ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.76  発行:2002.12.1


次回(12月)読書会のお知らせ


12月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月 日 : 2002年12月14日(土)
 時 間 : 午後6時00分〜8時00分
 場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
 作 品 : 『クリスマスと結婚式』
 報告者 : フリートーク
 会 費 : 1000円(学生500円)
 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋(西口)で忘年会を開きます。

 会 場 : 和民
 時 間 : 8時30分〜10時30分頃迄
 会 費 : 4千円




12月14日(土)読書会

『クリスマスと結婚式』について

 この作品は、1848年9月発行の『祖国雑誌』に発表された。原稿用紙二十数枚の短編で「クリスマスと結婚式」という題名から何か清純な聖夜話しを想像するが、内容は地位のある好色の中年官吏の少女趣味が成就するという話である。
 簡単なあらすじは、下記のようである。

【あらすじ】

 私は、大晦日の晩、さる実業家の家の子供のぶどう会へ呼ばれた。そこで見かけた客、主人公ユリアン・マスタコーヴィチ「やや、肥り肉のほうであった。いかにも食い肥ったというように、薔薇色の頬っぺたをして、肉つきもよく、でっぷりと腹が出て、脂ぎった腿をしている」中年官吏は、招待された子供の舞踏会で「キューピッドのように美しい」11歳ばかりの可愛い女の子を見初め、その子に「30万ルーブルの持参金がある」と小耳にはさむと物陰でこっそり金計算をして露骨に少女の後を追っかけまわしはじめた。
五年後、教会のそばを通りかかった私は、教会から結婚式を終えてでてきた新郎と花嫁を見て唖然とする。なんと「小柄な、丸々とした、食い肥った腹を突き出した」新郎は、あの夜見たユリアン・マスタコーヴィチその人だったのだ。そして、次に見た「うら若い絶世の美人」は、なんと・・・。
「それにしても、胸算用が鮮やかにいったもんだな!」
が、私の感想である。

◇この作品について訳者の米川正夫氏は
「厚顔かつ無良心の打算家に対する風刺は、柔らかな叙述に包まれながらも、くっきりと鋭い線をなして一貫している。けだし、好個の小品ということができよう。」と、好評である。

◇ また、中村健之助氏は、その著書『ドストエフスキー人物事典』のなかで
この作品は「ユリアン・マスターコヴィチのような社会的地位のある色好みの打算家をドストエフスキーは道徳的見地に立って軽蔑していたのではない。『ヨールカ祭りと結婚式』の語り手である<わたし>は、ユリアン・マスターコヴィチの<見事な計算>を皮肉っぽく嗤っており、そこには正義感もなくはないが、しかし、狭いピューリタン的潔癖さや道徳臭さ教訓臭さは、感じられない。」と、評している。

【1848年の作品と出来事】
1月・・・『ボレズンコフ』(「祖国」)『人妻』(「祖国」)
2月・・・『弱い心』(「祖国」)
4月・・・『世馴れた男の話』(あとで『正直な泥棒』に改題)(「祖国」)
5月・・・ベリンスキイ死去
9月・・・『クリスマスと結婚式』(「祖国」)
  秋・・・ペトラシェフスキー、スペシネスと親しくなる。「金曜会」
12月・・・『白夜』(「祖国」)『やきもちやきの夫』(「祖国」)


ニコライ一世治下(1825〜55年)の「暗黒30年」とドストエフスキー
年表(2002.8.10高橋誠一郎氏報告資料より)


1825年 デカブリストの乱
1830年  ポーランドの反乱
1833年 「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために、「ロシア版『教育勅語』とも呼ばれる「正教・専制・国民性」の「三位一体」の「統治イデオロギー」が強調される。
1836年 チャダーエフ『哲学書簡』
1837年 プーシキンの死
1839年  ドストエフスキーの父親ミハイル、農奴たちに殺される。
1845年 5月、『貧しき人々』完成。ベリンスキイから激励される。
冬、ペトラシェーフスキイの家で金曜日ごとに集りが始まる。
1846年 1月、『貧しき人々』(『ペテルブルグ全集』に掲載)
    2月、『分身』(『祖国雑記』)
※ ベケートフかマイコフのサークルで詩人のプレシチェーエフと知り合う。
※ 春、プレシェーエフとの散歩中に、ペトラシェーフスキイと出会う。
    10月、『プロハルチン氏』(『祖国雑記』)
    11月、ベケートフ兄弟たちと共同生活に入る。
(プレシチェーエフの詩「進め!」は、ペトラシェーフスキイ派の歌となり、40年代はもとより、6、70年代若い革命家の間にも広く愛唱された)
 「進め!おそれることなく疑うことなく/止むにやまれぬ行為に向かって、友よ!贖罪の曙を/空の彼方にわれは見たり。奮い立て!手に手をとって前進しよう/科学の旗じるしのもとに/わが同胞を強く育みたまえ!・・・」

