ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信  No.70  発行:2001.11.30



次回(12月)読書会のお知らせ


12月読書会は下記の要領で開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 月 日 : 2001年12月8日(土)
 
 時 間 : 午後6時00分〜9時(忘年会の為早目に終わります)
            
 場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分)
       .03-5391-2111
 報告者 : フリートーク(自由報告)

 作 品 : 「ペテルブルグ年代記」(補遺含む)
        (ドストエーフスキイ全集19、20「論文・記録」上下に収録)
 会 費 : 1000円(学生500円)

 ※ 主に米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集』をテキストにしています。

 ◎ 読書会終了後は忘年会(二次会)を予定しています。

 時 間 : 〜 11時頃迄
 会 費 : 3〜4千円





12月8日(土)読書会


『ペテルブルグ年代記』について

 この雑記は、1847年四月〜6月に若きドストエーフスキイが、たつきの代----つまり生活をささえる手段として「サンクト・ペテルブルグ報知」に連載したもの----いわゆるフェイエトンである。この雑記について、訳者米川正夫は「ドストエーフスキイ研究」のなかでこのように解説している。(抜粋)

 彼は自分をペテルブルグの漫歩者という地位に置いて、途上光景を描いたり、書物の読後感を述べたり、芝居や音楽会の印象を語りなどして、皮肉な観察と文学的思索とを交錯させた『ペテルブルグ年代記』を連載しはじめた。それまで雑録というものは、市井のニュースの寄せ集めで、それに気の利いた洒落で味つけしたもの、というふうに思われていたが、ドストエーフスキイが手を触れると、抒情詩的な告白といったようなものになったのである。
 『ペテルブルグ年代記』は『作家の日記』の先駆であると同時に、筆者の内部経験を芸術的に具現化せんとする最初の試みでもあった。この中に雑然と混入されている。思想や感動は、そのころ書かれた中短編の内容をなしたものである。その中の幾節かは、『白夜』『弱い心』『クリスマスと結婚式』などにそのまま復活させられているほどである。随筆『年代記』の主人公は憂鬱なペテルブルグの街であって、ドストエーフスキイはこの時はじめて、この北方の都市のファンタスチックな性格をとらえたのである。
『ペテルブルグ年代記』にはなおそのほか、この時代の主要作品『主婦』『白夜』などの根底を形づくっている。「空想主義」の宣言ともいうべきものが見いだされる。それはドストエーフスキイの創作の主軸をなしている。自己に閉じこもった孤独な意識の産物なのであるが、彼の最初の作品においては、、自然主義的ジャンルに制限されたため、この空想主義は貧しい官吏と結びつけられて、陰鬱で滑稽な、時としては、グロテスクな様相を呈した。ゴリャードキン、ことにプロハルチンがそれである。しかし、自然派と訣別したドストエーフスキイは、清純なロマンチズムの伝統に立ち帰って、空想主義を高揚した詩的な面から提示したい要求を感じた。
 これは若き日のドストエーフスキイの自己告白であるが、この空想家はロマンチックな『主婦』や『白夜』の主人公から、逆説的な『地下生活者』に変じ、『罪と罰』のラスコーリニコフまで生長するのである。とまれ、『ペテルブルグ年代記』によるロマンチシズム宣言とともに、彼は以前から計画していたゴーゴリ的な小説『剃り落とされた頬ひげ』を、「古いものの反復として」あっさりと捨ててしまって、『主婦』の制作に着手したのである。

 この時期の小説作品には「もっとも無価値のもの」などと、厳しかった訳者だが、この雑記については、珍しく希望的観測をもって評価している。

※なお、息子の米川哲夫さんは、『全集20』のなかで下記のように補足している。
『年代記』の底本として父が使用したテキストは、ネチャーエヴァ編『ペテルブルグ年代記、1847年の四編の文章(未刊行作品)』であって、ソヴェート国立出版所版全集のテキストとは相違がある。おそらく父はこの相違、を見落としていたのであろう。加えて、『4月13日』の筆者はA・N・プレシチューエフと推定されている。―――と。




