ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.77  発行:2003.2.1



次回(2月)読書会のお知らせ


2月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2003年2月8日(土)
 
 時  間 : 午後6時00分〜9時00分
            
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
                       
 作  品 : 『正直な泥棒』ドストエーフスキイ全集A

 報 告 者 : 参加者フリー報告(大勢の報告を期待します)

 会  費 : 1000円(学生500円)

 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で二次会を開きます。

 会 場 : 養老の瀧(変更の場合も有り)
 時 間 : 9時00分〜11時00分頃迄
 会 費 : 2〜4千円




2月8日(土)読書会 
『正直な泥棒』について   「読書会通信」編集室

河出書房新社『ドストエーフスキイ全集A』収録 米川正夫訳

 この作品は、1848年4月発行の『祖国雑記』4月号誌上に『世馴れた男の話』として発表された。(後に『正直な泥棒』と改題)
簡単なあらすじ(全集をお持ちでない人の為に)
手のつけられない酒飲みで、酒が飲みたいばかりに恩を受けた人の持っていた乗馬ズボンまでこっそり売ってしまった浮浪者のエメーリヤが、死に際にその恩人に自分の盗みを正直に白状してあやまったという話である。
(中村健之介著『ドストエフスキー人物事典』) 

 役所勤めの私は、家政婦の口ききで空き部屋を兵隊あがりの善良な男に貸すことにした。あるとき、この間借り人と家政婦の三人で話をしている最中に、背の低い小男が入ってきて、私の毛皮外套を、「いとも悠々と外套掛からはずして、小脇にかかえ込み、ぷいと戸外へ飛び出した。」つまり皆のみている前で盗まれたのである。この盗難事件をきっかけに間借り人が、自分がズボンを泥棒された話をはじめた。
「・・・実はね。旦那、わっちも一度そういったようなことがありましてね、正直な泥棒にぶつかりましたっけ」
「え、正直な泥棒だって?いったい正直な泥棒なんてあるものかね、―――?」
「そりゃ、なるほど、ごもっともで?泥棒で正直なやつなんてそんなもなありゃしませんや、わっしがいおうと思いましたのはね、正直そうだと思ってた男が、盗みをやったっていうことなんで。まったくかわいそうなやつでしたよ」
と、いったところからはじまる間借り人の話である。
 話によると、間借り人は二年前、居酒屋で一人の男と知り合った。その男は「ひどい飲んだくれで、のらくら者の宿なし」でも「暴れものじゃないので。おとなしいたちで、愛想がよくて、親切で、けっしてねだったりなんかしゃしない、いつも遠慮ばかりしている」人間だった。この男をかわいそうに思い、居候させてやるのだが、あるときズボンがなくなった。嫌疑をかけると、この男は疑いをかけられては「・・もういっそう出て行くことにしましょう・・」と出ていった。心配していると5日目に帰ってきて、病気で死ぬのであるが、死ぬ間際になって自分が盗んだことを告白した。
「ズボン・・・例の・・・あれはあのときわたしが取ったので・・・」
        

1848年1月〜3月、この作品が出るころの社会状況


2月22日 パリ暴動の第一報が9日遅れで、ペテルブルグに届く。
2月    『ポルズンコフ』「現代人」の付録「絵入り文集」に掲載されるが発行禁止
2月27日 通常の検閲の再検査するための臨時の秘密委員会を設置(4月に恒常的な機関)
     皇帝官房第三課「ペトラシェフスキーの動向および思想運動を内偵すべし。
2月28日 ペトラシェフスキイの「金曜会」に出入りしていた作家のサルトウイコフ(シチェドリン)が検閲でヴャトカに追放される。
(木下豊房著『ドストエフスキー その対話的世界』参照)
3月14日(26日) ニコライ一世、ハンガリー進軍の内命を出す。
3月中旬  オーストリア、プロシャ、ハンガリー、南ドイツ諸国、イタリアに暴動。
                       (2002.8.10高橋誠一郎氏資料から)




