるで海のような町。機械の高く叫ぶ声、低くうなる声。建物の群れの頭上を走る鉄道路線(それはまもなく建物の下も走るのです)、この大胆不敵な企業精神、本当は最高のブルジョア的秩序であるところのこの外見上の無秩序、この毒に犯されたテムーズ河、この煤煙のしみこんだ空気、この壮麗なと言いたいほどの数々の広場や公園、半裸で飢えて荒れた住民の住む、たとえばホワイトチャペルのような、都会のこの数々の暗い地区。百万の冨と全世界の商業を握るシティ…皆さんは、全世界各地からやって来たこれら無数の人々をそこで結びつけて一つの群れにしてしまっている恐るべき力を感じるでしょう…
ロンドンでは、世界中ここ以外では決して現実にはお目にかかれないようなすざまじい状態におかれた、ものすごい数の群集を見ることが出来ます。たとえば、私の聞いた話では、毎週土曜の夜になると、50万人もの男女の労働者が、子供も連れて、まるで海のように市全体にあふれ出て来て、あるいくつかの地区にとりわけ密集して、夜通し、朝の5時までも休みの日の来たお祝いをやるのだといいます。つまり、まるで家畜のように、まるまる一週間分、腹いっぱい喰って飲んでおこうというわけです…みんな酔っ払っているのに、楽しさはなく、暗鬱で、重苦しくて、みんな奇妙に黙りこくっています…ここでみなさんがごらんになるのは、民衆というものでさえなく、組織化され、奨励され、反抗もなく進んでいる自意識喪失の過程であります…
(『夏象冬記』参照)




ドキュメント『夏象冬記』


(米川正夫『ドストエーフスキイ研究』から)  

■ 1862年(41歳)
6月 7日、最初の外国旅行に旅立つ。
    6月15日、 パリ着。
    6月27日、ロンドンに出発。
    7月 4日、ゲルツェンを訪問。
       ロンドンでバクーニンと知己になる。
          ↓
         ケルン
          ↓
         スイス
          ↓    
         イタリア  
          ↓
     8月末 ロシア帰国
    12月 『時代』11号に『嫌な話』を発表

■ 1863年(42歳)
   2月、『時代』2号で『夏象冬記』発表。
   3月、『時代』3号で『夏象冬記』発表。

『地下生活者の手記』を完全に理解するには『夏象冬記』の熟読が必要

 『夏象冬記』(直訳は「夏の印象に関する冬の記録」)
・ ・・最も重要な点は、第六章において、地下生活者の根本的主張である社会主義共産団、――「水晶宮」に対する反逆が、はっきりと宣言されていることである。この変人はたとえ餓死しても、自分の完全な意志の方がいい、たとえたとえ社会主義者から、蟻塚を合理的につくる蟻にも劣る、と罵られようとも、一般の福祉のために雫ほどでもいい、自由意志を提供せよと要求する共産団は、彼の目に牢獄と映るのである。これゆえにこそ、『地下生活者の手記』を完全に理解せんとするものは、『夏象冬記』を熟読玩味することが必須となるのである。
 その一節につづいて、「たとえ社会主義が可能であったとしても、それはどこかほかであって、ただフランスではない」という一句が読まれる。なんというドストエーフスキイの洞察!しかし、その「どこかほか」が、ほかならぬロシアであることを、彼ははたして予知していたであろうか?
 なお『夏象冬記』の重要さは、ドストエーフスキイがこの中で、おのれの人生観の最も根本的な基礎を明らかにしている点に在する。同じ章の中で、彼は個性を最高度に高めて、これを万人の福祉のためにおのれ自身の意志によって犠牲にすること、これこそ個性の最高の発達、個性の最高の偉力を証明するものである、と断言している。つまり、イヴァノフ・ラズームニックの倫理的個人主義が、ここで初めて明瞭に端的に声明せられたのである。

(訳者・米川正夫『ドストエーフスキイ全集5』解説)




『夏象冬記』etc・・・


【書簡】

明日は、朝8時に一路ベルリンへ

〒 弟アンドレイへ  1862年6月6日ペテルブルグ   
 ・・・ぼくは一人で旅行する。妻は、ペテルブルグに残るわけだ。いっしょに行くだけの金はないし、それに妻としては自分の息子(継子)を打つちゃつて行くわけにはいかないからだ。これはいま中学へ入る準備をしている。・・・お前を抱擁し接吻する。ぼくために道中無事と健康を祈っておくれ、明日は朝8時に一路ベルリンへ向けて立つ。・・・

