ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.88 発行:2005.2.3


第207回2月読書会のお知らせ

厳冬の候、読書会の皆様には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
2月読書会は、下記の要領で行います。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2005年2月12日(土)
 
 時  間 : 午後6時00分〜9時00分
            
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
 作  品 : 『虐げられし人々』
            унижённые и оскорбЛённые
 報 告 者 : 近藤 靖宏氏

 会  費 : 1000円(学生500円)

※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で新年会を開きます。

 会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
 時 間 : 夜9時10分〜11時00分頃迄
 会 費 : 3〜4千円



2005年(平成17年)の読書会開催・報告作品について

2月12日(土)東京芸術劇場小会議室1 PM6:00〜9:00 二次会9:15〜 
4月 9日(土)東京芸術劇場小会議室1 PM1:00〜5:00 二次会5:30〜

2005年の読書会は、上記につきましては、既に日時・会場とも決定しております。が、本年も会場は、偶数月第二土曜日を基本日(抽選方法変更の為)として池袋の東京芸術劇場小会議室で開催したいと思います。
なお、開催時間につきましては、4月読書会は、都合により12時45分開場、PM1:00〜5:00となりました。が、これまで「時間帯を早くできないものか」といった声や要望が寄せられていることから、これを機に検討したいと思います。
これまで編集室に寄せられた声は以下の通りです。
○ 高齢化時代に夜9時終了はきつい。二次会に出席したいが無理。
○ 二次会に出席しても時間が気になって安心して飲めない、親睦をはかれない。
○ 東京都圏外に住む人、病弱の人からも同様の声がありました。
○ 土曜休日は一般化しているので、朝から待機するのは長い。有効利用ができない。
○ 午後なら出席できなくても、夜の二次会、三次会に参加できる。
○ 午後なら1時〜5時まで4時間丸々使える。(夜は10時まで使用可だが・・・)
などなどです。ありがとうございました。
※ 読書会の会場・日時は、その時代、時代によって変化してきました。この34年のうち、最初の10余年間は、早稲田大学の教室、研究室、喫茶店、名曲喫茶と、そのときどき所を変えて開催されてきました。日時も、まちまちでした。午後3時からが多かったように記憶しています。次の10年間は談話喫茶から勤労福祉会館へ。日時は土曜日の夕方。と、定まってきたように思います。そして、ここ10余年は、東京芸術劇場小会議室午後6時開催が定例となっていました。こうした経緯を踏まえ2005年以降の新しい時代、どんな開催方法が参加者の意向を汲んだものか、(抽選という枠組みのなかで)調整をはかりながら最適な開催方法を目指す所存です。高齢者とインターネットからの若者参加が多くなった今日において両者の融和により、調和ある読書会ができれば幸いです。

2005年読書会でとりあげる予定の候補作品
『虐げられし人々』『夏象冬記』『鰐』『地下室の手記』『罪と罰』



2月読書会作品 『虐げられし人々』

 
2月12日(土)開催の読書会は、『虐げられし人々』をとりあげます。報告者は、神奈川県湘南方面から出席されいる近藤靖宏さんです。近藤さんは、読書会の常連会員として積極的に読書会に参加されています。が、ドストエーフスキイの会においても、2003年の『広場 12号』合評会ではエッセイのコメンティターを、昨年発行の『広場13号』には「演劇『画の描写』の感想、題して『劇の描写』」を発表するなど真摯に活動されています。
近藤さんの温厚な人柄とソフトな語りが、『虐げられし人々』をどのように読み、どのように考察するのか、楽しくもあり興味もわいてきます。
なお、本通信では米川訳をテキストにしているので『虐げられし――』の表現を使います。
報告者のレジュメは次の通りです。

報告者レジメ

私は、この作品を読むにあたり備忘録として各章ごとのあらすじをメモしましたので、これをそのまま資料として配布します。あとは私の主観を交えた登場人物紹介、それにわが読書会メンバーT様より頂戴した大正時代出版の昇曙夢訳「虐げられし人々」より私が感銘を
受けたシーンを抜粋して配布する予定です。
 ドストエフスキーの世界の縮図とも考えられるこの作品、さまざまな切り口で読めるのですが、私としては発表の中で私の思いつく限りの作品に関する疑問点、問題設定を皆様に提示させていただき皆様のそれらに対するご意見を聞かせていただきたいと考えております。
 なお、H様のために申し添えておきますが、今回私が使用しましたテキストは新潮文庫、小笠原豊樹訳です。 
 それでは皆様、当日お会いできるのを楽しみにしています