   1847年以降は次号「読書会通信77」に掲載します。




私はこう読んだ 『弱い心』


前回の読書会作品『弱い心』では、作品にたいする感想を皆様からお寄せいただきました。ご協力ありがとうございました。本頁でご紹介します。


ユートピアの両義性に引き裂かれた男の悲喜劇

秋山伸介
  
                             
 「身が余る」という、この身体感覚は、分不相応な栄誉などを与えらた時にしばしば感じるものである。身の置き所を失って、ところを得ない、なんとも不安定な精神状態である。
自分だけこんな幸せにあずかって、いいのだろうかという負い目もある。自分でも知らないうちに罪の意識が忍び込んでいるのかもしれない。
リーザとの婚約を親友アルカージイに告げるときのヴァーシャの心理も、これと似ているように思える。日ごろ、幸運に恵まれない人たちのなかには待ちに待った幸福を、いざ手に取る段になると、その事態を素直に受け入れられない性質の者がいる。ヴァーシャはまさしくこの手の人種だ。不幸に慣れ親しんだ彼の心に、待ち望んだ幸福が受け入れられるためには、周りの人がみんな幸せになってくれないと困る、そうならないと、自分も幸せになれないような気がするのだ。相思相愛の友人アルカージイだけには自分と一緒に幸せになってほしいと願い、自分に目を掛けてくれたマスタコーヴィチの恩義になんとしても報いようとする。こんな優しい心こそが、何かを恐れる弱い心の顕れなのだろう。そう、いま、ここの幸福を無邪気に喜べない不幸な心なのだ。
でも、どうしてヴァーシャは破滅へ向かうのか。幸せを目の前にしてすべてが破綻してしまうのか。ヴァーシャの追い込まれた状況は、たしかに切迫して抜き差しならない。しかし、これは決して不可抗力ではない。ヴァーシャが自ら請じ入れた結果だ。破綻は避けようとすれば避けられたはずである。
ヴァーシャは、リーザとの幸福を手に入れたばかりに、自分だけが幸福になることに怯える。幸せになりたい気持ちを強く持てばこそ、自分の周りの人たちを差し置いて、リーザと二人だけで幸せになることを禁ずる声がどこからともなく聞こえてくるのだ。その怯えから逃れようと、周りの人たちがみな幸福になる世界を想う。けれども、いま、ここの現実を抜き取った、そんな夢想の世界が、どこかにあるはずもない。リーザとアルカージイの3人で暮らすことなど所詮無理な注文、こころの底ではそんなことを決して願っていない自分がいること、その自分に自身が気づくことを恐れて、彼のこころの闇は自己正当化を図る。つまり、彼は自分の状況をどんどん苦しい方向に追い詰めることで、ユートピアを夢想する自己に、その不可能さを納得させようとする。
はたしてユートピアが実現不可能だと自己に示すことは、せっかく手に入れた自己の幸せも放棄すること。彼の心は引き裂かれる。夢想にすら逃避できなくなったとき、現実は彼にとって、すでに生きていくことのできない世界と成り変わっていた。彼の弱い心は、狂気という象徴的な死を自らに課すことでしか、自己の矛盾と折り合いをつけることができなかったのだ。
この小説はユートピア=nowhereの両義性に引き裂かれ、発狂した男の物語である。つまり、no-whereを夢想する男の悲劇であり、片や、now-hereを失った同じ男の喜劇である。




ドストエーフスキイの会情報

『ドストエーフスキイ広場』NO,11合評会報告要旨

 7月27日(土)に行われた『広場』11号合評会の報告要旨  
 (当日、配布された資料の掲載です。)


 池田和彦・論文「詩人たちのドストエフスキイ」

  報告者・菅原純子

大逆事件をかろうじてまぬがれた大杉栄は、荒畑寒村と共に雑誌『近代思想』を、大正元年(1912年)十月号として創刊する。石川啄木の『時代閉塞の現状』に現れているように、大逆事件以後のいわゆる冬の時代をへて創刊された『近代思想』という雑誌は、文芸評論的な面を表に出さざるをえなかったのであるが、大正2年(1913年)7月(第十号)に大杉栄の「生の拡充」と題する評論が載せられている。「生には広義と狭義とがある。―略―また、生の必然の論理は、生の拡充を障礎せんとするいっさいの事物を除去し破壊すべく、われわれに命ずる。そして、この命令に背く時、われわれの生は、われわれの自我は、停滞し、腐敗し、壊滅する。」また、「生の拡充の中に生の至上の美を見る僕は、この反撃とこの破壊との中のみ、今日性の至上の美を見る。―略―今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。」とうたった大杉栄は、国家権力から危険分子とみなされるのは明々白々のことであり、伊藤野枝、大杉の甥である橘宗一と共に関東大震災という自然の脅威をしてさらにおおいぶたをかぶせられるようにして、甘粕大尉に虐殺された。大正12年(1923年)のことである。萩原恭次郎、岡本潤、壷井繁治、川崎長太郎を同人とする『赤と黒』は同年一月に創刊される。この創刊号での「宣言」は、はなはだいさましいものであった。

詩とは?詩人とは?我々は過去の一切の概念を放棄して大胆に断言する!
『詩とは爆弾である!詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である!』

