ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.80増刊 発行:2003.8.1
長い梅雨もやっと明け、ようやく夏らしくなりほっとしています。皆様には、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。さて、4月・6月の読書会は「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」をつづけましたが、1回2回目とも充実した報告者資料が配布されました。
2003年4月14日読書会・報告者による物語概要
報告者・武富健治氏は、発表にあたり作品の概要を資料として配布されました。以下の長いあらすじからは、作品のていねいな読みとこの作品にたいする氏の関心の深さが読み取れます。
ネートチカ・ネズヴァーノヴァの長いあらすじ
武富 健治
1.継父の古くからの友人で今では有名なヴァイオリニストのBから聞かされた、継父エゴール・エフィーモフの伝記です。父は、非常に裕福な地主の領地の貧しい音楽家の家に生れましたが、長い放浪生活の末、音楽狂いの地主のお抱えのオーケストラで下手なクラリネット奏者として居着きました。22歳の時、同じ郡内のやはり音楽狂いの伯爵のオーケストラから不品行を理由に追い出されたイタリアの指揮者と知り合いました。イタリア人は飲んだくれの生活の末、卒中の発作で急死しましたが、彼は継父に、ヴァイオリンを遺しました。これが、継父の仕組んだものだと訴えられる事件もありましたが、それは虚偽の告訴だとわかりました。しかしその後、継父は姿を消したり、地主や伯爵に無礼な暴言、中傷などをしたりするようになりました。継父は、イタリア人にヴァイオリンの手ほどきを受け、ひそかに自分の才能を信じるようになっていたのでした。実際に心を揺さぶる演奏が出来るようになっていたことは、ある夜、地主との二人だけの時に証明されましたが、自分自身のどうにもならない分裂症状を理由に、継父は礼を尽くして地主の下を去りました。ところがその後、才能を生かす努力もせぬまま、ふしだらな生活に陥りました。それが長く続いたため、才能がすっかり損なわれてしまったようでしたが、たどりついたペテルブルグで、若かったBとの共同生活が始まりました。当時30歳の継父の激しい発作的な熱中ぶり、自信・夢想に、ドイツ人らしい生真面目なBはいったん眩惑されたものの、すぐにそれらが根拠のない幻想ではないかと気付きました。その後もBは、Bのささやかな収入をたよりつつばかげた暮らしを続ける継父に忠告し続けましたが、Bに訪れた努力の報酬たる出世を機についに共同生活は破綻しました。
その後、何年かおきに、Bは継父と再会しましたが、その姿はますまず見苦しくいかがわしいものになっていました。継父は、彼の才能に眩惑された、早くに夫を亡くした私(アンナ=アンネッタ=ネートチカ)の実母と結婚していました。しかし継父は、母の持っていた千ルーブリほどのなけなしのお金を使い果たすと、彼女との結婚生活が自分の才能をだめにした、といい理由にして愚痴を言いふらし、生活のため小さな食堂を開いた母の収入を、片っ端から持ち出して飲み食いに使い果たすという生活に陥っていました。母もすっかり怒りっぽい不機嫌な女になってしまいました。それでもまだ継父の演奏がだめになっていないことを知ったBは、彼をある劇場のオーケストラに斡旋しました。そこでも彼は、愚痴を言いつつ、活躍している才能のある他の音楽家についての辛辣な皮肉を披露するようになり、一部の人たちはそれを面白がりました。それは2〜3年で飽きられてしまいましたが、その頃から、継父の精神錯乱がいよいよ本物になり、彼は才能のある自分がこれほど不幸なのはさまざまな陰謀によるものだ、と信じるようになったのでした。