私はこう読んだ『クリスマスと結婚式』


                                  
・感想 『クリスマスと結婚式』
 秋山伸介

 2.3日前に「わたし」は、ある結婚式を見ているとき、ふと、あるときのことを思い出した。なぜ思い出したか、分からないが、5年前の大晦日の晩、さる知名の実業家の家の、子供の舞踏会に招待されたときのことが、突然頭に浮かんだのであった。もともと子供を観察するのが大好きな「わたし」であり、世俗的な話題にはとんと興味を示さないので、その晩は人々が交わす話題に溶け込むこともなく、超然とした態度で一晩を過ごすことになる。思い出話はこんな感じではじまる。そして、「わたし」は、まず、場違いなところに招かれてしまって、身の置き所に困っている、いわくありげな、紳士に目を向ける。「わたし」は同情というか、むしろ共感のまなざしで紳士を見つめているのだが、この小説の筋から言えば、この紳士はなんの影響関係にも置かれていないのである。ところで、この話は、結婚式を見ながら、ふと思い出したのだが、なぜその晩のことがいきなり頭に浮かんだのか分からないまま、思い出すままに描かれた話として回想小説の形式が取られている。つまり、小説の、この時点での「わたし」は、心に浮かんでくるものと、結婚式とのつながりを見出さないまま、成り行きに任せて話しているのである。私はここに、初期ドストエフスキーの作品に顕著にみられる入れ子の構造をみる。まず、結婚式のさなか、ふと浮かんで、整理のつかないまま思い出している状態を、こんどは小説として発表しようとして回想しているのである。つまり、私は、この回想の二重化に着目するのである。「わたし」(=語り手)が、小説(=物語)として書いて(話して)いる段階では、結婚式のさなかになぜこの話を思い出したのか、結婚式とこの話はどこでつながっているのか、という疑問点は、当然あきらかになっているはずである。だから、小説の冒頭でも、「結婚式は立派なもので、たいそう気に入ったのだけど、もうひとつの話のほうが面白いのだ」と思わず言ってしまっている。だが、そのあとに続けて「一体どうしたわけで、その結婚式を見ているうちにあのときの降誕際樹まつりのことが頭に浮かんだのか、わたしにもよくわからない」とあるように、その実、何が面白い話かわからないこととして小説は書かれているのだ。私は、二重化の裂け目部分、入れ子の隙間に、目を留めてみようと思う。そこにこそ、ドストエフスキーの創作の場所があるのではないか、と思うからである。そのあたりを、多少なり、論じてみよう。
 とすれば、最初に登場した紳士の存在である。私は、話の筋から離れ、その面白い内容とは一見、なんら関係のない、この紳士の話に注目する。このような紳士こそ、普段の会話のなかで、同様の話をする場合は、まずカットされてしまう人物のひとりだろう。ある結婚式をみながら思い出したのは事実だとしても、他人に面白い話として話すときには、おのずから省かれてしまうだろう、瑣末な話にはちがいないのである。このような人物、話の身分は、創作という場所でしか保証されない。もちろん、日常の効用性において、いともたやすく片付けられてしまうもの、泡沫のように失われていくものを、わざわざ取り上げて近代合理主義批判をしようというのでない。そうではなく、この小説の場合、「頬ひげのほうがさきにこの世に生まれて、それからそいつを撫でるために、この紳士が添え物としておかれたのではないか」と「わたし」の観察にもあるような、文字通り添え物の紳士を、あえて登場させることで、表面的には蛇足の話が、その小説世界において、ひとつの染みとして機能しているのではないだろおうか。取るに足りない、この紳士の話が、私には気になって仕方のない染みのように思えてならないのである。
したがって、いくらこの紳士を意味付けようしても、私にはその意味を見出し得ないだろう。たとえば、この紳士が、この小説の中心人物ユリアン・マスタコーヴィッチと対比的に描かれているという解釈があったとしても、わたしには決してそうは思えないだろう。通りすがりにたまたま教会で結婚式に出会い、俗物根性丸出しの男、マスタコーヴィッチの成功を目の当たりにした「わたし」は半ば呆れ半ば感心しながら、それを冷ややか受け止めているものの、そのときの「わたし」はあの紳士のことをすっかり忘れている。この小説の筋から見ても、その小説世界のなかの舞踏会においても、無視されてしまうような、ちっぽけな存在にすぎないのだから、あたりまえといえば当たり前である。ただそれだけの存在に過ぎないのだ。だが、ここで私はふと思うのだが、結婚式のさなか、「わたし」は、まずこの紳士のことを思い出したのではないだろうか。なぜかわからぬが神聖な結婚式を見ているうちに、この紳士のことをふと思い出したのではないだろうか。この紳士が呼び水にならなければ、きっとあの俗物のことも思い出さなかったのではないだろうか。(当然のことながら、私は冒頭の結婚式と最後結婚式を同じ結婚式と考えてはいない。)私の直感が合っているならば、この紳士は、なんらポジティヴな意味付けをされてないにもかかわらず、小説なかでは、ひとつの汚れた小さな染みのような、なんか気になる存在して、マスタコーヴィチの相関項として機能しているといえるだろう。つまり、「わたし」が気づかないどころか、誰も知らないが、この紳士が消えるならば、マスタコーヴィッチの存在も世界も消えて亡くならざるを得ないという、この小説の黙示録的事実のことである。この小品からこのようなラディカルな構造を取り出すことで、「クリスマスと結婚式」という題の裏にかくされた、神の言葉を聴くことができるだろうか。要するに、あの紳士が、その無償性において、いちばん神の愛を受肉していると。
『クリスマスと結婚式』は、小品ながら決して侮れない、むしろ、秀逸の部類に入る作品である。忘年会を控え漫ろ浮かれた気持ちで、この作品を簡単に片付けるようなことがあってはならない。(笑)