パリは退屈きわまりない都会です

〒 N・N・ストラーホフへ(評論家・『ヴレーミャ』の同人)6月26日パリ
 ・・・貴兄は7月初旬に外国旅行に出発されるそうですね。どうか、道中つつがなきよう。・・・小生は露暦の7月15日(それより早くはなりません)パリからケルンへ出発します。デュッセルドルフには1日滞在して、それから汽船でライン伝いにマインッへ行きます。それからオーベルランド、つまりバーゼルその他へ行くかも知れません。つまり、露暦の18日か19日にはバーゼルにおり、20日か21日か、それとも22日にはジュネーヴにいるわけです。したがって、貴兄の手紙は、どこから出たものにせよ、もし15日までにパリにいたら、必ず小生の手に入り、小生もどこで貴兄を捜したらいいかわかります。・・・・。
ああ、ニコライ・ニコラェヴィチ、パリは退屈きわまりない都市です。もしここにしんじつ素晴らしい数々のものがなかったら、正直、退屈のために死にそうなくらいです。フランス人はまったく胸くその悪くなるような国民です。・・・・ フランス人はもの静かで、清潔で、丁寧ですが、しかし食わせものです、金がいっさいなのです。なんの理想もありません。信念どころか、思索さえ求めることができません。一般教養の水準が極端に低いのです。・・・小生がパリにまだ10日しかいないくせに、、いっさいをこんなふうに批判するので、貴方兄は笑いだされるでしょう。・・・ご注意申し上げます。3日やそこらの予定でパリへ行くのは意味がないしそれから、もし貴兄が単なるツーリストであるならば2週間もこれにささげるのは退屈です。・・・・。
※ いやはや、フランスでよほどひどい目にあったらしい。(笑)
【人物・作品観】ロンドンでドストエーフスキイはゲルツェン(ロシアを代表する革命思想家1812-1870)に会った。

〒 ゲルツェンのオガリョーフ宛(ロシアの革命運動家、詩人1813-1877)の手紙 
                           1862年7月17日ロンドン
 昨日、ドストエフスキーが訪ねてきた。ナイーヴな男で、言うことはあまりはっきりしないが、大変感じのいい男だ。ロシアの民衆を熱狂的に信仰している。
思い出   ストラーホフ『ドストエフスキーの思い出』
 当時、彼はゲルツェンに対して大変穏やかな態度をとっていた。ドストエフスキーの『冬の随想』には、幾分ゲルツェンの影響がみられる。   

 



2005年4・9読書会報告


出席者13名
4月9日から開催時間が午後2時からとなりました。このため、戸惑われた方も多かったのではないかと懸念されました。が、結果的には13名の出席者がありました。
報告作品は、2月読書会につづき『虐げられし人々』でした。レポーターは平哲夫さん。
『虐げられた人々』の名場面追加を報告されました。

詳細は前号をごらんください。
読書会通信No.89





追悼・さようなら神舘玲子さん



相次ぐ訃報
 
昨年秋から、今年の春にかけて、僅か半年たらずの月日のなかで、ドストエーフスキイ関連の親しい人たちを相次いで失った。読書会の参加常連者や元ドストエーフスキイの会会員の人たちだった。病魔と闘いながら、ついに倒れた岡村圭太さんの死は、悔しく残念に思いながら拝した。風の便りに知った元会員の平沢誠樹さんの死は、遠くから手を合わせて故人を偲んだ。しかし、神舘玲子さんの死は、茫然とするばかりだった。
4月9日の読書会が終わって間もなくのことだった。夜、会員のS・Jさんから電話をいただいた。彼女は、唐突に言った。
「神舘さんが亡くなったんです」
「え、何?」
一瞬、なんのことかさっぱりわからなかった。
10年前、会発足以来の友人伊東佐紀子さんを失ったときの悲しみが、いまだ癒えていなかった。それで無意識に聞かなかったのか。が、驚きと悲しみにくれる彼女の話ぶりからすべてを理解した。あの神舘さんは、既にもう亡くなってるのだ、と。雪の四万温泉、鬼怒川温泉、諏訪温泉、箱根温泉、那須温泉。楽しかった読書会合宿や読書会ハイキングのことが思い浮かぶ。いつも二つ返事で参加してくれた彼女だった。
「ことしは、何処へ」そんな神舘さんの京都弁が耳に残る。




