ドストエーフスキイ全作品を読む会  読書会通信 No.75  発行:2002.10.1


次回(10月)読書会のお知らせ


読書の秋、ドストエーフスキイ全作品に挑戦しましょう!!
10月読書会は、下記の要領で開催いたします。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。

 月  日 : 2002年10月12日(土)
 時  間 : 午後6時00
 場  所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
 作  品 : 『弱い心』
 報 告 者  : 人見敏雄氏
 会  費 : 1000円(学生500円)
 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 終了後は、近くの居酒屋で二次会を予定しています。

 時 間 : 9時10分〜11時00分頃迄
 会 費 : 2〜3千円




8月10日(土)暑気払報告

 暑気払の午前の部は『白夜』読書会を。午後の部は、高橋誠一郎氏が「『白夜』とその時代―ペトラシェーフスキイ事件をめぐって」を講演しました。真夏の一日という長丁場でしたが、会場が満席となる多数の参加者があり盛会でした。

『白夜』読書会

 暑気払いの『白夜』読書会は、福井勝也氏司会によりフリートークの形で行われました。はじめに火付け役として堤崇弘氏が簡単な問題提起をされました。「作家自身の話」「大作への関連性」など大勢の方から様々な意見がだされました。


暑気払・講演

 読書会・午後の部は高橋誠一郎氏が「『白夜』とその時代―ペトラシェーフスキイ事件をめぐって」を講演しました。「下宿人は革命家」の指摘が熱い論議を呼びました。映画ではジャン・マレーが演じ、存在感のある人物となっています。
なお、下記は高橋氏によるヴィスコンティ監督「白夜」の解説です。12月上映予定。





『白夜』の時代―「空想への逃避」と「不快な覚醒」


高橋誠一郎(ロシア文学研究者)