オーケストラを正式に追放されてからの生涯最後の2年間は、継父は、すっかり水の中に深く沈んだような生活を続けました。
2.8歳になり物心ついた後の私の、主に父と母とに関する思い出です。その頃私たちはペテルブルグの恐ろしく不潔なだだっ広い灰色の屋根裏部屋で、他の家族とは似つかぬ奇妙な暮らしを送っていました。それまでも断片的な記憶はあるのですが、ある日、母がブラシや食器を投げてののしる父をかわいそうな被害者と深く心に焼き付け、彼に母親のような愛を感じてからというものは、子供らしい空想的な思い込みに彩られながら、大人のような認識で悲しく鮮明に記憶されるようになりました。
ある夕方、母の遣いの帰り、パン種をすっかりこぼしてしまい、しかられるのを怖れていた私は、見物人の中に父を見出して、泣いて甘えました。すると父はうちの真向かいの豪華な、赤いカーテンの屋敷を指して、何かを言ってなぐさめようとしました。母は予想に反しあまりしかりませんでした。その後、父は私に、自分が才能のある不幸な芸術家であることをすっかり吹き込みました。以来私は、母が死んだら、芸術家の父は私を連れてこの生活を出て行く、赤いカーテンの向こうでの夢のような生活が始まるのだと思い込むようになりました。
母の留守中を狙って、父の友人、ドイツ出身の素質も才能も少ない端役役者のカルル・フョードロヴィチ(・マイエル)がよく訪ねてきました。父は彼を軽蔑し、他に人がいないから付き合っていたのですが、彼は父に深く友情を寄せていました。彼らは、ある時見つけた『ジャコボ・サンザナール』というイタリアの不幸な芸術家を扱った戯曲に自分らを重ねて夢中になりました。しかしカルルが熱情にかられて、誉め言葉を求めて一生懸命に部屋の中で踊りを披露すると、父はわざとからかいに、それをいかにも残念そうに否定するのでした。からかわれていることに気付いたカルルを、私たちは笑い転げました。二度と来ないと憤慨する彼でしたが、数日後にはまた同じように私たちのところにやってくるのでした。
ある日、お遣いから戻ろうとした私は、父の葛藤の末の嘆願で、お釣の銀貨を渡してしまいました。同情から、より父を愛していた私でしたが、母への尊敬や愛も根底にはしっかり宿っており、心の中ではたいへんな葛藤があったので、それが破れ出てただ泣きじゃくるのでした。母は事情を知らずなぐさめてくれましたが、私は母への愛情を素直に出すことができませんでした。また父も、あとになって自分にしたがって母に残酷な私の所業を反省するように諭すのでした。それでしばらく憂鬱な顔が続きましたが、それが明けて明るい様子になったのを見た父は喜んで、そっと宝物のヴァイオリンを、その時にかぎって非常におごそかな調子で、自分の不幸と本来の才能を語りつつ見せてくれたのでした。こうして私の悲しみはすっかり払われましたが、間もなくこのロマンスは父と母の死によって終わりを迎えることとなるのです。
3.ペテルブルグで高名なヴァイオリニストSの演奏会が開かれることとなり、町はその話で持ちきりとなりました。父は、これまでにも、名の知れた演奏者がくるたびに、とたんに不愉快になるのでしたが、今回は極端で、様子はおかしくなるばかりでした。そんな父を、Bと馬車に乗り合わせていた好事家のH公爵は興味深く見つめていました。
父は、Sの演奏会に行くために、母のなけなしの貯金を狙って、私をなだめすかしてそれ
を手に入れようとしていました。そんな父のやさしさが、本当の愛でなく、しかも子供だと思って侮っていることを、私ははっきりと気付いてしまいました。それでいながら、演奏会の当日、私はお金をついに父に渡してしまいました。母はこの頃すっかり病気を悪くしていましたが、父の様子がおかしいことから異常を察し、お金はどこかと激しく私に迫りました。そして、父は全く無情に、脅しつけるような目でただ黙って見ていたのです。私は気を失いました。
