ドストエーフスキイ全作品を読む会 読書会通信 No.69  発行:2001.10.3


次回(10月)読書会のお知らせ


10月読書会は下記の要領で開催いたします。読書の秋です。お待ちしています。

 月 日 : 2001年10月13日(土)
 時 間 : 午後6時00分〜9時
 場 所 : 東京芸術劇場小会議室1(池袋西口徒歩3分)
 報告者 : 藤本敦子さん
 作 品 : 「九通の手紙に盛られた小説」
 会 費 : 1000円



10月13日(土)読書会

ドキュメント「九通の手紙に盛られた小説」

この作品は、1847年1月の『現代人』に掲載された。しかし、書き上げたのは、意外と早く1年以上も前のことである。内容は、いかさまカード師が手紙をやりとりする、といった話で、一夜で書き上げたものだと云われている。

1845年11月16日 兄ミハイルへの手紙

<略> そういうわけで、二、三日まえ、金がないのでネクラーソフのところへ行きました。そこにいるうちに、『九通の手紙に盛られた小説』の案が浮かんだので、家へ帰ると、一晩のうちにその小説を書き上げました。分量は印刷して半台分ほどです。朝になって、ネクラーソフのところへ持って行き、その稿料として紙幣125ルーブリもらいました。略 その晩、ツルゲーネフのところで、われわれのサークル全部、つまり少なくとも二十人ばかりを前にして、わたしの小説が朗読され、センセーションを起こしました。『嘲笑者』の第1号に載るはずです。<略> はたしてゴーゴリの『訴訟』に劣るかどうか、自分で判断なさるでしょう。

と、自信たっぷりである。だが、実際の評価は訳者米川正夫にして「要するに彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない。このような駄作が、どうしてベリンスキイのサークルで、センセーションを起こしたか、奇怪千万なことである。」と手厳しい。

1847年1月『現代人』に掲載される

ベリンスキイはツルゲーネフへの手紙の中でこの作品の感想をこう述べている。
「まったく驚いたことに、あのふたりのいかさまカード師は、てんでわたしの気に入りませんでした。どうにかやっと最後まで読み終えたくらいです。みんなも同意見です」

 ゴミ箱 『貧しき人々』は名作である。が、その後の作品は、あきらかに駄作つづきだ。第一面白くない。「ぼくは数えきれないほど創作の案があるのですが」この言葉が虚しく聞こえる。退屈で読むに足らない作品群。たとえ「全作品を読む」が目標とはいえ、現在の貴重な時間を費やす意味はあるのか。そんな疑問さえわく初期短編である。
 しかし、もし傑作つづきだったら、もし流行作家になっていたらと思う。もしそうだったら不朽の名作群は生まれなかったかも知れない。そう考えると、この時期の駄作作品が、何か泥にまみれた金剛石に見えてくる。中秋の夜長である。いま一読。




ドストエーフスキイと私

暑気払(8/11)報告

8月11日の暑気払読書会は、読書会発足30周年を記念してシンポジュウムを開催しました。報告はテーマである「ドストエーフスキイと私」について6名の皆様が、ドストエーフスキイとの出会いや関わりについてお話くださいました。以下は、その報告と感想です。



神棚から本棚へ − 内なるドスト氏相対化の自分史

堤 崇弘
                                 
1982年の秋頃、二十歳の学生だった私は、池袋駅を歩いていて、見知らぬ可愛い女の子に声をかけられ、ノコノコとついていってしまったことがあります。そこは「人生について考える人達のサークル」でした。「自分達は宗教団体じゃありません」と言っていましたが、これは伝道のための方便でして、れっきとした宗教団体でした。末端の信者さん達は、善良な人達でしたから、私としても楽しく話をして、請われるままに教理のビデオを見たり、合宿にも参加したりして、暫らく、いろいろと語り合ったのですが、結局、脱退しました。理由は、彼らのことは人間として好きだけれども、思想的に、その信条を受け容れられないから、でした。皮肉なことに、私はこのときまで、自分に「思想」などというものが宿っていることに気付いていませんでした。彼らが自分達の考えを受け容れさせるべく説得しようと試みたときに、初めて、私は自分の中に、無神論だか、唯物論だか名前はわからないけれど、とにかく、神様とか、天国とか、来世とか、霊魂とか、天使とか、悪魔とか、ドラキュラとか、狼男とか、そういうものを一切受け付けないという特徴を持った、ある種の思想が、非常に強固に根を下ろしているんだ、ということを自覚したわけです。

若い頃、私は、殆ど文学作品を読みませんでした。1986年に就職し、翌年には結婚して、数年間は馬車馬のように残業しながら、コンピューターの仕事をしていました。しかし、暫らくそういう生活を続けているうちに、自分はこのままで良いんだろうか、何か大きな宿題を残したまま、人生の時間を使い込んでしまっているのではないか、という疑問が湧いて来ました。その「大きな宿題」とは、結局、自分が人生で何に価値を置き、何をなすべきなのか、ということについて、自覚的でありたい、という願いだったんだろうと思います。そんなとき、講談社現代新書の中の、加賀乙彦さんの本がきっかけとなり、生まれて初めて世界文学と呼べる作品を紐解くことになります。本の題名は、『カラマーゾフの兄弟』。今から10年ほど前のことでした。

『白痴』のアデライーダは、ムイシュキン公爵が死刑の話をした直後、「今度は恋について語ってくれ」とせがみます。なぜでしょう? 恋の話は、死刑の話と同じくらい、語り手の人格を白日の下にさらけ出す力があることを、賢明な彼女は知っていたのです。そこで私も、自己紹介代わりに、初恋の人について、お話しましょう。ただし、初恋は初恋でも、文学におけるそれです。私の初恋の人、それは、ホフラコワ夫人です。主人公の恋人の母親でもあるこの未亡人は、第2編第4章で、「信仰の薄い貴婦人」という、いささか手厳しい題名と共に登場します。この章を読んだとき、ガーンと一発、頭をなぐられたような感じになりました。至って平凡ですが、この部分が、私にとっての、「いわゆる一つのドストエフスキー体験」になったことだけは、「どんな立派な言葉ででも誓う」ことができます。

ご存知の通り、これはゾシマが、カラマーゾフ家の家族会議を中座して「おでまし」になった場面です。長老から、「実行的な愛」についての様々な箴言を引き出す、ホフラコワ夫人の質問は、褒められたい一心からとはいえ、自分に対して容赦せず、赤裸々に語ろうとするものであり、なによりも当時の私自身の問題意識に、じかに触れてくるところがあって、いたく心を打たれました。二人の問答が、人生の目的、その基盤となる絶対者への信仰という最重要問題について、真正面から鋭く取り上げているだけでなく、想定される反論を対話の形で周到に考慮した上で、なおかつ説得力を持って語ろうとするものだということが、私にはすっかり気に入ってしまいました。自分が考えるようなことは、いや、それより遥かに先のことまで、昔のエライ人がすっかり考えているんだ、これは、読まなきゃ損だ。そんな風に素直に思ったのを懐かしく思い出します。