 ドストエフスキーの『白夜』は、街を散策することが好きな「空想家」の若者が白夜の季節にふとしたことから知り合った乙女に恋するというエピソードを描いたロマンチックな佳作である。ヴィスコンティの映画『白夜』も、運河沿いの街当時の名女優マリア・シェルの演じるナタリアとマストロヤンニ演じる主人公との橋の上での出会いのシーンの映像美で観客を魅了するだけでなく、原作の台詞を生かしつつ観客を物語へと巧みに引き込んでいく。
 ところで『白夜』が書かれた1848年は激動の年であり、この年の2月にフランスで発生した革命は翌月にはドイツでも勃発し、さらにハンガリーや北イタリアにも革命運動が広がり始めていた(これは後にヴイスコンティが『山猫』で描く時代につながる)。ドストエフスキーも空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求める会に参加して、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。それは今からみればごく当然の要求であったが、「専制、正教、国民性」というロシア独特の「伝統」の遵守を厳しく国民に求めていた政府は、革命のロシアへの伝播を恐れて1849年のハンガリー出兵の前に、これらの「理想家」たちの逮捕に踏み切ったのである。
 小説『白夜』では、主人公の恋が思わず成就するかに見えたときに、乙女の待っていた青年が現れて破れるという結末を迎えるが、この作品で「甘い空想」と「苦い覚醒」を描いたドストエフスキーも、長い独房生活の後での厳しい尋問をへて刑場に連れ出され、死刑執行の寸前に恩赦を受けるという苛酷な体験をしたのだった。厳寒のシベリアへと流刑になったドストエフスキーが、首都に戻り文壇に復帰するのは1859年の終りのことであり、その時ロシアはクリミア戦争敗戦後の「大改革」と呼ばれる激動の時期に入っていた。
 興味深いことに、約100年後の1957年に『白夜』を撮ったヴィスコンティも同じ様な体験をしている。すなわち、名門貴族の家に生まれた彼は父親に対する反抗から労働運動に参加し、さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツに対するレジスタンスに加わって捕まり、銃殺刑になる前日に逃亡するという経験を経ていた。
 小説『白夜』の冒頭で描かれる中年の紳士が主人公の女性をつけ回すという有名なシーンの代わりに、映画『白夜』ではオートバイに乗った若者たちが騒音と共にナタリアを追いかけ回しているが、ここにはヴィスコンティのすぐれた時代感覚が現れているだろう。
 しかもすでに舞台での『罪と罰』の演出を1946年に手がけていたヴィスコンティは、このシーンが『罪と罰』(1866年)においては、主人公の妹をつけ回すスヴィドリガイロフと主人公ラスコーリニコフとの係わりを知る上できわめて重要な役割をになうことになることをも熟知していたはずである。換言すれば、ヴィスコンティの『白夜』は、様々な体験を踏まえて『罪と罰』を書いたドストエフスキーの理解の上に成立していたともいえよう。
 たとえば、理想化肌の色白の文学青年の印象が強いドストエフスキーの『白夜』の主人公とマストロヤンニが演じる主人公との年齢の差異は、最初のうちは観客に少しとまどいを感じさせるかも知れない。しかし、主人公がナタリアから託された手紙を川に破り捨てるという原作にはないシーンから、ヴィスコンティは観客を一気に自分の『白夜』の世界に引きこむ。ことにバーで若者たちが夢中になって踊る場面やマストロヤンニ演じる主人公と娼婦との会話などのシーンでは、ドストエフスキーにおける「空想家」のテーマの深化が見事に映像化されていると感じられる。なぜならば、ドストエフスキーにおいて『白夜』に描かれた「空想家」という形象は、シベリア流刑後の『地下室の手記』(1864年)においてさらに深められており、そこでは「理想」に破れた主人公の「退廃」が、主人公と娼婦とのやりとりをとおして描かれていたのである。
 つまり、「北のベニス」と呼ばれるサンクト・ペテルブルクを舞台としながら、「革命と戦争の時代」の足音が近づいてくる「閉塞感」の中でのひとときの「甘い空想」と「不快な覚醒」を描いたヴィスコンティの『白夜』は、コレラと第一次世界大戦の足音を聞きながらベニスへ「逃避」した作家の「退廃」を描いたトーマス・マンの『ベニスに死す』の映画化を充分に予感させる作品だといえよう。(映画では主人公は音楽家)。
 このように見てくる時、なぜヴィスコンティが『白夜』と銘打った作品の幕切れ近くに「初雪」を降らせたのかも明らかになる。つまり、夜でもなく昼でもない「白夜」の時間感覚は、少し誇張していえば「この世」ならぬ別種の「時空」に迷い込んだような奇妙な感覚であり、それを「南国のベニス」で表現するには、「時ならぬ」雪が作り出す「白い空間」が必要だったのだと思えるのである。それとともにもう一つの理由が考えられる。それは主人公と娼婦とのいきさつを描いた『地下室の手記』の第二部が「ぼた雪にちなんで」と題されていることである。二つの作品の深い関連を意識するならば、最後の場面での「雪」は、ヴィスコンティの『白夜』がドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『地下室の手記』にもつながっていることを象徴的に示しているように見える。
 しかも、原作では漠然としていた下宿人の形象が、ジャン・マレーが演じる謎めいた人物として明確に描き出されていることを想起するならば、冒頭と最後に現れる野良犬のシーンも、少女に対する欲望のテーマが見られる『虐げられた人々』(1861年)の世界とのつながりをも暗示していると感じられる。なぜならば、ヴィスコンティはナタリアと祖母の人物描写を、『虐げられた人々』におけるネリーと祖父との関係を下敷きにしていると思えるが、この作品で副主人公的な位置を与えられているヴァルコーフスキイ公爵は、少女愛への傾向をも示している『罪と罰』のスヴイドリガイロフの形象へと直結しているからである。そしてそれらの主用人物は、ナチス政権下ドイツを描いた『地獄に堕ちた勇者ども』で、ヴィスコンティが依拠することになる『悪霊』のスタヴローギンにも深く結びついているのである。
 このように見てくるとき、ヴィスコンティの比較的初期の作品『白夜』は、価値観が失われて「閉塞館」が濃い、再び「新しい戦争の足音」が遠くから聞こえてくるようになった今日の状況から見るとき、きわめて現代的な作品と映る。
 こうして、ドストエフスキーの『白夜』が「空想家」の形象をとおして、後期の『地下室の手記』や『罪と罰』へとつながっているように、ヴィスコンティの『白夜』も「空想への逃避」からの「不快な覚醒」や「退廃」の問題を通して、人間の根源に鋭く迫った後期の大作につながるきわめて重要な作品と位置づけることができるだろう。 (完)




