ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.82 発行:2003.12.4



12月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2003年12月13日(土)
 
 時  間 : 午後6時00分〜9時00分
            
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
 作  品 : 『スチェパンチコヴォ村とその住人』
 Село Степанчиково и егообитатели           

 会  費 : 1000円(学生500円)

 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で忘年会を開きます。

 会 場 : 東方見聞録 電話03-5960-4640
 時 間 : 9時00分〜11時00分頃迄
 会 費 : 3500円





12月13日(土)読書会


『スチェパンチコヴォ村とその住人』をめぐって

 訳者・米川正夫の解説要旨(『全集2より抜粋』
「全体としてこの作品は、終始一貫して明朗健康な調子で塗り上げられ、一点の暗い影をもとどめていない。ドストエーフスキイとしてはほとんど唯一の作品である。こと終末においてカタストロフがハッピィ・エンド化した時、酔漢コローフキンを点出して、その退場後に一同のホメロス的な爆笑で幕を閉じた技巧に、筆者は心からの尊敬を捧げずにはいられない。否、これは技巧などという言葉で抱擁しきれないほど、あまりにも見事な芸術上の輝かしい勝利である。/最後に特筆すべきは、この224頁の長編がわずか2日間の出来事であり、そのうち第1日の第1編が全編の約3分の2を占めていることである。そのために動的なダイナミズムが横溢して、息もつかせぬ面白味と緊張感に終始している。これがおそらく『ドストエーフスキイの時』と称される特殊感覚の起源であるように思われる。」


『スチェパンチコヴォ村』までの10年間時代背景概略

      作 家                 世 界               日 本
1848年 金曜会に出席         フランス二月革命         外国船渡来 佐久間象山
1849年 逮捕 シベリア出発      米国西海岸ゴールドラッシュ  英国船江戸湾測量
1850年 オムスク到着
1853年 シベリア             クリミア戦争             ペリー来航
1854年 2月懲役終了          ニコライ英仏宣戦         日米和親条約
1855年 ニコライ1世崩御
1856年 ヴランゲリ、ドスト救済運動 クリミア戦争終結          ハリス下田着任
1857年 マリアと結婚          フローベル『ボヴァリー』
1858年 『伯父様の夢』『スチェパンチコヴォ村』執筆           日米修好通商条約

号 外

1849年〜1858年『スチェパンチコヴォ村とその住人』までは、ドストエーフスキイにとって激動の人生でした。以下の号外は、その発火点となった事件。

1849年12月22日早朝 凍てつくセミョーノフ練兵場の奇蹟 !!
「外へ出ると酷寒の風がドストエフスキーの顔に吹きつけてくる。彼は身震いして、淡い青色の混じった早朝の光に包まれる。」人生最後の朝に青年ドストは何思う・・・。

【ドストエーフスキイ自身の感想】(1859年9月9日セミパラチンスク)

この作品『スチェパンチコヴォ村とその住人』について作家自身はどんな感想を持っていたのか。兄ミハイルに宛てた手紙からの抜粋。

「この長編はもちろん、きわめて大きな欠点をもっています。何よりいけないのはおそらく冗漫ということでしょう。しかしわたしの公理として信じているところは、この作品が同時に偉大な長所をも有していて、わたしの創作の中でももっとも優れたものであるということです。わたしはこの小説を二年かかって書きました(中途『伯父様の夢』のために一時中断はしましたが)。/この作品にはわたしの最上の希望と、何よりもわたしの文学的名声の強化が懸けられているのです」と、相当な自信を抱いている。



読書会プレイバック
 (第14、15回読書会から)

『スチェパンチコヴォ村とその住人』が最初に読書会で取り上げられたのは1972年9月10月でした。その感想は「ドストエーフスキイの会 会報No.23」(72・11・14発行)に掲載されました。筆者は、前号『初恋』と同じ昨年亡くなられた野田吉之助さんです。