『カラマーゾフ』の後、引き続き『戦争と平和』、『罪と罰』、『アンナ・カレーニナ』、『白痴』、『復活』と、両巨匠の作品を交互に読みました。この中では、『アンナ・カレーニナ』の末尾で、リョーヴィンが到達した、宗教によらない、「人類共通の善の観念」という考え方に、強い感銘を受けました。これは、『カラマーゾフ』に出て来た「実行的な愛」という言葉と共に、私が長年探していた、「無神論者にも通用するような、人生の目的を確立したい」という問いへの、直接の答えだと思ったからです。

このことからも分かるように、当時の私の本の読み方は、「人生の意味」についての考察が、登場人物や語り手の口を通して、生の形で提起されている部分を偏重したものでした。『カラマーゾフ』でいえば、"Pro et Contra"、「ロシアの修道僧」などの箇所を、何度も読み返しては考えて、少しでも自分のものにしようとしていました。これに対して、例えば、ミーチャやスネギリョフなどは、面白いな、好きだな、と思うくらいで、彼らが間接的に発しているメッセージは、私のそばを素通りして行きました。

今考えると、不思議なことですが、『白痴』と『復活』を読んでから後の数年間は、文学作品をそれ以上読もうという感じがありませんでした。仕事が忙しくなったのも、大きな理由だったとは思いますが、一つには、当初探していた「人生の意味」なるものを、『カラマーゾフ』と『アンナ・カレーニナ』から、ある程度、教えてもらえたという感じがあり、もちろん、簡単に到達できるものではないことは、ゾシマも言っていますが、少なくとも方針が示されたことで、安心してしまったのだと思います。よく論文のコピーを取ると安心してしまって、結局読まないと言われますが、そのようなものでしょう。まあ、この場合、実際には、それよりは少しはマシでして、私は、これらの両巨匠のテーゼを、実際の結婚生活や職業生活の中に、多少なりとも反映しようと努力していた時期もあったのは確かなんですが、価値観そのものは、確立された感じがしていました。

しかし、私とドスト氏の関係は、それで終りには、なりませんでした。インターネットが普及し、たまたま見つけたSeigo氏のサイトに面白半分に出入りし始めた1997年の秋、サイトの他の人との議論のため、私は、もう一度、ドスト作品の門を叩くことになります。まず、主催者の熱心な勧めに従って『悪霊』を読み、さらに『貧しき人々』、『白夜』、『地下室』などを次々に読みました。その後、98年5月から、この会にも出るようになります。ただし、暫らくは、前のように、読書から、主として明示的に書かれた人生訓を読み取ろうとする態度が続いていました。たとえば、『悪霊』でも、キリーロフの考察などが興味の中心になっていました。

それが、崩れ始めたのは、98年の後半です。私は読書会で『未成年』の発表をやることになり、その関係で、n_kumaさん、というのは、つまり、熊谷さんですが、彼といろんな話をしました。そのとき、私は第二の啓示を受けたのです。『未成年』の第1編第4章の中で、ストーリーの本筋とは関係なく、アルカージイが迷子の男の子に出くわす場面があります。私は、その場面が挿入されている意味がよくわかりませんでした。今でもハッキリ憶えていますが、それについて聞いたところ、n_kumaさんは、まるで予め考えてあったようにすぐに、「それは『他者の謎性』ではないでしょうか」といわれました。即ち、その男の子は、「他者というものは、わからないものだ」という感触を伝えるため出て来たのではないか、ということです。それで、私は、10年ぶりに、また頭をガーンとやられて、「文学のテーマは、どれほど広いものなのか」ということを、理屈抜きに教えられたのでした。大袈裟に言えば、これが私の「転向」の始まりでしたが、その後、この流れをさらに加速する、大事件がありました。それは、村上春樹さんとの出会いです。99年の4月、ここの読書会で、横尾さんが春樹さんを取り上げられたことがキッカケでした。私は、それまでエッセイを少し読んだくらいで、彼の小説は全然読んだことがなかったのですが、その読書会に備えて、直前に、いわゆる泥縄式で、『ねじまき鳥クロニクル』を読みました。これが非常に面白く、すっかりファンになってしまいました。それから、2ヶ月、熱に浮かされたように、『風の歌』から『スプートニク』まで、読み続けることになります。

特に惹きつけられたのは、「悲しいけど、他人のことはわかるはずがないし、無理にわかろうとするのはよそう、その代り、わからない以上、余計な干渉もしないでおこう」というような姿勢でした。世の中では、これが、ディタッチメントと呼ばれているらしいことが、後からわかってきたのですが、私がそれまでの人生で、さまざまな出来事によって味わった感覚を、正当化してくれる倫理として、私はこれに喜んで飛びつきました。

ところが、このことは、10年前に初めてロシア文学に触れて以来、私がいわばノホホンと安住してきた価値観に、微妙なゆさぶりをかける結果となりました。その価値観は、先ほども述べましたが、『カラマーゾフ』言うところの「実行的な愛」、また、『アンナ・カレーニナ』言うところの「人類共通の善の観念」で、ひとことで言えば、「隣人愛」を最上位に置く価値体系です。しかし、「隣人愛」といっても、もろ刃の剣的なところがあります。ゾシマが言うように、それは全くの学問でさえある訳ですから、よく修行を積まず、考えもせずに発揮しようとすれば、逆効果になってしまう可能性が高い訳です。例えば、いわゆる「お節介」「おしつけ」になってしまうことがあります。そうしたケースでは、「隣人愛」は、ディタッチメントとは正面衝突します。もちろん、隣人愛を、相手の立場に立って発揮できるように研鑚を積めば、ディタッチメントとも両立するのですが、ここで大事なことは、「実行的な愛」「人類共通の善の観念」「隣人愛」という漠然としたキーワードだけでは、具体的な中身がないし、一人よがりになりかねないのだということを、感じ始めたことでした。