            
ドキュメント『ペテルブルグ年代記』


「1章(4月13日)の筆者は(ドストエーフスキイではなく)A・N・ブレシチェーエフと推定」米川哲夫氏が指摘。「全集20」で

米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)』に収録されている「ペテルブルグ年代記」は、1章(1847年4月13日)、2章(1847年4月27日)、3章(1847年5月11日)、4章(1847年6月15日)の4編から成り立っている。
しかし、息子の哲夫氏は『全集20 論文・記録(上)』に新たに発見された『6月1日』の文を補遺収録、1章の『4月13日』の文は他人のものと解説している。
なお、発見したのはドリーニンで、1927年にはじめて雑誌に発表されたという。整理すると筆者がドストエーフスキイのものは以下の4点である。
1. 「4月27日」のもの
2. 「5月11日」のもの
3. 「6月1日」のもの ドリーニンが発見1927年雑誌発表
4. 「6月15日」のもの 以上4点となります。

ドストエーフスキイが『ペテルブルグ年代記』を書いた1847年は、対人関係や創作面でどん底状態だった。『貧しき人々』で華々しく文壇デビューした若き作家は、突然片翼を失った飛行機のようにきりもみしながら落ちていった。怒り、懇願、嘆き、自惚れ・・・この雑記を書いていた頃の書簡のなかに若き作家の混乱ぶりがみてとれる。
1846年11月26日 兄ミハイル宛への手紙
第一、 版計画は、すっかりぺしゃつて、だめになりました。
ぼくは「現代人」といよいよ喧嘩別れするという不快な結果をみました。ネクラーソフはぼくを罵倒しようと準備しています。
1846年12月17日 兄ミハイル宛への手紙
ぼくの住所、ヴァシーリェフスキイ島1丁目大通りソロシッチ持家26号ベケートフ方
1847年1月―2月 兄ミハイルへの手紙
次便で手紙をださなかったことについて、おゆるしを願います。しかし、この間じゅうずっとふさぎの虫に取りつかれて、書くことができなかったのです。
だれよりも一番ひどくぼくをだましたのはネクラーソフです。ぼくは彼とかかり合いたくないので、銀貨150ルーブル返してやりました。
1847年4月 兄ミハイルへの手紙 「ペテルブルグ年代記」についての記述 
ぼくはこの1週間に雑文を二つくらい書くことになりましょう。つまり、紙幣250ルーブルから300ルーブルの仕事です。 
ぼの宿所は、マーラヤ・モルスカヤ街とヴォずネセンスキイ通りの角で、シーリの持家、ブレムメル方ドストエーフスキイです。
文壇生活を始めてからもう三年目ですが、ぼくはまるで毒気に当てられているようです。人間らしい生活を見ることはできず、正気に返る暇もないのです。
みんながぼくに曖昧な名声をつくり上げてくれましたが、この地獄がどこまで続くのか見当がつきません。貧窮、急ぎの仕事、――ああ、ゆっくり落ち着くことができたら!!
※この時期『年代記』に時間をとられてか8月まで手紙を書いていない。