  『スチェパンチコヴォ村とその住人』
                                   
    野田吉之助                                 

 読書会で参加者の一人から、『スチェパンチコヴォ村とその住人』は果たして滑稽小説であろうか、という疑問が出されたとき私もこの作品に同じような同じような読後感をもっていたので、直ぐ同感の意を表わした。けれども何故そのような疑問をもつのかという理由については自分の頭の中で未整理だったのでうまく言えなかった。それがたまたまこの原稿を書くちょっと前、読売の文化欄で吉田健一氏の『小説の笑い』と題する一文を読むに及んで、この疑問の意味をだいぶはっきりすることができた。そのことを書いてみる。右(上記)の一文の中で吉田氏はリットン・ストレェチェイという人のロシアの滑稽について論じた文章にふれて、その論旨を氏の言葉でこんなふうに書いている。「ドストエーフスキイが滑稽というものをいかに巧妙にその小説に取り入れて、それがなくては荒唐無稽とも思われ兼ねない滑稽とは反対のもっと真剣な部分をかえって生かしているか――。」このようなストレェチェイのドストエーフスキイ解釈がどの程度の独創性をもっているかは知らないが、少なくとも私には大いに教えられるところがあった。例えば、私には前から『悪霊』の中のスチェパン氏がどうもよく分からなかった。スチェパン氏の登場する場面の雰囲気とスタヴローギンやキリーロフの登場する場面のそれがあまりに違い過ぎるからだった。せっかくの深刻な思想小説がスチェパン氏の存在でぶしこわしになると思えたからだった。「滑稽さが真剣な部分を生かしている」というストレェチェイの解釈は、スチェパン氏の存在理由をうまく説明してくれたようだった。もし、『悪霊』の中からスチェパン氏の悲哀や滑稽をとってしまえば、「荒唐無稽とも思われ兼ねない」スタヴローギンのあの極度のニヒリズムも、キリーロフの人神論もそのリアリティーの何程かを減殺されてしまうことになるだろう。(なお、この「滑稽さが真剣な部分を生かしている」作品として『悪霊』のほか『地下室の手記』、『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』を挙げることができる。)
 では、今回読んだ『スチェパンチコヴォ村とその住人』はどうであろうか。この作品は前回の『伯父様の夢』とともに滑稽小説といわれている。作者自身もそれを意図して書いたのだから全体の色調は当然「滑稽」である。筋の展開においてもデテールにおいても可笑しさは随所にある。けれども読んでいくうち、およそ滑稽とはうらはらな深刻な描写にぶつかって意表を衝かれるところがある。いやそこにドストエーフスキイの本来の姿を見出してほっとすると言った方が正確かも知れない。その一例を挙げると、この作品の二人の主人公フォマー・オビースキンとロスターネフ大佐の性格描写の箇所である。ここでのドストエーフスキイの筆は明かに滑稽小説の枠内にはない。謂わばここは「真剣な部分」である。私はここにこの「真剣な部分」があるからこそ、それから暫く後の、ロスターネフがフォマーから『閣下』と呼べとしつこく強要される滑稽な場面が生きてくるのだと思う。もしこの場面だけを取り出して読めば、繰返しの多いあのコント55号のセリフと同様の嫌味なくすぐりだけを感じてしまうのではなかろうか。そういう意味でこの作品は『悪霊』などとは逆に「真剣さが滑稽な部分を生かしている」といえる。
 最初の問題に戻ればこういうことになる。『スチェパンチコヴォ村とその住人』と『悪霊』を分けるものがあるとすれば、それは滑稽さと真剣さの分量の違いであり、その分量の違いは質的な違いにまで至っていない。一方を滑稽小説と呼ぶなら他方も同じくそう呼ぶべきだろう。何故なら、この両者を読んで、その滑稽さと真剣さにおいて全く同質の感銘を受けたからである。(了)





「ドストエーフスキイ全作品を読む会」読書会の軌跡 <28回〜35回>
 
「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は1971年3月に発足。同年4月10日(土)に第1回読書会を開催。以降、年6〜10回(現在は6回)のペースで開催されている。

1975年

   第28回読書会 : 作品『罪と罰』第2回目会場・池袋「コンサートホール」
   第29回読書会 : 作品『賭博者』会場・池袋「コンサートホール」
   第30回読書会 : 作品『白痴』 感想・新谷敬三郎(会報No.37)4月15日
   第31回読書会 : 作品『白痴』5月30日開催フリートーク
   第32回読書会 : 作品不明6月27日(金)開催
   第33回読書会 : 作品『悪霊』第1回目開催10月24日(金)
   第34回読書会 : 作品『悪霊』第2回目開催11月17日(月)(会報No.39)  
   第35回読書会 : 作品『悪霊』第3回目開催12月15日(月)