この「一人よがりになること」を避けるためには、結局は、先ほどの、n_kumaさんに啓示された「他者の謎」ということに対して、どれだけ自覚的になれるか、ということがポイントになってきます。春樹さんの作品を読めば読むほど、ディタッチメントというのは、結果であって、その根本にあるのは、「人というものは多様であり、自分と他人は違うし、他者というものは理解しきれるものではない」という「見極め」なのだということがわかってきます。「他者の謎」はまた、「自己の謎」にも通じます。「他者の謎」を見出した者が、そこから、「そういえば、自分にも、自分自身のことは、よくわからないじゃないか」と認識するまでは、ほんの一歩です。こうして、さまざまな「謎」に絡め取られた私は、今までの素朴な「隣人愛」による価値観に、「待った」をかけざるを得なくなりました。ドスト氏も、トルストイも、確かに人生で大事なことはこれこれだ、と結論を出してはいるし、自分としては、その結論に好感を抱き、参考にしていくべきだけれども、人間の多様性を考えれば、それは、極めて漠然としたものであって、実際の他者に適用しようとすれば、「他者の謎性」にはばまれて一筋縄ではいかないし、また「自己の謎性」を考慮するなら、自分がその理想を本当に喜んで実行しようとしているかどうかも確信が持てない、なんだか怪しい感じがあるじゃないか、というような、対象化、相対化の波が襲ってきました。

こうして、私はぐらぐらと揺れることになりましたが、そのうちに、揺れている状態が普通だと感じるようになってきました。これは、相対主義とか、ニヒリズムとか言うものとは、少し違うのではないか、と思っています。ラスコーリニコフや、アルカージイや、アリョーシャが、作品の中で成長していったように、人間は変わるものであることを、これは証明しています。

こうして、ある意味ではスタート地点に戻って来たとも言えますが、私は、この年になってようやく、小説から、人生についての価値基準を引き出そうとする読み方を規制緩和しました。結果的に価値基準の形成に影響を与えることはあっても、それはあくまで間接的なものである、と思うようになりました。象徴的な言い方をすれば、「答えがあるはずだ」と思ってそれを求めて生きるのではなく、「答えがない」ことと折り合っていくようになれた、とも言えますが、これはやや誤解を招く言い回しです。「答えがない」というのは、万人に共通の答えはないんだ、ということ、また、自分だけの答えにせよ、固定された答えはないんだ、という限定的な意味で言っています。自分は自分なりに価値観は持っているが、それは、比喩的に言えば、柔らかいもので、変形する可能性がある。その柔らかい価値観は、読書体験も含めたさまざま体験を経て、徐々に変わっていくものである。もし、一つだけ、有り得ないことがあるとすれば、それは、ある一冊の本から巨大な影響を受けて、価値観が、あたかも不動の数学的法則のように堅く固まってしまい、それ以上、変わらない状態になることだ、と思っています。もちろん、そうは言っても、「柔らかいものがある」ということは、「何もない」いうこととは全く違います。「実行的な愛」も、「人類共通の善の観念」も、「ディタッチメント」や「他者の謎」「自己の謎」というような、概念と共に、その柔らかい価値基準の中では、依然として、上位を占めているのです。

「人生の意味を追求するための読書」という枠がはずれたことで、私の本の読み方は、かなり自由になりました。ひとまず判断を停止して、作中人物に感情移入して十分な感銘を味わうことを、今は最も大切にしています。また、ドスト氏一辺倒をやめ、世界文学の名作をなるべく万遍なく読むことを心がけるようになりました。本の選択にあたっては、SEXY F.M.さん、というのは、中谷さんですけれども、彼を始めネット上の畏友の皆さん、また会の諸先輩読書人の皆さんにも、御指導頂き、おおいに参考にしております。

そういう風にいろいろ読みながら、たまにドスト氏に戻って読むと、ちょうど外国から自分の国に帰ったときのように、今まで見えていなかったものが見えてくるようになりました。例えば、一番最近、『カラマーゾフ』を読み返したのは、釘本さんの発表の頃で、おととしから去年にかけてでしたが、そのとき最も印象に残ったのは、第8編第3章「金鉱」のところでした。初めにも申しましたが、ホフラコワは我が初恋の人ですが、今度は、初恋の人と再会したら、また発見があって、惚れ直した、というところです。そのとき初めて「こんなに面白い場面だったんだ」と気付きました。以前読んだときは、ミーチャが金策に走り回っている、あの息せき切った調子につりこまれて、もどかしくイライラさせられこそしましたが、作品の主題に直結していない、枝葉末節の部分だとしか感じられませんでした。そのため、その強烈な喜劇性や、意地の悪さの名人芸的な妙技を通して表われているドスト氏の人間洞察の深さには、全く注意が行きませんでした。去年から今年にかけて『分身』を読んだときにも感じましたが、ドスト氏のこの種の芸が佳境にはいってくると、1行ごとにジリジリと焦らされているような、一種の被虐的快感をもたらしますが、それには、その人物なら如何にもそういう成り行きになるだろうな、という悲しいほどの説得力が伴なっています。「金鉱」の章でも、ミーチャは作者にさんざんにもてあそばれています。一方、ホフラコワも、とんでもない大馬鹿者として読者の前に大恥をさらします。本人は、ゾシマの説教に感激して、実行的な愛に目覚めたつもりなのか、そのゾシマの腐臭事件のせいで「リアリスト」になった、とか言ってるんですが、その「リアリスト」が、ミーチャに金(きん)を探せ、というアドバイスをするという馬鹿馬鹿しさ、まさしく彼がホフラコワなどに金を借りようとしたこと自体、一攫千金の金鉱探しそのものなんですが、そういう二重の皮肉が、ミーチャの焦燥感と相俟ってもたらす、予感の過剰な実現とも言うべき喜劇性と、その裏側にある悲劇性、そういう救い難いすれ違い状況の持つ、人間関係における、ある種の普遍性、まあ、それこそがリアリズムと呼ぶべきものだと私は思う訳ですが、これらドスト氏の真骨頂とも言うべき喜劇と悲劇の二重奏がもたらす感銘というものを、ようやく十分に鑑賞できるようになりました。これは、私の能力の欠如、同時に複数の目的を追求する能力の欠如によるのかもしれませんが、小説から人生訓を引き出そうとしていた間は、見落としてしまっていた側面で、もったいない読み方をしていたと今では思っております。

以上です。小説から固定的教訓を引き出さないことを、一つの進歩と捉えている以上、この話からも、固定的な結論を引き出さずに終わる方が美しいのですが、柔らかい価値基準体系の中で捉えてもらえば問題ないだろうという弁解のもとに、一応、自分なりにまとめてみます。10年前の私は、「人生の意味」を見出すために小説を読んでいましたが、目下の私は、ドスト作品だけでなく文学全般に対し、価値観の確立を目指すよりも、「味わう」ということを優先して読んでいます。結果的に価値観に影響を与えるとしても、それは間接的なものだ、という立場で、ドスト氏で言えば、心理描写、どんでん返しのストーリー性、悲喜劇性、そういうところに表われる、エンターテイナーとしての「名人芸の冴え」に最大の関心を抱いています。ある意味で、これは、結局、「人生の意味」について私が、いつの間にか、別の結論を出したためだ、と理解しても良いのかも知れません。即ち、「人生の意味よりも、人生を愛する」という訳であります。(完)