私はこう読んだ 『白夜』


 前回の読書会作品『白夜』では、作品にたいする感想を大勢の皆様からお寄せいただきました。ご協力ありがとうございました。本頁でご紹介します。

◇ステレオタイプ的な悲劇
 石川啓一

 主人公は小説の当初からナスチェンカに好意を抱き、その恋が成就しようとした瞬間にナスチェンカの昔の恋人の登場によって見事にナスチェンカに裏切られる。主人公はしばしばドストエーフスキイが好んで描いた「道化」の種類に入ると思われる。一般的な道化のようには主人公の心理は屈折してはいないが、作家自身しばしば経験したと思われる「純情な道化」的役割を通して、この作品の悲劇性を一層高めると同時にステレオタイプ的な悲劇として作家自身この作品を客観視し、暗に喜劇的な要素も含ませたと思う。

◇この時期にしか書けなかった恋愛小説
 船山博之 

                                            
 ドストエフスキーの恋愛感―片思い―の理念を小説にしたてたものと思う。ペトラシェフスキー・サークルでドストエフスキーが獲得した社会を理想とする思念、人間(他者)に対する無償の愛に対する深い共感、そんな幸福感をもったドストエフスキーが、この時期にしか書けなかった恋愛小説。お世辞にも佳作とは思えない。

◇中途半端でお世辞にも佳作とは思えない
 金村 繁

 主人公が、今後もよく出てくる空想家タイプの初期のタイプに属することはわかる。それにしても冗舌すぎて、そのくせ臆病で一歩踏み出せない。
 この短編には後年の形而上学もリリシズムの両方とも中途半端でお世辞にも佳作とは思えない。ただ最後に別れた彼女の幸福を願う所のみがこの作品を救っている。

◇主人公は二人なのだ
 田中幸治

                                   
 主人公は二人なのだ、と私は読みます。どちらもドストエーフスキイ゛の分身で、あわせて一人のドストエーフスキイなのだ、と。ドストエーフスキイは自分の両面を書いてみたかったのではないか、と私は思うのです。何故か、ドストエーフスキイを私は実行の人と考えるのです。『地下生活者の手記』(懐疑)と『死の家の記録』(肯定)を両輪としてラスコーリニコフ――ムイシュキン――スタヴローギン――カラマーゾフの兄弟と炎を吹きあげつづけた実行の人であると。





『ドストエーフスキイ広場』NO,11合評会報告要旨 @


 7月27日(土)に行われた『広場』11号合評会の報告要旨及び抜粋は下記の通りです。   
(但し、紙面の都合上、抜粋掲載となります。ご了承ください)


 加藤純子・論文
「内的思考に対する反響――『カラマーゾフの兄弟』における他者の声」

  報告者・熊谷暢芳

 <『カラマーゾフの兄弟』においてイワンやアリョーシャが心の中で思うことは、外部の世界とどのように関わるのだろうか。>
加藤氏にとって、心で思うことが外部の世界と関わるといったとき、通常の因果関係の範囲内で、思念が行為を通じて世界に影響を与えていくことではない。まず、論理的には因果関係の成立しえない個別独立の複数の出来事がある。ところがそれらの出来事は互いに関連性を帯び、何らかの因果関係の配下にあるように見えてくる場合がある。本来無関係な出来事が、原因と結果の関係で結びつくとするならば、その原因結果の連鎖の一部に世界の外側の鎖が想定されなくてはならない。因果の連鎖の一つに異界を組み込むことによって、無関係な出来事の間に関係性を成立させることが可能となるのだ。関係性を見ようとする意志と感情によって、このとき異界が主題化される。
世界とは私の意識に対して現前するすべてのことである。外部の世界とはそうした世界をさらに包摂する領域のことである。前回の講演において加藤氏が描き出してみたのは、ドストエフスキーの表現による、閉ざされた自己の世界の、外部の世界に向けての解放の姿だった。今回の論文では、心と、心による影響力を持ち得ない領域としての外部の世界との影響関係を、<他者>をキーワードとして展開している。