秋山清は「略。あの無目的でニヒルで破壊的で反権力的な宣言の意味は、社会と芸術の未来への見透かしに立ったというよりも、それらを時代的なトータルにおいて反抗的に感知した若いバイタリティの発揚にほかならなかったのである。」という。大杉栄虐殺以後、和田久太郎、ギロチン社の中浜哲というテロリストが出現する。『赤と黒』は芸術の革命までも含んでいたのである。
池田氏の「詩人たちのドストエフスキイ」には、極めて深く、豊な論点がもりこまれている。まず(一)萩原恭次郎の位置の中で、「彼は『死刑宣告』の序文に、「私は私の詩集に『野獣なる人間的なる愛の詩集』つ名づけたく思う。」と、書いた。叙情詩人として出発した彼は、かって尊敬した犀星の『愛の詩集』のヒューマニズムを根底で受け継ぎながら、これに「野獣性」を加え、騒音とスピード、破壊のエネルギーあふれる変革の詩集として、「ラスコーリニコフ」のうちに結晶させたのだったと述べてあり、これは萩原恭次郎全集第二巻『愛の詩集について犀星氏に』ネルリを引き合いにだし、「室生様、略、このネルリの瞳が物乞ふ姿が、丁度あなたがお忍びになる様にうかんでまいります」1917年12月25日上毛新聞。
 池田氏がいうところの犀星の『愛の詩集』のヒューマニズムの受容が1917年であり、問題の萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』は「赤と黒」の創刊以後の1925年であるということを考える時、「ラスコーリニコフ」の詩の位置するところが明らかになるのではないか。また、萩原恭次郎の位置する所もわかるように池田氏は述べている。「赤と黒」のラデイカルな宣言、それに呼応するような形として『死刑宣告』という詩集は創られたのであり、池田氏も「ラスコーリニコフ」という詩を「実際の詩では極太の活字で表された「斧」が力強い反逆のエネルギーを発している。  

「―ここにあるのは、いわばアナーキスティックなラスコーリニコフ像で、ラスコーリニコフのうちに潜んでいた社会に対する反逆のモチーフを的確につかみ出したのである。」といい、まさしく、恭次郎は昭和の先駆けとしてドストエフスキーをとらえ、ラスコーリニコフ像を結晶させたのである。しかし、前述したものの中には、心の神とする点、池田氏が述べているように、朔太郎がドストエフスキイを人生の神あるいは人生の師と仰ぐように、恭次郎において朔太郎、犀星を神と呼ぶメンタリティは1917年の時点では残されていた。また引き合いに出した人物が『虐げられし人々』のネルリなのはどうしてか。松本健一によると犀星はソーニャに重きをおき、朔太郎はネルリにそれをおいたというが、はたしてそれだけであったのか。松本氏によると、ロシア語学者中村白葉をして、大正3年に『罪と罰』が新潮社から刊行され、続いて同社は米川正夫の『白痴』昇曙夢の『虐げられし人々』を刊行しているという。『赤と黒』の同人であり、ドストエフスキイにとりつかれた詩人の岡本潤も『ひんまがった自叙伝(1)罰当りは生きている』の中で、ドストエフスキイの『虐げられし人々』や『罪と罰』などが愛読書だったが、おなじドストエフスキイでも『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』などを繰り返して読んで深い感銘を受けたのは、ずっとあとのことである。」というように、『罪と罰』と『虐げられし人々』が先行する。ちなみに、昇曙夢訳の『虐げられし人々』(上・下)を近代名著文庫第六編として新潮社より、大正3年(1914年)3月に刊行されている。
 しかし、先行に翻訳されたこと以外に、大正9年のクロポトキンの『露西亜文学の理想と現実』が訳され、出版されたことは大きいのではないか。小田切秀雄によると、昭和13年・14年頃においてさえも、ロシア文学史としてクロポトキンの『ロシア文学の理想と現実』以上確かなものを見出すことができなかったとあり、確かにクロポトキンの『パンの略取』は幸徳秋水が訳しており、アナキストにとってクロポトキンの影響は多大なものがある。バクーニンに近いと思われる大杉栄さえも、クロポトキンの影響は強く、これは後大杉栄が奴隷根性として反省している。松本健一がいい現在読んでみてもクロポトキンは『死の家の記録』をほんとうに芸術的に認められる唯一のドストエフスキーの作品であるとし、『白痴』『未成年』『悪霊』は、半ば精紳病理学的な問題を扱っているし、半ば社会的な問題も扱っている。『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーが書いたいちばん深刻な作品であるとする。『虐げられた人々』もクロポトキンは、作者が登場人物たちの限りない屈従と隷属を描写することに喜びを感じているところや登場人物たちがわが身に加えられた苦痛や虐待そのものを喜んでいるところなどを見ると、健全な精神の持主は反発しないわけにはいかないとしている。『罪と罰』においても曲解が含まれている。このようなクロポトキンの『露西亜文学の理想と現実』の受容もあったことは認めざるを得ないのではないか。
 

中野重治には「無政府主義者」と題する詩がある。

 僕らはある重大な演説を聴いていた
 僕らはみんな熱心に聴いていた
 ときどき僕らは激しい拍手を送った
 そのとき僕らのそばに
 髪の毛の長い一団の男がいて
 まちがった言葉と卑しげな弥次とを止めどなく飛ばした
 それらの言葉は
 どこか一種の政治家に似
 ごろつきに似
 またどこか縁日の商人に似ていた

