ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.71増刊 発行:2002.2.10


2002年新春増刊号

・ドストエーフスキイ作品唯一の詩篇
・オイディプスの憂欝―プロ棋士森安九段殺人事件から○△□の謎―




 第150回例会で報告者の福井勝也氏が新谷敬三郎先生の詩を朗読した。この折り、思い浮かんだのが、ドストエーフスキイ作品唯一の詩篇である。以下は、その一節である。


1854年のヨーロッパ事件に※


世界の不幸はそもそも、何からはじまったのか?
だれが悪いのだ、だれがまず一番にはじめたのだ?
きみがたは賢い人たち、それはだれでも知っている。
しかし、きみがたの評判は、だんだんわるくなっていく!
いっそ自分の家にいて
わが家のことをしたほうが、よいではないか!
われわれは、何も分け合うことはなく
空の下には、みんなの居場所も多いではないか。
なおその上に、何もかもいってしまうとすれば
フランス人を引合いにして、ロシア人を脅すのは、
おかしいではないか!
                
ロシアの国は、どんな不幸でも知っている!
ロシアには、諸君の知らないことが起っている。                  
ダツタン人の足もとに踏みつけられたが           
ダッタン人のほうがかえって、ロシアの足もとで           
われに返った。           
それからこのかた、ロシアは大した進歩をした!
諸君と比べてさえも、背比くらべができなくなった。
外国の背丈さえ抜いたから
諸君は昔話の豪傑と、競争するのと同じこと!
もし首筋の骨をたがえるのが、怖くなければ
いまわれわれを眺めてみたまえ!           


 流刑中のドストエーフスキイは、一日も早く帰還し創作活動するには愛国的な詩を皇帝にデディケートするのが最良と考え、この詩をつくった。が、実行されず、この詩が初めて活字になったのは1883年の『グラジダニン』誌上である。
※「1854年の事件」クルミヤ戦争のこと





 ダンボール箱の底からでてきたものである。10年近く前、ある講演の感想として書いたもので、本来なら再び箱の底に眠るところであった。が、「三作とも『家族小説』時代反映」(朝日)という芥川賞・直木賞評をきいて、当時の家族考として掲載することにした。と、いうのも、この拙文も現代の家族に関して論じたものだからである。尚、講演部分は一部省略します。(編集室)


 オイディプスの憂欝 ―プロ棋士森安九段殺人事件から○△□の謎―

 少年が父親を殺す。こんな衝撃的事件も昨今、そう驚かなくなった。平成5年11月22日、東京では平年より十五日遅い木枯らし言が吹いた0速くヨーロッパからも猛烈寒波(パリ最低マイナス六度)来襲の報を聞く。このうそ寒い夜、関西のある町、閑静な住宅街にある一軒の民家。その家の二階の一室に一人の父親がうつぶせに倒れていた。掛け布団を頭からすっぽりかぶった、その姿は、あたかも酔い潰れた父親が、やっと辿り着いた我が家の畳の上で眠りこけているようでもあった。たいていの家庭で見かける、父親のだらしなくも微笑ましい光景だった。階下では妻君と娘と息子三人が母子水入らずの楽しい夕食のひとときを過ごしていた。中三の娘は寮暮らしで、たまの帰宅である。厳格な父抜きの食卓。気楽なおしやべりと屈託のない笑い。その談笑は二階の書斎にも伝わっているはず。だがなぜか父親はようとして起きあがらなかった。布団の下の体はビクとも動かなかった。傍らに転がる酒ビンにのびたままの手、次の一手を思案するようなうつろな、しかし見開いた瞳。もの言いたげな唇。説教か自慢話の最中に眠ってしまったかのようだ。が、よく見ると、その表情はまるでスフィンクスの謎解けぬ旅人のようでもあった。父親は骸と化していた。