1 内的思考
イワンの悪魔は他者のごとく現前するが、その語る内容は、かつてのイワンの思考の断片であり、イワンの内的思考の一部である。イワンは理知と鋭い感性に恵まれているが、悪魔の登場は彼の中に迷信的な考えが残っている証拠でもある。こうした理性の揺らぎは、ゾシマの死の直後の混乱の中で、アリョーシャにもあった。以下、略。
2 外界の現実からの反響
イワンに語りかける声には、もう一つ現実のスメルジャコフの声がある。イワンの思考の一部は、現実の他者スメルジャコフの犯罪に作用し、そのことにおいてイワンは犯罪と関わりを持つ。悪魔の出現もスメルジャコフの犯行も、イワン自身の思考の内容と密接に結びついている。現実のスメルジャコフ、幻想の悪魔とイワンの間には、同調、反発共々に身体レベルに達するほどの深い相互関係が成立してしまっている。イワンとスメルジャコフは明らかにお互いに理解し合うことのできない他者であるが、犯罪を介してのみ、この二者は、こうした密接な関係を持ってしまったのだ。以下、略。

報告を私なりに要約した感想はこのようである。
「他者の声・言葉が、本来結びつくはずのない現実の出来事や主人公の思考と結びつく。そのこと可能にする不可知の領域があって、そこに調和の予感を感じる。加藤氏の論文はドストエフスキーの小説から、そのことを読み解いていく。一方、イワンに焦点を合わせると、他者の声は、イワンの自己が分裂した悪魔の声のとして現れる。さらに、スメルジャコフの声は、現実の他者でありつつもイワンの一部と見まごうものがある。現実の事象や主人公の思考に、符合として現れる声は、現実の他者である場合と主人公の自己が分裂した他者である場合の二種類あるようだ。両者の関係について、さらなる興味を感じた。」





『広場』合評会報告要旨


ドストエーフスキイの会における江川さんの思い出
下原康子

                       
 安藤さんは、主に東工大における江川さんの本名である馬場宏先生の思い出を書かれています。ドストエーフスキイの会に参加された安藤さんから『NABAE』という雑誌をいただいたこと、「ロシア手帖の会」の講演会や合宿に参加して、江川さんや安藤さんとご一緒させていただいたことなどをなつかしく思い出しました。

 一方、西野さんは東大大学院、後にマヤコフスキー学院で、江川さんと出会われています。多くの人が魅了された江川さんの笑い、あけっぴろげで、素朴で、ロシアの民衆を思わせるようなその笑い、一方で、「何もかもわかっているよ」というポルフィーリー的まなざし、それらを西野さんは生き生きとよみがえらせてくださいました。

 江川さんはドストエーフスキイの会創設メンバーのお一人で、初期のころの例会や総会、シンポジウムなどで何度かお目にかかる機会がありました。そのころを知る人は、だんだん少なくなります。それで、追悼の追加になりますが、ドストエーフスキイの会における江川さんの思い出の一旦を話させていただこうと思います。

 ご承知のとおり、会の発足は1969年です。今日参加されている中にはまだ生まれていなかった方もおられると思いますが、東大、日大に代表される学園紛争が一応の収束を迎え、一方で人類が初めて月に着陸した年のことです。