10・13読書会報告要旨

九通の手紙に盛られた小説

報告者・藤本敦子

 正直言いまして、この「九通の手紙に盛られた小説」は、出だしは、わざとのようにすれ違う二人がおもしろく、興味をそそられたものの、何度読んでもわからない事だらけで、これがいかさまカルタ師同士の話だというのも解説を読むまで全くわからないというありさまでした。どの手紙にも必ず二人の妻とエヴゲーニイ・ニコラーイチが出てくる事から、これは実は二人の妻とエブゲーニイの話で、幼いピョートルの子供とイヴァンの妻のお腹の子供も、もしかしたらエブゲーニイの子供だったなんて言うおかしくも恐ろしい事実が隠されているのかもなんて事も思ってみましたが、それは深読みかもしれません。二人の妻が二人ともエヴゲーニイに浮気していたと言う最後のオチには驚きはしたものの、「なる程、そうだったのか」とうならせる程には至らず、だから何なんだ?と言う感じもしてしまい、これが、ただのうけ狙いのおもしろいものを書こうとしたのか、それとも何か伝えたいものがあったのか、作者の意図がどこにあるのか、いまいちわかりかねていました。
 このような状態で発表をするというのも情けなく気が引けるので、困り果てていた私は、普段、解説書のたぐいには頼らないと豪語しているにもかかわらず、(本当はただめんどくさいから読まないだけなのですが)福井さんの助けを借り、この本の解説を
書いたものを送っていただきました。
 今回福井さんには何から何までお世話になってしまいました。ありがとうございました。その中の、中村健之介さんの「ドストエフスキー人物辞典」に書かれたもので、これはタイトルが「九通の手紙から成る長編小説」となっているのですが、これがふざけた「お笑い」目当ての作品だと言うのには納得しました。題名からふざけているという事で、原題はどうなのかわかりませんが、確かに「長編小説」とした方が笑えると思いました。
 この小説は、もしかしたら、日本語訳ではわからない言葉のおもしろさもあるのかもしれないと思っていたのですが、二人の名前の意味を知り、やはりそうだ! なる程! と笑いが込み上げてきました。ピョートル・イワーノヴィチはイワンの息子のピョートル、イワン・ペトローヴィチはピョートルの息子のイワンという意味だそうです。エブゲーニイ・ニコラーイチにも何か意味があるのでしょうか?
 こうと知れば、他の1度しか出て来ないような登場人物の名前の意味まで知りたくなってしまいます。もしかしたら、それぞれおもしろい意味が隠されており、これを知りつつ読めば、知らないのとは全然違う楽しみ方ができるかもしれません。
 とにかくこれは「お笑い小説」として読むのがいちばんいいと思われ、特に二人のだんだん凄くなる皮肉合戦は絶品です。随所に出てくる言葉のおもしろさは、ドストエフスキーならではだと思いました。
 特に笑えた箇所を例にあげますと、2通目のイヴァンの手紙、河出書房新社版だと316ページから317ページの「失費をも顧みず」と繰り返す所は笑いを誘います。
 二人共、妻の事を「愚妻」と表現しているのですが、これは例えば身内に敬称をつけ
のですが、これはどなたか詳しい方に教えて頂きたいのですが、このふさぎ込んだり
憂鬱症にかかっているはずの妻たちが、実は浮き浮きとエヴゲーニイと逢い引きをしていたというのは、何ともおもしろいです。
 317ページ、イヴァンの妻が「流行型のビロードの部屋着が欲しい」と言っている所なんかは、読み返してみると何ともこっけいで笑ってしまいます。
 この皮肉合戦でいちばん爆笑だったのが、323ページから324ページ、7通目のピョートルからイヴァンへの手紙の「兄の百姓くさい、同時に奇怪きわまる手紙を受け取って、小生は最初ずたずたに引き裂こうと思いましたが--珍品として保存することにしました」という所です。また、「タールの臭いはごく体に悪いのです」など、嫌味爆発といった感じですね。
両者の手紙のやりとりからかいま見える、それぞれの性格の違いという面も、見てみるとおもしろく、その時の気持ちも伝わってくる所には、若い頃から開花したドストエフスキーの才能がうかがえます。
 人物相としては、私独自の分析ですが、ピョートル・イヴァーノヴィチは、快活で人なつこく、振るまいが大袈裟。
 このような人は、実は醜悪な性質を裏に持っていたりするわけで、表面上いかにも親切そうに見えるのは、意識的・無意識的にかは別にして、それを隠す為にそうなっている可能性があります。
 ゆえに、嘘をあばかれたり、自分の都合の悪い事態に陥ると、と
たんに手の平を返したようになり、醜悪な本性を見せてしまうのです。
 このような性質に頭の良さが加われば、詐欺師にはピッタリな性格になるでしょう。イヴァンの手紙によれば、この人は外見が美しいらしいので、さらにピッタリでしょう。
イヴァン・ペトローヴィチは、真面目で誠実でプライドが高く、洞察力があり、皮肉が得意。細かい所に目が届くといったタイプと見ました。
 この人は、少々細かすぎて嫌味な印象はあるものの、話をそらしたりごまかしたりせずに、当然の事を正しい判断で書いていると思われ、私はこの人には結構好感を持ちました。
 ただ気になる点と言えば、まあ気になると言うよりは、笑えると表現した方が正しいのですが、「手紙になぜ用件以外の事を書くのか」などと、自分の事を棚に上げて見当違いの批判を相手にしている所です。二人に共通した面としては、自分を実際以上に良く見せたいという所でしょうか。
 二人の性質から言って、両者の人間関係がうまく行かないのも当然と思われます。お互いに相容れない性質なのです。
 最初読んだ時には、この作品を中途半端な駄作と思ってしまった訳ですが、その時は「貧しき人々」で絶賛されて喜んでいたドストエフスキーが「分身」でこきおろされ、さらに「プロハルチン氏」も納得の行く評価を得られずにいたイライラから、この駄作が生まれたのかなどと思いました。
 絶賛された処女作「貧しき人々」と同じ手紙のやりとりという形式にしたのも、あせりの気持ちからなのかと思いました。納得のいく評価が得られないあせり以上に、このまま作家としてダメになってしまうのではないかというあせりがあったのでは、と推測しました。
 今ではこの作品のおもしろさを見い出してしまったので、少々見当違いの見方だったのかもしれませんが、小説が書かれた時期からの作者の心理状況などを考えてみると、またおもしろい見方ができるのではないかと思います。
 また、同じ形式の「貧しき人々」と比べてみるのもおもしろいと思います。まあ、おそらく、私もそうですが、自然とこの2つの作品を比べて読んだ方は多いと推測します。
 ドストエフスキーの小説は、十分に現代に通じるものがある事は多くの人が認める所だと思いますが、私は「貧しき人々」はインターネットのメールのやりとり、「九通の手紙に盛られた小説」はインターネットの掲示板のやりとりを連想しました。
 余談になりますが、今回発表するにあたり、以前読んでいて「おもしろくない」で片付けていたこの小説を再読する丁度同じ時期に、たまたま竹内久美子のデビュー作であり、日高敏隆との共著である「ワニはいかにして愛を語り合うか」を読んでいたのですが、この本の文庫化にあたっての竹内さんのあとがきに、日高さんに「動物のコミュニケーションの本を書いてくれと頼まれてるんだがメチャックチャに忙しくてだめなんだ。代わりに書いてくれる?」と頼まれた竹内さんが、「何で私に?と思った。学識があって文章も書ける、私よりずっと適した人が他にいるだろうに…。」と思った事が書かれていて、まさにその時の私と同じ心境だと思いました。
 しかし、ちょっと大袈裟ですが、人間的に成長するのにもいい機会だと思い、引き受けてみましたが、かなり難しい小説でした。なにしろ漢字もわからないし、言葉遣いも古いので、これは年輩の方が発表された方が良かったのではないかと思いましたが、わからない所に関しては、発表者の私から、これから質問させていただきたいと思います。本来なら、発表者が質問される側だと思うので、あべこべになってしまい恐縮ですが、よろしくお願いします。
 以上で終わりますが、私の未熟な発表を聞いていただきまして、ありがとうございました。




