ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.80 発行:2003.8.1


第199回(8月)読書会&合評会のお知らせ


8月読書会は、暑気払として下記の要領で読書会及び『広場No.12』合評会を開催いたします。
大勢の皆様のご参加をお待ちしています。※会場は小会議室7です。

月 日 : 2003年8月9日(土)
時 間 : 読書会→午前9時30分〜12時00分/合評会→午後1時00分〜 4時50分
場 所 : 東京芸術劇場小会議室7(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
作 品 : 読書会『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』3回目
報告者 :  フリートーク
会 費 : 1000円(学生500円)

※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

※ 合評会コメンテーター 熊谷暢芳氏 菅原純子氏 佐々木美代子氏 近藤靖弘氏  武富健治氏 
人見敏雄氏 (順不同)

◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で二次会を開きます。

会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
時 間 : 午後5時30分〜7時30分頃迄
会 費 : 2〜4千円





8月9日(土)読書会&合評会


読書会&『広場12号』合評会について

読書会&『広場12号』合評会は、下記の要領で行います。

プログラム


9:00 〜 会場準備、フリートーク
9:30 〜 『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』第3回読書会(前2回を受けてフリーディスカッションの予定。) 前2回迄の発表資料(武富氏、福井氏作成)のコピーをご希望の方は「読書会通信」編集室(下原)までお申し出ください。

12:00 〜 昼休み

13:00 〜 合評会 開会宣言
13:10 〜 福井勝也さんの「ドストエフスキー研究者・新谷敬三郎先生へのオマージュとして」(コメンテーター:人見敏雄さん)
13:40 〜 木下豊房さんの「椎名麟三とドストエフスキー」(コメンテーター:菅原純子さん)
14:10 〜 高橋誠一郎さんの「司馬遼太郎のドストエフスキー観 ―満州の幻影とペテルブルグの幻影」(コメンテーター:熊谷暢芳さん)

14:40 〜 休憩

14:55 〜 中谷光宏さんの「ドストエフスキーとトーマス・マン ―夢想家と迷い込んだ俗人―」(コメンテーター:佐々木美代子さん)
15:25 〜 桜井厚二さんの「犯罪文学とドストエフスキー ―逸脱者の神話(コメンテーター:武富健治さん)
15:55 〜 エッセイの分「ハムレットとラスコオリニコフ」他4(コメンテーター:近藤靖宏さん)
16:25 〜 フリートーク、総括
      (質疑時間が不足した論文についての追加質疑など)
16:50 〜 閉会宣言、後片付け

※17:30 〜 二次会あります。3000円前後


 


6・14読書会報告(配布資料抜粋紹介) 


『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』を読む
          〜 オムニバス風の勝手な連想によって〜
                                
 福井 勝也                                     


1.『ネートチカ』に<心理学的心理>を読み採ることの功罪について
        〜 小林秀雄のドストエフスキーの作品論を振り返りつつ
 
□ (『ドストエフスキイと日本文学』(1976)新谷敬三郎著−あとがきより)
□(「罪と罰」についてT(1934)小林秀雄/「全作品5」p42)
□(「罪と罰」についてT(1934)小林秀雄/「全作品5」p66)
□(「罪と罰」についてT(1934)小林秀雄/「全作品5」p70)
□(「白痴」についてT(1934)小林秀雄/「全作品5」p201-203)
□ (「地下室の手記」と「永遠の夫」について(1935)/ 小林秀雄「全作品6」p254-255)