 全作品を読む会28『罪と罰』(V)感想・井桁貞義(1975・2・17「会報No.35」より)

 もうちょっと天井が低ければラスコーリニコフの屋根裏部屋に似るような、池袋の喫茶店の三階に10人くらい集って(みんなここが気に入った)、三回を数える読書会が行われた。この会に来るというのでまた読み返したら、やっぱり息もつかせずに読んでしまった、と安田さん。/それにしても夢中になって読むのはどうしてだろう。/もう一つ印象に残ったのは下原氏の出した問題で、老婆殺しを皇帝殺害と二重映しに考えられないかという提起だが、たぶんそれは無理で、むしろ何の取柄もない虱みたいな人間を殺すようにしているのがこの小説の凄さであり、意味ではないか。と、これは新谷氏の意見だった。この時ふと思い出したのは、『罪と罰』はギリシャ悲劇を小説の形に変換したものだというモチューリスキイの見方だ。/




読書会後記

・この作品は、書きたかったのか、書き残したかったのか

 10月読書会は、作品『初恋』。報告者なしのフリートークでしたが、「題名はこれでいいのか」「11歳という年齢設定に意味があるのか」「これはドの体験談か」などなどいろいろな感想が出された。また、ドストエーフスキイらしからぬ作品といった指摘もあり、疑問としてドストエーフスキイは、この作品を「書きたかったのか」「書き残したかったのか」が議論された。「ムッシュ・Mはツルゲーネフ」「精神的状態は、分裂気質のときに書いたのでは」などといった言もあった。ほぼ出席者全員が感想を述べ活発な読書会となった。


【読書会『初恋』後記】

人見敏雄                                

 幼い少年は7月に11歳の誕生日を迎えようとしていた。少年は、豊満なブロンド夫人に初めての性の目覚めを感じていた。それを察したブロンド夫人は陽気におどけて少年を追い回した。ブロンド夫人の悪戯好きは5年の結婚で子供が授からないことで内心苦悩している事をけなげに隠すためのやや過剰な言動である。ブロンド夫人は笑うときに「赤い唇」を「白いハンカチ」で隠す癖があった。逆に妊婦のように肥った実業家であから顔の亭主はその真意を知りつつ寛大に見守っていたのである。そんな事を知る由もなく、恰好の被害者になった幼い少年にとっては、ブロンド夫人の従妹のM夫人の謎の「憂いに満ちた」様子にひきつけられる。少年には「しじゅう病人」のようであり「看護婦」のようにも見て取れたのである。M夫人は涙に噎せった「赤い目」を「白いハンカチ」で隠していた。メランコリックなM夫人の「憂い」の原因は不倫関係にある青年が遠方へ旅立つことによる別離が原因であったのである。幼い少年にとってはM夫人の真意など知る由もなかったのである。
 M夫人の亭主はブロンド夫人と同様に不妊のはけ口として不倫に走る行動を自身の虚栄心の許容範囲で無視しているだけであったのである。M夫人の付き添い老女は亭主による監視という御目付け役の任務を極秘に担っていたのであった。偶然少年は、タンクレートという荒馬を乗りこなすことで「武勲」をたてて「騎士としての精華」を周囲に知らしめたのである。「騎士」として少年はM夫人から「赤いマフラー」を褒美として授かる。ますますM夫人に一途の所謂「一本槍」の「騎士」には、風邪をひきそうな状態を「看護婦のように」介抱してくれたブロンド夫人には大して感謝の念も抱かず、今迄の悪戯の罪滅ぼしくらいにしか思われなかったのである。ブロンド夫人の若い男友達である青年に「赤いマフラー」を冷やかされることで、「赤いマフラー」を返還して少年は「憂いの騎士」となる。翌日の朝早くめざめて、快復した少年は散歩に出かける。「憂い(メランコリイ)のM夫人」とオデッサという遠方へ旅立つ青年の逢瀬を垣間見てしまう。馬上の青年が「白い包み」の手紙をM夫人に手渡して、M夫人の手にくちづけをしていたのである。哀しむ余り彼女は「白い包み」の手紙を落としてしまう。M夫人の亭主が「文節(レトリック)の精華」の使い手で毒舌家、「人」を操り「権力」を弄ぶほどの嫉妬深い「(フランス語で「事業の騎士」という表現もある)狡猾漢」、更に独善的なあから顔で砂糖のような白い歯をもっているだけに、M夫人は手紙が暴露されることを非常に恐れ身の破滅をも予感して一生懸命に散歩道をあちこち探すが見つからない。「白い包み」の手紙を拾い上げた「憂いの騎士」である少年はひとつの妙案を講じる。様々な草花を摘んで草を撚った紐で縛った花束を作り「白い包み」の手紙を「騎士道むに則、封を開けずにその中に隠し入れる。「憂いの夫人」に対して「騎士」としてあくまでも忠誠をたてる少年は花束を奉呈した。「恐怖」に打ち震えるM夫人は手紙に気付かないで横に置き放っていた。「一本の槍」を持つ蜜蜂が飛んできたので、M夫人は思わず花束で蜜蜂を払い除けようとした瞬間に、手紙がこぼれ落ちた。M夫人が手にした「白い包み」の手紙は幸運の手紙となって、M夫人の憂いを煙のように消し去った。煙のように薄物の「赤いマフラー」が少年の顔に舞い落ちた。「赤いマフラー」越しの口づけを残して立ち去るM夫人を見送り少年の初恋ははかなく終焉を迎えた。はるか遠くに「槍」のような松葉をもつ針葉樹林を眺めつつ、少年はなにか恋心で熱く燃え上がっていた心臓が「槍」のようなもので刺し貫かれて急速に萎えていくように感じられた。花を摘まれてもなお大地に残る「草の茎」のように次の花が何時咲くか知る由もなくそよ風に全身うち震えるだけであったのである。翌日、亭主と共にモスクワへ嬉々としてM夫人が飛んで帰ったのは、オデッサへの旅立ち自体が嘘でモスクワの新たなる密会場所と密会方法が手紙に書かれていた為かどうかは知る由もない。   


