ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.86 発行:2004.8.4



第205回(8月)暑気払・読書会のお知らせ

8月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2004年8月14日(土)
 
 時  間 : 午前9時30分〜12時00分
            
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室5(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
 作  品 : 『いやな話』
         Скверный анекдот
 報 告 者 : 池田和彦氏

 会  費 : 1000円(学生500円)

 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で暑気払を開きます。

 会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
 時 間 : 夕方5時30分〜8時00分頃迄
 会 費 : 3〜4千円




『広場13号』合評会のお知らせ

 8月14日(土)、午後1時から同じ会場・東京芸術劇場小会議室5でドストエーフスキイの会は第165回例会を開催します。今例会は、『ドストエーフスキイ広場 No.13』の合評会です。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。なお、二次会は、午後5時30分から午前中に開かれる読書会・暑気払と一緒に行います。


8・14読書会


 恒例の暑気払読書会は、池田和彦氏に『いやな話』を報告していただきます。ドストエーフスキイ作品にみられる「寝台、眠り、病」は、日頃から氏が探究するテーマの一つでもあり興味がもたれます。午前の開催となりますが、大勢の皆様のご参加をお待ちします。


『いやな話』 ―ドストエフスキイの小説における寝台、眠り、病の一例として―

 報告者・池田和彦                             

 1862年にドストエフスキイの雑誌『時代』に発表された「いやな話」は、改革の時代の気運に酔って人類愛の幻想の駆られた自称進歩主義者の高官プラリンスキイが、貧しい部下の結婚式の宴に場違いに闖入して晴れの宴をぶち壊しにする様を描いて、その似非人道主義とエゴイスチックな人間性を風刺した作品です。似たような人物の登場する話は、ドストエフスキイも加わった可能性があるとされる1847年のプレシチェーフのフェリエトンにすでに見られ、同時代には自由主義者の民衆との乖離、無理解を風刺したシチェードリンの作品もあって、テーマそのものはとくに珍しいものではありませんでした。時事的な軽い風刺作品として読み流され、とりたてて論じられることのない作品ですが、ドストエフスキイ自身が編集する雑誌に載せた作品だっただけに内容、長さとも比較的自由に伸び伸びと書かれているようで、ていねいに見ればそれなりの特徴をもった作品であることがわかります。
たとえば、物語の初めのほうでステパン・ニキーフォロヴィチの発した「持ちこたえらないだろう(耐え切れないだろう)」という言葉が小説中で繰りかえされ、最後にそれがブラリンスキイ自身によって成就されるという整然とした構成、奇妙な名前の登場や民衆の言葉使い、ペテルブルグ言葉への注目にうかがえる言葉への関心、反復される「いやな(おぞましい)」(スクヴェールヌイ)の語のアイロニカルな性格、結婚の宴に入り込んだプラリンスキイの刻々の意識、認識の変化が時間の経過にそって克明に描かれること、など。
 なかでも、スキャンダラスな事件のクライマックスにあたる場面に、プラリンスキイが占拠してしまう婚礼のベッドと、それに代えて新婚夫婦のために急遽作られたベッド(寝床)が巧みな道具立てとして登場してくるのは、いかにもドストエフスキイ的な舞台設定として注目されます。というのも、寝台あるいは寝床は彼の前期の13の作品中9つの作品に、後期の13の作品中12の作品に登場して(『作家の日記』は除く)、前期の作品では『プロハルチン氏』『他人の妻とベッドの下の夫』『女主人』『ネートチカ・ネズワーノワ』、後期では『虐げられた人々』『地下室の手記』『罪と罰』『永遠の良人』『カラマーゾフの兄弟』などに見られるように、しばしば物語の重要な舞台となっているからです。このように寝台(寝床)の頻出する理由の一つには、眠りや病が彼の作品によく出てくることがあります。
 今回の報告では「いやな話」の上のような特徴を概観したうえで、この作品をひとつの端緒として、寝台の場やそれと関連して登場する眠り、病がドストエフスキイの作品でどのような役割をはたしているか、そしてそれが彼の小説の特質とどのようにかかわっているか、考えてみたいと思います。
          




ドキュメント『いやな話』



 『いやな話』は、1862年12月、『ヴレーミャ(時代)』11月号に発表された。ドストエーフスキイ42歳のときの作品。シベリアからペテルブルグに戻って2年目。第2の人生に、ようやく慣れはじめた頃の作品である。創作活動も『小英雄』『伯父様の夢』『ステパンチコヴォ村』『死の家の記録』『虐げられた人々』と次々に発表、軌道に乗り出していた。が、反して時代は、農奴解放宣言発布で、大きく揺れ動きはじめていた。ペテルブルグに移ってから、発表までの2年間を年譜から追ってみた。(『ドストエフスキー写真と記録』論創社 編者V・ネチャーエワ 編訳中村健之介 『ドストエーフスキイ全集』参照)

1857年2月6日 クズネーツクにてマリヤ・イサーエワと結婚 36歳)

