ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.74 発行:2002.8.1
(暑気払)読書会&講演のお知らせ
真夏の一日、大いに『白夜』を語り合いましょう!!
8月読書会は、暑気払を兼ね下記の要領で開催いたします。午前中は読書会、午後は高橋誠一郎氏の講演です。大勢の皆様のご参加をお待ちしています。
月 日 : 2002年8月10日(土)
時 間 : 午前9時00分〜午後5時00分
場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分).03-5391-2111
午前の部 : 読書会 午前9時00分〜12時00分迄
作 品 : 『白夜』フリートーク
午後の部 : 高橋誠一郎氏の講演 午後1時30分〜5時00分迄
演 題 : 「『白夜』とその時代―ペトラシェーフスキイ事件をめぐって」
会 費 : 1000円(学生500円)
※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。
◎ 終了後は、暑気払カラオケ大会(二次会)を予定しています。
時 間 : 5時30分〜8時30分頃迄
会 費 : 2〜3千円
『白夜』について
8月10日(土)午前の部・読書会
毎年、暑気払の読書会は、「ドストエーフスキイなんでもフリートーク」でしたが、今回は、従来通りの読書会を開催いたします。順番としては、『弱い心』もしくは、『スチェパンチコヴォ村とその住人』になりますが、午後の部が「『白夜』とその時代――ペトラシェフスキー事件」の報告となっておりますので、この講演に合せて『白夜』をとりあげることにしました。ご了承ください。
テキストにしている、米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』の「研究」及び「2」で訳者は、この作品を次のように解説している。
『ドストエーフスキイ全集2』
『白夜』の主人公の空想は今のところ、甘い感傷的な詩趣の範囲を飛翔しているにすぎないけれども、典型としてはすでにドストエーフスキイ的骨格が固定している。(略)その空想はロマンチックな詩の境地からしだいに離れて、自我の問題、社会と自我の対立、それからさらに進んで、宇宙における自我の位置、神と人、等などの哲学的、宗教的の問題にまで達するのである。
この空想家は、淋しく暗いペテルブルグの裏町に、忽然として、地上の楽園を見、天国から陰惨な地上に突き落とされ、夢遊病者のごとく街上を彷徨して、往来の人々にうしろ指をさされ、ついに現実と幻想の境を失ってしまう。こうして『白夜』の空想家は『地下生活者』となって論理を逆立ちさせ、ラスコーリニコフとなって殺人を犯すのである。
『ドストエーフスキイ研究』
『白夜』のストーリーは簡単である。空想家の主人公が、夏のペテルブルグの薄明の夜に、たまたま遭遇した少女に恋を感じ、その恋はようやく成就するかのように思われたが、少女の元の恋人の帰還のために、もろくも崩れてしまう。というただそれだけの物語である。しかし、ここで注目すべきは、ドストエーフスキイの空想主義の発展と生長である。(略)
この空想主義の定義の中には、後年ドストエーフスキイが吐いた有名な言葉、ファンタスチックとあい境する現実主義という、彼の芸術の根本を喝破した思想が、ここに早くもその萌芽を示している。それを見逃してはならない。(略) この作品にたいする訳者の評価は極めて高い。「『白夜』は、ドストエーフスキイの創作の中で、形式的に美しく整った、数すくない作品の一つである」と絶賛する一方で、「ドストエーフスキイはその当時、センチメンタルな恋をしていたのかもしれない。」と、こんな想像もしている。
ドキュメント『白夜』
『白夜』を発表するまでの2年間の軌跡及びソヴェト時代での評は下記の通りである。
1847年
1月 『九通の手紙による小説』(『現代人』に発表)ベリンスキイと絶交
2月 ペトラシェーフスキイの「金曜会」に出席し始める。
4月 『ペテルブルグ年代記』(「サンクト・ペテルブルグ報知に発表」
(この頃、ベリンスキイ『ゴーゴリへの手紙』を書く)
秋 『貧しき人々』単行本出版。兄ミハイル退役、ペテルブルグに居住。
10月『主婦』(『祖国雑誌』に発表)
1848年
1月 『他人の女房』(『祖国雑誌』に発表)
2月 『弱い心』(『祖国雑誌』に発表)
『ポルズンコフ』「絵入り文集」に発表するが発行禁止。
4月 『世なれた人の話』(「退役軍人」・「正直な泥棒」を『祖国雑誌』に)
5月 ベリンスキイ死去
9月 『クリスマスと結婚式』(『祖国雑誌』に発表)
秋 ドストエーフスキイ兄弟、「文学と音楽のサークル」を提案するが、スペシネフ共鳴せず。
12月 『祖国雑誌』に『白夜』と『やきもちやきの夫』(後に『人妻と寝台の下の夫』と改題)
1956年
ソヴェートで出はじめた、全10巻のドストエーフスキイ作品集のうち、第2巻 の終りに付せられた解説が『白夜』の空想主義について、次のような言葉を述べている。(解説には署名がなかった)
「1847年の雑録『ペテルブルグ年代記』の中で、ドストエーフスキイは空想主義を、社会的条件で説明している。主人公は高遠な人間的理念に合致するような仕事を、発見することができないのである。彼はいう。『われわれロシア人の中で、自分の仕事を愛情をもってちゃんと仕上げるだけの手段方法を備えているものが、はたして大勢いるだろうか?というのは、どんな仕事でも、それをする人から、進んでやろうという気持ちと、愛情を要求する――その人間の全部を要求するからである。また最後に、自分の活動目標を発見した人が、はたして大勢いるだろうか?ある種の活動はなおそのうえに、予備的手段や保証を要求するし、ある種の活動には性質が不向きなために、手を振って、いい加減なやっつけ仕事をするので、見ている間にだめになってしまう。そのとき、活動を渇望し、直接的な生活を渇望し、現実を渇望していながら、弱弱しく繊細で、女性的な性格を持っている人には、だんだんと、いわゆる空想癖が生まれてくる。こうして、ついには人間が人間でなく、何かしら中間的な存在、すなわち空想家になってしまう』。閉じこめられた、ファンタスチックな小世界へ去って行きながら、ドストエーフスキイの空想家は、おのれみずからを完全な悲劇的孤独に運命づけるのである」