そんな時、H公爵からの使いが来て、Bから頼まれたと、Sの演奏会の招待券を差し出しました。熱にかられやすい母は、突然父への愛情を取り戻し、一張羅にアイロンをかけ、夫を送り出したのです。そして狂気じみた愛撫を注いだ後、ばったりと深い眠りにつきました。
演奏会から帰った父は、全てが明らかになったように絶望し、蒼白でした。母の変化に気付いたその顔には、一瞬微笑が閃いたように見えました。そして激しくヴァイオリンを弾き始めました。それはもはや音楽というより、絶望的な悲しみの叫び、号泣のようでした。耐えられなくなった私は、突然父に抱きつきました。父は、すっかり忘れていた私の存在に驚きましたが、ふたりはいっしょにそこを出て行く準備をしました。父は母の死を教え、別れを告げさせてから家を出てひたすら夜の街を走りました。母をそのままにしてはいけない、戻ろうという私に、父はうなずき、私はここで待っているから誰かに知らせてからまたここに戻っておいで、と告げました。ところが、ふりむくと父はもう逃げ出そうとしていました。私は驚いて追いかけましたが、ついにある屋敷の門のところで力尽きて倒れてしまったのです。
気がつくと、その屋敷の中でした。屋敷の主であったH伯爵が、私の素性を知り、不思議な縁だと引き取ることに決めて、介抱してくださったのです。
父は、激しい精神錯乱のため郊外で取り押さえられ、病院で死んだということでした。父の苦しみはようやく終わったのです。
4.新しく始まった、H伯爵家での日々は当惑することだらけでした。一番親しみやすかったH公爵は、もともとが変わり者で孤独な生活を送っている人だったので、見舞いにもだんだん来なくなってしまいました。美しい公爵夫人は、初めのうち、私の母親になろうとの決意からずいぶん情をかけてくれたのですが、わたしがあまりにも期待に応えないかたくなな子供だったのですっかりあきらめてしまいました。構われなくなってからの私は、見張りつきとはいえ、邸内を好きに歩き回れる自由を得ました。屋敷の2階に住む結婚経験のない神経質な老婦人、H公爵の伯母とも会見しましたが、まったく気に入られず、しかも私がはしゃぐ声や足音が聞えると訴えたので(もちろん彼女の気のせいなのです)、私の生活は1階を中心とするようになりました。ある日の黄昏時、その1階の広間で私が顔を覆っているのを見つけた公爵は深く同情し、聖像のある部屋で祈らせてくれました。
私が憂愁に包まれていたある夜、大広間から音楽が聞えてきました。私ははっと喪服を着ると暗い屋敷の中をたどって大広間にたどり着きました。いつもは薄暗く不気味なその広間は、今夜は無数の明かりにまぶしく照らされ、大勢の豪華で絢爛な衣装の人々が集まっていました。そこは、以前夢に見た赤いカーテンの向こうの部屋、そのものでした。『父はきっとここにいる』と信じた私は、壇の上に背の高い老ヴァイオリニストの姿をみとめました。そしてあの父のと同じ、悲痛な号泣のような演奏を耳にしたのです。割れるような拍手の中、私は無我夢中で父を呼び叫びながら老人にとびつきました。気がつくと私を抱いていたその老人は父ではなく、父を殺した人、Sだとはっきりわかり、とたん私は気を失ってしまったのでした。
5.私がふたたび目を開いた時、目に映ったのは、光り輝くような魅惑的な、私と同年齢くらいの美少女の微笑でした。彼女こそ、2階の老婦人の姉に当たるL伯爵未亡人の元に預けられていて帰ってきたばかりの公爵令嬢、カーチャでした。私は甘美な予感に似た幸福に