・「クリスマスと結婚式」感想
 山岸 都


 人間の欲と地位や名誉にへつらう醜さ・・・・。
 短編だけに凝縮されたドストエーフスキイのよさを素直に理解し、味わうことができた。
 それにしても16才の花嫁が美しく思慮深く聡明であるだけに、あわれさと共にこれから先の彼女の人生が、如何なるものであるか・・・。さまざまなストーリーが想像されるがドストエーフスキイはどんな答えをだすのだろう?
 すでに答えは出ているとも言えるのかも知れない。深い読解力と想像力があれば―――。


・「クリスマスと結婚式」心の貧しさが凝縮されている作品
 風間 玲子

  専門家が指摘した通り確かに「マスターコヴイチの見事な打算を嗤っている」のだが、子供たちへのクリスマスプレゼントに対する大人の打算、あどけない少女のような娘を、不幸に落とし入れたことに気ずかぬ両親のあわれな打算も印象に残る。
 ドストエーフスキイの小作品は社会の片隅に追いやられた貧しい人々等が比較的多く取り上げられているが、同時に金持ちや社会的地位の高い人物におもねる心の貧しい人々を皮肉をこめて描いている。この短い作品にも、それが凝縮されているように思う。


・『白夜』 一番強く印象に残ったのは、恋愛の幻想性
 石田里佳

 とりあえずは、ただ現在の自分と、一冊の本との巡り逢いという意味のみで、背景・先入的知識を考慮せずの、まっさら状態での正直なものを書いてみます(まあ実際には、完全にまっさらという事はあり得ないかもしれませんが)。
 一番最初に読み始めた時、私はどうもなかなかその世界に入って行けずに、足踏みしてしまいました.憶えがある、懐かしい、でも今は違う、という感覚です.よく見知ったような雰囲気を漂わせているのですが、現在の私は違うところにいて、今はそこへ戻りたくない、という拒否感のようなものが働いた、とでも言えばよいのでしょうか.第−、夢想的作品というものは特に、現実的に慌ただしい気分の時、読むには適しませんよね。それもあるのですが、私自身のかなり極端な二面的性質として、非常にシリアスな面と脳天気な面とがあり、その前後でちょうど、シリアスな方の思考状態にあったため、なんとなく生理的に受けつけなかった、という要素も働いていたようです.それでけっこう苦労しながら読み進めたのですが、実は最後までその違和感は、感覚としては残っていました。(これが胡蝶社主人。さんの言われているような、「耐えられない」と重なるものであるのかどうかは、私にはわかりません)それはそれとして、内容についてとりあえず一番強く印象に残ったのは、恋愛の幻想性、とでもいうようなものではないかと思います.恋愛って何だろう、というのもまあ、語り尽くせぬ永遠のテーマだとは思うのですが。
まず、主人公の青年は、ナースチェンカに何を見たのか、という事を考えました。夢想家としての自分の説明、その世間的になかなか理解されない性質、孤独感.それを彼女は初めて、理解し共感してくれた。彼女は世にも稀な、自分とある種同類の人だ!自分を理解してくれる、得難い人を発見した歓びが、彼女への恋愛感情の根底にある最大原因なのかな? と思いました。それと同時に早くも、ナースチェンカに対するある種の理想化が始まってもいるような。ある意味、相手をよくは知らないが故に、想像的に相手を理想化してゆく心の働き、それ自体が「恋」と呼ぶべきものなのかもしれないな、とか。
一方ナースチェンカの方は、同じように得難い共感・親近感を主人公の青年に感じながらも、それは恋愛感情とは区別して並列するもの、という捉え方だったようです。この辺りの感覚の相違というものは、作品上でかなりうまく表現されている気がしました。そしてやはり主人公の青年に対して、「友人」としての一種の理想化を行なっているような気がしま。それが状況展開によって、一旦は恋愛感情へと転化していきそうな場面になる辺り、倫理的にはどうあれ、実際には非常にありそうな、恋愛小説の王道を行くような展開だなあ、と思ってしまいました。
しかし恋愛としては破綻したとはいえ、最後の最後まで、二人が互いの上に描いた「理想的なるもの」が、壊れて幻滅に変わってしまう事なく、主人公に「ああ!至上の法悦の完全なひととき!人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか? ……」と叫ばせている辺りに、この作品の持つ儚さと美しさ、「感傷的ロマン」として書かれた真髄があるような気もしました。