参考資料(編集室)
          
『虐げられた人たち』の人物関係は平行する二つの系列からなっている。(中村健之介)

(A)イフメーネフ老人―――イフメーネフの娘ナターシャ―――ナターシャが愛しているアリョーシャ(ワルコフスキーの息子)――アリョーシャが惹かれるカーチャ(伯爵夫人の継子。)
(B)スミス老人――スミスの娘(ネルリの母)――スミスの娘が愛したワルコフスキー(ネルリの父)――スミスの孫娘ネルリ―――ワルコフスキーと深い仲にある伯爵夫人。                        
 ナターシャは、父イフメーネフの止めるのを振り切ってワルコフスキーの息子アリョーシ
ャに奔ったが、アリョーシャはやがてカーチャに惹かれてゆく。
(中村健之介著『ド人物事典)
高見順とドストエーフスキイについて

 今回の作品が、『虐げられし人々』ということで、本棚の奥から角川文庫の中沢美彦訳の『しいたげられた人々』を探し出してひろげてみた。なにせ10年前の読書会の折りぱらぱらと目を通しただけ、ほとんど内容は忘れてしまっている。拾い読みして記憶を取り戻そうと思ったのだ。が、読みながら頭に浮かんだのは、なぜか高見順の『如何なる星の下に』であった。この作品をはじめて読んだとき、「これは『虐げられし人々』だ!!」そんなふうに感じたものだ。が、この『如何なる』の話もまるで忘れてしまっている。本もなくなってしまった。はたして両作品は関係あるだろうか。いつか再読してみようと思う・・・



『虐げられし人々』について
(編集室)

この作品は、どのような経緯と背景で書かれたのか。当時、どのような評があったのか。米川訳『書簡』や中村訳『V・ネチャーエワの記録』などからとりあげてみました。

『書簡』
A・I・シューベルトへ ペテルブルグ1860年5月3日火曜日

/わたしは当地へ帰って、まったく熱病やみのような状態でいます。いっさいの原因はわたしの長編(おそらく『虐げられし人々』)なのです。わたしにはわかっていますが、わたしの文学上の運命はその成功いかんにかかっているのです。これから3カ月ばかり、昼も夜も書かなくてはならないでしょう。

A・P・ミリューコフ(文学史家・批評家)へ 1860年9月10日

/小生は執筆に着手しました。まだどんなことになるかわかりませんが、背中も伸ばさずに仕事をする覚悟です。

F・N・ベルグ(詩人・ジャーナリスト)へ 1861年6月12日

親愛なるフョードル・ニコラエヴィチ。『虐げられし人々』を取り扱われた貴兄の論文(雑誌『ヴレーミャ』に寄せられてもの)の一ヶ所を、ちがった意味にとったことは、小生としてまことに不快であり、かつ恥ずかしく思います。

ドキュメント『虐げられし人々』

1860年1〜12月 :『虐げられし人々』に取り組む。
1860年9月 1日:「ロシア世界」紙67号に『死の家の記録』を掲載開始。
1861年1月   :「時代」1号に『虐げられし人々』の最初の部分を発表。
    7月   :「時代」7号で完結。

雑誌・作品評

『時代』と時代を飾る最良の作品!!最も優れた判決の書!!

