ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.85  発行:2004.6.10



第204回(6月)読書会のお知らせ


6月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2004年6月19日(土)
 
 時  間 : 午後6時00分〜9時00分
            
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
 作  品 : 『死の家の記録』
            Дядющкин сон
 報 告 者 : 熊谷暢芳氏

 会  費 : 1000円(学生500円)

 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で新年会を開きます。

 会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
 時 間 : 9時10分〜11時00分頃迄
 会 費 : 3〜4千円



6・19読書会報告要旨


『死の家の記録』について                      
 
 報告者・熊谷暢芳                                          

 ドストエーフスキイのシベリア流刑は、後期ドストエーフスキイの作品に決定的な影響を及ぼし、その作品群を世界文学のレベルに一気に引き上げた。彼のその体験を直接反映する作品としてこの「死の家の記録」は、大きな価値をもつ。確かに、そこに登場するユニークな人物たちは、明らかに後期作品群のヒーロー達の面影を、原初的な形で宿している。しかし、この作品の価値はそうした資料としてのみあるのではなく、作品自身の魅力にある。後期の作品がこの世に姿を現す前に、すでに「死の家の記録」はそれ自身の力によって名声を得ていたのだ。
 その魅力は、一つには流刑地に置ける罪人という、異常な状況に置ける異常な人々を驚くほどのリアリティーを持って描ききったことによる。そこには我々が決して経験することのない世界が描かれている。もう一つは、この作品がルポルタージュ風な形を取りつつ、優れた緊張感のある構成を持っていることにある。
 この緊張感は基本的には、懲役という、人間の生を徹底的に限定する特殊な時間と空間の性質によって生み出されている。彼らだけではない、あらゆる人間に共通の生の限定性が露骨な姿で、この作品の中に描かれているのだ。これらの、時代と場所と境遇を異にする者たちの話が、これほどまでに切実に興味を引く理由はどうもそこにあるらしい。
 その期間が人生の中の無意味であるような懲役の時間、共同生活を強いられる密閉された空間。この二重に拘束された地点から、人間の願望が解放された時空として幻視するのがロシアの大地性かもしれない。それは、同時に反転して、限定された生を生きる人間が、際限のない広がりに接したときに不意に訪れる、あの「永遠の憂愁」をもたらすものでもあるのだが。死の家の記録に描かれた、時空の緊張感は、この作家の生来の資質である空間に対する際だった感性と相まって、ムイシュウキンやスタブローギンの見るヴィジョンへと引き継がれていく。
 読書会では上記のテーマで、限定された時間と空間の赦す限りまとめた報告を手短に発表したい。人物論に触れないのは特別な意図があってのことではなく、登場人物の名前を全然覚えられないからで、むしろ参加者の方たちからの積極的な御発言を期待しています。





ドキュメント『死の家の記録』



「監獄は長い学校だった!!」(『作家の日記』)

 『死の家の記録』は、1849年、ドストエーフスキイがいわゆるペトラシェーフスキイ事件に連座して1850年1月〜54年2月まで、28歳から32歳までの4年間、シベリアのオムスク監獄で懲役刑に服したときの体験記である。作品が、発表されるまでを追った。

1850年 1月23日 オムスク懲役監獄に到着。約150人の囚人たちとの生活がはじまる。

「ぼくは懲役生活の中から、どれだけ民衆のタイプや性格を学んで来たことでしょう!」

1854年2月中旬  出獄。
3月中旬 シベリヤ歩兵大隊の一兵卒としてセミパラーチンスクに到着。第7守備大隊第一中隊に無期兵卒として編入される教員イサーエフの妻マリヤ・ドミートリエヴナと知り合う。
1855年 セミパラチンスクの隊で下士官として服務。このころ『死の家の記録』の草稿がなされたといわれる。
1857年 36歳
1857年2月6日 クズネーツクにてマリヤ・ドミートリエヴナと結婚
1859年3月 38歳 『伯父様の夢』、『ロシアの言葉』誌に掲載される。
1859年10月9日 書簡「兄ミハイルへ」