1859年12月末日 ペテルブルグへ移る。39歳

1860年1月 『ドストエフスキー作品集』二巻出版、発行者N・オスノフスキー
     4月 作家たちによるゴーゴリの『検察官』の慈善公演 ドストエーフスキイは郵便局長シュベーキン役で出演した。
     6月18日 雑誌発行の請願書提出
     7月 8日 ペテルブルグ検閲委員会は、ミハイル・ドストエーフスキイに月刊誌『ヴレーミャ(時代)』の発行を許可する。
     9月1日 「ロシア世界」紙(67号)に『死の家の記録』を掲載開始。
     9月〜  いろいろな新聞に『ヴレーミャ』の主張広告が掲載される。
1861年1月 『ヴレーミャ』1号に『虐げられた人々』の最初の部分を発表(7号で完結)
    農奴解放宣言公布 いわゆる大改革の時代はじまる。「解放」の実体に失望した農民たちの反抗。騒乱が各地に発生。

     4月  『ヴレーミャ』に『死の家の記録』の続きを連載開始。
     9月 アポリナーリヤ・スースロワと知り合う。
     12月 M・アントノーヴィチの論文「土壌」について(農学上の意味におけるそれではなく『ヴレーミャ』の精神におけるそれについて)がきっかけとなって「現代人」との間で論争。
1862年1月 『ヴレーミャ』に『死の家の記録』第2部の掲載開始(2、3、5、12とつづく)
    (ツルゲーネフ『父と子』発表)
    3月2日「貧困文学者・学者を援助する会」に出席。他にネクラーソフ、チェルヌィシェフスキー、クローチキンなどが参加。
     5月 P・ザイネフスキーの檄文「若きロシア」がまかれ、ペテルブルグに火事続出。
     6月  外国旅行に出発。 
     6月15日 パリ到着。(ペテルブルグの火事を論じた『ヴレーミャ』の論文二編、検閲により掲載禁止)
     6月27日 ロンドンへ
     7月4日 ゲルツェンを訪問(「昨日、家にドストエーフスキイが訪ねてきた。内気で、少し怖気づいていたが、心の優しい男だ。ロシアの民衆を熱狂的に信じている」)(7月チェルヌィシェフスキー逮捕)
     8月  ペテルブルグ到着。
    12月『ヴレーミャ』12月号(『写真と記録』は11月号)に『嫌な話』を発表する。


『ヴレーミャ(時代)』について(『写真と記録』他から)

 1859年12月末、ドストエーフスキイは10年ぶりにペテルブルグに帰ってきた。
「60年代のロシアは、農奴解放(1861年)、地方自治会の創設(1864年)、陪審員制裁判の導入(1864年)と、社会機構の改革が次々と実行に移されていく時代、「大改革」の時代である。知識人たちはそれぞれの主義主張によって雑誌を拠点として集結し、社会に向かって盛んに発言した。青年たち(人々)は、輝かしい未来を期待して興奮していた。そういう活気あふれる「60年代」の直中へ、ドストエーフスキイは帰ってきた。
 機を見る目のあったドストエーフスキイは、さっそく兄ミハイルを語らって月刊誌『ヴレーミャ』を創刊して時代の論争の流れに漕ぎ出してゆく。60年代のドストエーフスキイには、ロシアの使命や社会のあり方を声高に論じる社会評論家・政論家の面が大きくひろがる。そこが40年代のドストエーフスキイとの違いである。(V・ネチャーエワ)

雑誌創刊の動機

 スラブ人は、自分たちの根本となる特性を守り抜くという生来の性向がある。保守派のなかでも、スラブ至上主義というのは、ロシア的というよりモスクワ気質のようなものだったまた一方、自由進歩派というのは、ロシア人というより西欧人に近い。この二つの両極の間に、中道をゆく穏健派がいるが、これがもっとも賢明な意見をもっていた。ドストエーフスキイはは、この中道派でありたいと願った。
 ところが読者の方はでは彼の心中は察してくれない。理解しようとする努力もしてくれない。学生たちにしてみれば、ドストエーフスキイはあくまでも元徒刑囚であり、自由の身になった殉教者にしかみえない。/彼はストラーホフに、学生たちに『死の家の記録』の抜粋を大声で朗読させられて、どんなに辟易しているかを語っている。「公衆の面前で、ひっきりなしに同情をひこうとしているみたいですよ、これでは!いつだってぶつぶつ不平をいって!こんなことはすべきではないのに・・・」
 勝手に作り上げられたこの虚像に、次第に堪えがたくなった彼は新たな試みに、一歩踏み出した。ドストエーフスキイは兄ミハイルと組んで、評論雑誌を出版することにした。この雑誌の出版許可は、1858年に申請され、10月31日に検閲の許可が下りた。だが、実際に出版に着手したのは60〜61年にかけてだった(アンリ・トロワイヤ)

 「いいや、兄さん、ひとつ考えてみる必要がありますよ、それも本気になってね。思い切って、何か文学関係の事業に乗り出す必要がありますよ。たとえば雑誌をだすとか・・・・」     1859・11・12書簡