「ドストエーフスキイの謎」の謎

熊谷暢芳

一言で言えば、ドストエーフスキイは自分の理解しないことを書くことができた。ドストエーフスキイは書く人物の内面を知り尽くして書いたんじゃないのでは。登場人物は、ドストエーフスキイの内面の一部なのではなく、他者なのだ。そういう他者を描くことができた。
 自分の想像力の所産なのに、その登場人物と自分を切り離し、完全には一致しないようにして書く書き方がある。そうした他者の捉え方は重要だ。



夏に記す冬の印象 ―ドストエフスキーと私

中谷光宏

今回、読書会三十周年シンポジウムということで、皆さんの前でお話させて頂くことになりました、中谷光宏と申します。どうぞ宜しくお願い致します。この読書会は、ちょうど今年で三十周年ということですが、並々ならぬことと思います。僕も先月三十歳になったばかりで、僕は数字の暗合というものに何かと超越的な意味を見出したがるタイプの人間でありまして、僕とこの読書会が年齢を同じくするということにも、きっと何か宇宙的な意味が暗示されているに違いないと思いまして、僕のこれまでの三十年を振り返り、僕の貧しい人生の折々でドストエフスキーがどのような意味を持ってきたかをお話しし、ここ三十年の日本に於けるドストエフスキー受容の一サンプルとしてご紹介するのも、また読書会の底辺を広げるために何かしらの役に立つのではないかと考え、個人的な話をさせて頂こうかと思います。
僕が生まれたのは一九七一年のことで、三島の切腹や、大阪万博や、アポロの月面着陸など、高度経済成長時代の大事件はすべて済んでしまった後でした。また、この年は、ちょうどニクソン大統領が金とドルとの交換停止を宣言した年であります。少し気取った言い方をしますと、僕が育っていくべき世界には、形而下のレベルにおいても、もはや絶対の価値は失くなっていた、ということになります。

僕の幼少期の気分を思い出すと、高度経済成長の残り火がまだ処々に燃えている中、未来への淡い幻想にぼんやりと浸っていたような気がします。一方で、オイルショックというような形で、その後長く日本の社会の主調低音となる気楽な倦怠感の兆しが大人たちの身辺に漂い始めていたようにも思います。そんな時代背景に僕は幼少期を過ごした訳ですが、思えば、その頃、絵本にアレンジされた『イワンの馬鹿』を読んだのが僕の遠いロシア文学事始めであったようです。当時『イワンの馬鹿』から得た素朴な共同体理念の印象は、割りと根深い倫理的刻印を僕の幼い心に残したのではないかと、いまになって思います。

その後、十代になってからは、漫画やジュヴナイルなど、よくある子供らしい読書生活を送っていましたが、小学生の頃から僕は歴史を好きになって、色々歴史の本を読み、小学生で高校生の歴史の参考書を嬉々として読むという、こましゃくれたいやな子供でした。当時の僕には、そんな参考書も娯楽読物のように感じられていたようです。そして、はじめてドストエフスキーの名前を知ったのは、おそらく、世界史の参考書の中でであったと思います。十九世紀の西洋文学を代表する作家として、フローベールやトルストイと並んでドストエフスキーの名前も紹介され、代表作に『罪と罰』が挙げられていました。他の作家の作品名と較べても、トルストイの『戦争と平和』とドストエフスキーの『罪と罰』の二つは、何か際立って強い印象を当時の僕に与えたことを憶えています。ともにシンプルに対義語を並べ置いただけで、人間世界に於けるマクロとミクロの次元での本質的な問題を、それぞれ見事に予感させている題名だと感じ、その題名を見ただけで、この二つの作品には、世界と人生の秘密が余すところなく描かれているに違いない、と思い込んだようです。歴史を知るようになると、当然、社会というものも意識するようになり、過去・現在・未来という時間の流れの中での社会の在り方を、おぼろげながら考えるようになります。幼い頃に『イワンの馬鹿』から受け取っていた共同体倫理の印象を、現実の歴史の流れの中で考えると、それは巨視的には「戦争と平和」という新聞の一面的な事件として、微視的には「罪と罰」という新聞の三面的な事件として、それぞれ先鋭的に現れると、その二つの題名を見て僕は感じていたようです。

現代の歴史叙述は、基本的に唯物史観がベースになっていますので、教科書的に歴史を学んでいくと、当然それによって培われた歴史意識は社会主義的な問題意識へと繋がっていき易いものです。小学五六年の時に担任をされた先生が、全共闘くずれといった感じの先生で、道徳の時間に、原始共産制から説き起こし、社会主義理念の貴さとその実現の歴史的自明性を噛み砕いて生徒に伝えようとしていたことなどもあって、僕も強く社会主義という考え方に惹かれるようになっていました。中学時代の社会科の先生も、人類史の大きな流れとして、唯物史観に則り、やがて日本も社会主義に移行していくだろうと言っていました。一九八六年のことです。この頃の影響で、制度としての社会主義には失望しても、理念としての社会主義には、僕は未だ期待するものがあります。

以上述べてきたような経緯からすれば、そのまま直ぐにでもトルストイ、ドストエフスキーといった十九世紀ロシアの社会小説の世界に飛び込んで行ってもよかったように、いまにしてみれば思われるのですが、ここで大きな芸術的抑止力が働くことになりました。

中学時代に、幼い頃の印象に導かれたものか、不図、トルストイの一連の民話を読んでみようと思いました。『人はなんで生きるか』、『人間にはどれだけの土地が必要か』などそれぞれ面白かったのですが、それよりも民話を書くに至ったトルストイの例の芸術批判に強く影響を受け、いわゆる純文学というか古典文学というか、そう分類される一群の高級そうな小説を軽視するようになってしまいました。なにしろ、トルストイほどの、普遍的な人類愛を生涯を通じて追求し、人類の教師とまで言われた大文豪にして、彼の最高傑作と称えられる『戦争と平和』を否定してしまったのだから、いわんや他の作家の作品など如何ほどのことがあろうかと、洗脳されやすい子供らしく、浅墓に早合点してしまったのでした。幼い頃のトルストイへの倫理的共感が、彼の芸術批判を鵜呑みにする抵抗を無くした一因になったかとも思います。まあ、そんなことで、大衆性こそが民話の肝だと思いさだめ、文学の良し悪しを決する最大の基準は、エンターテイメントとして優れているか否かであると、それからはひたすらSFとか、ハードボイルドとか、スーパーハードバイオレンスとか、いわゆるパルプ・フィクションとかライトノベルなどと蔑称される、幼稚な、低級な小説ばかり嬉々として読み漁り、それらを現代の民話と位置付けることによって、自分の読書の趣味の低さを肯定し、いささかも恥じることなく、その態度は大学を卒業するまで続きました。