メールで寄せられた感想から


 作品『初恋』読みの10・11読書会では、沢山の感想がでた。納得する意見、相反する意見、様々だった。その中で、最後まで解けぬ謎として残ったのは、最悪の境遇のなかで「なぜこの作品を書いたのか、書けたのか」という疑問だった。
 先ごろ10・11読書会に出席できなかった地方の会員からメールで下記の感想をいただいた。疑問に答えるものかどうかわからないが、紹介したい。

 前略 はじめまして、遠方なので参加できないのが残念です。「通信81」にあった「なぜ、このような作品が書けたのか」について、私はこのように考えています。結論から言うと人は苦しいときほど楽しい夢を見る。その一言に尽きるかと思います。中村健之介氏(通信の「助」は誤りですよ)の「臨死体験者」はその指摘かと思います。柔道技の絞めでで落とされたとき、ボクサーがノックアウトくらったとき、お花畑をみるといいますが、きっとそのことではないでしょうか。死に直面したとき、人間(動物)は、本能的に「生」―「性」にめざめるのかも知れません。嘘か本当かわかりませんが、冬山で遭難死した男性登山者の男性自身は必ず勃起状態にあると何かの本で読みました。それを信ずればですが、独房で死刑判決を待つドストエーフスキイの頭に、初恋のこと、性の目覚めが浮かんでも可笑しくはない。そんな気がいたします。死を目前にしたとき、人間が考えるのは崇高な理念でも深淵な哲学でもなく、ただひたすら「生」と「性」への願望と執着ではないでしょうか。
 そういえば、10年前に亡くなられたドストエーフスキイ研究者のA先生は、そのとき死を意識していたかどうかは知りませんが、よく年老いたら最後にポルノ小説を書きたい。とおっしゃっていた。そのときは堅物の先生がなぜ?!と、奇異に思ったものだ。(その頃「初恋」は読んでいたが)まったくそんなことは思わず、今回、唐突にそんな思いが頭に浮かびました。「性」と「生」―『初恋』を描くことで作家は苦境を凌いだ、と。




ドストエーフスキイ情報


ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較

論 題:Dostevsky's Epilepsy: A Case Report and Comparison
著 者:Howard Morgan, M.D.
所 属:Methodist Hospital, Lubbock, Texas
掲載誌:Surgical Neurology 1990;33:413-6.