『時代』で一番いい部門は小説部門であり、その中で最も優れた作品といえば、ドストエフスキー氏の長編『虐げられた人々』と、同じくドストエフスキー氏の『死の家の記録』である・・・この二作品は、『時代』を飾る最良の作品であり、また、我々の時代全体に対する最も優れた判決の書でもある。(評論家M・A・アントノーヴィチ 「『時代の精神について』の論文。1862年4月発表)

生きた人間ではなく、たくさんの人形

私の長編に登場したのは、生きた人間ではなく、たくさんの人形だということ、芸術的な形態を具えた人物ではなく、下書き帳からそのまま出て来たような連中ばかりだということ、そのことを認めるには私はやぶさかではない・・・しかし、その当時、書き始めた私には、次のことは確実に分かっていた。すなわち、(一)長編として成功はしないとしても、詩情は生まれるだろう。(二)熱のこもった力強い個所が二つか三つは生まれるだろう。(三)二つのこの上なく深刻な性格はまったく正確に、いや芸術的にさえ、描かれるだろう、と。・・・出来上がった作品は目も当てられないものとなったが、それでも、私としては自慢したいページも50ページぐらいはあるのだ。(作者ドストエフスキー『注記』より)

どのように展開してゆくのか 興味をかきたてる。

 この雑誌の第一部門に載っている作品全体の中で、その出来映えからいって最も重きをなしているのは、もちろん、F・ドストエフスキー氏の長編『虐げられた人たち』である。この長編は全部で四編になるはずであるが、雑誌創刊号に発表されているのは第一編のみである。これから先どのように話が展開してゆくのか推測がつかないから、今はただ、この第一編は強く興味をかきたてられるものだ、とだけ言っておこう・・・・・
(N・G・チェネヌィシェフスキー「新しい定期刊行物」)

空想的にして異常なるものの度外れた力!

 ドストエフスキーの小説(『虐げられた人たち』)ときたら、あの驚くべき感情の力と子供っぽい荒唐無稽とのちゃんぽんぶりは、何と言ったらいいのだろう?レストランの場での公爵のおしゃべりの、何たる締まりのなさ、わざとらしさ(あの公爵は、まったく、雑記帳レベルだ!)アリョーシャと、公爵家の令嬢だというカーチャの何と幼児的なことか。子供の作文だ!ナターシャのあまりの理屈っぽさ。そしてネルリの像は非常に興味深い!全体として言えば、要するに空想的にして異常なるものの度外れた力、そして、生活についての何たる無知!(A・A・グリゴーリエフのN・N・ストラーホフ宛の手紙1861年8月12日)

“どんな人間でも人間でなければならない”作者の魂の理想

 我々はドストエフスキー氏のさまざまな作品に、氏が書いてきたものの全体に多少の差はあれ認められる、共通の特徴というものを見出す。それは、自分は本物の、資格十分の自立した人間としての能力をもっていないと、いやさらには、権利を持っていないと考えている、そういう人間に対する痛みの気持ちである。“どんな人間でも人間でなければならないし、他の人に対しても、人間が人間に対すると
いう態度を持たねばならない”というのが、作者の魂の中の理想なのである。その理想は、あらゆる相対的で部分的な見解とは別に、いや、どうやら作者自身の意志とさえ関わりなくいわばア・プリオリに、彼自身の天性を構成するあるものとして、作者の内に存在するものなのである。(N・A・ドブロリューボフ『打ちのめされた人たち』)

踏みつけにし侮辱する人々に対しては

 踏みつけにされ侮辱された人々(『虐げられた人々』の原題のロシア語を文字通り訳すとこうなる)が存在するということは、踏みつけにし侮辱する人々もまた存在するということを意味している。踏みつけにされ侮辱された人々を思う心の痛みがあるというのなら、それでは、踏みつけにし侮辱する人々に対してはいかに対するというのか?
(N・K・ミハイロフスキー『同時代人の覚書』ナロードニキ運動に影響力のあった論客)
      