トルストイ主義を都合よく曲解したまま、そんな、頗る文学的でない少年時代を送っていたのですが、それでもさすがに、所詮幼稚な思い込みはいつか破れる時が来て、大学卒業を間近に控え、僕は文学部に通っていたのですけど、こんな有り様で文学士の肩書きを得てしまうのは、あまりにも反社会的なことではなかろうかと不安になり、実存的な内的必然というよりは、世間体を気にしたこれまた頗る高尚でない俗物根性丸出しの動機に駆られ、転向者の気分でゲーテやヘッセなどを少しずつ覗いているうちに、漸くと文学の面白さに目覚めて、岩波文庫の赤帯を片端から濫読する一時期が到来し、いまも尚十年遅れのはしかのような文学熱が続いているといった有り様です。大人になってから罹ったはしかはこじれるとよく言われますが、こと僕の文学熱に関してはその通りになったと思います。幼い思い込みというものは、本当に恐ろしいもので、まったくひどい遠回りをしたものですが、それでも文学を読む際のエンターテイメント性の重視という点にはいまでも拘っていて、ライトノベルから純文学までをひとしなみに読むことで、エンターテイメント性という言葉に、より広い世界観を持たせられるようになったと開き直っています。

さて、そのような迂回路を経て漸く僕はドストエフスキーと出会うことになるのですが、転向の初期に、彼の文庫本中もっとも手頃な厚さだったこと、冒頭を走り読みした際に文体が魅力的だったこと、さらには、裏表紙の解説文に、ジッドによってドストエフスキーの全作品を解く鍵と評された、とあるのを見て、何でも一瞥のもとに見切ってしまいたがる生来の軽薄さからこれを読めば既に自分もドストエフスキーに就いて一家言持てると勘違いしたこと、などの理由により『地下室の手記』を取り敢えず読むことにしました。

これは、それこそ、鼻の枉がるのが判っていながら、何としても靴下の臭いを嗅がずにはいられないといった類の、到底爽やかさとは無縁の、倒錯した快感を覚えさせられた初めての読書体験で、強いて言えば、その抑圧的な告白体に、以前、ジョージ・オーウェルの『1984』や、P.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』などを読んだ時の感触に近いものを、その時は感じたように思います。それから次にいよいよ『罪と罰』を読んだのですが、これは体調に異変を来たすほどの強烈な感情移入を伴う読書体験となり、決定的にドストエフスキーに参ってしまいました。細かい場面場面の深い意味を考えながら小説を読むというのは僕は苦手で、その場面場面に漲っている劇的緊張感や、人物の長広舌による異様な陶酔感などに、感覚的に浸りながら僕は小説を読むのですが、この時『罪と罰』で味わった引き摺り回されるような感情移入というのは、それまで知らなかったものでした。その後は小林秀雄、E.H.カー、グロスマンなどの伝記や評論で脇を固めつつ、主要作品をあれこれと読んでいきました。

僕がドストエフスキーに惹かれることになったのには、その小説的な面白さもさることながら、当時の社会的な状況も大きく原因していたと思います。僕が高校を卒業したのは、ちょうど一九九〇年のことでした。一九九〇年と前後して、冷戦は終結、ベルリンの壁は崩れ、ソ連は崩壊しました。昭和天皇が崩御したのもこの前年で、世界的な大きな思潮の変動を受け、日本の戦後体制も崩れ、バブル経済も時を経ずして破綻しました。大学を卒業後、左右ともどもの古い価値観・対立軸が崩れ、阪神大震災やオウム真理教事件などが相次ぐ中で二十代を過ごし、僕なりの対社会態度を模索していく上で、すでに前世紀的な左右対立の世界観は、現実から乖離した、永田町的茶番劇以上のものには見えず、何の参考にもならなかった訳です。前世紀の右翼的な考え方にも、左翼的な考え方にも、同じように客観的距離を取らざるを得なくなり、古い左右対立軸にとらわれないで、社会や政治のことを考えていけないものだろうかと感じている中で、当時読み進めていたドストエフスキー文学は、今にして思えば大きな精神的支柱になっていたのだと思います。

ちょうど『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた九五年に、地下鉄サリン事件だの沖縄で米兵による少女暴行事件等だのが起こり、ドストエフキーの小説に社会心理に関する普遍的な洞察を感じるようになりました。全共闘世代、つまり六十年代理想主義者の息子の世代、つまり八十年代虚無主義者がレギオンに憑かれたような犯罪に手を染めるという構図は、ステパン氏とピョートル一党の関係を想起させるものでしたし、オウム真理教が果てには天皇の暗殺を目論んでいたとかいう話は、何か『カラマーゾフ』第二部の戯画的実演(小説が現実を模倣するのではなく、現実が小説を模倣するのだ云々)といったようなことまで思い出させ、何より沖縄の少女の事件は、イワンの並べ立てる永遠に贖なわれることのない虐げ辱められた子供たちの挿話の一つ以外の何ものでもないと感じられたのです。イワンは、我れと我が胸を叩いて「かみちゃま」と祈った女の子にかけて永遠の調和への入場券を受け取ることを拒んだ訳ですが、一体、平和主義と称して暢気に暮らしている現代の日本の社会はどうやって守られているのか、核の傘、米軍の駐留、そして米兵に犯される小学生の女の子の犠牲、その上に営まれる平和になんの意味があるのか、と足元のグラグラする気がしました。ドストエフスキーの告発した人間社会の内包する普遍的矛盾が、まさに現代の日本にあっては、この点に於いて顕在しているとその時の僕は思いました。

時代が違い、社会が違い、国が違うと言いますが、僕はむしろ、色々な事柄の、相違する点よりも、相通じあう点に余計に注意を奪われる傾向があるようで、文学作品を通じて、歴史を知れば知るほど、現代を知れば知るほど、僕には人間のどうしようもない変わらなさばかりが感じられるようになりました。進歩とか進化とかいう考え方も、それもここ数百年流行っている迷信に過ぎなくて、実は何も変わっていないのではないだろうか、大体、二千年以上経って、キリスト以上の言葉を残した人間がいるのだろうか、イワンのアポリアは現代でもまったく克服されてはいない、ただ、それに直面せずに済む気晴らしが増えただけではないだろうか、等々、そんなこんなで、たかが百年前の隣国の人、ドストエフスキーを当面はまったくの同時代人として認識することにしました。