下原 康子 訳                                   

 ロシアの作家ドストエフスキー(l82l-l881)はその稀な症状のために「エクスタシーてんかん」と名付けられた側頭葉てんかんにかかっていた。彼はムイシュキン(白痴の主人公)の創造に自らのてんかん体験を利用している。最近、側頭葉脳腫瘍からエクスタシーてんかんを来たした患者を経験したので、ムイシュキンとの比較を試みた。
ドストエフスキーを読むことによって、てんかん患者の内面に対する洞察力が得られた。芸術作品が実際の診療に直接的に有益であったという一例である。

はじめに

 ここでは、稀な症状をもつてんかんの、1世紀以上隔てた2つの症例を比較する。第1の症例はムイシュキンである。第2の症例は最近、著者が経験した脳腫瘍の患者である。
ドストエフスキーは世界で最も偉大な作家の一人であり、中でも『罪と罰』(1866)と『カラマーゾフの兄弟』(l880)は、異常心理の研究における先駆的作品として評価されている。
 エクスタシーてんかんは、極度の愉悦、歓喜、満足感を伴う側頭葉発作の症状と定義され、2つの型が見られる。第1の型は、突然、意識が低下すると共に、強烈で不可解な歓喜の感覚が起こるもので、この場合は他の発作は伴わない。第2の型は全般てんかんあるいは大発作に至る直前に前兆としてエクスタシーの感覚が起こるタイプである。
 エクスタシー発作ならびにエクスタシー前兆はてんかんの症状の一つである。しかしながら、神経病学教科書に言及はなく、症例報告も稀である。PenfieldおよびKristiansenはエクスタシーてんかんに言及しているが、1回のみである。医学論文での報告は1ダースに満たない。
1980年にイタリアのボローニャでCirignotta らが報告したエクスタシーてんかんの症例はよく記録されており、側頭葉に焦点を持つ患者の発作中の脳波が完全に記録されている。通常、医学文献では、エクスタシーてんかんをドストエフスキーてんかんと名付けている。数少ないエクスタシーてんかんの報告を見る限り、脳腫瘍によって引き起こされた例はみあたらない。

ドストエフスキー

 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821にモスクワの病院で生まれた。それは貧民層のための病院で、彼の父親はそこの医者であった。貴族の家系ではあったが、経済的には中流階級だった。ドストエフスキーはモスクワの寄宿学校における初期教育の後にペテルブルクの軍事工学学校に入学し1843年にそこを卒業した。軍隊での短期訓練の後、1844から1849年にかけて創作に没頭し、2つの小説およびいくつかの短編小説を発表した。
1849年に禁止されていた政治活動を行った罪で逮捕され、死刑の宣告を受けた。彼は射撃斑の前に引き出された。 しかし、最後の瞬間に、ロシア皇帝の命令によって減刑され、シベリアへと送られた。刑務所で4年、その後6年を軍隊で兵士として送った。退役後、文学活動を再開し、残りの生涯で10作を超える長編と多くの短編、様々な雑誌記事を書いた。生涯の多く時間を、健康、金銭、家族の問題で苦しんだ。1881年、肺炎に頻発する肺出血のために死亡した。
 成人してから後のドストエフスキーはてんかんによって悩まされ続けた。発作は頻繁に起こる大発作で、夜行性であった。エクスタシー前兆は目覚めている時に、大発作に先行して起こった。このことから、神経学者はドストエフスキーのてんかんは二次的に全般てんかんあるいは大発作が引き起こされるタイプの側頭葉てんかんであるとした。
ドストエフスキーは発作の直前に起こる数秒間の体験を語っている。それは経験した人でなければとても想像できないような満ち足りた瞬間である。その時、彼は全宇宙とのハーモニーを感じた。意識は鮮明で、しかもその激しい歓喜はこの至福の数秒とその後の10年を取り替えても惜しくはない思うほどであった。
ドストエフスキーの大発作は非常に激しく、発作の後の数日間は発作後に特有の混乱や昏睡、不活発などに苦しめられた。発作は35年間で平均すると1か月に1回程度で起こったが、4か月に1回から一日のうちに2回までの変動がある。