『いやな話』評



米川正夫『ドストエーフスキイ全集』

 ゴーコリ的な官吏の世界を取り扱った短編であり、同じく諷刺とユーモアを狙ったものであるが、『鰐』の基調がファンタスチクであるのに対して、これは本格的なリアリズムの手法で書かれている。主題は、農奴解放直後の自由主義・進歩主義の流行が、軽佻浮薄に陥りやすいのに対して、一つの警告を発することであろう。また、当時の青年層を牽きつけた民衆との接触という思想が、はかない幻滅に終わりがちであった社会現象を、ユーモラスな筆致で描こうという意図もあったろう。 とまれ『いやな話』はしかく開き直って論ずるほどの重要性を有していないけれども、すでに十分円熟しきったドストエーフスキイの筆は、この短編に重厚な芸術味を盛ることに成功している。


中村健之介氏著書『ドストエフスキー人物事典』
 
・中間点に位置する作品
ドストエフスキーの『罪と罰』以前の中編短編群と『罪と罰』以降の長編群とを分かつ一つの目印は、前者では殺人は起こらないが、後者では起こるということである。ちょうど中間点に位置するこの『いやらしい小噺』は、殺人事件は起きても当然なのにまだ起きないという、曖昧な、中間的な終わり方をしている。
・ドストエフスキー文学の魅力
ドストエフスキー文学の愛読者の多くは、ドストエフスキーに引き込まれた理由として、かれの「哲学的思想」をあげるがしかし、浮動する現象のような人間の内界の的確で繊細な表現に惹かれてドストエフスキーを読み続けている人も少なくないだろう。
主人公プリンスキーのけがらわしくも滑稽な、情けなくも深刻な悲喜劇が、ストーリーはもうすっかり覚えてしまっているのに、この物語をまた読みたいという気持ちにさせる。そこに描き出されている敗者の心理と感覚は、繊細で豊で活力にあふれている。そこにはドストエフスキーの才能が感じられる。それがあるから『いやらしい小噺』は、ドストエフスキー的傑作となっているのである。
・この作品が伝えたかったこと
 『いやらしい小噺』の冒頭には、この作品が、農奴解放でわきたつ「ヒューマニズム」の時代、すなわち1860年代初めのロシアを語る「小噺(アネクドート)」であると明言されている。つまりこの小説には、プラリンスキーのような自立していない人間が「われらの同時代人」なのだという、作者の社会批評の意図がこめられているのである。
 「ヒューマニスト」のプラリンスキーと対比されて、かれの同僚の上級官吏は、社会の変化を嫌い保守を旨としている階層の代表として書かれている。「かれらは、自分がどこまで昇って行けるかよく知っており、どこからは絶対に先に行けないか、なおよく心得ていて、結構な椅子を見つけて座ったものだから、どっしり座りこんで立とうともしなかった。」
 そしてプラリンスキーのような、確たる信念もない「おぼっちゃん」「一種の詩人」だけが「新しい時代だ、人道主義だ、解放だ」とはしゃいでいる。「われらが同時代人の進歩派は、このプランスキーの類なのだ、と作者は言いたそうなのである。
・一つのサイクルをなす同種の作品
 この時期に書かれた『いやらしい小噺』『夏の印象をめぐる冬の随想』『地下室の手記』『わに』といった作品は、そういう意味(偽ヒーローあばき)で一つのサイクルをなす同種の作品となっている。





『死の家の記録』まで A


 そもそもシベリアに行かなかったら、この作品はなかった。そうして、後の大作も書けたかどうかわからない。その意味では、シベリアはドストエーフスキイにてとってまさに人間万事塞翁が馬ともいえる舞台だった。が、その発端はすべてペトラシェフスキイ事件にある。ドストエーフスキイの人生を変えた事件。『死の家の記録』を知るには、もう少し詳細にこの事件を知る必要がある。故に、その経緯を参考資料から追ってみた。
(参考文献:原卓也・小泉猛編訳『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』集英社中村健之介訳ペリチコフ編『ドストエフスキイ・裁判記録』現代思想社。V・ネチャーエワ『ドストエフスキー写真と記録』論創社。米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』など)

釈明

1849年4月22日未明、ドストエーフスキイはサンクトペテルブルク第一局皇帝直属官房第三課によって国家反逆罪の咎で逮捕された。不法逮捕だったのか。取り調べ室でドストエーフスキイは、このように釈明した。ベリチコフ編『裁判記録』中村健之介訳から。(抜粋)

・ドストエフスキイの釈明

 私に要(もと)められたのはペトラシェフスキイおよび彼の家に金曜日毎に集った者たちについて私の知るところをすべて話すようにということ、すなわち、色々な事実の証言とそれらの事実に関する私の個人的な考えであります。私に対する最初の尋問と合わせ考えて私は、自分に要められているのは以下の点についての明確な答えであると判断します。

1、 ペトラシェフスキイは、一般的に人間として、そして特に政治的人物として、如何なる性格であるか?
2、 私の出席した、ペトラシェフスキイ宅での夕べの集りでどのような事が行われていたか。そしてそれらに関する私の見解はどうであるか?
3、 ペトラシェフスキイ宅の会合には何か秘密の隠れた目的はなかったのか?ペトラシェフスキイは危険な人物ではないか、社会にとって彼はどの程度有害であるか?