 上述のように(省略)、シェストフは心理主義の時代の到来を指摘した。文学作品を思想的イデオロギー的 )に読解する時代が終焉して、現代は心理学的な方法による作品理解の傾向がますますせり上がって来ている。今回の発表で僕が拘ろうとしたことの一つはこの心理主義万能時代が孕む問題である。これは、文学的なレベルの問題を越えて、社会事象一般を理解する際の常套手段ともなっている。それを担う現代の巫女的存在が、意味不明の凶悪犯罪や少年事件がマスコミを席巻するたびにご登場される、その筋の「専門家」といわれる社会心理学者や犯罪心理学者や心理カウンセラーの面々である。これらの人々は何か事件が起きると、ご託宣を述べるためにマスコミに召喚され、その事件の「深層」についての<謎解き>を求められる。そしてその謎がともかく言い当てられるわけだ。その解答の善し悪しは別にして、ともかくあたかも事件が解決したかのような<カタルシス>をみんな(=観客としての大衆)が共有できれば一件落着というわけだ。われわれの現代という時代は、大衆(=われわれ一人一人)が享受するあらゆる娯楽(どんな高級な意匠をこらしたものでも)の背後には、このような安易な心理的カタルシスが準備され、仕掛けられている。
 本来カタルシスとは、古代のギリシャ悲劇などの世界で語られるものとしての魂の浄化作用の意味であった。現代という時代が不幸なのは、この本来人間存在に不可避的に備わっている魂の浄化機能(=これが巧く作動しないと発狂=精神的死に至る)について意識的であり、余りにもそのこと自体についての知識を学習し、所有してしまっているということにありはしないか。その事は、20世紀以降、現代的知の一角を成すフロイトの精神分析学に負うところが大きい。元来、ヒステリーなど神経症の治療として始まったこの学問?から、それ以降の無意識の心理学の諸派、ここから60年代以降の記号学・神話学などのフランスを中心とした構造主義の思想が流れ出すことで20世紀を代表する思想哲学として系譜を広げていった。ここに至って、精神分析的思考が広く社会・歴史的事象の問題を解明する手段になり、もう一方では文学作品を読み解くうえでの方法(=文学作品をテキストととして構造主義的に読み解くもの)を提供することにもなった。21世紀を迎えた現在、イデオロギーの崩壊が語られて久しいが、硬直した思想哲学がイデオロギーとして機能することが停止し た後にわれわれの現代社会に浸透し、だれもが頼りにするようになったのが、シェストフが指摘した以上に大きな発達を遂げた「心理主義」であったと言えるのではないか。見方によっては、心理主義はマルクス主義等の思想・哲学とは違ったソフトなイデオロギーとして消費資本主義の世界で機能しわれわれを拘束しているのではないだろうか。
 話を『ネートチカ』に戻さなくてはいけない。実は、僕自身今回この作品を読んで初めに感じたことは、この作品が何と「心理主義」的であるかという事でした。そしてそれは、フロイトの精神分析学的知の教科書的素材に溢れている作品だと感じたわけです。しかし少し時間を経て読み返したとき、このような感じ方に何か根本的な<錯誤>があるように思えたのです。その錯誤を僕に生じさせている問題こそ、今まで述べてきたイデオロギーとしての心理主義の在り方だと気が付いたわけです。このことは、一方で例えば「東電0L事件」を読み解く佐野眞一氏の著作の問題ともクロスするものとしても浮上してきました。そこには、魔女狩り的・スキャンダラスな一つの殺人事件の深層に迫る物書きの姿勢に何か強く共感しながら、やはりそこに登場してきた精神分析的な謎解きの説明に、『ネートチカ』を読んだ時に感じた同じ錯誤的問題が孕れているように感じたからでした。その<錯誤>の中身とは何か、それを今回の発表で問題にするわけですが、結論的に言えば幾通りも考えられるはずの物語を一義的に解釈しよとする心理的短絡主義とでも言いましょうか。これは、先に述べた不安な現代社会を生きる我々の安易なカタルシス願望に基づくものと考えられるものかもしれません。実は、この問題はもう少し広げて考えれば、現代文学の表現が孕む心理主義的表現の問題にも関係していることに気付かされることになります。それは、例えば中上健次のいくつかの作品(例えば、『地の果て至上の時』)と村上春樹の最近作の『海辺のカフカ』に顕現するエディプスコンプレックスという精神分析的心理主義のモチーフの扱われ方等を例にしても語ることができるものかもしれません。いずれにしても、まず『ネートチカ』 を再度読み直してみますが、この読み方に共通する問題の在り方について、批評家の小林秀雄がその初期のドストエフスキイ論で何度も繰り返して述べていることを指摘しておきます。そのいくつかの小林の言葉を別途引用しておきましょう。これから読む流刑以後の大作を読むうえでも参考になるはずです。
   