8月10日午後の部・講演
『白夜』とその時代―ペトラシェーフスキイ事件をめぐって
高橋誠一郎
ドストエフスキーは1848年に、街を散策することが好きな「空想家」の若者が白夜の季節にふとしたことから知り合った乙女に恋をするというエピソードを描いたロマンチックな佳作『白夜』を書いた。
しかしこの作品が書かれた1848年は激動の年であり、この年の2月にフランスで発生した革命は翌月にはドイツでも勃発し、さらにハンガリーや北イタリアにも革命運動が広がり始めていた。ドストエフスキーも空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求めるペトラシェーフスキイの会に参加して、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。それは今からみればごく当然の要求であったが、「専制、正教、国民性」というロシア独特の「伝統」の遵守を厳しく国民に求めていた政府は、革命のロシアへの伝播を恐れて1849年のハンガリー出兵の前にこれらの「理想家」たちの逮捕に踏み切ったのである。それはドストエフスキーが禁じられていたベリーンスキイのゴーゴリへの手紙をこの会で朗読してから数日後のことであった。そして、その数年後にロシアはクリミア戦争に突入することとなった。
小説『白夜』では、若者の恋が思いがけず成就するかに見えたときに、乙女の待っていた青年が現れて破れるという結末を迎えるが、この作品で「甘い空想」と「苦い覚醒」を描いたドストエフスキーも、長い独房生活の後での厳しい尋問をへて刑場に連れ出され、死刑執行の寸前に恩赦を受けるという苛酷な体験をしたのだった。厳寒のシベリアへと流刑になったドストエフスキーが、首都に戻り文壇に復帰するのは1859年の終わりのことであり、その時ロシアはクリミア戦争敗戦後の「大改革」と呼ばれる激動の時期に入っていた。
興味深いことに、約100年後の1957年に『白夜』を撮ったヴィスコンティも同じ様な体験をしている。すなわち、名門貴族の家に生まれた彼は父親に対する反抗から労働運動に参加し、さらに第二次世界大戦ではナチス・ドイツに対するレジスタンスに加わって捕まり、銃殺刑になる前日に逃亡するという経験を経ていた。
小説『白夜』の冒頭で描かれる中年の紳士が主人公の女性をつけ回すという有名なシーンの代わりに、映画『白夜』ではオートバイに乗った若者たちが騒音と共にナタリアを追いかけ廻しているが、ここにはヴィスコンティのすぐれた時代感覚が現れているだろう。
しかもすでに舞台での『罪と罰』の演出を1946年に手がけていたヴィスコンティは、このシーンが、『罪と罰』(1866年)においては、主人公の妹をつけ回す中年の男と主人公との係わりを知る上できわめて重要な役割をになうことになることをも熟知していたはずである。換言すれば、映画『白夜』は、様々な体験を踏まえて『罪と罰』を書いたドストエフスキーの理解の上に成立していたのであり、ヴィスコンティはここで『白夜』とシベリア流刑後の作品『地下室の手記』を結びつけるという当時においてはきわめて独創的な解釈をすることにより、ドストエフスキーにおける「空想家」という形象の深まりを明らかにしているのである。
こうして、「北のベニス」と呼ばれるサンクト・ペテルブルクを舞台としながら、「革命と反動の時代」の足音が近づいてくる「閉塞感」の中でのひとときの「甘い空想」と「不快な覚醒」を描いたヴィスコンティの『白夜』は、コレラと第一次世界大戦の足音を聞きながらベニスへ「逃避」した作家の「退廃」を描いたトーマス・マンの『ベニスに死す』の映画化を充分に予感させる作品だといえよう(映画では主人公は音楽家)。
しかも、原作では明確に描かれることのなかった下宿人の形象が、ジャン・マレーが演じる謎めいた下宿人として描き出されていることを想起するならば、冒頭と最後に現れる野良犬のシーンも、少女に対する欲望のテーマが見られる『虐げられた人々』(1861年)の世界とのつながりをも暗示していると感じられる。なぜならば、この作品で副主人公的な位置を与えられているヴァルコーフスキイ公爵は、少女愛への傾向をも示している『罪と罰』のスヴィドリガイロフの形象へと直結しているのであり、それはナチス政権下のドイツを描いた『地獄に堕ちた勇者ども』で、ヴィスコンティが依拠することになる『悪霊』のスタヴローギンにも結びついているからである。
厳しい言論弾圧と迫り来る戦争の重圧の中で青年時代を過ごした堀田善衛も、長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968、新潮社)の第1部の扉で『白夜』の冒頭の一節を掲げているだけでなく、本文においてもラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説と比較しながら、『白夜』の文章に何度も言及している。つまり、福沢諭吉は厳しい検閲制度や監視によって国民の言論や集会の自由を奪ったニコライ一世時代のロシアを「野蛮」と見なしたが、大国ロシアを日露戦争で破った日本が直面したのも厳しい検閲制度によって国民を監視する、司馬遼太郎が〈別国〉と呼んだような「暗い昭和初期」だったのである。
このように見てくる時、ヴィスコンティの映画『白夜』が「空想への逃避」からの「不快な覚醒」や「退廃」の問題を通して、人間の根源に鋭く迫った後期の大作につながるきわめて重要な作品と位置づけることができるように、ドストエフスキーの『白夜』も「閉塞感」が漂う中で「新しい戦争」の足音が聞こえ始めた今日の状況を先取りするような、きわめて現代的な作品と言えるだろう。つまりドストエフスキーが佳作『白夜』で提起している問題は、「文明開化」期の日本だけでなく、強い「グローバリゼーション」の流れの中で、「新しい戦争」が語られるようになった現代日本にもかかわるきわめて重たい問題なのである。