    
神舘玲子さんのこと     横尾 和博


 2005年4月の初め、東京では桜の花が満開だったが、冷たい雨の降る朝9時過ぎに、下原敏彦氏より携帯電話に連絡があった。神舘さんの訃報だった。
 私は一瞬言葉を失った。人の死はいつも時間のはてから突然やってくる。
 目をつぶり、神舘さんのことを考えると思い出の場面が断片的によみがえってきた。
 神舘さんとは1990年代にドストエーフスキイの会や全作品を読む会(読書会)でよく一緒だった。2次会でも話した。たいていがたわいもない飲み話だった。飲むと神舘さんは京都弁で喋った。私生活のことはあまり聞いたことがなかった。読書会の合宿でも一緒だった。飲んで酔うと当時の読書会の連絡担当者だった藤倉孝純氏がハーモニカをふき、皆がロシア民謡をうたい、神舘さんも気持ちよさそうにうたっていた。
 またあるとき、会の人が神舘さんと連絡がとれなくなったと言い下原敏彦、康子夫妻と共に彼女の自宅まで、書かれた番地を頼りに様子を見に行ったこともあった。
 それから時が流れた。劣化しないドストエフスキー文学を象徴するように、会には若い世代や新しい人たちが参加している。それがエネルギーだ。しかし私たちは悲しいことに歳を重ねた。でも神舘さんは、いつも会に参加し05年1月の例会にも来ていたという。
 いま私は訃報に接し言葉もない。
 会の人たちの死を聞くことは、なによりもつらいことである。京都弁で語る神舘さん自身の文学について、桜酒を傾けながらじっくりと聞きたかった。





遺稿    或る老人     神舘 玲子
                                 

この間、久し振りに武田泰淳の本を読んだ。中国文学を愛読していた学生時代に、武田泰淳や堀田善衛の著書も、よく読んだものだ。
僧籍にあって、漢学の学者でもあった父の影響で、よく似た生い立ちの泰淳に何故か親しみを感じていたように思う。
そんな頃のある光景を思い出した。
もう20数年になるだろうか――当時、私は京都銀閣寺の傍、哲学の道に面した、小さな安アパートで一人暮らしていた。名所といわれるその辺りは、今よりもずっと閑静で四季折々の移り変わりが、私を楽しませてくれた。仕事のない日の夕方、よく東山山麓を散策したものだ。
或る日、白髪和風姿の上品な、それこそ昔の家老とはこんな人をいうのか、と思わせるような老人が、これも見事な犬を連れて、向こうからやって来てすれ違った。
その日から私たちはよく顔を合わせ、やがて軽く会釈を交わすようになった。

そうした或る午後、桜の花も散って、緑が色濃く映えていた日だった。さわやかな風が心地よく吹いていたので、私はベンチに腰を下ろして本を読んでいた。通りがかった老人は、初めて声をかけてきた。私は身体をずらせて席を空けた。
「戦争で疎開した一年半ほどの他は、生まれてからずっとここに住んでますね。しばらく患ってましたが、此の頃、身体の具合もええし、また散歩を始めました。もう先は短いし、いつも今日が最後になるかも分からへん思うて歩いてますね」と、目を細め、静かに微笑んだ。そして、ふと私の手許の本に目を止めて「ほう、若いのにえらいね、“司馬遷”を読んではりますか、私も若い時には、漢籍を学びました。吉川幸次郎先生は、私の最も尊敬するお方です。陶渕明の詩も行き方も大好きです」といって遠くへ視線を移した。私は一寸意外だった。陶渕明のスケールの大きさと、小柄で優雅な老人とは結びつかなかった。
 その日から三、四回出会った後、老人の姿をぷっつりと見かけなかった。梅雨に入って休日はいつも雨だった。私は雨の日も厭わず歩きつづけた。

 雨の日の法然院の門構えや、参道は格別の趣があった。鬱蒼と繁った大木の下の道は、きれいに掃き清められ人っ子一人通らなかった。雨に煙るその辺一帯は暗く幻想的であった。
 私は、老人が散歩に出ないのを、雨のせいにしていた。やがて梅雨が明け、京都独特のうだるような暑い日がつづいた。老人が姿を見せないのを今度は暑さのせいにすることにした。
 しかし、夏が去って散歩に絶好の季節が訪れてもその姿は現れなかった。

 その年も終わりに近づいた11月のそれは小春日和の日だった。私は、やはりベンチに腰掛けて本を読んでいた。俯いている私の視線に、見覚えのある犬が現れた。私は、思わず顔を上げた。私の前を、犬の紐を持った小学生の男の子と、その母親らしい人が、談笑しながら通り過ぎた。私は、立ち上がって二、三歩後を追った。老人の安否が知りたかった。が、やがて思い直して黙って遠ざかって行く二人を見送った。私の胸の中を熱いものが通っていった。   (完)