 昨年、兵庫県西宮で起きた「プロ棋士森安九段刺殺事件」の新聞記事を想像するとこんな現場風景が浮かんでくる。休日の日本列島に衝撃を走らせた事件だった。現在までのところ事件発覚直後マスコミが一斉に報じた、この家の中1長男の犯行説に間違心なさそうである。(本人は否定しているらしいが)。またしても起きた少年の父親殺しである。動機は、要因は何だったのか。未だ、確たる真相はあきらかになっていない。
振り返るにおそらく、この事件は、日本の多くの家庭の食卓の話題になったに違いない。同年齢の子供がいる家族は「明日は我が家」と震撼したかも。
 あれから半年が過ぎた。いま冷静に事件を振りかえると少し通づつ何かが見えてきたような気がする。一つには、この事件の衝撃の大きさは少年が父親を殺害した、という事件だったからではなく、殺害された父親が一時は将棋界をリードしたプロ棋士九段という著名人だったからに他ならないような気がする。著名人が故に、テレビ、週刊誌、新聞が大々的に取り上げたのだ、と。有名人+教育問題+犯罪事件と揃えば、当然ともいえる成り行きだったかも。これが普通の家庭の少年による父親殺しだったら、マスコミはああも話題にしなかっただろうし、世間も注目しなかったろう。その証拠に近いところでは平成二年山梨で起きた浪人生による両親刺殺事件、昭和六十三年東京目黒で起きた中二による両親と祖父三人の殺害事件と度々あるが、すでに忘れ去られている。
 少年による父親殺しは十三年前、昭和五十五年の金属バットをセンセーショナルなものにした予備校生による東大卒の父親殺人事件以来、そう意外なものでもなくなっている。
 だから今回、この事件が世間の注目を集めテレビの週間ワイドショーランキングのトップにまでなっのは、父親殺しというショッキングな犯罪より教育熱心の有名人一家の悲劇といった芸能性からだと思う。くどいようだが、今日、少年の家庭内事件はニュース的にみて、それほど価値あるものでなくなっている。現に同日起きた事件 「韓国人武装スリ団逮捕」 の記事を一面に組む新聞はあってもこの 「父殺し」を一面にする新聞 (朝日、読売に限ってだが)がなかったことをみれば領けるというもの。ようするに、この今回の事件は被害者からプロ棋士という地位を差っ引けば、たんなる家庭内犯罪として小さく取り扱われるゴミ記事に過ぎなかった。同日夜、広島で幼い我が子をせっかん死させた父親の記事や同月二十六日札幌で主婦が「母親らしくない」といって肉親と中一長男に殴られ死亡した異常な事件記事を見ればあきらかだ。もはや今日においては、被害者加害者に相当な話題性がなければ、冒頭で述べた通り、親殺し或いは子殺し事件は、驚くに値しない事件なのである。アメリカの銃事件と同じように平凡な日常的な一事件一風景となっている。
 だが、今回の事件であらためて昨今頻繁に起きるこうした家庭内事件を考えたとき、そこにはただの一過性の犯罪とは違う、人間社会や未来世界にとって極めて重大な問題が潜んでいることに気づかされる。前述の想像場面−平和な家庭の書斎の床の上に冷たい骸となって横たわる父親。父親はなぜ死んだのか。なぜ殺されなければならなかったのか。
 「父殺し」この謎を解く鍵を、フロイトは潜在意識に見つけエディプス・コンプレックスと名付け分析した。母の愛を手に入れるための本能的心理。父親を越えたい−たいていの男は少年期に、そんな願望を抱くといわれる。余談だが、あるテレビのアナウシサーは自分の給料が父親以上になったとき父親を越えたと自慢していたが、その解釈には誤りがある。エディプスの意識は少年期にしか芽生えないものであるから後に、息子が、いくら偉大になったとしても消えることはない。息子は永遠に父親を越えることができないのである。父と息子、消すことも消えることもない対立。清水正著『宮沢賢治とドストエフスキー』はその永遠のテーマに鋭く迫った論評である。森安九段の息子はジョバンニのように銀河鉄道に乗車できたのだろうか。一夜を河原で明かした後、ゲームソフト店に現われ逮捕された。