 「/この『死の家の記録』はぼくの頭のなかで、完全なはっきりしたプランができあがっているのです。それは印刷6台か7台分の本になるでしょう。ぼくという人物は消えてしまって、それは無名氏の手記なのです。しかし、面白いことはぼくが保証します。興味はじつに深甚を極めています。その中には、真面目なもの、陰惨なもの、ユーモラスなもがあって、特殊な徒刑囚のニュアンスを帯びた庶民の会話(ぼくは現場で書き溜めたいろいろな表現のうち、2、3のものをあなたに読んで聞かせたことがあるでしょう)、それから、これまでかつて文学に現れたことのない人物の描写、感動的な要素、それに、――これがいちばんかんじんなのですが、ぼくの名前。プレシチェーエフがあの詩の成功を自分の名前のせいにしたのを、思いだしてください(わかるでしょ?)読者が貪るように読み終わるのを、ぼくは信じて疑いません。しかし、これを雑誌に掲載するということは、今の場合よくありません!ぼくらは単行本として出版するのです。/しかし、もしかしたら恐ろしい不幸が襲うかもしれません。それは発禁です(もっとも、ぼくは完全に、最高度に、検閲を満足させるような書き方ができると確信しています)もし禁止されたら、全編を独立した文章に分けて、方々の雑誌に断章として載せるのです。/ぼくはそれを確信しています。まして、単行本として発売される『死の家の記録』が読者の興味をひいて、同時に市場へ出る著作集をも引っ張ってくれるからなおさらです。/『死の家の記録』の印刷費は300ルーブルかかるでしょう。/『死の家』が売れて行くと、それがぼくに立派な、そして正確な 生活費を供給してくれます。これが本屋に関するぼくの指令です。」

1860年9月1日 ステロフスキイ経営の『ロシア世界』
67号に掲載開始。
1861年4月  雑誌『ヴレーミャ』3号に掲載。
1862年1月  『ヴレーミャ』に『死の家』第2部掲載開始。単行本として刊行。


除隊活動の軌跡

1855年 一篇の詩を皇太后に献上する。ガスフォルト将軍に託す。下士官に昇進の申請。「服役中に本人が示した誠実さと勤勉の成果をみていただき、若気のあやまちの非を認め、改悛の情を表わそうとして」
1855年11月  上記申請受け入れられる。
1856年 アレクサンドル二世の戴冠式に、もう一篇作詩しヴランゲリに送る。陸軍大臣スホザネート中将、嘆願書を受け取り「覚えておこう」と言う。
1856年3月 侍従武官長トットレーベンに嘆願書を送る。(トットレーベン兄弟は工兵学校時代の知人)ドストエフスキーは「長文の手紙をこのトットレーベンあてに送るが、それはしなやかに流れるような文体、静謐な謙虚さの滲み出た内容で」書簡としては傑作だといわれている

E・I・トットレーベンへ(セミパラチンスク、1856年3月24日)一部抜粋紹介
ドストエーフスキイ全集16『書簡』

 エドゥアルド・イヴァーノヴィチ閣下、かような手紙を差し上げてお心を煩わす失礼の
段は、なにとぞご海容くださいまし。この手紙の署名をご覧になって、――恐おそらくはお忘れになったに相違ない名前をご覧になって、――もっとも、かつては(遠い過去のことではありますが)、辱知の栄を得た名前でございます、――小生の身のほど知らぬ振舞にご立腹あそばされ、最後まで読み終わらないで棄ててしまわれはせぬかと、それを恐れるものでございます。なにとぞご寛大の儀を哀願いたします。小生と閣下の間に測り知れぬほどの位置の相違があることをわきまえぬもの、などというお叱りのないようにお願い申しあげます。この相違をわきまえずにいるには、小生はこれまでの生涯においてあまりに多くの悲しい経験を嘗めたのでございます。/閣下におかせられましては、小生が1849年の事件に連座して逮捕されたことと、それに続く公判、皇帝陛下の確認を、おそらくご承知のこととぞんじます。もしかしたら小生の運命に幾分かの注意をお払いくださったのかもしれません。/小生はご令弟のアドルフ・イヴァーノヴィチときわめて親しい間柄で、ほとんど少年時代から熱烈な愛情をいただいていたからでございます。/小生はまさしく罪があったので、それはみずから十分に認めております。/小生の服罪は合法的であり、正当でした。長期にわたる苦しく悩ましい経験がことごとく小生の迷いをさまし、多くの点において思想を一変させてくれました。/(『書簡上』212〜215頁参照)




『死の家の記録』まで@

 そもそもシベリアに行かなかったら、この作品はなかった。そうして、後の大作も書けたかどうかわからない。その意味では、シベリアはドストエーフスキイにてとってまさに人間万事塞翁が馬ともいえる舞台だった。が、その発端はすべてペトラシェフスキイ事件にある。ドストエーフスキイの人生を変えた事件。『死の家の記録』を知るには、もう少し詳細にこの事件を知る必要がある。故に、その経緯を参考資料から追ってみた。
(参考文献:原卓也・小泉猛編訳『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』集英社中村健之介訳ペリチコフ編『ドストエフスキイ・裁判記録』現代思想社。V・ネチャーエワ『ドストエフスキー写真と記録』論創社。米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』など)