神舘玲子さんを偲んで    長岡 嘉子


 「神舘玲子さんが亡くなった」と聞いたのは4月10日だった。「えっ!いつ?どうして?!」と尋ねたが詳しいことは何もわからなかった。1月29日のドストエーフスキイの会の例会には出席されたということなので、以後2ヶ月の間に、何があったのだろう・・・。
 喪失感と何もできない焦燥感で何日か過したが、もしかしたら間違いでは、と一縷の望みを抱いて、4月24日(日)、岡田多恵子さんと神舘さんの住居を訪ねた。最新の住所は、座間市入谷1丁目。基地の町というくらいの知識しかなく、明るいうちに行って来ようと思って出かけた。小田急線の座間駅で降り、駅前の交番で地図を書いてもらった。駅から徒歩15分位のわかりやすい場所だったが、夜間に女性の一人歩きでは怖そう。
 シテイハウス長宿は新しい市営住宅だった。インターホンを押し、神舘さんが「ハーイ」と答えてドアを空けてくれるのを待ったが、応答なし。もし様子が聞けたら、とお隣のインターホンを押すと、体の不自由な女性かゆつくりとドアを開けてくださった。彼女は管理人というか、居住者の世話をしているらしい1階の畑さんという人の家に私たちを案内してくれた。
 この二人の話によると、「亡くなったのは2週間前、いや1ヶ月くらい前だったよ。姪子さんとかと待ち合わせて駅に向かう途中、歩道橋のところで倒れた。脳溢血らしい。あの人は血圧が高かったのかねえ。2,3年前に転んで足が不自由だといってたよ。亡くなってから何回か姪子さんとか甥子さんとかが見えて、荷物を片付けていたよ。趣味が多い人らしくて、お琴や三味線、それから本がどっさり。本が好きでいつも本を読んでいたよ。でも室内はきちんと片付いていてきれいだった。昨日(4月23日)最後の荷物を運び出した。昨日だったら4時ごろまでいたのにねえ」
 彼女たちは親戚とかないので、亡くなった日の認識がないのは仕方がない。この下町のおかみさんぽい二人は、何かと神舘さんと交際していたようだ。この住宅が建ったのは2年前、神舘さんは1年前に越してきた。きれい好きで、お隣さんと一緒に外の手すりまでピカピカにしていた。図書館も歩いて5分のところにあるのでよく通っていた。駅に向かう道も、車が多い道は通らず、番神水というきれいな湧き水の流れる疎水の傍の道を通るのが好きだったという。今年の節分に近くの神社で豆まきがあり、誘い合っていった。「楽しかった。又、来年も来たい」と神舘さんは言っていたそうだ。
 この辺りは昔の宿場町で、相模川が近く、増水で渡れないときには宿をとる人であふれていたらしい。長宿、中宿、下宿と今も知名が残っている。広い地所をもった立派な家が多く、庭には春の花が咲き乱れていた。寺社も多く、京都で育った神舘さんには、懐かしい思いがした場所だったのではないかと思った。ともあれ、この1年余り、神舘さんが気に入った住居で、落ち着いた時間を過す事ができた様子がわかって安心した。
 帰りに、座間警察署によって記録を調べてもらった。2月26日、脳梗塞で死亡。享年××才。年齢不詳で微笑むところが神舘さんのかわいいところだった。私とは、まだ、那須高原の沼っ原を歩くとか、谷川岳に行くとか、約束していたのに、ひとりで遠くへ行ってしまった。残念でもあり、寂しい。でも、いろいろな本を紹介してもらったり、たくさんの思い出も残してくれた。神舘さん、ありがとう。安らかに御休みください。2005年4月30日

                                 
                                               


掲示板

新刊紹介

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『坂の上の雲』を読み直す
『坂の上の雲』をきちんと読み直すことは、「他国」の「脅威」を強調し、「自国の正義」を主張して「愛国心」など「情念」を煽りつつ「国民」を駆り立てた近代の戦争発生の仕組みを知り、「現実」としての「平和」の重要性に気づくようになる司馬の歴史認識の深まりを明らかにするためにも焦眉の作業だと思えます。 −本文より―


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アスファルトの道も、テレビゲームもケータイもない。遊び相手は、虫や魚に草木や石ころ、大切な友達は、山や川。楽しいおやつは野に咲く花の甘い蜜に栗や柿…。けっして豊かな暮らしではなかったけれど豊かな心がありました。





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ドストエーフスキイ全作品を読む会
http://dokushokai.shimohara.net/

◎会員の武富健治氏が漫画家としてデビューしました。

 漫画アクション2005No.12、13(6月7日号)
 定価320円 キョスク、コンビニにて発売
 作品は「鈴木先生」です。




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