 さて、今日起きている父殺しが、そうした潜在意識の突出したあらわれとみた場合、一つの疑問が浮かんでくる。金属バット事件でも、目黒の事件もそうであったが、父親ばかりか母親までが亡きものにされている。なぜ現代のオイディプスたちは父ばかりか母親までをも殺傷するのか。やさしかった母親をついでに殴り殺した一柳展也。「ぼくの逃げ場がないんや」と叫んでいきなり包丁で母親を切りつけた今回の「森安九段殺害事件」。父殺しの現場には必ず傷ついたり死体となった母親の姿がある。そこに解けぬ謎がある。
 奪いとるはずの愛、母をも殺傷してしまう。いったい現代のオイディプスたちは何の目的のためにそんな凶行に走るのか。この疑問に答える一つの論評がある。それは、かって川崎の金属バット事件にあの寺山修司が「もはや、強大な父親などは神話の語り草になってしまったのだ。・・・・・父親を中心とした家族の三角形(ドウルーズ)の構造自体が崩壊している−という現実に気づかなかった展也君の貧困の中にあった。」(「朝日ジャーナル」昭和五十五年十二月十九日号)と評したものだ。このなかで寺山はこの世の親を戦慄させたこの殺人事件を「神話」の失敗とし、「〃家族の三角形〃の幻想についての、徹底的なる検証だけが、次の事件をふせぐ鍵になるのではないか。」と締め括った。確かに、その後この事件は徹底的に検証はされたようだ。金属バットが同事件の代名詞になるほどに――にもかわらず同類の事件は今も後を断たない。なぜか・・・・・・・。
 ある意味で、寺山の「父親なきエディプス」論は現在の家族像を予見するものだったのかも知れない。が、そこには大きな見落としと誤りがある。彼は事件の原因を「父親を中心とした家族の三角形の崩壊」にあると推論したが、では崩壊の後に何があるのか、その先の家族像をよむことができなかった。「崩壊」としてしまったところに彼の間違いがある。家族は無くなってしまったわけではない。この世界がつづく限りたいていの生物に家族構造は現存するのだ。故に、「崩壊」ではなく「変形した」と、みるべきであった。つまり「家族の三角形の変形」によって起きた事件であると。また大きな誤りとしては「変形した家族像」に気づかなかったのは「展也君の貧困の中にあった」のではなく父親の無知にあったのではないだろうか。今回の事件も息子の無知というより森安九段の無知とみた方が理解し易い。
それでは変形した家族像とは何か。この謎が解けぬ限り、どんなに事件を検証しても論評しても今後も平和な家庭の床に次々と父親や母親の死体が転がっていくことになる。
怪物スインクスが現代人にささやく謎とは。私の耳にはこんなふうに聞こえる
「はじめは丸かった。次に三角形になり、そして四角形になったものは何か ?」
 O→△→□=? 森安九段はこの謎掛けが解けぬが故にスインクスの餌食となった。また息子もこの謎が解けぬが故に父だけではなく母親までも傷つけなければならなかった。こう推理したとき事件の全貌が見えてくる気がする。では、この丸、三角、四角とは何か。
 この謎を考えたとき私は偶然にも、ある講演から、それを解く手がかりを得た。平成五年十一月二十五日、私は朝刊の「森安九段の長男保護」の見出しにほつとしながらも、同じ年頃の子供を持つ親として複雑な思いで幕張メツセの会場で開かれたPTAのある研究集会に出席した。午前中は講演だった。講師は某短期大学助教授I氏。演題は「国際家族年を迎えて」だったが私はあまり期待しなかった。はつきり言って近ごろ流行の「国際化」には反対である。今の日本社会はほとんど扇動によって流れているに過ぎないような気がするからだ。誰か一人がもっともらしい事を言い出せば、その言はたちまちのうちに勢いを得て形となってあらわれてくるのだ。