逮捕

はじまりは、すべてここからだった。
Ф・м・ドストエフスキイ検挙に関する第三課の秘密指令

サンクトペテルブルク第一局皇帝直属官房第三課 秘第675号
1849年4月22日 侍従武官 オルローフ
サンクトペテルブルク憲兵隊 チュデルノフ少佐殿



 勅命に依り貴官に命ズ。明朝四時「マーラヤ・モールスカヤ」街・「ヴォズネセンスキイ」大通り角、「シーリ」持家、三階、「ブレメル」貸室、退役工兵中尉・著述家フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイヲ検挙シ、其ノ有スル全テノ書類並ビニ書物ヲ封印シ其等ヲ「ドストエフスキイ」ノ身柄ト共ニ皇帝陛下直属官房第三課ヘ提出スベシ。其ノ際貴官ハ「ドストエフスキイ」ノ文書ガ一部タリトモ隠匿サレルコト莫キヨウ厳重ニ監視スベシ。
 「ドストエフスキイ」ノ有スル書類並ビニ書物多数ノ為メ直ニ第三課ヘ提出スル能ハザル場合ハ之ヲ必要ニ応ジ一或ヒハニ室ニ集メ置キ其ノ室ヲ閉鎖封印シタル上「ドストエフスキイ」当人ヲ直ニ第三課ニ出頭セシムベシ。 「ドストエフスキイ」ノ書類並ビニ書物ヲ封印セム際彼ガ其等ノ一部分ヲ他者ノ所有ニ属スルモノナリト申立ツルトモ、其レガ何人デアレ、其ノ申立ヲ顧慮セズ同様ニ封印スベシ。
 貴官ハ託サレシ任務ニ直接責任ヲ持チ敏活且ツ慎重ニ任務ヲ遂行スベシ。
 憲兵隊参謀長「ドゥベリト」中将ハ貴官ノ許ニ「ペテルブルク」警察署警官一名及ビ必要数ノ憲兵ガ差遺サレルベク取計ラフ。

    (典拠:『ベリチコフ編 ドストエフスキイ・裁判記録」)




『死の家の記録』評



世界文学に類のない貴重な人生記録
【訳者評】米川正夫全集 解説

/『死の家の記録』が、ドストエーフスキイの獄中生活を如実に描写した自伝的述作であることは、彼自身が「仮想の人物の名を借りて徒刑場における自分の生活を物語り、獄舎をともにした昔馴染みを描写した」といっていることから見ても、寸分違いの余地がない。ただ仮想された人物たるゴリャンチコフが政治犯人でなくして、嫉妬のため妻を殺した刑事上の罪人であり、その刑期も四年でなく十年になっていること、および彼が出獄後シベリヤに移住して、その地で生涯が終わったことが相違するに過ぎない。このことは著者の立場から、『死の家の記録』が、単に生々しい事実に対する興味から読まれ、読者に芸術ならぬ実感としての印象を呼び起こすことを、可及的に避けんがための用意でもあっただろうと想像されるが、それよりむしろ検閲関係の考慮からなされたものに相違ない。/
 とにかく『死の家の記録』は、ドストエーフスキイが芸術家として、思想家として後年の大をなすために潜ってきた煉獄をつぶさに物語った。世界文学に類のない貴重な人生記録であるが、なおそのほかこの作品の中には、V・F・ペレヴェルゼフの指摘しているとおり、ドストエーフスキイの創作における一つの発達段階があとづけられるので、その点を闡明することは重要であり、また必要であると思う。/


『死の家の記録』再会:恐怖を感じさせる作品
河野多恵子

 /これまで私が『死の家の記録』との再会に気が進まなかったのは、他の文学作品とのようなそういう再会になりそうではないと感じられたからかもしれない。前世で読んだもののようにさえ感じられる、輪郭がぼやけておりながら妙に自分に絡みついているような感じをこの作品の遠い印象から訴えられる時、私はいつも立ちすくむような恐怖を感じた。/