ここではクリミア戦争が勃発する数年前に起きたペトラシェーフスキイ事件との係わりに注目しながら『白夜』を考察する。
『白夜』の分析という点で興味深いのは、ヴィスコンティが『白夜』における「謎の下宿人」の形象を独自の鋭い解釈で具体的に描くことで、「空想家」の形象の発展を見事に展開していることである。本発表でも『ポルズンコフ』『弱い心』『正直な泥棒』『クリスマスツリーと結婚式』などの当時の作品にも言及しながら、「謎の下宿人」は何者かをめぐって分析することにより『白夜』の意味に迫りたい。
主な和文参考文献
シクロフスキー『ドストエフスキー論:肯定と否定』水野忠夫訳、勁草書房、1966年
堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』新潮社、1968年
米川正夫『ドストエーフスキイ研究』(『ドストエーフスキイ全集』別巻)河出書房新社、1971年
原卓也・小泉猛編訳『ドストエフスキーとペトラシェフスキー事件』集英社、1971年
ベリチコフ編『ドストエーフスキイ裁判記録』中村健之介編訳、現代思潮社、1971年(北海道大学図書刊行会、1993年)
志水道雄『ペテルブルグの夢想家ーー評伝ドストエフスキイT』中央公論社、1972年ゲルツェン『ロシアにおける革命思想の発達について』金子幸彦訳、岩波文庫、1974
堀田善衛「『白夜』について」『文芸読本ドストエーフスキイ』河出書房新社、1976
青山太郎『ニコライ・ゴーゴリ』河出書房新社、1976年
コマローヴィッチ『ドストエフスキーの青春』中村健之介訳、みすず書房、1978年
中村健之介『ドストエフスキー・作家の誕生』みすず書房、1979年
フーリエ「産業的協同社会的新世界」(『世界の名著』第四二巻)田中正夫訳、中央公論社、1980年
清水孝純『道化の誕生ーードストエフスキーを読む』美神館、1984年
清水正『ドストエーフスキイ初期作品の世界』沖積社、1985年
ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』長瀬隆訳、みすず書房、1989年
釘本秀雄「『白夜』における自我の祝祭」『ドストエーフスキイ広場』第二号、1992杉浦秀一『ロシア自由主義の政治思想』未来社、1999年
法橋和彦『ロシア文学の眺め』新読書社、1999年
高橋「ドストエーフスキイのプーシキン観ーー共生の思想をもとめて」『ドストエーフスキイ広場』創刊号、1991年(ことに第一章「社会正義を求めてーーペトラシェーフスキイ事件まで」参照)
高橋「ドストエーフスキイとグリボエードフーー初期作品をめぐって」『ドストエーフスキイ広場』第2号、1992年(ことに第四節「秘められた自由思想」参照)
高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年(ことに第2章「『大改革』の時代と『大地主義』」参照)
高橋誠一郎氏が最近出された著書です。現在、好評発売中!!
『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』
(高橋誠一郎著、刀水書房、2002年、定価2400円)
ピョートル大帝による急激な「文明開化」を経て「富国強兵」に成功したロシア帝国は、ヨーロッパの大国フランスとの「祖国戦争」に奇跡的に勝ったが、その後「欧化」への反撥から、ロシア独自の「伝統」を強調するニコライ一世治下の「暗黒の30年」が訪れ、クリミア戦争に敗北すると再び「欧化」の流れが強まった。
本書では「支配と服従」や「拝外と排外」の心理に注目しながら、クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時代に書かれた『虐げられた人々』『死の家の記録』『冬に記す夏の印象』および『地下室の手記』などの作品を分析することにより、「非凡人の思想」の危険性と「大地主義」の現代的な意義を明らかにし、日露両国が抱えた「欧化と国粋」の対立という問題の共通性と現代性に迫る。
『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』
(高橋誠一郎著、のべる出版企画、2002年、1900円)
文明の衝突から共生へ
ロシア文学との比較や「福沢史観」との対比をとおして、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『沖縄・先島への道』『菜の花の沖』を読み解き、「司馬史観」に迫る。
テロと戦争の発生の仕組みを「欧化と国粋」の視点で考察した注目の最新刊。
私はこう読んだ『人妻と寝台の下の夫』
前回の読書会作品『人妻と寝台の下の夫』では、作品にたいするアンケート&感想を大勢の皆様からお寄せいただきました。ご協力ありがとうございました。本頁でご紹介します。
◇当時の世相を描こうとした
小菅 茂
最初のとっかかりを読んで、このような感想をもちました。最初の部分であだ名や本名がたくさんでてくるので頭が混乱してしまいました。短編な割りにたくさんの人物が出てくるので理解しにくい点がありますが、それもドストエーフスキイの特徴ではないかと思います。内容は喜劇的な物語だと思いますが、ドストエーフスキイ自身に、やはりそういえ面があったためで、人間には意外な面があるのだという意味でドストエーフスキイらしい。
はじめに出てくる人探しの場面は、ストーカー的な風景で現代的な感じがします。そして二人が不可解な人物に見えるので喜劇的でスリルがあります。
◇腹の探り合いが面白い
風間玲子
紳士と青年の会話に表れる腹の探り合いが面白い。外見は立派、紳士のプライドを自称する主人公だが、いざという時、堂々と相手にぶつかって行けず、浮気な妻に適当にあしらわれているなさけない男に同情をおぼえる。
嫉妬・・・は、この世で最も排他的な情熱であるというが、嫉妬に我を忘れた夫が、間違って跳び込んだ家主夫婦に支離滅裂な釈明をするさまは、喜劇というより寄席の落語を聞くおかしさである。この様な人間はドストエフスキーの小品にしばしば登場する共通の人物像だったことに気づかされた。