2.『ネートチカ』を<三つの物語>を貫くものとして読み直す。
 
 『ネートチカ』という作品は、三つの物語から成立している。一つは、音楽師 であるエフィーモフという男の伝記としての物語。二つ目は、H公爵に引き取られた少女ネートチカと公爵令嬢のカーチャとの同性愛的な友情の物語。そして三つ目が、さらにネートチカの庇護者(カーチャの父親違いの姉)として現れたアレクサンドラ・ミハイロヴナとその夫であるピョートルとの夫婦関係の物語ということになる。この三つの物語は、主人公ネートチカが8才になって物心ついてからの継父と実母と自分をめぐる夫婦・家族関係の破綻からいわば孤児となって流転し、16才という大人に成りかける年齢までの成長物語という枠組みとっている。このような薄幸な孤児の成長物語という題材自体に新しさを見つけることは困難であるが、この作品が現代の読者になお訴えかけるものがあるのは、その家族関係をめぐる心理描写のリアリズムにあると言える。物語の発端となる家族関係のうち、注目されるべきは、第一の物語で描かれる少女ネートチカと義父である音楽師(バイオリニスト)のエフィーモフという父ー娘関係であると思われる。
この父ー娘関係に特徴的なことは、芸術家気質の継父を元来愛した実母が、継父との夫婦喧嘩(「ののしりあい」)の際に父親をかわいそうな被害者として心に焼き付け、彼に母親のような愛情を感じてしまうことから始まる。継父は自分が実は才能のある芸術家であることを少女に吹き込み、自分の才能を駄目にしたのは妻(ネートチカの実母)との結婚生活にあると言いふらしたりする。このことを少女は傍らで聞きながら育つことになる。実母への十分な愛情を意識しながらも、いつか少女は、「母が死んだら、芸術家の父は自分を連れてこの生活から抜け出して、赤いカーテンの向こうでの夢のような生活が始まるのだ」と思い込むようになる。そして、現実にエフィーモフの芸術家としての希望が絶たれた時点で生起する実母と継父の発狂、死という運命のなかで、母親を愛しながらもその死を望み、継父との二人だけの関係を望んだ自分の罪障感を心に深く刻むことになる。実母を裏切り、思慕した継父から置き去りにされるという仕打ちに耐えきれず、彼女は失神(=自己処罰的な精神的な死)をして第一部が終わる。
 この作品の精神のリアリズムとは、この少女ネートチカの欲望と罪の意識が、母親の悲劇的な死によって心的な外傷として固着化(=トラウマ化)するところを描き切っているところにあり、そこには、フロイトの逆エディプスコンプレックスとしてのエレクトラコンプレックス(母親を殺して、父親と性的関係を望む娘の父親にたいする無意識的な欲望)が抉り出されていることになる。
 中村健之介も指摘(『人物辞典』−p76)するとおり、この小説は少女ネートチカの(精神的)病とそれからの快復の詳細な告白記録とみることができる。現代の言葉に置き直せば、幼少期に負ったトラウマからの心理的な快復を企図するための癒しとしての自己セラピー(=告白行為、物語り)小説と呼ぶこともできる。
 そのような観点から、さらに第2部を読み解くならば、偶然に引き取られる事 になったH公爵の家こそ、かつて夢見た赤いカーテンの向こうの家(部屋)であると考えることができる。これは、現実にH公爵家の大広間で開かれた背の高い老ヴァイオリニストの演奏会の音楽を聞きつけた彼女が、「父はきっとここにいる」と確信し、無我夢中でその老人を父親だとして叫びながら飛びついていく描写に顕れている。飛びついた相手が実は、父ではなく、父を殺したSだと解りここでもネートチカは失神することになる。いずれにしても、彼女のエレクトラ願望は、H公爵家でも夢想的に継続しており、擬似的な父親としてのH公爵が孤独な変わり者でなければ、ネートチカの愛情はH公爵に向かってもおかしくはなかったかもしれない。しかし、ドストエフスキーの小説のリアリズムはその図式的な願望を