シベリアは「失われた歳月」ではなかった
中村健之介氏著書『ドストエフスキー人物事典』
 
/ドストエフスキーは監獄の中にいても人間に対して興味を持ち続けることができた。そしてここで出会った連中のことを書きたいという意欲を持ち続けた。だからかれらは、憎むべき「強制的共同生活」や、平民(民衆)の囚人たちの敵意にも圧しつぶされなかったのだろう。同じ監獄で半ば廃人になってしまった友人のドゥーロフとは、そこが違っていたのである。/シベリア流刑は、作家ドストエフスキーにとって、「失われた歳月」ではなかった。/
ドストエーフスキイの持って生まれた創造の才能は、人間の歪んだ内面や、病的な想像の世界へ深く潜入する鋭敏な感覚である。/人間の内面世界の表現が、かれの天与の「仕事」だと言ってよいだろう。/ふと小耳に挟んだ噂からでも、ドストエフスキーは人間の異様な内面世界へ潜りこもうとしている。/ドストエーフスキイの描いた囚人は、いかに無知蒙味で魯鈍な男の肖像であっても、その一瞬の目の色、なに気ないしぐさに 、その人間の持っている思いがけない内面をのぞかせるものである。/シベリア流刑の後、ドストエフスキーはこの「記録」のスタイルから離れて、ふたたび天与の才能に従って人間の内面世界を書く仕事へもどって行くのであるが、その回帰の兆しは『死の家の記録』の囚人群像にもすでに認められる。





4・10読書会報告

4・10読書会は、平哲夫さんが報告されました。ありがとうございました。報告内容は、以下の配布資料の通りでした。

『伯父様の夢』を読了して           

   平 哲夫                                

 今年三月の末に「伯父様の夢」を読み了えて、次の事柄が心に止まりました。
く1)K公爵がモルダーソフ市に滞在したのは三日間であるが、それは同市を訪ねてから死ぬまでの間であり、次から次とおこる驚天動地のドラマは、わずか一昼夜の出来事であった。絶筆となった「カラマーゾフの兄弟」が三日間の出来事を主体に、あれだけの長編が組み立てられたことを想起すると、その萌芽とも言うべきか。
(2)モルダーソフ市第一流の貴婦人マリヤ・アレタサンドログナが、娘ジーナにK公爵と結婚するよう説得する場面。更に、公爵がジーナに愛を告白し、ジーナがそれを受け止めようとする決定的な瞬間を、ジーナの求婚者モズグリヤコフが立ち聞きしてしまった。その怒りを鎮めようとする長広舌は、正に圧巻であり、この小説の主体をなしていると考えられる。訳者米川正夫は解説で、エすべての点で「カラマーゾフの兄弟」の大審間官を連想させる。−と記述しているが同感である。(読む内にそう感じてしまった。文中偶然の符合と思われる「大審間宮のように」との文言があったと思い、又訳者米川正夫の解説にも載っていたので、ページをめくり返してみたが、なかなか見当たらず、でもたしかに書いてあった筈。)
(3)K公爵の人間像が、よくもまあここまで書けると思うぐらい、肉体的不具合、考確ぶりが椅写されている。これがこの作品の出発点と思う。娘ジーナを公爵と結婚させようとするマリヤ夫人の奇想天外な企てもここから始まり、その物欲的シナリオく空想)を実現すべく、詐取的なことをあたかも基督教徒的といいくるめるマリヤ夫人の説得は、やがて破綻する。なにもかもご破算になったマリヤ・アレクサンドログナが、最後に敵のナタリヤ・ドミートリエヴナとともに、やぶれかぶれに公爵をぼろくそに罵倒する場面は、実に痛烈でカタルシス的気分を味わう。
く4)読書会プレイバックで野田栄一氏が指摘されている様に「空想」がこの物語の大きなテーマになっていると思う。マリヤ・アレタサンドログナのシナリオもr空想」から始まって挫折した。公爵は「空想」の雲に漂っている。求婚者モズグリヤコフもジーナに対して空想的な恋に終始し敗北する。野田栄一氏も述べる如く、小切のドラマが終った後、ジーナの恋人ワーシヤは最期の床で「ああ、ジーナ、僕の一生は空想に過ぎなかった。僕はのべつ空想ばかりしていた。いつもいつも空想ばかりしていたので、生活していたのじやない。」と語る。
〈5)上述のジーナとワーシヤの最期の場面は、それまでの、荒波が幾重にも押し寄せ、たたみこむような様なドラマから、一転して、しっとりとした余韻の漂う情景となった。ここで又「カラマーゾフの兄弟」が登場するが、「第十篇 第セ イリューシャ」の項目で、まさに臨終を迎えようとするイリューシヤの面影が胸をよぎる。