『九通の手紙に盛られた小説』の謎


 米川正夫にして「彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない」とまで酷評された『九通の手紙に盛られた小説』であったが、さすが読書会である。報告者の丁寧なレポートと参加者の熱い議論で沸き立った。
10・13読書会で得た結論は、ドストエーフスキイの作品は、たとえどんな駄作でも、論ずる意味はある、読評する必要があるということであった。
しかしながら、この短編には依然として謎が残る。この場合、謎とは作中人物やストーリーにではなく、この作品の評者たちの感想にである。この作品は、なぜ当初は評価されたのに、後になってひどく酷評されたのか。そのへんのところを考えてみたい。
それではこの作品が、発表されてからどのような評価というか印象をもたれてきたのか、一部前号で紹介したが、整理するために今一度とりあげてみよう。
 まず作者本人は、どう思ったのか。(『貧しき人々』後の一連の作品に対する本人の思
いこみをみると、あまり当てにはできないが・・・)
 1845年11月16日 兄ミハイルへの手紙のなかでこんなふうに述べている。
「その晩、ツルゲーネフのところで、われわれのサークル全部、つまり20人ばかりを前にして、わたしの小説(「九通の手紙に盛られた小説」)が朗読され、センセーションを起こしました。」この作品を、本人はこう自負している。「今に、兄さんもわかるでしょうが、これはたとえばゴーゴリの『訴訟』に劣るでしょうか?」と。ベリンスキイについても、「ベリンスキイは、もう今ではぼくというものにすっかり確信している。なぜなら、まったく違った要素を取り扱うことができるからだ、といってくれました。」と、鼻高々である。
 この書簡から何がみてとれるか。作品が受け入れられたということである。なにしろ文学に関しては素人とは思えない20人もの人々(当時のロシアを代表する作家、評論家たち)から賞賛を得たのだ。センセーションをまき起こしたほどに。現代の感覚では退屈なものでも当時は、面白かったのかもしれない。もっとも中村健之介氏はその著書『ドストエフスキー人物事典』で「ドストエフスキーが<お笑い>目当ての作品を書く作家であることは『九通の――』という掌編が端的に示している」と、肯定的である。題名からしてふざけているのであって「漫才のような話である」と、評価もしている。
漫才で思い出したが、かってテレビで「お笑いスタ誕」という番組があった。欧州の公演でドストエーフスキイ的と評された一人芝居のイッセー尾形などいま活躍しているお笑い芸人が生まれたところだが、合格するネタ話が、たいていこの作品のような小噺だったように記憶している。つまり、大半がどんなにつまらなくても最後の一行か二行で大どんでん返しがあれば良しとされていたようだ。
それにしても1847年1月に「現代人」に掲載されてからはひどい。ベリンスキイはツルゲーネフに「どうにかやっと最後まで読み終えたくらいです」と云っている。
わずか1年とちょっとで感想が、こうも変わるものか。大いに疑問である。なぜベリンスキイは変わったか。1年が過ぎてからのこのような評価は、解せないものがある。ここで日本でも似たような話があっことを思い出した。太宰治が「猿ケ島」を書いた後、文壇連中の顰蹙を買ったといわれる。つまり猿は文壇連中と解釈されたのだ。と、すると二人のいかさまカルタ師はだれか?想像がつくというもの。ましてこの時期ベリンスキイ夫人は赤ん坊まで産んだのである。ベリンスキイの酷評もしかりである。(編集室)