満足させるほど単純ではない。ここには、ネートチカのエレクトラ願望が罪の意識と表裏一体である事と関係している様にも考えられる。いずれにしても、少女のそのせっぱ詰まった欲動は一番身近にいた公爵令嬢のカーチャに向けられることになる。この同性愛的な、というより子猫同志がベッドのなかで絡み合うよう 。な動物的な身体接触を求め合う愛情行為が、犬(=ファルスタッフ)騒動の罪を ネートチカがカーチャの身代わりとして引き受けて牢屋と呼ばれる小部屋に閉じこめられるという事態で一挙に親密化するところが印象的である。ここに、ネートチカの自己処罰願望(=実母を裏切って死に至らしめたことの罪障感からの)の結果行為を読みとることも可能であるが、同時に自己犠牲としての自己処罰を通して、少女が母親の罪から回復してゆく(=再生・復活)過程と見ることも可能であろう。
 そしてそう読むことで、このネートチカとカーチャの熱烈な愛撫行為の意味が、ネートチカには辛いトラウマを貪るように癒す人間の温かな皮膚接触セラピーとしての性行為(=あるいは、擬似的な性行為)として意味づけられると思える。さらにここに、ドストエフスキーが初期作品で拘っているユートピア的な性を越えた姉妹(=兄弟)愛の純粋な具現化として見ることもできるかもしれない。いずれにしても、この自己犠牲的な精神に基づく愛の形もその過激さ(?)故に二人が引き離されることになる。
 その結果として第三部では、カーチャの父親違いの姉のアレクサンドラ・ミハイロヴナがあらたなネートチカの庇護者として現れることになる。彼女はネートチカにとって完全に近い教育者として読書を通して深く人生を推察することを教える者として登場する(おまけに、H公爵家の教育係のマダムレオタールまで一緒に居る)。ネートチカは、ここで13才から16才と成長し8年の年月を過ごすことになる。病気がちなアレクサンドラが抱える問題が、夫ピョートルとの夫婦関係にあり、ネートチカはその秘密を鍵のかかった図書室の本に隠された手紙から偶然に知ってしまう。このアレクサンドラとピョートルとの夫婦関係には、愛情の通わぬ夫婦ということで、第1部のネートチカの義父と実母の夫婦関係を思い出させるものがある。ただし、夫であるエフィーモフが芸術家ということで、ある種の夢想家タイプ(=役立たず)であるのに対して、夫ピョートルは対照的な実務者タイプと言える。そしてさらには、作品『主婦』のムーリン的な妻をある種の心理的な抑圧状態に押さえつけている権力者的なタイプでもある。それに対して、秘密の手紙の主(=S.O)は武富氏も指摘する『弱い心』の幸せに耐え切れぬワーシャを連想させる。このアレクサンドラとピョートルとの夫婦関係に、ネートチカの秘密の手紙の発見が波紋を広げて行き、アレクサンドラがネー トチカとピョートルの仲を疑うまでに至ったり、ピョートルの奇人振りを発見して精神的発作にネートチカが襲われたりする。最後に図書室で例の手紙を見ている現場をピョートルに押さえられてしまい、ネートチカが必死になって止めようとしたが結局、ピョートルの残酷な追求でアレクサンドラの精神は引き裂かれてしまう。一体この未完の結末に何を読み取るべきなのか。第1部との関連を読むとすれば、タイプの違う夫婦関係ではあるがいずれにしても愛情の通わぬ夫婦の下でネートチカが心理的なダメージを受ける結果が反復されている。ただし、第1話では、幼女である主人公がエレクトラコンプレックスの欲動に、いわば無意識的に振り回されてトラウマを負ってしまうのに対して、第3部では16才に成長した少女が権力者的な夫として振る舞うピョートルから被抑圧者的な妻としてのアレクサンドラを守ろうと必死に抵抗している。、第1部では、継父に従い屈して実母を破滅させてしまったネートチカが、ここでは擬似的な母であるアレクサンドラを生かそうとしていることになる。結果は別にしても、ここには紛れもないネートチカの精神的成長を垣間見ることができる。アレクサンドラの教育がネートチカのなかでしっかりと根付いているとも受け取れる。ドストエフスキー は、ここに、ネートチカの魂の再生を書き記したと言えないだろうか。このテーマこそ、流刑後に形を変えて書かれる大作を予感させるものを含んでいると言っ たらやや誇張にすぎるかも知れないが。
 ドストエフスキーの『ネートチカ』という作品が名作であるとすれば、それは単なるビルディングスロマンではない、言い換えれば安易な神話や心理学的な概念に今日もなお回収され得ない近代小説として魂のリアリズムが描かれているからだと思うのだ。
 ※他に「東電OL殺人事件」被害者の軌跡資料配布。