満たされました。私と正反対で、じっとしていることのできないこの少女は、退屈なのを仕方なく、と断言したものの毎日私の見舞いに訪れ、早く治らないかと急くのでした。私は彼女への好意を告白しましたが、彼女はまだ好きにはなれないと言いました。私は床から離れるようになると、カーチャにぴったりついてまわり、ある時など我慢できず彼女の首に飛びつき、接吻さえしてしまうほどでした。しかし元々おとなしいところに病み上がりだった私は、激しい彼女の遊びについていけず、彼女の興味を失ってしまいました。そんな私たちをかろうじて和解させてくれた監督兼家庭教師のマダム・レオタールの下で、カーチャと私は机を並べて勉強するようになりました。物分りがよくどんどん初歩を覚えていく私を、カーチャは憎み、ついに私を侮辱するようなことを言いました。そこを公爵が発見し、正論でしかったので、気位の強い彼女は真っ赤になって、謝罪を断固拒否しました。しかし、彼女の大好きな父の怒りの解けないことに絶えられなくなったカーチャは数日後、キスで私と和解しました。しかし彼女は私を避けるようになりました。この頃から私の思いは、すっかり恋と言えるまでに狂おしく激しく変化していました。寝ている彼女に忍び寄り、手や髪や足などに接吻することさえあるくらいでした。この頃からカーチャの様子もおかしくなり、見咎めた公爵夫人は、私のせいだとして、二人を会わせないようにしてしまいました。私は胸も張り裂けんばかり苦しみました。
ところがある朝突然に、彼女は戻ってきました。彼女は私のほどけた靴の紐を、そしてはずれていた胸のボタンまで自らの手で直してくれたのです。そしてその晩、カーチャは神経性の発作を起こしたのでした。翌日も彼女はおかしくて、自ら、彼女を嫌っている老婦人を訪ね、いったん和解させるように見せたもののしまいにはかんかんに怒らせてしまいました。その仕返しに、冷静さを失っていたカーチャは、伯母の天敵のブルドッグ、ファルスタッフを、わざと2階まで引き入れ大騒ぎを起こしてしまったのですが、その罪を、私は喜んで自らかぶり、牢屋と呼ばれる小部屋に閉じ込められてしまいました。しかしこの件がきっかけで、カーチャと私の垣根は完全にとりのぞかれて、それからは、毎晩どちらかのベッドでいっしょに寝、熱く語り合い、熱烈に接吻しあうようになったのです。
私たちの変化に気付いたマダム・レオタールはつい公爵夫人にその心配をもらしました。後悔先に立たず、夫人は私たちを完全に引き離してしまいました。公爵の計らいで、私たちは隠れて会えるようになったのですが、それもつかの間で、L伯爵夫人のところに預けられていたカーチャの弟が重い病にかかったのを理由に、カーチャはモスクワに戻されてしまい、それきり帰してもらえませんでした。私たちの再会はずっと後になるのです。そして私は、カーチャの父親違いの姉アレクサンドラのところに引き取られることになったのです。
6. 8年あまり続くこととなった新しい生活は、まるで隠者たちの中に住み着いたような、静かなものでした。アレクサンドラ(アンナ)・ミハイロヴナはすっかり他人との交渉を断ち(断たれ?)、憂鬱な一人の時間を除いては、幼い実の子供の世話と、それよりむしろ私の教育に全力を注ぐといった感じでしたし、夫のピョートルは、絶えず仕事と社交に追われていましたが、家庭での生活とはすっかり二分されておりました。ただし、このピョートル
が家庭で常にあまりにも憂鬱だったのは、他にも理由があったようで、特に妻に対しては、見下すような寛容と、深刻な同情が常に表情に宿っていて、アレクサンドラもそんな夫に対し、常に引け目のような緊張感を持っていて、ごくたまにではありましたが、それに対する怒りや憤り・悲しみが発作を起こす時があったのでした。
アレクサンドラの教育は、いっしょにこちらに来ていたマダムレオタールも思わず笑ってしまうほど、あまりに熱意にかられて性急過ぎるもので、最初は空回りした感じもありましたが、その、学問と言えるか疑わしいほど自由で広がりのある血の通った教育は全て、わたしにとっては最高のものでした。彼女と共に楽しんだ、行間を読むような沢山の読書は、私に何も体験する前から、人生に対しての多くを推察させることになりました。