 なるほど私は金曜日に彼のところへ出かけ、彼もそれに応えて私を訪ねはしましたが、私はペトラシェフスキイと極く親しい間柄になったということは一度もありません。性格においても考え方の多くの点においてもペトラシェフスキイとは、共通点は無かったため、この交友は私としては大切にしていなかったものの一つです。従って私が彼とこの交友を続けたのはまさに礼儀に書けない程度にあり、すなわち彼を訪ねたのも月に一度とか、つまり月単位で、時には更に間遠でありました。といってすっかり離れてしまう積極的な理由は特にありませんでした。/私はいつも、ペトラシェフスキイの性格の中にある多くの風変わりな点や奇人めいた点に驚かされました。/
 ペトラシェフスキイが(政治的人物として彼を観たとき)その思想において自己の明確な体系を何かもっていた。政治的諸事件に対し何か一定の見解をもっていた。とは言い難いと思います。/フーリエの思想を直ちに我国の社会状況に適応させる可能性を考える立場からはペトラシェフスキイはあまりに遠いところにいました。  次号へ




☆ あるメールから

 編集室には、多くのお便りが届けられております。厚くお礼申しあげます。その中に、なんとなく、本人としては『死の家の記録』を念頭に書いた―そう思わせるような、体験記といいますかエッセイがありました。稚拙な文体ですが、珍しさを買って紹介いたします。独断と偏見で…。


汐留青春グラフティ ― 居酒屋に置き忘れていたノートから (2)

前号までのあらすじ

 ベトナム反戦集会で機動隊と衝突があった。デモに参加した私の下宿に刑事がきた。私は一時的に身を隠すことにした。もぐりこんだところは、都会のど真ん中にある汐留貨物駅だった。そこには多くの若者たちが働いていた。挫折した青春。夢と希望にあふれた青春。都会の縮図のような冬の貨物駅。汗と轟音のホームにさまざまな青春を見た。

 私が貨物駅で、最初に親しくなった二人。40番のマツミヤと39番のトオルは、親子ほど歳が離れていそうなのに、よほど気があうのか、よく一緒に作業していた。マツミヤは、秋に会社が倒産したので、貨物駅には職が見つかるまで繋ぎできているのだと話した。しかし、ここに来ていたのでは仕事を探す暇はなさそうだ。横須賀の方に持ち家があり、小学生の子供二人と奥さんがいるとのこと。日曜日にしっかり休みをとっているので、家族サービスかと思いきや、朝から忙しいという。家庭より競馬が好きなのだ。なにしろ週の後半は作業のあいまに競馬新聞をあきもせず睨めっこしている。もしかして、失職したのは、会社の倒産ではなくギャンブルが原因かも。しかし、チャップリンの「モダンタイムス」の主人公のような風貌と服装をしていて、いつも愚痴っている彼を見ていると、やっぱり会社の倒産も本当かな、と思えてしまう。それに開けっぴろげなマツミヤが、そんなことで嘘をつくとは思えなかった。ギヤンブルで職を失ったと言う方が彼には勲章なのだ。
そのマツミヤに比べ、若いトオルは、若者特有の暗さがあった。マツミヤには、気をゆるしているのか、よく話をしていたが、他の人とは会話を避けるようなところがあった。
 「歳、いくつ」マツミヤが休んだ日曜日、貨車の中で聞いたことがある。
が、はじめのうち聞こえないふりをして黙っていた。しばらくしてぶっきらぼうに
「十九だけど、それがなにか」と喧嘩口調で答えた。
親しくなろうと思って聞いたのに険悪な雰囲気になったので、私は笑ってごまかしながら口をつぐんだ。私自身、人に質問できる立場ではないことを思い出した。ここで誰かと、親しくなろうなんて、お門違いだった。気をつけろ。気がゆるんでるぞ!私は、自分に言い聞かせた。それ以来、私は、注意しながら会話した。たいていの臨時作業員はそんなふうだった。しかし例外はある。マツミヤとトオルがどれだけ親しくなっているかは知らないが、後ろから、奇声をあげながら追いついてきた三人組は、正真正銘ダチ関係になっていた。ここですっかり意気投合し、仲良しトリオになったのだ。彼等は、貨物駅では四六時中一緒にいた。貨物駅から外に出てからも行動を共にしているようだ。二十五六だろうか同じ年同士とはいえここでは、珍しかった。
「はーい、お先に」
三人組の一人、二十七番の団卓也が笑い顔をふりまいて追い抜いた。
団卓也が本名かどうかはわからなかった。彼は、小さな劇団の役者らしい。ボサボサの髪に赤タオルで鉢巻していて、いつも愛想よかった。中背の小太りで、どうみても主役にはなれそうもないが、彼は、大真面目で、ジェムス・ディーンが目標だと言っていた。つづいて小柄な高槻がシャドウボクシングしながら、そのあとから、曼陀羅模様の布切れをヘアーバンドがわりにしたヒゲの19番の磯村が鼻歌まじりに「やあ」と一声かけて行った。
 「相変わらず、元気いいね。あの三人」マツミヤは、見送って言った。「役者にボクサーにエレキギター。やっぱり夢あるとちがうね」
「なれるんですか」トオルが羨ましそうに聞いた。
「うーん、しかしむずかしいよ。俳優やバンドのスターになりたい人は、ごまんといるだろうし、ボクシングだって、かんたんにはチャンピョンになれないからね」
「そうだよね41番さん」
「えっ」いきなりふられて私は、あわてて頷いた。「でも、夢があるといいよ。夢があると」
「おじさんもあったんですか」
「あったんですか、って過去形じゃ困るよ。いまだってあるよ」マツミヤは笑う。
「なんです。映画のことですか」
「そりゃあまあ、いろいろさ」
「なんですか」
「言わぬが花なんだ」
「これでしょ」私は、手綱を引くまねをした。
「おいおい、それをいっちゃあお終いだ」
マツミヤは、大袈裟に言ったあと、へへへと気の抜けた笑い声をあげた。
 トオルは可笑しそうに笑った。