 報告は、『ネートチカ』作品と「東電OL殺人事件」の二本柱となった。『小林秀雄全作品』を踏まえた作品の丁寧な読みと考察。事件の推移。被害女性の軌跡。ルポタージュの紹介。一つ一つが幅広い報告となった。このため、時間いっぱいとなり主眼であったネートチカと被害女性との関係性まで届かなかったように思えた。質疑応答の時間も僅かになった。(前々回武富健治さんの報告も同様とみる)
 故に8月9日(土)午前の部、フリートークという形で再度この作品の読書会を開き徹底討論することになった。その際、武富さん・福井さんには論じ足らなかった分を、参加者には多くの質疑を期待したい。


※4月読書会では、報告者の武富健治さんが「ネートチカ・ネズヴァーノヴァの長いあらすじ」を配布されました。(漫画家・武富さんの挿し絵入りです)ご入用の方は『読書会』編集室にお申し込み下さい。(前号に一部掲載)
  この「長いあらすじ」から報告者の、この作品に対する深い関心がうかがえます。





第158回例会傍聴記(2003年5月17日開催)
(ドストエーフスキイの会ニュースレターより転載)


エキサイティング! −穴見公隆氏「てんかんとドストエーフスキイ」を聞いて−

下原 康子


 すごくエキサイティングな報告でした。なにがそんなにエキサイティングだったのか、この際、無知・勘違い・思い込みを恐れずに記してみます。

1.例会初のパソコンを使っての報告でした!
ドストエーフスキイの会がなんとなく守り続けてきた伝統的報告スタイルがあっさり覆されました。スクリーン使用の都合で席の向きが普段の逆になったとたん、不思議なことに会場の雰囲気がいつものローカル風からアカデミックな学会ムードへと変貌していました。穴見先生、パソコンをご持参いただきありがとうございました。

2.長年の念願であったドストエーフスキイを読む医師にめぐり会えました!
しかもてんかんの専門医、精神科医、ロシア語もできる、これだけでも出来すぎなのにその上、若々しくてかっこよくて話術も巧みなんてずるい...

3.留学先がなんとマサチューセッツ総合病院(MGH)!
聞いたところによればMGHってすごい病院のようです。ハーバードの関連病院の中では最も歴史が古く、規模は最大。診断・治療・研究3拍子そろったアメリカのトップクラスの病院ですって。

4.脳の機能を測定するFunctional MRIの衝撃!
   この新兵器を脳波と併せて使うことにより、てんかん発作の時間経過に加え、発作発生個所が特定できるとか。日本での研究最前線のお一人が穴見先生です。この機械の誕生・開発に貢献した多くのてんかん患者さんたちに感謝。今後は、より広い脳のはたらきへと応用が広がり、やがて脳と心の関係や意識の場所なども解明されるようになるのでしょうか。興味は尽きません。 

5.「ドストエーフスキイの発作なんてたいしたことない、現在なら簡単に治療できた」
   こうあっさり明言されてはあの世のドスト氏も苦笑するしかないでしょう。ドスト氏にはお気の毒ですが、後世のためには治療できなくて幸いであったと言わざるを得ません。だって、ムイシュキン、キリーロフ、スメルジャコフがいないドストエーフスキイなんて...
  