◇「嫉妬」がお題のドタバタ喜劇
中谷光宏
■どのように読んだか・・・・・・面白く
■笑いは大作に生かされたか・・・・・生かされた
■ この作品の意味するものは・・・・・・・「嫉妬」がテーマ、と言ってもいいけど、その心理を深く掘り下げ、とかそんな事々しいものではなく、一つ「嫉妬」をお題にドタバタ喜劇を書いてやろう、という若きドストエフスキーの遊び心を感じます。フィッツジェラルドの「残り火」という短篇に、ジェフリー・カーテンなる作中作家の小説を評した、
「そのことごとくを読み終えた後にわかることは、名作と呼ぶべき作品なんてただのひとつもないという歴然たる事実である。暇つぶしの娯楽小説というところ。今となっては少々時代遅れですらある。しかしながら、歯医者の待合室での退屈な三十分を共に過すには確かにうってつけであったはずだ」という文章があるのですが、『人妻と寝台の下の夫』もそんな、名作でも、傑作でもないけど、生活の中のちょっとした無聊を慰めてくれる愛すべきコントだと思いました。
■ ドストエフスキーらしいか……らしい。小さい作品なので、小咄風の対話劇を組み立てる
ドストエフスキーの手際がよく分かる小説だと思いました。ベッドの上と下で、二つの対話劇がパラレルで進行し、最後にその二つの対話劇がぶつかり合ってカーニバル状態となる様は、ドストエフスキーの創作手法の小さな好サンプルだと思います。
■コント芝居として観てみたいか……観てみたい。後半は、勝手に頭の中でイヴァン・アンドレーイチ役はチャップリンで映像化していました。
<印象に残った文章>
「その時々の事情というものは、どうかすると、まるでちがった性格の人間を結び合わすもんですなあ……」
……ドストエフスキーの小説はみな、「まるでちがった性格の人間」同士の出会いから始る。
「お察しでもありましょうが、わたしは相当に人から尊敬されておる人間で、――あなたが考えておられるような人間であるはずがないのです」……体面をひどく気にするドストエフスキーの道化的人物の得意のセリフ。
「まあ、わたしの立場になって見てくださいませんか、お若いの」……「同情」を求める人物の懇願が劇を進行する一つの駆動力となる。
「あなたが心配で心配でたまらないからって、それがぼくの知ったことですか?」……しかし、悲しいかな、他人にとっては彼の切迫した懇願など何の意味も持たない。この滑稽と悲惨が、ドストエフスキーの登場人物たちを永遠に駆り立てる。
「通説に従えば、音楽というものは、楽器の与える印象をどんな人の感じにでも一致させる力があって、そこがいいところだ、とのことである。よろこびをいだいている人は楽音のうちに歓喜を見いだすし、悲しんでいる人は悲しみを発見する。ところで、イヴァン・アンドレーイチの耳の中では、大嵐が吹きまくっていた」……イヴァン・アンドレーイチの耳に聴こえた嫉妬と疑心暗鬼の音楽はどんな烈しいスケルツォだったのでしょうか?
「感情は絶対的なものであり、中でも嫉妬はこの世で最も絶対的な感情である」……語り手によると、人間の感情中最大のものである嫉妬。その嫉妬によって、恋の盲目以上の途轍もない盲目のうちにあるイヴァン・アンドレーイチ。その途轍もない盲目の中で、彼の空想はどれほど烈しく、どれほど奇怪に膨れ上がり、「筆舌に尽くし難い」ドラマとなって展開していたのでしょうか。感情は観念の増幅炉。
「あなた! いったいあなたはごぞんじなんですか、ここではわれわれは対等なんですよ、同じ寝台の下にいるんですからね」……法の下の平等ならぬ、ベッドの下の平等。うまいセリフだと思いました。
「お若いの、きみがわたしに向かって道徳を説教できるわけがない。きみよりわたしのほうが身持ちはいいんですからな」……(笑)
「わたしが学識のある人間で、文学も知っておるということは、おわかりくだすったことと思います」……自分の姿を戯画化されたような気がしました。
「閣下、お笑いくださいますか、愉快でございます、うまく閣下を笑わせて愉快にぞんじます。ああ、閣下を笑わせるなんて、実に嬉しいことです」……誤魔化そうとしていたはずが、いつの間にやら笑わすことの方が目的になってしまっている道化根性。お見事。これもまた自分の姿を戯画化されたような気がして、笑いながらも苦しかったです。
前半より、後半の方が、より一人相撲という感じがよく出ていて、面白かったです。
◇嫉妬は、愛の落とし胤
秋山伸介
【感想】
嫉妬が生じるためには、疑いの裏側に相手を信じたい気持ちが貼り付いていなければならないだろう。ただの疑いだけなら、そこに憎しみはあっても苦悩はない。嫉妬が生じるのはひとえに、愛の力である。愛が強ければ強いほど相手の些細なことにも疑いを抱くが、愛は、その一方で、傷つきやすい自尊心にその根を浸している。つまり、嫉妬には本人でも容易に認知できない愛が刻み込まれているのである。したがって、嫉妬は、愛の落とし胤ともいえる、その不幸な生い立ちのため、みんなから嫌われるのだ。いみじくも、「人妻と寝台の下の夫」の末尾にこう記されてある。「諸君もご異存ないことと思うが、嫉妬はゆるすべからざる感情であるのみならず、なおそのうえ不幸であるのだ!・・・」だが、嫉妬、その日陰育ちの無口さゆえに、かずかずの愛憎の悲劇が生まれる事にもなったのである。なぜなら、おおっぴらに言えない苦しみが妄想に妄想を呼び、嘘の上に嘘を重ねるからである。同時にそこには、汲み尽せない喜劇性も湛えている。自己の秘匿を自ら解明すること、しかも、その奥底には捌け口のない愛のエネルギーが渦巻いているとしたら、その行為はもっともスリリングでエキサイティングな出来事を誘発する条件を備えている。その状況こそ第三者の好奇な目からすれば、願ってもないお笑い種ともなるのである。浮気の現場を抑えようと、こっそり人目を忍んで出かける。この恥ずかしく、いたたまれない行為、だからこそ本人にとっては、命がけの大一番である。内情を悟られないように体面を気にしながら、万事体よく行おうとすればするほど、真剣であればあるほど、より不自然で、予断を許さない事態を呼び込む。