偉大な芸術に入るための恰好な門    訳者・米川正夫
 
/『虐げられし人々』は、ドストエーフスキイの創作の頂点を形づくっている『罪と罰』以後の一連の大作にくらべてはもちろん、ほとんど同時に書かれた『死の家の記録』に比較しても、芸術的にははるかに低い評価を受けなければならぬけれども、ペテルブルグという陰鬱な都会の持つ不思議に魅惑的な雰囲気の中に、猟奇的秘密の糸をくり拡げて、読者の好奇心を最後まで強くつかんで話さないドラマチックな構成。主要人物の特異な性格、作者の烈々たる人道的情熱、その厳粛なモラルなど、、ドストエーフスキイの芸術の根幹をなしている特徴と、その典型的手法がことごとく鮮明に輪郭を現している上に、文壇デビューした当時の作者自身の境遇や感懐を、説話者たる青年文学者に託して、ドストエーフスキイとしては珍しく、自伝的要素を濃厚に加味している点、他の傑作に見られない特殊な親しみを感じさせる作品である。このインチメートな感じと物語の小説的興味とは、『虐げられし人々』を一般読者にとって、ドストエーフスキイの偉大な芸術に入るための恰好の門となっている。
(『ドストエーフスキイ全集3 「虐げられし人々」解説から)

シェイクスピアの完全無欠な創造物とは違う

/しかし何びとも、シェイクスピアその人すらも、この『虐げられし人々』を自伝の一部とする虐げられしものの小説家以上に、人間の魂を公平無視にのぞき込みはしなかった。
(J・A・ロイド)
私は感動と愉悦をもって読了した

わたしは自分を彼と較べようなどとは、一度も考えたことがない。彼が書いたものはことごとく、――よいもの、真実なものだけを指しているのだが、――ああいうふうだったので、彼があんなにやればやるほど、わたしはますます喜んだわけだ。芸術的完璧と知性とは、わたしに羨望の念をそそるが、まごころから出た作品は、歓喜を誘い出す・・・彼が亡くなる数日前、わたしは感動と愉悦をもって、『虐げられし人々』を読了した。(トルストイ)

1862年には読者数4302人に!

『虐げられた人々』と『死の家の記録』を連載したことによって、雑誌『時代』は多くの読者を獲得した。1861年には読者の数が2300人だったが、1862年になると4302人にはねあがっていた。(『ドストエフスキー伝』トロワイヤ村上香住子訳)

強健な者よりも劣弱な者に非常に強い光を当てる               

『虐げられた人たち』は1860年代の「現代ロシア」の都会の片隅で起きた父と娘の葛藤を描いた大衆むけ通俗小説なのであるが、そこにもドストエフスキーは、自分のあこがれる「真理」を持ち込まないではいられなかったのである。(中村健之介著『ド人物事典』)




読書会プレイバック


1973年2月23日発行「会報No.24」に掲載された松平幸子さんの感想を紹介します。『虐げられし人々』は、同年2月開催の第16回読書会で取り上げられました。


 『虐げられた人々』を読んだ。読んでいてドストエーフスキイの他の作品中の人物がいろいろと思い起こされるというのがみんなの共通の感想であった。ドストエーフスキイをわれわれのものにした長編群の始まりであるこの小説は、後のものに比べて緊迫感が少ないが彼のテーマが殆ど盛り込まれ構成もがっちりしている。
 珍しいのは『貧しき人々』発表当時の様子、人々に与えた感動などが書かれていること、また、「単にものを書くという機械的な動作だけでもそれぐらいの効能はあるものである。それは心を安らかにする、冷静にする。私の胸に以前作者だった頃の習慣を揺りさまして、自分の追憶や病的な夢想を変じて仕事というものにしてくれる」とか、「何もかもふるい落として新鮮な頭脳で再び生活を始める事ができたらどんなによいだろう。・・・とにかく生に対する渇望と信仰だけはあったのだ!」などには、流刑から帰った直後のドストエーフスキイの心境を想像できたりなどして興味深い。
 リポーターの報告は次のようであった。この長編の山はアリョーシャ、父ヴァルコーフスキイ公爵、ナターシャ、「わたし」の一同が会し、「わたし」を除く三人がそれぞれ自分の考えを主張して他を非難する場面と、公爵が「わたし」に告白をするところである。告白で公爵は無邪気な子供らしさや牧歌趣味に対する憎悪を持っていると述べ、「馬鹿げていないのは個人です。われ自身です」「少しでも徳行の人であったとすれば青酸なしにはすまなかったかも知れない」など自分を非常に明確に語るが、その思想に至るまでの試行錯誤や心内での葛藤がなく、従って先天的に心と行動の矛盾の悩みを持たない人間として描かれていることがイヴァンやスタヴローギンとただの嫌な人間にしてしまっている。