6.「ドストエーフスキイのエクスタシー前兆も数あるてんかん発作の中の一つにすぎない。しかも非常に稀である」
   てんかんの神秘に心惹かれていたドスト信者にとっては少々そっけなく聞こえたかもしれません。何時の日か、穴見先生がエクスタシー前兆を持つ患者さんに遭遇されたら、その時は再び例会で報告することをお約束してください。その際、その発作個所が臨死体験の起こる場所と同一かどうかFunctional MRIの画像で確認してくださいません
か。前から気になっていることなので。

7.脳と心の両方から診る。
   穴見先生は@脳を研究する科学者 A患者さんの診療にあたる精神科医 B社会復帰病棟医長という3足のわらじを履いておられます。いずれ劣らぬ激務を一手にひき受けておられる理由をドスト信者的我田引水で解釈するとしたら、「脳の研究だけでは人間の謎にはせまれない」ということでしょうか。さすがドストエーフスキイ体験者は違う!

8.ドストエーフスキイはてんかんではなかった?!
   会の代表木下先生が最後に爆弾質問。2001年に発表されたロシアの研究者(木下先生の知人)の新説によれば、ドストエーフスキイの発作は高血圧に起因する精神障害であって、てんかんではなかったとのこと。当日、急用のため二次会への参加は見送られたため、残念ながらこの新説に対する穴見先生のご意見をお聞きすることはできませんでした。またのご参加をお待ちしています。
  




「ドストエーフスキイ全作品を読む会」読書会の軌跡
 < 16回〜21回まで>

 「ドストエーフスキイ全作品を読む会」は、1971年3月に発足。翌月4月10日(土)早稲田大学大隈会館で第1回読書会を開催した。作品は『貧しき人々』。 (以後年6〜8回ペースで開催。1971年〜2003年6月までの31年間で実に約198回開催されている)
(発起人は野田吉之助氏、佐々木美代子氏、岩浅武久氏)
 
1973年

第16回読書会 : 作品『虐げられた人々』松平幸子(会報No.24)
第17回読書会 : 作品『いやな話』稲葉重貞(会報No.24)
第18回読書会 : 作品『死の家の記録』佐々木美代子(会報No.25)
第19回読書会 : 作品「シベリヤ流刑後『死の家の記録』までの書簡」田中幸治26
第20回読書会 : 作品『夏象冬記』齋藤俊雄(会報No.27)
第21回読書会 : 作品『地下生活者の手記』齋藤俊雄(会報No.29) 
 



ドストエーフスキイ情報


 
新聞・読売新聞2003年6月20日(夕刊)「気鋭 新鋭」欄

中村文則(作家)――人間の内面の狂気描く――
・・・福島大在学中に神戸児童殺傷事件が発生した。これを題材にした卒論は「現代社
会における逸脱現象の社会学的考察」。作品からは、少年事件への高い関心もうかがえる。
文学との出会いは中学三年のころ。太宰治に熱中し、ドストエフスキー『地下室の手記』
に打ちのめされ、サルトル、カミュ、カフカ、ジイドと読書にのめり込んだ。・・・

新聞・朝日新聞2003年7月20日(日)読書「いつもそばに本が」(上)

別役 実(劇作家)
 私の本とのつきあいのはじまりは、小学四年から移り住んだ長野市での貸本屋通いからと言っていいだろう。満州から引き揚げてきて、高知、静岡と渡り住み、家には本などほとんどなかったから、貸本屋が唯一の本の供給源だったのである。江戸川乱歩や海野十三、ポーやコナン・ドイル、剣豪ものや怪奇小説、佐々木邦のユーモア小説や吉屋信子の少女小説まで、ほとんど手当たり次第に読みあさったことになる。/ただ、こうした私の乱脈な読書傾向にも、高校時代、ドストエフスキーの読み方を教わる機会が出来、一本筋が通ることになった。

新聞・朝日新聞 2003年7月27日(日)読書「いつもそばに本が」(中)

作品内に入る術得た『地下生活者の手記』
別役 実(劇作家)