「ドストエーフスキイの会」情報

第149回例会報告要旨
(ドストエーフスキイの会ニュースレターより転載)

犯罪文学とドストエフスキー

桜井厚二

 11月10日に開かれた第149回例会では桜井厚二氏が「犯罪文学とドストエフスキー」を報告した。桜井氏は、4年前になるが1997年の第133回例会で報告している。このときのテーマは「ドストエフスキーにおける暴力表現」である。これら一連の報告事項から桜井氏が暴力や犯罪といった人間の負の部分、闇の部分からドストエフスキーを照射しようとしていることがわかる。前回の「暴力表現」では神話から『悪霊』にテレビ映画「刑事コロンボ」からポルフィーリイにいったように伝承やドラマを糸口に考察したが、今回の報告では社会犯罪ニュースや文学作品に「崇高美」を見出し関連づけようとした。はじめに結論として、次の三点があげられ、丁寧な報告がなされた。

1. 犯罪者をヒロイックに描く手法――反社会的ヒーローの神話。
2. 過剰で非凡な生と、凡俗な生との二項対立――前近代と近現だし社会との二項対立にも。
3. 社会的閉塞感と、そこからの解放願望が基底。
代表的な長編小説『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』をはじめとして、ドストエフスキーの文学作品に犯罪のモチーフが濃厚に取り入れられているということは、一読して誰しも気付くことであろうと思われる。現代日本の論壇でさえも、様々な犯罪事件や内外の推理小説作品に関連してドストエフスキーが言及されることがしばしばあり、この点からもドストエフスキーと犯罪物語との密接な親近関係、というか、並外れた相性の良さのようなものがうかがえる。 市井の犯罪をめぐる物語は、近代社会において広く大衆の関心を集め、その扇情性によってジャーナリズムや大衆小説の発達を大きく促した。それはロシアやヨーロッパのみならず、近世、近代の日本においても世話物歌舞伎や読本などの形で展開されており、近現代前後のほぼ世界的現象であったとさえいえるかもしれない。現に明治二十五年に内田魯庵による『罪と罰』の翻訳が現れた際、当時の少なからぬ批評家たちがこの作品世界に描かれている陰惨さ、猟奇性、探偵小説的趣味、等に着目していたことを確認することができ、このことからも犯罪物語のモチーフが、日本におけるドストエフスキー受容史上の大きな論点となりうることが示唆されていると考える。実のところ、ドストエフスキーと近世・近代の日本の犯罪文学とを併せて論じるということが、この報告の一つの眼目であり、報告者の一種の賭けである。この報告では、このような犯罪にまつわる物語が人々の心を強くひきつけるのはなぜなのか、また何故近代のこの時期に広範な流行を見ることになったのか、そしてドストエフスキーの文学作品にこのような要素が取り入れられていることの意味は何なのか、ということについて、主としてドストエフスキーの時代におけるロシア、および同時期の日本の事情に即して考察を試みるという、ある意味では無謀ともいえる企てに挑んでみたい。その際にキイワードとなるのは、アリストテレスが『詩学』において唱えた主人公造形における「高次模倣」「低次模倣」の概念、エドマンド・バークが『崇高と美の起源』において唱えた「崇高(サブライム)」の概念、近代ロマン主義的な文脈におけるヒーローイズムの概念、そしてアンチ・ヒーローイズムの概念、等である。基本的にこれらの概念はヨーロッパ文学史上の伝統に属する性質のものであるが、近世・近代日本文学においてもある程度の応用が可能なのではないかと、報告者は期待をかけているところなのである。       (