例えば、どこかの中学で一人の子供か親が、丸刈りが嫌だと訴えれば、その言葉は翌日には新聞に、夕方にはテレビのアナウサーが、鰭二様に「個性のない教育」などと騒ぎたて、果ては文部大臣の「ぞっとする」発言にまでなる。すると、それまで揺るぎのなかった堅固な校則が、まるで魔法が解かれたように、何の努力も解放のための戦いもなしに、一夜のうちに略落し、砂塵と化してしまうのだ。与えられた自由、労せずして手に入れた自由が、子供たちにどんな影響を与えるのか。正しいことが、正しく反映されるとは限らないのが人間の常である。
 話が横道に逸れるがついでに述べておこう。今のままの何の用意もなしの国際化の果てはどうなるのか。混乱の現ロシア、悲惨な元ユーゴ、腐敗しきったアメリカがいい見本だ。安易な国際化は、よりいっそうの差別と憎しみを招くだけだ。今だ一部の学識ある日本人は何かというとすぐに欧米諸国はこうなっていると誇らしげに宣言するが、今日、人間社会の調和を保つうえに手本となるような国はどこにもない。日本自身が考えねばならないのだ。国際化とは、たんにアメリカ型社会になることだとしたら日本に未来はない。
 だから、「国際家族年を迎えて」の演題に対して「家庭問題すら解決できないのに何が国
際家族年か」と、揶揄したい気持ちだった。ところが、講演内容は「国際化」といった浮ついた言葉の響きから受ける印象とはほど遠いものだった。「家族の概念を越えた家族」がその主題であった。現在の家族像とは何か。変化した両親像。青少年の実態は−などである。講師は私事やN H K朝のドラマ「かりん」などを引き合いに、ときにはユーモアをまじえながら端境期にある現代の家族像を鋭くついた。それらは、すべて父親として身につまされるものばかりだった。同時に、森安九段はなぜ死ななければならなかったか。なぜ殺されてしまったか。そして、母親はなぜ刺されたのか。それらの謎が、徐々に解けてくるような気がした。では、どんなところからか ――― 説明するより直接に講演内容の主なところを紹介した方がよさそうだ。以下、講演から抜粋してみた。
 まず講師は演題について、「国際何何年」とは1990年の「識字年」から始まった旨を説明した。国連調査なくせ」この運動、では15歳以上の世界の識字率は四人に一人が文盲とのこと。「文盲をロンドンではポスターがみられたが識字率ほぼ百パーセントの日本では
殆ど関心がもたれなかったらしい。と、いうことは同じように来年、1994年の「国際家族年」もたいして注目されないのではと危惧しても当然である。が、あえて演題に取り上げたのは国際というよりもっと基本的なもの、社会を形成する個々の家族、それ自体に照準を絞ったもので、要約すれば家族の現状と未来家族の在り方を訴えた話といってよい。
 今日、家族機能の低下は著しい。急激な経済発展の中で一番その煽りをくう者は老人、子供、障害者である。バラバラになった家族に、彼らをケアする余裕はない。講師は朝の慌ただしい朝食の場を例にあげた。すれすれの生活はストレスの蓄積となり、やがてそれが限界に達したとき不幸な出来事となって今回の殺人事件のようにあらわれるという。家族の崩壊は社会の混乱に繋がり果ては世界の危機を招くことになる。とすればこの演題にも領ける。
 家族は世界の調和にとって最も重要な礎である。それが、「家族の概念を越えた家族」の出現によって現代社会は不安定なものになっている、という。ひところ、ニューファミリーという言葉を聞いたが、そもそも昔からある元の家族というものは、どんなものか。その点につてい講師は従来の父親の役割を四つあげ新旧のズレを指摘した。その役割とズレとは
@ 経済を支えることで実権を得ていた。だが、母親も働きにでたことによって、その地位も危うくなった。
A 政治、経済、事件など社会の動静を話せる唯一人の人間だった。だが、現代ではテレビのチャンネルを回せるものが世の中の出来事について誰よりも詳しくなっている。