 この詩は1926年9月号『驢馬』に発表されたものである。無政府主義者を「まちがった言葉と卑しげな弥次」というように批判しているし、「どこか縁日の商人に似ていた」というように軽蔑をもしている。池田氏の述べているように萩原恭次郎は『死刑宣告』出版後アナキズムへの傾斜を鮮明にし、1927年の「プロレ文芸とアナキズムの要素でボルシェビキの専制を批判した。もともと萩原恭次郎を中心とする『赤と黒』は第四号の「赤と黒運動第一宣言」で反ボルシェビィキをうたっている。
 『我々は一切のボルシェビィキとに反対する』
 あの労働者をしきりに説き廻っている男は誰だ?
 あれか?あれはボルシェビィストさ!あれは労働者を科学と機械の奴隷にしようとしているボルシェビィストさ!君マルクスは言ったぜ!『革命の永久宣言』でなくちゃあ真の革命は到来しないって!彼等はそれを知らないのさ! (以下略)
大正12年(1923年)のことである。
 また、池田氏が述べているように中野重治全集第九巻「詩に関する断片」(1926年)
 私はまたいわば叫喚派あるいは騒音派とも称すべきものをしばしば見せられている。それは常に街頭であり自動車であり血みどろであり売淫であり爆弾であり革命でありやけくそであり、ドタン、バタン、クシャッ、ギュウ等である。それはどうにも我慢ならぬ気持ちであり黒い虚無の風あなである。(中略)けれども騒音派のみは必ずしも捨てないであろう。何となれば、「新しい形式への探求に実にあらゆる革命の本質的なダイナミズムにたいする偏愛からである。」からである。
 確かに池田氏が述べるよう、中野重治は前衛詩について、留保つきながらその形式革新の進歩性を認めている。そして、青野季吉が大正15年(1926年)9月『文芸戦線』に「自然成長と目的意識」が発表されるまで、アナ・ボル論争は詩人たちの間にもあったのであり、萩原恭次郎は断片12という詩を昭和4年(1929年)に書く。

 昨日の友も次第々々に別れて今日は敵となる
 我々は益々小人数となり益々多数者の意志するところに近づこうとする
 吠えているものにも 騒ぐ者にも 高い所にいるものにも
 静かなる無言の決別をする

 我々は嘲笑も叱咤も賛辞も知らざる仲間と共に我々の世界を明日に進ませる
 今日 我々は必要としない言葉を聞く者も無ければ訊ねる者も無い

  文学が個に立脚し、個なくして存在を為しえないはずの文学は本来からしてアナーキスティックなものである。ドストエフスキイの自意識も個人から発するものであり、松本健一によるともなく、ドストエフスキイがボルシェヴイズムに遠く、アナキズムに近いことは彼が一切の権力および権威を認めようとしなかったからにして、当然のことであった。日本においてプロレタリア文学の道に進んだということは、文学が先細りしたことを意味することになったのは自明のことであり、また、中野重治をして「芸術に政治的価値なんてものはない」と言わしめるところまでいってしまったのだった。池田氏が述べている、アナキストを代表する荻原恭次郎とマルキストはを代表する中野重治との群馬前橋での会話は、昭和11年(1936年)3月、プロレタリア文学運動がとおく退潮していた時期まで遡ってのことである。
 中野重治を論じるのは極めてむずかしい。それは中野自身書いているもの自体が、たとえば「日本の革命の伝統の革命的批判」や『歌の別れ』という小説の中の「佐野の無礼は許せるが、佐野の無礼をお前が許すことは許せぬぞ」という言いまわしのむずかしさに加え評論を読む時には、時代がかもしだすものを多分に多く含んでいるからである。池田氏の(三)中野重治とドストエフスキイは確かに細部に渡りまとまった論ではあるが、森山重雄をして、「中野文学は、人間悪とは無縁だったのではないかというのが、わたしの推定である。例えば、中野文学に権力に対する憎悪といったものは色濃く流れているけれど、それが人間存在の内奥に伏在している悪の思想と結びつけられて意識されていない。」松本健一をして、「平野と中野の根本的な違いは、暗い谷間の中で、自分の内面に巣食うエゴイズムを覗きこんだことがあったかどうか、という違いであった。(中略)前者がレーニン、後者がドストエフスキイの途を選びとってしまっているようにさえ対立したのである。」はたしてそうであったのだろうかと疑問に思う。平野謙は、確かに戦前の共産党リンチ事件でスパイとして死亡せしめられた小畑達夫のハウスキーパーである女性は、かつての平野謙の恋人であり、戦後ドストエフスキイの『悪霊』に向かうのは当然のことであるが、平野謙は戦前日本文学報国会が翼賛団体として発足するに当って、中野が自分も加入できるよう便宜を取り計らって欲しいという菊池寛にあてた手紙をもっていて、中野がさいさんにわたってかえして欲しいといったがかえさす゜にいた。その手紙をふところに入れた平野謙との政治と文学の論争だったということが今、少し脳裏に浮かんだ。中野重治がレーニンの途を選ぶ方向にいったというが、人間の個人の中の悪は、本当にみつめていなかったのか。例えば、『歌の別れ』の盤に先行する『旧友』には、彼の頭には彼にこの町を去らせるきっかけとなったある夜の光景も思い浮かんできた。彼は上着のポケットのなかで柔らかく盤の柄を握っていた。そしてさっき開けて出たドアをもう一度開けてなかに入り、相手の前へまっすぐ進んで行って、言うべきことをいってからぎりっとその男の手の甲へさしこんだのだった。
 「あのとき三角盤を選ばずに広い丸盤を選んだのは正しかった・・・あのときは街に雪が積もっていて吹雪いてもいた・・・」木の黒い顔は感動のため醜くゆがむようだった。
 これは小説であるため、詩人中野重治ではないが、またこの部分だけをとりドストエフスキイの影響があったとは断定できない。小説についてドストエフスキイと関連して書かれている林淑美の「<下級官吏>という主人公ゴーゴリとドストエフスキイそして『車善六』」という論がある。中野重治の『空想家とシナリオ』という小説とドストエフスキイの下級官吏に与えた二重性を、ルネ・ジラールを引いて述べているが部分的な所にとどまっているにすぎないと思う。中野重治とドストエフスキイとの関連は確かに薄いと思う。やはり時代との呼応に作家はとどまってしまうことではあるが、中野は執拗に自分が犯したことを自分の中に持ち続け、追求していった点はドストエフスキイと共通する所ではないか。いろいろあらゆることで問題にされる「雨の降る品川駅」『村の家』戦後の『五勺の酒』にみられる天皇制の問題を制度としてだけでなく天皇を一人の人間として解放するということ、また菊池寛あての手紙は『甲乙丙丁』の中にも追求している。池田氏の述べている自意識の問題に拘泥するタイプの文学に否定的だつたという点では理解できる。しかし、中野重治にかけていたものは、個人の自由の問題ではなかったのか。それこそドストエフスキイが一番問題にしたことだった。
 ドストエフスキイの文学は人間の根幹の部分にふれ、揺さぶり続けるものであり、日本の文学者はつかれるようにして『罪と罰』を受容した。登場人物はラスコーリニコフが最たるものである。私事ではあるが、今年に入って『罪と罰』を何度か読み返す機会があり、その時に感じたことではあるが、たしかにラスコーリニコフ・ソーニャ・スヴィドリガイロフ・マルメラードフの登場人物をとりあげがちだが、マルメラードフの後妻カテリーナを日本の文学者がいつになったら受容するのか。また、もう書かれているのか。そんなことが脳裏に浮かんだ。最後に草野心平とドストエフスキイにはふれなかったこと多分に私論を述べているので池田和彦氏に失礼があったことをお許し願いたい。以上で終りにいたします。ありがとうございました。              (完)
 