広 場


新谷敬三郎先生を偲ぶ会


「新谷敬三郎先生を偲ぶ会」が11月3日(土)午後4時から高田馬場のレストランで開かれた。会場には、ときわ奥様をはじめ先生ゆかりの方々がご出席され、晩秋の夕べ、先生の思い出などを語られた。ドストエーフスキイの会の関係者は、木下豊房氏の奥様岩浅武久氏、早大の井桁貞義氏、会の渡辺好明氏、冷牟田幸子氏、読書会の福井勝也氏、下原康子氏でした。
新谷先生は1995年11月6日に亡くなられました。ことしは七回忌です。先生は、1969年にドストエーフスキイの会を発足させ、以来20余年のあいだ会のために会長として尽力されました。また、先生は読書会にはいつも出席者されていました。どんなに小人数でも先生は必ず参加し、片隅で皆の話しに耳を傾けておられました。
 先生は日本を代表するドストエーフスキイ研究者の一人であると同時に、常に真にドストエーフスキイを愛する市井の人々と共にあったのです。今日「全作品を読む会 読書会」があるのは、そうした先生の温かい見守りの賜と感謝しています。
当時、新谷先生は会員の伊東佐紀子さん佐伯(下原)康子さんらが発刊していた同人誌『ぱんどら』に詩作品をお寄せになったり、表紙のデザインを描かれたりしていました。『ぱんどら』掲載の先生の詩作品(ペンネーム中河信子)と表紙デザインです。


新谷敬三郎先生を偲んで

 当時、新谷先生の逝去を悼んで編集室では『ミニ通信35号』に「さようならステパン先生」と題した追悼文を寄せました。いま一度、振りかえって、そのお人柄を偲んでみたいとおもいます。(以下「通信35号」からの転載・一部抜粋)

さようならステパン先生 (編集室)

 新谷先生が入院されていると知ったのは、先の9月17日の夜だった。非常に強い勢力を持つという台風12号の直撃を免れほっとしていたところだった。木下先生から電話をいただいた。「新谷先生がご病気で、だいぶ、おかげんが悪いらしい。お見舞いに行ってこようと思っている」そんな突然のお話だった。
 すぐには信じられなかった。それというのも先生とは、ついこのあいだ電話でお話したばかりだったからだ。受話器から聞こえてくる先生のお声は、いつもと変わらぬ元気なものだった。
「いつもミニ通信をありがとう。楽しく読んでいます」と、お礼された。このころ先生は、例会にも読書会にもお見えにならなくなっていた。が、読書会を励ますお便りはときどきいただいていた。「老いて私の頭のなかからドストエフスキーの姿が消えてしまいました」とおっしゃりながらも「皆さん相変わらず大変熱心にかかわっている様子がまざまざと見えてきてなつかしい思いがします」と喜んでおられた。
 この春、読書会会員の伊東佐紀子さんが亡くなられたときも「まだ若いのに」と悔やまれ葬儀に参列したいとのことでしたが、お見えにならなかった。後日、電話で「年をとって、なかなか」とお詫びされた。そのとき、追悼文をお願いすると、快くお引き受けくださった。が、なぜかなかなか原稿をいただけなかった。何度か催促すると、その都度、「いま書いていますから、是非とも載せてください」申し訳なさそうにそう答えられた。3週間ほどして、先生から追悼文が届いた。遅れたことを詫びたハガキも受取った。7月末のある夜、先生から突然、お電話をいただいた。最近の読書会のことをとりとめなくお話しした。そのなかで出席をお願いすると「会場が変わったんだねえ。行ってみようかねえ」と、うれしそうにおっしゃられた。それが先生の最後の言葉となった。先生とかわした最後の会話となった。
11月9日の告別式で、ご家族の方のお話から先生は5月の連休過ぎあたりから具合が悪くなられたこと、8月はじめにはガン告知を受けられていたことをはじめて知りました。おもえば、先生の体調が最悪のときに原稿のお願いをし、何度も催促していたのだ。いまその非礼を悔いるとともに、微塵たりとそんなご様子をみせず、元気な声で応対されていた先生のお人柄に胸うたれます。「ぜひ、読書会に出席したいですねえ」くり返しそうおっしゃられた先生の言葉がよみがえります。
スパーソフを目指しながら街道で逝ったステパン先生を彷彿します。ドストエーフスキイはいった。「さようならステパン先生」愛と尊敬をこめて・・・。1995.11.20