2002年読書会

2月10日(土) 「読書会通信71」発行 「2002年新春増刊号」発行

2月16日(土) 会 場:東京芸術劇場小会議室1 参加者18名 PM6:00〜9:00
         作 品:『主婦』
         報告者:下原康子氏

4月 4日(木) 「読書会通信72」発行

4月13日(土) 会 場:同上 参加者16名  PM6:00〜9:00
         作 品:『ポルズンコフ』
         報告者:アンケート発表方式

5月31日(金) 「読書会通信73」発行

6月 8日(土) 会 場:同上 参加者16名  PM6:00〜9:00
         作 品:『人妻と寝台の下の夫』
         報告者:熊谷暢芳氏

8月 1日(木) 「読書会通信74」発行

8月10日(土) 会 場:同上 参加者28名 暑気払読書会AM9:00〜12:00
         作 品:『白夜』
         報告者:フリートーク形式

暑気払講演会   報告者:高橋誠一郎氏   講演PM1:00〜5:00
            演 題:「『白夜』とその時代―ペトラシェーフスキイ事件をめぐって」 

8月10日(土) 読書会カラオケ大会 PM6:00〜8:00

10月1日(火) 「 読書会通信75」発行

10月12日(土) 会 場: 同上 参加者19名 PM6:00〜9:00
         作 品:『弱い心』
         報告者:人見敏雄氏

12月 1日(日)「読書会通信76」発行

12月14日(土) 会 場:同上 参加者23名 PM6:00〜8:30
         作 品:『クリスマスと結婚式』
         報告者:フリートーク

12月14日(土) 読書会忘年会 「和民」PM8:30〜11:00

※2002年は、読書会ハイキング、読書会合宿を計画しましたが、都合でいずれも実施できませんでした。お詫び申し上げます。




2002年ドストエーフスキイの会例会


 1月16日(水) 「ニュースレターNO.52」発行

 1月26日(土) 会 場:千駄ヶ谷区民会館  PM6:00〜9:00
          報 告:国際ドストエフスキー学会(バーデン・バーデン開催)
          報告者:木下豊房氏
          報 告:「新谷敬三郎先生のドストエフスキー論について」
          報告者:福井勝也氏

 3月13日(水) 「ニュースレターNO.53」発行

 3月23日(土) 会 場:同上 PM6:00〜9:00
          報 告:「ドストエフスキーとトーマス・マン」〜夢想家と迷い込んだ俗人
          報告者:中谷光宏氏          

 5月10日(金) 「ニュースレターNO.54」発行

 5月18日(土) 会 場:同上 PM6:00〜9:00
          報 告:「司馬遼太郎のドストエフスキー観」満州の幻影とペテルブルグ
          報告者: 高橋誠一郎氏 の幻影

 7月15日(月) 「ニュースレターNO.55」発行

 7月27日(土) 会 場:同上  PM6:00〜9:00
          報 告:「スターラヤ・ルッサのドストエーフスキイ学会」
          報告者:木下豊房氏
          合評会:『ドストエーフスキイ広場』第11号
          報告者:菅原純子氏  渡辺好明氏  中谷光宏氏  熊谷暢芳氏
                堤 崇弘氏  池田和彦氏  下原康子氏 (順不同)

 9月10日(木) 「ニュースレターNO.56」発行

 9月21日(土) 会 場:同上  PM6:00〜9:00
          報 告:「ラスコーリニコフの微笑」ドストエフスキーのポートレート(1)
          報告者:小林銀河氏