☆ あるメールから

編集室には、多くのお便りが届けられております。厚くお礼申しあげます。その中に、なんとなく、本人としては『死の家の記録』を念頭に書いた――そう思わせるような、体験記といいますかエッセイがありました。稚拙な文体ですが、珍しさを買って紹介いたします。独断と偏見で…。

汐留青春グラフティ ― 居酒屋に置き忘れていたノートから ― (1)

 昨年の暮れだった。ある会の忘年会の帰り、終電までまだ時間があったので、駅前のなじみの居酒屋に入った。店内は、ほぼ満席の賑わいだった。座敷で団体さんが大騒ぎしていた。私は、カウンターに案内された。そこには私のような一人客が、静かに飲んでいた。私は端の席に着いた。隣りの客は、年の頃六十前後の痩せた作業員風の男だった。寡黙だったが、そこは酔客同士。
「人生なんて、あっというまですよ」
と、こぼしたのをきっかけに話はじめた。そのうち、お互い全共闘世代ということがわかり、意気投合。社会の不満やら我が身の不遇を嘆きあって酩酊。深夜の街で別れた。
「また会おう!いつの日か。さらばマルメラードフ君!」
男は、そんなわけのわからないことを叫んで手を振って人ごみに消えた。
 私は駅に向かった。が、居酒屋の店員が、忘れ物だと追いかけてきた。何か汚らしい袋だったが、確認することもなく、カバンにねじこんだ。
 翌朝、家内の悲鳴で目が覚めた。見知らぬ袋があるというのだ。
「どこで拾ったの、これ」
彼女は、つまみあげ投げてよこした。
 袋の中には、手垢のついた大学ノートが1冊と、コンビニの領収書、駅前で配られるチラシやテッシュが入っているだけで、金目のものは何もなかった。大学ノートは、びっしり字が書いてあり日記のようだった。が、汚らしいので読む気がしなかった。
「棄てるものよ、きっと」早々の家内の見解だ。
「しかしなあ・・・」
私は、戸惑った。たとえゴミとしても、他人のものを勝手に棄てるのは気が引けた。
で、居酒屋に返すことにした。が、なぜかそのまま忘れてしまった。何日かの後、店に寄ったとき、思い出して店員に聞いてみた。が、忘れ物をとりにきた客はいないという。持って来られても迷惑。そんな様子に、もし来たらと名刺を渡した。しかし、半年たったいまも連絡はない。やはり、当人にとってどうでもいいものだったのかも知れない。
それで先日、片づけついでに、処分することにした。ところが、ゴミ袋に入れかけて、なぜか急に何が書いてあるのか知りたくなった。どうせ捨てるものだし、半年も保管した権利もある。私は、家内の目を盗んでしまいこんだ。そして、深夜、読んでみた。何か体験記のようなものだった。文体も稚拙で、表現力もいまいちだったが、棄てるとなると欲しい気がした。「読書会」が、ちょうど『死の家の記録』にかかっていることを思い出した。関連あるかどうかもわからないし、迷惑かもしれないが、お送りすることにした。
 なにやらくどくどと前置きをならべてしまったが、他人様のものを公開するのにあたり、少しでも説明をした方がいいのではないかといった老婆心である。ご容赦願いたい。
 それでは、居酒屋に忘れていったノートに書かれてあった話を全文紹介する。