「ドストエーフスキイの会」情報



11月9日(土)文芸講演会

 11月9日(土)午後2時30分より、ドストエーフスキイの会主催の文芸講演が池袋にある芸術劇場で開かれた。講師は作家の川又一英氏で、「ロシア正教とドストエーフスキイ」について講演された。多数の参加者があり、質疑応答も活気あふれるものでした。川又氏は懇親会、二次会にも出席され、いずれも盛会となった。
 当日、川又氏が配布されたレジメは下記の通りである。

参考資料・1 ロシア正教略史

313年ローマ帝国で信仰の自由を認めるミラノ勅令公示。
330年コンスタンティヌス1世、首都をビザンティウムに移し、コンスタンティノープルと改称。
391年テオドシウス1世、異教の禁止令を発し、キリスト教を国教とする。
864年ブルガリアのポリス1世、ギリシャ正教を国教とする。
963年聖山アトスに最初のラヴラ修道院が、聖アタナシオスにより創建される。
988年キーエフ公国のウラジーミル公、受洗してビザンティン皇帝の妹を娶り、ギリシャ正教を国教とする。
1051年聖山アトスで修道生活を送ったアントーニイ、キーエフの洞窟で修道生活を始める。
(1073年、弟子のフェオドシイとともにキーエフ洞窟修道院を創建)
1237年モンゴル軍、ロシアに侵入(「タタールの軛(〜1480)」の始まり)。
1299年府主教座がキーエフからウラジーミルに移る。
1326年府主教座がウラジーミルからモスクワに移る。
1380年クリコヴオの戦いでドミートリー・ドンスコイ率いるロシア軍、モンゴル軍を撃破。
1392年ラドネジの聖セルギー没。
1415年アンドレイ・ルブリョフ、この頃イコン「至聖三者」を制作。
1453年コンスタンティノープル陥落、ビザンティン帝国滅亡。
1472年イヴァン3世、コンスタンティノス11世の姪ゾエを妻とし、ビザンティンの紋章「双頭の鷲」を採り入れる。
1503年ニル・ソルスキー(非所有派)、主教会議で修道院の世俗化を批判、ヨシフ・ヴォロツキー(所有派)と対立。所有派が勝利を収める。        
1547年イヴァン4世(雷帝)、「皇帝(ツァーリ)」の称号で即位。
1589年モスクワ府主教イオーフ、コンスタンティノーブル総主教イェレミアス2世によって総主教に叙聖される。
1613年ミハイル・ロマノフ、即位。ロマノフ朝始まる。
1633年ピョートル・モギラ、キーエフ府主教に就任、ラテン神学を採り入れた神学校を設立。
1652年総主教に就任したニーコンが教会改革に着手し、長司祭アヴァークムらの反対を招く。
1666年モスクワの教会会議、ニーコンの改革を承認し、改革に反対する古儀式派(旧教徒)の破門を宣言。
1721年ピョートル大帝、総主教制を廃止し、シノード(宗務院)制を採用する。
1762年エカテリーナ2世即位、修道院国有化令を発して修道院抑圧政策を進める。
1793年「フイロカリア」の教会スラヴ語訳完成。これを機にロシア教会に新風がもたらされ、サーロフの聖セラフイム、オプチナ修道院の長老レフ、マカーリイらを輩出する。
1861年農奴解放令。ニコライ・カサートキン、ロシア領事館付き司祭として来日。
1875年 宗務院版ロシア語聖書完成する。
1880年 ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』発表。
1917年 全ロシア教会会議、チーホンを総主教に選出、総主教制を復活させる。
1918年 ソヴェト政権、政教分離令を発し、教会財産国有化に乗り出す。
1922年 チーホン逮捕され、反チーホン派の「生ける教会」が結成される。
1929年 スターリン、反宗教政策を強化、教会の宣教や慈善・教育活動を禁ずる。
1988年 ロシア正教会、「受洗1千年祭」を祝賀。