『虐げられし人々』の翻訳



 これまでわが国において作品『虐げられし人々』は、どれだけ翻訳され出版されてきたか、インターネットで調べてみました。
 
ナダ出版センターホームページ
http://homepage3.nifty.com/nada/index.html

明治26年(1893)
5月  損害と侮辱と 高安月郊訳 同志社文学(〜7月) [虐げられし人々]
明治27年(1894)
5月  損辱 内田魯庵訳 国民之友(〜28年6月) [虐げられし人々]
3月 *虐げられし人々(上下) 昇曙夢訳 近代名著文庫6 新潮社
8月 *虐げられし人々(上巻・下巻) 加藤朝鳥訳 アカギ叢書 赤城正蔵(〜9月)
大正7年6月 *虐げられし人々 昇曙夢 ドストエーフスキイ全集2 新潮社
1月  虐げられし人々 中村白葉訳 婦人世界(〜12月)
11月 *虐げられし人々 中村白葉訳 近代名著物語叢書1 上方屋出版部
大正14年10月 *虐げられし人々 昇曙夢訳
 [虐げられ辱められし人々(細田民樹)、死の家の記録(田中純)]

国立国会図書館蔵書検索・申込システム(NDL−OPAC)  http://opac.ndl.go.jp/index.html

大正13年 『虐られし人々』佐々木味津三訳 春陽堂
昭和7年(1932)『虐げられし人々』前後編 昇曙夢訳 春陽堂 世界名作文庫
昭和10年(1935)『虐げられし人々』昇曙夢訳 新潮社 世界名作文庫
昭和23年(1948)『虐げられた人々』上巻 昇曙夢訳 日本社 日本文庫
昭和26年(1951)『虐げられた人々』神西清、中沢美彦共訳 角川書店 角川文庫
昭和28年(1953)『虐げられた人々』小沼文彦訳 岩波書店  岩波文庫
昭和29年(1954)『虐げられし人々』米川正夫訳 『ドストエーフスキイ全集3』

NACSIS Webcat
総合目録データベースWWW検索サービスhttp://webcat.nii.ac.jp/

昭和11年(1936)『虐げられし人々』熊澤復路六訳 三笠書房 ドストエフスキイ全集
昭和24年(1949)『虐げられし人々』昇直隆訳 世界新選文庫
等など
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編集室参考:昭和46年(1971)角川文庫、以下は中沢美彦訳「『しいたげられた人々』について」の訳者の感想抜粋です。
/物語は作者の分身とみられるイワン・ペトローヴィチによって語られる。したがって、私は単なる狂言回しの役割でしかない。この「私」に関して興味を引くといえば『貧しき人々』の成功した経験を、読者がこまごまと理解するくだりであろう。/ストーリーはまるで推理小説であり、作者みずから通俗小説といわれても甘んじるとことわっているほどである。おそらく作者が愛読したフランスの推理小説家シューの『パリの秘密』の影響を受けたものであろうが、単なる通俗物に堕していないことは明らかだ。/この小説がソヴェートで高く評価されていることで(は、)簡単にかたづけられない。/これをきわめてみる必要があろう。
(中沢訳『しいたげられた人々』)解説から)



2004年読書会(編集室)記録

2月6日(土)  「読書会通信83」発行 

2月14日(土)  会 場:東京芸術劇場小会議室1 参加者15名 PM6:00〜9:00
          作 品:『スチェパンチコヴォ村とその住人』
          報告者:前回補足(岡田多恵子氏)&フリートーク

4月 1日(金) 「読書会通信84」発行

4月 10日(土) 会 場:同上 参加者18名  PM6:00〜9:00
          作 品:『伯父様の夢』
          報告者:平 哲夫氏

6月 10日(金) 「読書会通信85」発行

6月 19日(土) 会 場:同上 参加者19名  PM6:00〜9:00
          作 品:『死の家の記録』第一回目
          報告者:熊谷暢芳氏