【居酒屋の忘れ物の中にあった話】

 木枯らしが吹き始めた秋の終りだった。その日、私は日比谷公園で行われた「ベトナム戦争反対」集会に参加した。当初は、集会の後、銀座周辺をデモ行進するだけの予定だった。が、過激派が大挙して押し寄せ、集会は大荒れとなった。機動隊と小競り合いがはじまり、最後には石や火炎ビン、催涙弾が飛び交う応戦状態となった。大勢の逮捕者がでた。私は、やっとのことで警察の包囲網を潜り抜けヤジウマにまぎれて、神田にある友人の下宿に逃げ込んだ。友人はノンポリだったが、苦笑いして部屋に入れてくれた。その夜、二人でウイスキイーの角ビン一本空けた。翌日、昼に目を覚ました私は二日酔いで割れんばかりの頭を押さえて荻窪にある自分の下宿の大家に電話した。仲間から連絡が入っているか知りたかった。
「Kちゃん、あんた、いまどこにいるの」いきなり大家の女将さんの金切り声が鼓膜に響き渡った。「警察の人がきたわよ。聞きたいことがあるからって。帰ってきたら電話くれって名刺、置いてったから、早くしないと」
大家の女将さんは、興奮気味にまくしたてた。刑事が二人訪ねてきたことが、よほどショックだったらしい。彼女は、私が学生運動に参加しているとをうすうす知っていた。それだけに過敏な反応をみせた。私も警察と聞いて、ひどく慌ててしまった。「なぜ幹部でもない私に・・」そんな疑問はあった。が、他方では、はじめての警察訪問にすっかり舞いあがってしまっていた。郷里の両親に知れたらマズイという思いとこれで運動家として一人前になれる。そんな思いが交差した。さっそくリーダ格の先輩に電話すると、「しばらく地下にもぐれ」の指示だった。私の投げた石が誰かに当り大ケガをさせ、そこを写真に撮られたかも知れないというのだ。そんなわけで私は一時的に身を隠すことにした。私はいっぱしの革命家、逃亡者になったつもりで、そのまま学校と下宿から姿を消した。
私が潜伏場所として選んだのは、都会のど真ん中にある貨物駅だった。駅で拾ったスポーツ紙で見つけた。「急募!貨物駅作業員。八時〜十八時三千五百円、二十四時間勤務六千円」私は、その足で貨物駅に向かった。新橋駅から徒歩十分。まさに東京のど真ん中であった。が、そこは、身を隠すのに絶好な場所だった。仮眠ベットもあれば、食堂も風呂もある。門を一歩外にでれば、大都会の街角だったが、高い塀に囲まれた広大な駅構内は、僅かな隙間から、走りぬけて行く新幹線の白い車体が見えるだけで、まるで孤島にいるような印象を受けた。映画で見た収容所を彷彿させる別世界だった。それだけに、中にいれば、人知れず生活することができた。おまけにお金ももらえて。まさに一石三鳥、これ以上の隠れ家はあるだろうか。当初、外に出ないことを怪しく思われたりしないか。刑事が探しにきたりしないか。そんな心配があった。が、まったくの杞憂だった。御歳暮を迎える貨物駅は、大忙しだった。連日連夜、荷物を満載した貨車が日本全国から到着するたびに戦場と化していた。重いブレーキ音が響きわたり、貨車が停まると、手に手に手カギを持った作業員たちが、貨車めがけて殺到した。それは、まるで大きなミミズに群がるアリを連想させた。コンベア―や台車レールの音が轟音となってこだます。その喧騒のなか、荷下ろし、仕分け、積み荷の作業が嵐のようにすすめられた。そうして、貨車いっぱい積み荷した車両が、ふたたび地方に向かって次々と発車していった。作業は猫の手が借りたいほどの忙しさだった。二十四時間勤務希望の私は歓迎され、即、ハンコ一つで採用してもらえた。
「学生はデモばっかしやってて、きてくれないからなあ、助かるよ」そう言って事務員の男性は当然のように言ったものだ。「いまから働いてもらいます」
私は、差し出された41番の名札と手カギを受け取って荷物会社の職員に案内されて荷物でごったがえす貨物駅構内に出ていった。その日から私は貨物駅で働くことになった。

(一)