僕は、現代に生きていることを、思い上がりの根拠にしたくはないと思います。「近代」という時代概念は、歴史学では既に大分揺らいできているといいます。精査な研究の結果、近代は旧来思われていた以上に中世的で、中世は旧来思われていた以上に近代的だったことが分かってきているようです。近代人の憂鬱、とかいう言い方で、文学や哲学がいつまでも「近代」という術語を自明のものとして使っているのも考えものなのかも知れません。まあ、変わってしまうものと、変わらないもの、それを見極める目が必要だということなのでしょう。そして、心の隣人たるフョードル・ミハイロヴィッチのことならさらに知りたく思い、書簡集だの当時の他の作家の作品などを読むうち、十九世紀のロシアの社会を鏡にして現代の日本というものを考える癖がついてしまいました。これは、ある意味、日本に於けるドストエフスキー受容の、一つの典型的なかたちなのかも知れません。

僕が執心しているキーワードに、「余計者意識」というのがあります。なんというか、非常に身につまされる気がするのです。19世紀ロシアでの余計者意識は、農奴制という「呪われた問題」を前にした、「悔い改めた貴族」たちの社会変革への欲求とその挫折から生じたもののようですが、さて、現代の日本はどうでしょうか。芥川龍之介は、奴隷制度の廃止とは奴隷制度という言葉を使わなくするだけで制度は厳然として残っている、といった意味のことを『侏儒の言葉』に書いていますが、現代の世界経済の構造の中で、世界第二位の経済大国である日本の国民であるということは、それだけで既に「貴族」であるとは言えないでしょうか。どの時代でも、貴族と奴隷の決定的な違いとは、要するに経済的な格差だったのではないかと思うのです。古代のローマ市民は、属州の住民たちからすれば貴族と見做されていたでしょう。19世紀ロシアの貴族も、要するに地主の旦那な訳です。ここ百年ほどで、世界的に貴族や奴隷という言葉は反民主的な概念として使わないことが一般化しましたが、世界の発展途上とされる国の人々が密航まで辞さず日本へと憧れるのは、つまり、かつて属州の住民たちが永遠の都に憧れたのと同じ心理、同じ構図だと思うのです。これは現代の「呪われた問題」ではないでしょうか。そして、実際そう思って、三十年ほど前に日本でもその構造への義憤から社会変革を夢見た若者たち、つまり悔い改めた貴族がいましたが、挫折しました。その挫折の痛みを社会への無関心という形で誤魔化しているうちに、手に負えない無気力が蔓延して、三十年前ならデモ行進にでも参加していたようなナイーヴな人たちが、自らの社会的無力感、つまり余計者意識に苛まれ、いわゆる引きこもりになったり、極端に反社会的な新興宗教に走ったりしているといった現状ではないかと思うのです。かなり強引なこじつけかとも思いますが、引きこもったりはしていないものの、僕も我が身に余計者を感じることが、しばしばあります。いまのところ、その余計者意識を、僕はトーマス・マンの、トニオ・クレーゲル的な市民対芸術家という二元論の中に当て嵌めることで、どうにか自尊心とのバランスを取っています。これから先どのように人々の意識が移行していくのか、百年前のロシアでどうであったかを知るのは、ある程度参考になるのではいか、そしてそうすれば、あるいは避けうる悲劇というのもあるかも知れない、などと考えたりもしています。

そのようにして、自分なりのドストエフスキー観を形作ってきたのですが、自分一人ではどうしても読み方が一面的になり、もっと深い理解のためにも色んな人との読み方較べをやってみたいと思うようになっていました。そんな折に、仕事の関係でインターネットを始めることになり、最初は仕事以外には使う気はなく、冷やかしに幾つかのサイトを見ていて、どれもやはりあまり面白いものには思れず、ネットと自分はやはり縁がないようだと決めてしまうところだったのですが、「ドストエフスキー」で検索して見つけたSeigo氏のページにだけは、その充実振りに圧倒され、現代の日本にこれ程までにドストエフスキーに惚れこんでいる人がいると知り驚嘆しました。自分もドストエフスキー好きということでは人後に落ちないつもりだったのですが、まったくお話にならないことを思い知り、Seigo氏の前には完全なる敗北を感じました。何かでこれ程までに完璧な敗北を感じたことは、他に経験したことがありませんでした。

そして常識外れの長文自己紹介でSeigo氏のページに登場させて頂いた時、最初のレスを頂いたのがn_kuma(熊谷)さんで、それが僕のネットでレスを貰った最初の経験だったということもあり、インプリンティングのような感じで、熊谷さんに恩人のような感情を抱いてしまったものか、それからも随分甘えた失礼な発言をしながら、特に他者認識というそれまであまり重視していなかった心理学的視点からのドストエフスキー作品の読み込みをご教唆頂いてきました。

また、Seigo氏のページの常連で、もう一人ドストエーフスキイの会のメンバーであられる有容赦(堤)さんの書き込みも、独得のユーモアと落着いたデタッチメント感覚で、どんなに掲示板が荒れていても自らのペースを崩さず、しかも言いたいことはしっかり言っているのが印象的で、どんな人なのだろうと気になるようになりました。堤さんはSeigo氏のページでドストエーフスキイの会との連絡係を務められているのですが、ドストエーフスキイの会の様子を好意的なユーモアを交えた書き込みで毎回報告されていて、ドストエーフスキイの会自体にも僕は興味を持つようになりました。熊谷さんと堤さんの書き込みは、ドストエフスキー作品の読みの深さ、丁寧さ、またそれを表現する、落着いた、簡潔で明晰な文章力といい、Seigo氏の掲示板の常連の書き込みの中でも一際目立つもので、常々見習いたいと感じています。

そして、Seigo氏のページが縁となり、昨年の十一月にドストエーフスキイの会例会に初参加させて頂き、ひょんなことから、十二月の読書会では初参加で発表までさせて頂き、非常にいい経験をさせて貰いました。その後は、ネットのSeigo氏のページと、このドストエーフスキイの会が僕のドストエフスキー受容のメインの舞台となっています。インターネットというきわめて現代的なツールを通じての読み方較べ、またそのツールを介して由緒あるドストエーフスキイの会にも参加することになり、それぞれの人生と背景を持った人たちがどのようにドストエフスキーを読み、受容しているかを様々な角度から知ることが出来て、僕自身のドストエフスキーの世界はさらに広がる契機を与えられたと感謝しています。そして、これから僕自身が更にどのようにドストエフスキーと係わり、受容していくことになるか、楽しみにしています。(完)