相手に悟られまいとして、つい余計な事を言ってしまったり、肝心なことを遠まわしに聞いているうちに本音をこぼしてしまったり、仕出かした過ちを取り繕うとしてますます失敗を繰り返す。そして、赤面の至り。言い間違い、言い迷い、取り消し、戸惑いの連鎖。この愚かしさに加えて、さらに、もうひとり似た境遇のものがいたとしたら、たとえ寝取られ男と寝取った男の組み合わせであっても、その差し迫ったやりとりの喜劇性は、倍どころか相乗的になるだろう。互いの関心は同じなのにもかかわらず、探り合っていくうちにいっそう深まる互いの世界の溝。ひとりの女を目指した二人の男、あるいは三人の男は図らずもまったく別々の世界を観ることとなる。この場所においてはじめて、ドストエフスキーの狙いが見えてくるように思われる。世界の和解、その不可能性は、少なくとも喜劇性において、つまり、意志の失効した場所、言ってしまえば、その無償性において、辛うじて救済の可能性に取って代わり得るのではないか。というのも、二つの笑話がともに、象徴的には女の不条理性(機知や不在)に男たちのそれぞれの世界が飲み込まれる形で、一応の纏まりをつけているからである。
◇コント芝居として観て見たい
濱 なつ
米川正夫訳 河出書房のドストエーフスキイ全集のP274下段10行目の
「ははあ!今度はもうそういうことになったのですか!あなたはお若いが・・・」と青年に洗い熊の紳士が言う個所がありますが、いかにもドストエフスキーらしくてその言いまわしがおもしろいと思った。
やむをえずベッドの下から出て来る事になってしまったイヴァン・アンドレーイチは、余程おもしろおかしく(身振り、表情等)弁明して笑いのうちにどうにか閣下、奥様の前からのがれる事ができたが、普通でしたらこのようにうまくその場をのがれる事はできないように思われる。
アンケートに「コント芝居として観て見たいか」とあるが、閣下、奥様の前で弁明する様子を見てみたい気もする。
ドストエーフスキイ情報
新聞・読売新聞(夕刊)2002年(平成14年)7月22日(月曜日)文化欄
◇アンドレ・グリュックスマンの新著『マンハッタンのドストエフスキー』(翻訳は未刊)
Andre Glucksmann哲学者。1937年、仏・リヨンのユダヤ系ドイツ人家庭に生まれる。ソルジェニーツインの『収容所群島』に衝撃を受け、「思想の首領たち」(77年)でマルクス主義を徹底批判。新哲学の代表的論客
紹介者:海老坂武 (関西学院大学教授・現代フランス文学)
「ニヒリズムとしてのテロ」 現代さまよう「亡霊」2001年9月11日の同時多発テロを分析した本書を海老坂氏はこの
ように解説している。(抜粋)・・(略)・・・テロとは何か、テロはなぜ生ずるのか、テロの思想とは何か・・・『マンハッタンのドストエフスキー』は、こうした一連の問いにアプローチするための思考の素材を提供してくれる。彼はこれまで20世紀における全体主義(ナチズム、コミュニズム)の悪の問題を追求してきたが、この書の中では9月11日の衝撃に立ち戻りながら、テロの悪の問題を歴史の体験の中に位置づけようとする。前半部での彼の考察を大づかみに取り出せば次のようになろうか。
@ 9月11日のテロは都市を標的として、人々をパニックにおとしいれることをねらった破壊のための破壊である。Aしかし、この種の破壊は歴史の中で目新しいものではなく、ナチスの航空隊によるゲルニカやワルシャワの街の破壊、近くはロシアによるグローズヌイ(チェチェンの首都)の破壊という先例がある。B政治的、軍事的目的を持たず、ただ破壊のために破壊する、これはニヒリズムである。Cこうしたニヒリズムを描写し、予見したのがドストエフスキー(『悪霊』)であり、ロシアの作家たち(プーシキン、チェーホフ)であった。ロシア文学の中に描かれたニヒリストがどのようにして2001年のテロリストに通じていくか(略)第一に、テロリズム―ニヒリズムの発生をアジア的後進性とか貧困とかの説明原理に還元するのを著者が拒否し、ニヒリズムは各人の選択である、としていること。第二に、ニヒリストはわれわれの横に、われわれの中にいる、というドストエフスキーの言葉を引き、日常生活の中に住みつくニヒリズムに目を留めていること。(略)
しかし、ニヒリズムは単に個人レヴェルでの選択というだけではない。それはコミュニズムの亡霊が消滅したあとの現代世界につきまとう新たな亡霊である。テロリスト勢力だけでなく、これに対抗する諸国家にもそれは取りついている。国家テロリズムも存在するし、市場原理万能のリベラルな国家体制もまたニヒリズムに犯されている・・・これがグリュックスマンの現代世界の診断であり、私がもっとも興味深く読んだ部分である。
ではどうしてニヒリズムに対抗したらよいのか。ブレーキがかからぬままに暴走する宗教、国家、市場、技術に対抗して私たちは何をなしうるのか、この本の提示する方策はきわめて乏しい。(略)けれども、出された結論が乏しいからといって私は著者を非難することはできない。彼はすでに、全体主義へのたたかいは「ふだんの生活」の中でなされねばならぬことを説いていた。ニヒリズムにたいするたたかいにも小さな注意力、小さな抵抗が求められているのである。(略)不満と言えばたくさんある。(略)しかし、現実の力を前にしたペンの無力を知りながらも、無力感から絶望へと一とびせずに世界の悪をあばき続ける、という一点に踏みとどまっている哲学者の姿勢には共感を覚える。私の思考のサビがすこしだけ落ちたことは確実である。(了)
新聞・新聞(朝日か読売) 1995年頃とみられる。「ニッポン反射鏡」欄
(先の第152回例会の高橋誠一郎氏による「司馬遼太郎のドストエフスキー観」は、その比較研究に対して反発の声が多かった。1866年、ロシアでナポレオンになることを夢みて犯罪を犯す青年の物語が世に出た。その頃、遠く離れた日本では「われはナポレオンになる」そう公言して憚らない若者たちが倒幕運動と称して火付け、押し込み強盗を働いていた。ラスコーリニコフと幕末の志士。司馬遼太郎を世界線上に俎上した高橋氏の試みは無謀だったのか。そして、その研究は孤軍奮闘か。否、何年か前の新聞の切り抜きをながめていたら、ワシントンから寄せられた、こんな雑記を見つけた。)