『白痴』

 ドストエフスキーは小説の中で、4人のてんかん者を描いている。『悪霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフ、『虐げられた人々』のネルリ、そして『白痴』のムイシュキンである。
アンドレ・ジードは述べている。「ドストエフスキーがてんかんを彼の小説に関与させるにあたって示した熱心さによって、彼の倫理の形成にあたり、また思考の曲線において、彼がてんかんという病気に付与した役割がどんなものであったかについて、われわれは十分に啓発されるのである」
 『白痴』ではてんかんが主要なモチーフとなっている。この作品においてドストエフスキーは主人公ムイシュキンのてんかんを描写している。Mochulskyは述べている。
 「ドストエフスキーは、最愛の主人公ムイシュキンにドストエフスキーにおいて最も親密で神聖だったもの、エクスタシー前兆と自らのてんかんを授けた」
 Frankが示唆するように、ムイシュキンは非喜劇的で自己犠牲的なドン・キホーテである。貧困に陥った貴族であったが、後にばく大な遺産を引き継ぐ。単純だが純粋でキリストのような人物である。ドストエフスキー自身が手記の中で、ムイシュキンを美しい無垢の人として描くつもりであったことを明白に述べている。ムイシュキンは気取らず、正直で、同情的である。彼は小さな子どもたちの友人であり、病気や落ちぶれた人たちの擁護者である。一方で、白痴あるいは聖なる馬鹿(ロシア文学に見られるテーマ)と見なされるような人物でもある。自らがてんかんであったドストエフスキー以外の誰がムイシュキンのような人物を創造できたであろう?
 この作品におけるドストエフスキーのもう一つ目的は、てんかん病者の一様ではない予測不能の生活を小説自体の流れの中で象徴的に示すことであった。『白痴』という作品に対して、プロットを追っていくことが困難な解体された小説、という見方をする批評家もいる。しかしながら、Daltonが示唆するように、少し距離をおいて『白痴』という小説の構造を見ると、この小説がてんかん病者の生活の記述であることが解る。その活動は、てんかん発作が集積され 爆発した後に不活発や昏睡に陥るように、一様でない進み方で展開していく。
『白痴』の第5章2節で、ドストエフスキーはムイシュキンをとおしてエクスタシー発作について次のように語らせている。
 さまざまなもの思いのうちに、彼はまたこういうことも思ってみた。彼のてんかんに近い精神状態には一つの段階がある。(ただし、それは意識が醒めているときに発作がおこった場合のことである)それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破ってふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。
 生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。その間、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に忽然と溶け込んでしまうかのように思われる。(米川正夫 訳)