神について

石川啓一

わたくしは本年度の5月25臼に(『作家の日記』を除いて)ドストエーフスキイの主要な作品をほぼ読了した。そしてつい先日トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読了した。ロシアの二大文豪の小説技法、根本思想の違いについて挙げればきりがないが、わたくしがまずトルストイの思想について感じた点は、呼び方がおかしいかもしれないが、「懐疑の回帰性」とでもいうべき人格上の性質である。周知のごとく、『戦争と平和』において作家の分身たるピエールは、「人生とは何であり、自分とは何であり、自分はいかに生きればいいのか」と常に悩み、彷捏を重ねたあげく、民衆の善性の象徴であるプラトン・カラターエフとの邂逅により決定的な大悟に至り、エピローグに至るまで魂の安息を乱されることはなかった。それに対し『アンナ・カレーニナ』での作家の分身レーヴィンは、いささか精神的に幼稚な32歳の定職を持たぬ地主として登場し、もともと引っ込み思案の上に兄ニコライの死を目前に看取ることによって初めて具体的な「死」の恐怖を感じて愕然とし、愛妻キチイとの幸福な生活にも愛息の誕生にも満足する境地に至れず、兄の死をきっかけとしてピエールとほとんど同じ苦悩を経験するが、レーヴィンの場合は小説の最後に至るまで自己の苦悩を解決することができなかった。

『戦争と平和』完成はトルストイ41歳のとき、『アンナ・カレーニナ』完成は50歳のときのことである。また54歳のときには有名な『懺悔』を発表している。そして82歳で家出の末にこの世を去っている。この家出の理由については諸説あるが、木原武一氏は(トルストイの全著作を読了したうえで)トルストイを「冷たい人間」であるとみなし、作品上では解決し得ても現実生活上では「人生の意義」をついに理解できず、最後の手段の宗教にも解決を見い出すことができず、みずから悩みを作り出しその悩みを解決できない自分に絶望した末の自殺行為であると結論を下している。19歳のときに、トルストイはこう記す。「もし、自分の人生に目的を人々と共通の、有益な目的を見出せなかったら、ばくは人間のうちでもっとも不幸な男であろう。」・・・約60年以上もトルストイは同じ問題に苦しみ続けたのである!トルストイの生涯だけでなくその全作品も「懐疑の回帰性」の産物なのかもしれない。

トルストイの話が長くなって恐縮だが、実はドストエーフスキイもトルストイとはぼ同じ苦悩を自己の分身たる登場人物たちに抱えさせているのを、つい先日発見した。その箇所は二つある。まず『白痴』で、余命いくばくもないイッポリートがムイシュキンに尋ねるシーンである。「ひとつ教えてくれませんか、どうしたらいちばんいい死にかたができるでしょうね?・・・つまり、できるだけ徳にかなった死にかたがね、教えてください!」ムイシュキンは答える。「われわれのそばを通り抜けてください、そしてわれわれの幸福を許してください!」ムイシュキンの答えは残酷だが正しい答えである。もうどうみても助からない少年が苦しむ様を見れば誰もが苦しむのである。イッポリートにとってもっとも正しく徳にかなった死にかたは、できるだけ人目を避けひっそりと死んでいくことである。

もう一箇所は『未成年』でアルカージイがヴェルシーロフに問いかけるシーンである。アルカージイは言う。「ぼくは自分がはたして何をなすべきか、いかに生くべきかを知りたいのです」この息子の真剣な問いを父はいいかげんにあしらう。父の態度に怒りを感じながらもアルカージイは問いつづける。「人間のために有益なものとなるくらい、高尚なことは断じてありません。ところで、ぼくは今この場合どうしたら、最も有益な材となりうるでしょうか?」この間いにもいいかげんな返答をしながらも父は子に優しい言葉をかける。「わたしはね、お前がこの腐敗した時代にあって、心の中で何かしら『自分の理想』をつくり上げたので、そのためにお前を尊敬しているのだ。」結局、父にも息子の問いに対する正しい答えはわからず、父としての息子への意見さえもまともにできなかったわけである。ただわたくしとしては作家はアルカージイの問いに対する確かな答え(というよりも信念)をもっていたと思われる。

ただこれだけは確かに言えることだが、トルストイにとって「人生の意義」が最大の関心事であったのに対し、ドストエーフスキイが生涯問い続けたのは「『神なき時代』に、人はいかに生きるべきか」という命題であったことである。(もっとも、人生の意義を考察するということは、聖書に説かれている生き方に疑問を呈することであるから、極言すればトルストイは神の教え、もしかしたら神の存在さえも生涯はとんど信じていなかったのかもしれない!)だからといってドストエーフスキイが人生の意義に関して無関心であったということでは決してなく、人生の意義に対する答えには作家の諸作品、いや全作品が答えているとわたくしは考える。

木原氏は、トルストイは実際に他人(我が子に対しても!)に冷たかったばかりでなく、自己の創造した登場人物に対しても冷たい観点から描写していると述べている。わたくしにも、『戦争と平和』のエピローグはいくぶん皮肉っぽく感じられるし、「自分を裏切った」愛するウロンスキイに復讐するために、残される息子や娘や兄のことなど完全に思考から消え去り自殺を遂げるアンナのエゴイズムには憐憫の情よりも先になにか忌まわしいような、背筋に突然冷水を浴びせかけられるような戦慄を覚えた。

それに対し、ドストエーフスキイの創造した諸作品からひしひしと感じられるのは作家の「暗く熱いハート」である。周知のとおり、作家はペトラシェフスキー事件で一種の「臨死体験」をした。作家は『白痴』において、死刑は殺人よりも残酷であるとムイシュキンにアグラーヤたちの前で語らしている。殺人の場合ならば殺される側は死ぬ瞬間まで一縷の生存の望みを持ちうるのに対し、死刑ははぼ間違いなく100%囚人の命を奪い、生存の一縷の望みをも持たせてくれないからだという。作家は「100%」殺される覚悟をした。いまから数分したら自分の魂はこの世から別の、まったく未知の世界へ移ってしまう。もしかしたらその世界はまったくの虚無、暗黒の世界かもしれない・・・。作家は自己の周囲を凝視し、この数分間に思い出したり考えたりしなければならないことを数え上げた・・・。作家は発狂寸前までにこの世界を凝視し、思索を重ねた・・・。自己がどれほどこの世界を愛し、自己の「実存」を愛しているかを悟った・・・。そして突然、自己が「100%」殺される運命を免れたことを知った。「奇跡」が起こったことを知った・・・。作家はこの「臨死体験」から、ほとんど彼岸の世界から多くのことを悟った。自己の生に対する執着から生命の貴さを悟った。自己の生命と同じく他者の生命も貴いことを(真の意味で)悟った。