B 昔は家の代表者として地域社会にとけこんでいた。家と仕事場が離れたことで地域の行事に参加できなくなった。何をするにも母親を介してでないとわからなくなっている。
C 家庭行事の主催者だった。父親の号令ではじまった。だが、帰宅が遅いことから父親なしでも、はじめられることが多くなった。
 ここから何が見えてくるかというと主席から末席に転落した父親像である。いまや家族形態は多様に変化してしまったのだ。この現実をしっかりと捉えることができないと、どうなるのか。世界的視野でみれば、家庭不和、犯罪、非行、麻薬、アルコール中毒といった悲劇
の続発、増加である。故に「家族問題は国際的に問題にしなくてはならない」のである。
 森安家の父親像はこのうちの何が足らなかったのだろうか。また森安九段自身、この中で何を認識していなかったのか。親たちの家庭基盤の見直しが、悲劇を防ぐ一歩だという。
 ところで、先に講師がNHKの朝のドラマのことを引き合いに出したことを述べたが、ど
んな理由からといえば、高校進学の変化を説明するためであった。あのドラマの時代、昭和23年は高校が発足した年で、同世代の二、三割が行っていたに過ぎない。それが25年今の六三制ができた年には42・5%あとはうなぎ登りに上がって今日では95%の子供が進学するまでになった。こうした状況下における 「現代の青少年の特徴」とは何か。親は取り巻く環境の変化を認識すると共に、子供の実態をも知り得ていなければならないのだ。講師は現代青少年がもつ特徴を八つあげ、そこに生ずる欠点を指摘した。
@ 豊かな社会で成長した。代償として自立と忍耐の欠如。
A 都市化の中で育った子供。それは生活の均一化し日本中どこにいっても同じにした。 その結果、人間関係の希薄、淡さ。一緒に遊ばなくなった。「群れない子供たち」と表現。
B 情報化社会の子供たち。テレビの発達。昭和四十年代以降から電話の普及。この結果、子供が受け身になる。親にとって子育てが難しくなる。
C 子供の数が少ない。これがどんな弊害をもたらすか説明するのに、その反対例として大
正9年の女の一生をあげた。この時代の女性は21で結婚、23・5歳で第一子を生み40歳で第五子を生む。子育て30年のあと、51で初孫、五57で夫が亡くなり、61で生涯を閉じる−となる。この中では一子が五子の面倒をみる。こうした家族関係からは「思いやりが生まれる」。これに反して核家族では「異なる世代の思いやり」精神を育てることができない。(1)家庭で高齢者教育のなし。(2)成人の層が物心ともに老人になる準備ができていない。これこそが現代日本が抱える本当の問題だという。
D 働かない子供たち。これについて講師は身近な実例をあげた。授業中、教師を間違って「店長」とか「マスター」と呼ぶ学生は、自分たちは立派にファーストフード店で働いているというのだ。講師の言う働くの意味は家の中での役割分担がちゃんとできているか、ということである。家族の一員として家の手伝いをすることは大人になる準備でもあるというのだ。家庭で働かない子供は生活体験がない。キャンプに行ったとき一人の学生に大根おろしを頼んだら、台の上から下におろしてあつたという笑い話を披露した。現代の日本の青少年に欠けているものは(1)有能感のなさ。自分が役に立っているという気持ち。(2)自信のなさ。自己評価のなさ、である。という。
E 学力評価の中での成長した子供。日本の家庭では子供を褒める基準として勉強ができる、できないに偏重し過ぎる。真の評価は、学力ではない。その子供が持つ、取り柄、持ち味、良さといった人間としての人柄である。
F 国際化の中に直面している子供。異なるものへの寛容さがない。
G 居心地のよい家庭に育っている子供。ホテル型子供が増えている。食事付、小遭い付き身の回りの世話付き。勉強さえできれば子供にとって家庭は天国。