 構内は騒然としていた。三十五列車の発車時間が迫っていた。大小さまざまな鉄道荷物がごった返す積み荷ホームに、けたたましくベルが鳴り響き、怒鳴り声が飛び交った。山陽本線方面の貨車の前には、小郡、防府、尾道と表示された荷物がまだ山積みにされていた。私は、手当たりしだい手カギに引っ掛け貨車の中にポンポン投げ込んだ。【横倒し厳禁】や【割れ物注意】の荷物もあったが、選別する余裕はなかった。
「おーい、早くしろ!」
「早くしろ!」
荷物会社の職員が、走りまわって大声でせかしまくった。
「これで、おしまあいだ!」
 一緒に作業していた39番の少年が、大声で叫んで、最後の荷物を両手で持ち上げると、思いっきりデッキの奥に投げ込んだ。白地にUSAと印された岩国米軍基地行きのサンドバックのような兵隊袋で毎朝、きまって一個小隊分ほどあった。今朝の袋には本でも入っていたのか角張っていてやけに重かった。高校中退だという39番――トオル君は、若いだけあっていつも元気なので助かった。
 私は、はじめのうち、このアメリカ兵の荷物を積みこむたびにむかついた。ベトナム戦争反対のデモ活動していたものが、ベトナムに行くかも知れない兵隊の荷を運ぶ。何か、戦争の片棒を担いでいるようで、嫌な気持ちだった。
しかし、慣れというのは恐ろしい。そんな気持ちははじめだけでいまは、そんな感情は何も無い。ただの積みやすい荷物の一つでしかなかった。
「オーライ!」「オーライ!」「オーライ!」
積み荷作業終了を確認する合図が最後尾の車両方向から、連呼して聞こえてきた。
「オーライ!」
39番のトオル君は、張りきり声で叫ぶと前の車両に手を振った。
 合図の声は、連呼されまたたくまに最前部の車両に伝わった。とたん
「発車するぞ!さがれ!さがれ!」
 とおくの最前部で紺服の機関士が赤い小旗を打ち振って怒鳴った。
 突如、喧騒を引き裂くようなするどい警笛がピィーと鳴り渡った。ホームに蒸気が白煙となってたちこめる中、荷物を満載した貨物列車はきしむぎ音をたてながらゆっくり動きだした。連結器のかみ合う鈍い金属音が玉突きのように連続音を響かせていった。ガシャン、ガシャン、ガシャン。重量感あふれるその響きは、凍てついた朝の空気を震えさせながらしだいに間隔を早めていく。積み荷班の人たちは、ぼう然とホームに佇んでいた。だれもかれもまるで湯上りのように体から湯気立ち上らせていた。
 汗と埃にまみれて、だれの顔も炭鉱夫のように煤くれ汚れきっていた。が、一仕事を終えた爽快感があった。私は、ほっとした気持ちで目の前を過ぎて行く貨物列車を見送った。私は、何もかも忘れられるこの瞬間が好きだった。ワム15829、ワラ39764、ワム1759――貨車にかかれた数時は、すぐに読み取れなくなった。十余輌編成の長い貨物列車は、さらに速度をまして、操車場のはるか前方にあるトンネルの中に吸いこまれるように消えていった。最後尾の車両が完全に見えなると、途端、構内から轟音が消えた。すべての動力エンジンが切られ、構内はまるで時間が停止したような静寂に押し包まれた。
「おーい、一服だあー」
静まり返ったホームに南条班長の甲高い声が響いた。
南条班長は、元、といっても三十年近くも前のはなしだが、職業軍人だったと自慢するだけあって痩せて筋ばった老体ながら、その声はよく通った。
 班長の声を合図に、石像のように佇んでいた積み荷班の臨時雇いや職員たちは、魔法が解かれたかのように一斉にホーム先端に向かって歩き出した。
「41番さん、行きましょう」39番のトオル君は、少しなまりのある言葉で私を誘った。そのあと、まだ放心状態で立っている40番にも大声で声をかけた。「おじさん、行きましよう」
 39番と40番は、私の前日、ここに来たらしい。問題のなさそうな二人なので、一緒の作業グループになれてよかった。
「やれやれ、やっと休めるか」
40番――マツミヤは、ハンカチで禿げあがった額の汗を拭きながら、ほっとした顔で言った。そうして39番のトオル君と私の間に入って歩きだすとため息まじりにつぶやいた。
「今朝は、やけにあったねえ」
「二百トンありました。今日は」トオル君は、面白そうに言った。
「ええつ、冗談だろ」マツミヤは、悲鳴をあげる。
「本当です。ぼく、ちゃんと事務所でみてきましたから」トオル君は、からかい口調で言った。「と、いうことは、いまの三十五便なんか序の口ということです」
「ほんとかい、大人をだましちゃいけないよ」マツミヤは、がっくり肩を落とし恨めしそうに言った。「だったら、休めばよかった。ああ、ついてない」
 マツミヤは、四十歳ぐらいで、まだそんな歳でもないのに、髪の毛はかなり薄くおまけに
白いものが混じっていた。貨物駅に臨時雇用でくる人は、なかなか自分のことは話さなかっ
たが、40番のマツミヤは、こだわらない性格か、なんでも話した。昨年の秋に勤めていた印刷会社が倒産して、ここには一時しのぎに働きにきたこと、家は横須賀の方にあって家族は奥さんと小学生の子供が二人いることなどあっさり他人事のように話した。気楽そうにみえたが、ときおり「早く、職をみつけなきゃあな」と、焦燥気味につぶやくところをみると、生活は深刻なようだ。しかし、なぜか滑稽にみえて、つい笑ってしまう。彼は、いつも紺の背広に白いシャツ姿で通勤してきて、そのままの服装で作業していた。映画が好きなようで、外国映画についてもなかなかの知識をもっていた。
 休憩時間、昔の映画名をあげては、さも自分が監督したような口ぶりで、解説した。そうして、ただ鉄骨が組んであるだけの殺風景の貨物駅の高い天井を見上げて
「ここの、貨物駅構内、好きだね。この高い、飾りッけのない天井がね、パリやローマの駅に似ているんだよ」
と、さも行ってみてきたようなことを言った。
いつもは口数の少ないマツミヤだったが、映画に関しては饒舌で自信にあふれていた。しかし、その映画への情熱が、どこでどうギャンブルにすりかわってしまったのか、彼は、競馬にもかなり詳しかった。近ごろの競馬は猫も杓子も手を出すようになってつまらなくなったとぼやきながらも暇さえあればズボンの裏ポケットにねじこんでいる競馬新聞をひろげて熱心に見入っていた。もしかして、ここに来る羽目になったのは、会社の倒産ではなく、ギャンブルのせいかも知れなかった。
 トオルがめずらしそうに覗きこむと、彼は自嘲気味に
「こんなものやらんほうがいいよ。おじさんみたいになっちゃうから」
と、言っていた。
 二人は、親子ほど歳が離れていそうなのに、よほど気があうのか、よく一緒に作業していた。トオルは、言葉づかいも地方から東京にきて日も浅い、そんな感じがした。それになぜずっと貨物駅で生活しているのか。わからないところがあった。が、そのことを直接に聞いたことはない。ここでは疑問を抱いても質問しないのが常識だった。汐留貨物駅、ここは私にとって最高の隠れ家だった。