10月20日(日) 「ニュースレターNO.57」発行

11月 9日(土) 会 場:東京芸術劇場・中会議室  PM2:00〜4:30
          演 題:「ロシア正教会とドストエーフスキイ」
 文芸講演会  講 師:川又一英氏(作家)

 

ドストエーフスキイの会&読書会会員関連の2002年出版物


『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』
高橋誠一郎著 のべる出版企画、定価1900円(7月30日発売)
 「文明の衝突から共生へ」 ロシア文学との比較や「福沢史観」との対比をとおして、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『沖縄・先島への道』、『菜の花の沖』を読み解き、「司馬史観」に迫る。テロと戦争の発生の仕組みを「欧化と国粋」の視点で考察。

『ドストエフスキーその対話的世界』
木下豊房著 成文社 定価3600円
 永遠の文学、その核心の探求。そして、その受容と変容、現状と未来への的を得た解説。ロシア文豪を永年にわたって追い続けてきた、著者ならではの成果。それは、國際化する文豪研究への参加、文豪ゆかりの地への訪問など、文字通りドストエフスキーへの旅の成果でもある。

『神と科学と無』
森 和郎著 鳥影社 定価(本体2500円) 2002年2月3日
 <ヨーロッパ哲学を検死する>
 精紳の独立宣言 ヨーロッパ的思考の呪縛を解かずに混迷からの脱出はありえない。
それでも、私はドストエフスキーの口吻を借りて、ひとつ悪態をついてみたい。
「僕はでたらめを言うことだって、自分の知恵じやできないんですよ!・・・自分一流のでたらめを言うのは、人真似で一つ覚えの真理を語るより、ほとんどましなくらいです。(『罪と罰』ラズミーヒン)」

『ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望』
木下豊房編  (欧文)、モスクワ発行、定価3500円
 2000年8月、千葉大学での国際ドストエフスキー研究集会の報告論集「ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望」がこのほどモスクワで刊行された。オリジナルが英、独語の論文もロシア語訳付きで、40本の論文が収録されている。付録に会議のプログラム。560頁、3500円。

『悪霊論 ―自我の崩壊過程―』
藤倉孝純著 2002年7月10日 作品社より刊行 定価2800円46版320頁
 現代人のエゴセントリズムが生み出す悲劇への道筋を緻密に描く鏤骨の人間論
ドストエフスキーの金字塔『悪霊』とその主人公ニコライ・スタヴローギン。豊な資産と類稀な美貌、透徹した頭脳と抜群の体力に恵まれた青年が辿る頽廃と自殺への軌跡。

『日本におけるドストエフスキー書誌』(著者索引編)
佐藤徹夫 編 
2002年4月4日発行 (非売)





ドストエーフスキイ情報


新聞・朝日新聞(夕刊)2002年11月30日 「うたの出あい」
◇「歌のわかれ」は唐突に    口 覚(文芸評論家)
 今から30年ほど前に『海の宿り』という歌集を出した。/この歌集の跋に、「生きていくことの感情の起伏に絶えず篭絡されている自分に、規矩を与えてくれるこの一行に直立する刑姿も気象も自分に似つかわしい」という言葉があり、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』から、イヴァンの「しかしどうにか30歳までだ、多分。そこで逃げを打つ」が引かれているのはそのためである。

新聞・朝日新聞(夕刊)2002年12月8日 日曜日 「読書」欄
◇いつもそばに本が     松岡 正剛(帝塚山学院大教授)
 中学二年のときに、国語の先生が『罪と罰』の、ついでは『若きウェルテルの悩み』の話をする前に、さあ、君たちのなかでこれを読んだものがいるかなと聞いたのだ。一人のいつもは目立たない女性徒が、二度とも恥ずかしそうに手をあげた。それは、私がこっそり憧れていた女性徒だった。これですっかり混乱に陥った。ひとつはこの女性徒を慕う資格なんかがないと思ったこと、もうひとつはいったいドストエフスキーとかゲーテとは何だということだ。/けれどもドストエフスキーとゲーテを読んでみて、自分がラスコーリニコフにもウェルテルにもなれないことを知った。

新聞・朝日新聞(夕刊) 2002年12月16日 月曜日 2002回顧 
◇「真珠夫人」に映るバルザック  山田 登世子(愛知淑徳大教授フランス文学)
 「真珠夫人」が話題を呼んだ年だった。復刊された菊池寛の原作も相当な売れゆきだという。菊池寛を読む好機到来と、文庫本で読んだところ、予想以上の発見をした。
はじまりは、文春文庫の解説に付された川端康成の文章である。菊池はこの新聞小説の構想にあたり、「その頃愛読していたバルザック」からヒントを得たと言う。
「バルザックは偉大です!彼の人物たちは、全宇宙の産物です!」1838年8月9日ミハイル宛書簡