現代の症例

 1985年の秋、38歳で右利きの白人患者が夜行性の大発作で、テキサス州ラボックのメソジスト病院に収容された。それまでの彼はまったく健康であった。
 抗痙攣性の薬物が投与されることにより、彼のてんかんは一時的にコントロールされたが、4か月後、発作を起こし再び入院した。その時、患者の症状はエクスタシー前兆を伴っていた。エクスタシー前兆は、2ヶ月にわたり一日に数回生じた。
 典型的な発作は、突然の興奮の直後に超越感覚が起こるというものだった。発作の最中、患者は明るい、しかしまばゆくない、一つの光を見た。彼は、その光が知識と理解の源であることを感じた。また時おり、やわらかな音楽が聞こえた。これらのエピソードのおよそ半分で、若いひげのある人が現われた。その人は身元を明かさなかったが、患者は、漠然とした姿にもかかわらず、その人をイエス・キリストであると感じた。このエピソードは1〜2秒しか続かなかったが、患者にはそれは実際よりもはるかに長く感じられた。彼の家族は、発作中、彼は別世界の中にいるように見え、通常の応答はできなかったと語った。
 最初のころ、患者はこうした発作に驚愕したが、次第に喜ばしく楽しいものとして感じるようになった。発作の間、彼自身と宇宙のハーモニーが実現した。彼はえもいわれぬ満足感および達成感を覚えた。いくつかの場合、このエクスタシー前兆の後に大発作が起こった。
 コンピューター断層撮影により、この患者の右側頭葉に脳腫瘍があることが分かった。前部の側頭葉切除が行われ、併せて扁桃および前部の海馬も切除された。病理診断では悪性の神経膠星状細胞腫(gradeV/IV)であった。手術後、発作は起きなくなった。その後、放射線療法を受け、9か月は無事にすごした。しかしながら、腫瘍は再発し手術の15か月後死亡した。
 レントゲン写真で、この症例におけるエクスタシーてんかんの原因になる病理学上の傷害の正確な場所が、前部の非優性の側頭葉に局限されていることがわかった。それは外科標本からも病理学的に証明され、発作が手術の後に再発しなかったことからも裏づけられた。このことから、この患者は、エクスタシーてんかんにおいて、脳の中で異常が起こった場所を正確に限局できた始めての症例となった。これまでのエクスタシーてんかんの報告でも側頭葉の障害であるとされており、ある論文では側頭葉の異常が脳波で確認されてもいたが、正確な病巣部位の限局はなされていなかった。したがって、今回の症例は、エクスタシーてんかんの原因になる脳障害の正確な部位を局限した点においてユニークであったと言える。

議 論

 ムイシュキンのエクスタシーてんかんは、私の患者のそれと類似点が認められる。両者共にエクスタシー前兆は、光の前触れと共に突然起こった。ムイシュキンの場合には、その光の感覚はドストエフスキーによって次のように記述された。「素晴らしい内部の光が彼の魂を照らした」また、「彼の精神と心はまばゆい光によって満たされた」
私の患者は実際に光を見て、その光がかけがえのない理解の根源であると感じた。二人ともエクスタシー発作の最中は我を忘れ、自分がどこにいるかもわからない状態だった。
 ドストエフスキーはムイシュキンのエクスタシー前兆の一瞬について次のように記述している。「マホメットがアラーの住まいを隈なく見きわめてしまったという、ひっくり返った壷から水のこぼれる間もない、あの一瞬に違いないのだよ」
私の患者も、実際の発作の時間が短いのは承知していたが、実際よりもずっと長く感じていた。彼らにはあたかも時間が拡張するかのよう見えたのである。
 一方で、ムイシュキンは自己疑念に悩まされもいた。自分自身を無価値と考え、自ら白痴と呼び、社会においては不必要な人間であると感じていた。私の患者も病気の間、心理的な問題で苦しんだ。働くことができなかったし、自動車を運転することもできなかった。それで自分が夫として家族の担い手として価値がなくなったと感じていた。
Riceが示唆したように、ムイシュキンのエクスタシー前兆は宗教的な連想を呼ぶ。ムイシュキンは祈りについて、またマホメットやイスラム教の予言者について語っていた。一方で、私の患者は、エクスタシー発作の間、イエス・キリストの訪れを感じた。そのとき、あたかも教会にいるかのように音楽が聞こえた。彼は成人してからはめったに教会に行かなかったが、子どものころは規則正しく通っていたのだ。エクスタシー発作の最中、ムイシュキンと私の患者は共に、宇宙との満ち足りた一体感を感じた。Daltonによれば、この感覚は、フロイドのいう、自我の境界が溶かされる「大洋感覚」また、幼児退行の感覚である。
 現代の神経内科医の多くは、てんかんの診断、評価および治療を器質的な問題として扱い、もっぱら彼らが得意とする神経学的疾患の枠の中で考えようとする。しかしながら、私たちの多くはてんかん者が提示する非器質的側面、情動や心理やモラルやそこから生じる形而上学的な謎を目前にし、それらの問題に対して充分なトレーニングを積んでいないことを感じているかも知れない。
 ドストエフスキーは、てんかんの器質的な側面は無視している。しかしながら、ムイシュキンや他の作品の登場人物を通して、てんかん患者の心や感情へと私たちを導いてくれる。Miksanekが述べるように、ドストエフスキーの『白痴』は、芸術がいかに科学的観察を補強し、推考を助けることができるかを示す好例である。『白痴』や他のドストエフスキー作品のいくつかを読むことによって、不治のてんかん病者との類似を学ぶことができるのだ。このような洞察は、最良の神経病学または脳神経外科学の教科書の中でさえ、提示されたことがない。 (完)