◇船橋洋一(アメリカ総局長)司馬文学を世界の共有財産に
司馬遼太郎が死んだのは今年のことなのに、もう随分と前のことのような気がする。そう感じるのは、「司馬遼太郎の日本」に思い入れたっぷり込められた日本の夢(ジャパニーズ・ドリーム)と日本の楽天主義が、、戦後で言えば右肩上がりの成長神話と町人国家戦略が、その死より相当前に寿命を終えたことと関係しているかもしれない。いまの日本は、そこに活写される日本と日本人の「健気さ」とも「潔さ」とも無縁の、しまりのない、烏合の衆社会に化けてしまったようだ。司馬遼太郎が「殉死」の中で、乃木希典に日露戦争後の日本の求心力の喪失を嘆かせたように、いまの日本も「底が抜けてしまった」かに見える。かくして司馬遼太郎は早くもノスタルジァの対象である。
司馬遼太郎の死は海外では、まともに論評されなかった。それを報じた記事も素っ気なかった。ニューヨーク・タイムズ紙(2月16日付)は百字ちょっとのAP電を載せただけだった。同紙に載った武満徹の死亡記事が手厚かったのとは対照的である。吉本ばななや村上春樹の人物と作品を特集するニューヨーカー誌が一度として司馬遼太郎にページを割いたことがあっただろうか。それもまた、日本の成長・成功神話の終えんのなせる業なのかもしれない。日本パッシング(頭越し)時代、「司馬遼太郎の日本」への関心が薄らいでもおかしくはない。
それにしても司馬遼太郎をめぐる内外の関心がこうまで違うのをどう考えるべきか。そもそも、司馬遼太郎の作品は海外に紹介されていない。翻訳がほとんどない。このほど、パリのグラン・パレの日本文学特設コーナーをのぞいた。井上靖、梶井基次郎、遠藤周作、野坂昭如、中上健次、西村京太郎ら多くの作家のフランス語翻訳本が展示されていたが、司馬遼太郎は一冊もなかった。生前、司馬遼太郎と親交のあった日本文学者のドナルド・キーン氏(米コロンビア大学名誉教授)は「司馬さんの作品は長過ぎるし、それに余談が多いから、翻訳はかなり難しいでしょう」との意見だ。それでも『鞭靼疾風録』のような作品から翻訳を始めてみてはどうかと言う。
「カギは主人公の人間的魅力でしょう。ただ、司馬さんのすべての作品の中で最も魅力的な主人公は司馬さんその人でしたからねえ」と、ここはキーン氏らしい。司馬遼太郎ほど、近代以降の世界と日本の同時代性の中に、相互の糾(あざな)いを物語として描いた作家はまれである。それを生活の現場において採集した。司馬文学は日本を日本を出来合いの概念や輸入観念の間尺で分析し、裁断するのではなく、生活から絞り出した思想を、それも蒸留水のように取り出した普遍的思想を、断章ごとにちりばめた。
その作品をぜひ、世界の多くの人々に読んでもらいたい。それは近代化となお格闘する多くの社会に共通するテーマに深く追っているからである。日本の成功物語の語り部として、死せる司馬遼太郎を日本の文化大使に任命しようというのではない。司馬遼太郎は「官」の下請けはしない。見上げた、アッパレな日本人の群像を世界中にPRしようなんて冗談じゃない。そんなこと、うまくやればやるほど、いまの日本人との品格の落差ばかりが際立ち、逆効果になること請け合い。
明治の日本の開発モデルとその土台の上に再構築した戦後の日本の発展モデルの精神のエキスを司馬文学を世界に伝えたい?それを言うなら、行政改革と市場解放を進め、日本の国際協力と生活の質を向上させてからだ。日本の普遍的価値を湛える遺産の多くがこれまでそうだったように、海外から「発見」されるのを待つのでは司馬遼太郎に申し訳ない。残された私たちの手で、司馬文学・史学の価値を不断に「発見」し、「再発見」し、それを世界の共有財産にすることが、司馬遼太郎の贈り物に対するせめてものお返しだと思う。
新聞・読売新聞(夕刊)2002年(平成14年)7月8日(月曜日)
※ 編集室判断でドストエーフスキイ情報としました。
◇『ハンセン病文学全集』
文学史の空白を埋める作品群、編集委員の加賀乙彦氏「文壇の無関心猛省、無念晴らす」
(抜粋で紹介)
第1期『ハンセン病文学全集』(皓星社、全十巻)が来月下旬から刊行される。強制隔離という閉ざされた状況で書き継がれた膨大な作品を集成する初の全集は、差別、偏見に苦しみながら言葉を模索してきたハンセン病患者、元患者の魂の訴えと震えを伝え、文学史の空白部分を埋めるシリーズとなりそうだ。(鵜飼 哲夫記者)
収録されるのは小説52編、記録・随筆133編、詩千編、短歌1万首、俳句・川柳1万句や児童作品で1926年以降に発表された作品をできるだけ網羅。編集委員は評論家の鶴見俊輔氏、作家の加賀乙彦氏、詩人の大岡信氏、国際医療福祉大総長の大谷藤郎氏の4人。
小説担当の加賀氏のもとにコピー用紙にして厚さ40cm以上の作品が編集部から送られてきたのは昨年夏だった。北條民雄の『いのちの初夜』など代表作以外はほとんど知らない世界だっただけに、読む前は、「絶望的な状況の文学だろうと予測して、正直に言って、気が重かった」という。予想は半ば当った。名草良作著「生きものの時」は、療養所で規則を破った男が監房に入れられ、飢えの余り相棒となった男の血を吸うという壮絶な内容である。「日本人が書いた小説の中で、もっとも凄惨な作品ではないか」。だが、迫力ある作品群に引き込まれるうちに、「悲惨の極にあってもユーモアを失わず、深いところで人をドキリとさせる文章の力がある作品が多いことに気づいた」。病状が悪化しても、点字化された作品を舌をつかって舌読しながら小説を書き、明るさを失わない書き手がいることも知った。二ヶ月かけてすべてを読み終えた時、足元がぐらついたという。(略)
全集を編む本格的なきっかけは、<眼も鼻も潰え失せたる身の果にしみつきて鳴くはなにの虫ぞも>などの歌を残し、37歳で死去した歌人、明石海人の全集を刊行したときのことだった。海人の初出作品を調べるため療養所に編集者が通い、機関紙などを収集した結果、膨大な作品が埋もれていることがわかった。(略)
各巻4800円。問い合わせは同社(電話03・5306・2088)
『いのちの初夜』の北條民雄は、亡くなる直前までドストエーフスキイを読みつづけた。
ESSY
夢想作家とドストエーフスキイ ―群像7月号「ガードマン哀歌」に想う―