そのうち私は13歳になりました。この頃にはアレクサンドラの健康はだいぶ悪化して、いらだちや悲しみの発作も激しく頻繁になっており、私を遠ざけがちになっていましたが、これは思春期に入っていた私の方でも望む事でありました。私は教育によって啓かれた思想によって、かつてと同じ空想に浸る生活に再び入り込んでいました。私は、この家の夫婦の悲しみの秘密などについて自分なりに思いを馳せました。
そんな時、ある事件がありました。ひょんなことから、家の図書室の鍵を手に入れたのです。それまで完全に検閲された本しか読めなかった私は、小説を中心に、まったく新しい魅力的な世界の虜になることになったのです。誰も気が着かぬうちに、私は16歳になりましたが、やっと私に、年齢にふさわしい本を読ませずに来てしまったと気付いたアレクサンドラが、選んできてくれた「アイヴァンホー」は、既に何度も読み込んでいたものでした。
ある時、私は、ふとアレクサンドラの弾くピアノの音につられ、歌っていました。私だけでなく、夫婦も、Bも、全ての人が、私の隠れた才能に驚き、それからは週に三度、小間使いを連れて、の音楽教師の元に通う生活街が始まったのでした。
7.私はある時、図書室で、スコットの『聖ロナンの泉』を、思うままに開いたページの文句を読み込んで、深い感動に浸っていたのですが、その中に、S.Oという頭文字の入った宛名のない古い手紙がはさまれているのを発見しました。
「ぼくたちは別れなくてはならない。こんな結末を僕は予感していた。ぼくたちは釣り合わない仲だったのだ。粗野で単純で人並みな、こんなぼくをどうして君が愛してくれたのか、これまでずっと、そして今でもわからない。君の、同情から出た愛情の告白の意味も気付かず、ぼくはすっかり酔ってしまった。自分の高さまでぼくを引き上げようとする愛に対し、ぼくは愚かにも、まるでぼくに夢中になっている女性に対するように接してしまっていた。しかし全ては君の買いかぶりだったのだ。覚えているだろうか、ぼくがひざまずき号泣し、言った言葉を。『これは何の報酬なんだ? なぜこんな幸福が得られたのだろうか?』。ぼくは君に値しない男だった。いつもそれが苦しかった。あの連中の非難に、ぼくは意気消沈してしまったのだが、それも彼らの言うことがもっともだと思ったからだ。いましがた、ぼくは君のご主人にお会いした。彼はみんな知っていて立ち上がったのだ。ご主人は君の救世主だ。ぼくは逃げ出そうとしているのに。彼はみんなに、甘やかし過ぎだ、弱すぎる、と非難されながら、君のために戦っている。石を振りかざし、『私たちは罪がない、しかし罪をかぶる気持ちがある』とのたまう、見る目のない彼らのことは許してやって欲しい。ご主人だけは君を理解しているということは信じて欲しい。ぼくは君にありがとうは言わない。ただただ、さようなら、永久に」
これはアレクサンドラ宛の手紙でした。あ
まりの衝撃に、私の生活はすっかり病的に変貌してしまいました。音楽もすっかりやめて、ふさぎこんでしまったのです。こうした変化から、ピョートルとの間にも妙な気まずさが生じ、またその様子をみたアレクサンドラは、病気のせいもあって、あらぬ誤解を私たちにむけることともなりました。そんな中、私は、普段私たちの前では完全に無表情を作っているピョートルが、誰も見ていないと思って鏡の前でごきげんで鼻歌を歌ってたのを目撃し、精神的な発作を起こして大笑いがとまらなくなってしまいました。彼の狼狽は言うまでもありません。
そんな直後、私は図書室で例の手紙を見ている現場をピョートルに押さえられてしまいました。彼は、それが何者かからの私への恋文と完全に勘違いし、アレクサンドラの前に引き出して、全てを暴こうとしたのです。私はなんとしても最悪の事態を避けようと、ぎりぎりの言葉で、推し留めようとしましたがだめでした。彼の残酷な追及は、思わずにして、彼の妻の心を引き裂いたのでした。私は2時間後、ピョートルに手紙を見せ、彼が何をしたかを知らしめました。私は前後不覚のまま、自分の部屋に戻ったのでした。