(二)              

 休憩場所は、引き込み線ホームの最先端にあった。休憩場所といっても粗末なベンチが二つとタバコのヤニで真っ黒になった半分の石油缶の吸殻入れが一つ置いてあるだけだった。吹きつさらしのホームの端。天気がよければ日なたぼつこができたが、悪ければ目もあてられない。風が強い日や寒い日は、タバコを吸う人だけが集るだけで、吸わない人は空貨車の中か、ホーム中央に積み上げた荷物の間で休んだ。今日のような晴天で風もない日は、すべての作業員、積み荷班も積み下ろし班もみんなぞろぞろ集ってきた。南条班長と、職員、それに古参の季節のおっちゃんたちがベンチを陣取ると、その回りに若い職員や、臨時雇用の連中が腰をおろした。みんな一斉にタバコを吸うので、ものすごい煙りがたちこめた。
「おれ、下に行きます」 
トオルは、マツミヤに告げて線路に飛び降りていった。
広い操車場のうえには、抜けるような青空がひろがっていた。遠くの塀の隙間から新幹線の白い車体が過ぎていくのが見えた。が、音はなかった。まわりに林立するビル群が見えなかったら、とてもここが都会のど真ん中とは思えなかった。いまはラッシュアワーの時間なのに、静寂そのものだった。出勤してきた社員たちが開けるのか、ビルの窓々が光った。
「ぼくはここにするよ」
マツミヤは、日当たりのよい柱にもたれて座って、さっそく競馬新聞をひろげた。
10番の若者藤井は、ホームの先端に行って青空に向かっての背のびをしていた。そのあと、日当たりのよい場所に段ボールの切れ端を敷いてゴロンと寝転んだ。
私は、皆がそれぞれの休憩場所に落ち着いたのをみてから線路に下りると、ホームの下から板切れを探しだしてレールに渡して腰をおろした。足元に霜のついた小石が朝日を浴びてキラキラ光っていた。その光りは郷里の吊り橋の欄干の上に降り積もった霜を思い出させた。学校に行く朝、その霜を人差し指でこすった。霜の粒子が空中に弾け飛んでいくのが面白かった。なつかしい気持ちになってレールの霜をさっとこすった。霜は、もう水っぽくなっていて、粒子の飛沫とはならなかった。私は、冷たくなった指先を頬に押し当てながらホームに目をやった。
 忙中閑あり。ホームでは皆、思い思いに休んでいた。元気者の仲良し三人組は団と磯村が、喫煙組の仲間入りしてタバコをふかしていた。高槻は、一人離れたところであきもせず、シャドウボクシングをつづけていた。上体をくねらせながらのフットワークが軽快だ。本当にボクシングのチャンピョンを目指しているのかも知れない。夢のある彼らをみていると、ここにいることが楽しく思える。が、自分のことを考えると焦った気持ちにもなる。いつまでいようか。学校はどうしょうか。さまざまな思いが交差した。「まだ、そこにいた方がいい」先日、電話した、親しいリーダーが深刻な声でそう言った。なにか内紛があるらしい。運動がセクトに分散しているとのことだ。巻きこまれたくなかったら、ここにいるしかない。それもいいか。私は、自分に言い聞かせながら柱にもたれてうつらうつらしている大男の小林を見た。彼は、いつも浅黒い顔をニタニタさせて、ひとり言を言っているので、薄気味悪かった。15番というだけで、彼のことはなにもわからなかった。「ショム帰りだよ」こんな噂がたっていた。それでか、小林に話しかける人は誰もいなかった。45番の平岡は、空台車の上でぼんやり日当ぼっこしていた。彼も、たいてい一人でいた。口数が少なく、誰かと会話しているのを見たことがなかった。彼もわからないといえば、わからない臨時作業員の一人だった。もっとも彼の場合、はっきりした噂があった。真価はわからなかったが職業は、プロ野球選手だという。彼自身が言ったわけではないが、プロ野球通の高槻は真顔で