近ごろ文芸雑誌を読まなくなった。べつに他意があってのことではない。老眼で本を読むのが億劫になった。もう文学青年ではないだろう。そんな理由もあるが、実際には、ただなんとなくである。なぜかいつのまに文芸雑誌は、興味の対象外の存在になっていた。
そんな筆者が、群像7月号を買い求めた。新聞の広告欄で、群像7月号の表紙に対談「ドストエフスキーと小林秀雄」の見出しを見つけたからである。なにか久しぶりにドストエーフスキイの名前を見たようで、なつかしく思ったのだ。と、同時に「読書会通信」に使えぬものかと、現実的必要にも駆られて、さっそく駅前の書店に出向いた。
特集は秋山駿と山城むつみの対談だった。夜半、ぱらぱらとめくって拾い読みしていたが、偶然、ひらいたところに「ガードマン哀歌」と題した創作があった。30年も前に「オキナワの少年」で第66回芥川賞を受賞したM・H氏の作品だった。私は、対談記事を忘れて、この作品を読み耽った。マスメデイアの評者にも、この作品に興味を抱いた人がいた。
作家の関川夏央は、新聞の「文芸時評」でこの作家とこの作品についてこう評していた。
―2002年(平成14年)6月26日 水曜日 朝日新聞(夕刊)から―
◇ひさびさ東峰夫が小説を発表した(「ガードマン哀歌」群像7月号)
東峰夫は84年秋、沖縄に妻子を置いて東京に出た。一年間、就寝中の夢を作品化しつづけたが編集者の高評は得られなかった。85年、47歳でガードマンになった。道路工事の脇で車両や通行人を誘導する仕事である。
「あんたギャンブルでもやるのか?それとも酒か?サラ金か」。就職時検診のための千
円がない、そう告げたときの採用係の反応だ。
「じつは自分の仕事は小説家なんです」<ぼく>はオメガの腕時計をはずして見せた。
・・(略)・・・「オキナワの少年」は72年1月、沖縄復帰のその年、李恢成の「砧を打つ女」とともに第66回芥川賞を受けた。記者会見に東峰夫は、脇の破けた作業着姿で出た。当時33歳、彼は日雇い生活者だった。もう沖縄は書きたくなかった。なのに出版社はもとめる。「トルストイを読みすぎて」高校を中退、基地に勤めたがじきにやめた。農業をしながらの晴耕雨読を夢想した。「山之口獏如うし、貧乏文士になゆる心算やあらぬな?」、父親の疑いは図星だった。63年春に集団就職で上京するまでの物語『島へのさようなら』が受賞第一作だった。四年間沈黙ののち、「出版社との妥協の産物」と本人がいう『ちゅらかあぎ』を書いた。・・・(略)・・・92年、復帰20年で新聞の長いインタビューを受け、復帰30年目の今年の小説である。・・・(略)・・・。(抜粋)
「ガードマン哀歌」は、沖縄に浮気妻と二人の子どもを残して逃げるように上京し、ガードマンをしながら小説を書く作家の話である。ほぼ実体験に沿ったものと想像できるから、
いまどき珍しい私小説、葛西善蔵や嘉村磯多らが歩んだ、行き止まりの純文学。そんな印象も受ける。評者の作家関川夏央は、その変わらぬ文体と明るさに「文学とは人を不当に若くとどめるものなのか」と、半ば呆れ気味に評している。
こうした文学的感想ではないが、筆者もまたある感慨と興味をもってこの作品を読んだ。それは一つに、どこかにドストエーフスキイが登場しないものか、またそれと思わせる個所はないものかというものだった。が、残念ながら筆者の読みではそれを感じ取ることができなかった。かわりに二十数年前の、あの日のことが鮮明によみがえっただけだった。
・・あの日、筆者はいつものように作家のM・Hの家を訪ねた。その頃、彼は小さな
一軒屋の貸家に住んでいた。庭にはおしろい花が咲き乱れていた。残暑の日差しが強かったが、サッシ戸は閉め切ってカーテンも引かれたままであった。もうすぐ三時になろうというのに作家は、まだ眠っているようだった。あのことがあってから彼は、夢の中に実生活を求めるようになっていた。一日の大半を寝て過ごし、その間にみた夢をノートに書き綴るという奇妙な行為にとりつかれていた。つまり寝ても覚めても夢うつつ、というわけである。M・Hはなぜ、そんな状態になってしまったのか。彼の特異な性格にもよるが、「あのこと」があってから、いっそうその傾向が強くなった。そんな気がする。「あのこと」についてとは、ここでは紙面の都合により詳しくは省略するが、簡単に言えば同棲していた女性に逃げられたのである。(それも四年ぶりに出版した本の印税の大半を持ち逃げされた格好で)。が、今はドストエーフスキイに関係する話をすることにする。
筆者は、サッシ戸を開けようとしたが、西日が強すぎるので玄関に回った。ドアに鍵はかかっていない。玄関に入るとペンキの臭いが鼻をついた。逃げた彼女が赤色が好きで部屋中、赤く塗ってあったので、彼が白色に塗り直していた。彼女が家具をすべてを持ち去ったので空き家のようだった。
「起きてます?」
私は、閉めきった襖に向かって声をかけた。
ごそごそものおとがしてM・Hが顔をだした。
「きょうは早いね」M・Hは、そう言いつつ手にしていた本をちらっとみせてから、いきなり床の上に投げ出すとおびえたように言った。「こんな本、よく読めるねえ。これこわい本だよ。ぼくにはとても読めないよ」
筆者は困惑するしかなかった。半年ほど前だったか、作家はこの家で同棲をはじめた。で、筆者とも散歩する機会が少なくなったわけだが、(彼女が非常に嫉妬深かったので)ひさしぶりに会ったときドストエーフスキイの会に入ったことをを告げた。
「ドストエーフスキイか。ドストエーフスキイねえ・・・」
M・Hはなぜか不満そうにつぶやいた。
彼はトルストイを愛読書にしていた。それであまりいい気がしなかったのかもしれない。ほかに、そういった文学サークルに入ったのも気に入らなかったのかも知れない。彼は上京したころ、「首都文芸」という集りに顔をだしたことがある、と言った。アパートの狭い部屋の中で大勢の若者が議論していた。真ん中にでんと座って大声で怒鳴っている若者が怖くて、行かなくなったという。あとで、知るところによると、一人威張っていたのは中上健次らしいとのことだ。そんな経験があるので、文学関係の集りには批判的だった。
「そうですか・・・」