もし作家が「臨死体験」をしなかったら偉大なる予言者であり人道主義者である文豪ドストエーフスキイは誕生しなかったであろうとわたくしは考える。作家の描いた人物たちはいずれも一種異様な印象を読者に与え、その言行はとても本当には思われない。徹底したリアリズムで作品を描いたトルストイとはまったく対照的である。しかしドストエーフスキイの描いた人物たちは、こちらが読み進むにつれ興味と親しみを覚えずにはいられない人物たちである。それは作家が一人一人の人物に深い愛情を注ぎ、その人物が悪人であったり悲惨な運命を辿る人物であっても、親身の親のような態度で最後まで手を抜かずに描いているからであろう。いやむしろ作家は登場人物全員が自分の分身のようなつもりで作品を描いたのかもしれない。

さて、W.S.モームが指摘していることだが、皆さんはどうお考えだろうか。モームは『カラマーゾフの兄弟』のなかの『叛逆』の章に言及した後で次のように述べる。「イヴァンには、神が存在していることを進んで信じようとする気持ちが十分にある。だが、その一方、神が作り給うたこの世に残虐が存在することを受け入れることができない。罪の汚れを知らぬ者が、罪ある者の犯した罪のために苦しむなどという理由は−つとしてなく、もしも苦しみを免れないというのならば、事実またそうなのであるが、神は悪であるか、存在しないか、そのいずれかであるに違いないと彼は主張する。」まことに恐ろしい結論である。しかしまたドストエーフスキイは、「どれほど多くの悪が存在しようとも、この世の中は、神が作り給うたものであるゆえに美しい」とも心から信じようとしていた。しかしモームは、作家は心の底ではイヴァンの主張の方が正しいと考えていたのではないかと主張している。

さて皆さんは、神は存在するか、しないか、あるいは神は悪であるか、どの意見を選ばれるであろうか?





在営中の最初のドストエフスキー的体験

金村 繁
                                

文学幼年だったから名前も作品名も知ってはいたが、本当に読み出したのは中年過ぎだからむしろ追体験である。当時の軍隊や共営とは何か。「真空地帯」と「神聖家族」を比べて私には後者の方が真相に近いと思える。

昭和18年に学徒動員があって19年現役入営したら大学生は中隊で私一人だった。多勢の中で孤独を感じ「死の家・・・」を追体験する。名古屋の高射砲から気象隊に回された。神戸並みの大地震に見舞われたし、サドの上等兵に半殺しにされたこともある。夜B29の大群が爆撃して行くとたまに命中して火の玉になって落ちた。その時、いま米国の青年が十何人即死したなと思って敵ながらやる瀬なかった。そのうち原隊に戻されたが仲間の同年兵に日本はもう負けるといったのが早速古い兵隊の耳に入って軍歴何年の神様らがトグロをまいてる中に立たされて貴様もう一度言ってみろとやられた。殺されるかと思ったが「はい、必ず負けます、サイパンが落ちた結果、これこれになります」と思い切って話したら彼らは怒るどころか喜んで有難いそんなら我々も満期で家へ帰れるぞと無事放免された。ここで追体験となるのがスタヴローギンがシャートフを「君は神を信じるか」と問い詰める場面を読んで往事を思い出したのである。その後、陣地が猛爆され大勢の死傷者がでた。私も胸をやられて半日、死んでいた。隣の戦友は、結局戦死した。今にして思えば当時の若者はそれなりに死へのまなざしをしていたが、安保闘争の時分は死の恐怖なしで目付きがたけだけしいばかり、経済成長時代はサラリーマン顔付きはけわしく、今は生きてるのか死んでるのか判らぬ男女が少くない。私はもともと反戦思想だったが、今の日本人には私自身をも含めて「恥を知れ!」と大声でどなりたい。
(付記:これを書いている時米国で一大テロ事件、しばらくは何もできずこれが21世紀なのか?)





吉本直聞氏の「ドストエーフスキイと私」を聞いて
                          
吉本氏は、日常生活のなかでの「ドストエーフスキイと私」をお話くださいました。高校生のときに米国のアリゾナ州に留学して、知る人のいない彼の地ではじめてドストエーフスキイを読んだこと、黒澤明監督の『白痴』のことなどが深く印象に残りました。氏は現在、舞台映像作家として活躍しています。最近は9月1日〜2日に神奈川県立藤野芸術の家 ホールで演出家 林 英樹氏のもとハイブリッドパフォーマンス『子供の領分』の舞台映像を担当しました。この劇は、空間、音、絵画、身体、映像...。表現が重層的に織りなされ、造形される<子供の領分>アーティスト、パフォーマー、俳優などに混じって現役中学生も出演した。




新 聞


朝日新聞朝刊「町の書店からベストセラー」2001年8月1日(水曜日)

津田沼駅前「BOOKS昭和堂」書店の副店長は、「白い犬とワルツ」をユニークな推薦カードでベストセラーにした。以前、村上春樹著『スメルジャコフと織田信長家臣団』が店頭に並んだとき、『カラマーゾフの兄弟』が積まれ、その上に「スメルジャコフってなんだろうと思う人は、この本を読んでください」といったような手書きのカードが置かれてあった。そのときは、なかなか気の利いた売り方だ。どんな人がと感心した。これを書いたのは副店長で、紙上で「推薦するのは新刊だけではない。ドストエフスキーの『罪と罰』などは思い入れたっぷりに」と答えているのに、なるほどと納得した。

読売新聞朝刊「気流」2001年8月24日(金曜日)

<虐待受ける子供まず安全確保を>ミニコミ編集者
文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、約120年前に書かれた小説だが、その中に「人類の多くの者には一種特別な性質がある。それは幼児虐待の嗜好だ」との記述があり、おぞましい虐待の事例も列挙されている。虐待は現代社会の病理のように思われがちだが、実はずっと昔から、行われているのである。

朝日新聞朝刊「ひと」2001年9月20日(木曜日)

<ベストセラーを生んだ書店員 木下和郎さん>
 BOOKS昭和堂には、“木下推薦”があちこちにある。例えばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には「世界最高の小説。断言。きっぱり」





21世紀とドストエーフスキイ  米国同時多発テロ (編集室)

新世紀になっても、なぜドストエーフスキイを読むのか。この疑問に、はからずも9月11日に起きた米国同時多発テロ事件の悲劇が答えてくれた気がする。今回の悲劇を引き起こした原因は何か。聖戦と正義、文明と非文明、イスラムと西欧、富む国と貧しい国等など多くの対立要素があげられる。両者は永遠に融和することはないのか。

ふと、思いだすのはジイドの「いつになってもどういう風に使っていいのか見当のつかない人間である」としたドストエーフスキイの信念である。保守派ではあるが伝統主義者ではなく、皇帝支持派ではあるが民主主義者で、キリスト教信者であるがローマ・カトリック教徒ではなく、自由主義者ではあるが「進歩主義者」ではない。ジイドが理解できなかったドストエーフスキイの信念。それは、日和見主義、折衷主義、土壌主義者と揶揄され誹謗された。が、これこそ21世紀の理念だった。



編集室

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