8月 4日(金)  「読書会通信86」発行

8月14日(土)  会 場:同上小5会議室 参加者20名 暑気払読書会AM9:00〜12:00
          作 品:『嫌な話』
          報告者:池田和彦氏
          『広場12号』合評会   
          報告者:木下豊房氏、人見敏雄氏、熊谷暢芳氏、小島一行氏、伊藤忍氏
          (順不同) PM1:00〜4:05 参加者20名      

8月14日(土)  読書会&例会暑気払 PM6:00〜8:00

10月2日(土)  「 読書会通信87号外」発行

10月 9日(土) 会 場 : 同上 参加者0名 PM6:00〜9:00
          作 品:『死の家の記録』第二回目
          報告者:フリートーク ※ 台風22号同時刻通過の為、中止

11月 20日(土)  「読書会通信87」発行

12月11日(土) 会 場:同小会議室1 参加者19名 PM6:00〜8:30
          作 品:『死の家の記録』第二回目
          報告者:フリートーク

12月11日(土)  読書会忘年会 「養老の瀧」PM9:00〜11:00 参加13名

※2004年は自然災害の多い年でした。10月9日(土)の読書会は、台風22号が夕刻東京を直撃するという予報から、午前9時に中止決定しました。予報通りでした。





2004年12・11読書会報告

昨年12月11日に開催の読書会は、『死の家の記録』をフリートークしました。この日は、2004年を締めくくる読書会ということもあって大勢の参加者がありました。なお、『死の家の記録』は6月読書会のつづきで後編になります。

12月13日(土)の第206回読書会の参加者は18名でした。


参加者から出された感想のいくつかを拾ってみました。

「暗い感じだが、生き生き描かれている作品」「語り手が三人いる」「ここには語られていないものがある」「読む人の想像力をかりたてる」「罪人同士が会話したら、こんなものか」「(作者が)ふさぎこんだ状態で死んでいくのはなぜか」「序章、想像できない」「作家の分身の死」




ドストエーフスキイ情報

医学論文翻訳

ドストエフスキーのてんかん 
アリバイ工作に使われたスメルジャコフのてんかん発作に関する考察


John C. DeToledo,MD  (下原 康子 訳)

まことに嘘は嘘の父なり(フョードル・パーブロヴィッチ・カラマーゾフ/ヨハネ福音書第八章四十四節)