広 場


演劇紹介

 「ドストエーフスキイの会」の会員が参加しての演劇が上演されます東ドイツ出身の劇作家ハイナー・ミュラー(1929-95)の作品を多数の劇団(韓国・中国を含む)が上演する演劇フェスティバルに参加するものです。
 主催・企画はHMP(ハイナー・ミュラープロジェクト)で<ハイナー・ミュラー/ザ・ワールド>都内数か所の劇場で開催されています。(2003.10.23-12.23)
全体の内容は、HMW・HP (http://www.at-net.biz/hmw/ )をご参照ください。

参加劇団名: 東京(n−1)「トウキョウ・エヌマイワン」
演 目  : 「画の描写」
場 所  : 麻布 die pratze(03-5545-1385)/大江戸線赤羽橋駅赤羽橋出口正面
開演時間 : 12/12 19:15開演  *アフタートークあり。
   12/13 15:15開演/19:15開演
   12/14 16:15開演 *開場は、各々開演の30分前。

演出・構成 木戸佑兒(秋山伸介)の他、美術(出演も) 武富健治
ドラマトゥルグ 中谷光宏 、アドバイザー 福井勝也が会員として参加しています。
前売券\2300を会員等関係者価格として\2000で販売致します。
(希望者は必ず氏名等希望日・時間を含め、事前に福井03-3320-6488まで
 ご連絡ください。チケットは当日受付にて代金引き替えでお渡しします。)

<協力者のコメント>
 必ずしも日本で十分に知られていないハイナー・ミュラーは、過酷な20世紀の歴史と苛烈に対峙することで、21世紀を生きる我々に多くのメッセージを届けてくれているヨーロッパを代表する劇作家です。近代西欧の知的文脈にあっても見逃せない知識人の一人であって、その限りでドストエーフスキイの世界との関連も十分に考慮可能です。
 例えば、代表作 「ハムレットマシーン」では、<ラスコーリニコフ>という固有名が刻印されているのみならず、「ポスト・ドラマ」と呼ばれる劇構成は例えばドストエフスキーのポリフォニックな小説の構造(語り手の問題他)の在り方とも通底していないか等々。
 いずれにしても商業演劇やエンターテインメント全盛の演劇状況に水を差し、「関節のはずれっぱなし」の現代日本の社会情況に活を入れる新たな演劇運動としてハイナー・ミュラーの作品ほど恰好な対象はないのかもしれない。(福井)





掲示板

○文学講座の案内
         
かわさき市民アカデミー2003年度後期02文学

2003年12月10日 水曜日 午前10時30分〜11時30分 川崎市生涯学習プラザ

講 座 名 : 現代文学の水脈
学習内容 : 「ドストエフスキーと現代」
講  師 : 横尾和博・福井勝也・下原敏彦

○ドストエーフスキイの会ホームページ紹介
 http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/ です。

○検索・インターネットでご覧ください
ドストエフスキーの「聖地」スターラヤ・ルッサの情報を知りたい方は、下記のアドレス、または検索エンジンサイトから「成文社」で検索して御覧ください。2002年5月23日〜26日にロシアのスターラヤ・ルッサで開催されたドストエフスキー究集会に出席された木下豊房氏の記事と美しいスターラヤ・ルッサの写真を見ることが出来ます。
http://www.seibunsha.net/essay/essay47.html




10月11日(土)の読書会参加者18名




編集室便り

ドストエーフスキイ情報、ご意見、紹介、などありましたらお寄せください。また、「読書会」で報告希望の方はご連絡ください。次回は『スチパン村』2回目です。

ドストエーフスキイの会では『広場13号』の原稿を募集しています。エッセイ・書評(5〜6枚程度)〆切2004年1月15日迄。詳細は「読書会通信」編集室まて。

年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です。)

郵便口座名・「読書会通信」    口座番号・00160-0-48024 
「読書会通信」編集室:〒274-0825 船橋市前原西6-1-39-502 下原方