 中三の姉は寮生活、中一の息子は有名中学といった森安家の子供たち。彼らにこれら八つの特徴のうち、どれとどれがあてはまるのか。またそこにはどれだけの変化を認識しない父親像と相反するものがあるのか・・・さらなる考察が必要である。
 ともあれ棋士森安九段殺人事件の謎を解くために、講演内容を抜粋してみたが、これまで
にあげた現代の父親像、子供像からいくつかのヒントを得ることができる。だが、事件の奥に潜む真の原因を探るにはこの分析だけでは見えてこない。時代の変化の中で桔抗する親子の環境、つまり現代の家庭にも目を向ける必要がある。そこで現代の「家庭とは何か」ということになるが、講師はその定義を五つあげて説明した。
@ ホームベースとしての家庭(祖父母→父→子)がなくなった。異なる世代がいない。伝えの文化の衰退である。このことによって、家族関係の希薄。よく言われる話では、父親との会話は一日のうち三秒「おきろ」「飯し」「寝ろ」だけ。こうした家庭では父親と母親の役割分担が接近している。「パートナー型両親像」の出現である。この型は子供にとって両極の働きがあるという。プラス面は女の子にとてもいい影響を及ぼす。明るい家庭ができあがる。反対に男の子にとってはマイナス面で、乗り越えるものをなくす。「強いシェパードは囲い骨をかじらないと強くなれない」自立心や我慢強さがなくなる。
A 閉鎖的で無競争。核家族で競争の必要がない。一見、争いのない家庭。
B 初期学習の機能がない。マニュアルに頼ることになる。
C 緊張緩和の場がない。まさに「ぼくの逃げ場がない」と、叫んだ森安家長男の声が象徴
している。
D 教育機能をもたない家庭。ここには過保撃しつけの甘さ、責任のなすりあいがある。
折よく、平成5年11月29日文部省は登校拒否の実態を明らかにしたが、その原因について学校、家庭、本人が互いに責任転嫁しあっている。なぜ、三者は自己を見つめようとしないのか。教育機能の欠如は、もはや家庭ばかりではなく学校、本人にも及んでいる。
 少々、講演内容の紹介と解説が長くなったが、以上の話から、今日、起こる両親殺傷事件の謎がいくらか解けてきたのではないかと思う。三角形の家族像は崩壊したのではなく、「家族の概念を越えた家族」に変形したことがわかる。ここに現代のオイディプスたちの憂欝がある。はるかギリシャ神話の時代、父王を殺したオイディプスは母の愛を勝ち得た。だが、現代には越えるべき父親像も奪うべき母親像も見えてこない。パートナー型両親像の前に彼らは戸惑うばかりである。かくして父親と同時に母親殺傷事件も起きてくるのである。

 ここで話を「森安九段殺人事件及び母親傷害事件」に戻そう。ダルマ流の異名を持つ叩き上げのプロ棋士の家庭。そこから受ける印象は、父親を中心とした立派な三角形の家庭である。その家で悲惨な事件が起きた。マスコミならずとも「なぜ」と興味を抱くところだ。
 森安家の家族構成は夫婦と中3の長女と中1長男の四人家族である。しかし、長女は―
有名中学の寮住まいであるから、実質的には三人家族ということになる。そして、長男も屈指の進学塾に通い地元の小学校からわざわざ神戸市内の有名中学に入学した、いわゆる典型的な教育一家だった。新聞報道によれば母親がかなりの教育熱心だったというから、まさに「家族の概念を越えた家族」。三角形どころかとっくに変形した家族像が森安家の実態だった。森安九段はその変形した家族像をどの程度、認識していたのだろう。おそらく、世の大半の父親同様、ほとんど気がついていなかったのでは。仲間内では「陽気な性格で誰からも親しまれていた」。が、彼に将棋を教えた八十三歳の父親は「わしに似て気が短かった」という。森安九段は経済基盤の源(合わせて著名なプロ棋士の地位)だけを自信に、森安家の三角形の家族像を信じきっていたのかも。だが、こうして事件が起きてしまうと、そこに見えるのは裸の王様。時代遅れの悲しき父親の姿である・