 ドストエフスキーの発作に関する記述は数多く残されている。発作の説明と解釈を試みてきた学者も多い。ドストエフスキー自身が、若い頃の手紙の中で、「私はあらゆる種類の発作を経験しました」と書いているように、発作の時々の様々な症状を自ら書きとめ、後世の研究に寄与している。(1)
フランスのてんかん学者、Gastautはドストエフスキーの発作を理解するにあたって優れた洞察力を示した。(2,3)
 彼は、最初の論文ではドストエフスキーの病を全般てんかんとしているが、数年後に発表した論文では、明瞭な鑑別診断を避けて、次のように述べている。(3)
 「ドストエフスキーのてんかんは次に述べる二つ両方の要因があったと考えられる。まず側頭葉の障害、ただし非常に限られた範囲だったので発作間欠時の側頭葉てんかんに特有の心身の症状は現れなかった。次はてんかん発作を来たすに十分な体質的素因、これは側頭葉の障害とは別の機序でどちらの型の発作にしろ二次的には同じ帰結をたどることになる全般発作をほとんど即時に引き起こしたものと考えられる。」
 最後の小説『カラマーゾフの兄弟』の中で、ドストエフスキーは、知恵遅れで幼いころからてんかんをわずらっていたとされるスメルジャコフを通して、自らが体験したと思われるさまざまな発作を描いている。
 ピョートル・カラマーゾフは何ものかに殺害される。物語の展開とともに、犯人はスメルジャコフで、彼がどのようにして犯罪を実行したか、そして長男ドミトリーに罪を負わせようとしたかが明らかになる。偽の発作を利用したスメルジャコフの策略によって捜査は裏をかかれ、知識人たちもだまされる。物語の最後で、スメルジャコフが本物のてんかん発作と詐病による偽発作の両方を使い分けていたことが明らかにされる。
 ドストエフスキー自身が、偽発作が時として利用できることに気づいており、死がまじかな最後の小説の中で、スメルジャコフを介してそれを伝えたのかもしれない。そのことは、25年前にすでに「私はあらゆる種類の発作を経験した」と述べていたことを思い起こさせる。
 ドストエフスキーのてんかん発作については彼を診た医師(1)、友人(1)、2度目の妻(4)による記述があり、彼自身の手紙にも書かれている(1,5)。そうした記述は数多いが、発作が原発性かあるいは二次的に引き起こされたものか、研究者の間の見解は一致していない。
 Alajouanineはエクスタシー前兆を伴う部分てんかんが、二次的に全般発作を起こしたと述べた。(6)症状を広範囲に調べ直すことにより、Voskuilが分析を広げ、「エクスタシー前兆を伴う複雑部分発作から二次的に引き起こされた夜行性の全般発作」とした(7)。
 Gastautは、全般てんかんとした最初の論文の中で、ドストエフスキーの症状のすべてがてんかんによって引き起こされたものとは限らないことを示唆し、次のように述べている。(2)
 「研究者たちはこの卓越した作家の想像から生じた症状を誤って信じ込み、側頭葉てんかんの症候学の知見に加えたのである」(2)
 ドストエフスキーは異なる時期の異なる症状を記述することにより、てんかん研究に寄与した。彼自身、最初は自分が本当にてんかんかどうか疑問視していた。(3)一方で「私はすべての種類の発作を経験した」と書き残している。(1)
 Freudは、ドストエフスキーの発作はすべてヒステリーによって引き起こされると信じていた。『ドストエフスキーと父親殺し』という著作の中で、てんかんと偉大な知性は相容れないと述べている。(8-9)
 「てんかんは精神の構成とは無関係な有機的な脳の疾病であり、必ず知能の後退を伴う。てんかんとされている天才の多くはてんかんではなく、ヒステリーである。」
  『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの死の2か月前に完成している。彼は1877年12月の『作家の日記』の中で、新しい作品に専念するために暫くの間、連載を中断すると伝えた。『カラマーゾフの兄弟』が世に出るまで3年を費やした。(10)
 ドストエフスキーはこの最後となった作品の中で、ばかと呼ばれたスメルジャコフを介して、自身が体験した様々な異なるタイプの発作を描き、新しい解釈を提示している。(11-12)
 スメルジャコフは老カラマーゾフの継子で幼いころからてんかんを病んでいた。老カラマーゾフは彼を「バラムのロバ」、(聖書でしゃべる動物のこと)と呼び、教育しようとゴーゴリを読ませてみる。スメルジャコフは『ジカニーカ近郷夜話』の内容がすべてうそっぱちだからと言ってゴーゴリを嫌い、また、韻をふんで話す人などいないということで、詩も嫌った。彼にとってフィクションはすべて嘘とみなされた。
 スメルジャコフの母親は、頭の弱い浮浪者で、ほどこしを頼りに生きている女性だった。彼女が通ると悪臭でそれとわかった。老カラマーゾフはそのような彼女を陵辱した。彼女は風呂の建物の中でスメルジャコフを生み、そこで死ぬ。老カラマーゾフの使用人であるグレゴリーが赤子を拾いあげ、彼の妻が赤子に「臭いもの」という意味を持つ、スメルジャコフと命名した。

ドストエフスキーが描いたスメルジャコフの性格および発作

 スメルジャコフの発作は、少年のころ、使用人のグレゴリーから平手打ちを受けた1週間後から始まったとされている。老カラマーゾフはそれまでこの少年をまったく無視していたのに、発作が始まって以来彼に興味を持ち始める。彼はなぐったグレゴリーを叱り飛ばし、医者を呼び、前よりいい住いに移らせる。スメルジャコフの発作は平均して月に1回ほど起こった。発作の程度はさまざまで、激しいことも軽いこともあった。
 彼の病歴は明らかではないが、性格においてきわだった特徴があった。極端に食べ物を気にする性質でそれに関しては非常に気難しかった。「彼は一口食べるごとにそれをフォークにのせて光にかざし、仔細にながめた後にやっと口に運ぶのだった」(11)女性には興味を持たなかった。人に対する親愛の情もなかった。彼を育てたグレゴリーは当惑して「あれは人間じゃない、化け物だ」と言った。(11)
 彼の父親が老カラマーゾフであることは疑えなかったにしろ、彼が他の異父兄弟から同等に扱われることはなかった。彼はカラマーゾフ家のコックをしていた。