 高校時代私は、清水栄一先生(著書に『信州百名山』など)という方がポランティアでおやりになっていた「柏与塾」という、いわば私塾で英語を教わっていた。/私が通っていたころの塾生は二名か三名で、最初はラムの『シェークスピア物語』などの読解をしていたのだが、何がきっかけだったのかは覚えていない。いつのころからかそこは、先生の手ほどきによる「ドストエフスキー研究会」のようなものになっていた。そこで、のっけに先生に読むように勧められたのが『地下生活者の手記』である。
 それまでに私は、乱読の過程で『罪と罰』くらいは読んでいたのだが、いきなり勧められたそれには、少しばかり面喰らわざるを得なかった。読み進めるのがかなりきっかったが、代わりに得られたものも大きかったように思われる。先生の適切な指導によるものであることは言うまでもないが、以後私は、作品の内部に入りこんで読む術のようなものを、身につけることが出来たような気がするのである。
 同じ時期、「ドストエフスキーを理解するためには、キリスト教を理解しなければならない」と先生に言われて、「聖書研究会」に通ったのも、今から考えると、私にとって大きな出来事だったかも知れない。中でも、「モーセの十戒はイロニーである」として、/深く身にしみた。教えとしてではない。それをそのように考える、精神の屈曲のありようとしてである。それがそのまま『地下生活者の手記』を成した精神にも、通ずるものがあると考えたからである。
私の乱読は、それ以後も依然として続いたが、ただその時期、『地下生活者の手記』と、その「イロニー」の精神に多分に影響され、それを可とする気持ちが働いていたせいかもしれない。私は次第に、人づきあいの悪い、暗い人間になりつつあったように思う。/

本・木原武一著『人生を考えるヒント〜ニーチェの言葉から』新潮選書2003年3月15日発行 定価1100円 提供者・石川啓一さん

/ロシアの小説家、ドストエフスキーは、人間が人生で持ち続けるべき記憶あるいは思い出について、『カラマーゾフの兄弟』のエピローグでこう書いている。敬虔で純真なアリョーシャが「明るいかわいい顔」の中学生たちに言う言葉である。「いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。」/ニーチェと同じように「人間通」だったドストエフスキーは、笑いと人間についての徹底的な分析を『未成年』で行っている。それは、ニーチェが言わんとしたところを十二分に敷衍しているばかりでなく、私の知るかぎり、笑いについてのもっとも鋭い考察でもある。

テレビ・フジテレビ2003年6月2日(月)0:35「お厚いのがお好き」

清水正・監修『罪と罰』
 ドストエーフスキイの『罪と罰』をとりあげ、この作品が、どんなに面白いかを、司会者とコメディアンが紹介した。紙芝居風にして当時のロシア事情や登場人物たちをわかりやすく説明した。
監修は日大芸術学部教授の清水正氏。
 
巷・JR津田沼駅北口「昭和堂」書店

 JR津田沼駅北口にある書店内にある本紹介の立て看板のことは、既に何回かこの欄で紹介しました。が、ドスト関連についてまたまた新しいものを見つけました。

『罪と罰』工藤精一郎訳
 まっくらやみの小説『悪霊』と世界最高の小説『カラマーゾフの兄弟』の作者による読まないうちからかんちがいしていませんか?それが『罪と罰』殺人犯の主人公は、改心なんかしません
立ち読みするなら下巻P:15〜22 時間のないひとはP:21おわり〜22

『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳これぞ世界最高の小説。これを超える小説は今世紀も出ませんよ。断言きっぱり。立ち読み中巻457〜9

ドストエフスキーを読んでみよー!
なんかひげ生えてるし、おっかなそうだし、難しそう、だいたい名前が読みにくいし!舌かみそう、ドストって・・・。一生読むことないよね!なんて思っているアナタ!
それはとってももったいない事です!読まなかったらきっと後悔するはず・・・なんて言ってみたりする。