新聞・朝日新聞(夕刊) 2002年12月28日 土曜日「うたの出あい」欄
◇「絶唱」のわけも教えられ    木田 元(哲学者)
 だが、私たちの時代の「文学の師匠」といえば、なんといっても小林秀雄、この人から教えられたことはドストエフスキーからモーツァルト、セザンヌ、ゴッホとキリもない。詩歌に関しても、西行と実朝を、それになによりもランボオと中原中也を教えてくれた。その「ランボオ論」など、大正末年に書かれたものなのに、戦後私たちが読んだころにも、ふれれば血がほとばしりそうに新鮮だった。

       汚れつちまつた悲しみに
       今日も小雪の降りかかる
       汚れつちまつた悲しみに
       今日も風さへ吹きすぎる
にはじまる中也の絶唱が、ほかならぬ小林秀雄に恋人を奪われた悲しみの歌だということを教えてくれたのも彼だった。/。 


新聞・朝日新聞 2003年1月5日 日曜日 「いつもそばに本が」読書欄
◇謎めいた署名に触れ「文学と倫理」を自問     三木 卓(詩人・作家)
 /ぼくの家には『悪霊』という本があった。『悪霊』と『罪と罰』は全集の半端本で、全身が暗い赤、文字は黒である。なんて不気味な本なのだろう。/文学は何を描いてもいい。だが、究極的には人間の、あるいは生命の(もしかしたら地球街生物もふくめて)サイドにならなければならない、と確信するようになったのは、30を過ぎたころだった。

新聞・読売新聞 2003年1月5日 日曜日 「時の栞」欄                            
◇ランボー『地獄の季節』「生」の意味問いかける  平野啓一郎(作家『日蝕』等)
 「不朽の名作」と呼ばれるような古典的な文学作品であっても、それなりに流行り廃れはあるもので、例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などは、一頃に比べると、もう随分と読まれなくなってしまっているのではあるまいか?

新聞・朝日新聞 2003年1月7日 火曜日 文化総合欄
◇村上春樹文学、主人公の「ぼく」国籍感じぬ存在 訳者 ドミトリー・コワレーニンさん(37)
 日本で通訳の仕事をしたとき、村上作品に出会った。ロシアでは、日本人は「カイシャに住む異性人」のような印象がある。主人公「ぼく」は国籍を感じさせない存在で、作者が日本人であることをすっかり忘れさせた。
 二人称がはっきり書かれ、自分と他人を区別している。意識と潜在意識が向かい合う。いつの間にか「ぼく」が同胞であるかのような錯覚を味わった。内面の分裂は伝統的にロシア文学のテーマで、ドストエフスキーに通じるものがある。
 仏教的な無常を感じた。ロシアでは70年代以降は新しい日本文学はほとんど紹介されなかった。川端康成や三島由紀夫は神秘的な道具立てがあるが、村上文学は抵抗なく理解できる。
 ロシア人は、人間の二面性を認めないソ連の社会主義や集団主義から解放され、自己との対話を始めた。「心の奥にしまっていた気持ちに気づかせてくれた」。そんな反響がEメールで届いている。

◇ゾラの魅力多角的に紹介    藤原書店から選集刊行
フランスの作家エミール・ゾラ(1841〜1902)の本格的な選集『ゾラレクション』(藤原書店)
全11巻(別巻1、本体2800〜3800円)の刊行がはじまった。



12・14読書会

参加者22名
          




編集室便り


カンパお礼申し上げます。

大勢の方から「編集室」宛に年賀状いただきました。ありがとうございました。
 (なお、何名様より土壌館下原道場についてご質問がありました。柔道の道場のことです。下原が20年近く地域の子供たちに柔道を教えています。子供たちが育つ土壌にとの意味で土壌館と名付けました。)

ドストエーフスキイ情報、ご意見、紹介などありましたらお寄せください。

今回の「読書会秘境湯の旅」は急な計画でしたので、詳細は後ほどになります。

年6回発行の「読書会通信」は、皆様のご支援でつづいております。ご協力くださる方は下記の振込み先によろしくお願いします。(一口千円です。)

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