ドストエフスキーが描いたスメルジャコフの心因性発作

 老カラマーゾフは殺害される。物語の展開とともに、スメルジャコフがどのようにして罪を犯し、最年長の兄ドミトリーに罪がなすりつけたかが明らかにされていく。1960年に出版された英訳では次のように描かれている。

イヴァンが、父親が殺された日に起こした発作についてスメルジャコフに訊ねると彼は次のように答えた。

「あなたは立っておしまいになった、それから、わたしは穴蔵におちました・・・・」
「発作(fit)でかね、それともやらせ(sham)かね?」とイヴァンは聞いた。
「もちろん、やらせに決まっていますよ。いっさいがっさいやらせです。こっそりと階段を下までおりて、静かに横になってから、喚き(scream)だして、老カラマーゾフがいる隣の部屋に運ばれるまで、ばたばたもがいて(struggle)おりました」

イヴァンは、スメルジャコフをみくびっていたことを思い知らされる。「おまえは、ばかじゃない・・・」(1)

1994年に発行された英訳では次のように訳されている。

「あなたは立たれ、私は地下室の階段を転げ落ちたのでございますよ」
「発作(fit)でかね、それとも振り(pretending)をしたのかね」
「もちろん、振りでございますよ。終始、振りをしておりました。地下室の階段を下までひっそりと下りて、そこに静かに横たわってから、金切り声でわめき(shriek)始めたのでございます。そこから連れ出されるまでわめき(shriek)続けておりました。(12)

考察

 屈辱的な名前で呼ばれた私生児の孤児スメルジャコフは彼を拒絶した人たちを破滅させることにより復讐を遂げる。(13) 父親を殺し、最年長の兄に罪を負わせる。偽発作を利用したスメルジャコフの策略によって捜査は裏をかかれ、知識人たちもだまされる。スメルジャコフが本物のてんかん発作と偽発作の両方を使い分けていたことが明らかになる。
 生涯にわたって発作に苦しんだドストエフスキーではあったが、時として発作が利用できることを明確に認識しており、スメルジャコフによってそのことを明らかにしたのだ。
 25年前の手紙に書いたようにドストエフスキー自身が「あらゆる種類の発作を起こした」ことを、死がまじかな最後の小説の中で、我々に思い出させようとしたのかもしれない。

REFERENCES

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3. Gastaut H. New comments on the epilepsy of Fyodor Dostoevsky. Epilepsia. 1984;25:408-411. ISI | MEDLINE
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8. Freud SL. Dostoyevsky and parricide. In: Halliday J, Fuller P, eds. The Psychology of Gambling. New York, NY: Harper & Row; 1975.
9. Freud SL. Letter to Stefan Zweig, October 19, 1920. In: Stern T, Stern J, eds. Letters of Sigmund Freud. New York, NY: Basic Books Inc Publishers; 1960:331-333.
10. Troyat H. Firebrand: The Life of Dostoevsky. New York, NY: Roy Publishers; 1946.
11. Dostoevsky F. The Brothers Karamazov. Garnett C, trans. New York, NY: The New American Library; 1960.
12. Dostoyevsky FM. The Brothers Karamazov. Avsey I, trans. Oxford, England: Oxford University Press; 1994:784.
13. Morson GS. Verbal pollution in The Brothers Karamazov. In: Bloom H, ed. Fyodor Dostoevsky's: The Brothers Karamazov. New York, NY: Chelsea House Publishers; 1988.

原典:

Journal: Arch Neurol. 2001 Aug;58(8):1305-6.
Title: The epilepsy of Fyodor Dostoyevsky: insights from Smerdyakov Karamazov's use of a malingered seizure as an alibi.
Author: DeToledo JC.
Adress:Department of Neurology, University of Miami, 1150 NW 14th St, Suite 410, Miami,FL 33136, USA.
Publication Types: Biography, Historical Article





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