暑中寄稿

先ごろ、「編集室」宛に下記のものを送付いただいたので紹介します。


ある若者の内なる壁                     


 ボランティア活動をしているといろいろな性格・タイプの人間に会う。昨年から今年にかけて、奇妙な、特筆すべき若者に会った。
 その若者を知ったのは昨年の秋だった。私が指導しているスポーツクラブに入会した。彼の行動は、はじめて来たときから逸脱していた。子供たちに指導中だった。ふつうは、入口で待っていて終ってから恐る恐る入ってくるものだ。が、彼は、何の挨拶もなくいきなりダーと飛びこんできて、大声で
「ぼくここにきていいでしょうか」と、聞いた。まるで幼い子供のようだった。
 が、見れば、1メートル80ぐらいのいかにもスポーツ少年といった体格のよい、丸眼鏡の真面目そうな若者。強引な態度と口ぶりが気にかかったが、そのときは熱心さ故と受け取った。
「なぜ、ここに」とたずねると、彼は臆することなく
「高校の部活が廃部になったから」「顧問の先生と喧嘩してしまったから」「親にゲームばかりやっているなと言われた」と、三つの理由を一気に答えた。
 言語明瞭で、礼儀正しいスポーツ高校生―が、そのときの印象だった。私は、入会を許可した。いい若者が入ってきた、と内心喜んだりもした。が、彼は、普通の人間とはまったく違うやっかいな性格をしていた。自分の中に堅固な壁を築いていて、その壁の中だけで考えたことを実行しようとする性格。つまり他者のない自己中心的性格。それが分かったのは入会した最初の日だった。中学、高校と部活でそのスポーツをやってきたということで、自由にやらせてみた。驚いたことに、彼は超高度の技をはじめた。体操選手でいえば、ろくに跳び箱もできないのに月面宙返りに挑戦するような技である。注意したところ
「ぼくこの技が得意なのです」と、言い張ってやまない。
 その言い方は、何か自信に満ちていて、もう何十年もやってきた選手かコーチのような口ぶりだった。持論さえ持っていてくどくど説明した。多分に彼の運動能力と立派な体躯が、高度の技を(同年者に対してだけ)可能にしてきたのだろう。私は、あきれたが様子をみることにした。どうせ実践すればわかること。そう考えた。会員は小学生から一般まで様々だが、他者のない彼は、すぐに話題の人になった。低学年は遊び相手、高学年から中学生は気味悪い、高校生から一般は、変った奴。そんなふうに見られた。
 低学年児童と同じように接すると彼は、なんでも話した。一人っ子で、パート勤めの母親と、最近リストラされた父親の三人家族のこと。勉強はトップクラスで、現在高校で二番なのが気に入らないこと。「将来は、有名大学に入って公務員になる」ことが夢。「勉強が一番好き。友達は一人もいない。クラスメートの名前は一人も覚えていない」と、自慢そうに言った。冬休みは殊勝にも月謝を稼ぐためにアルバイトをするといったが、3ヵ所で断わられた。気の毒におもったが、私もやっぱり遠慮するだろうと思った。あるとき連絡で自宅に電話すると母親が出て恐る恐る「まだ、行ってていいんでしょうか」とたずねた。両親もかなり心配しているのがわかった。彼の頭の中にある頑丈な壁。教育とか両親の愛とか、そんなものでは到底、打ち崩ずせないような気がした。
 春先、どこかの大会に出るといったきり、彼は来なくなった。正直、私はほっとした。が、この先、彼がどんな人間になっていくのか気になった。興味もある。もし幸運にも勉強だけですり抜けて行ければもしかして高級官僚に。ひょっとして政治家にも、科学者にもなれるかも知れない。が、そうでなかった場合、果たして彼はどんな人間に・・・。
近ごろ彼のような若者が増えているという。そのことを考えると不安な気持ちにもなるばかりだ。 (T)                       




広 場


那須・読書会湯&ハイクの旅報告

7月20日〜21日に行われた那須・読書会の旅には7名の参加者がありました。

報告者 : 金村 繁さん(11月例会報告を念頭に)
時 間 : 午後4時〜5時00分
題 目 : 「19世紀と20世紀の罪と罰」について
(19世紀の罪と罰、20世紀の罪と罰の違いをソ連スターリン時代を考察しながらのお話。21世紀の罪と罰とは何かにまで話題がのぼり有意義な読書会となりました。)
夕食後のカラオケでは、「ゴンドラの唄」などを皆で歌った。そのあと、ワインを飲みながら読書会のつづき。金村さんは兵隊体験などを話す。楽しい夜となりました。
 翌日は、あいにくの雨。ハイキングは中止し、小雨のなか青葉の那須山中を二時間近く散策。夕方4時30分頃上野行車内にて解散。



6月14日開催第198回読書会参加者18名



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