・新谷敬三郎著『ドストエフスキイの方法』 海燕書房 1974
言葉の意味とはモノと私とあなたの三者の関係の位置解析である。独自の方法論を駆使して、ドストエフスキイの創作の秘密を解き明かし、外国文学研究に画期的地平を拓く論文集!  

・新谷敬三郎著『ドストエフスキイと日本文学』 海燕書房 1976
文学における<身体的演技>の復権!




緊急連続シンポジュウム 9・11テロ後の世界と日本(主催:朝日新聞社)
The World and Japan after the Sept.11 Terrorist Attacks1st Symposium

―「第1回 つくれるか、テロのない社会」に参加して―
How can we Build a Society Without Terror?

 11月15日(木曜日)東京・新宿の朝日ホールで開催された朝日新聞社主催の緊急連続シンポジュウムに参加した。テーマは、9・11米国多発テロによって起きた様々な問題について日米欧の5人の専門家が討論した。現在も刻々変わる情勢だけに焦点をしぼりきれない事情はあったが、5時間にわたって様々な議論がなされた。
はじめに今回のテロは<「文明の衝突」ではない><「協力」学び始めた米国>などの冒頭発言があり下次のような結論がだされた。

テロの背景について
「アラブでの貧富の差」「対米関係は一部だけ」
アフガン情勢
「タリバーン自壊当然」「空爆で解決せず」「対イラク戦回避を」
対テロ戦略

「経済に希望必要」「“実力”が平和の担保」
質疑応答で興味深かったのはドイツ人の専門家が「ドイツでは第2次世界大戦を直接に経験した人たちは、戦争も独裁者もコリゴリ、その子供たちは壁への嫌悪がある。が、そのまた息子たちは平和よりむしろ戦争志向だという答えだった。
「テロのない社会」とは何か。1880年6月5日プーシキン記念式典で「全人類の兄弟」愛を訴え「謙虚なれ傲慢な人よ」とプーシキンを朗読したドストエーフスキイのことが、『カラマーゾフの兄弟』とアリョーシャのことが頭に浮かんだ。
 イスラムと西欧のことは、日本人には理解にくい。が、「西欧とロシア」「西欧と日本」のことは何か見えそうな気がする。と、すると近日発刊される高橋誠一郎氏の著書はイスラム問題を解く一つのヒントにもなり得そうである。
『欧化と国粋』はまさに西欧文明とイスラム原理主義の問題でもある。その意味で、タリバンやアル・カーイダを考えるに本書はまことにタイムリーな出版といえる。  (編集室)





21世紀記念特集「なぜドストエーフスキイか」

神の問題  梅原 猛          
                            
 
 (略)神とは何であるか、人間は神なしに生きられるかどうか。そのような問いが、ドストエーフスキイの中心的な問いであり、すべての人物は、そういう問いを問うための、舞台道具にすぎないのである。もっともすぐれた小説家ドストエーフスキイは登場人物を、けっして思想のあやつり人物にせず、強い個性と、その内面に矛盾をもった実に生き生きとした人物にせしめてはいるが。(略)ドストエーフスキイは神がないという命題と、神があるという命題の谷間に立っていると思う。彼は、おそらく、存在として、神はないという立場にあるのである。イヴァンは存在としての彼の分身にちがいない。彼自身神を失った文明の中にあった、その文明の恐ろしい帰結を考えつめた人であった。(「ドストエーフスキイ全集 月報」より 昭和46年1月30日発行)




編集室便り

皆さんからカンパいただきました。お礼申し上げます。
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