「大洋のリリーフ投手だよ。ワンちゃんキラーで有名だよ。ほんと」
 と、説明していた。が、団と磯村は
「だったら一軍の選手だぜ、そんなのがくるかよ。こんなとこに」
と、てんで相手にしていなかった。
私も信じられなかった。どう見たって平岡は失業中のおとなしい青年にしか見えなかった。王選手といえばプロ野球界一の打者である。そのワンちやんキラーなら、それはそれで凄い投手といえる。そんな人が来るだろうか。丸一日泊まりで働いても六千円の貨物駅に。
 自称フリーのカメラマンで株の相場師というという早川は、段ボール箱の荷物をベットがわりに寝転んで、週刊誌を読んでいた。ウソか、ほんとか、彼はここには痩せるために働きにきている、と自慢していた。確かに体は、小太りで、上下揃いのジーンズがはちきれそうだった。彼は、いつも冗談をとばす陽気な性格で、血色のよいてかてかした張りのある顔と、糸くずのようにチリヂリにしている長髪は、自称三十三という年齢より若く見えた。荷物の多い日は、彼は荷物の山を前に
「これで、痩せられるぞ」
と大張りきりするのだが、なぜかそんな日に限って、トイレにちょくちょく行った。
「そのうち有名になるからよ
彼の口癖だった。
 ど近眼の17番畑野は、鉄柱に背をもたせて居眠りしていた。本人は自分のことを受験生だといっていたが、だれも信用していなかった。青白くむくんだ顔はどう見ても二十歳過ぎだったし、それに第一この季節、ここにいるのも変だった。
「だれも本気になんかしちゃあいないさ。グズラが大学を受けるなんて」
これも高槻が笑って話していた。
彼らは三人組は、畑野にグズラとあだ名をつけて呼んでいた。畑野は、一応受験生というだけあって、ホームの柱に英和辞典を置いていて、休憩時間には、ひろげてながめていた。が、今朝はくたびれてか、手にしていなかった。ボサボサ髪の頭がガクンとなるたびに度の強い眼鏡の光がキラリと流れた。
 突如、ホームで爆笑が起こった。見ると、南条班長が大口を開けて笑っていた。季節のおっちゃんたちもニヤついている。猥談をしているのは想像ついた。朝、栃木や茨城から出勤してくる季節のおっちゃんたちが、よく電車の中の痴漢話しをしているからだ。
 いつも憔悴しきった顔の倉持社長も、皆より一テンポ遅れでニヤついていた。倉持社長は、下町で工場を経営しているとかいう人で、それで社長と呼ばれていた。ベンチ周辺にいる人間で一人だけ笑っていない者がいた。パチキチの須藤だった。彼は、話の輪には入らず、一人きょろきょろしていた。たぶん誰かにタバコをもらおうとしているのだろう。彼は、だれかれとなく借金を申し込むことで有名だった。はじめ三百円、貸してほしいという。断わられると二百円、百円と落として、最後には、十円でもいいからというのだ。マツミヤは、二百円貸したが、なかなか返さないとボヤいていた。
                                        (次号につづく)