参考資料・2 東方正教会の組織
 
 世界人口の約4割はキリスト教徒といわれる。正教会はカトリック教会に次いで、信者総数は約1億8000万人。教皇を中心にピラミッド型組織を持つカトリック教会と対照的に、国別あるいは民族別の教会組織を形成している。

コンスタンティノーブル総主教区
アレクサンドリア総主教区
アンティオキア総主教区
エルサレム総主教区
ロシア正教会(モスクワ総主教区)
グルジア正教会(総主教区)
セルビア正教会く総主教区)
ルーマニア正教会(総主教区)
ブルガリア正教会(総主教区)
キプロス正教会
ギリシャ正教会
アルバニア正教会 、
ポーランド正教会
アメリカ正教会
チェコ・スロヴァキア正教会

上記の独立教会のほかに、次の自治教会がある。

シナイ正教会
フィンランド正教会
日本正教会

参考資料・3 東方正教会とカトリック

1 ペンタルキアとローマ教皇
2 聖体礼儀とミサ
3 イコンと礫刑像
4 ア・カペラとオルガン
5 司祭の妻帯と独身制
6 発酵パンと無発酵パン
7 ヒゲと無髭
8 煉獄の教理
9「フイリオケ(子からも)」の追加




ドストエーフスキイ情報



新聞・東京新聞(夕刊)2002年9月12日 今週の本棚【魂の彷徨】
◇『悪霊』中上紀著 (毎日新聞社・1429円)

 「神々の花は、ただ咲くだけでこんなにも見つめてもらえ、無条件で愛される。枯れても、泥の中から茎を伸ばし、何度も繰り返し咲けばいい。/人の花は一度だけだ。/私の花はもう咲いたのだろうか?」。自分探しのバリ島、運命的出会い、神々と悪霊が形作る島の日常、舞踊とガムラン、現世と黄泉につながる祭日ニュピ、魔女、因果・・・『彼女のプレンカ』から3年、バリ島と1人の踊り手の男にみせられた日本女性を主人公に描く喪失と再生の物語。

◇『悪霊論』自我の崩壊過程  藤倉孝純著 (作品社・2200円)

「エゴイズムの限りない拡張が他者に対する優しさ、自己への安らぎを、現代人から奪って年久しい。われわれもニコライの悲劇を生きている」。ドストエフスキーの『悪霊』を安保闘争世代の研究者が論じる。悪徳の主人公ニコライの人生遍歴を、主にマリヤ、マトリョーシャらとの関係からたどり、真実を求めつつも、繊細な理性に支配された残酷さを他者ばかりか己にも向けねすばならなかった若き魂の彷徨(ほうこう)として据え直す。

新聞・朝日新聞(夕刊)2002年10月4日 金曜日 <単眼・複眼>欄

 かって河上徹太郎は幕末の志士とドストエーフスキイの関連を説いた。が、その指摘は枯葉となって水中深くに沈殿した。――かのように思われた。だがしかし、葉は、朽ち果てることなく時代の川底を流れていた。そして、ねばっこい新芽さえ出して浮上した。高橋誠一郎氏考察の「司馬遼太郎とドストエーフスキイ」に、その葉を彷彿する。この天心記事しかり・・・。そんな独善からド情報として下記の記事をとりあげた。(編集室)

◇岡倉天心論、内外で高まる なお影落とす「アジアは一つ」

 「アジアは一つである」。1903年、岡倉天心が英文で書いた『東洋の理想』は、この有名な言葉で始まる。アジアの連帯を国際的に宣言する意図だったが、本人の志とはズレを生じ、侵略を根拠づける「大東亜共栄圏」の思想の一端を担った。今も天心研究に影を落とす問題である。(略)天心は東大在学中、お雇い教師のアメリカ人、フェノロサと出会う。法隆寺などの調査に従い、日本の伝統文化がギリシャ・ローマに由来すると知る。しかし、西洋の基準でランクづける師の方法に疑問を持った。
 『東洋の理想』は、実は師への反旗の書でもあった。ギリシャ文明が東へ進んで仏教を生んだガンダーラ美術を、「むしろ中国的特徴が顕著」と書いた。中国文明が西進して、ガンダーラ美術を生んだとまで主張した。
 日本ナショナリズムの高揚とともに、主張は政治的意味をもつようになる。インド・中国文明を集約して現代に伝えるものこそが日本文明であり、天心はその「使命」を自覚するに至る。「アジアは一つ」にはこんな構造がある。
 川嶌一穂嶌(大阪芸大短期大学)によると海外でも天心研究が盛んになっているという。アメリカ主導のグローバル化が進む中、対抗する思想が模索されているという面もあるのだろう。氏は「天心が声高に持ち上げられる動きには警戒すべきだ。歴史を詳しく知らなければ」とクギを刺す。(略)
 川嶌一穂嶌氏は、日本フェノロサ学会で「岡倉天心の思想形成」を発表。安政の大獄で刑死した越前藩の開明派志士、橋本左内の思想が意味をもったと報告した。天心は、同藩士の子に生まれ、幼児期、教育係の乳母から左内の思想や人物像が吹き込まれたという。