 私がドストエーフスキイの会に初めて参加したのは翌年の1970年10月の第11回例会からです。当時の例会は毎月開催されていました。初めて参加したその日は、岩浅武久さんの「カラマーゾフの世界」という報告でした。カラマーゾフの子どもたちのお話がたいへん新鮮で、印象的だったことをよく憶えています。新宿厚生年金会館の会場は60名近くの参加者でいっぱいなり、熱気にあふれていました。ちなみに翌月の11月には三島事件が起こっています。

 江川さんにはじめてお目にかかったのは同じ年の暮れの忘年会でした。入会したばかりでしたが、最古参の会員のお一人である田中幸治さんのお誘いがあって参加しました。その席で、新谷先生と江川さんが「ラスコーリニコフとソーニャの間に性的関係があったかどうか」で議論されるのを目の当たりにしました。お二人ともこの話題にたいへん積極的なご様子で、新谷先生が「非常に重要な論点です」と強調されていたように記憶しています。

 私の目にはお二人がドストエーフスキイその人、でなければ、作品の登場人物のように映りました。新谷先生は最初のころはスタブローギン、しばらく後になるとステパン先生、一方、江川さんは『罪と罰』のポルフィーリーです。これは江川さんご自身が「僕はポルフィーリーです」と言われたのです。「すでに終わってしまった人間です」とも言われましたが、それはマユツバのように思われました。とにかく、このときのお二人の印象が、私のドストエーフスキイの会に対するイメージを決定的なものにしました。

 江川さんに似合わないものが2つありました。一つはネクタイです。夏はポロシャツ、冬はトックリセーターに上着というスタイルが定番でした。もう一つ似合わないのが先生という呼び名です。まわりの方が、江川先生と呼ぶのを聞いたことがありません。もっともこれは、ペンネームだからかもしれませんが。

 ドストエーフスキイの会で4回ほど江川さんの報告を聞いたことがあります。

1回目は1971年1月の例会、私にとって2回目の例会でした。ちなみにこの年は成田闘争、ベトナム反戦運動でさわがしかった年です。江川さんは「『悪霊』におけるフォークロア的、神話的要素」というお話をなさいました。

 『悪霊』を読んでさえいなかったので、内容はよくわからないながらも、その楽しげな話し振りには魅了されました。会報の報告要旨を読むと江川さんのライフワーク「謎解きシリーズ」がスタートしていたことがわかります。

 この年、1971年はドストエーフスキイ生誕150周年で、秋に2つの大きなイベントが行われました。10月にロシア手帖の会共催で記念講演会が、11月に会単独で、記念シンポジウムが開催され、どちらも大成功でした。シンポジウムは参加者200名、延々8時間でも終わらず、第3部を次の例会に持ち越したほどでした。

 このとき、江川さんもシンポジストのお一人で「ドストエーフスキイにおける悪の問題」というテーマで話されました。ドストエーフスキイ文学の悪を民間伝承の「悪魔」から解き明かそうという前回の報告に通じるフォークロア路線のお話でした。これが江川さんの報告を聞いた2回目です。

 3回目は翌年の1972年12月の第2回シンポジウムです。その時の報告は「ドストエーフスキイの作品におけるフォークロア的要素」。ソーニャの「ラザロの復活」朗読場面をフォークロア的に解き明かすという、後の『謎解き罪と罰』のさわりの部分を聞かせていただきました。

 4回目は、ずっと後で、これが江川さんとお会いした最後になりました。平成3〜5年くらい、総会後の講演だったと思います。「謎解き罪と罰」「謎解きカラマーゾフ」はすでに出版されており、当日の報告は「謎解き白痴」だったような気がしますが、はっきりしません。というのも、江川さんのお顔から、あの笑いが消えてしまったことに動揺し、話の内容に集中できなかったからです。病気をなさったことを後で聞きました。

 そういうわけで4回も「謎解き」を直接聞く機会に恵まれましたが、肝心の内容が記憶に残っていないのです。具体的に憶えていることといえば、早稲田の小野講堂での講演中に、となりの建物からフォークソングを練習する歌声が聞こえてきて、当時はベトナム反戦運動がさかんでフォークブームでした、そのときに江川さんがすかさず「むこうはフォーク、こっちはフォークロア」と言われて、会場がどっとわいた、そんな妙なことだけはっきり憶えています。報告内容をいささかなりとも理解したのは後に「謎解きシリーズ」を読んでからでした。