書 評


清水正著『志賀直哉とドストエフスキー』を読んで          

金村 繁                                        

 題名を知ってやや意外だったが、早速一読してなぜ著者がこれに取り組んだのか判ってきた。しかも中断なく筆を進めたのか後段になる程電圧が上がっている。対象とされたのが私小説なので更に続編を期待する。この評論集には焦点が二つあって双方関連がある。一つは姦淫の戒めで次ぎに父子憎悪である。
 まず姦淫の罪では直哉が内村鑑三の許へ7年間通ったことと切り離せない。勿論内村は自身もこの十戒の1項に悩み抜き、徹底追求したようだ。或る記事によれば、結局聖書の原典に当り、ただ女ではなく他人の女つまり人妻であると判って安堵したとある。なぜ内村が直哉の苦悩の告白に自分の体験を教示しなかったか判らぬが、両者の師弟関係を知る手がかりになるかも知れない。直哉が綿々とと書きつらねた痴情痴考痴態は、著者もいうように真に「生温かきもの」で基督者でなくとも吐気を催す。同じ痴態でも葛西善蔵、近松秋江また時に嘉村磯多のそれに比べて純度が全く異質である。
 次に父子憎悪についても直哉の家系をもっと検証する要がある。志賀家は代々相馬藩の家老で、直哉が無条件に敬愛した祖父直道は相馬子爵家の家令であった。裕福であったのは家産ゆえで直哉が学習院に行ったのも準家族の為であり、父直温が一代で財をなしたとは少々事実と違うと思う。しかも祖父は家令として精神異常?の当主誠胤を押込めにして自称忠臣の旧藩士某と有名な「相馬事件」の当事者で、直哉も作品中一箇所触れている。父との対立の一つにも足尾鉱毒事件があり、これも小さく出ている。『暗夜行路』中での「芝の祖父上」は実の祖父像だろうが、彼が一番罪を知るように書いてあるのは皮肉である。同様に父(異父兄)が「常に冷たかった」のも近親憎悪の実感に違いない。
 さて総合してみると、初めに一読して怱ち思ったのは「直哉もいい気なもんだ」であったが、読み直すと著者も『大津順吉』の終わりの所で全く同じ表現をしていた。しかし私は彼の全芸術全人生が同じ文句で括れると考えている。芥川がとても叶わないと観念してやがて自殺し、太宰治は歯軋りして抵抗したものの女に無理心中をしかけられて自滅したのも両人の弱さゆえと同情する。直哉は先祖の家系通り近代を経由しない。「古武士」であり、小説の神様だの達人とか崇めた尾崎一雄や阿川弘之も彼の猛毒に気付かない純朴な日本人と考える。なお直哉にはナルシシズムもあり、運動の得意を自ら書いているが事実棒高跳びも名手だったらしい。また『萬暦赤絵』にもそれと判る箇所がある。いずれにせよ父以上に横暴な家父長だったことも証言もあまたありたしかである。
 最後に、この書は献辞にあるように著者の亡父への鎮魂の譜である。私のこの書評も「身勝手」なものだが著者への親近感は益々強まってきた。(了)


佐々木美代子著『ホロコースト記を読む』を読む           

下原 康子                                                  

「ホロコースト」についてではなく、「ホロコースト記」について書かれた本である。
書評としても成功しているし、評論としても評価できる。しかし、本書は書評でも評論でもない。著者自ら述べているように「テーマを設定した読書記」である。長年読み続けてきた「ホロコースト記」中から選りすぐりの8作品をたどる旅。読者はその旅に同行しながら、次第に著者が自身を語る声に耳を傾けていく。
 8作品のすべてを読んでみたいと思った。中でも「第2章:詩人のまなざし」の2作品。少女時代に収容所を体験した二人の女性詩人の言葉が心に残った。
「わたしたちのだれひとり 帰っていくことはない。わたしたちのだれひとり 帰っていくべきではなかったろう」と書いたシャルロット・デルボー。
「わたしの身になってもらうには及ばない。むしろ私の身になど、なってくれないほうがありがたい。・・・・・でも少なくとともピリピリ感じてほしい。自分の砦にこもらないでほしい。・・・・・ けんか好きであれ。論争を求めよ」と書いたルート・クリューガー。
 深刻で地味なテーマの読書記でありながら、読書の楽しさ、豊かさを十二分に伝えている点において、本書は「読書のすすめ」また「図書館のすすめ」を体現している。
 また、ホロコーストのメッセージにおける「書くこと」の意味を問うかたちで書かれた読書記で自らも「書くこと」の意味を提示している。

 この7月末、佐々木美代子さんのお父様がご逝去されました。看病に帰省してのお見送りだったそうです。お悔やみ申し上げます。
『ホロコースト記を読む』(論創社 定価2200円+税)を購入希望の方は「読書会通信」編集室にご連絡ください。


蝦名賢造著  『いかなる星の下に』
写真・蝦名千賀子 新評論 定価(2400+税)
    
【解説】小玉晃一(青山学院大学名誉教授)
    
                                   
著者の蝦名賢造氏は、経済学者(財政学)であり、(札幌学)(北海道学)の第一人者である。そして文学とも無縁の人ではない。というのも蝦名氏には『新新渡戸稲造』、『天野貞祐伝』、『遠藤幸吉伝』、『稲葉秀三』、『石館守三伝』、『隅谷三喜男』などの伝記のほか、シベリア捕虜収容所四年間の兄熊夫の<記録>を編集した『死の家の記録』につけた<回想文>、ならびに最初の夫人との第二次大戦中の結婚生活を書いた自伝『戦中、われらが愛』などで、伝記作家としての才能を十分に示しているし、その上、以上の作品群は、小説的であり、その文学性は極めて高い。/本自伝は全体として蝦名氏の手なれた筆致で描かれているが、なんといっても圧巻の部分は第五章の「お茶の水・本郷界隈」の姉絹子の日記である。貧しさのなかで肺を患いながらの日々は痛ましい。ここは<闘病文学>である。もう一ヶ所は第一四章の「父と子の対話」である。年老いた父と不自由な身体になって帰ってきた兄熊夫との対話の部分である。寒い外には雨が降っている古ぼけた山小屋で、なんの未来もない二人の会話。これほど心を打つものはない。