とまどう筆者に、彼はもうドストエーフスキイなんぞ知らないというように
「コーヒーを飲みにゆこうや」と、誘った。
「はあ」筆者は曖昧に頷いて、いつものように肩を並べてに街に出て行った。
そのあとM・Hとドストエーフスキイの話をした記憶はない。ほどなくして、筆者はM・Hには、何も告げずにその町から引っ越した。突然の内緒の出奔は、どこか南の島の無人島で、みんなで共同生活することを夢みていた彼にはショックだったかも知れない。
その後のM・Hの生活は、メディアを通じて断片的に知った。相変わらず夢をメモっていること。混血の美人モデルと結婚したこと、そして沖縄に帰ったこと。故郷での平和な暮らし。ところがある日、「名作の旅」というテレビ番組で彼が東京近郊にいると知った。しばらく後に、彼は二人の子どもと妻を残して、沖縄から逃げ帰ってきたことを知った。なぜか、なぜ家族を捨ててと、そんな疑問と同時に、その後、ドストエーフスキイを読んだろうか、そんな興味がわく。そうして、その一方で、かっての青春のときのように生きる彼を心のどこかで羨ましく思ったりするのである。(編集室)
掲示板
スターラヤ・ルッサ研究集会
5月23日〜26日にロシアのスターラヤ・ルッサで開催されたドストエフスキー究集会に、日本から木下豊房氏と東大院生・小林銀河氏が参加しました。
この記事はインターネットで見ることが出来ます。下記アドレス、または検索エンジンサイトから「成文社」で検索して御覧ください。
http://www.seibunsha.net/essay/essay47.html
ドストエーフスキイの会・講演
ドストエーフスキイの会は、今秋(11月)に講演を予定しています。
講演者は作家の川又一英氏。具体的な日時・会場については、「ニュースレター55」と、次の「読書会通信75」でお知らせします。
新刊紹介
『悪霊論 ―自我の崩壊過程―』
藤倉孝純著 2002年7月10日 作品社より刊行 定価2800円46版320頁
『悪霊』には、様々な興味ある人物が登場する。が、本論ではニコライ・スタヴローギンに焦点をあてている。1870年代の知識人にニーチェのニヒリズムを先取りする究極のニヒリスト、スタヴローギンを見、その栄光と挫折の謎に迫る。完全なるカリスマの自我は、なぜ崩壊していったのか。長年、『悪霊』を論じてきた著者が、新たな視点で照射する。
『ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望』
木下豊房編 (欧文)、モスクワ発行、定価3500円
2000年8月、千葉大学での国際ドストエフスキー研究集会の報告論集「ドストエフスキーの眼で見る21世紀人類の展望」がこのほどモスクワで刊行された。オリジナルが英、独語の論文もロシア語訳付きで、40本の論文が収録されている。付録に会議のプログラム。560頁、3500円。興味のある方は木下氏までご連絡ください。
『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』
高橋誠一郎著 のべる出版企画、定価1900円(7月30日発売)
「文明の衝突から共生へ」 ロシア文学との比較や「福沢史観」との対比をとおして、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『沖縄・先島への道』、『菜の花の沖』を読み解き、「司馬史観」に迫る。テロと戦争の発生の仕組みを「欧化と国粋」の視点で考察。
『ドストエフスキーその対話的世界』
木下豊房著 成文社 定価3600円
永遠の文学、その核心の探求。そして、その受容と変容、現状と未来への的を得た解説。ロシア文豪を永年にわたって追い続けてきた、著者ならではの成果。それは、國際化する文豪研究への参加、文豪ゆかりの地への訪問など、文字通りドストエフスキーへの旅の成果でもある。
『神と科学と無』
森 和郎著 鳥影社 定価(本体2500円) 2002年2月3日
<ヨーロッパ哲学を検死する>
精紳の独立宣言 ヨーロッパ的思考の呪縛を解かずに混迷からの脱出はありえない。
それでも、私はドストエフスキーの口吻を借りて、ひとつ悪態をついてみたい。
「僕はでたらめを言うことだって、自分の知恵じやできないんですよ!・・・自分一流のでたらめを言うのは、人真似で一つ覚えの真理を語るより、ほとんどましなくらいです。(『罪と罰』ラズミーヒン)」
『緑色のカーテン―ドストエフスキイの「白痴」とラファエッロ』
冨岡道子著 未来社、定価2500円
「長編小説『白痴』は、どのように構想され熟していったのか。深い洞察力、息を呑む展開、物語のクライマックスへ誘う<一枚の絵>。<緑>をキーワードにスリリングに解き明かす『白痴』の謎。出色の『白痴』論。
『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』
高橋誠一郎著 刀水書房 本体2400円
「文明の衝突」はなぜ起きるのか。「祖国戦争」でナポレオンに勝利したロシアは半世紀後にクリミア戦争に敗北して「欧化」の波と直面し、明治維新で近代化を行い日露戦争に勝利した日本もほぼ同じ道をたどった。「欧化と国粋」の対立の克服を目指したドストエフスキーと福沢諭吉、中江兆民、夏目漱石の文明観を比較して、日露の「文明開化」の類似性を明らかにし、「国民国家」史観の問題に迫る。
編集室便り
皆さんからカンパいただきました。お礼申し上げます。
8月10日(土)の読書会・講演でお泊まりになりたい方に、近くの「池袋センターシテイホテル」をおすすめします。朝食(バイキング)付1万円程度。詳しくは電話などでご確認ください。03-3985-1311
6月23日に日本テレビで放映された柔道場「おんぼろ道場再建」番組では、大勢の皆様から励ましのお電話をいただきました。この場をお借りして厚くお礼申し上げます。
第8回椋鳩十記念 伊那谷童話大賞で、このほど下原の「山脈(やまなみ)はるかに」(240枚)が特別賞に内定しました。お礼申し上げます。(8月中旬発表)
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