広 場

新刊紹介

◆「ホロコースト記」を読む
 佐々木美代子著論創社 定価2200円+税

 数多いホロコースト記を通して、私は、極限の体験を経ての「書くこと」の意味や意義について考え巡らせ、、示唆を得たように思われる。・・・私はここで、論じたり究めたり、分析・分類したりする心づもりはない。私はただ、彼ら切実なメッセージの送り手の言葉を、熱い聞き手になって耳傾け、感じたこと考えたこと、そして得たことを、自分流に表現してみたいと思っているだけである。   「はじめに」より

購入希望の方は「読書会通信」編集室にご連絡ください。


◆いかなる星の下に
 蝦名賢造著・蝦名千賀子写真 新評論 定価2520円

 運命の不思議さ・・・。戦前・戦後を生きぬいた二人の高齢者の結婚から<永遠の愛とは何か>を探る。「私は、現在85歳である。そして、妻の千賀子は81歳。共に、これまでに二人の連れ合いと死別し、5年前の1999年に私たちは再婚した。80歳と76歳の時である。本書は、私たちが知り合った6年前から現在に至るまでの記録である。
 
 本書の著者、蝦名賢造氏(現在、独協大学名誉教授・巣鴨学園理事)は、1952年5月12日死んだ蝦名熊夫の弟さんです。蝦名熊夫には下記の著作がある。
◆蝦名熊夫著・蝦名賢造編纂『シベリア捕虜収容所―四年間の断想 死の家の記録』
 
 購入希望の方は、「読書会通信」編集室までご連絡ください。

◆「椎名麟三と蝦名熊夫」(『江古田文学27号』)
 下原敏彦著
1952年、昭和27年シベリア抑留から半身不随で帰国した蝦名熊夫は「もう少し生きていたかった。もうすこし・・・ドストエフスキー!」と、絶叫して果てた。36歳だった。弟の賢造氏は、兄が書き残したシベリア抑留体験を編纂して出版した。

◆チェーホフを読め
 清水 正著 鳥影社 定価3600円

 「本書は昨年9月から書きはじめ本年1月に書きおえた。今までチェーホフについて書いたことはない。ただし、いずれチェーホフについて書かなければならないだろうという予感はあった。」(あとがき)

◆伊那谷少年記
 下原敏彦著 鳥影社 定価1800円

 第6回伊那谷童話賞受賞作「ひがんさの山」他5篇収録
6月末出版予定 !! 信州伊那谷の山と川に捧ぐ。故郷の山は、ささやく。昔、ここがどんなだったか、知っているのは、このわたしとおまえの二人だけ・・・・テレビゲームや携帯電話。文明の利器に慣れた現代の子供たちにおくる半世紀前の伊那谷の風。甦る、つり橋を渡り山を駆けた少年の日々。



4月10日(土)の第2003回読書会の参加者18名でした。




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