新聞・読売新聞(夕刊) 2002年10月11日 金曜日 「文化」欄
◇カフカ新校訂版 池内紀さんの個人全訳完結

 新校訂で新たな光を作家像に当てる『カフカ小説全集』全六巻(白水社)がこのほど完結した。個人全訳という大業を終えたドイツ文学者の池内紀さん(61)に話を聞いた。
 六年前、定年を待たずに東大教授を退官した際、今後の目標として挙げたのが「カフカの全訳」だった。念頭には、ドイツのフィッシャー書店から刊行されていた画期的な新校訂版(手校版)があった。
 プラハ生れのユダヤ系作家(1883-1924年)が生前に発表したのは「変身」「判決」など短編や小品ばかり、だが、死の直前、焼き捨ててほしいと親友マックス・ブロートに託したノート類には、膨大な手稿が残されていた。ブロートは遺言を“裏切り”自ら編集して長編三部作をはじめとする作品群を出版する。
 「編集に際しブロートが意図したのは、長編は完結した構成にする、主人公は迷いながらも救済されるという、二点です。彼は熱烈なシオニストであり、これはメッセージ性を持った作品だと訴えたかったんです」。章の配列、部分の採否などにブロートの解釈が反映された形で、カフカは長い間読まれてきた。68年ブロートの死後、ようやく研究者集団によって、より手稿に忠実な全集が企画、刊行され、今回の邦訳はそれに基づいている。たとえば第一巻。従来「アメリカ」とされた長編を、カフカが本来考えていた「失踪者」に戻した。
(略)「文章の息づかいを再現したくて、原文の句読点を生かし、短い文章を連ねるようにしました。実存的主義的な解釈が先行して、晦渋というイメージがありますが、彼のドイツ語は非常に明快でわかりやすく、多くの笑いを含んでいます。(略)。

◇本・『北朝鮮という悪魔』青山健煕著  白水社
中学生の頃、トルストイ、プーシキン、ドストエフスキーを愛読していた私はロシア文学を専攻したかった。

新聞・図書新聞 2002年11月16日 書評
◇木下豊房著『ドストエフスキー その対話的世界』(成文社) 定価3600円

国際的な交流を基にした「発信」型の研究   安藤 厚(北海道大学教授)
 
 本書は、木下豊房氏の過去30年わたる論考、文献解明、エッセーをまとめたもので、前書『近代日本とドストエフスキー 夢と自意識のドラマ』(成文社、1993)と合わせて、この間の氏の主要な論考のほとんどすべてを一望することができるようになった。
 第一部「対話的人間観と創作理念」に収められた10本の論考は、国際ドストエフスキー学会(IDS)やペテルブルグ、スターラヤ・ルッサの国際研究集会での発表を基にしており、「“サストラダーニエ”(同情、憐憫)と“他者性”の問題」「“貧しき騎士”ムイシキン公爵の“運命の高貴な悲しみ”」「ゴーゴリからドストエフスキーへの美意識の変容」「ネフスキー大通りから地下室に至る空想家の系譜」ドストエフスキーと漱石」など多様なテーマを扱っているが、その底には著者の一貫した関心が読み取れる。それは木下氏自身の言葉によれば、「かつてミハイル・バフチン、ヴャチェスラフ・イワーノフ、森有正、唐木順三らによって<中略>指摘されてきたドストエフスキーの創作方法の対話性が、作品の主題そのものとどのように係わっているか、という問題である」(あとがき)
 バフチンの「ポリフォニー小説」、創作方法の「対話性」の概念から出発して、ヴャチェスラフ・イワーノフの<われと汝>、マルチン・ブーバーの<われー汝><われーそれ>の考えに進み、さらに森有正の「主観共同性」の用語を借りながら、ドストエフスキーにおけるサストラダーニエの理念に注目し、ついには漱石の作品における「憐れ」と「非人情」の問題に至るという話の運びには、やや唐突と感じる読者もいるだろうし、厳格なバフチン信奉者なら創作方法の問題と主題の展開の問題を意図的に混ぜ合わせた著者の方法に違和感をもつかもしれない。しかし、ドストエフスキーの初期作品(「貧しき人々」「分身」)を高く評価したヴァレリアン・マイコフの「共感の法則」についての論考によれば「マイコフの『共感』の概念が作者、描写対象、読者の対話的関係を想定している」(63ページ)ことも考え合わせると、木下氏の議論が単なる思いつきではなく、この一世紀半の思想史・文学史の文脈の中にしっかりした根拠をもっていることが理解できる。
 さらに、これらの論考を第2部「文献批評・解題」や第3部「フェージャの森」のエッセイ―と読み合わせると、木下氏の思索が、日本とロシアにおけるドストエフスキー批評・研究についての該博な知識、特にこの30年間に日本とロシアで刊行された主要な研究・評論の丹念な読解に裏付けられていること、またIDS等を通じた海外の研究者との親密な交流・対話の中から生まれてきたことがわかる。
 木下氏の論考は、バフチンの『ドストエフスキイ論―創作方法の諸問題』の初訳(新谷敬三郎訳、冬樹社、1968)の刊行以降日本でのドストエフスキー理解に大きな転換が起こり、ロシアでも生誕150年(1971)、没後百年(1981)の記念祭を根に、またこの頃アカデミー版30巻全集の刊行が相まって「ソビエトの公式見解」から自由な研究が盛んになり、さらに1990年以降ロシア、西欧、日本の研究者が自由に往来し、共通のテーブルについて議論できるようになった状況の最良の成果の一つといえよう。
 本書と相前後して、200年8月に木下氏が中心となって千葉大学で開催された国際研究集会「21世紀人類の課題とドストエフスキー」の報告論文集がモスクワで出版されたことも含めて、木下氏の仕事は、日本のドストエフスキー研究が、かっての「翻訳と解説」を中心とした「受容」型から、国際的な交流を基にした「発信」型に変わりつつあることを示しているのである。