 その父親が欠席がちになった長男を「きつい口調でしかっていた」という。よく子供を叱るのに「子供の気持ちを考えて」だの「理解して」だのという評論家や教育者がいる。臨場感のないバカげた正論だ。たいていの親は子供を叱るのにそんなことは考えていない。ただ腹が立った時、瞬間的に怒るだけである。「概念を越えた家族」を認識しない父親が、ただガミガミ叱るだけなら、たんに「頭の固い親父が何言ってるか」で済む。だが、その叱りが父親自身の怒りではなく、母親の代弁者としての叱りだったらどうだろうか。「偉そうに怒鳴ってるけど、結局は母親の命令でやってるだけじゃないか」ということになる。少年は小学校高学年になると言葉づかいが乱暴になったというが、恐らく、それは反抗期というより、父親の注意や説教がなんであるか見透かしていたからではないだろうか。
母親の証言では欠席が「改まらないので学校に相談しょうと思っていた矢先」というから母親に指示された父親は、いつもとは違った叱り方、習性で詰め将棋を詰めるように追い詰めていたのかも知れない。プロ棋士に詰められたのではたまらない。それゆえ「ぼく逃げ場がない」「ぼくの立場がない」の叫びになった。
 父親が死んだ後の、家族の行動は奇妙だ。少年は平然と父親は「ポストにカギが入っていたので、外出したのではないか」と答え、母親は何の連絡もない父親をたいして探そうともしなかった。森安九段は家に上がる毎に履物を下駄箱に入れるのであろうか。外出したか否かの判断は、大抵まず履物を調べるものだが。突然、理由もなく留守にすることが、この家では日常化していたとしか思えない。この不可解なところが、やはり概念を越えた変形家族の所以であろうか。講演の項目に照らし合わせてみれば領けなくもない。
 少年の心はどうだったのか。オイディプスなら、さあ母を奪いに行こうということになるのだが、その母も越えねばならぬ高さにいるのだ。その夜、少年はずっと憂欝だったに違いない。木枯らし吹く長い夜を何を考え過ごしたのか。講演の「現代青少年の特徴」を踏まえてみると少年の心の内側がみえてくる。少年は後悔に震えていたわけでも、悲しみに打ちひしがれていたのでもない。少年が何を考えていたか。母親を包丁で傷つけたとき「パパが死んだのは僕のせいじやない。学校を休んだことで、がちゃがちや言うからこんな事になったんや」と口走った言葉がすべてを物語っている。単純なことだが、少年は叱られたことに腹立てたのだ。家庭は形だけは三角形を成していたが、とっくに崩壊していたのである。少年には越えるべき父親も奪うべき母親もいなかった。したがって少年は母親を傷つけるのにもいささかの躊躇もいらなかった。父親も母親も息子も一人の権力者として一つの共同体の中で対峙しあっていたから。勢力図を張って主権を狙って反目しあっていたからである。
 ここまでくれば○、△、□、の謎はそろそろ解けてきたと思う。四本足、二本足、そして三本足になる動物は人間なら、○、△、そして□となるものは家族である。原始の時代の家族は○かった。一族は火を囲んで暮らしていた。やがて父親が権力を持ち、三角形の構造になった。そして、現代、父親の力が急速に衰え、代って母親の力が浮上した。つづいてその子供たちの力も。かくて、家族は頂点のいない□形状態になった。森安九段はこの事態に気がついていなかっただけだが、これは何も棋士が一人疎かったからではない。たいていの家庭の父親も見えてはいない。相変わらず裸の王様で君臨しているのである。現代のスフィンクスは、その実態にほくそ笑みながら謎かけをつづけている。「はじめは丸で、次に三角、そして今四角、なものは何」と。
 とまれ、棋士殺人事件は世の親たちに家族の実態を知らしめることになった。が、はたしてそれに気がついた父親母親はどれほどだろうか。     (完)