 にもかかわらず、お話が実におもしろかったという印象が強く残っています。なぜおもしろかったのか、うまく説明できないのですが、いの一番にご自身がおもしろがっておられ、その情熱にいつしか感染させられるようなところがありました。加えて、内容の理解うんぬんを超えた、なにか謎めいたドストエーフスキイ的磁力があったのです。

 後に『白痴』の中の夢について書かれた部分を読んで、江川さんのお話から受けた印象に似かよっていることに思い当たりました。『白痴』のその部分を引用してみます。

「夢はそこから醒めて現実界へもどったあとでも、何か謎のような印象をのこす。この印象の中には何か一種の思想のようなものがあり、その思想はすでに現実のものである。自分の生活に即したあるものである。それは何かの新しい予言か待ちこがれていたものを聞かされたような気持ちである。この印象は非常にうれしいか、非常に悲しいか、とにかくじつに強烈である。しかしその本質がどこにあるのか、意味はどうであるか−そんなことは理解も出来ない」
つまり、私にとって、江川さんのお話は何回聞いても本来の「謎解き」の理解には至らず、あくまでも夢に似かよった「謎かけ」に終始していたというわけです。

 そういえば、江川さんはトランプ占いと手相観という特技をお持ちでした。「ロシア手帖の会」の合宿に参加したとき、女性ファンの仲間入りをして、手相を観ていただいたことがあります。人に謎をかけること、とりわけ女性に謎をかけるのがお得意で、それをちょっぴり楽しんでおられる、そういう感じもしました。

今でも気になっている謎かけが一つあります。いつ、どこで、どういう脈絡で言われたか憶えていませんが、江川さんが最も好きな登場人物としてあげられた、その人物がアリョーシャだったことです。

 私はこれを江川さんからのメッセージとして心に留めています。それは「アリョーシャこそはドストエーフスキイが人類に残した最大の謎であり、贈り物である」というメッセージです。

そんなこんなで、これからも、アリョーシャの謎、ドストエーフスキイの謎、ひいてはドストエフスキーの会の人々の謎と楽しくつきあっていきたいと思っています。

 らちもない思い出話ですが、江川さんは、あの世でニコニコしながら聞いてくださったことと思います。





ドストエーフスキイ情報



新聞・朝日新聞夕刊2002年8月12日 月曜日【心の書】
◇ 罪と罰    三浦 正(静岡英和学院大学長)

 昭和23年、中2の時期。書籍といえば、戦前の出版物しかなかった頃、文学好きの姉が町の友人宅からルビ付き『世界文学全集』をよく借りてきた。その中に本書があった。
 貧民を苦しめる高利貸をこの世から抹殺して何の罪が問われようか。主人公ラスコーリニコフの社会主義実現を巡る発想、また、人倫の道に外れた仕事で家計を支える年若い女主人公ソーニャの、神なしに人は生きられようかと問う言葉は、中2にわかる由もなかった。彼女が請われて読む「ラザロの復活」話など、おとぎ話の類でしかなかった。
 それから6年後、大学で「ラザロの復活」の話を一年かけて学んだ。死人ラザロの復活話は、人の根源的な罪からの解放は愛によるしかないことの宣言だった。主人公はソーニャの読むこの話を耳にしながら、罪を償う希望へと駆りたてられるのである。


新聞・読売新聞夕刊 2002年8月19日 月曜日 「編集委員が読む」
◇スターリン戯画化、今もタブー

 長編小説「青脂」は、スターリン死後の1954年と21世紀半ばを舞台に、魔法の物質「青脂」をめぐって展開される奇想天外なファンタジーで、トルストイ、ドストエフスキーからサハロフ博士まで、19世紀以来の様々な分野の偉人たちが「クローン人間」として登場する。・・・略・・・その偶像を完膚無きまでにうち砕くことは、ロシアでは今も、空想の中でしか許されない最大のタブーなのだ。(布施裕之)