本書購入希望の方は、新評論(03-3202-7391)か「読書会通信」編集室にご連絡ください。




6・19読書会

 6・19読書会は、熊谷暢芳さんが報告されました。配布資料の項目に添っての緻密なレポートでした。工藤精一郎訳の読みで「強制された強制生活」に着眼。前半をカーニバル的、後半には暗さがあるとし、作品の計算された手法を考察しました。
 質疑応答で作品の構成について、参加者から次のような感想があった。
 「夏目漱石が触れている」「ルポルタージュ」「どのへんを読ませるか」「三面記事を読む楽しみ」「主人公が快方に向かう」「導入にあわせて構成されている」「ワイドショー的」「殺人に関する考えがげんだいの日本に似ている」など。




掲示板


・世田谷市民大学後期受講生募集 03-3412-0300事務局
 日 時:9月17〜10月22日 毎週金曜日(全6回) 18:00〜20:30 定員50名 受講料5千円
 講座名 「よくわかるドストエフスキー」
 講 師 中村健之介氏(大妻女子大学教授)

 ドストエフスキーの小説はむつかしい、と思いこんでいる人たちがたくさんいます。ところがドストエフスキーの世界は、生と死についてかれの感覚を鍵として扉を開くと、とてもわかりやすくて、しかも私たちに身近な世界だとわかるのです。『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』などを取り上げながら、感覚の面からドストエフスキーの事実に迫ります。ドストエフスキーが会いに行った、神田のニコライ堂のニコライの話もいたします。




寄稿エッセイ


譚詩 福音書異聞                       
  
 後藤 基明                              
                                                

 向こうから人がやって来る。福音書の作者の一人であるマルコさんではないか。おかしなことだ。顔も知らないというのに、何故ご当人だと見極めることができたのだろう。
「唐突にすみません、マルコさんですね。ここは、説いていた復活の世界ですよね」
「確かにそうだ。あんたみたいな人が紛れ込んでくるので、こうして待っていたのだ。生半可に復活を信じたりする者がいるからだ」
「あんたみたいな、とはどういうことですか」
「人間死んでしまえば、全てお仕舞い。空しいと、ムナシイ病に取り憑かれた者のことだよ」
「よくお見通しで。だから、あの記事がぐっときたのです。また、生半可、とは?」
「人間の世の中を精一杯、いきいきと生きずに、嫌々生きてきたということだよ。そんな人間が復活したところで、再び嫌々生きることになる。だから、娑婆へ戻す前に、そのよくない根性をたたき直すのだ。ここは、煉獄ではなく、錬国なのだ」
いったい、ここは何処だ?霧だか靄だかが立ち込めているだけではないか。
そうだ、すっかり忘れていたが、いま思い出した。俺は一度死んだのだ。そして、この世界へとやってきたのだ。あの「マルコによる福音書」や「パウロの手紙」の復活についての記事を何回も読んでいるうちに、自分もそんなふうに甦ってみたいものだと願っている間に、身もろとも甦ってしまったのだ。
「また、人間世界へ帰されるのですか。それで、どんな訓練をするのですか」
「そうだ、戻ってもらう。どんな訓練だって?自分で考えてやれ」
「マルコさんは、宗教の聖典をつくるために、福音書を書いたのではないのですか」
「いや、わしもホームレスのイエスをモデルにして、過激な世捨て人の物語を書いた。そこで、ムナシイ病患者のために、少しでも癒しになればと思って、頭を捻りイエスの復活を創作したまでだ。しかし、わしの知らぬ間に誰かが潤色して、イエスをキリスト(救世主)に仕立て上げ、他のイエス物語も集めて福音書が作られてしまったのだ。しかもあのパウロ氏が、あちこちへ手紙を出し、わしの書いたイエスの復活から、さらに一般の人間の復活について、とことん説きまくったのだ。あんたが言った『ぐっときた』というのは、このあたりからではないか」
 ふと、頭をもたげてみると、もうそこにはマルコさんの姿はどこかへ消え去っていた。
 人っ子一人見当たらない、砂と岩の火星のようなこんな世界にいるより、地球の人間世界へ一時も早く、帰された方がましだ。
 そうだ、自分には果たすべきことがまだ残されている。本懐を遂げることは出来ないかもしれないが、一歩一歩突き進むことだ。再復活だ。
 「自分で考えてやれ」マルコさんの言った言葉がいつまでも耳に残った。(了)





次回の読書会

第206回10月読書会

 月 日 : 2004年10月9日(土)
 時 間 : 午後6時〜9時00分
 会 場 : 東京芸術劇場小会議室1 JR池袋駅西口徒歩3分 03-5391-2111
 報告者 : 未定
 作 品 : 「死の家の記録」 




6月19日(土)の第2004回読書会の参加者19名の皆様でした。





編集室便り


 7月24日夕『伊那谷少年記』出版記念を新宿センチュリーハイアット東京で祝っていただきました。ご挨拶された木下豊房先生はじめ幹事や司会でご尽力くださった福井勝也さんや横尾和博さんには改めて感謝申しあげます。また、ご出席くださった大勢の会員の皆様にもこの場を借りて厚くお礼申し上げます。
 
ドストエーフスキイ情報、ご意見、紹介などありましたらお寄せください。

皆様よりカンパいただきました。お礼もうしあげます。 

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