2002年を振り返って


 2002年も残り少なくなった。国内外ともに様々な対立問題で揺れた一年であった。読書会においても、ある作品をめぐってその感想が大きく分かれる出来事があった。
 この夏、JR津田沼駅近くにある書店に立ち寄ったときのことである。店頭にうずたかく積まれた『カラマーゾフの兄弟』の文庫本の上にこんな紹介文があった。
「読んだら 読む前に」と題して【この世界一の小説は、きっと村上さんまでにつながっていると思いました。『海辺のカフカ』(新潮社)を読んで、これは『カラマーゾフの兄弟』を読んだ人が書いたんだなあと何度も思いました】
 このコメントの主は想像できた。(恐らく、この書店の副店長であろうと。以前にドストエーフスキイの愛読者であるという新聞記事を「ドストエーフスキイ情報」で紹介したことがある)。私は、ちょっとのあいだ立ち止まってコメントの意味を考えた。
このコメントが心底本当にそう思って書かれたのか。或いは、違った目論見で――か。それというのも、このコメント者は本を売ることにかけては辣腕の書店員という評判があるからである。なにしろ彼は、こうしたコメントによってそれまで全く売れなかった本を100万部のベストセラーにした実績がある。それだけにコメントも、もしかして『カラマーゾフの兄弟』と『海辺のカフカ』をより売らんがための一石二鳥の商業的思案かもしれない。そんな疑念が生じたからである。が、この手腕にはさすがと感心せざる得なかった。
 さて、話を戻そう。偶然に店頭で目にしたコメント。そのなかでドと関連づけられた村上春樹著『海辺のカフカ』は2002年の文芸界に論争を巻き起こした書である。たとえば10月16日朝日新聞では文化総合欄で「『海辺のカフカ』は傑作か」との特集を組んで評論家三者三様の感想を掲載していた。BSテレビの読書番組も対立的に捉えた放映であった。他に多くのメディアでも話題にしていた。が、そこにみられたのはほとんど好きか嫌いかの両極端意見であった。読書会の人たちのあいだでも、同現象が起きた。方や「これこそドストエーフスキイ的」とする絶賛派。方や「まったくドストエーフスキイが感じられない」とする否定派。その相反する意見・感想は今もって平行線を辿っている。ドストエーフスキイという同じ土壌にありながらも、これほど違う読み。大きな謎である。果たして謎解きはあるのか。2003年に期待する。
 ちなみに、マスメディアにおける論調は、このようになっている。(印象的なもの)
―『海辺のカフカ』を読んで―
◆(村上春樹は)将来、ノーベル賞をとれるほどの作家(新聞)・・・河合隼雄(心理学者)
◆(村上作品は)日本の文学をダメにした張本人(新聞)・・・・・・・小森陽一(評論家)
◆仕事に生活がある人は受け入れられない本(BSテレビ)・・・・・評論家
◆仕事以外に生活を求めている人が読める本(BSテレビ)・・・・・評論家
◆50歳を過ぎてから読むのは辛い本(テレビ)・・・・・・・・・・・評論家
◆読後感は圧倒的だ。世界文学水準で、今までの作品から完全に離陸していると感じた。/現実の引力が小説の中に生きていて/作家としての成熟、ドストエフスキーにおける「民衆の発見」を思わせる。サリン事件の被害者に時間をかけインタビューしたが、その経験が見事に生きている(新聞)・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤典洋(文芸評論家)
◆ユング心理学の影響が強く感じられますが、小説家が勉強することは重要だけど、学習成果をそのまま作品に反映してしまったら、普通の読者はシラけてしまいます/まともな大人が一人も登場していないのも不満です・・・・・・・・・・・・坪内祐三(評論家)
◆/中途半端な現実回帰は全く説得力を欠く。/読者の側の現実感覚の希薄化に平行してはいるが共通感覚の共同体に安住する安易さは否めない・・・・・・宮台真司(社会学者)等など。          (編集室)




10・12読書会参加者

参加者19名


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