新聞・読売新聞朝刊2002年9月22日 日曜日 本よみうり堂 著者来店
◇『磔のロシア』亀山郁夫さん
芸術家の“二枚舌”を暴く

 東京外国語大学で、20世紀初頭の「アバンギャルド芸術」を中心に現代ロシア文化論」を教える。しかし次の著作では、19世紀の大作家ドストエフスキーを取り上げる予定。本書の「政治と文学」に続き、今度は『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しのテーマが、どれだ
け「現代性」を持ちうるかを問い直すことになる。

新聞・読売新聞夕刊 2002年9月25日 水曜日 文芸2002
◇村上春樹氏(53)久々の本格長編『海辺のカフカ』(上下巻 新潮社)

・・・略・・・千夜一夜物語、夏目漱石を好む主人公の少年は、「資本論」とドストエフスキーに読みふけっていた15歳だったと、・・・略。

新聞・東海大学新聞 2002年9月5日 木曜日 知遊空間
◇ヴィスコンティの映画「白夜」評 『白夜』の鮮烈な魅力 高橋誠一郎

 (略)ことに、夜でもなく昼でもない「白夜」の奇妙な時間感覚を。ヴェニスに降った雪による「白い空間」で表現した幕切れ近くのシーンは圧巻である。奇跡をもたらしたかに見えた時ならぬ「美しい雪」が、失恋の傷みの中で近づいて来る「冬の時代」の到来を告げるような「冷たい雪」へと変わるのである。時代の「閉塞感」が強まる中で「他者」への「敵意」が強まり「新しい戦争」の足音さえ聞こえ始めた現在、若者の「孤独」と「甘い空想」の破綻を鮮烈な映像美で描いた映画『白夜』は、きわめて今日的な作品と映る。

新聞・朝日新聞朝刊 2002年9月29日 日曜日 読書「いつもそばに本が」
◇私は知らなかった 秋山 駿
                             
 私は何も知らなかった。旧制中学四年のときか、杉並区阿佐ヶ谷の、時が停まっているような古本屋でなんと!内田魯庵訳『罪と罰』の前半を立ち読みし、理由なき殺人へ出掛けるラスコーリニコフの姿が頭に焼きついたが、私はドストエフスキーという作家を知らなかった。




掲示板

出版情報・好評発売中


『ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望』
木下豊房編  (欧文)、モスクワ発行、定価3500円

 2000年8月、千葉大学での国際ドストエフスキー研究集会の報告論集「ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望」がこのほどモスクワで刊行された。オリジナルが英、独語の論文もロシア語訳付きで、40本の論文が収録されている。付録に会議のプログラム。560頁、3500円。
興味のある方は木下氏までご連絡ください。電話(047-448-9213)

『ドストエフスキーその対話的世界』 木下豊房
木下豊房著 成文社 定価3600円

 永遠の文学、その核心の探求。そして、その受容と変容、現状と未来への的を得た解説。ロシア文豪を永年にわたって追い続けてきた、著者ならではの成果。それは、國際化する文豪研究への参加、文豪ゆかりの地への訪問など、文字通りドストエフスキーへの旅の成果でもある。
 「ドストエフスキーの作品は私達にとって、単に古典というよりは、いぜんとして現代文学であるとはよくいわれることである。これは過去の時代の世態風俗を描いて、そこに人間の永遠の真実を感得させるいわゆる鑑賞型の古典文学とはちがって、この19世紀ロシアの文豪の作品が私達の現代の問題にいまだに鋭くかかわってくるからに他ならない。・・・」

『この国のあした』                              
高橋誠一郎著  のべる出版企画 定価1900円

 司馬遼太郎の戦争観―テロと戦争の発生の仕組みを「欧化と国粋」の視点で考察した注目の最新刊。




8・10読書会

28名の参加者がありました。
          




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